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折々の記 2012 C

【心に浮かぶよしなしごと】

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  05 25 孝経(身体髪膚)(その三)
  05 26 元東京地検特捜部長の罪状・山崎行太郎の毒蛇通信

 05 25 (金) 孝経(身体髪膚)(その三)

孝経(その三)
  http://www.sunrain.jp/zhuzi_baijia/xiaojing.html
  諸子百家争鳴 - 孝経 1巻18章

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■『孝経』について  …
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『孝経』は、儒教の経典である「十三経」の一に数えられる小篇。 著者は曾子の門人とされる。
孔子と曾子の問答を記述したもので、その名が示すように、「孝」こそが道徳の根本であると説き、
天子から庶人まで、諸階級に応じた孝道を論じ、父母・兄弟、そして先祖への仕え方を述べる。
『孝経』のテキストには「今文」18章と「古文」22章の二種があり、現行本は今文系を主流とする。

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■本頁について
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『孝経』(今文孝経) 18章のすべてについて、各章の概要・重要文句を抄出した。
各篇の章立て・書き下し・注釈は、『孝経 全訳注』(加地伸行/講談社学術文庫)による。

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■孝経(こうきょう) 1巻18章 1,903字
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01 開宗明義章 第一(かいそうめいぎ) - 宗を開き義を明らかにす
├01 仲尼(ちゅうじ・孔子)居(やす)く、曾子(そうし)侍(じ)す。
├─ 子曰(のたまわ)く、先王 至徳の要道(ようどう)有りて、以て天下を順(おさ)む。
├─ 民 用(もっ)て和睦し、上下(しょうか)怨み無し。汝これを知るか、と。
├02 曾子 席を避けて曰く、参(しん・曾参)や敏(と)からず、何ぞ以てこれを知るに足らん、と。
├─ 子曰く、夫れ孝は、徳の本なり。教えの由りて生ずる所なり。 復(かえ)り坐(お)れ。吾、汝に語(つ)げん、と。
├03 身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり。 →身体髪膚
├─ 身を立て道を行い、名を後世に揚(あ)げ、もって父母を顕(あら)わすは、孝の終りなり。
└─ 夫れ孝は、親に事(つか)うるに始まり、君に事うるに中(なか)ごろし、身を立つるに終る。

02 天子章 第二(てんし) - 天子の孝道
├01 親を愛する者は、敢えて人を悪(にく) まず。 親を敬する者は、敢えて人を慢(あなど)らず。
└─ 愛敬 親に事(つか)うるに尽きて、而して徳教 百姓(ひゃくせい)に加わり、四海に刑(のっと)る。 蓋(けだ)し
    天子の孝なり。

03 諸侯章 第三(しょこう) - 諸侯の孝道
├01 上(かみ)に在りて驕(おご)らざれば、高くとも危うからず。節を制し度を謹めば、満つるとも溢(あふ)れず。
└─ 富貴 其の身を離れずして、然る後に、能く其の社稷(しゃしょく)を保ち、其の民人を和(ととの)わしむ。蓋(けだ)し
    諸侯の孝なり。

04 卿大夫章 第四(けいたいふ) - 卿大夫の孝道
├01 法に非ざれば言わず、道に非ざれば行わず。口に択言(たくげん)無く、身に択行(たくこう)無し。 →択言択行
└─ 言(こと) 天下に満ちて口過無く、行い 天下に満ちて怨悪無し。三者備わりて、然る後、能く其の宗廟を守る。
    蓋(けだ)し卿大夫の孝なり。

05 士章 第五(し) - 士の孝道
├01 孝を以て君に事(つか)うれば則ち忠。敬を以て長に事うれば則ち順。忠順失わずして、以て其の上(かみ)に事う。
└─ 然る後、能く其の禄位(ろくい)を保ち、その祭祀を守る。蓋(けだ)し士の孝なり。

06 庶人章 第六(しょじん) - 庶人の孝道
├01 天の道を用(もち)い、地の利を分(わか)ち、身を謹み用を節し、以て父母を養う。此れ庶人の孝なり。
└─ 故に天子より庶人に至るまで、孝 終始無くとも、及ばざるを患(うれ)うる者、未だこれ有らざるなり。

07 三才章 第七(さんさい) - 天・地・人の三才
├01 夫れ孝は天の経(けい)なり、地の義なり、民の行いなり。天地の経にして、民 是れこれに則(のっと)る。
├─ これに陳(の)ぶるに徳義を以てすれば、民 興(おこ)り行う。これに先んずるに敬譲を以てすれば、民 争わず。
└─ これを導くに礼楽を以てすれば、民 和睦す。 これに示すに好悪を以てすれば、民 禁を知る。

08 孝治章 第八(こうち) - 孝もて治むる
└01 生けるときには則ち親これに安んじ、祭るときには則ち鬼これを享(う)く。是を以て天下和平し、災害生ぜず、
    禍乱作(おこ)らず。

09 聖治章 第九(せいち) - 聖もて治むる
├01 天地の性、人もて貴しと為す。
├─ 人の行い、孝より大なるは莫し。孝は父を厳(たっと)ぶより大なるは莫し。父を厳ぶは天に配するより大なるは莫し。
├02 聖人厳ぶに因りて以て敬を教え、親しむに因りて以て愛を教う。聖人の教え、肅(おごそ)かならずして成り、その政
│   厳しからずして治まる。
├03 父母これを生む。続(つ)ぐこと、焉(これ)より大なるは莫し。
├─ 其の親を愛せずして他人を愛すること、これを悖徳(はいとく)と謂う。
├─ 其の親を敬せずして他人を敬すること、これを悖礼(はいれい)と謂う。
└04 君子、言(こと)は道(い)うべきを思い、行いは楽しむべきを思う。

10 紀孝行章 第十(きこうこう) - 孝行を紀す
├01 孝子の親に事(つか)うるや、居れば則ち其の敬を致し、養えば則ち其の楽しきを致し、
├─ 病には則ち其の憂いを致し、喪には則ち其の哀しみを致し、祭には則ち其の厳(おご)そかなるを致す。
└─ (中略)親に事(つか)うる者、上(かみ)に居りて驕(おご)らず、下(しも)と為りて乱れず、醜(しゅう・衆)に在りて争
    わず。

11 五刑章 第十一(ごけい) - 五つの刑罰
├01 五刑の属三千、而して罪 不孝より大なるは莫し。
└─ 君を要(おびや)かす者は上(かみ)を無(なみ)す。聖人を非(そし)る者は法を無す。孝を非る者は親を無す。此れ
    大乱の道なり。

12 広要道章 第十二(こうようどう) - 要道を広むる
├01 民に親愛を教うるは、孝より善きは莫し。民に礼順を教うるは、悌より善きは莫し。
└─ 一人を敬して千万人悦(よろこ)ぶ。敬する所の者は寡(すくな)く、而して悦ぶ者衆(おお)し。此れをこれ要道と謂
    うなり。

13 広至徳章 第十三(こうしとく) - 至徳を広むる
└01 教うるに孝を以てするは、天下の人父 為(た)る者を敬する所以なり。教うるに悌を以てするは、天下の人兄 為る者
    を敬する所以なり。

14 広揚名章 第十四(こうようめい) - 揚名を広むる
├01 君子の親に事(つか)うるや孝、故に忠 君に移すべし。兄に事えて悌、故に順 長に移すべし。家に居りて理(おさ)
│   む、故に治 官に移すべし。
└─ 是(ここ)を以て行い内に成り、而して名 後世に立つ。

15 諫争章 第十五(かんそう・諫諍) - 諫め争う
├01 天子に争臣七人有れば、無道と雖も、天下を失わず。諸侯に争臣五人有れば、無道と雖も、国を失わず。
├─ 父 争子(そうし)有れば、則ち不義に陥らず。 (中略)不義に当たれば、則ち子は以て父に争わざるべからず。臣は
│   以て君に争わざるべからず。
└─ 故に不義に当たれば、則ちこれに争う。父の令に従うのみなる、又、焉(いずくん)ぞ孝と為すを得んや。
    ・諌臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り、仏法の
    邪正は経文の明鏡に依る。(日蓮の北条時宗への御状より 文永五年十月十一日)

16 応感章 第十六(おうかん) - 応じ感ぜしむる
├01 身を脩め行いを慎むは、先〔祖〕を辱むるを恐るればなり。
└─ 孝悌の至れるは、神明に通じ、四海に光(み)ち、通ぜざる所無し。

17 事君章 第十七(じくん) - 君に事(つか)うる
└01 君子の上に事うるや、進んでは忠を尽くさんことを思い、退きては過ちを補わんことを思う。其の美を将順し、其の悪
    を匡救(きょうきゅう)す。

18 喪親章 第十八(そうしん) - 親を喪(うしな)う
├01 孝子の親を喪(うしな)うや、哭(こく)して?(い)せず。礼は容(かたちつくろ)う無く、言は文(かざ)らず。
├─ 美しきを服(き)て安んぜず、楽(がく)を聞きて楽しまず、旨(うま)きを食して甘(うま)しとせず。此れ哀戚(あいせ
│   き)の情なり。
├─ (中略)喪、三年を過ぎざるは、民に終わり有るを示すなり。
├02 生けるに事(つか)うるに愛敬もてし、死せるには事うるに哀戚(あいせき)もてす。
└─ 生民(せいみん)の本(もと) 尽(ことごと)くし、死生の義備わる。孝子の親に事うるや終わる。

19 閨門章 第十九(けいもん) - 今文系には見られない章句。『古文孝経』では、広揚名章と諫諍章の間に置く。
├01 子曰く、閨門(けいもん)の内、礼を具(そな)えたるかな。父を厳(たっと)び兄を厳ぶ。
└─ 妻子臣妾は、猶お百姓(ひゃくせい)徒役(とえき)のごとし。(以上全文)

 05 26 (土) 元東京地検特捜部長の罪状・山崎行太郎の毒蛇通信

アンテナにかかってきたニュースを収録しておきます。



 http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/459.html
  ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK130 >
 佐久間達哉・元東京地検特捜部長は、何故、逮捕されないのか?

 ■文芸評論家・山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』2012-05-24

佐久間達哉・元東京地検特捜部長は、何故、逮捕されないのか? 久しぶりに「佐久間達哉」の名前を見た。あの「キャメル男」である。その佐久間達哉が、近く、ひそかに「処分」されるということらしい。それにしても捜査報告書偽造が暴露された田代検事といい、逮捕されることもなく、簡単な「処分」で済まされるとは、なんとも不可解である。検察は腐っている。特に「東京地検特捜部」は、戦後、闇物資取締りを理由に、「米占領軍」が設置した治外法権的秘密捜査機関である。即刻、米軍主導の植民地支配に反抗する健全な日本国民を、ひそかに監視・捜査・逮捕する怪しい組織は、解体すべし。それが日本独立への第一歩である。そして新しい日本国と日本国民のための司法機関として再スタートすべし。そのためにも、アメリカの威光をバックに、「小沢一郎事件」をデッチアゲ、日本国民がようやく達成した「政権交代」を台無しにした「国賊」である佐久間達哉を逮捕し、法廷に引きずり出し、国家反逆罪で処分すべし。言うまでもなく、「小沢事件・小沢裁判」を実質的に主導したのは東京地検特捜部の当時の佐久間達哉部長である。佐久間達哉なしには、おそらくこの事件も裁判もなかったし、そして「検察スキャンダル」も「最高裁事務総局スキャンダル」も発覚しなかつた。むろん、民主党による「政権交代」も、今のようにほとんど政権交代の意義が空中分解し、民主党自身が自滅的壊滅状態になることもなかった。その意味で、政権交代を目前にして、次期首相の可能性の高い「小沢一郎民主党代表」をターゲットにして「国策捜査」を実行し、小沢一郎を「代表辞任」に追い込み、しかも執拗に捜査を繰り返し、結果的に裁判にまで持ちみ、有能な政治家・小沢一郎の政治生命を絶つような「検察の暴走」を繰り返した佐久間達哉の責任は、日本の現在にとっても、日本の将来にとっても、きわめて重いと思われる。しかも最近、明らかになったことだが、佐久間達哉が、「偽造捜査報告書問題」にも深くかかわっており、むしろ彼の指導で、偽造行為は行われた可能性が高い。検察審査会に提出された「偽造捜査報告書」には、検察審査会に提出されたものとは別の、もう一つ裏の「捜査報告書」があり、こちらは、最高検に提出されたらしい。小沢一郎を、検察審査会を使って「起訴」に持ち込むために、偽造行為に及ぶほど、必死だったのだろう。佐久間達哉を中心とする当時の小沢事件・小沢裁判を担当した東京地検特捜部の面々の「犯罪」が明らかになつたわけだが、その責任は重いと言わなければならない。佐久間達哉の「犯罪」を有耶無耶にしてはならない。

 ■起訴誘導?陸山会捜査報告、特捜部長が大幅加筆
  (読売新聞2012年5月5日11時36分)
  http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120505-OYT1T00181.htm


陸山会事件の捜査報告書の虚偽記載問題を巡り、当時の東京地検特捜部長だった佐久間達哉検事(55)が、同部副部長が作成した別の捜査報告書について、政治資金規正法違反に問われた小沢一郎民主党元代表(69)(1審無罪)の関与を強く疑わせる部分にアンダーラインを引くなど大幅に加筆していたことが分かった。

 この報告書は、虚偽記載のあった報告書とともに、元代表を「起訴すべきだ」と議決した東京第5検察審査会に提出されていた。検察当局は、当時の特捜部などに同審査会を起訴議決に誘導する意図があったかどうか慎重に調べている。

 副部長が作成した報告書は、元特捜部の田代政弘検事(45)が2010年5月17日に元代表の秘書だった石川知裕衆院議員(38)(1審有罪、控訴)を任意で事情聴取した後に作成した虚偽記載のある報告書のほか、石川被告や元代表らの供述調書などの証拠を再評価したもの。

 関係者によると、報告書は全部で約20ページあり、政治資金収支報告書の虚偽記入について、元代表と石川被告らの共謀を肯定する要素と否定する要素の両論が併記されている。当時の副部長が特捜部長だった佐久間検事宛てに作成したが、佐久間検事は自ら、田代検事が作成した報告書の虚偽記載部分にアンダーラインを引いたり、供述内容を書き加えたりしたという。



      http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/331.html
         「検察の罠」5月26日発売決定  参議院議員 森ゆうこ
         阿修羅の情報ででは今日「検察の罠」が発売されます。アマゾンへ発注しました。




 http://www.mag2.com/m/0001151310.html
 週刊・山崎行太郎の毒蛇通信

「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認められ、文壇や論壇へ進出。「小泉・竹中構造改革」批判や「沖縄集団自決裁判」批判で、曽野綾子や小林よしのり、及び保守論壇の守旧派を徹底批判。最近は、「官房機密費」問題から「沖縄米軍基地」批判、「保守論壇の劣化」批判・・・等、文壇・論壇の沈滞と劣化を批判し続けている。というわけで、「思想家・山崎行太郎のすべて」がわかるメルマガ「週刊・山崎行太郎の毒蛇通信」を読もう!!!

【月額525円】 1配信あたり約 105円

【著者紹介】 山崎行太郎(yamazaki-koutarou)
文藝評論家or哲学者。 慶大大学院(哲学専攻)修了。東京工業大学、埼玉大学を経て、日大芸術学部講師。著書・論文→『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『佐藤春夫と大逆事件』『柄谷行人論』『保守論壇の「沖縄集団自決裁判」騒動に異議あり!』。現在『澪漂』に「丸山真男と小林秀雄」、『月刊日本』に「月刊・文芸時評」連載中。

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はじめに。あるいは反時代的考察
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★山崎行太郎です。メルマガ「週刊・山崎行太郎」の23号です。今月から、『火曜日配信』『ニュース欄』に変更しました。暗中模索の試運転期間も過ぎました。これから、いよいよメールマガジンによる本格的な言論・思想活動を展開していきたいと思います。今回から長編の評論・論文も掲載していきますいろいろ問題もあると思いますが、小生の言論・思想活動の拠点としての「週刊・山崎行太郎」を、今後ともよろしはくお願いします。

★先週は、「小沢一郎支援」「検察批判」「菅内閣批判」のデモや講演会、集会が集中的に開かれました。この「検察批判・小沢支援デモ」は、最初、ネットやブログを通じて集まった素人中心の手作りデモとして始まったようですが、あっという間に全国的に飛び火し、大きなウネリとなりつつあります。私も、このデモの存在をネットで知り、一兵卒として参加しました。私にとっても初めてのデモでした。しかも先週になって、川内博史、辻恵、鈴木宗男、三井環、植草一秀、副島隆彦、宮崎学をはじめ、民主党の代議士達や評論家、ジャーナリスト、弁護士等をも巻き込んで、さらに発展的に拡大しつつあり、今後の日本の政治を論じる上で無視できないものになってきたと思います。未だに、テレビや新聞などマスコミは、このデモや集会を黙殺しようとしていますが、すでに一部の新聞(産経新聞、東京新聞…)などは、黙殺できなくなり、小さい記事ではあるが報道し始めたようです。しかも、このデモの「テーマ」でもある「政治家・小沢一郎」は、このネットやブログによる政治運動を重視しはじめたらしく、進んでニコニコ動画に出演したり、ビデオレターによって集会に参加したりしはじめました。マスコミや検察から目の敵にされ、しかもそれに迎合する一部の民主党の政治家達によって「脱小沢」なる言葉と共に、政権から排除されている小沢一郎ですが、おそらく小沢一郎がこのまま終わるとは思えません。田中角栄の時代とは違います。小沢一郎はネット時代の最初の国民政治家という意味で、貴重な存在です。逆に、マスコミには歓迎されても、ネット世論の世界で嫌われる政治家は、これから生きていくことは出来ないでしょう。今、その転換期です。

★学問、思想、言論の世界でも同じような変化が起きています。佐藤優、植草一秀、副島隆彦、宮崎学らの新著が店頭に並び、飛ぶように売れているようです。これに対して、これまで論壇やジャーズムの主役だった思想家や評論家達の存在感が急に薄くなり、今にも消えそうになってきました。テレビや雑誌でお馴染みの小林よしのり、西部邁、中西輝政、桜井よしこ、宮崎哲弥、福田和也…、あるいは姜尚中、田原総一郎、藤原帰一…等の言論に、誰も注目しなくなりつつあります。彼等が、マスコミや論壇から消えるのも時間の問題でしょう。これは、何を意味するのか。大きな変化が学問、思想、言論の世界にも起りつつあるということです。たとえば、植草一秀の新著『日本の独立』を出版した「飛鳥新社」は、以前は、さかんに小林よしのりや西部邁の本を出していた出版社です。出版社続きを読む も、商売ですから、いつまでも、売れなくなっている小林よしのりや西部邁…とつきあっているわけにはいかないのでしょう。政治家だけではなく、思想家や評論家、ジャーナリストも「主役交代」「世代交代」の時代に突入しつつあるのです。私は、近く、『保守論壇、メッタ斬り』(仮題)という本を出版します。ご期待ください。

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論考・小林秀雄と丸山真男
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■体験の思想化について……

小林秀雄の沈黙。 小林秀雄が、文壇にデビューする以前に父親の死や、中原中也の「女」との恋愛や同棲、そして自殺未遂や家出など、疾風怒濤の青春時代を送っていることは、よく知られているが、そしてその青春時代の苛酷な体験や経験が、彼の文学的営為や思想に少なからぬ影響を与えていることは、言うまでもないことだが、小林秀雄自身はその体験や経験について、多くを語ろうとしなかっただけでなく、むしろ徹底的に語ることを死ぬまで拒絶している。われわれが、小林秀雄の波乱にとんだ青春時代の一端を知ることが出来るのは、小林秀雄の年少の友人である作家の大岡昇平や、小林秀雄の妹で、漫画『のらくろ』の作者として知られている田河水泡と結婚した高見沢順子の「回想録」を通してである。ところで、早い頃から、文芸雑誌の小林秀雄担当の編集者たちは、小林秀雄の回想録を欲しがったが、小林秀雄自身は、それに対して決して首を縦に振ることはなかった。つまり回想録の類の執筆を徹底的に拒絶し続けた。それは、文学者としては、異常なほどである。むろん、小林秀雄も、デビュー早々の頃は、まだ小説家として立つ意思を持っていたので、小説のようなものを、たとえば『一つの脳髄』や『Xへの手紙』等、幾つか残しているが、そこで、これらの波乱万丈な青春時代について、書こうとしなかったというわけではない。いや、むしろ積極的に書こうとしたと言っていいが、しかし書くことが出来なかった。小林秀雄は、その頃の事をこう書いている。

≪三年前父が死んで間もなく、母が喀血した。私は、母の病気の心配、自分の痛い神経衰弱、或る女との関係、家の物質上の不如意、等の事で困憊してゐた。私はその当時の事を書きたいと思つた。然し書き出して見ると自分が物事を判然と視てゐない事に驚いた。外界と区切りをつけた幕の中で憂鬱を振り回してゐる自分の姿に腹を立てては失敗した。自分だけで呑み込んでゐる切れ切れの夢の様な断片が出来上がると破り捨てた。≫(注一)

私は、小林秀雄の批評の成立にとって、もっとも重要な内的体験の一つは、父親の死という体験であろうと思っているが、この『一つの脳髄』という作品でも父親の死が重要な問題として描かれているわけだが、ついでに言うと、ここで語られている失敗した作品とは、実は『蛸の自殺』という小林秀雄の実質的な小説の処女作で、そこでも、小林秀雄は、父親の死や女との関係などを書こうとしていたらしい。では、その『蛸の自殺』はどういう小説だったのだろうか。その小説の一部を引用してみる。

≪兎に角、父の死で一番参つたのは母である事は事実だつた。謙吉か妹の兎もすれば墜入り勝の甘い感傷に比べれば、母の悲しみはもつと深いものであつた。死といふ事実を目の前に見せつけられた事は同じであるが、其の感じ方は自ら異つて居なければならなかつた。殊に病気になつてからは、死の影から逃れよう、先の事は勉めて考へまい--と云ふ母の努力が痛ましく感ぜられて、よく妹が無神経に母の前で父の話をするのをハラハラし乍ら聞いては母の前で成可くさう云ふ話に触れまいと努める、謙吉も、時に依つて、「死に度い」などと捨鉢な気持を露骨に表はす母に対しては、母がひそかに期待して居る月並な慰めの言葉も口に出す気になれず、唯、厭な気持でむつつりとして居るより外仕方がなかつた。≫

≪今夜は母の咳が多い、---彼は晩く床に就いたが寝附かれ無かつた---咳の音、黴菌が群をなして蚊帳の中で渦巻いて居る様だつた。謙吉は息苦しさに、何度も寝返りを打つた。若し俺が伝染したら---俺みたいな者に、落附いて養生するなんて云ふ事は不可能だ。だから必度死ぬ---簡単に死ぬと定めて終つた空想が、単なる空想でない事に想到してドキンとした。必度死ぬ---馬鹿、大体こんなに無闇と興奮するのが善くないんだ、謙吉は蕎麦を食べた後で、自分の胃袋を想像して見る様な鮮かさで、興奮で充血した肺尖の形を頭に画いた。而して残忍な快感からその上に毛虫の様な黴菌を想像して這はせて見たりした。≫ ( 注二)

これらの文章から分かることは、小林秀雄が、小説と言う形で、自分の体験や経験を忠実に再現しようと試みていることである。おそらくここに書かれていることは、事実そのものに近いだろうが、小林秀雄はこれ以上、書き続けることが、つまり小説家を目指しながら、小説を言語化し、完成することが出来なかった。何故だろうか。それは、小林秀雄が、余りにも正確な、そして厳密な表現というものを目指していたからだろうと思われる。小林秀雄は、ヴァレリーの『テスト氏』を翻訳しているが、そこにも「正確という病を病んでいた ……」という重要なフレーズがあるが、小林秀雄もまた、小説家になるには、余りにも研ぎ澄まされた、鋭敏な、そして時には病的とも言うべき自意識の持ち主として「正確という病を病んでいた……」のであり、そうであるが故に、その病が、適当な、要するに安易な「体験の言語化」、つまり「体験の思想化」を許さなかったのである。小林秀雄は、小説という「体験の思想化」を断念することによって、やがて、近代日本で最初の独創的な「批評家」になっていくのである。したがって、「自覚的な批評家」(江藤淳)となった小林秀雄は、以後、体験や経験を安易に語ることを、つまり体験や経験の思想化ということを、徹底的に拒絶し、そして断念することになる。これに対して、近代小説は、まさしく体験や経験の安直な言語化であり、体験や経験の思想化に他ならないが故に、小林秀雄は、それを拒絶し、そしてそれを厳しく批判することで、批評というものを作り出していくのである。回想録を書くこともまた、小説を断念した小林秀雄にとって、体験や経験の安易な言語化であり、それは彼の感受性が許さなかったのである。回想録を書いて、過去を回顧するぐらいなら、小説を書き、小説家になればいい。小林秀雄が若くして断念したものとは、小説を書くことであり、体験や経験を安易に思想化、言語化することだったのである。 つまり、小林秀雄の批評の文章が燦然と輝く時があるとすれば、それは、表面的には語られていないが、多くの苛酷な体験や経験が沈黙の形でその文章に封じ込められている時である、ということが出来よう。言い換えれば、言語化され、思想化されていないだけに、その体験と経験は、作品の背後に封じ込まれ、やがて文体を通して、激しい情熱とともに、われわれ読者の魂に迫ってくるのである。それこそがは、厳密な意味での「体験の思想化」、あるいは「経験の思想化」ということであろう。小林秀雄は、大東亜戦争開戦の前後に、時代論や情勢論から遠く離れるかのように、ドストエフスキー論に取り組んでいるが、『ドストエフスキーの生活』という長編評論の序文「歴史について」で、こう書いている。

≪従つて次の事はどんなに逆説めいて聞こえようと真実である。偉大な思想ほど亡び易いい、と。亡びないものが、どうして蘇生する事が出来るか。亜流思想は亡びないのではない。それは生れ出もしないのである。≫(注三)

■丸山真男の原爆体験の思想化について。

丸山真男もまた、小林秀雄と同様に、語るに値する貴重な体験の持ち主であるることが、今では、わかっている。それは、丸山真男の原爆体験、ないしは被爆体験と言われるものである。だが丸山真男は長い間、その原爆体験、ないしは被爆体験を誰にも語らず、隠し続けた。戦後思想も戦後文学も、言うまでもなく、戦争体験を安直に語ることから始まり、丸山真男はその思想潮流の頂点にいた人であるが、少なくとも丸山真男だけは、その戦争体験を、つまり原爆体験を、みずから、積極的に語ろうとはしなかったように見える。何故だろか。大いに疑問を感じるところだが、そこには、やはり他人には言えないような何かが隠されているのだろうか。といよりも、そこに、凡庸な戦後思想家、あるいは進歩思想家とは違うものが、つまり丸山真男をして丸山真男たらしめたものの存在の秘密があると言うべきかも知れない。われわれが、丸山真男に、他の凡庸な戦後思想家とは違う、「何か」を感じるのは、そういうところかもしれない。戦争体験を隠したまま、戦争体験を語らずに戦後思想を先導してきた戦後思想家……。はたしてそんなことは可能なのだろうか。しかし、それを可能にしたのが丸山真男なのである。言い換えれば、小林秀雄にもつながるような、「体験の思想化は可能か」という問題がここに横たわっている。そして小林秀雄も丸山真男も、素朴な「体験の思想化」を拒絶することによって、つまりメロドラマ(物語)としての素朴な体験を語らずに沈黙を守ることによって、最高度の「体験の思想化」を達成したのではないだろうか。丸山真男は、原爆体験を語り始めた頃、この問題を問うた藤高道也宛ての書簡で、少し感情的になりながら、こう言っている。

≪小生は「体験」をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風土(ナルシズム!)が大きらいです。原爆体験が重ければ重いほどそうです。もし私の文章からその意識的抑制を感じとっていただけなければ、あなたにとって縁なき衆生とおぼしめし下さい。なお、私だけでなく、被爆者はヒロシマを訪れることさえ避けます。私は6年前、勇をこして広島大学の平和科学研究所に被爆後はじめて訪れ、原爆と平和の話をしました。しかし被爆者ヅラをするのがいやで、今もって原爆手帖(ママ)の交付を申請していません。≫(注四)

これは、珍しく丸山真男らしくない感情的な物の言い方であるが、それ故に、かえって丸山真男の思想的本質を露にした言葉だと言っていいだろう。さて、この言葉から、丸山真男が、原爆体験を意識的に、そして意図的に語らなかったのだ、ということがよくわかるのだが、その上に、「被爆者ヅラをするのがいやで……」という過激な言葉まで使って、「原爆手帖」の交付も受けていないと強調しているわけだが、これは解釈の仕方によっては、被爆体験や原爆体験を大げさに語り、ヒロシマこそ平和運動の聖地として祭り上げようとする被爆体験者や原爆体験者、あるいはそういう戦後の平和思想を看板にすえている政治勢力への内部批判と言う言葉とも受け取れるはずである。私が、丸山真男という思想家を、戦後思想や戦後民主主義というイデオロギー的レベルで理解していては、丸山真男の存在本質を見失うだけでなく、丸山真男の思想さえも見失うことになると思うのは、こういう点を考えているからである。丸山真男は、安易に原爆体験を語ることを、「被爆者ヅラすること……」ととらえていたのであり、「小生は『体験』をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風土(ナルシズム!)が大きらいです。」という丸山真男の厳しい言葉の悪意は、原爆体験や原爆体験者にも、つまり凡庸な戦後思想にも戦後民主主義という思想にも向かっていたはずである、と私は考える。丸山真男が、原爆体験を素朴に語ることを拒絶し、沈黙した背景には、そういう丸山真男の思想的資質があったはずである。 凡庸な政治学者や思想家は、

≪原爆体験というものを、わたしが自分の思想を練りあげる材料にしてきたかというと、していないです。……≫(「普遍的原理の立場」―注五)

という丸山真男の告白を受けて、

≪丸山は原爆体験の思想化を犠牲にしてでも、政治学者として戦争体験を思想化することにこだわり続けけだのとではないか。≫(平野敬和「丸山真男と原爆体験」―注六)

とか、あるいは

≪丸山真男の謙遜な発言をそのままうけとることは危険である。≫(石田雄「戦争体験の思想化と平和論」―注七)

とか言っているが、いずれも、どこかピントが外れているように見える。 それでは、何故、戦後二十数年も経ってから、≪小生は『体験』をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風土(ナルシシズム!)が大きらいです≫と言う一方で、頻繁に原爆体験を語り始めることになったのだろうか。何が、丸山真男に、沈黙し、抑圧していた原爆体験を語らせることになったのか。疑問である。年齢だろうか、病気だろうか。私は、ここに、小林秀雄と丸山真男の思想家としての資質の「差異」があるように思うが、先走りは止めよう。

■八月七日の丸山真男……。

そこでまず、丸山真男の原爆体験について具体的に見てみよう。丸山真男は、敗戦間際の一九四五年三月、東京帝国大学法学部の助教授の職にありながら、異例の再召集を受け、そして、広島市宇品の陸軍船舶司令部(通称暁部隊)に配属された。そして八月六日の朝礼中に原爆に遭遇した。そして翌日、八月七日のことであるが、これが、ちょっと微妙な問題を孕んでいるので、推測で語るのではなく、あくまでも丸山真男自身の証言をまず引用してみよう。丸山真男は、その翌日の事を次のように語っている。

≪救護及び死体収容のため、兵隊は全部出動しろ、というあれが下ったわけです。本来なら僕は、これに行くはずなんですけれども、情報班長が「お前は留守で残っていろ」と。それで、一人留守になっちゃったのです。そのとき出ていたら、もっと悲惨な光景を見ていたわけですけれども、まさに火が収まった直後、翌日の朝ですから。その日一日、兵隊が、生々しい死体を片付け、破壊の後片付けをやったところは全く知ら ないのです。僕が出たときには、少なくとも通りはきれいに清掃されていました。(中略)あの兵隊の中からも相当放射能に当たって発病した人がいるんじゃないでしょうか。直後ですから。≫(注八)

丸山真男は被爆の翌日、他の兵隊が全員、後片付けに出かけたにもかかわらず、情報班長の命令で外出せずに兵舎に残り、部屋に閉じこもっていいた。何故か。何故、丸山真男だけが残ったのか。実は、この被爆者・丸山真男の「その翌日」の、つまり「八月七日の丸山真男」にこだわったのは、私の知る限り、作家の佐川光晴が最初で最後である。佐川光晴の結論、ないしは予想は、漠然とだが、私にはわかる。佐川光晴は、こう言っている。

≪『卑怯だぞ!』という罵りが思わず口をつきかけるが、それはやはり謹まねばならないだろう。しかし、やはり、このインタビューで最も強い印象を残すのは、部隊の全兵士が出動した兵舎でひとり留守番をする丸山の姿である。上官がなぜ丸山ひとりに留守を命じたのかはわからない。ただ、かれがそれに素直に従ったのも事実である。(中略)投下の翌日にひとり兵舎で留守番をしていたことまでは語らなかっただろう。それは思いかけず口走るか、小説として書く以外に言いあらわ しようもない事柄だからだ。(中略)八月七日の丸山真男に、私は限りない愛惜の念を抱いている。本人は どこまで意識していたかどうかわからないが、この一日がなければ、その後の丸山はなかったとさえ、思っている。いつか、この日の丸山に焦点を当てた作品を書いてみたい。≫(注九)

佐川光晴のこの読みは、まことに鋭い。佐川光晴のこの丸山真男論は、どのような丸山真男論よりも丸山真男の思想的急所を突いているとと言っていいだろうと思う。この分析は、丸山真男を崇拝する政治学者や思想史家が、あるいは丸山真男を批判し否定する政治学者や思想史家が遠く及ばない丸山真男の思想的本質の内部に踏み込んでいる。丸山真男にとっての原爆体験とは、「八月六日」の体験ではなく、翌日の「八月七日」の体験である。そこで、何が起こったのだろうか。おそらく丸山真男の原爆体験にこだわる政治学者や思想史家は少なくないだろうが、こういう問題の本質に迫る人は、一人もいないだろう。少なくとも、これまでのところ、私は読んでいない。これは佐川光晴も言う様に、小説的な問題、ないしは文学的な問題である。そこで、私もまた、佐川光晴にしたがって、

≪八月七日の丸山真男に、私は限りない愛惜の念を抱いている。本人はどこまで意識していたかどうかわからないが、この一日がなければ、その後の丸山はなかったとさえ、思っている。≫と言っておこう。 ところで、丸山真男自身は、別の発言では、意識的か意識的かはわからないが、八月七日をたいして重視していないように見える。むしろ翌々日の、八月八日の体験を強調している。たとえば、こんな具合に……。 ≪私は戦後、なにかの折に「ああ、おれは生きているんだなあ」とふっと思うことがあります。というのは、なにか間一髪の偶然によって、戦後まで生きのびているという感じがするのです。…私の場合とくにその実感を支えておりますのは、なんといっても敗戦の直前の原爆であります。…そのときの状況をお話すればきりがありませんし、またその直後に私がこの目で見た光景をここでお話する気にもなれません。ただ私は非常に多くの「もしも」−もしもこうであったら私の生命はなかった、したがって私の戦後はなかったであろうという感じ、いわば無数の「もしも」のあいだをぬって今日生きのびているという感じを禁じ得ないのであります。(中略)翌々日、私は外出してみて、宇品町でも死傷者が多いのにおどろきました。しかも私は放射能などということに無知なものですから、その日一日爆心地近辺をさまよい歩いたりしました。その他、その他の「もしも」を考えますと、私は今日まで生きているというのは、まったく偶然の結果としか思えない。ですから虚妄という言葉をこのごろよくききますが、実は私の自然的生命自身が、なにか虚妄のような気がしてならないのです。けれども私は現に生きています。ああ俺は生きているんだなとフト思うにつけて、紙一重の差で、生き残った私は、紙一重の差で死んでいった戦友に対して、いったいなにをしたらいいのかということを考えないではいられません。≫(注十)

これが、丸山真男が原爆体験について公的な場所で語った最初の文献らしいが、丸山真男はここで、「翌日」ではなく、「翌々日」の体験を詳しく話している。丸山真男は、翌日は、やはり、戦友のほとんどが被災地の後片付けに出掛けていつた後の留守の部屋に一人、留守番として閉じこもっていたのだろうか。そして、≪翌々日、私は外出してみて、宇品町でも死傷者が多いのにおどろきました。しかも私は放射能などということに無知なものですから、その日一日爆心地近辺をさまよい歩いたりしました。≫という発言だけから見ると、丸山真男は、翌日のことは、たいして気にも留めていないかのようにみえるが、はたして、どうだったのだろうか。被爆の「翌日」、つまり「八月七日」のことについては、敢えて避けて、何事もなかったかのように「とぼけて……」いるのだろうか。むろん私は、丸山真男は、やはり「八月七日」にこだわっているのだと思う。だから、≪紙一重の差で、生き残った私は、紙一重の差で死んでいった戦友に対して、いったいなにをしたらいいのかということを考えないではいられません。≫と言うのであろうと思う。 ここから、丸山真男と小林秀雄の思想的体質の「差異」が、かすかに見えてくる。小林秀雄が、その死まで沈黙を貫き通したのに対して、丸山真男は…… 。おそらく、敢えて、丸山真男が、「八月十五日」という特別な日に死んだことになっているように、丸山真男は、癌発病から死を迎える段階において、「原爆体験を語ること……」を選択したのであろう。しかし、あらゆる体験や経験の言語化がそうであるように、そこには記憶違いや嘘や虚偽が混入していないはずはない。丸山真男の原爆体験にも、「八月七日」の体験が、隠蔽されている。「八月七日」に、丸山真男は、兵舎に残り、留守番をしていた。そのこと対して、丸山真男が「引け目」、あるいは「自責」を感じなかったはずはない。≪紙一重の差で、生き残った私は、紙一重の差で死んでいった戦友に対して、いったいなにをしたらいいのかということを考えないではいられません。 ≫という自責の言葉が、丸山真男の思想を支えているのである。丸山真男が、他の凡庸な政治学者とはレベルの違う存在論的な政治学者になりえたのは、そこに根拠がある。だが、言うまでもなく小林秀雄の沈黙とは対照的である。

注一、1924/07 小林秀雄『一ツの脳髄』 『青銅時代』(第六號)
注二、1922/11 小林秀雄『蛸の自殺』 『跫音』(第三輯)
注三、1938/10 小林秀雄「歴史について」『ドストエフスキーの生活』
注四、1983年7月11日、丸山真男「藤高道也宛のはがき」『丸山眞男書簡集第3 巻』
注五、1967/5 丸山真男「普遍的原理の立場」『思想の科学』
注六、2006/4 平野敬和「丸山真男と原爆体験」『丸山真男 没後十年、民主主義の神話を超えて』
注七、1998 石田雄「戦争体験の思想化と平和論」『丸山真男座談』月報
注八、1998/7 丸山真男「24年目に語る被爆体験」『丸山真男手帖』
注九、2006/8佐川光晴「八月七日の丸山真男」『新潮』
注十、1965/8 丸山真男「20世紀最大のパラドックス」『丸山真男集九』

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三島事件の「事件性」を取り戻せ。(「月刊日本」連載『月刊文藝時評』)
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■三島事件の「事件性」とは何か。

私は、学生時代、三島由紀夫の文学ではなく、三島事件に強い強い衝撃を受け、それ以後、ひそかに三島事件に関心を持っていたが、作家・三島由紀夫や、三島由紀夫の文学作品の解釈や研究にはそれほどの深い関心を持つことは出来なかった。しかし、たまたま「三田文学」が復刊され、文藝評論を書く機会が訪れた時、不思議なことだが、私は躊躇することなく「三島由紀夫論」を書くことにした。私は、文藝評論家としての自分の本格的なデビュー作となるかもしれない最初の作家論を、当時、私がもっとも関心を持っていたのは小林秀雄であり江藤淳であり、大江健三郎であったにもかかわらず、つまり三島文学にそれほど深い関心を持っていたわけではないにもかかわらず、「三島由紀夫論」から始めた。やはり三島事件のインパクトが大きかったのである。私は、文藝評論家を自称していながら、文学の本質が政治的なものであり、政治的な事件としての三島事件にこそ三島文学の核心があると考えていた。むろん、私の三島由紀夫に対する関心の持ち方は正統的なものではなく、きわめて偏ったものだと言っていいだろう。しかし私は、私の三島由紀夫論が「的外れ」だと思ったことは一度もない。むしろ、文壇や文芸誌によく見られるような、いわゆる文学的な三島由紀夫論こそ、文学的にも思想的にも的外れだと考える。

 さて、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で切腹、自決して以来、今年で四十年がたつ。『憂国忌の四十年』(並木書房)という本が送られてきたので、それを知ったのだが、この『憂国忌の四十年』という本は、いわゆる文学的、文壇的な本ではない。三島事件後、文壇や文学関係者たちが三島事件から逃げる中で、故人・三島由紀夫の慰霊祭と鎮魂祭、いわゆる憂国忌を敢然と執り行ってきた「三島由紀夫研究会」の人たちの記録である。彼等の多くは世間的にはそれほど名の知れた人たちとは言いがたい。しかし、私は、この本をきわめて文学的な書物として読み、そして文学的に高く評価する。ここにこそ、「生きた文学」があり、「生きた政治」があると考えるからだ。ここには、まだ三島事件が生々しい現実として、つまり「事件性」がそのまま生きている。物語や懐メロになっていない。たとえば、長い間、憂国忌を取りしきってきた「三浦重周」の話が私の眼を引いた。三浦は、学生時代から右翼民族運動に打ち込み、大学卒業後も、就職せずに民族運動一筋に生き、そして「三島由紀夫研究会」の実質的な責任者として憂国忌を主催しつづけた人である。その三浦重周は、平成17年、私も出席したのだが、第35回憂国忌を終えた直後、故郷の新潟の岸壁で自決した。私は、思想のために自決できる人間が現実に存在すると言うことに驚いた。私が、三島事件は今なお生きていると考える根拠はここにある。思想や文学のために自決できる人間がいるということは、その文学や思想が生きていてるということ、つまり事件の事件性を意味する。『憂国忌の四十年』という本は、三島事件が未だに歴史でも物語でもなく、「事件」であり続けていることを物語る書物である。

■座談会「2010年の三島由紀夫」には、何故、リアリティが欠如しているのか。

 さて、その一方では、「文学界」12月号が、「没後40年、2010年の三島由紀夫」という座談会を掲載しているが、こちらは明らかに三島事件を封印し、隠蔽し、そして忘却しようとしているようにしか見えない。つまり三島文学や三島事件の「事件性」から逃げているようにしか見えない。この座談会の出席者は横尾忠則、平野啓一郎、田中慎弥、中村文則の四人だが、横尾忠則だけが、生前の三島由紀夫本人とかなり深い交流があった人で、他の作家たちは、三島事件後に、つまり三島由紀夫の自決後に生まれた人たちらしく、三島由紀夫を作品や情報を通してしか知らない。そのせいもあるだろうが、三島由紀夫に対する彼等の態度は、きわめて観念的・抽象的で、解説的・分析的な話に終始している。言い換えれば、三島由紀夫の文学作品を絶賛し、さかんに強く影響を受けたと言うわりに、その語り方にリアリティーがまったく感じられない。私は、そこに現代日本文学の文学的、思想的劣化を感じないわけにはいかない。やはり、現在の作家たちにとっては、三島由紀夫という存在の「身体性」や「事件性」は忘却され、隠蔽されたままだと思われる。とりわけ平野啓一郎という作家の、三島文学や三島事件に対する過剰ともいえる「解説」と「解釈」には、文学的な貧しさしか感じられなかった。小林秀雄は、「解釈を拒絶したものだけが美しい」と言い、「美は人を沈黙させる」と言ったが、三島文学にも三島事件にも、「人を沈黙させるもの」があり、「解釈を拒絶するもの」があるはずである。三島文学が「今なお生きている」のは、そこに理由がある。平野のように凡庸な、すでに常識化した解釈に、さらに紋切り型の解釈を重ねたところで、三島文学も三島事件も理解できるはずはない。平野は、単なる「物知り」や「情報通」の枠を一歩も出ていない。だから私は、横尾忠則の次の言葉に、もっとも文学的なものを感得する。平野啓一郎が「ご本人に出会う前から、三島作品は読まれていたんですか。」という問いに対して、横尾はこう答えている。

 ≪一冊も読んでいなかったですね。(中略)僕が興味を持ったのは、三島文学ではなく、行動する作家としての三島さんでした。それまでああいう作家はいなかった。そこで、憧れの対象としての三島さんに近づくための手段として、本を読んでいたという感じですね。(中略)全く頭に入らないので面白いはずがない(笑)。≫

 私は、三島文学は読んでいなかったと言う横尾忠則にもっとも三島由紀夫のよき理解者を感じてしまうのだが、それは何故だろうか。横尾忠則には三島文学や三島事件に対する素朴な「驚き」と「畏怖」があるが、平野啓一郎等にはそれがないからだろう。それは、三島文学や三島事件を「事件」として捉えようとせず、解釈や解説の対象としての「物語」や「作品」としてしか捉えようとしていないことと無縁ではない。三島由紀夫が異常な関心を寄せていた「空飛ぶ円盤」についても、中村文則や平野啓一郎が「取材」や小説の「材料」の次元でしか考えていないのに対して、横尾忠則はこう言っている。

 ≪空飛ぶ円盤の愛好会があったんですが、三島さんはそれに入会していたはずです。(中略)いや、取材とは関ないですよ。隠れたオカルチストなんじゃないですか。本当に好きなんです。あの頃、黒沼健という人が、地底帝国やアトランティスや古代文明などの、超常現象ものの本をいっぱい書いていて、三島さんも澁澤さんも、黒沼さんに非常に興味を持っていたはずです。僕も刺激されて、その後鎌倉の黒沼さんの家を訪ねたことがあります。≫

ところが、この話を受けて、平野啓一郎は、≪彼の小説のベースはやはり十九世紀的リアリズムなんです。だから、どこかからそういう面白いものを調達してくる必要があって、そのイメージの源泉を、たとえば、エロチシズムや、最後は天皇を中心とした日本の文化的な伝統に求めた。オカルト的なものも、三島にとってはそういうものだったんだと思います。≫と解説している。たとえこの解説が正しかったとしても、私は、平野は三島文学からはかなり遠い人だと思わないわけにはいかない。三島由紀夫は信じていようと信じていまいと、空飛ぶ円盤を必死で求めた人であって、小説を書くための面白い素材として空飛ぶ円盤なるものを取材した人では、おそらくない。神の存在を徹底的に信じるが故に無神論にたどりついたドストエフスキーのように、空飛ぶ円盤という存在を深く信じた人だったと言っていい。

■三島文学は文学だけの問題ではない。

 さて、再び、『憂国忌の四十年』という本にもどる。この本に登場する民族運動の学生達も、そして年月を経て壮年となった人達も、三島事件のリアリティ、つまり事件性から、未だに無縁ではない。当然ながら、憂国忌は、慰霊と鎮魂の宗教的儀式である。たとえば、三島由紀夫と同様に切腹して自決した「三浦重周」の事件は、ポスト・モダン的な擬似イベントでも、あるいは「スノビズム」(ゴジェーヴ)でも「シニシズム」(スラヴォイ・ジジェク)でもない。文字通り悲劇である。彼等の中には、三島由紀夫と三島事件が生きている。

 ところが、≪三島由紀夫の作品は素晴らしいですから、純粋に、文学作品として読めばいいと思います。一番入りやすい作品は『金閣寺』でしょうか。≫(中村文則)とか、≪僕も、純粋に文学作品として、おもしろく読めばいいと思います。僕は、三島の行動自体に興味があるのではなく、僕等の世代が持たなくなってしまった日本語の感覚や教養を持っている作家として、三島さんが好きなのです。行動ということになると、作家はとにかく作品を書くことが最大の行動なので……≫(田中慎弥)と語る「文学界」の座談会「没後40年、2010の三島由紀夫」には、現場感覚、事件性の感覚というものが欠如している。ならば、むしろ、三島由紀夫との距離感や違和感を語るべきである。そしてそこから始めるべきではないのか。その意味で、三島文学との距離感や違和感を語る中村文則の次の発言にちょっと関心を持つ。

 ≪三島由紀夫は僕の中でとても複雑な存在なんです。(中略)作家全体を通して論じるとなると、なかなか難しい。なぜかというと、三島の文学の核にある三島ならではの「美」に、距離を感じてしまうからなんです。(中略)分かりやすい例を挙げると、『憂国』という作品に僕はどうも距離を感じるんです。短編として見事で、大傑作だと思う。特に切腹のシーンなんて、描写が神がかっている。でも距離を感じてしまう。≫

 私は、この中村の発言にむしろリアリティを感じる。何故、座談会の冒頭でこの話をしなかったのか、私には不可解である。私は、最近の若手作家たちが、何故、素直に三島文学との距離感や違和感を語ることから始めようとしないのかが不思議でならない。

 最後に、『憂国忌の四十年』で見つけた福田恒存の言葉を引用しておく。≪わからない、私には永遠にわからない。≫(P17)

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ブログ「毒蛇山荘日記」から
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2010-12-08 編集
植草氏の『日本の独立』論を読みながら……。
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一昨日の『日本の独立』出版記念講演会は、副島隆彦氏の登場の影響もあったのかもしれないが、大成功のうちに終わったらしく、第二回目の講演会も企画されているらしい。さて、その植草氏の『日本の独立』だが、発売早々からベストセラー街道を驀進中らしく、度々在庫切れになり、増刷を繰り返しているようだ。それにしても、植草氏の『日本の独立』が、今、売れているということは、それだけ多くの読者に支持され、読まれ、そして思想的影響を与えているということだから、植草氏が、所謂、「植草事件」に巻き込まれ、マスコミや世間から「白い眼」で見られていた頃から較べると、やはり隔世の感があり、当初から「植草事件」の政治的謀略性に注目してきた者としては、感慨深いものがある。これは、やはり、あの頃とは思想状況が大きく変わりつつあることを示しているように思われる。あの頃のマスコミ、論壇、ジャーナリズムは、「小泉・竹中構造改革」路線一色であり、たとえば宮崎哲弥や三宅某、田原総一郎等のような、「官房機密費」まみれ疑惑の御用文化人や御用ジャーナリストばかりが我が物顔でのさばり、それに逆らったり反論するものは、「鈴木宗男事件」や「植草事件」が象徴するように、社会的に抹殺されることを覚悟せざるをえなかった。さて僕も、植草氏から『日本の独立』の贈呈を受けたので、誰よりも早く読んだが、かなり分厚い本だったにもかかわらず、一気に読み終えることが出来た。そして、この本には、植草氏の人生と運命が深くかかわっていることを感じないわけにはいかなかった。ところで、「小泉・竹中構造改革」一派の御用経済学者、御用ジャーナリストの一人と思われる池田信夫による『日本の独立』に対する感想文を「ツイッター」で見つけたので、ここに引用してみよう。

==========ここから引用============
ikedanob 仮説の少ない理論がすぐれているという「オッカムの剃刀」を基準にすると、「小泉=竹中が日本経済のすべての問題の原因だ」という植草理論は最もすぐれている。簡単に反例が見つかるというのも、新古典派と同じだし。
===========引用ここまで===========

なるほど、こういうくだらない感想文もあるのかという見本のようなシロモノであるが、これが「小泉・竹中構造改革」一派残党の御用文化人のものとして読み返すとなかなか面白い。そもそも、池田が言う、「『小泉=竹中が日本経済のすべての問題の原因だ』という植草理論……」なるものは、文字通り、「小泉・竹中構造改革」一派残党のとしての池田の被害妄想であって、そんな経済理論は存在しない。植草氏の『日本の独立』論に「植草理論」なるものがあるとすれば、「悪徳ペンタゴン理論」だろうが、これは別に池田が期待するような経済理論ではなく、むしろどちらかと言えば、政治学的、思想的理論だろう。植草氏の『日本の独立』論が、今、よく読まれているとすれば、それはこの本が、きわめて政治的、思想的書物として読まれているということだろう。しかし、池田信夫のような経済バカには、気の毒なことにそれがまったく見えていない。この植草氏の『日本の独立』論が、今、多くの読者を獲得し、多くのファンを講演会に集めることが出来るのは、この本の持つ思想的価値ゆえであろう。その思想的価値とは、植草氏が、「植草事件」と言われる不幸な政治的謀略事件に巻き込まれたという体験なくしては、ありえなかったものであろう。「エコノミックス」とは、もともと「政治経済学」と翻訳すべき概念だったと言われているが、植草氏の最近の仕事は、まさしく「政治経済学」と呼ぶべきものだろうと僕は思う。僕は、以前、『エコノミスト亡国論』なるものを書いて、いわゆる「小泉・竹中改革」時代に大手を振って闊歩していた能天気な済学者やエコノミストたちを批判したことがあるが、それは、彼等が、経済や経済政策が、政治や国家に支配、操作されていることを隠蔽し、忘却し、あたかも経済や経済政策で全てが語りつくせるかのように錯覚し、自己欺瞞に陥っていることと無縁ではなかった。(続)

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2010-12-07 編集
鈴木宗男事件と佐藤優事件とは何だったのか?
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ここ五、六年の思想状況の変化はかなりは激しい。昨日、一昨日に行われた「反検察」「小沢一郎支援」のデモや、ウォルフレン講演会や植草講演会、そして昨日の鈴木宗男氏の収監騒動等に象徴される、この思想状況の変化は決して表層だけのものではなく、そこでは現代社会の思想状況の根底を揺り動かし、現代社会の隅々に構造的変化をもたらすような大きな変動が起きていると言うべきだろう。たとえば、今、「マスコミ」「検察」「アメリカ」……というような既存の権力構造の闇が次々と暴露されているわけだが、それは単に、「マスコミ」「検察」「アメリカ」……の問題にとどまらない。何か大きな思想的変化が起きている。もはや学者も思想家も、そしてジャーナリストや各種文化人や芸能人達も、今までどおりには通用しなくなっている。先日、日曜日のテレビ朝日の番組に、お馴染みの藤原ナニガシと姜尚中等が出演して、深刻そうな顔をして北朝鮮問題とやらを解説・論評していたが、それを見ながら僕は、この連中も、新聞記者上がりの政治評論家達と同様に、「もう終わったな(笑)」と思わないわけにはいかなかった。何かが「ズレ」ているというか、何も「見えていない」のである。要するに、緊急に論ずべき本当の問題は、まったく別の場所で起きているのである。つまり、何か大きな思想的変化が起きているのだが、しかし残念ながら、それが、彼等には見えていない。彼等の言論に無関心になっていくのも当然だろう。さて、それでは、思想的な現場で、何が起っているのだろう。僕は、その思想的変化を端的に象徴するのが「思想家・佐藤優」の登場であろうと思う。言うまでもなく、佐藤優は、元外務省情報分析官であり、鈴木宗男の片腕としてロシア外交の裏舞台で活躍していたために、鈴木宗男事件との関連で逮捕され、およそ一年間の拘留生活を経て社会復帰し、それと同時に、堰を切ったかのように言論・思想活動を開始した人である。つまり、鈴木宗男事件と佐藤優事件がなければ、現代社会の思想状況の根底を揺り動かし、現代社会の隅々に構造的変化をもたらすような大きな変動が起きていなかったかもしれない。いわゆる、「マスコミ」「検察」「アメリカ」……というような既存の権力構造の闇が次々と暴露されていくこともなかったであろう。むろん、今では誰もが常識のように語る「国策捜査」「検察の暴走」「官僚の暴走」という問題だが、おそらく佐藤優の登場がなければ、話題にすらならなかったであろう。要するに、佐藤優の登場によって、既存の学者、思想家、ジャーナリスト等は、ことごとに、その存在意義を失い、消えていかざるをえなくなったと言っていい。姜尚中東大教授は、売れっ子の学者文化人として、どれだけテレビで顔を売ろうが売るまいが、決してテレビに登場しようとしない佐藤優と比較すれば、もはや出番を間違えた「哀れなピエロ」でしかない。その意味で、鈴木宗男事件と佐藤優事件は現代の思想状況の変化の原点であり、昨日の鈴木宗男収監騒動は、鈴木氏には申し訳ないけれども、やはり歴史に残る記念すべき出来事であったと言わなければならない。

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2010-12-06 編集
鈴木宗男氏の収監の日に思うこと
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衆議院議員・鈴木宗男氏が、とうとう収監される日がやってきた。小泉政権時代、鈴木氏は、政治的謀略に巻き込まれ、そして同時に激しいメディアバッシングを受け、やがて「やまりん事件」という冤罪で逮捕され、裁判の結果、有罪が確定し、ついに収監の日となったわけだが、その間に、鈴木宗男氏を取り巻く状況に大きな変化があったことは、特筆されるべきであろう。鈴木宗男氏も言うように、逮捕当時、鈴木宗男を擁護するものは、、ほぼ絶無であったと言っていい。むしろ誰もが、新聞やテレビ、雑誌、週刊誌など、様々なメディアが垂れ流す情報を鵜呑みにし、鈴木宗男という悪徳政治家が逮捕され、有罪になることを歓迎し、拍手喝采していたはずである。鈴木宗男バッシング情報が、政治的な謀略に基づくものであることを主張したり、分析したものは、私の知る限り、なかった。しかし、今、つまり鈴木宗男氏が収監されようとしている現在、「鈴木宗男は冤罪だ……」「鈴木宗男は被害者だ……」という鈴木宗男擁護論は、ほぼ同時に逮捕された鈴木宗男氏の盟友、元外務省情報分析官・佐藤優氏らの活発な言論活動の影響もあってか、巷に溢れている。まさに隔世の感があるわけだが、鈴木宗男逮捕の日から収監の日までの間に、日本で、いったい、何が起ったのか。実は、僕は、鈴木宗男逮捕事件が起った当時、「月刊自由」という雑誌にコラムを連載していたが、そこで、僕は、ほとんど問題にもされず、ほぼ黙殺されたけれども、鈴木宗男バッシングにも鈴木宗男逮捕にも反対し、抗議するコラムを、何回かにわたって書いていた。先見の明を誇りたいわけではないが、これは、僕の言論活動における忘れられない場面の一つである。僕は、今、収監の日を迎えた鈴木宗男氏が、多くの支援と激励の声に包まれていることを書いている「ムネオ日記」(鈴木宗男ブログ)を読みながら、喜びと共に、少し複雑なものをも感じている。その意味で、僕は、バッシングを受けようと受けまいと、獄に繋がれようと繋がれまいと、無位無冠になろうとなるまいと、有罪であろうと無罪であろうと、そんなことに関係なしに、終始一貫して鈴木宗男を支援し続けている松山千春と佐藤優のような男が好きである。僕は、鈴木宗男に対する、損得勘定抜きの、底知れない二人の「男の友情」に、思想的に感動せずにはおれない。思想の精髄というものがあるとすれば、そういうところにしかないと僕は確信する。

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2010-12-02 編集
「小沢復権」なくして「民主党再生」なし
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菅直人や仙谷由人を中心とする現在の民主党政権の支持率急落と各種の選挙における相次ぐ民主党系候補の惨敗、そして解散総選挙の「風」が吹き始めると共に、急激に浮上してきたのが、全国的な規模で同時多発的に繰り広げられた「小沢支援デモ」に象徴されるような、異常とも言える「小沢一郎人気」である。先日は、小沢一郎支援のシンポジウムが豊島公会堂で開かれ僕も出席したが、会場の雰囲気は異様であり、仙谷由人批判や菅直人批判に熱狂的に拍手し、一方では小沢無罪の話になると拍手が鳴り止まないなど、ほぼ満員の観客のほとんどが、今や小沢一郎支持者、小沢一郎ファンであるように見えた。これは、決して世間の片隅で起った一部の現象とは思えない。当日は、産経新聞を初め、大手新聞の新聞記者たちも出席したようだから、肌で感じたはずである。メインゲストとして出席した民主党の川内議員や辻議員も、二人とも小沢支持の民主党議員であるにもかかわらず、「小沢支持」の観客席から「民主党は何をしているんだ……」というような、激しい野次に見舞われて、絶句するほどだった。僕も、あらためて、「小沢復権」なくして「民主党再生」なし、と思った次第である。そもそも民主党の迷走と転落は、歴史的な政権交代を成し遂げたにもかかわらず、その最大の功労者である小沢一郎を、マスコミや自民党など野党の戦略的「小沢一郎批判」に引きずられて、つまり敵勢力の政治的謀略にまんまと引っかかって、政権運営から排除しようとしたところにある。つまり、「脱小沢」とか「小沢切り」で、政権交代を支持しないはずのマスコミや国民世論に迎合したところにある。これは菅直人や仙谷由人だけではなく、鳩山由紀夫から始まっていたことである。今は、鳩山由紀夫も、やっと目が覚めたのか、「菅直人に裏切られた」とか「仙谷由人に裏切られた」とか言っているらしいが、それも元をたどれば、鳩山政権の発足の時点から始まっている「小沢排除」路線にあることは言うまでもない。小沢一郎という政治家の台頭を恐れていたマスコミと自民党、官僚等の旧支配層が構築した「小沢一郎包囲網」による「小沢一郎つぶし」、つまり小沢秘書逮捕事件による小沢一郎から鳩山由紀夫への代表交替を利用して小沢を政権中枢から排除するという旧勢力の政治的謀略に乗せられて、我こそは政権交代の主役だと勘違いし、小沢一郎を「党」に封じ込めると同時に仙谷由人や前原誠司ら、小沢一郎が密かに「彼等を警戒せよ」と耳打ちしていたにもかかわらず、聞く耳を持たずに、強引に重要閣僚に迎え入れた鳩山由紀夫の政治的な「盲目」にある。鳩山由紀夫がもっとまともな政治家であったならば、民主党も政権交代も、こんなに短時間に消耗するはずはなかっただろう。さて、現在の民主党だが、党勢回復も支持率回復も、ことここにいたってはもうほとんど困難だろうと僕は思う。前原誠司や仙谷由人らは、次はオレの番だと思っているかもしれないが、残念ながらその前に民主党が消滅しているはずである。後は、民主党も自民党も解党するような政界大再編しかない。小沢一郎は、若手の民主党議員たちの集会で、「党を割るな」と言っているらしいが、それがはたして民主党再生に期待しているということかどうか、あるいは民主党を解党するような形での民主党再生戦略なのか、いずれにしろ政界は一寸先は闇であって、要するに天才的な政治戦略と実行力を持つ小沢一郎にしか、それはわからない。いずれにしろ、歴史は動いている。結果はいずれ判明するはずであり、小沢一郎の民主党再生戦略を見守りたい。ところで、岡田民主党幹事長は、相次ぐ地方選挙の敗北の原因の一つに「小沢国会招致問題」があると言ったらしいが、今頃、何を寝ぼけたことを言っているのか。岡田には、「死ぬまで寝ていろ」と言っておきたい。小沢一郎の「政治とカネ」問題などどうでもいい。そんなくだらない低次元の問題は、馬鹿と阿呆の溜まり場になっている論壇やマスコミに棲息するタボハゼどもにまかせておけ。

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http://www.nikkei-science.com/ 日経サイエンス http://www.nikkei-science.com/201204_048.html 驚異の長寿因子ラパマイシン 日経サイエンス 日経サイエンス  2012年4月号 驚異の長寿因子ラパマイシン  モアイ像で知られる南太平洋の孤島,イースター島で半世紀前に採集された土の中の細菌から,1つの化学物質が得られた。同島を表す現地の言葉「ラパ・ヌイ」にちなんで「ラパマイシン」と名付けられたこの物質は驚くべき力を秘めていることが2009年にわかった。マウスを使った実験で最長寿命(集団中で長生きした上位1割の平均値)が10%以上延びることが判明したからだ。これは加齢学の分野においては「(航空機開発での)音速の壁の突破に匹敵する待望の成果」と著者はいう。その仕組みを明らかにすれば,アルツハイマー病やがん,心不全など加齢に伴う疾患の予防治療に役立ち,さらには私たちの寿命も延ばせる可能性がある。監修は本文中に紹介されているスイス・バーゼル大学のN. ホル教授のもとで研究したことがある静岡大学の丑丸敬史教授。 . 著者 David Stipp ボストンを基盤とするサイエンスライターで,1990年代後半から加齢学に注目してきた。加齢学に関連する著書「The Youth Pill: Scientists at the Brink of an Anti-Aging Revolution」が2010年に刊行された。老化の科学に関するスティップのブログはwww.davidstipp.com。 原題名 A New Path to Longevity(SCIENTIFIC AMERICAN January 2012) http://www4.ocn.ne.jp/~sasaki/2008.11.htm どうして長野県は日本一の長寿県なのか 2008.11.17 最近報道された日本人の平均寿命は男性79.19才、女性85.99才で女性は世界第1位、男性は世界第3位です。因に世界第2位は男女共香港です。 日本と都道府県別に長寿県をみると男性第1位は長野県、女性第1位は沖縄県です。沖縄県男性はかなり下へ落ちますが、長野県の女性は第3位になります。従って長野県は全国一の長寿県といってもいいでしょう。 では長野県で生活するとどうして長生きするのでしょうか。いま流行の遺伝子説で片つけるとそれまでの話で終わりますが、長生きするなりの基礎造りが県全体にあるからです。豊かな自然環境に加えて、長野県の医療行政、各自治体の健康つくりの取り組み、積極的な医療政策、県民の健康意識向上にによるものです。具体的にどうゆうことをやっているかを調べてみました。その一部は当院通院中の長野県出身の糖尿病患者さんから伺ったことも含まれています。 まず長生きしているから医療費が高いだろうと思いますが、総てが全く逆です。16年間連続して一人当りの医療費は全国で最小となっています。従って入院件数、外来件数、入院日数も全国最下位または下位に位置しています。また医療体制をみると医師数、病院数、病床数もみな最下位ちかくになっています。このような状況であれば医療費のかからないことはよく分かります。 次に高齢者の生活事情をみると、持ち家比率が高く、離婚率が低いので高齢者の一人暮らしが少ないことになります。さらに在室死亡率は全国第3位で幸せな死に方ですが、一方で訪問看護件数は全国一です。 長野県人は働き者で高齢者の就業率が高く、農業を中心に65才以上の30%が現役で働いています。女性に限っては就業率51.6%で全国第2位です。死ぬ際まで働きましょうと「ピンピン コロリ」を合い言葉にしています。 食生活に関しては「食生活改善委員会」があり、県民減塩運動をを企画し米飯をすすめ、肉よりも魚、大豆製品、自家製野菜を奨めています。基本的には糖尿病食に近いやり方で食事しています。長野県は内陸に位置していますから山河が豊かで信濃川、天竜川、木曽川、利根川を往来する川魚と野菜が豊富でまさに地産地消で表1、表3、表6をまかなっています。面白いことに沖縄県と同様に豚肉を好み、牛肉はあまり食べない習慣があるようです。 日本人の死亡原因の第1地位は癌です。癌死亡率がもう少し減少すると日本人の平均寿命は90才台となるでしょう。 http://logsoku.com/thread/raicho.2ch.net/newsplus/1293934827/ 【話題】 長生きの秘訣! “世界一”の健康長寿 「長野県」の謎に迫る! 1 : 影の軍団ρ ★ : 2011/01/02(日) 11:20:27 ID:???0 医療が発達した現代、病気の一つくらいあっても大丈夫。が、医療費も高く、 クスリや入院に頼らず健康で生きがいに満ちた高齢期が過ごせたら…と願う人は多い。 日本は世界一の長寿国。ならば、その原因の謎に迫りそれらを実践することで、 90〜100歳が当たり前にならないものか。 世界保健医療機構(WHO)によると、'07年時点で平均寿命については、 前年に続いて世界一の長寿国は日本である。加盟193カ国中、日本の女性は86歳で1位。 男性は79歳で3位だが、平均値では堂々たる世界ナンバーワンだ。 では国内の“長寿地域”とはどこか。厚生労働省の資料によると、答えは男女そろって 長寿上位を占めるのは「長野」と「福井」の両県である。 「あれ、沖縄じゃなかったの?」と読者の中には、そんな思いを抱く方がいるかもしれない。 確かに沖縄県は戦前から平均寿命が男女ともトップまたは上位を占め「健康・長寿の島」として注目されてきた。 ところが、15年ほど前から、日本の健康長寿の地域が変わってきている。 南の島・沖縄から内陸の長野と北陸・福井などが新たに“長寿地域”として脚光を浴び始めているのだ。 厚労省の調査では、沖縄の女性はトップの座を守り続けているが、男性は'95年に4位、 5年後の2000年には26位と大きく後退。「沖縄のクライシス」と話題になったほどだ。 そして、長寿県ベスト3は次のようになる。 〈男性〉(1)長野(2)福井(3)奈良 〈女性〉(1)沖縄(2)福井(3)長野 これを見ても分かる通り、日本にも長寿地域差は依然としてあるわけで、 まずは健康づくり対策についてレポートしてみよう。 http://wjn.jp/article/detail/0327943/ >>2以降へ続く 2 : 影の軍団ρ ★ : 2011/01/02(日) 11:20:39 ID:???0 長寿トップの長野県だが、この栄誉は決して偶然ではない。 同県の特徴的なことは医療機関の活動と、住民の自主的な健康づくり活動の成果を無視できない。 「農家の人たちにも積極的に検診や健康づくりに参加して貰い、医療機関を中心に “一部屋暖房運動”というものもやりました。脳卒中を防ごうと、 各家に一部屋だけを暖かくする運動ですが、予防対策に一定の成果を上げられました。 今でこそ当たり前になっている胃がん検診。これも、日本で最初に取り組み、導入したのも我が県です。 保健師など医療関係者と連携した県民健康づくり運動は、地道な活動ながら着実に実っていると思います」 長野県医師会の関係者はこう言って、中高年の健康志向がより強まっていると強調した。 勿論、長寿食についても同じだ。標高800メートル以上の山でないと実を付けない 「花豆」は長野の特産品。たんぱく質が豊富で、血中コレステロール、血圧上昇抑制、肥満防止などに効果がある。 他に栄養価のある「戸隠そば」「おやき」「五平餅」など郷土料理・伝統料理が多く、 それらを含む食生活が長寿に結びついていると言われる。 しかし、塩分の摂取量は全国でも多い方の県で、今では各市町村にいる栄養士会が示す 「健康づくり指針」を実践するように指導しているという。 「現在は6千人を超す指導員がいて料理や献立づくりの指導に当たっています。 やはり長寿社会を形成するには、一朝一夕というわけにいきません」 同県栄養士会の女性会員(43)は説明する。 一方、男女とも全国2位という福井県。こちらも県民の栄養や健康面の調査を積極的に行っている。 3 : 影の軍団ρ ★ : 2011/01/02(日) 11:20:55 ID:???0 その結果、米を中心に3大栄養素である「たん白質」「炭水化物」「脂肪」のバランスの取れた食事健康法が、 '80年から現在に至る30年間、市民に維持されている。 「それに95歳以上の自立した高齢者を調査したところ、肉も野菜も好き嫌いなく食べることが共通していることが 明らかになりました。平均寿命の延びとお米の摂取量について一定の関係があることも分かりました」(同県福祉士担当者) 他の長寿食としては、大豆製品を含む豆類やイモ類が好まれ、伝統料理にもよく使われているという。 また高血圧を予防するには、減塩とカリウムの摂取が重要だが、福井県はカリウムの摂取は全国レベルより多い。 「講演などで訪れたことが何度かありますが、県民性というか、3世代世帯同居の割合が高く、 核家族といわれる世帯や単身世帯などが都会に比べて少ない。 心の繋がりを大事にしているところがあると思います。健康問題や生きがい、 長寿というものに関心が高いという印象がありますね」 東京社会医学研究センターの村上剛志主任はこう語っている。 そして、県独自の保険事業、医療施設や福祉施設の整備も進み、長寿の環境づくりもしっかりしていると言う。 さて、元長寿王国・沖縄県の男性が圏外へ陥落した最大の要因を探ると、成人の2人に1人が肥満ということ。 40〜60歳以上の人が肝疾患で死亡する率が高くなっているのである。 酒の飲み過ぎと、島国という車社会による住環境によって運動不足が指摘されているのだ。 魚類、海草類など海の幸に恵まれていながら、泡盛など強いアルコール類の多飲、動物性たん白質、 脂肪の過剰摂取で生活習慣病にかかる男性が多いのが現状。 今、医師会を中心に独自のガイドラインを作成し、高血圧症、高脂血症、糖尿病、肥満の “死の四重奏”の克服を目指した運動が進められているが、男性の王座奪回の道のりは険しいようだ。 http://www.brolico-research.jp/ ブロリコ研究所   http://www.brolico-research.jp/page/immunity01.html   ブロリコ研究所|免疫ってなんだろう   http://www.brolico-research.jp/page/immunity02.html   ブロリコ研究所|免疫力が低下するとがんや病気になりやすい   http://www.brolico-research.jp/page/immunity03.html   ブロリコ研究所|免疫力を高めてくれるブロリコ   http://www.brolico-research.jp/page/immunity04.html   ブロリコ研究所|イマジン・グローバル・ケア株式会社について     http://www.imagine-gc.com/     イマジン・グローバル・ケア株式会社       健康コンシェルジュ       サプリメント       イマジン インターナショナル プリスクール       DTC       キーデンタルクリニック       イマジン キッズ・プラネット http://www.geocities.jp/rk_staff/kennminnsei/cha_1/nagano_1.htm 県民性と地域性−長野県 http://homepage2.nifty.com/donky/hitorigoto/kimama03.pdf 長寿日本一(長野県)の秘密はどこに? http://www.pref.nagano.lg.jp/syakai/koufuku/kashokai.htm 健康長寿課介護支援室紹介 http://www.cs-h.co.jp/nagano.htm 長野県の特徴…健康、長寿…豊かさ指標「遊ぶ全国NO.1」 http://blog.livedoor.jp/jinenseikatu/archives/51535972.html 自然(じねん)生活 第156話 ガン細胞の成長は食べ物しだい