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折々の記 2013 ④
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 08 】08/07
08 07 ① 「絶対悪」核兵器の廃絶を 広島市長の平和宣言全文
② 被爆68年、広島で平和記念式典 5万人参列、米大使も
③ 独、頑固に倹約 道路・橋にガタ、でも修繕二の足
④ 韓国人被爆者、集団提訴へ 日本との交渉、政府に促す
08 08 【年配者の心得】
08 12 日米の行政は秘密裏に動いていた
08 13 日野原重明の言葉
08 07 (水) ① 「絶対悪」核兵器の廃絶を 広島市長の平和宣言全文
② 被爆68年、広島で平和記念式典 5万人参列、米大使も
③ 独、頑固に倹約 道路・橋にガタ、でも修繕二の足
④ 韓国人被爆者、集団提訴へ 日本との交渉、政府に促す
①digital.asahi 2013/08/06
「絶対悪」核兵器の廃絶を 広島市長の平和宣言全文
http://digital.asahi.com/articles/OSK201308060003.html?ref=reca
「あの日」から68年目の朝が巡ってきました。1945年8月6日午前8時15分、一発の原子爆弾によりその全てを消し去られた家族がいます。「無事、男の子を出産して、家族みんなで祝っているちょうどその時、原爆が炸裂(さくれつ)。無情にも喜びと希望が、新しい『生命(いのち)』とともに一瞬にして消え去ってしまいました」
幼くして家族を奪われ、辛うじて生き延びた原爆孤児がいます。苦難と孤独、病に耐えながら生き、生涯を通じ家族を持てず、孤老となった被爆者。「生きていてよかったと思うことは一度もなかった」と長年にわたる塗炭の苦しみを振り返り、深い傷跡は今も消えることはありません。
生後8か月で被爆し、差別や偏見に苦しめられた女性もいます。その女性は結婚はしたものの1か月後、被爆者健康手帳を持っていることを知った途端、優しかった義母に「『あんたー、被爆しとるんねー、被爆した嫁はいらん、すぐ出て行けー』と離婚させられました」。放射線の恐怖は、時に、人間の醜さや残忍さを引き出し、謂(いわ)れのない風評によって、結婚や就職、出産という人生の節目節目で、多くの被爆者を苦しめてきました。
無差別に罪もない多くの市民の命を奪い、人々の人生をも一変させ、また、終生にわたり心身を苛(さいな)み続ける原爆は、非人道兵器の極みであり「絶対悪」です。原爆の地獄を知る被爆者は、その「絶対悪」に挑んできています。
辛(つら)く厳しい境遇の中で、被爆者は、怒りや憎しみ、悲しみなど様々な感情と葛藤し続けてきました。後障害に苦しみ、「健康が欲しい。人並みの健康を下さい」と何度も涙する中で、自らが悲惨な体験をしたからこそ、ほかの誰も「私のような残酷な目にあわせてはならない」と考えるようになってきました。被爆当時14歳の男性は訴えます。「地球を愛し、人々を愛する気持ちを世界の人々が共有するならば戦争を避けることは決して夢ではない」
被爆者は平均年齢が78歳を超えた今も、平和への思いを訴え続け、世界の人々が、その思いを共有し、進むべき道を正しく選択するよう願っています。私たちは苦しみや悲しみを乗り越えてきた多くの被爆者の願いに応え、核兵器廃絶に取り組むための原動力とならねばなりません。
そのために、広島市は、平和市長会議を構成する5700を超える加盟都市とともに、国連や志を同じくするNGOなどと連携して、2020年までの核兵器廃絶をめざし、核兵器禁止条約の早期実現に全力を尽くします。
世界の為政者の皆さん、いつまで、疑心暗鬼に陥っているのですか。威嚇によって国の安全を守り続けることができると思っているのですか。広島を訪れ、被爆者の思いに接し、過去にとらわれず人類の未来を見据えて、信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を決断すべきではないですか。ヒロシマは、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現する地であると同時に、人類の進むべき道を示す地でもあります。また、北東アジアの平和と安定を考えるとき、北朝鮮の非核化と北東アジアにおける非核兵器地帯の創設に向けた関係国の更なる努力が不可欠です。
今、核兵器の非人道性を踏まえ、その廃絶を訴える国が着実に増加してきています。また、米国のオバマ大統領は核兵器の追加削減交渉をロシアに呼び掛け、核軍縮の決意を表明しました。そうした中、日本政府が進めているインドとの原子力協定交渉は、良好な経済関係の構築に役立つとしても、核兵器を廃絶する上では障害となりかねません。ヒロシマは、日本政府が核兵器廃絶をめざす国々との連携を強化することを求めます。そして、来年春に広島で開催される「軍縮・不拡散イニシアティブ」外相会合においては、NPT体制の堅持・強化を先導する役割を果たしていただきたい。また、国内外の被爆者の高齢化は着実に進んでいます。被爆者や黒い雨体験者の実態に応じた支援策の充実や「黒い雨降雨地域」の拡大を引き続き要請します。
この夏も、東日本では大震災や原発事故の影響に苦しみながら故郷の再生に向けた懸命な努力が続いています。復興の困難を知る広島市民は被災者の皆さんの思いに寄り添い、応援し続けます。そして、日本政府が国民の暮らしと安全を最優先にした責任あるエネルギー政策を早期に構築し、実行することを強く求めます。
私たちは、改めてここに68年間の先人の努力に思いを致し、「絶対悪」である核兵器の廃絶と平和な世界の実現に向け力を尽くすことを誓い、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げます。
2013年8月6日 広島市長 松井一実
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関連リンク被爆68年、広島で平和記念式典 5万人参列、米大使も(8/6) 原爆投下68年 オリバー・ストーン監督、広島を歩く(8/6) 核兵器廃絶へ190都市集結 広島で平和市長会議総会(8/3) 被爆体験、世界へ届け 広島市長と2人面談(8/3) 核非難声明賛同を国に促す内容に 広島市長の平和宣言(7/18)
②digital.asahi 2013/08/06
被爆68年、広島で平和記念式典 5万人参列、米大使も
http://digital.asahi.com/articles/OSK201308060006.html
【後藤洋平】広島への原爆投下から68年を迎えた6日、広島市中区の平和記念公園で平和記念式典が開かれた。松井一実市長は平和宣言で、核兵器を「非人道兵器の極みであり『絶対悪』」とし、廃絶を訴えた。政府が進めるインドとの原子力協定交渉に懸念を示し、核廃絶に向けて国際社会との連携を求めた。
松井市長は広島を「日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現する地」と位置づけた。核保有国を念頭に「威嚇によって国の安全を守り続けることができると思っているのですか」と語りかけ、対話による安全保障体制への転換を訴えた。
4月にスイス・ジュネーブであった核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える共同声明に80カ国が賛同したことを踏まえ、「核廃絶を訴える国が着実に増加している」と指摘。賛同しなかった日本政府に連携を求め、NPT体制の堅持、強化を先導するよう求めた。
オバマ米大統領が6月にベルリンで、核兵器のさらなる削減に言及したことを「核軍縮の決意を表明した」と評価。一方で、日本と、NPT非加盟のインドとの原子力協定交渉は「核兵器を廃絶する障害になりかねない」と批判した。
式典に参列した安倍晋三首相はあいさつで「我々には、確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります」と表明。一方、被爆者の原爆症認定の遅れが指摘されている問題では「一日でも早くその認定が下りるよう、最善を尽くします」とした。
6日時点の被爆者の平均年齢は79歳に迫る。遺族代表と松井市長は、この1年で死亡した5859人の名簿を原爆死没者慰霊碑に納めた。
式典には約5万人(市発表)が参列。外国代表は70カ国と欧州連合、国連総会議長が集い、初参加は2カ国だった。2010年と昨年に続き、米国のジョン・ルース駐日大使が参列。原発事故で全域が避難区域となった福島県浪江町の馬場有(たもつ)町長も昨年に続いて出席した。
③digital.asahi 2013/08/06
(きしむ欧州 「危機」の後遺症)独、頑固に倹約 道路・橋にガタ、でも修繕二の足
http://digital.asahi.com/articles/TKY201308060698.html
欧州で「緊縮財政を押しつけている」と批判されるドイツ。その倹約家ぶりは国内でも徹底していて、道路や橋にガタがきても政府は「安易に借金は増やせない」と修繕に二の足を踏む。他国に比べて財政はずっと健全なのに、なぜこうも頑固なのか。
……… 以下略 ……… (陜川=中野晃) 全文コピー完了
④digital.asahi 2013/08/06
韓国人被爆者、集団提訴へ 日本との交渉、政府に促す
http://digital.asahi.com/articles/TKY201308060525.html
広島や長崎での原爆被害をめぐり、日本政府に損害賠償を求める「個人請求権」があることを確認するため、韓国人被爆者の代表約80人が韓国政府を相手に近く集団提訴することを決めた。
日韓の請求権をめぐり、日本政府は1965年の国交回復時の請求権協定で「完全かつ最終的に解決された」との立場をとる。
一方、韓国政府は2005年、当時の日韓交渉文書を全面公開したうえで「協定の対象に被爆者や旧日本軍慰安婦などは含まれない」との見解を示した。
その後、韓国憲法裁が11年8月、約2600人の在韓被爆者の訴えを受けて「韓日両国で解釈の違いがあるのに政府が交渉しないのは不作為で、人権侵害にあたる」とする違憲決定を出した。韓国政府は同年、日本政府に協議を求めたが今なお実現していない。
今回の集団訴訟は、慰謝料を求めることを通じて、韓国政府に日本政府との交渉を促すものだ。
6日に犠牲者の追悼集会があった陜川(ハプチョン)の被爆者団体代表の沈鎮泰(シムジンテ)さん(70)は「植民地支配がなければ大勢の韓国人原爆犠牲者もなかった。日本政府は謝罪と賠償をすべきだし、韓国政府にも問題解決の責任がある」としている。
(陜川=中野晃)
【年配者の心得】
一 仏教から得ておくもの
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」(摩訶般若波羅蜜多心経)
自に菩薩(心)が在ることを観じましょう。 そして若波羅蜜多を深く行じましょう。
そして時折、五蘊はすべて空であることをはっきりと理解しましょう。
このようにして、一切の苦厄から離れましょう。
二 自らを灯火とし、自らを拠り所としましょう
おのおの、自らを灯火とし、自らを拠り所とせよ。(釈迦の言葉)
三 自分のことを自分自身で処理し治めましょう
「不由学問、而信義遜譲、澹泊自治、慷慨赴義者、亦往往有之」(童子問)…伊藤仁斎儒教概説書
四 生きもの(動植物…細胞や菌類も)はすべて同胞
犬もキリギリスもトマトも、みんな兄弟。
ガン細胞もDNAも、みんな兄弟。
五 諸行無常の見方ができるようにしましょう
星霜移り人は去り
第一高等学校寮歌 (ああ玉杯に花享けて)
花咲き花はうつろいて (四番)
露おき露のひるがごと
星霜移り人は去り
舵とる舟師は変るとも
我のる船は常えに
理想の自治に進むなり
故郷の廃家
故郷の廃家
幾年ふるさと 来てみれば
咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
門辺の小川の ささやきも
なれにし昔に 変らねど
あれたる我家に
住む人絶えてなく
昔を語るか そよぐ風
昔をうつすか 澄める水
朝夕かたみに 手をとりて
遊びし友人 いまいずこ
さびしき故郷や
さびしき我家や
自治とは何か?
デジタル大辞泉
1 自分のこと、あるいは自分たちのことを自身で処理し治めること。「大学の―」「―の精神」
2 「地方自治」の略。
日本国語大辞典
1 自分のこと、あるいは自分たちのことを自身で処理し治めること。
* 童子問〔1707〕上・29「不由学問、而信義遜譲、澹泊自治、慷慨赴義者、亦往往有之」
“学問に由らずして、信義遜譲、澹泊自治、慷慨義に赴く者、また往々これあり”
* 東京日日新聞‐明治14年〔1881〕11月14日「人民は自治居安の便を望むに切にして」
* 思出の記〔1900~01〕〈徳富蘆花〉2・6「西山先生の塾では、別に塾則と云ふものもなく、
大抵の事は自治に任せてあった」
* 一高寮歌・春爛の花の色〔1901〕〈矢野勘治〉「自治共同の笛の声」
* 礼記‐礼運「百姓則君、以自治也」
2 自然に治まること。
* 十七箇条憲法〔604〕「四曰〈略〉君臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治」
* 尹文字‐大道上「道用、則無為而自治」
3 地方公共団体が、その範囲内の行政・事務を公選された人によって行なうこと。地方自治。
* 将来之日本〔1886〕〈徳富蘇峰〉五「又眼を転じて其政治社会を見れば或は其一己人の
自由に任す可きことも猶政治の干渉を免れざるあり。或は町村の自治に任す可きことも
猶中央政府の牽制を受くる者あり」
* 袖珍新聞語辞典〔1919〕〈竹内猷郎〉「自治 Self Government 〈略〉地方団体の住民が
自己の選挙せる機関により其団体の事務を処理するを云ふ」
* 地方自治法〔1947〕一条「この法律は、地方自治の本旨に基いて、地方公共団体の区分
並びに地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め」
どうじもん【童子問】
江戸時代前期の儒者伊藤仁斎が著した問答体の概説書。童子に説き聞かせるという形式をとっているが,仁斎学の原理論・方法論・実践論を整然と体系的に示した書物として著名である。現存する最古の稿本は1691年(元禄4)成立,仁斎生前の最終稿本は1704年(宝永1)成立。仁斎死後,伊藤東涯らが増補訂正を加えて07年に出版した。3巻。《日本古典文学大系》,岩波文庫などに所収。【三宅 正彦】
淡泊(澹泊) dànbó [形] 名利を求めない,無欲な
08 12 (月) 日米の行政は秘密裏に動いていた
NHK.TV 総合2013年8月11日(日)午後9時00分~9時58分
自衛隊と憲法・日米の攻防
発足から60年になる自衛隊。いま、日米で自衛隊をめぐる機密資料が相次いで公開されている。 アメリカでは、1991年の湾岸戦争や1993年の北朝鮮ミサイル危機の際の国務省や国防総省の記録が見つかった。冷戦後の混沌とした国際情勢の中、アメリカが自衛隊をどう利用しようとしたのか、その思惑が見えてくる。機密資料が語るのは、現行憲法のもので自衛隊をどこまで“運用”するのかという、いまに直結する課題である。番組では、新資料と当時者の証言から、自衛隊をめぐる知られざる“攻防”を見つめる。
<NHKスペシャル「自衛隊と憲法 日米の攻防」> (NHK総合テレビ)
初回放送 2013年8月11日(日)21:00~21:58
再放送 2013年8月15日(木)午前0時40分~1時38分(14日深夜)
自衛隊と憲法~日米の攻防~(NHKスペシャル)1アメリカでは、1991年の湾岸戦争や1993年の北朝鮮ミサイル危機の際の国務省や国防総省の記録が見つかった。
自衛隊と憲法~日米の攻防~(NHKスペシャル)2自衛隊と憲法~日米の攻防~(NHKスペシャル)3冷戦後の混沌とした国際情勢の中、アメリカが自衛隊をどう利用しようとしたのか、その思惑が見えてくる。 機密資料が語るのは、現行憲法のもので自衛隊をどこまで“運用”するのかという、いまに直結する課題である。 見つかった機密資料と当時者たちの証言から自衛隊をめぐる知られざる“攻防”を見つめる、今夜のNHKスペシャル「自衛隊と憲法 日米の攻防」。 必見、要録画!
「自衛隊と憲法 日米の攻防」を見て 杉浦公昭
http://dai9jo.ti-da.net/e5177367.html
NHK番組の内容
発足から60年になる自衛隊。いま、日米で自衛隊をめぐる機密資料が、相次いで公開されています。戦後、自衛隊はどのような議論の中で運用され任務を広げてきたのか、機密資料からたどっていきます。
アメリカでは、1991年の湾岸戦争や1993年の北朝鮮ミサイル危機、イラク派遣などなど…。日本の機密資料からは、自衛隊がこの20年、どのような議論の中で運用されてきたのか内実が分かり、その際、米国の国務省や国防総省の機密資料からは、アメリカが自衛隊をどのように利用しようとしていたのか、その思惑が見えてきます。即ち、機密資料が語るのは、現行憲法のもので自衛隊をどこまで“運用しよう”としているのかという、いまに直結する課題であります。番組では、機密資料と当時者の証言から、自衛隊をめぐる知られざる“攻防”を見つめています。
NHK番組の感想
この番組を見て、日本政府は一方的にアメリカの言いなりになって自衛隊を運用してきたと思ってきていましたが、海部元総理の様にアメリカの言いなりにならず抵抗した政権もあったことが分かりました。
イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」(イラク特措法)の国会議論で自衛隊を戦闘地域に送り出すのは憲法違反との野党批判に、与党はイラクのサマワは非戦闘地域であり、後方支援に過ぎないと答弁していました。
その後、サマワの陣地に迫撃砲弾が何発も撃ち込まれたニュースがあり、自衛隊員たちの命を心配しました。しかし、誰一人殺されることなく殺すこともなく全員無事に帰ってきて安心しました。この番組を見るまでは、現地隊長は「全員塹壕に入って弾丸を打つ」なと命じたに違いないと想像していました。
現地隊長は米軍と同じと見なされないように米軍から離れた日本独自の活動が出来る場所を選び承認を得、しかも隊員には「我々は人道支援に来たのであり、治安の為に来たのではない」と訓示していたと言います。そこである時、銃を持った住民に囲まれても隊員たちは銃の引き金を引かなかったと説明しました。
私は憲法が彼らの命を守ったと理解していましたが、それに加えて現地隊長の優れた機転があったことを知り感動しました。
サマワの事例は、日本国憲法が保守政権の解釈改憲による海外派兵で自衛隊員の命を守れた最後の事例になると考えます。集団的自衛権の承認に踏み込めば、いよいよ自衛隊員の命が奪われることになるに違いありません。この策動を何としても国民の団結した力で杭止めようじゃあありませんか!
08 13 (月) 日野原重明の言葉
2013年8月13日
101歳、きみに語る命 日野原さん「授業」10年 父の原爆被害や空襲、胸に
http://digital.asahi.com/articles/TKY201308120652.html?ref=comkiji_redirect&ref=com_top_pickup
101歳の医師、日野原重明(ひのはらしげあき)さんには、子どもたちに伝えたいことがある。全国の小学校を訪ねて話す「いのちの授業」が10年を迎えた。未来の日本を背負うきみたちへ。戦争の時代を生きてきた身にしみていることを、話し続けている。
《命とは、きみたちが使える時間のことなんだよ。》
6月、日野原さんは、福島県川俣町にある仮設小学校の体育館にいた。向かい合うのは、東京電力福島第一原発事故のために同県飯舘村から避難してきた小学生約120人。少ししゃがれた、しかしはっきりとした声で、45分間立ちっぱなしで語りかけた。
《命は見ることも、さわることもできない。》
そう言って聴診器をわたす。子どもたちはそれを互いの胸にあてながら、心臓の音に耳を澄ませた。
《これが生きている証拠だよ。》
「授業」は、2003年に始まった。相手はいつも10歳ぐらいの子どもたち。「10歳になると、僕の言葉がわかるの。大人になってから教育するのでは遅いから」。海外の日本人学校も含めて、これまでの授業は200回を超えた。
二つの経験が、原点になっている。
*
一つは、1945年3月10日の東京大空襲。33歳の日野原さんは、聖路加国際病院(東京)の内科医長だった。その日、病院には続々と、大やけどを負った人たちが逃げてきた。
ベッドは足りなかった。院内のチャペルやロビーにもマットレスを敷いて患者を手当てした。といっても、できることは新聞紙を燃やした炭をただれた肌につけるくらい。「みんな死んでいくの。薬がないもの。なんにもない」
名前や年齢を尋ねても、患者たちは「苦しい、苦しい」と言うだけだった。「その日だけで100人くらい運ばれて、ほとんどが亡くなったと思う。見殺しにするような状態だった」。不思議と子どもをみとった記憶はない。病院にたどり着く前に道ばたで力尽きてしまったのだろうか。
「戦争は兵隊が死ぬだけでなくて、一般の人が死ぬ方が多いんです」
もう一つは、父・善輔さんのことだ。広島に原子爆弾が落とされた8月6日の数日後、かつて広島女学院の院長だった善輔さんは、教え子たちが気になると言って東京から広島に入った。1週間くらいたって帰ってきた善輔さんは、教え子はみな死んでしまった、とうなだれていた。
13年後、善輔さんは滞在先のアメリカで急死した。診断は劇症肝炎。日野原さんは、原爆投下直後の広島を覆っていた放射能が、父の体をむしばんだのだ、と思っている。
*
戦後68年。戦争を語り継ぐ人が少なくなっている。真珠湾攻撃さえ知らない若者が多くなったとなげく。「主な国はみんな核兵器を持っている。世界は平和ではない。もう壊れている」 戦争で焼け野原となり、武器を捨てて平和な国になるために、今の日本の憲法はできた。だから、いのちの授業の「教え子」たちには平和を守れる人になってほしい。平和を守るための憲法を変えることには「NO」と言う大人になってほしい。 「戦争の歴史をずーっと知っているの。第1次世界大戦(1914~18年)も知っているのよ」。子どもたちに伝えなくてはならない。人の命を傷つけることは絶対にいけないんだよ、と。それさえわかってもらえたら、大きくなってから戦争に走ることはないはずだ、と信じているからだ。
*
授業では「朝起きたら何をする?」「学校に来たら?」と一日のできごとをきく。「歯をみがく」「勉強する」と返ってくると、ニコニコして、今はすべての時間を自分のために使っていいんだよ、と語りかける。
でもね、と続けた。
《自分の命と同じように、人の命も大切にできるような、自分の時間を誰かのために使えるような、そんな大人になって下さい。僕の言葉がだいたいわかった人は、手を挙げて下さい。》
小さな手が、いっせいに挙がった。
(今村優莉)
◇
ひのはら・しげあき 1911(明治44)年、山口県生まれ。聖路加国際メディカルセンター理事長。2005年に文化勲章受章。朝日新聞別刷り「be」で「101歳・私の証 あるがまゝ行く」を連載中。著書多数。
8月13日朝刊記事一覧へ
空襲被害「戦後70年までに援護法を」 東京で女性講演(6/11)
(声)語りつぐ戦争 空襲被害の実相 伝える責務(2/19)
(日野原重明)「聖路加」が越えてきた歴史と今写真付き記事(5/4) 《次に取り上げる》
2013年05月04日
(日野原重明)「聖路加」が越えてきた歴史と今
http://digital.asahi.com/articles/TKY201305010040.html?ref=reca
■101歳・私の証 あるがまゝ行く
私が聖路加国際病院の院長だった1995年3月、地下鉄サリン事件が起こりました。地下鉄築地駅で被害に遭った人々が病院に運び込まれ、私は陣頭指揮をとって、640人の救急患者を収容して治療にあたり、後に1人が亡くなりました。事件は世界中に報じられ、病院は世に広く知られることになりました。同年、私は理事長職に任命され、現在まで病院運営の全責任を負っています。
さて今年4月、この病院は「聖路加メディカルセンター」と名前を改めたので、このエッセー末尾の私の肩書も変わりました。昨年10月に東京・大手町に「聖路加メディローカス」という分院を開設し、外国企業で働く人たちの健康指導、予防的健診や婦人の外来診療を始めたことなどが改名のきっかけです。
「聖路加」はイエス・キリストの使徒の一人「ルカ」(Luke)のことです。漢字で「路加」と表記し、日本では「せいろか」と発音する人も多いです。使徒ルカは医業に携わっていたので、米国の聖公会に属する病院の多くは「St. Luke’s Hospital」といった名を冠しています。
この病院は太平洋戦争時、米空軍のB29による爆撃を免れました。しかし終戦後はGHQの命令で米国陸軍の第42病院として接収されました。病院はいったん解散し、少数の職員が東京都の小さな整形外科有床診療所を借りて細々と診療を行い、ようやく1956(昭和31)年に接収解除となりました。
戦争中、軍部の命令でチャペルの塔の十字架は切られ、徳川家達公の言葉「神の栄光と人類奉仕のため」が刻まれた礎石も覆い隠されました。戦後に覆いは外されましたが、今も12カ所の留め具の跡が残っています。
現在、職員は1700人。今年4月には新採用者236人を迎えました。この病院の、病む人のために奉仕する精神は、創設者のトイスラー医師(1876~1934)が残したこんな言葉に込められています。「キリスト教の愛の心が、人の悩みを救うために働けば、苦しみは消えて、その人は生まれ変わったようになる。この偉大な愛の力を、だれもがすぐわかるようにあらわせるよう、計画されてできた生きた有機体がこの病院である」
(聖路加国際メディカルセンター理事長)
日野原重明さんコラム一覧
http://digital.asahi.com/article_search/s_list3.html?keyword=%A1%D2%C6%FC%CC%EE%B8%B6%BD%C5%CC%C0%A1%D3%20OR%20%A1%CA%C6%FC%CC%EE%B8%B6%BD%C5%CC%C0%A1%CB&s_title=%C6%FC%CC%EE%B8%B6%BD%C5%CC%C0%A4%B5%A4%F3%A5%B3%A5%E9%A5%E0%B0%EC%CD%F7&rel=1
(日野原重明)少し余裕を持って「彫る」準備を(08/10)
私は6月下旬、富山県高岡市を訪れました。「生と死を考える会」という協議会の、創立25周年を記念した講演会です。上智大学のデーケン神父、高木慶子シスターと、私が発足させました。主にホスピスや緩和ケア病棟(PCU)で、がん末期患者などのケアにあたる…
(日野原重明)水不足の香川に降る「恵みの雨」(08/03)
私は2000年9月に「新老人の会」を立ち上げたのですが、地方支部の発足は、全国の中で香川県が最も遅く、発…
(日野原重明)五所川原でびっくり仰天の連続(07/27)
6月初旬、私は青森市の青森空港に降り立ち、車で西へ30キロほどの五所川原市へと向かいました。「新老人の会…
(日野原重明)八千代座を守り抜いた山鹿の人々(07/20)
先日、私は熊本県山鹿市で講演会を開きました。ここには「八千代座」という、国の重要文化財でもある、小さな芝…
(日野原重明)がん患者を見舞う夫と盲導犬(07/13)
それは私が5月下旬、聖路加国際メディカルセンター内にある、末期癌(がん)の患者が入院している緩和ケア病棟…
(日野原重明)「健康寿命」と成田山での喝采(07/06)
千葉県の成田山新勝寺は、毎年お正月になると300万人近い初詣客でにぎわいます。5月下旬、その旧本堂「薬師…
(日野原重明)グルー駐日大使との思い出(下)(06/29)
前回に続き、1941年の日米開戦の頃、私が主治医を務めたジョセフ・グルー駐日米大使との思い出をお話ししま…
(日野原重明)グルー駐日大使との思い出(上)(06/22)
暗殺された故ケネディ元米大統領の長女キャロライン・ケネディ氏が、日本では女性初の駐日アメリカ大使として着…
(日野原重明)守り抜かれた五島列島の信仰(06/15)
私はゴールデンウイーク中、カトリックのシスターである高木慶子さんの企画で、約40人の参加者と共に、長崎県…
(日野原重明)あえて「死」を描いたアンデルセン(06/08)
私は100歳を迎えた年、何か新しいことを創(はじ)めようと思い、「童謡・童話作家になる」と宣言しました。…
(日野原重明)石橋湛山のような政治家を望む(06/01)
参院選が近づいています。そこで、石橋湛山(1884~1973)という政治家について話したいと思います。 …
(日野原重明)蛇の脱皮、眼の脱皮、心の脱皮(05/25)
米国で医師をしている私の三男の長男、つまり私の孫は、サンフランシスコで働いています。彼は長年、蛇をペット…
(日野原重明)ボーヴォワールがとらえた「老い」(05/18)
日本の少子高齢化問題が加速し、老人ケアがますます必要となる中、私は「老い」を重要なテーマとして考え続けて…
(日野原重明)「NO!」と言い続ける勇気(05/07)
高位の人からの重要な要請に「NO」を言うのは、大変な勇気がいります。私の人生にも、絶対に譲れないNOがあ…
(日野原重明)「聖路加」が越えてきた歴史と今(05/04)
私が聖路加国際病院の院長だった1995年3月、地下鉄サリン事件が起こりました。地下鉄築地駅で被害に遭った…
(日野原重明)親友の挑戦し続けた後半生(04/27)
2004年7月、私はこのエッセーで、親友のK氏について、ご紹介しました。K氏は私より5歳半若い、1917…
(日野原重明)私の椎骨骨折闘病記(下)(04/20)
2月上旬、咳の後で、背中に原因不明の激痛を感じた私は、検査の結果、椎骨(=背骨)を骨折したと分かりました。…
(日野原重明)私の椎骨骨折闘病記(上)(04/13)
誰でも一生の中でいくつかの病気にかかるものですが、「できれば痛い病気にはかかりたくないものだ」とはよく言わ…
(日野原重明)自分の心は自分で耕すしかない(04/06)
私はキリスト教徒でプロテスタントの教会に籍を置いていますが、プロテスタントの中にも教会に属さない、思想家の…
(日野原重明)「いのちがいちばん輝く日」を見て(03/30)
最近、試写会に招かれた、あるホスピスを舞台とした「いのちがいちばん輝く日」という映画のことを、ご紹介したい…
(日野原重明)団十郎さんのプロ意識をしのぶ(03/23)
市川団十郎さんが去る2月3日夜、入院中の病院で息をひきとられました。昨年暮れの京都南座での公演を休んで、…
(日野原重明)「生きている」という強い実感(03/16)
先日、私は東京・赤坂のアメリカ大使館の向かいにある、霊南坂教会付属霊南坂幼稚園の園児たちの前で、「いのち…
(日野原重明)伊能忠敬の「退職後」の偉業(03/09)
去る2月7日、元聖路加国際病院外科医の平山登志夫医師夫妻に案内され、千葉県香取市の伊能忠敬記念館を初めて…
(日野原重明)「残り時間ゼロ」を生きる(03/02)
私たちの命が有限であることは、誰もが心得ています。旧約聖書にはこうあります。 「人生の年月は70年ほどのも…
(日野原重明)母への感謝と音楽の思い出(02/23)
最近、母のことを振り返る機会がありました。私の母・満子は明治16年生まれです。父親はアメリカ留学から帰国…
(日野原重明)「巨人、大鵬、卵焼き」の時代(02/16)
元横綱の大鵬こと、納屋幸喜さんが1月19日、72歳で亡くなられました。私が大相撲に招待されて、国技館に赴…
(日野原重明)長生きしないと分からないこと(02/09)
金沢市には、世界的な仏教哲学者の鈴木大拙(1870~1966)の考えや足跡をまとめた展示館「鈴木大拙館」…
(日野原重明)サバティカルという制度(02/02)
サバティカルリーブ(sabbatical leave)という制度をご存じですか。その有意義さについて最近…
(日野原重明)森光子さんの笑顔をしのんで(01/26)
先日、亡くなられた女優の森光子さんは、1920年(大正9)生まれで、私との年の差は9歳でした。初めてお会…
(日野原重明)いつ始めても、遅くはない (01/19)
このエッセーもいつの間にか、昨年12月で500回を超えていたようです。2002年10月、「未来を担う人た…
(日野原重明)ノロウイルスには手洗いが一番(01/12)
この冬、ノロウイルスによる食中毒が流行しています。このウイルスは1968年、米国オハイオ州ノーウォーク市…
〈日野原重明〉宇宙にラッパを吹き鳴らす気持ち(01/05)
今年の10月、私は満102歳を迎えることになります。考えてみれば、「100歳を迎える」というかつて抱い…
〈日野原重明〉クリスマスツリーの思い出(12/22)
クリスマスが近づくと、街角や家庭にはクリスマスツリーが飾られます。ドイツの先住民には、常緑樹であるモミの…
〈日野原重明〉許し合い、未来に進む記念日に(下)(12/15)
真珠湾攻撃に関することで近年、特に心に残ったのは、2009年12月の朝日新聞夕刊の記事で、攻撃を受けた元…
〈日野原重明〉許し合い、未来に進む記念日に(上)(12/08)
12月8日は1941年、旧日本海軍が米国ハワイの真珠湾(=パールハーバー)を攻撃した日です。現地では12…
〈日野原重明〉ぽっかり空いた一日に(12/01)
私は通常、土日も祝日もなく、仕事をこなし、学会や講演に出かけています。ところが先日、スケジュール帳にぽっ…
〈日野原重明〉フェイスブックで無限に広がる夢(11/24)
皆さん、インターネット上のサービス「フェイスブック」をご存じでしょうか。パソコンなどから自分の個人情報を…
〈日野原重明〉様々な民族の心を音楽で一つに(11/17)
誕生日前夜の集いの「二つ目のサプライズ」についてお話しする前に、この集いにお招きした指揮者の柳澤寿男さん…
〈日野原重明〉海堀選手からの誕生日プレゼント(11/10)
私が101歳を迎えた誕生日の前日の10月3日夜、「日野原重明101歳記念祝賀の夕べ」が開かれ、会場は超満…
〈日野原重明〉秋空のもと、スキップで楽しく(11/03)
このエッセーの編集者が先日、「秋になると日が短くなり、気分がめいる、という人もいます。どうすれば楽しくな…
〈日野原重明〉相手を許す「2%」の余地(10/27)
近ごろ私の心に響いた言葉があります。岡山市のノートルダム清心学園の理事長を務めるシスター、渡辺和子さんが…
〈日野原重明〉哀愁漂う日本の子守唄(10/20)
9月上旬、風光明媚(ふうこうめいび)な宮崎市で開かれた、第12回日本音楽療法学会学術大会に出席しました。…
〈日野原重明〉「治験コーディネーター」とは?(10/13)
「治験コーディネーター」という言葉をご存じでしょうか。病院などで処方される様々な薬は、何段階もの「試験」…
〈日野原重明〉鎖を外し、裸の私になる日まで(10/06)
■101歳・ このエッセーを書き始めたのは私が満90歳の時でした。10年が飛ぶように過ぎ、当時、予想していた以上の健康…
〈日野原重明〉スピリチュアルな体験(09/29)
■100歳・ 私は去る8月25日から、3日間の日程で、岩手県平泉町や青森県十和田市を訪ねました。この旅は「スピリチュア…
〈日野原重明〉日米友好は草の根の交流から(09/22)
去る8月中旬、私はアメリカのボストンや近郊の町フェアヘーブンなどを訪ねました。主な目的は、「ホイットフィ…
〈日野原重明〉レット・イット・ビーの精神で(09/15)
イギリスのリバプールに滞在した際、私はこの町出身の世界的ロックバンド「ザ・ビートルズ」のゆかりの地を訪ね…
〈日野原重明〉協調性が不可欠なハンドベル(09/08)
去る7月31日朝、私はイギリスのリバプールへと飛んで、5日間にわたって開催された「第15回ハンドベル世界…
〈日野原重明〉「サポーティブケア」という新発想(09/01)
がんが進行し、死の不安と向き合う患者さんたちと接する医療「緩和ケア」「末期ケア」の呼称について7月、ある…
〈日野原重明〉「緩和」「末期」 暗い響きを見直す(08/25)
がんの患者さんで、がんが進行し、心身ともに痛みを感じている人たちが入院する「緩和ケア施設(PCU)」(英…
〈日野原重明〉宮沢賢治からもらった感動(08/18)
私は6月下旬、岩手県医師会主催の講演会のため、東北新幹線「はやぶさ1号」に乗り盛岡市を訪ねました。日本で…
08 17 (土) …天声人語…知性の声
…目の付け所と知性の声…として「天声人語」を見ていきたい。 その中で‘日本の軍国化’が、新憲法の願いに反して、独り立ち早々武力をもつことになったことが位置づけもないまま始まっていた。 武力をもつことは憲法に反するという極めて大事なことが、当時の指導者の意向で有耶無耶にされてしまった。 大きい堤の水も蟻の一穴から崩れる。 それがそのまま、国民の思考を狂わせたのです。 天声人語はそのことに直に表現していない。 老生はこの事(武力をもつことは憲法違反である事)に気付かなかった。 初めて政治の動きに反感をもったのはオネスト・ジョンと言われた 気づいてもそれを大事にアピールする雰囲気もなかった。 保安隊とオネスト・ジョン https://www.google.co.jp/#bav=on.2,or.r_qf.&fp=fcdb6b80edd7a4bc&q=%E4%BF%9D%E5%AE%89%E9%9A%8A%E3%81%A8%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3 1434夜『原発・正力・CIA』有馬哲夫|松岡正剛の千夜千冊 (アマゾン発注) http://1000ya.isis.ne.jp/1434.html 「天声人語」 2013年08月01日 ぎょっとした。麻生副総理が7月29日、ある会で改憲に触れて、こう述べたという。「気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうか」。同僚記者の取材と麻生事務所に確認した結果をあわせ、以下紹介する▼麻生氏はまずナチスがどうやって独裁権力を獲得したかを語った。それは先進的なワイマール憲法の下でドイツ国民が選択したことだ、と。いかに憲法がよくても、そうしたことは起こるのだ、と▼次に、日本の改憲は騒々しい環境のなかで決めてほしくないと強調した。それから冒頭の言葉を口にした。素直に聞けば、粛々と民主主義を破壊したナチスのやり方を見習え、ということになってしまう▼氏は「民主主義を否定するつもりはまったくない」と続けた。としても、憲法はいつの間にか変わっているくらいがいいという見解にうなずくことは到底できない▼ヒトラー政権は当時の議会の機能不全に乗じて躍り出た。対抗勢力を弾圧し、全権委任法とも授権法とも呼ばれる法律を作って、やりたい放題を可能にした。麻生氏の言うナチス憲法とはこの法のことか。そして戦争、ユダヤ人大虐殺へと至る▼巨大な罪を犯した権力集団を、ここで引き合いに出す発想が理解できない。熱狂の中での改憲は危うい、冷静で落ち着いた論議をすべきだという考えなら、わかる。なぜこれほど不穏当な表現を、あえてしなければならないのか。言葉の軽さに驚く。 「天声人語」 2013年08月05日 〈それほどに戦(いく)さがしたい男らよ 子を生んでみよ 死ねと言えるか〉。そんな歌と反戦平和運動への献身を残して、沖縄の中村文子さんが亡くなったのは6月末のことだ。存命なら来月に100歳を迎えるはずだった。追想の夏、お聞きした話の数々が胸をよぎっていく▼教師だった文子さんは、「ひめゆり学徒隊」と同じ世代を小学校で教えた。沖縄戦のときは出向して川崎市にいた。敗戦翌年に戻り、母や多くの教え子が戦火に消えたのを知る▼軍国教育を担ったことを、生涯をかけて悔やんだ。米国の沖縄戦フィルムを買い取って上映する「1フィート運動」を切り回し、平和を語るどんな小さな集まりにも顔を出した。「口が動く限りは」と基地への異議を訴え続けてきた▼国会の調査団が来たときは、〈痛かろう薬やろうかと調査団痛みを知らぬことばしらじらし〉と詠んだこともある。繰り返されてきた痛みの押しつけ。再びのオスプレイ配備に、泉下(せんか)で何を思うだろう▼こんな話もうかがった。川崎に住んだ戦争中、沖縄からの移住が多かったサイパン島が陥落したとき、彼女の出身を知らずに言う人がいたそうだ。「玉砕したのはほとんど沖縄の人ですって。内地人の犠牲が少なかったのが救いだったんですって」▼敗戦から68年、ヤマト(本土)の意識は根っこのところでどれほど変わっただろう。99%が1%に忍苦を強いる民主主義は正しいといえるのだろうか。追加配備によって、沖縄の怪鳥は24羽に倍増する。 「天声人語」 2013年08月06日 それは過去の記録ではない。写真家の石内都(いしうちみやこ)さんが、ドキュメンタリー映画『ひろしま』の中で言う。「私が生きている今の時間を撮っている」。被爆して亡くなった人の服や靴などの遺品を作品にしてきた▼それらは石内さんにとっては「生きもの」だ。「写ってね」と念力をかけて、カメラを向ける。ワンピースなら、着ていた女性のことを思う。彼女の透明な容姿が見えたような気がしたら、「こんにちは」と声をかけてシャッターを切る▼その撮影作業や、カナダで開いた写真展の様子を、日本生まれの米国人、リンダ・ホーグランド監督が映画にした。原爆忌をはさみ東京や大阪などで上映されている。核の悲惨を物語るのはキノコ雲だけではないと、今更のことを考える▼遺品の持ち主はどんな人だったのか。見る側も想像に誘われる。壊れた眼鏡の写真に「最後に見たのは何だったの」と問いかける人がいる。「ここにいるよ」という呼びかけを聞いたと話す人もいる。死者を感じ、死者と語る。映画が示すのは、そんな「新しい経験」としての広島だ▼ある時、写真展の会場に広島から修学旅行の女生徒がきた。偶然だった。ホーグランド監督は記念写真を撮らせて欲しいと頼み、その場面を映画の一コマとした。1945年に命を奪われたのはこんな子たちだったのだという痛切なメッセージだ▼「広島は表現され尽くしている」。石内さんは以前そう思っていたという。描かれるべき広島の「今」はまだまだあった。 「天声人語」 2013年08月07日 きのうに続き、死者と通じ合うということについて。来日中の米国のアカデミー賞監督、オリバー・ストーンさんが、広島の原爆ドームや平和記念資料館を訪れた。本紙のインタビューに「あの日の瞬間を感じた」と答えている▼感じる力、想像する力が大切というメッセージだ。「瀕死(ひんし)の被爆者がさまよっていた。川に浮き沈みする遺体も見えた」。この後、長崎と沖縄にも行く。米軍事戦略の最前線で苦しむ沖縄への「連帯」を、かねて語っている。米軍ヘリが墜落したばかりの現地で何を感じるだろうか▼「生き残った者は、死者の無念を自分自身の生き方として受け止めなければならない」。仙台で被災した宗教人類学者、山形孝夫(やまがたたかお)さんの言葉だ。近著『黒い海の記憶』の副題は「いま、死者の語りを聞くこと」▼♪わたしは何を残しただろう……。山形さんはNHKの復興支援ソング「花は咲く」の歌詞に目をとめる。ここで歌っているのは死者ではないか。だから、口ずさむとひとりでに涙があふれてくるのだ、と▼国策のため、繁栄のため、豊かさのためと称して、過去にどれだけの人々が犠牲にされてきたことか。戦争も、原爆も、沖縄の基地も、原発事故も。犠牲を強いる構造に抗(あらが)うには死者と共闘しなければならないと、山形さんは訴える。それは「殺すな」の哲学を徹底することだ、と▼8月、列島の各地で死者の声が聞かれるのだろう。平和への、未来への思いがこもごも語られるだろう。じっと耳を傾けたい。 「天声人語」 2013年08月11日 「泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ」と諺(ことわざ)に言うほどだから、泣く子をあやすのは難しい。俳人の中村汀女(ていじょ)に〈秋暑き汽車に必死の子守唄〉の一句があって、親の方が泣きたくなるような光景が目に浮かぶ▼自分のことではなく、汽車に乗り合わせた母子だそうだ。残暑の車中、母親への同情をこめた描写は、まわりの乗客の困った顔まで想像させる。汽車は混んでいたに違いない▼時は流れて平成。子どもの声への不寛容は往時の比ではなくなった感がある。「泣く子のせいでバスから降ろされた」「機内で泣きやまず、降りるときに何人かから罵声を浴びた」といった声が、半年前の本紙別刷り「be」に載っていた。この手の話を、昨今よく聞く▼かつて小欄で子どもの肩を持ったら、ずいぶん反論を頂戴(ちょうだい)した。若い親の甘やかしや、公共の場での無責任を叱る声が目立っていた。意外なことに年配の女性からの苦言が多かった▼うなずく点もあったが、生身の存在である子どもが泣いて、周囲の不機嫌に親が縮こまる図はいかがなものだろう。遊び声さえ迷惑がるご時世、「社会で育てる」という言葉はむなしくないか――などと、お盆休みの交通混雑のニュースを見ながら考えた▼親御さんの処世術としては、新幹線でも飛行機でも、先に周囲にあいさつしておくだけでだいぶ違うようだ。気づかいと寛容で歩み寄り、「お互いさま」の雰囲気をつくりたいものだ。「旅は道づれ世は情け」と、これも諺に言う。道中は楽しい方がいい。 「天声人語」 2013年08月13日 ほてりを残す夜の空に、天の川が美しい。盆休み、都会を離れた静寂の中で眺める人もおいでだろう。仰ぎつつ、宇宙の無限と悠久にわが身の小ささを思えば、逆におおらかな気分がわいてくる▼14億4千万キロの彼方(かなた)から見た地球を、米航空宇宙局の土星探査機カッシーニが送ってきた。漆黒に浮かぶ一粒の点。なるほど、こんなところに住んでいますか、私たちは。水の惑星は、点ながらにうっすらと青い▼土星の軌道からの写真には、かの星のリングが光の帯となって写る。特徴的な輪は地球から望遠鏡を覗(のぞ)く子どもたちの人気の的だ。その輪を観測したイタリア生まれの天文学者の名をもらって、探査機は地球を飛びたった▼これまでで最も遠くからの地球の写真は、太陽系を去りつつある探査機ボイジャー1号が、約60億キロ先から振り向いてパチリと撮った。1990年のことだ。そんな遠方からも、地球は青くとらえられた▼地上に戻れば、昨夜から今日の未明にかけて、ペルセウス座流星群が見ごろだった。音もなく流れる光の筋に、ささやかな涼を味わった方もおられよう。このところの猛暑はついに国内最高気温を塗り替えて、青い星が沸騰するような日が続く▼流星群は明後日ごろまで見られるという。星が流れたら、消えないうちに「秋、秋、秋」と願いを三度唱えようか。宇宙の時は悠久だが、夏から秋へ、冬から春へ、暑さ寒さは地球の時間が連れ去ってくれる。首を長くして、やさしい季節を待ちわびる。 「天声人語」 2013年08月15日 角川書店の創業者で国文学者でもあった角川源義(げんよし)に〈命綱たのむをかしさ敗戦忌〉の一句がある。1975年の8月15日にがんで入院し、最期の闘病中に詠んだと、長女で作家の故・辺見じゅんさんからお聞きしたことがある▼同世代が大勢落命したのに、自分は生き延びた。いま病を得て、治療を命綱と頼んでいる。そんな我が身を突き放して眺めた句であろう。源義氏は「終戦」という言葉を嫌った。辺見さんが不用意に使うと、「あれは敗戦だ。終戦なんて簡単に言うな」と怒ったそうだ。譲れない一点だったようである▼同じ思いの人は少なくないと見え、この欄でも毎年「終戦」と書くと、ご意見が届く。やや意味合いは異なるが、「終わるものなら、なぜ」と恨む手紙もあって考えさせられる▼先の戦争での日本人戦没者は軍民で約300万人。その数は戦争の末期に激増し、最後の1年で200万人近くが落命した。特攻、沖縄、空襲、原爆――悲劇の多くがこの間に起きている▼特攻隊で8月15日に出撃予定だった人の話を、朝日小学生新聞で読んだ。命拾いしたのだが、数日早く出撃した人もいよう。最後の1年を逆回しして玉音放送を早めてみれば、死なずにすむ人は日々増える。きょうは遅すぎた敗戦の日でもある▼「敗戦」への執着は、無謀な戦いに突き進んだ愚を忘れまいとする戦中派の心であろう。「軍事力の敗北であった以上に若い文化力の敗退であった」と源義氏は述べている。色あせぬ言葉だと思う。 「天声人語」 2013年08月16日 映画の木下恵介監督といえば数多(あまた)の名作で知られるが、戦時中に撮った「陸軍」も忘れがたい。出兵の行進の中にわが子を見つけた母親が、横についてひた走りに走り、最後に合掌して見送り、立ち尽くす▼軍の依頼で作りながら軍に睨(にら)まれた、伝説のラストシーンに重なる歌がある。〈わが生のあらむ限りの幻や送りし旗の前を征(ゆ)きし子〉。作者の小山ひとみさんは、戦死したひとり息子を詠んで、朝日歌壇によく選ばれた人だ▼行商をして独りの暮らしを立てていた人という。「その痛哭(つうこく)のあまりのはげしさに、この人の名を記憶されている読者もいるだろう」と、40年前、8月15日の小欄は書いている。戦争が終わって28年、戦没兵の親もまだ多くご健在だった▼きのう東京であった全国戦没者追悼式の参列予定者には、3年続けて戦没兵の父母の名はなかった。妻も16人で過去最少となった。戦後の時を死者と分かち持ってきた人が、いよいよ減りつつある▼記憶する人も死に絶えたとき、死者は真に死ぬという。その謂(い)いに従えば、戦没者は続々と「真の死者」になりつつある。静かでたしかな追悼のかたちが、むしろこれから大切になる▼とともに、他国の犠牲者も忘れてはなるまい。〈遺棄死体数百といひ数千といふ いのちをふたつもちしものなし〉と戦時中、新聞人で歌人の土岐善麿は詠んだ。これは日本軍の戦果を報じたニュースへの歌という。おごそかな真実の前に自国他国の違いはなく、母の痛哭に軽重はない。