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折々の記 2011 D

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】07/20〜     【 02 】07/27〜     【 03 】08/01〜
【 04 】08/03〜     【 05 】08/09〜     【 06 】08/14〜
【 07 】08/19〜     【 08 】08/22〜     【 09 】08/25〜

【 06 】08/14

  08 14 不動温泉花菱
  08 15 戦後66年の終戦の日
  08 15 パン作りの基本
  08 16 餓鬼の首キュウリのウドンコ病とベト病対策
  08 17 讃岐うどん
  08 18 キュウリのウドンコ病とベト病対策

 08 14 (日) 不動温泉花菱

【右手前から真介、涼羽・左手前から俊成、秀 囲炉裏料理にて】

午前中に田代先生の新盆見舞をしてきました。

きのうお盆のため真介、涼羽が来宅。 簡単な寿司と皿盛で夕食。

きのう浪合の不動温泉花菱へ電話をして昼食の予約をし、12時から昼食会。 みんな満腹。

食後、温泉で体の汗を流しトンキラでトウモロコシを買い、途中、伊賀良の平沢へ立ち寄って帰る。 







 08 15 (月) 戦後66年の終戦の日

終戦から66年の15日、戦争で亡くなったおよそ310万人の戦没者を悼み平和について考える催しや集会が全国各地で開かれます。

このうち、東京の日本武道館では、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれ、戦争で亡くなった人の遺族などおよそ7200人が参列する予定です。式典では、菅総理大臣が式辞を述べたあと、正午の時報を合図に1分間の黙とうをささげ、続いて天皇陛下がおことばを述べられます。そして、参列者が式壇に花を手向けて、およそ310万人の戦没者の霊を慰めます。



http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080815
 (1)「終戦の詔勅」 → 原文と現代訳が載っています
     from ( http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110814 )

『昭和16年夏の敗戦 』(中公文庫)猪瀬 直樹 アマゾンへ発注



http://www.ffortune.net/social/history/nihon-mei/syusen.htm
 太平洋戦争終結(1945) → わかりやすく解説してあります

1945年8月15日正午、NHKラジオは天皇の肉声により日本の全国民に日本が戦争に負けたというお知らせを流しました。一般にこれを太平洋戦争の終結として、この日を終戦記念日としています。

ポツダム宣言は7月26日に発表されました。これに対して、日本はいったんこれを「黙殺する」と声明した上で、ソ連に対して和平を斡旋してくれるよう依頼します。ところがこの「黙殺」は海外では「無視」と誤訳されて報道されてしまい、8月6日広島に原爆投下。斡旋を頼んだ相手のソ連は日ソ不可侵条約を破って9日参戦。この日長崎にも原爆投下。

この9日頼みのソ連まで参戦したのではどうにもならないとしてポツダム宣言受け入れを主張する東郷外相らに対して阿南陸相らは抗戦を主張、結論が出ず深夜昭和天皇の判断を仰ぐ。天皇は即座に「外相と同じ意見だ」と言い、このままでは日本という国がなくなってしまう。ここは忍び難きを忍んで降伏するしかない、と補足します。

10日この方針を連合国に通知。するとその返事が12日あり、「降伏のときより天皇および日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」。この条項を巡って再び抗戦派がこれでは国体の維持ができないと反発、再び紛糾。しかし紛糾している内に連合国は14日、日本に通知した内容を明記したビラを飛行機から撒いた。慌てた政府は再び天皇のご意見をお伺いしたいと連絡、10時再度の御前会議。

「私の考えはこの前と同じだ。これ以上の戦争継続は無理である。この降伏によって日本が連合国に蹂躙されたとしても種子の一粒でも残れば再生は可能だ。しかし今のまま戦い続けたら日本は完全に抹消されてしまう。明治天皇が涙を呑んで三国干渉を受け入れた時の気持ちがよく分かるようだ。私がすべきことがあれば何でもする。国民に私が呼びかけるのがよければすすんでマイクの前に立とう。将兵には動揺があるだろうが必要なら自分が説得に当たる。詔を出す必要があるだろうから政府は早速起案して欲しい」

阿南陸相が泣いていた。天皇は彼に優しく声を掛ける。「大丈夫だよ。きっと何とかなる」

午後、NHKの録音班が5人呼ばれた。「重大な録音があるので」としか言われなかった。最新式の録音機を2セット持って宮中へ。録音は2台の録音機で同時に行った。念のため2回取ったので計4組の玉音盤ができる。録音作業は午後11:25頃から15日1:00頃までかかった。これは皇后官職事務官室の金庫に収められた。

録音を終えたNHKの職員が宮中を出ようとした所、兵隊が彼らを拘束監禁した。終戦に反対する反乱軍であった。午前2時から3時頃にかけて反乱軍が皇居を占拠、玉音盤を探すが見つからない。まさか女官の部屋にあるとは思わなかったためである。更に午前4時頃、反乱軍は放送会館をも占拠する。

午前5時頃、田中東部軍司令官が反乱軍鎮圧に乗り出す。5時半、阿南陸相が自殺。8時頃までに反乱軍は鎮圧或いは自主退出する。8時半、玉音盤が搬出され放送会館へ。この日の各新聞朝刊にポツダム宣言受け入れの報が書かれていたが玉音放送を待つため配達は差し止められていた。

午前11時、憲兵中尉が放送会館に乱入して放送をやめさせようとするが取り押さえられる。正午。時報に続いて「ただ今より重大なる放送があります」と和田信賢アナウンサーの声。この日は通常昼間の送電がストップされていた地方にも電気を流しておく指示が行き届いていた。

君が代のレコードが流れた後、「朕深く世界の大勢と帝国の現状に鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、故に忠良なる爾臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。。。」天皇の肉声が流れた。

涙を流す者あり、自刃する者あり、この日日本は天智天皇の白村江の戦い以来の敗戦というものを味わいました。しかし天智天皇がその敗戦の後で日本の基礎を築いたように、日本国民はこの敗戦をバネにして日本を真の超大国へと成長させていきます。日本の戦死戦病死者数155万人、一般国民の死者数30万人。この数字がどの程度の真実を伝えているのかは分かりませんが。。。

※ (下平付記) 戦争の仕掛け人、その手先になった特高警察。 いままた姿をかえて東京地検特捜部 (特別捜査部または東京地検特捜部で検索して調べるとよい) にアメリカの魔の触手が伸びているとする批判もある。

 08 15 (月) パン作りの基本

老生もパン作りに挑戦してみようと思います。 調べてみると、キーワードとして詳しくサイトが載っています。 先ずそれを参考にあげてみます。

パン作り基本に関連する検索キーワード

パン作り
パン作り 基本
パン作り 道具
パン作り コツ
パン作り 初心者
簡単パン作り レシピ
炊飯器 パン作り
天然酵母 パン作り
レンジでパン作り
パン作り 動画
パン作り材料
パン作りオーブン
「パン作り 基本」を検索語として開いてみると、第一に次の丁寧なページが出てきました。

   パン作り◇コツ◇基本のページ〜パン作りの基本@
   http://kihon.yokikami.net/

 08 16 (火) 餓鬼の首

子どもの頃16日は餓鬼の首で奉公に来ている人は皆家に帰る日だと聞いていた。 そして「盆、盆と、待ちくる盆もただ三日」という言葉どうり14、15、16日はお休みで働かなくてよかったと親から聞いていた。 こまかいいわれはどうなんだろうか。 調べてみると16日の休みははっきりしていました。

■ 餓鬼の首 

@ 飯田市  開善寺ホームページより

  雑記-餓鬼の首

【ここから転載】

以前書いたものがなくなってしまったので、思い出し書きです。

「餓鬼の首」って何?

子どもの首という意味ではありません。

お盆の十五日の翌日(十六日)には「今日は餓鬼の首だから、何もしないぞ」と、昔はいいました。「餓鬼の首」ってのは、何ですかと聞くと「今日は地獄の釜も蓋が開いて、餓鬼も出入り自由になる日なのだ」ということで、意味がはっきりしません。

餓鬼の首は一年では二度あります。1月16日と7月16日です。(お盆が8月の所8月16日)実はこの日は閻魔さまの御縁日(えんにち)(注1)で、閻魔様の御縁日の場合は特に「賽日(さいにち・さいじつ)」(注2)というそうです。「閻魔賽日」といます。一般にこういう日を斎日(注3)といいますが、閻魔様には賽の河原との繋がりもあって「賽日」がふさわしいですね。1月16日は[初閻魔」とも云われています

閻魔さまにとっては公休日らしく、地獄の釜も蓋が開き、彼の川も出入り自由になるそうです。

此の岸の住民(この世の人々)にとっては、斎日(賽日)であれば、この日は身を慎まなければなりません。「注2」にもあるように、この日は藪入りでもあります。藪入りについては、

1月16日及び7月16日は藪入り(やぶいり)です。

江戸時代までは商家の奉公人は年2回のこの藪入りの時だけ、お店を休んで実家に帰ることができました。明治になって「週」の制度が入ってからも、外国系の企業以外は昭和初期までこの風習が残っていました。昭和初期の頃ですと、一般には商家の主人が奉公人に小遣いを持たせて家に帰し、戻ってくる時は母が送ってくるといったものもあったようです。

また地方によっては、この日は嫁が実家に里帰りする日にもなっていました。この時通常婿が送っていく訳ですが、婿も一緒に泊まる風習の所、婿は家に入れない風習の所などが地方によってありました。今はいつでも里帰りできますので、こういう風習も消えていっています。またこの里帰りの時にお餅を持っていく習慣のところもありました。

この日は閻魔様の縁日でもあります。そのため「地獄の釜のふたが開く」と言われ、海に出ることを禁じてきました。この日に地獄の十王詣でをする人もあり、藪入りで帰った人が故郷の閻魔堂にお参りに行く風習もありました。

餓鬼が遠い(?)彼の岸(かのきし)より帰ってきます。出かけて留守にしては、餓鬼に申し訳ないでしょう。餓鬼といえども家の者です。此の世の子どもたちも帰ってくる、嫁(婿)も実家に返す。家庭内は内輪の者ばかりになります。所謂「水入らず」です。一番遠慮がなく気楽になれるわけです。

こういう時は何もせず団欒(だんらん)に徹するのが人の道だ、ということでしょうか。

この地方(長野県飯田)では、人の一番いい時(季節・時節)を「蚊帳を吊る前、嫁来る前」(かやをつるまえ、よめくるまえ)と表現することがあります。「蚊帳を吊る前」はいうまでもなく、やっと暖房がいらなくなって、しかもまだ蚊も出ない暮らしやすい季節のことです。

「嫁来る前」は、お嫁さん(婿さん)だった人が甲羅を経てお母さん(お父さん)になり子どもが成人した頃(家の人になり)、が、まだ嫁(婿)(他人)がいない、家族だけの遠慮の必要のない時で、その頃が一番暮らしやすいというのです。

そういう気持ちのいい時間を、一年の内幾日かでも実現できるのが「餓鬼の首」です。兄弟(姉妹)たちが帰省して、お嫁さんが死ぬほど疲れると云うこともない。なかなかうまくできた仕組みなのです。

「今日は餓鬼の首だから、何もしないぞ」という意味はこういうことです。地域の諸行事などはもってのほかでしょう。


  • 注1:えん‐にち【縁日】
    (有縁日ウエンニチの意) ある神仏の降誕・示現など、特別の縁があるとして祭典・供養を行う日。この日に参詣すると大きな功徳があるとされる。毎月五日を水天宮、二五日を天満宮、八日を薬師、一八日を観音、二八日を不動尊の縁日とする。著聞二○「阿弥陀・観音の―なれば」。「―で買う」
  • 注2:さい‐にち【賽日】
    藪入(ヤブイリ)に閻魔(エンマ)に参る日、すなわち正月一六日と七月一六日。
  • 注3:さい‐にち【斎日】
    (1)身・口(ク)・意の三業(サンゴウ)を清浄にして、ものいみする日。
    (2)父母・祖先などの命日。精進日。
    (3)賽日(サイニチ)に同じ。

以前のものは消える前には、以下のように書いたらしい。

ここから

閻魔賽日(えんまさいにち)といって地獄の公休日である。獄の釜の蓋が開く日と伝えられる。餓鬼も出入り自由なのかも知れない。こういう日を利用してご先祖様は帰ってこられるのだろうか。ご先祖様も、遠い(?)ところから来たのに家族が留守ではさぞやがっかりとされるのではないか?

此岸でも両日は昔で云う藪入りでもある。奉公人に年二回の休暇が出る日で、草深い田舎に帰ることから藪入りと言ったとか。

当然店は休みになるわけだし、受け入れ先の実家でも野に出るわけにいかない。また、共同体の行事を行うことも避けられたはずである。

嫁いできたお嫁さんも実家に帰すのである。家族だけで水入らずの時を過ごそうという、先人の知恵であったろうか。

ここまで


しかし、水入らずの時がいかに至福の時であろうとも、何時までも続くわけではないようです。また続けてはいけないのでしょうね。子はいずれは親離れが必須となりますし、ご先祖様もご先祖様一般(その他大勢の中の一人としての)になり、やがては生きた個としては記憶からこぼれていきます。お施餓鬼などのことを思えば、なおのことそうなのでしょう。小さな流れがやがては大海に注ぐように、元の川の記憶は薄れていくべきなのでしょうか。

【転載おわり】

A Wikipedia より

開善寺さまのHPの解説で充分ですが、さらにウィキペディアでは餓鬼について「正法念処経」巻16に基づき詳しく解説しています。 そちらも参考になります。

  餓鬼 - Wikipedia」を開いて読んでみましょう。




餓 鬼 草 紙
1巻 / 紙本着色 / 縦26.9 全長380.2 / 平安〜鎌倉時代 / 12-13世紀 / 国宝 / A10476

http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10476「餓鬼草紙」は東京国立博物館所蔵のもので、「別の画像を表示」をクリックしていくと見ることができます。

すべての生き物は6つの冥界を輪廻するという六道思想を反映した六道絵の一つ。餓鬼道に堕ちた餓鬼たちのおぞましい姿が赤裸々に描出される。詞書を失うが,『正法念処経』餓鬼品に説くところを描いたものと思われる。人間界に出没する憐れな姿や灼熱・飢餓に苦しむ様を,闊達な描線で生き生きととらえている。

 08 17 (水) 讃岐うどん

これから手打ちうどんを作ってみようと思います。 グーグルで調べてみると、次のサイトが一番いいようです。

   http://taru.cc/sanuki/index.htm
  <さぬきうどんが大好きなんです>

  「手打ち讃岐うどんの作り方」  先ず第一にここを開きましょう (非常にわかりやすく詳しい説明あり)
  「簡単手打ちうどんの作り方」
  「粉は何を使ってるの」
  「うどん用粉品名一覧」
  「讃岐うどんの出汁の作り方」
  「出汁作りに使った昆布を活用した佃煮」

「手打ち讃岐うどんの作り方」‘その一’ から ‘その六’ まで詳しい説明があるから、それは総て印刷する。 ‘その一’の中のCに「手打ちうどん前場」があるからそれをクリックし手打ちうどん用 小麦粉 を開いて印刷し、さらに手打ちうどん まえば 発送代金を開いて印刷する。

こうして書準備を進めていけばいいのです。 讃岐うどんの手打ちができるようになったら、みんなに食べて頂き楽しんでもらうつもりです。

必要なことは印刷していけばいいから、これで先が見えてきました。

 08 18 (木) キュウリのウドンコ病とベト病対策

よそのキュウリが良く見える。 どこがいけないのだろうか?

人にお聞きしてみると、殺菌剤としてダコニール(殺虫剤のスミチオン併用可能)がいいという。 植付時の殺虫剤としてはアドマイヤーやダイアジノンがいいという。 秀は植付時の殺虫剤としてオルトランを使っている。

種まきのときに、殺虫剤を使うことがいいといいます。 移植の時には穴の中へまいていくといいといいます。

ところで [シンジェンタ ジャパン]の害虫と病気の話第26話では次のように指導しています。 このサイトでは

    http://www.syngenta.co.jp/cp/support/gaichu/gaichu26_cucumber.html
   <害虫と病気の話第26話 きゅうりのうどんこ病とべと病 [シンジェンタ ジャパン]>

第26話 きゅうりのうどんこ病とべと病

 昔は夏の爽涼さを感じさせる野菜の代表であったキュウリも今ではスーパーなどで一年中姿が見られるようになってすっかり季節感がなくなってしまいました。 いつでも何処かで栽培されるようになったキュウリで最も一般的に発生している病気がうどんこ病とべと病です。2002年の農林水産省の調査によると、うどんこ病は延べ50,935ha、べと病は58,148haもの広い面積のハウスや畑で発生しています。どちらも糸状菌によって引き起こされる病気であり、病原菌はいずれも生きている植物からしか栄養が摂れない絶対寄生菌です。

【 うどんこ病病徴 】

うどんこ病は9,800種以上もの植物で発生することが知られている病気で、庭のバラや道端のコスモスなど身近な植物の上で簡単に見つけることができます。主に葉に発生する病気ですがイチゴなどでは果実に激しく発生することもあります。植物体の表面に小麦粉をふりかけたように見えるのがうどんこ病の特徴で、見たままの姿が病名になっています。このようにうどんこ病は沢山の植物で発生しますがうどんこ病菌にも多くの種があり、植物によってそれを侵すことができるうどんこ病菌の種も決まっています。

 うどんこ病菌は植物病原菌としては非常に変わった行動を取る病原菌です。他の病原菌は植物の体内に入って菌糸を伸ばしながら植物を侵害しますが、大部分の種のうどんこ病菌は付着した胞子が植物体の表面で菌糸を伸ばして新たな分生胞子を作り、ところどころで表皮を貫通して植物細胞内に作った吸器という器官で栄養分を摂取します。うどんこ病の特徴となっている白い粉状に見えるものは病原菌の菌糸や胞子そのものなのです。

 うどんこ病のもう一つの特徴は比較的乾燥した条件でも発生するということです。うどんこ病菌も空気中に飛散している分生胞子によって伝染します。他の病気菌と同じ様に胞子が発芽するには水分を必要としますが、うどんこ病菌の分生胞子は細胞壁の厚さが薄く空気中からでも容易に水分を取り込むことができるため、植物体表面に水滴がない湿度40-90%という条件下でも発芽し、発病させることが知られています。

【 べと病病徴 】

 べと病は昔は露菌病という字を書いていました。「べと」とか「露」という字から推測できるように、べと病は梅雨時のような湿度が高い時に発生します。葉だけを侵し、初めは黄色い小さな斑点を出現し、それが徐々に拡大して葉脈に囲まれた角ばった褐色の病斑となります。湿度が高いときには葉の裏側に紫黒色のかびが見られ、本病を見分ける特徴となっています。これは気孔から出ている病原菌の分生子柄で、その先端に遊走子のうという胞子が形成され、そこから飛び出した遊走子が葉上の水の中を泳ぎ回り、気孔から侵入して新たな感染を引き起こします。この菌は植物体内で細胞の間に菌糸を伸ばし、吸器を細胞内に差し込んで栄養を摂っています。

 このように性質が大きく違う二つの病気ですが、どちらの病気も下葉から発生が始まり、放置しておくと急速に枯れ上がります。うどんこ病やべと病の発生を防ぐためには、罹りにくい品種を選択する、第一次伝染源となる被害茎葉の丁寧な処分撤去を行なう、過繁茂を避け空気の流通を良くするなどの栽培上の配慮も必要ですが、病気の早期発見と薬剤防除が不可欠です。現在、非常に多くの薬剤が登録されており、シンジェンタからもリドミルMZ水和剤がべと病に、アミスター20フロアブルがうどんこ病とべと病に登録されています。定植から収穫が終わる時期まで3か月前後も要するキュウリ栽培では、その間に行なわれる薬剤防除の回数も多くなるため、薬剤耐性菌が発生しやすい環境にあります。うどんこ病とべと病でもいくつかの防除剤で耐性菌の発生が報告されています。薬剤耐性菌の発生と蔓延を防ぐためにも、予防的散布を心がけることと、同じ剤を続けて使用するのではなく作用機作の違う防除剤を組み合わせて体系的に使うことが大切です。

シンジェンタ ジャパン株式会社
開発本部 技術顧問
吉野 嶺一

2003年12月9日掲載