折々の記へ
折々の記 2012 C
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】03/26〜 【 02 】04/03〜 【 03 】04/11〜
【 04 】05/02〜 【 05 】05/23〜 【 06 】05/24〜
【 07 】05/28〜 【 08 】06/02〜 【 09 】06/07〜
【 02 】04/03
04 03 糖尿診察の結果
04 04 軌道修正は個人にとって必要なもの
04 05 野菜酵素が健康を支える
04 08 お釈迦様誕生の日
04 09 郊戸八幡宮周辺の文化的背景
04 03 (火) 糖尿診察の結果
今日は市立病院で糖尿の検診があり、その結果は思った以上の好結果でした。
「ヘモグロビン A1c %」の表示は今年4月から国際標準表示となって、旧来の数値より 0.4% 高く表示されることになった。
年月日 2012/1/31 . 2012/4/3 体重 kg 70.2 69.0 血圧 mmHg 120/67 114/63 血糖 mg/dl 250(1.5h) 83(2h) ヘモグロビン A1c % (8.5)→8.9 (7.3)→7.7 総/コレステロール mg/dl ― -/90 HDL コレステロール mg/dl . 44 41 中性脂肪 mg/dl 192 75 AST/ALT/yGTP ― 32/34/17 . クレアチニン/eGFR ― 0.71/79.4 尿アルブミン/尿蛋白 ― -/- 糖尿:蛋白:ケトン 4:-:- ― GA 29.4 ― LDL 119 ― CRE 0.71 ―
A1c が 8.9% から 7.7% へと 1.2% も減少するなんて先ず滅多にないことでした。 どうしてなのかと言うと、腰痛が始まり膝下の浮腫みが始まり、いろいろと私的判断で漢方薬を試みていて、腹が張って下痢が始まり、お粥の食事が続いていたからだと思われる。 この間、市立の整形外科、丸山鍼灸院の針治療、市立内科の腎臓検診、下痢での曽我医院、で医師の指示を仰いでいた。 医師の指示で回復したとは考えられなかった。 一月中旬以後、PCの調査は多岐にわたりました。 飲用したものとしては、桑の葉の粉末、菊芋の粉末、西瓜の粉末粒剤、蝮+アルファー粉末剤、蟹の生食材、などいろいろ試していました。 この中では桑の葉粉末が糖尿病にはとてもいいという宣伝が出ておって多飲していました。 ステビアを煎じた汁も飲んでいました。
以上の様子ですから、何が糖尿検診の結果に反映されたのか分かりません。 エネルギー源がお粥だけだったことも大きな原因かもしれませんが、何だかわかりません。 リンパ腺の刺激や腰痛に良いという運動もいろいろしていたが、足の浮腫みがなくなり、腰痛もなくなり、A1c が 1.2% も減ったなんて信じられないことでした。
04 04 (水) 軌道修正は個人にとって必要なもの
★NHK NEWS
首相 消費増税法案は党議拘束 4月4日
野田総理大臣は、参議院予算委員会の集中審議で、消費税率引き上げ法案について「民主党の事前審査で長時間議論し、党で決めたもので、基本的に党議拘束がかかる」と述べ、法案の採決で党所属の議員が造反した場合は、処分の対象になるという考えを示しました。
【下平から一言】いつまでたっても党議拘束という力づくの「ねじ伏せ論理」これでは政党の改善は見込めない。 私たちは『軌道修正は個人にとって必要なもの』という意識をしっかり持つべきでしょう。
★阿修羅♪
小沢一郎氏と語る日本の未来図 3/27(火)
最終回です。長年のご視聴ありがとうございました。 本日(3/27)の「ニュースの深層」は、ゲストに民主党の小沢一郎 元代表を迎え、上杉隆キャスターと日本の未来図について語り尽くします! 【上杉隆=「ニュースの深層」(朝日ニュースター)】
2012.3.27(火)ニュースの深層「小沢一郎氏と語る日本の未来図」1/4
<http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=qpW0n5LtoiA>
2012.3.27(火)ニュースの深層「小沢一郎氏と語る日本の未来図」2/4
<http://www.youtube.com/watch?v=zQkPHxbwmQY&feature=player_embedded>
2012.3.27(火)ニュースの深層「小沢一郎氏と語る日本の未来図」3/4
<http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=nPhk7aSxVCc>
2012.3.27(火)ニュースの深層「小沢一郎氏と語る日本の未来図」4/4
<http://www.youtube.com/watch?v=PODSlQve51o&feature=player_embedded>
【下平から一言】
貴重なデータになるだろうと思います。
04 05 (木) 野菜酵素が健康を支える
酵素八十八選 <http://shop.slow-village.jp/promotion/>
野草酵素の作り方 <http://cosmeguerrero.com/makeit/>
手作り酵素教室 <http://members3.jcom.home.ne.jp/cocokala/new_page_26.htm>
ナカヤマ手作り酵素教室 <http://www.nakayamakouso.school-info.jp/>
中山ファーム株式会社 <http://www.mapion.co.jp/m/36.3463213888889_138.996841944444_8/>
ブロリコ販売 <http://www.brolico.jp/shopdetail/002000000001/>
世界一かんたんな酒造り <http://www.nakagaki.co.jp/tateisi.htm>
【野草植物】
ヨモギ
スギナ
ドクダミ
ビワ葉
アロエ
熊笹
タンポポの根
桃の葉
公孫樹の葉
霊芝
イチジクの葉
ウコギ
アマチャズル
松の葉
南天の葉
柿の葉
紫蘇の葉
桑葉
アザミ根
ツユクサ
桔梗の根
蜜柑の皮
セリ
フキ
ナズナ
ワラビ
菜の花
クローバ
月見草
【野菜】
大豆
唐辛子
人参
玉葱
パセリ
キャベツ
牛蒡
モヤシ
ニンニク
生姜
椎茸
モロヘイヤ
レンコン
ユリ根
ブロッコリ(ブロリコの原料)
【果物など】
ココナツ
松の実
イチジク
蜜柑
キンカン
パイナップル
梅
林檎
葡萄
メロン
アンズ
レモン
グレープフルーツ
【海藻類】
昆布
フノリ
【糖類】 発酵の目的で使用している糖類
テンサイ糖
オリゴ糖
黒砂糖
蜂蜜
【作り方】 野草等 対 砂糖 = 1〜10kg 対 1〜10kg
【下平から一言】
健康になるためには、胃腸の正常化を図らなくてはならない。 大脳とは別行動をとって生体の維持を考えているというのです。 下痢はこの自浄作用によるものだといいます。
消化器官の正常化にとって、野菜類の酵素は欠くことができないといいます。 調べてると、驚くほどに合理的理解が出来そうです。
野菜酵素の品目を列挙しましたが、これらを参考にして旬の野菜酵素を引用して健康体にしていきたいと思います。
04 08 (日) お釈迦様誕生の日
4月になったというのに、昨日の西山は折々雪が舞っていた様子で、今年は寒さが長引いています。
釈迦は紀元前5世紀頃、シャーキャ族王の男子として現在のネパールのルンビニで誕生。王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で覚りを開き、覚者となった。まもなく釈迦のもとへやってきた梵天の勧めに応じて、釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。南方伝では80歳で入滅したと言われている。
釈迦の概要はWikipediaの釈迦を見るのが一番良いと思う。 子供の頃は今日が釈迦の誕生日としてお寺へ行くと、「釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話した」と伝えられている通り、盥の中に小さな釈迦像がおかれ、盥の甘茶を釈迦像にかけて合掌したことを思い出します。 壜をもっていき、甘茶を田中豊春和尚に汲んでもらい嬉しかったものでした。 後になってから光洋が生まれた日だと吉川(春日)易子から聞きました。
仏の教えは老生の心のふるさとです。
04 09 (月) 郊戸八幡宮周辺の文化的背景
周辺の文化的背景
【天狗党顛末記】@〜H
【課外講座:天狗党の跡を訪ねる群馬・長野の旅】
【コンノート殿下お手植えの松】
【郊戸八幡宮】
【今宮半平について】
【郊戸八幡宮創立、貞観は平安時代前期で貞観大地震があったころです】
【朝日受永の寺社評価】
【天狗党顛末記】
■ @ 父の遺志継ぐ藤田小四郎〜攘夷の魁・天狗党誕生 2009年3月27日 (金)
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/03/post-d174-1.html
元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷派・藤田小四郎の呼びかけに応じて結成された天狗党が、筑波山で挙兵しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回、天狗党は2度目の登場ですが、最初の登場が天狗党・降伏の日だっために、その誕生の経緯や、降伏に至るまでのお話を、おおまかなあらすじのように書いてしまいました(12月17日参照>>)。
なので、誕生に関しては、以前と内容がかぶるところもあるかも知れませんが、今回は、天狗党・挙兵の中心人物である藤田小四郎信(ふじたこしろうまこと)を中心に、水戸学や尊王攘夷思想をおりまぜながら、挙兵に至るまでを書かせていただきます。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
藤田小四郎は、天保十三年(1842年)に、すでに水戸学の学者として名声を博していた学者・藤田東湖(とうこ)の四男として生まれます。
@http://www.geocities.jp/kunitama2664/seikinouta.html 『正気の歌』藤田東湖
藤田東湖の概要説明もあります。
Ahttp://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn15.htm 藤田東湖 正気の歌 漢詩
和文天正氣歌 藤田東湖 (訓読みはWebを開けば出ています)
天地正大氣 粹然鍾~州
秀爲不二嶽 巍巍聳千秋
注爲大瀛水 洋洋環八洲
發爲萬朶櫻 衆芳難與儔
凝爲百錬鐵 鋭利可割?
?臣皆熊羆 武夫盡好仇
~州孰君臨 萬古仰天皇
皇風洽六合 明コr大陽
不世無汚驕@正氣時放光
乃參大連議 侃侃排瞿曇
乃助明主斷 ??焚伽藍
中カ嘗用之 宗社磐石安
C丸嘗用之 妖僧肝膽寒
忽揮龍口劍 虜使頭足分
忽起西海颶 怒濤殱胡氛
志賀月明夜 陽爲鳳輦巡
芳野戰酣日 又代帝子屯
或投鎌倉窟 憂憤正??
或伴櫻井驛 遺訓何殷勤
或守伏見城 一身當萬軍
或殉天目山 幽囚不忘君
承平二百歳 斯氣常獲伸
然當其鬱屈 生四十七人
乃知人雖亡 英靈未嘗泯
長在天地間 凛然敍彜倫
孰能扶持之 卓立東海濱
忠誠尊皇室 孝敬事天~
修文兼奮武 誓欲C胡塵
一朝天歩艱 邦君身先淪
頑鈍不知機 罪戻及孤臣
孤臣困葛? 君冤向誰陳
孤子遠墳墓 何以報先親
荏苒二周星 獨有斯氣隨
嗟予雖萬死 豈忍與汝離
屈伸付天地 生死又何疑
生當雪君冤 復見張四維
死爲忠義鬼 極天護皇基
(Webを開くと藤田東湖の概要説明と漢詩の解説が出てきます)
・・・で、この水戸学・・・
どんな学問かと問われても、なかなか難しいものがありますが、その基本となる物は、水戸藩の第2代藩主・徳川光圀(みつくに)・・・あの水戸黄門様の時代から始まります。
以前、書かせていただいたように、黄門さまは、その半生を『大日本史』という、日本の歴史をまとめた書物の制作に捧げる(10月29日参照>>)わけですが、それもこれも、水戸家が主君と仰ぐ天皇家のためだったわけです。
鳥羽伏見の戦いの徳川慶喜(よしのぶ)の敵前逃亡のところで、少し、その黄門様の言動に触れましたが(1月6日参照>>)、その事でもわかるように、水戸家は御三家の中でも特別で、徳川家の臣下ではなく、主君は天皇家であり、あくまて、朝廷の下に幕府があるという考えで、その神代の昔から続く、天皇家の正統性を主張し、日本が、その君主のもと、独立した国家である事を確かにするがための歴史書の編集という事なのです。
もちろん、大日本史の編集の頃の水戸学と、この幕末の頃の水戸学は、厳密には、同じ学問ではありませんが、「天皇を主君と仰ぎ・・・」という姿勢は同じです。
記紀にある建国神話にて道徳を学び、君主と臣下の違いを厳格に守ってこそ、社会の秩序が保たれると考え、これが尊王(そんのう)思想という事です。
そして、天皇という立派な君主のもとにある独立した日本という国であるのだから、外国から干渉されたり、影響を受けたりしてはならない・・・これが、攘夷(じょうい)思想で、この二つが結びついて尊王攘夷となります。
・・・で、幕末のこの頃に、第9代水戸藩主となった徳川斉昭(なりあき)によって、いち早く天保の改革に取り組んだ水戸藩が、その水戸学を学ぶために設立したのが、藩校・弘道館(こうどうかん)で、小四郎の父・東湖は、戸田忠太夫(ちゅうだゆう)とともに、そこの最高顧問だったわけです。
しかし、そんな水戸藩も、一枚岩ではありませんでした。
実は、小四郎のジッチャンである藤田幽谷(ゆうこく)は、かの『大日本史』の編さんをしていた人なのですが、この時幽谷とともに編さんに関わっていた立原翠軒(すいけん)・・・いや、むしろ編さん所の総裁という事は、上司にあたる翠軒に対して、幽谷が編さん内容について反発し、しかも、最終的に彼を編さん所から追い出してしまっていて、その後は藤田派が独占していたのです。
その後、9代藩主を決めるにあたって、藤田派が推した斉昭が藩主となったために、その後の改革では東湖らが重用され、改革派が中心となりますが、立原派には、水戸藩代々の重臣である保守派が多くいて、この頃の彼らは、水面下でくすぶっていたわけです。
やがて、彼らの尊王攘夷思想が、かなりのスピードで全国的に広まっていった事、水戸藩の改革があまりにスゴかった事によって、幕府が介入し、斉昭は隠居させられ、第10代藩主に息子の徳川慶篤(よしあつ)がなり、その新しい藩主に保守派が取り入った事で、ますます、改革派と保守派は敵対する事に・・・。
そこに降って湧いたのがあのペリーの黒船来航です(6月3日参照>>)。
改革派の改革の中には、海岸線の防備も含まれていた事で、幕府はがぜん改革派の意見を必要とする事となり、斉昭は幕府参与に任ぜられ、当然、水戸藩内にも、改革派が返り咲き、保守派は、またまた水面下へ追いやられる事になるのです。
・・・と、長々と水戸藩内の対立を書いてしまいましたが、後に、天狗党が挙兵して、幕府が追討命令を出した時に、水戸藩からも追討軍が出される・・・という事があるので、ここで、水戸藩内でも対立があった事を外しては、後々、困ると思って書かせていただきました。
・・・で、ペリー来航のおかげで幕府の中心人物となった斉昭・・・この頃に、七男の慶喜を、御三卿の一つ・一橋家に養子に出して、次期将軍の候補者とする事にも成功し、ノリノリの頂点に達していました。
ところが、幕府は、日米和親条約に調印・・・尊王攘夷を掲げる水戸藩としては、真っ向から対立したいところではありますが、水戸学の根底に流れるのは、君臣の身分をわきまえて・・・つまり、天皇も主君ですが、幕府も主君・・・とりあえずは、反幕府を掲げるのではなく、幕府の方向転換を模索する形となるのですが、そうこうしている間に、次期将軍は、慶喜の対立候補だった徳川慶福(よしとみ・家茂)に決まり、大老となった井伊直弼(いいなおすけ)によって、尊王攘夷派を一掃する安政の大獄が決行されます(10月7日参照>>)。
斉昭も慶喜も謹慎処分となり、水戸藩を中心に多くの尊王攘夷派が処分されました。
この混乱の中、東湖は、すでに3年前の安政の大地震の犠牲者となってこの世になく(10月2日参照>>)、さらに、攘夷を催促する天皇の勅諚(ちょくじょう・天皇の命令書)が、幕府を飛び越えて水戸藩に直接下された事で、藩内は更に混乱します。
そして、そんな水戸藩士の中でも、特に過激な尊王攘夷派が脱藩し、安政七年(1860年)3月3日、あの桜田門外の変で、井伊直弼を暗殺するのです(3月3日参照>>)。
この時、小四郎はまだ19歳・・・父亡きあと、弘道館で同志と勉学に励むも、未だ、尊王攘夷派の中心人物になるには至りませんでした。
彼が大きく成長するのは、3年後・・・文久三年(1863年)、藩主の慶篤のお供をして上洛した時でした。
この時、彼は京都にて、あの長州(山口県)の桂小五郎&久坂玄瑞(げんずい)と語り合うチャンスに恵まれ、その思想に大いに影響を受けるとともに、攘夷の信念を貫く覚悟も決めたに違いありません。
しかし、この文久三年の時点では、朝廷からの再三再四の攘夷の催促に、14代将軍となった徳川家茂(いえもち)が、「5月10日に攘夷を決行する」と約束をしていたので、小四郎は、何をするという事なく、おとなしく江戸へと戻り、その攘夷決行の日を待ちました。
しかし、ご存知のように、その約束通りに攘夷決行=外国船に砲撃したのは長州だけ(8月8日参照>>)・・・幕府は何もしません。
さらに、7月には、前年の生麦事件(8月21日参照>>)に単を発した薩英戦争(7月2日参照>>)が起こり、翌月には、八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、朝廷から尊王攘夷派が一掃されてしまいます。
藤田小四郎・23歳・・・
「何もしない幕府に、今こそ水戸藩が攘夷決行を訴えなくてはならない!」
元治元年(1864年)3月27日、府中(茨城県石岡市)に集まった64名の同志は、密かに筑波山をめざします。
山の中腹に立って尊王攘夷の旗を掲げると、彼らの決起を聞きつけて集まってきた更なる同志で、その人数は160名余りに膨れ上がります。
その集団の名は天狗党・・・
この名前は、以前から、敵対する保守派の重臣たちが、下層武士の多い改革派をさげすんでつけたニックネームだったのですが、彼らは、あえて、この名を使いました。
「天狗のごときに、大暴れしてやる!」と・・・。
声を挙げたのは小四郎ですが、なにぶん彼は、まだ歳若く、天狗党の大将には水戸町奉行で、皆の信頼も厚い田丸稲之衛門(いなのえもん)がなりました。
集まった彼らは、すでに病死していた斉昭の遺骨を掲げ・・・
「亡き斉昭公の遺志を継ぐ!」と宣言し、あくまで朝廷から直接下された攘夷の命令を遂行するため、横浜港の閉鎖を目的とした挙兵でした。
ここに、攘夷の魁(さきがけ)天狗党が誕生したのです。
ただ、小四郎には、一つだけ心残りがありました。
それは、幼い頃から悪ガキだった自分を、時には叱り、時はやさしく、正しい道へと導こうとしてくれていたであろう近所のオッチャンを、この天狗党に誘えなかった事でした。
長年、斉昭の側近を勤め、近くは京都で慶喜のもとに仕えていた頼れるオッチャンに、天狗党の大将になってもらおうと、この挙兵の前に声をかけた小四郎でしたが、逆に「血気にはやるな!」と、挙兵に反対されたため誘えなかったのです。
「融通が利かない」と他人からは笑われるくらい生真面目なそのオッチャンの名は、武田耕雲斎(たけだこううんさい)・・・この後、小四郎と運命を共にするその人でした。
次に天狗党が登場するお話は4月10日へどうぞ>>
■ A 尊王と敬幕と・・・攘夷の魁・天狗党の模索 2009年4月10日 (金)
元治元年(1864年)4月10日、天狗党のメンバーが日光東照宮に参拝し、全国に向けて声明を発表しました。
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さて、元治元年(1864年)3月27日、藤田小四郎の呼びかけによって結成された天狗党(3月27日参照>>)・・・。
その目標は倒幕ではなく、尊王攘夷を決行するよう幕府に求める・・・あくまで、幕府の方針転換を願うための筑波山での挙兵でした。
しかし、筑波山では何かと不便・・・という事で、軍儀の結果、日光に立て籠もる事になります。
なんせ、日光は東照大権現=徳川家康を神とする幕府の聖地ですから、幕府側もおいそれと攻撃できるものでもなく、プラス、仲間も集まりやすいであろうとの算段でした。
4月3日に筑波山をあとにした集団は、一旦、宇都宮に入ります。
・・・というのも、この宇都宮藩の中老・県勇記(あがたゆうき)が、根っからの尊王派なので、彼に天狗党へのお誘いをかけるためだったのですが、残念ながら、あっさりと断られてしまいます。
しかたなく、予定通り東照宮に籠るため、日光に向かう一行でしたが、ここも、ピッシリと門を閉じ、強引に占拠しようと試めば、一戦交えんばかりの反発を喰らってしまいました。
やむなく、東照宮占拠を諦めた天狗党は、元治元年(1864年)4月10日、メンバー全員が順々に東照宮に参拝した後、その場で、全国の同志に決起を呼びかける挙兵声明を発表したのです。
東照宮に参拝した事、その参拝で士気があがった事、そして、その場で声明を発表した事でもわかるように、彼らは、幕府に刃向かうつもりは一切なく、その声明には、敬幕を、尊王とともに重視している事も盛り込まれていたと言います。
やがて、彼らは栃木の太平山に本拠を構え、4月半ばから1ヶ月半ほど滞陣し、この地で同志を募りました。
その呼びかけに答えて、全国から集まる同志たち・・・ここでの人数は約400名に膨れ上がります。
その中心は、やはり、大将となった田丸稲之衛門(いなのえもん)や小四郎のような武士でしたが、中には農民も多く・・・いえ、むしろ、数字的には半分以上が農民出身者で占められていたのです。
・・・というのも、水戸藩の先代の徳川斉昭が、かなり革新的な人で、いち早く天保の改革を推しすすめた際、水戸学を学ぶための弘道館を設置しただけでなく、その弘道館で勉学を学んだ者たちが教師となって、さらに下層の武士や農民・町民に学問を教える郷校(ごうこう)なる物を設置し、誰もが教育を受けられるようになっていて、農民たちにも、尊王攘夷思想なるものが、どのような物であるかが理解されていたからなのです。
しかも、優秀な者は、その身分に関わらず能力による人材登用の道も開かれていて、たとえ農民であっても、その才能次第で、武士並みの待遇で重く取り立ててもらえる場合もあり、後進の育成政策がかなり充実していたのです。
そこに、あのペリーの黒船来航騒ぎとなり、農民たちの心にも火がついた!・・・今まで、ただ年貢を納めるための単調な人生が、努力次第では上へ上へと上りつめる事だってできるかも知れないわけですから、多くの農民たちが、その革新的な尊王攘夷思想に、自らの人生を変える事を夢見たとしてもおかしくはないわけです。
あの新撰組が、もともと武士だった者より、農民出身の者のほうが、より武士らしく生きたいと模索したように、彼らも、むしろ農民出身者のほうこそが、その熱意は高く、だからこそ、この先、無謀とも思える幕府相手の戦いに挑んでいく天狗党に、最後までつき従ったのかも知れません。
しかし、尊王攘夷思想を理想に、幕府の改革を目指す天狗党ですが、徐々に、その理想から外れた道へと歩む出来事も起こってきます。
それは、軍資金です。
やはり、挙兵し、幕府を相手に戦う・・・さらに、上記のように、その同志が増えれば増えるほど軍資金は必要となりますが、理想だけでは飯が食えない事は明らか・・・。
滞陣や、移動を繰り返す中、移動先の豪商や豪農などから軍資金を調達していた彼らですが、人数が増えるにつれ、その調達が、より強引に、より強制的になっていってしまうわけです。
そして、ちょうど、この太平山での滞陣中の頃、事件は起こります。
水戸藩医の家に生まれ、小四郎たちとは同門で勉学を学び、その優秀さの誉れも高かった田中愿蔵(げんぞう)・・・彼は、筑波山の最初の決起の際からの天狗党在籍者で、その後も200余名の田中隊を率いていましたが、彼らが栃木町で軍資金の調達をした際に、断られたはらいせに住民を殺害し、さらに放火して、町の大半を灰にしてしまう大火事を引き起こしてしまったのです。
さらに、真鍋村・中貫村(茨城県土浦)でも強奪や放火をくりかえし、周辺住民からは大変恐れられる存在となります。
結局、これらの事がきっかけで、天狗党を除名される愿蔵ですが、彼らの態度が、幕府や水戸藩の中の保守派の者たちへ、天狗党を弾圧する大義名分を与えてしまった事は確かのようです。
水戸藩では、保守派の市川三左衛門を中心に、天狗党に対抗する諸生(しょせい)党を結成し、「天狗党討伐」の建言書を提出する事になります。
一方、太平山に未だ滞陣する天狗党の本隊に、活動中止を説得に来る者もいました。
大将の稲之衛門の兄で水戸藩・目付け山国兵部(やまくにひょうぶ)・・・もちろん、水戸藩の命によって、彼らを説得しに来たわけですが、以前から書いています通り、もともとは、尊王攘夷は、亡き先代・斉昭の遺志・・・ペリーのゴリ押しに屈して開国を約束してしまった幕府こそ方針転換をすべきだというのは、多くの藩士の思うところで、以前から敵対している保守派の連中以外の藩士の中には、天狗党を正義とする考えもたくさんあったのです。
結局、この時も、天狗党の彼らと充分に話し合い、その真意を理解した兄・兵部は・・・
「やるなら、筑波山へ戻ってやれ!水戸藩の元で天下に義を唱えろ!」
そう、ここ太平山は宇都宮藩・圏内・・・やるなら、水戸藩の地で!・・・と、むしろ、応援するようなコメントを残して去っていきました。
この進言を聞き入れた彼らは、6月の初めには、再び筑波へと戻り、そこを拠点とし、いよいよ天狗党討伐をあらわにした、かの諸生党+幕府との全面衝突を迎える事になるのですが、そのお話は、やはり激戦が行われる7月9日【下妻夜襲】へどうぞ>>。
■ B 天狗党・大暴れ!〜下妻夜襲〜 2009年7月 9日 (木)
元治元年(1864年)7月9日未明、天狗党討伐のために編制された諸生党本陣に、藤田小四郎以下・天狗党が奇襲をかけた下妻夜襲がありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
約3ヶ月ぶりに登場の天狗党です。
ペリー来航(6月3日参照>>)によって開国に踏み切った幕府は、朝廷からの再三の攘夷(外国排除)の要求に、その決行を約束しつつも実行に移す気配なく・・・
逆に、八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、政治の中心部から尊王攘夷派を一掃します。
そんな中、幕府へ攘夷を訴えるべく立ち上がったのが、今は亡き水戸学の権威・藤田東湖(とうこ)の息子・藤田小四郎・・・元治元年(1864年)3月27日、筑波山に同志を集め、天狗党として決起します(3月27日参照>>)。
水戸藩内でも賛否両論ある中、本拠地を転々としながら活動する天狗党でしたが、その姿勢は、倒幕ではなく、あくまで現幕府の方針転換を要求する事・・・しかし、軍資金を巡ってのトラブルをきっかけに、幕府は天狗党・討伐を決意し、水戸藩内の反対派を中心に天狗党討伐軍=諸生党(しょせいとう)が結成されます(4月10日参照>>)。
・・・と、ここまでが前回までの流れ・・・
かくして、再び筑波山を本拠地とした天狗党に対し、市川三左衛門(いちかわさんざえもん)率いる諸生党・約700名に、幕府ほか古河・結城・土浦・高崎などの諸藩の反対派を加えて6000余りの大軍に編制された討伐軍・・・
彼らが江戸を出発したのは、元治元年(1864年)6月17日の事でした。
一方、迎え撃つ天狗党は、約1000名ほど・・・最初に両軍が激突したのは、7月7日午前4時頃の事・・・
洞下(ほらげ・茨城県つくば市)と高道祖(たかさい・下妻市)のほぼ中間あたりで、約2時間に渡って砲撃戦が行われましたが、数に劣る天狗党はやむなく撤退・・・
このまま、まともに戦っては勝ち目なしと判断した天狗党首脳陣は、隊を2手に分け、奇襲をかける事にします。
元治元年(1864年)7月9日、まだ陽も明けぬ午前4時頃、地元出身で地の利のある飯田軍蔵(ぐんぞう)の道案内にて、小貝川の上流を迂回して、敵本陣・多宝院(たほういん)へと突入する藤田小四郎隊と竹内百太郎隊・・・
ちょうど、その時、先の7日の戦いの勝利に酔いしれ、祝宴あげまくりの諸生隊・・・ふいを突かれた三左衛門は、負傷して逃亡・・・慌てた他の隊士たちも、ほぼ応戦する事なく逃げ出します。
一方、高崎藩士を中心に雲充寺(うんじゅうじ)に陣取っていた諸生隊も、天狗党別働隊に攻め込まれて逃走・・・この日の戦いは、天狗党の大勝利に終ります。
この勢いのまま、海路、横浜へと向かい、横浜港の閉鎖を決行する事を決意する天狗党でしたが、夜襲決行から10日ほどたった頃、その計画を打ち砕くニュースが舞い込んできます。
先の夜襲で逃亡した三左衛門ら諸生党が、水戸城へと入城し、そこにいた天狗党の家族を捕らえて暴行・虐待を繰り返しているというのです。
こうなったら、「水戸城を占拠して、まずは家族たちを救わねば!」といきり立つ小四郎たちでしたが・・・
そうです。
天狗党の隊士となっているは水戸藩の者だけではありません。
あくまで、水戸城に捕らえられているのは、水戸藩の天狗党の家族・・・
「大義の前には犠牲はつきもの」
「個人的感情を捨て、まずは攘夷決行の姿勢を見せるべき」
「水戸藩内の争いを天狗党に持ち込むべきではない」
などの意見が多数出ます。
ごもっともなご意見ですが・・・
やはり、どうしても、捕らえられている家族を見捨てる事ができない小四郎らは、その反対を押し切って、水戸城の占拠を優先します。
ここで、多くの隊士が脱退を決意・・・天狗党を去っていきました。
7月26日・・・隊を分裂させてまで決行した水戸城占拠作戦でしたが、ただでさえ、数のうえで劣勢な天狗党が、さらに分裂した事で、もはや、勝敗は明らかでした。
水戸城下での戦いに破れてしまう天狗党・・・
しかも、ここに来て、幕府は、相良(さがら)藩主・田沼意尊(おきたか)を中心に、幕府による天狗党討伐軍・1万3000を再編成します。
前面の諸生党・・・
背面の幕府軍・・・
もはや、天狗党の運命もこれまでか!・・・と思いきや、まだまだ踏ん張ります。
・・・というか、ここからが第二幕・・・なんせ、天狗党の代表格となるべき、頼れるオッチャン=武田耕雲斎(こううんさい)がまだ仲間になっていません。
なのですが、そのお話は、やはり、新生天狗党が誕生する10月25日のページへどうぞ>>。
■ C 総大将・武田耕雲斎〜新生・天狗党の誕生 2009年10月25日
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/10/post-0795.html 今日は何の日?徒然日記 (日)
元治元年(1864年)10月25日、幕府の追討軍と諸生党に囲まれ、窮地に追い込まれていた天狗党に武田耕雲斎が加わり、耕雲斎を総大将とした新たな天狗党が誕生しました。
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久々の天狗党の登場って事で、これまでの経緯を簡単に振り返ってみますと・・・
ご存知、ペリーの黒船来航(6月3日参照>>)で、国内が開国か攘夷(じょうい・外国を排除)かで揺れる中、大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を得ないままアメリカとの条約を結び、反対派を弾圧する安政の大獄を決行します(10月7日参照>>)。
そんな中、今は亡き藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)のもと、尊王攘夷思想を掲げる水戸学が根づく水戸藩では、脱藩した一部過激派による直弼の暗殺・桜田門外の変(3月3日参照>>)が決行されますが、彼らの掲げる尊王攘夷は、大老を暗殺しながらも幕府に敬意を表するものでした。
そんな思想を受け継いだのが東湖の息子・藤田小四郎・・・元治元年(1864年)3月、筑波山に集結した同志とともに天狗党を結成したのです(3月27日参照>>)。
翌・4月、日光で気勢を挙げた後、各地を点々としながらも、倒幕ではなく、あくまで「幕府の方向転換」を要求する彼らでしたが、そんな彼らに幕府は追討軍を派遣、水戸藩内でも保守派による追討軍・諸生党が結成され(4月10日参照>>)、7月には下妻で激戦となり、水戸城を占拠した諸生党と、さらに再編制されて大軍となった幕府討伐軍に挟まれた天狗党は・・・(7月9日参照>>)
・・・と、ここまでお話させていただきました。
その下妻の夜襲から1ヶ月後の8月・・・局面は大きく変わります。
水戸藩の第10代藩主・徳川慶篤(よしあつ)が事態の収拾に乗り出したのです。
なんせ、諸生党は水戸城を占拠しちゃってますから・・・
慶篤の命を受けた支藩・宍戸藩の藩主・松平頼徳(よりのり)が、執政の榊原新左衛門以下数百人を伴い、水戸へと乗り込んで来たのです。
この榊原という人は、もともとは天狗党を鎮めようとしていた人なのですが、諸生党と、それを率いる市川三左衛門が、ここに来て藩内の要職を牛耳る事態となって、市川らを排斥するために同行したのでした。
なんせ、諸生党は水戸城を占拠しちゃってますから・・・
そんな頼徳ら数百人に、さらに尊王攘夷派の農民たちが加わって、彼らは大発勢と呼ばれる集団となります。
さらに、ここに来て、またまた強い味方が登場・・・
やはり諸生党の勢いで、藩の首脳部から追い出された山国兵部(やまぐにひょうぶ)と武田耕雲斎(こううんさい)様ご一行です。
兵部は、天狗党の大将・田丸稲之衛門(いなのえもん)の実の兄で、以前、天狗党が太平山(栃木県)を本拠地としていた頃に、挙兵をやめるように説得しに来た人ですが、その時も、挙兵に反対しながらも、天狗党が目指すその姿勢には理解を示していた人でした。
耕雲斎は、小四郎の父・東湖とも友人関係にあり、先代水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の信頼も厚く、最近では、京都にて徳川慶喜(よしのぶ)を補佐する重要な役職にもついていた頼もしい人で、小四郎が天狗党結成に際に、一番参加を希望した人でもありました。
しかし、その時は、「時期が早い」として天狗党には入らず、藩内の立場上、尊王攘夷派の鎮圧にあたったりしていましたが、ここに来て、やはり、「武力を以ってしか、藩内の保守派に対抗できる手段はない」との判断に至って、頼徳らに合流したのでした。
こうして、約3000の集団に膨れ上がった彼らは水戸城へと向かいますが、水戸城を占拠する市川以下諸生党は、徹底抗戦の構えを見せ、「もし、入城するなら頼徳1人だけ・・・」と言って聞きません。
そんなもん、彼らが占拠する城内に、頼徳がただ1人で入れるわけがなく、やむなく彼らは、歴代水戸藩主の別荘地である那珂湊(なかみなと・ひたちなか市)へと向かいます。
そして、ここ那珂湊で小四郎ら天狗党も、彼らに合流します。
やがて8月半ば頃から、那珂湊を本拠地に激戦を繰り返す彼らでしたが、いずれも一進一退・・・9月からは幕府軍艦による海上からの攻撃も加わり、諸生党・幕府軍・幕府海軍と、3面からの執拗な攻撃に、藩主別荘だった彙賓閣(いひんかく)や、先代・斉昭が作った反射炉など、多くの建物が焼失してしまいますが、それでもなお、彼らは踏ん張ります。
しかし、江戸藩邸にいて動けない慶篤から、一命を受けている頼徳さん・・・自らの意思で参加している他の人とは違い、彼には、事態の収拾という使命がありますから、こうして一進一退を繰り返してばかりではどうにもなりません。
10月に入り、「何とか打開せなば・・・」と、江戸への弁明もあって、幕府の陣営へと出頭するのですが、案の定、水戸城にて拘束され、10月5日には切腹させられてしまうのです。
幕府側は、この頼徳の死を隠したまま、10日と17日に総攻撃をかけますが、この作戦は幕府の負け・・・しかし、まだまだ一進一退の状況は続きます。
そして、
いよいよ長い長い戦いに耐え切れなくなる人が・・・
そうです、上記の通り、未だ彼らは、大発勢+兵部+耕雲斎+天狗党で、統一戦線は組んでいるものの一枚岩ではなかったのです。
ここに来て榊原以下・大発勢1154名が、天狗党の征伐を条件に、幕府側に投降・・・残ったのは、小四郎以下・天狗党、兵部とその支持者、耕雲斎とその支持者・・・。
多勢に囲まれた彼らは、絶体絶命のピンチを向かえ、逆に結束を固める事を決意するのです。
元治元年(1864年)10月25日、何とか那珂湊を脱出した1000名ほどの集団は、北方の大子(だいご・茨城県久慈郡)に、ふたたび集結・・・ここに、耕雲斎を総大将とする新たな天狗党が誕生するのです。
時に耕雲斎・62歳・・・小四郎・23歳、親子ほど歳の離れた同志は、ここでやっと一つになれたのです。
実際には、自由奔放な性格だった父・東湖と、父より3歳年上でカタブツの耕雲斎・・・しかし、この時ばかりは、小四郎も、そんな耕雲斎に、亡き父の頼もしさを見てとった事でしょう。
こうして、新たに生まれ変わった天狗党ですが、もはや水戸城を奪回する事は不可能・・・
こうなった以上は、亡き斉彬の息子で、現在、京都にて禁裏御守衛総督の任務にあたっている慶喜に会い、水戸藩の現状を訴え、さらには、幕府の尊王攘夷への方向転換を希望すべく、京都へと向かう事にするのです。
・総大将 :武田耕雲斎
・大軍師 :山国兵部
・本陣 :田丸稲之衛門
・輔翼 :藤田小四郎
:竹内百太郎・・・
1000名余りの行軍の先頭にひるがえるは、
「攘夷」
「魁(さきがけ)」
「日本魂(やまとだましい)」の旗々々・・・
いざ、京都へ!・・・と、この話の続きは、天狗党が大子を発つ11月1日のページ
■ D 天狗党・起死回生の西上行軍〜下仁田戦争 2009年11月 1日 (日)
元治元年(1864年)11月1日、天狗党が、徳川慶喜のいる京都に向けての行軍を開始しました。
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総大将に武田耕雲斎(こううんさい)を迎えた新生・天狗党・・・初めてのかたは、まずは、これまでの経緯について、先に読んでいただくとありがたいです。
・父の遺志継ぐ・藤田小四郎〜天狗党・誕生>>
・尊王と敬幕と・・・攘夷の魁・天狗党の模索>>
・天狗党・大暴れ!〜下妻夜襲>>
・総大将・武田耕雲斎〜新生天狗党の誕生>>
・・・て事で、もはや水戸を奪回する事は不可能と判断した天狗党・首脳陣は、亡き主君・徳川斉昭(なりあき)の息子で、現在、京都にて禁裏御守衛総督の任務にあたっている徳川慶喜(よしのぶ)に会い、水戸藩の現状を訴え、さらには、幕府の尊王攘夷への方向転換を希望すべく、京都へと向かう事にするのです。
この一行には、水戸藩士や郷士だけではなく、地元の僧侶や農民、また、これら天狗党に参加している者の家族である女子供も同行していましたから、なるべく、無用な争いは避けたい・・・
それには、まず天狗党自身がトラブルを招くような事をしない事!
以前、その軍資金集めでトラブルになり、地元住民を殺害したり、放火して村の大半を焼いた田中愿蔵(げんぞう)の例(攘夷の魁・天狗党の模索を参照>>)もありますから・・・
そこで、出発前には、再編成された部隊に対して、きびしい軍令を発します。
1.無罪の一般人を殺したり怪我させたりしてはいけない
2.民家に入り、盗みを働いてはいけない
3.婦女子をみだりに近づけてはいけない
4.田畑の作物を荒らしてじはいけない
5.隊長の命令を待たずに行動してはいけない
・・・と、まぁ、いまさら言われる事もない、当然っちゃー当然の項目なのですが、きびしいのは項目ではなく、罰則・・・上記の事に違反したばあいは、即刻、斬首!
後の新撰組もそうですが、多種多様の人間を抱える集団は、これくらいのきびしい罰則を設けないと、その秩序は保てないのかも知れません。
かくして元治元年(1864年)11月1日、1000人余りの隊列が、常陸(茨城県)は大子(だいご)を出発し、一路、西へと進み始めたのです。
その行軍の様子が、いくつかの手記に記録されています。
・先手:薄井督太郎
白綸子(りんず)の小袖に黒紋付黄麻の陣羽織
=随兵・五十余
・第一備(ぞなえ):大将・三橋半六(はんろく)
黄羅紗(らしゃ)の陣羽織
=大砲・2門、随兵・百人余
・第二備:大将・山国兵部(やまくにひょうぶ)
猩々緋(しょうしょうひ)の陣羽織
=大砲・2門、「魁」の旗・1流、随兵・百人余
・第三備:大将・藤田小四郎
紺糸嚇(おどし)の鎧に金鍬形の兜、
黒ビロードの陣羽織
=大砲・2門、「赤心」の旗・1流、随兵・百五十余
これらの「大将=騎乗した武士」は、約200名ほどいて、それぞれ従う歩兵の総勢は500余りは、皆、武装して陣笠を着用、荷物を曳く馬が50ほど、大砲は合計で15挺・・・これらが、かの旗々をひるがえして行軍するさまは、まるで錦絵のようだったのだとか・・・カッコイイなぁ〜〜
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
こうして、西行を開始した天狗党は、出立したその日に下野(しもつけ・栃木県)の黒羽(くろばね)藩領に入り、さらに西を目指しますが、すでに各藩は、幕府からの天狗党・討伐命令を受けていたはず・・・すんなりと通れたんでしょうか?
実は、耕雲斎は、軍内には規律を守らせる一方で、対外的には、通行する各地の藩に、前もって、行軍の目的を明確に記した通行願いを渡し、なくべく戦闘を避けるようにしていたのです。
すでに何度か書かせていただいているように江戸時代というのは、藩という独立国家の集合体・・・中央の幕府に、どこまで協力するかは、藩によって違うわけで、中には、天狗党の尊王攘夷の志に、理解を示す者も少なからずいまたし、この時点で、天狗党の勇名は各藩にも伝わっていますから、「無用な争いは避けたい」というのもあったでしょう。
最初に遭遇した黒羽藩も、始めのうちは大砲などを持ち出して戦う姿勢を見せていましたが、上記のように、いたずらに危害を加えようとしない規律が守られた軍団に、礼儀を踏まえた通行願いの提出・・・
「堂々と中心部を突っ切られるのは、ちと困るが、間道ならば・・・」
と、結局、通過を黙認する形となりました。
多くの小藩が、このように天狗党の通過を許し、中には、村の大地主が紋付袴で対応し、何も言わずとも軍資金を差し出したり酒代を出したり・・・と、けっこう、旅費には事欠かないほどの好感触だったようです。
もちろん、全部が全部そうではなく、恐ろしい天狗党が通過すると聞いて、家々を焼き払い、村民全員で退去した村もありました。
そして、当然ではありますが、幕府の要請に従い、天狗党の行軍を、何としてでも阻止しようという藩もあります。
おおむね平穏に行軍していた天狗党に、初めて「待った!」をかけたのは、下妻・那珂湊(なかみなと)と、すでに2度天狗党と対戦し、いずれも敗れている高崎藩・・・さすがに、このまま天狗党に勝ち逃げさせるわけにはいきませんから、何としてでも一矢を報いたい。
そして、11月16日、そんな高崎藩の約200名が下仁田(しもにた)で待ちうけます。
下仁田戦争と呼ばれるこの戦いでは、あらかじめ2隊を敵陣正面に置き、別働隊2隊が、敵の左右側面から襲いかかるという、大軍師・山国の発案よる作戦が決行され、約2時間の激戦の末、高崎藩兵の死者・36名、天狗党側の死者・4名と、またしても天狗党の勝利に終りました。
まぁ、いくら非戦闘員を含むとは言え、1000名を越す行軍に対しての200名は、やはり多勢に無勢といったところでしょうか・・・。
しかし、この先、バッチリとタッグを組んだ松本藩と高島藩の総勢・2000名の連合軍が、下諏訪(しもすわ)で待ちうけます。
・・・と、このお話は、和田峠を舞台に行われた戦いの11月20日のページでどうぞ>>。
■ E 尊王攘夷を掲げて西行の天狗党〜和田峠の戦い 2009年11月20日 (金)
元治元年(1864年)11月20日、西行する天狗党と、それを追討する高島・松本藩連合軍が和田峠で衝突しました。
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この年の3月に、尊王攘夷を掲げて決起した天狗党・・・これまでの経緯は、
・天狗党の誕生(3月27日参照>>)
・日光東照宮にて声明発表(4月10日参照>>)
・下妻夜襲(7月9日参照>>)
・・・と、関東各地で奮戦するも、幕府からは「天狗党・追討令」が出され、地元の水戸藩内は保守派に牛耳られ、やむなく、彼らは、自らの思いを、今は亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)に伝えるべく、慶喜のいる京都を目指して出発します(10月25日参照>>)。
★ルート図はコチラ>>(別窓で開きます)
途中、その領地をすんなりと通してくれる藩もあれば、当然の事ながら、幕府の命に従って彼らの行く手を阻む藩もあります。
最初のぶつかり合いは、11月16日・・・下仁田戦争(11月1日参照>>)と呼ばれるその戦いで、2時間の激戦のうえ、高崎藩に勝利した天狗党は、着物には血しぶき飛びまくり、刀や槍も抜き身のまま、さらに西行を続けます。
翌日到着した信州(長野県)への玄関口・西牧(さいもく・藤井)の関所・・・すでに、前日の「天狗党・大勝」のニュースを聞いていた関所の番人は逃走し、もぬけのからの関所を悠々と通過します。
ほどなく、見えてくる内山峠を越えれば、もう、信州・・・通過する宿場町では、最初はそのいでたちを見て、身を隠していた人々も、彼らが一般市民には危害を加えない事を聞くと、こぞって沿道に出て、隊列を見物するようになっていました。
そして、佐久(さく)に入り、中山道の和田宿で一泊した翌日、和田峠を越えて樋橋(とよはし・諏訪郡下諏訪町)にさしかかった所で、高島・松本藩の連合軍の迎撃が待っていました。
元治元年(1864年)11月20日、和田峠の戦いの勃発です。
連合軍=2000、天狗党=1000・・・
はじめ、藤田小四郎率いる150人が、正面からの突破をしようと、猛攻撃をかけますが、2度3度と押し戻され、なかなか前進できません。
天狗党・危うしか?・・・と、思いきや、これが、軍師・山国兵部(やまくにひょうぶ)の作戦!
小四郎らが正面衝突してる間に、背後と側面の山に奇襲隊200人を潜ませたのです。
相手に悟られぬよう、激しく急な険しい山をよじ登るという、意表をついた作戦です。
そして、ころあいを見計らって、山上から一斉に砲撃を開始・・・まさかと思った方向からの攻撃に、連合軍が慌てふためいたところで、総大将・武田耕雲斎が太鼓を打ち鳴らします。
その太鼓を合図に、全軍が突入!・・・連合軍は総崩れとなりました。
この時、逃走を計る高島・松本藩によって樋橋の宿場町に火が放たれましたが、天狗党の隊士らが力を合わせて消火にあたり、町衆の心の拠り所となっていたお地蔵様が安置されている地蔵堂が焼かれずにすんだという事で、沿道での彼らの評判は、さらに高まります。
ここから、南に下った飯田では、尊王攘夷の気質も相まって、3000両もの軍資金を手配してくれるとのうれしい約束も交わされます。
ただ、やはり幕府の追討命令は執拗に発令され続け、困った藩の中には、彼らが通り過ぎたあとに、ポーズだけの大砲を打ち鳴らしてごまかしたりしたところもあったのだとか・・・。
やがて、11月24日、天狗党は駒場宿へと到着します。
ここは、伊那地方でその名を馳せた尊王攘夷の志士・松尾多勢子(たせこ)の地元・・・京都で活動中に幕府から追われ、長州(山口県)へと逃れた後、この頃は、密かに故郷に戻ってはいた多勢子でしたが、さすがに、追われる身の彼女との面会は叶いませんでした。
高森町山吹の本学神社 (本学神社の地図)
松尾多勢子
しかし、彼女の息子・誠と会う事ができた小四郎らは、多勢子からの伝言を受け取ります。
それによれば、
「このまま南に進めば尾張藩の領地・・・御三家でもあり大藩でもある尾張藩との交戦は避けたほうが良いので、この先は美濃(岐阜県)へと進むべし」
との事・・・
早速、軍儀を開いて方向転換を決定した天狗党は、翌・25日、美濃の玄関口・清内路(せいないじ・長野県下伊那郡)の関所を通過します。
「天狗党はこのまま南へ下るもの」と思い込んでいた関所の役人は、慌てて何もできず、天狗党をそのまま通過させてしまいます。
さらに進む天狗党は、やがて木曽路に入り、妻籠(つまご)・馬籠(まごめ)に泊まった後、29日には木曽川を渡りました。
沿道の諸藩は、衝突を避けて撤退する藩、軍資金を渡して「城下の通過を避けてくれ」と頼み込む藩・・・と、その動向も様々な中、あの太子(たいし)を旅たってちょうど1ヶ月の12月1日、彼らは、揖斐(いび・岐阜県揖斐郡)宿へと到着しました。
このまま西へと向かえば、もう数日で、いよいよ京都です。
・・・と、行きたいところではありますが、ここで、耕雲斎は一つの決断をし、彼らの西行は新たな展開に・・・
思わせぶりにひっぱるようで恐縮ですが、やはり、そのお話は、決断を迫られる12月2日のブログでどうぞ>>
■ F 天狗党・雪の行軍〜運命の新保入り 2009年12月 2日 (水)
元治元年(1864年)12月2日、美濃の萎靡宿に滞在中の天狗党の総大将・武田耕雲斎に、西郷隆盛の命を受けた中村半次郎が面会しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この年の3月、藤田小四郎の呼びかけにより、尊王攘夷の魁(さきげけ)となるべく蜂起した天狗党(3月27日参照>>)・・・
神君・家康公のお膝元・日光東照宮にて声明を発表した後(4月10日参照>>)、
下妻夜襲など、関東各地で奮戦するも(7月9日参照>>)、
藩内の保守派に水戸城を占領された彼らは、新たな総大将に武田耕雲斎(こううんさい)を迎え、水戸藩の現状を訴えるべく、亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)のいる京都へと旅立つ事にします(10月25日参照>>)。
★行軍ルート図はコチラ>>(別窓で開きます)
・11月16日の下仁田戦争(11月1日参照>>)
・11月20日の和田峠の戦いを経て(11月20日参照>>)
旅立ちから、ちょうど1ヶ月の12月1日、美濃国(岐阜県)は揖斐(いび・岐阜県揖斐郡)宿へとたどりつきました。
そして、翌日・元治元年(1864年)12月2日、そんな彼らの元に、薩摩(鹿児島県)の西郷隆盛の命を受けた中村半次郎(後の桐野利秋)が面会に訪れたのです。
そうです。
上記のルート図をご覧いただくとお解かりの通り、揖斐宿から、一山越えた先には琵琶湖が広がっていますから、このまま西へと進み、琵琶湖の東岸を行けば、数日で京都に到着します。
「わが薩摩が、全面的に協力しますので、このまま、まっすぐ京都へ出て下さい」
半次郎は、西郷からの伝言を伝えに来たのです。
しかし、しばしの論議の末、耕雲斎は、その薩摩の協力を丁重に断り、越前(福井県)から近江(滋賀県)に向かい、琵琶湖の北へと抜けるルートを選択したのです。
それは、「我らは戦うために西へ向かっているのではない」という、彼ら天狗党のポリシーから生まれた判断でした。
琵琶湖の東岸を通るという事は・・・当然、彦根という場所を通る事になります。
4年前の万延元年(1860年)3月3日、安政の大獄を断行した、時の大老・井伊直弼(なおすけ)を桜田門外の変で暗殺したのは・・・首を取った者こそ薩摩の脱藩浪士・有村兼清(かねきよ)でしたが、その他のメンバーは水戸の脱藩浪士たちでした(3月3日参照>>)。
天狗党は、まさに、彼らの遺志を継いだ集団・・・そんな彼らが、直弼のお膝元=彦根を通過するなど、摩擦を呼びにいくようなものです。
天狗党の今回の西行は、この挙兵自体が、弱腰で開国してしまった幕府を再び尊王攘夷の姿勢へと方向転換させる目的のやむにやまれぬ挙兵であった事、また、そのために起きてしまった水戸藩の内紛の状況を慶喜に説明したいがための行軍です。
けして、幕府と戦うために西に向かっているわけではありません。
それを証明するためにも、無用な争いは避けねばなりません。
即日、出発した天狗党は、12挺の大砲、9挺の五十目筒、そのうえ馬まで連れて、翌・3日には長嶺へ、続いて、すでに1m以上の積雪に見舞われていた越前との国境・烏帽子(えぼし)峠越えを決行します。
4日に峠を越えた天狗党は、6日に木本(福井県大野市)を過ぎ、9日には今庄宿(福井県南条郡)に到着し、雪道の行軍で乱れた隊を整えますが、常陸(茨城県)の大子(だいご)を出発した時の1000名は、度重なる戦乱と険しい行軍のため、約800名ほどになっていました。
その後、2mの積雪となっている木ノ芽峠を越えて11日には新保宿(福井県敦賀市)に到着しました。
ここで、南2km先の葉原(はばら)に、金沢藩の兵が陣を敷いている事を知った耕雲斎は、「この行軍が慶喜に嘆願するための京都行きであり、沿道の諸藩と戦う意志はないので、藩内を通行する許可をいただきたい」との書状をたずさえて、金沢藩士・永原甚七郎(ながはらじんしちろう)らと面会します。
立場上、尊王攘夷派と幕府(保守)派に分かれているとは言え、どちらも、国の行く末を憂う忠義なる武士同士・・・したためられた書面からあふれ出る思い、藩の内紛と過酷な峠越えでボロボロになった姿、それでいて武士の誇りを失う事のない毅然たる立ち居振る舞い・・・
甚七郎らは、彼らの姿に深く感銘を覚えます。
しかし、甚七郎は、そんな彼らに残酷な知らせを報告しなければなりませんでした。
それは、彼らが最後のの頼みとしている慶喜が、天狗党征討軍の総督として、すでに琵琶湖の北側の海津(滋賀県マキノ町)まで来て、本営を設置しているというものでした。
愕然とする天狗党隊士たち・・・
この日まで、主君と疑った事のなかった人物が、突然、敵の・・・それも総大将となっている・・・
この悲しい現実は、同じ武士として甚七郎らの涙も誘い、甚七郎は、ありったけの力を活用して、慶喜と天狗党の間を取り持つ事を、耕雲斎に約束したのです。
その言葉を聞いた耕雲斎は、慶喜宛ての嘆願書と始末書を書き、甚七郎に託しました。
そして、まもなく・・・耕雲斎の満願の思いがこもった書状を手に、一路、海津へと、降りしきる雪の中をひた走る甚七郎の姿がありました。
天狗党の運命やいかに・・・と、この続きのお話は、天狗党の今後を決める軍儀も含め、耕雲斎が3度目にしたた書状を徳川慶喜が受理する12月21日のページへどうぞ>>
■ G 天狗党・武田耕雲斎〜悲しみの降伏状 2009年12月21日 (月)
元治元年(1864年)12月21日、天狗党・総大将の武田耕雲斎の降伏状が、天狗党征討総督の徳川慶喜に受理されました。
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これまでの天狗党のお話は・・・
外国からの圧力に屈し、開国をしてしまった弱腰の幕府に対して、元治元年(1864年)3月に、今は亡き水戸学の権威・藤田東湖(とうこ)の息子・藤田小四郎を中心に、尊王攘夷を掲げて決起した天狗党は、その後、幕府軍や水戸藩内の保守派の諸生党などと関東にて転戦しますが、諸生党に水戸城を占領された事で、関東での活動に限りがあると感じ、新たな総大将・武田耕雲斎(こううんさい)のもと、水戸藩の現状と幕府の方向転換を訴えるべく、亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)のいる京都へと旅立ち、下仁田戦争、和田峠の戦いを経て、美濃(岐阜県)・萎靡(いび・岐阜県揖斐郡)宿に到着・・・ここで、面会に来た中村半次郎の勧める薩摩藩の前面支援を辞退し、北まわりのルートで雪の木ノ芽峠を越えた12月11日、この先の通行許可を金沢藩に求めますが、ここで、頼みの綱であった慶喜が、天狗党征伐の総督として琵琶湖の北側の海津(滋賀県マキノ町)まで来ている事を知らされ、がく然とするのです。
くわしくは、それぞれの下記リンクからどうぞ▼
・水戸学&尊王攘夷については(10月2日参照>>)
・3月27日 :天狗党・結成(3月27日参照>>)
・4月10日 :日光東照宮で声明発表(4月10日参照>>)
・7月9日 :下妻夜襲(7月9日参照>>)
・10月25日 :武田耕雲斎が総大将に(10月25日参照>>)
・11月16日 :下仁田戦争(11月1日参照>>)
・11月20日 :和田峠の戦い(11月20日参照>>)
・12月2日 :揖斐宿で中村半次郎が面会(12月2日参照>>)
★行軍ルート図はコチラ>>(別窓で開きます)
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そもそも天狗党の西行行軍は、先代藩主の息子である慶喜に嘆願するための行軍であり、途中の戦いも、その行軍を阻止されたための戦い・・・だからこそ、すんなりと道を開けてくれた藩とは、何のモメ事もなく通過し、ここまでやってきたのです。
ところが、その頼むべき相手が討伐軍の総督・・・これでは、もう面会する意味はありません。
天狗党と対面して水戸藩の現状を聞き、彼らの理念を聞き、その武士らしく、き然とした態度に感銘を受けた金沢藩士・永原甚七郎(ながはらじんしちろう)らは、彼らと慶喜の間をとりもつ事を約束し、罪人としてではなく、客人として接しました。
それに応えた耕雲斎は、早速、嘆願書と始末書をしたため、その満願の思いが込められた書状を持って、甚七郎らは雪の近江をひた走ります。
しかし、その書状を受け取った慶喜は、「天狗党は賊徒である」として、書状を受け取る事すら拒否し、それどころか、「来たる12月17日に総攻撃をせよ」と金沢藩に命じました。
金沢藩の彼らから、その報告を聞いた天狗党・・・総攻撃の予定日の前日=16日に、最後の軍儀を開きます。
ここで、天狗党・大軍師の山国兵部(やまくにひょうぶ)は、
「ここから間道を抜けて山陰道を行き、かねてからの同盟に従って長州(山口県)とともに尊王攘夷の意志を貫くべきである」
と主張・・・数人が、この意見に賛同します。
そう、実は、この4年前の安政七年(万延元年・1860年)7月22日、長州藩の桂小五郎と、水戸藩の西丸帯刀(さいまるたてわき)・岩間金平(いわまきんぺい)らによって丙辰丸(へいしんまる)の盟約=成破同盟(せいはどうめい)なる物が交わされていたのです。
その年に桜田門外の変(3月3日参照>>)で井伊直弼(いいなおすけ)を暗殺したのが水戸浪士らであった事から、同じく尊王攘夷の意志を強く持つ長州の小五郎が、水戸藩の彼らに近づいて同盟を結んだ物で、長州藩の軍艦・丙辰丸の船上で交わされたので丙辰丸の盟約と言います。
また、別名の成破同盟の「成」は「大成の成」・・・つまり、現在の幕政を改革を成すという事で、「破」は「破壊の破」で、暗殺や襲撃や挙兵の事です。
この密約を結んだ時、かの西丸が「成すのと破壊するのとどっちが難しいやろ?」と、小五郎に聞いたところ、小五郎が「そら、破壊でしょう」と言ったので、「ほな、難しいほうを俺らがやるわ!」と言ったのだとか・・・。
その約束通り、彼らは、その後、英国公使館の襲撃や坂下門外での安藤信正の襲撃も決行したのです。
その後、京都で小五郎に会った小四郎も、「頑張ってね〜」と激励され、軍資金として500両も支援してもらっていたのですから、ここで、長州を頼ろうというのも一理あります。
しかし、マジメ一筋で実直な耕雲斎には、主君同様の慶喜に弓を引く事など到底できません。
結局、耕雲斎の意見に小四郎も賛成した事から、協議の末、天狗党は、このまま降伏する事に決定したのです。
翌・17日、耕雲斎が書状をしたため、再び甚七郎らがひた走ります。
さすがに今度は、その内容を確認した慶喜でしたが、そこには、水戸藩の現状と、それにともなう挙兵へのやむにやまれぬ事情が書いてあったため、「内容が降伏になってない!」と激怒・・・やむなく、耕雲斎は再び書状を書き直し、元治元年(1864年)12月21日、その内容に満足した慶喜が、やっと受理したのです。
最後の降伏状には、弁明など一切なく、
「武装して各地をウロウロして、周囲を動揺させ、大きな罪を犯してしまった事は、申し訳ありません。
深く反省して、一同、皆、降伏しますので、どのようにでも処置なさってください」
書状に「降伏」の文字が入っていて、さぞかし、慶喜も満足したようですが、この書状は、慶喜の御用人が書いた下書きを耕雲斎が写しただけだったなんて話もあります。
ただ・・・
「願い事を聞いていただく事ができないという事は充分わかりました」
とか、
「賊徒の汚名を受ける事は悔しい」
とか
「武士の情けで、どうか心情を汲み取ってください」
とか、ほんの少しだけでも、書けた事がせめてもの救いかも知れません。
この後、天狗党は金沢藩預かりとなり、敦賀へと移送されますが、以前と変わらず、金沢藩はいたって親切・・・3ケ所のお寺に宿泊する彼らには、食事は充分に与えられ、新しい衣類ももらい、翌・慶応元年((1865年)の元日には、鏡餅や振る舞い酒も用意され、皆、大いに喜んだと言います。
しかし、この事が、かの甚七郎をも巻き込む、悲しい結末へと導いてしまうのです。
そう、年が明けた1月18日、彼らは幕府へと引き渡され、その待遇は一変・・・と、なるのですが、そのお話は、天狗党最期の日となる2月4日のページへどうぞ>>。
■ H 早すぎた尊王攘夷〜天狗党の最期 2010年2月 4日 (木)
慶応元年(1865年)2月4日、敦賀・来迎寺の刑場にて、武田耕雲斎・以下、天狗党の面々が処刑されました。
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ペリーの黒船来航(6月3日参照>>)以来、尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を敬い外国を討つ)か佐幕(さばく・幕府を支持)かで揺れる日本国内・・・そんな中、水戸学の聖地だった水戸藩で、尊王攘夷の魁(さきがけ)となって蜂起したのが天狗党でした。
天狗党については、これまで度々書かせていただいてますので、まだの方は、是非とも、この機会に、順を追って読んでいただくとありがたいです。
・水戸学と尊王攘夷について>>
・3月27日 :藤田小四郎が筑波で天狗党・挙兵>>
・4月10日 :日光東照宮にて声明発表>>
・7月9日 :下妻夜襲>>
・10月25日 :武田耕雲斎を迎え新生・天狗党>>
・11月1日 :京都へ発つ 11月16日:下仁田戦争>
・11月20日 :和田峠の戦い>>
・12月2日 :揖斐(いび)宿で中村半次郎と面会>>
・12月21日 :慶喜が天狗党の降伏状を受理>>
・行軍ルート図>>別窓で開きます
上記の通り、関東各地で転戦した天狗党でしたが、保守派に牛耳られた水戸藩の現状と、尊王攘夷の精神を訴えるべく、亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)に会いに京都へと行軍します。
ところが木ノ芽峠を越えた新保宿(福井県敦賀市)で、ここを守る金沢藩から、その慶喜が天狗党討伐軍の総督となっている事を知らされ、「主君筋に弓をひく事はできない」と、やむなく降伏を決意したのです。
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12月21日、総大将・武田耕雲斎(こううんさい)の書いた降伏状が、やっとこさ受理された天狗党ですが、その思想は違えど、彼らの、純粋に国を思う気持ち、武士としてのき然とした態度に心打たれた金沢藩士・永原甚七郎(ながはらじんしちろう)は、彼らを罪人としてではなく、客人待遇で接待し、敦賀の3ケ所の寺に分宿させて、その後の処置を待ちました。
しかし、年が改まった慶応元年(1865年)1月18日、天狗党への待遇は一変します。
かねてから、天狗党の討伐を諸藩に指示していた幕府名代・田沼意尊(おきたか)に引き渡され、その田沼が、彼らの処分を一任される事になったのです。
真ん中に用をたすための大きな壷が置かれただけの、真っ暗な肥料用の土蔵に4〜50人ずつ押し込められ、耕雲斎ら主要メンバー以外は、皆、足かせがはめられるという屈辱の待遇・・・
やがて、2月1日に形ばかりの取調べが行われた後、わずか3日後の慶応元年(1865年)2月4日から、順に処刑が開始されたのです。
土蔵から引っ張り出された後、敦賀の町外れにある来迎寺へ連れて行かれ、境内に掘られた5ヶ所の穴の前に、並んで座らされたところを次々に斬られ、遺体はその穴の中に投げ込まれていく・・・そう、彼らは、武士として切腹する事さえ許されなかったのです。
これは、総大将の武田耕雲斎も、発起人の藤田小四郎も、大軍師の山国兵部(やまくにひょうぶ)も同じでした。
ただ、彼ら主要メンバーは、その首だけを塩漬けにされ、水戸へと運ばれましたが・・・。
・死罪=352人
・遠島=137人
・追放=187人
・水戸渡し=130人
・永厳寺(えいげんじ)預かり=11人
結果・・・最後まで天狗党に属し、金沢藩から幕府に引き渡された818名のうち、わずか1名を残し、817名が刑に服すという悲惨なものでした。
ちなみに、その1名というのは、農民であった夫と息子の天狗党参加を聞き、自ら行軍に付き添った57歳の市毛みえという、ここまで残ったただ1人の女性でしたが、蔵から出された後、水戸へと送られますが、そこで牢に入れられた後、衰弱したために、故郷の村へと戻され、まもなく死亡したとの事・・・。
ここに、天狗党は消滅します。
しかし、犠牲者は彼ら天狗党だけではありませんでした。
天狗党の態度に感銘を受け、慶喜との間を取り持とうと奔走した、あの金沢藩の永原甚七郎です。
天狗党を幕府に引き渡すのは、藩として当然の事で致し方ないのですが、彼がなまじ武士の情けをかけて客人待遇で接した事によって、「天狗党に、叶わぬ希望を抱かせてしまったのではないか?」と、彼は悩み続けるのです。
もし、甚七郎が、幕府側に立つ人間として、厳しく彼らに接していたら、彼らは降伏などせず、一旦撤退して再起できたのではないか?という事・・・
現に、以前書かせていただいたように、最終決断の会議では、軍師の兵部から、「このまま、さらに西へと山口まで撤退して、同盟(丙辰丸の盟約)を結んでいる長州とともに起つ!」という案も出ていたわけです。
「そんな彼らの判断を鈍らせたのは、自分の安易なやさしさだったのではないのか?」と・・・
第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が、第二次長州征伐を朝廷に打診するのは、天狗党の処刑からわずか3ヵ月後(5月22日参照>>)・・・その半年後には薩長同盟が成立し(1月21日参照>>)、さらに半年後には、なんとその長州が幕府相手に勝利します(7月27日参照>>)。
もしも、天狗党が長州へ向かっていたら・・・甚七郎が心を痛めたのも無理はありません。
せめてもの償いに・・・と甚七郎は、自らの家の菩提寺に「水府義勇塚(すいふぎゆうづか)」という慰霊碑を建立したりしますが、その心の傷が癒える事はなく、最後には精神異常となって亡くなってしまいます。
一方では、彼らの処刑の様子を聞いた慶喜や水戸藩主の徳川慶篤(よしあつ)は、「安心したよ」と、ただただ、天狗党の騒ぎが収まった事のみに興味を示したご様子でしたが・・・
斬首の太刀取りを命じられた福井藩が、それを断ったというほど悲惨な処刑は、人々に恨みを残す結果となり、天狗党の争乱は、これで終る事なく、まして、戊辰戦争で終る事もなく続いてしまうのです。
明治の世となって、年少ゆえに死罪を免れた天狗党の生き残りが、次々と預かり刑から戻り、「明治は元治より残虐」と称される復讐劇の幕が切って落とされる事になるのですが、そのお話は、水戸藩内の騒乱が終結する10月6日のページ【天狗党最後の戦い〜水戸藩騒乱・松山戦争】>>で見ていただくといたしまして・・・。
ところで、以前、天狗党がブログ初出の時に(12月17日参照>>)、そのおおまかな経緯とともに、武田耕雲斎の辞世をご紹介させていただきました。
♪咲く梅の 花ははかなく 散るとても 馨(かおり)は君が 袖にうつらん ♪ 武田耕雲斎・辞世
「いつか、この思いをわかっていただきたい!」 いや、「わかっていただけるに違いない」との思いを込めて・・・耕雲斎の願った梅は、その香りを移すどころか、維新という立派な実となったわけですが・・・
一方、最後まで抵抗を主張しながらも、総大将・耕雲斎の意に従って、ともに降伏した大軍師・山国兵部の辞世は・・・
♪ゆく先は 冥土の鬼と 一(ひ)と勝負 ♪ 山国兵部・辞世
最後まで戦おうとした彼らしい辞世です。
そして、もともと最初に天狗党を立ち上げた藤田小四郎の辞世は・・・
♪かねてより 思いそめにし 真心(まごころ)を 今日大君(たいくん)に つげて嬉しき ♪ 藤田小四郎・辞世
その死を前にして恨み言一つ残さず、その願いが叶わずとも、話を聞いてもらっただけで満足だと・・・
わずか24歳の未来ある若者に、このような辞世を残させる時代とは・・・
またしても、多くの悲しみの上に大事が成る事を、決して忘れてはいけないのだと痛感させられます。
【課外講座:天狗党の跡を訪ねる群馬・長野の旅】
http://www.geocities.jp/senokatsu555/benkyou/16wakuwaku07/historyu/historyu.html
このサイトは前の【天狗党顛末記】の一部【天狗党の跡を訪ねる群馬・長野の旅】を扱った旅行記で、多少は詳しく出ています。 従ってコピーとしては全部収録してあります。
【コンノート殿下お手植えの松】
コンノート殿下は、ヴィクトリア女王の三男で、イギリス国王ジョージ5世の従弟。 明治から大正に年号が変わった年(1912年)に、国王の代わりに明治天皇の葬儀に参列するため来日。
その際ここ飯田に来られたようなんですね。 この今宮神社をお参り、散策された後、天竜川下りをされたそうです。
天竜川下りってそんな昔からやってるんですね〜。 そういえば、来年2012年は元号が大正に変わってからちょうど100年!!
戦争になってから敵国となったためにこの松は伐採撤去されました。 現在ある記念石碑はお宮で目に触れないように隠してあったそうです。
これから二年参りや参拝に行かれる方、ぜひ足を止めて見てみて下さい。
以下、天竜舟下り鰍ウんからいただいた資料の抜粋です。
9月19日の夜行列車で飯田橋駅を出発(当時の中央線始発駅)20日未明辰野駅到着。県庁差し回しの車で飯田町へ向かわれ、午後1:50飯田町に着かれ、1万余人の出迎えを受けられた。同夜は扇町「蕉梧堂」に宿泊。
21日6:30に自動車でご出発。鼎・松尾・竜丘を経て7:00に時又到着。9:10に乗船され、千余人の近村村民や小学生が日英両国旗をふりかざして奉送した。
遠州二俣町鹿島(天竜市)まで下られた、12時間の船旅であった。
時又で出航の時、村役場と通船会社で選ばれた水泳の達者な若者10名が船頭としての役目にあたった。みな白装束で奉仕した。
英国国家が奉送の小学生によって歌われ、途中の大下条御供では両岸で多くの小学生が英国国旗と日の丸を振って歓迎した。
1906年(明治39年)2月19日、コンノート公アーサー王子とガーター勲章使節団の一行を乗せたセイヴォリー館長率いる英国海軍の軍艦ダイアデム号が、夜明けとともに横浜港に入港します。 来日の目的は、英国の最高勲章であるガーター勲章を明治天皇に授与することにありました。
1905年(明治38年)8月12日調印された、第二次日英同盟により、インド及びインド以東の国々を含む東アジアでの紛争に備えて両国はこの先10年間協力体制を取ることを決めました。 イギリスの日本の公使館を大使館に昇格させることと、さらに明治天皇への敬意の印として、ガーター勲章を授与することを決めたのでした。これは日本を一等国と認めることを意味するものです。
ちなみに、1890年(明治23年)に日本を非公式に訪問し、観光と骨董品の買い付けに時間を費やしたことで有名なコンノート殿下は父親の方で、今回訪れたのは、その息子の方になります。父の方は当時インドで重要な任務に従事していたため、息子がこの大役を務めたということです。
【郊戸八幡宮】
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/nagano/iidasi/GoudoImamiya/goudo.html
東経137度49分12.83秒、北緯35度31分22.38秒に鎮座。
この神社は、JR飯田駅の北800m程の辺り、風越山麓の裾野に鎮座しております。神社の前は今宮野球場。後ろは子どもの森公園になっており、大変緑の豊かな、景色の良い神社です。
かつて境内は城山丘陵の南西、面積約五千坪の広さを占めており、前面の平地は「天王原」といわれ、千坪近い公園地になっていて、神苑地は老樹多く風趣に富み、殊更に社殿の背後にある城山丘の上からの眺望は雄大にして絶景であったと先達は記しています。
参拝の栞より
郊戸八幡宮由緒
御祭神 誉田別尊・息長帯比賣命・武内宿禰命
當八幡宮の創立は不詳なれども貞観年中山城国鳩嶺鎮座の後此の地に勧請すと傳ふ。久安三年郊戸庄五郷の總鎮守として時の領主の崇敬厚く社領百三十五石を寄進せらる。建久八年鎌倉幕府より社殿建立に寄進あり。武門武将崇敬、一般民衆の信仰極めて深く、優れた鎮座の位置、傳承の古さから希なる名社にして往古より霊験極めて顕著にして歴代の諸侯は藩費を以って社殿の造営維持経営をなし、祭禮には領主幣帛を奉り国家の安泰武運の長久、庶民の安寧と福祉を祈願せられた。社号につきては旧称郊戸八幡宮たりしが天保十二年郊戸神社と改称す。
明治五年郷社に列せられ、
昭和十九年県社に列せらる。
昭和五十八年八月歴史的由緒に鑑みて社名を郊戸八幡宮と改称す。
境内由緒書より。
郊戸神社碑
郊戸神社はもと今宮八幡宮と稱した。譽田別尊を主神とし息長足姫命・武内宿禰を配祀する。清和天皇貞観年中、或は近衛天皇久安三年の創建とも傳へ、古来武将の崇敬篤く衆庶の信仰また深かった。中世の領主坂西氏は守護神として奉斎し、後飯田城主毛利・京極両氏は神領を寄進し、小笠原・脇坂両氏また社殿を修造し、最後の領主堀氏は年頭春秋の例祭に親ら、または代参を立てて初穂を献し國土安泰萬民福祉を祈願し、社殿を再造。鳥居石垣を建設し、次第に昌盛に趣いた。幕藩政治終り復古維新となる明治五年郷社に列し、二十一年改築したのか、現在の社殿で域内の整備も行はれ、昭和十九年一月縣社に昇格したが、太平洋戦争後社格撤廃。宗教法人となり専ら氏子崇敬者の經營となる。本神社は風越山麓城山丘陵の南腹に鎮座し、老松古杉簇生し清楚森厳の間宏壮の社殿竝び建ち神苑また廣闊。加ふるに山頂の展望頗る雄大、近くは飯田市街の粉壁を、遠くは赤石の峻嶺を双眸に収め行楽の地、憩の場所として好適である。されば郡内外の参詣者常に絶えず、殊に秋祭の花火は有名で其日神苑内は立錐の餘地なく殷賑を極める。神域内に六十有餘の末社を有する如きは近郷に比なく、而も工人の信仰篤き聖徳太子碑、鍛冶石工の奉祀する金山神、染物師の祭る愛染神社等は民衆文化との交流が如何に著しいかを實證する。水戸義士甲子記念碑其他郷土の昔を物語る遺物も少ない。蓋し古くは歴代領主の外護あり、又神職並に氏子衆庶の精誠奉仕あり、以て今日に至る。尚ほ益社運の興隆を祈念して止まぬと云爾。
昭和三十七年九月
文学博士 日夏耿之介 題 額
下伊那史編纂主任 市村 咸人 撰竝書
「郊戸神社碑」の題字は飯田の名誉市民で詩人の日夏耿之介(こうのす け)がしたため、全604字の碑文は郷土史家市村咸人(みなと)が書いた。
由緒書や碑文等はこちら。
天保十二年郊戸神社と改称したと由緒書にありますが、天保年間には相次いで異国船の来航があったり、天保騒動・大塩平八郎の乱・蛮社の獄等太平の世が大きく崩れ始めた頃です。神社の前が「天王原」といわれたとあるので、この頃牛頭天王が祀られたのでしょうか、勝手な想像をすれば、明治政府から嫌われた牛頭天王は御祭神から外され、昭和の世になり目出度く「郊戸八幡宮」となったのかも知れません。
【今宮半平について】
http://www.imamiyahanbei.com/yurai.html
今宮半平は、300年の赤松、杉の木立に囲まれた850年以上の歴史をほこる今宮郊戸八幡宮(貞観2年創建 郊戸八幡宮 通称 今宮神社)の境内に位置しております。 経営をいたします渡邉家は代々、宮守とし郊戸八幡宮に仕えており、今宮半平の創業は不祥なれど、郊戸八幡宮の記録によると、明治5年には現在地において、春・秋の神社祭りに五平餅を提供する茶屋として営んでいたとあり、その記録を持って今宮半平の創業としております。実際には江戸時代以前より露店式の五平餅屋として営業していたようです。
今宮半平の名前の由来
今宮半平という名前の由来ですが、江戸時代、飯田下伊那地方は草相撲がさかんでした。郊戸八幡宮の境内地の野原(昭和26年に建設された今の飯田市営今宮野球場あたり)でも草相撲の大会がさかんに行われておりました。私共の五代前の当主も、「長〆半兵衛(おさしめはんべい)」のしこ名で参加し、この地域での横綱でした。その横綱である当主は、ここの地籍が今宮でしたので「今宮の半兵衛さ」と呼ばれておりました。その彼が営んでいる店ということで、いつしか「今宮の半兵衛さ」が店の愛称となり、現在の「今宮半平」になりました。半兵衛翁から記録の残る限りで現在5代目に至っております。
【郊戸八幡宮創立、貞観は平安時代前期で貞観大地震があったころです】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87 貞観地震 - Wikipedia
延喜元年(901年)に成立した史書『日本三代実録』には、この地震に関する記述がいくつか記されており、貞観11年5月26日(869年7月9日)の大地震発生とその後の被害状況については、次のように伝えている。
五月・・・廿六日癸未 陸奧國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝漲長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乘船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉
現代語訳(意訳)
5月26日20時、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・牆壁[3]などが多数崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。
上記の史料にある「陸奥國」の「城」は多賀城であったと推定されており、多賀城市の市川橋遺跡からは濁流で道路が破壊された痕跡も発見されているが、はっきり明記されているわけではないので異説もある。「流光如晝隱映」の部分は、地震に伴う宏観異常現象の一種である発光現象について述べた最初の記録であるとされる。
「去海數十百里」は原本では「去海數千百里」であるが、当時の1里 = 6 丁(約650 m)であるとしてもこれは喫驚せざるを得ずとし、「去海」は海岸から津波で浸水した城郭までの距離を表し、多賀城から湊までは50丁位(約5.5km)にも満たないから、「數十百里」(30 - 65 km?)が妥当であるとしている[4]。また、「數十百里」であるとしても正鵠を失ったものであるとし、これは「沿海數十百里」と読むべきとする説もある。
【朝日受永の寺社評価】
http://www11.plala.or.jp/samma116/hajimeni.html はじめに 阿智村史学会
http://www11.plala.or.jp/samma116/23/127.htm 朝日受永の寺社評価
〜 以下は要旨です (文責さんま) 〜
(1) 江戸時代のごく初期に、伊那郡の代官を務めた朝日受永(あさひじゅえい)という人がいる。彼は下条氏の元家臣で、下条氏没落後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い(1600)で功労があった。家康は500石の旗本に取り立てようとしたが、受永はそれを望まず上下伊那の神社仏閣への寄進を望み許された。
受永は寺社に石高を割り当て、更に朱印状を取る約束をした(「受永状」1601)。神社の最高は10石で、飯田の鳩ヶ嶺八幡宮(15石だが、うち5石は神宮寺分)、下条の大山田神社、辰野の矢彦神社、駒場の安布知神社の4社である。寺院では下久堅の文永寺(70石)、上川路の開善寺(35石)、赤穂の光前寺(30石)、大島山の瑠璃寺(25石)、飯田の大雄寺(20石)等が多いが、これらの寺院は「御目見へ衆」の格式があった。
48年後の慶安2年(1649)、ようやく徳川家光の朱印状が下付されたが、寄進高はほとんど受永状のまま引き継がれた。ところが、阿智地域の寺社のみ増額されている。
安布知神社(10石→10石)、阿智神社(0石→10石)、春日神社(3石→4石)、
木槌薬師(3石)・長岳寺(1石)→木槌薬師<別当長岳寺>(8石)、
浄久寺(5石→13石) <寺社名はいずれも現在のもの>
(2) 受永状での評価が朱印状に受け継がれ、明治維新までは寄進高が事実上の寺社評価になった。竜西地区について、受永状と朱印状の寄進高の一覧表を見ながら、受永の評価について考えたい。(資料は「伊奈郡寺社領之帳」による。最も正確である。)
「安布知神社」は由来が古く思兼命を祀るところから、「式内社阿智神社」と推定したのではないか。その後、昼神の「山王権現」が「式内社阿智神社」とわかり、同格の10石としたのではないか。飯田の大宮神社、郊戸(ごうど)神社、風越山上の白山神社などには全く寄進がない。大宮神社は長久寺の鎮守神、白山神社は麓の白山寺が別当で管理が一体、神仏混淆の時代のため寺院の付属物と見たのだろう。郊戸神社は当時荒廃していたようだ。木槌薬師は天正10年(1582)に兵火で焼かれたという観照寺の跡で、仏像を預かった長岳寺と合わせて8石となっている。
(3) 阿智地域の寄進高は優遇されているように感じるが、受永が駒場(または下条)辺りの出生とする文書があり、何らかの関係があったのかもしれない。逆に下久堅の文永寺では、受永の感情を害して減額されたという伝承がある。しかし、最高の70石という評価は妥当ではないか。
現存する受永状の発行日(平沢清人氏の調べ)を比べると同じ日付が何通もあり、離れた村へ受永が出向いて直接渡したとは考えられないが、評価の際には一通り回ってみたのだろう。残念ながら、阿智地域の受永状は一通も現存していない。
明治維新でこれらの朱印地は上知(政府の取り上げ)となったが、江戸時代の朱印領の石高は寺社の格付けとして今も生きている。なお、朝日受永は出生地だけでなく墓地も不明である。