折々の記へ

折々の記 2013 ④

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】06/15~     【 02 】06/17~     【 03 】06/22~
【 04 】07/17~     【 05 】07/24~     【 06 】08/02~
【 07 】08/05~     【 08 】08/07~     【 09 】08/17~

【 09 】08/17

  08 16 加害責任―歴史から目をそらすな  社説
       中韓、広がる失望 終戦の日  
  08 17 …天声人語…知性の声  


 08 16 (金) 加害責任―歴史から目をそらすな
         中韓、広がる失望 終戦の日

朝日社説 2013年08月16日
 加害責任―歴史から目をそらすな

 68回目の終戦の日だったきのう、安倍首相は靖国神社への参拝を見送った。

 尖閣、竹島や歴史認識の問題で、中国や韓国との関係が冷え切っている折である。ここで参拝すれば、両国との関係改善はさらに遠のく。

 見送りは現実的な判断と言えるだろう。

 首相が、過去とどう向きあおうとしているか。中韓のみならず、欧米諸国も目を凝らしている。靖国問題だけではない。先に首相が「侵略の定義は定まっていない」と、日本の戦争責任を否定するかのような発言をしたことなどが背景にある。

 対応を誤れば、国際社会で日本の孤立を招く。そのことを首相は肝に銘じるべきだ。

 その意味で、気がかりなことがある。

 きのうの政府主催の全国戦没者追悼式で、首相の式辞からアジア諸国への加害責任への反省や哀悼の意を示す言葉が、すっぽりと抜け落ちたのだ。

 加害責任への言及は、93年の細川護熙首相(当時)から歴代首相が踏襲してきた。

 第1次安倍内閣の07年には首相自身も「アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」「深い反省とともに、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表す」と述べていた。

 今回は、これまで表明されてきた「不戦の誓い」という表現も使わなかった。

 首相周辺は「式典は戦没者のため、という首相の意向を反映した」「アジアへの配慮は国会答弁でしている」という。

 だが、そんな方便は通用しないのではないか。式典は、先の戦争への日本の姿勢を世界に発信する場でもある。加害責任への言及が消えたことで、アジアの人々への配慮を欠いていると受け取られかねない。

 せっかく靖国参拝を見送りながら、逆のメッセージを発することにならないか。

 気になるのは、式辞からなくなった言葉が、植民地支配と侵略によって「アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」という95年の村山首相談話の表現と重なることだ。

 首相はかねて村山談話の見直しに意欲を示している。そうした意図が今回の式辞に表れたとするなら、とうてい容認できるものではない。

 首相は見送ったが、きのうは一部の閣僚や国会議員が大挙して靖国神社に参拝した。

 歴史から目をそらさず、他国の痛みに想像力を働かせる。こんな態度が、いまの日本政治には求められる。

朝日記事 2013年8月16日
 中韓、広がる失望 終戦の日

 終戦の日の15日、中国と韓国では日本に対し、失望と反発の声が広がった。安倍晋三首相自らは靖国神社への参拝を見送ったものの、全国戦没者追悼式の式辞がアジア諸国に対する加害責任に触れなかったことなどに、不信の目は向けられた。日本と中韓両国との距離感は依然、縮まらない。

 ■韓国 改善の期待、空振り 閣僚の参拝「嘆かわしい」

 「日本の政治家たちは、過去の傷を癒やす勇気ある指導力を見せるべきだ」。韓国の朴槿恵(パククネ)大統領は15日、日本統治からの解放を祝う「光復節」の演説で、安倍政権に歴史問題への対処を迫った。

 韓国では、日本の政治家の歴史認識への不満がかつてなく高まっている。安倍晋三首相が4月に「侵略の定義は定まっていない」と発言し、麻生太郎副総理も靖国神社に参拝。そこに改憲への動きが拍車をかける。

 韓国の野党議員らが15日に靖国神社での安倍政権への抗議行動を試み、与党議員らが14日に竹島(韓国名・独島〈トクト〉)上陸を敢行したのも、不信、不満の表れだ。

 朴氏が演説で日本の政治家の言動に改めてくぎを刺したのは、「歴史問題で譲るわけにはいかない」という自らの信念を貫くとともに、こうした世論にも応える必要もあったからだ。

 ただ、韓国政府内には「関係を悪化させたのは日本」との不信が根深い一方で、これ以上の関係悪化を避けたい思いもある。

 朴氏は15日、激しい非難の言葉は控え、独島や慰安婦といった言葉も避けた。「両国民の間では信頼のすそ野は広がっている」とし、日本の国民と政治家との間に一線も画した。関係改善に向けた「未来志向で前向きなメッセージ」(韓国政府関係者)という。

 韓国政府は野党議員らに対し、靖国神社行きを自制するよう要請。中央アルプスの韓国人登山客遭難事故では、日本の救助作業に感謝の意も伝えている。

 韓国政府内には、安倍首相ら主要閣僚が15日の靖国参拝を控えれば「対立緩和のきっかけになる」との声もあった。

 だが、安倍首相は全国戦没者追悼式でアジア諸国への加害責任への反省に触れなかった。韓国政府には改めて落胆と懸念が広がっている。政府関係者は「やはり本心はこうなのかと韓国人は思ってしまう。大統領演説の前向きな部分を生かすのがまた難しくなる」と嘆く。

 韓国外交省報道官は15日午後、安倍政権の一部閣僚らの靖国参拝を「嘆かわしい」と批判するコメントを発表。日本政府は同日、韓国与党議員の竹島訪問に抗議するなど、日韓はかみ合わないままだ。(ソウル=中野晃、貝瀬秋彦)

 ■中国 大使に「厳しい非難」 尖閣抗議船は出航させず

 中国外務省は15日、劉振民次官が木寺昌人・駐中国大使を呼び出し、安倍政権の一部閣僚の靖国参拝に対し、「強烈な抗議と厳しい非難」を表明したと発表した。劉氏は「(参拝は)中国やアジアの人々の感情を傷つけた」と強調した。

 4月に麻生太郎副総理らが靖国参拝した際、中国外務省は同じように木寺大使を呼び出したが、これを公表することはなかった。

 日中関係筋は、中国政府が今回、日本に厳しい態度をとっていることを国民に対して示すため、あえて公表したのでは、とみる。尖閣問題や歴史問題を巡って、中国の対日世論は悪化する一方だからだ。中国中央テレビは15日、「日本が右傾化している」と繰り返し、報じた。

 戦没者追悼式で安倍首相が加害責任に触れなかったことについても、中国外務省幹部は15日、「(これまでの政権との)大きな変化だ。今後の中日関係を考える上でも注目に値する」と懸念を示した。そのうえで同幹部は「一言で言えば、今日の日本側の対応には失望した」と語った。

 中国の公船「海警」による尖閣諸島周辺での活動は最近、さらに活発化している。7日には領海侵入が最長の28時間に及び、新華社通信は「日本の右翼の船が領海に不法侵入したため」と主張した。日中関係に詳しい中国の研究者は、終戦の日を前に日本を牽制(けんせい)する意図があったとの見方だ。

 一方で中国政府は、予期せぬ衝突や、対日世論を過度にあおるような動きを避けようとの態度も示す。対日外交の選択肢を狭める可能性があるうえ、中国が日中関係を悪化させたとの印象を国際社会に与えたくないためとの見方もある。

 中国の日本公館では15日、厳戒態勢がとられた。上海の日本総領事館前では、男性3人が「日本の軍国主義を消滅させろ」と書いた横断幕を掲げたが、公安当局者が説得し、すぐにその場を離れさせた。

 昨年8月、尖閣諸島に上陸した香港の民間団体「保釣行動委員会」の船は今回、出航すらできなかった。中国の複数の反日活動家は「出航をしないよう政府から圧力を受けた」と明かす。(北京=奥寺淳、広州=小山謙太郎)




【下平・記】

中韓の反応を見ているUSAの発信は、双方とも歩み寄ることを勧めた。 日本政府はUSAの指示通りその動きをとりはじめました。 恥ずかしい限りです。


大人っぽい対処の仕方、方便で政治の行方を決められないとは情けない。

アメリカ政府が企業所得税を軽減し、その結果景気は回復してきた。 一方、所得格差はますます大きくなって市民生活を圧迫し、富裕層はますます金儲けの道を求めることになった。

アベノミクスはアメリカの経済対策を真似たにすぎない。 国民所得と企業所得の格差は大きくなり、富裕層と非富裕層の意識と生活格差はますます増大していきます。 平和とか、文化生活とか、その言葉は多くの国民にとってのカムフラージュ(偽装=camouflage=フランス語) にすぎない。


 08 17 (土) …天声人語…知性の声

…目の付け所と知性の声…として「天声人語」を見ていきたい。 その中で‘日本の軍国化’が、新憲法の願いに反して、独り立ち早々武力をもつことになったことが位置づけもないまま始まっていた。 武力をもつことは憲法に反するという極めて大事なことが、当時の指導者の意向で有耶無耶にされてしまった。

大きい堤の水も蟻の一穴から崩れる。 それがそのまま、国民の思考を狂わせたのです。

天声人語はそのことに直(じか)に表現していない。 老生はこの事(武力をもつことは憲法違反である事)に正直気づかなかった。 初めて憲法違反の動きに反感をもったのはオネスト・ジョン註記1】と言われた言葉だった。 反感をもったにせよ、それを大事にアピールする雰囲気もなかった。



註記1

保安隊とオネスト・ジョン
   https://www.google.co.jp/#bav=on.2,or.r_qf.&fp=fcdb6b80edd7a4bc&q=%E4%BF%9D%E5%AE%89%E9%9A%8A%E3%81%A8%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3
   ↓↓
1434夜『原発・正力・CIA』有馬哲夫|松岡正剛の千夜千冊 (アマゾン発注→配本)
   http://1000ya.isis.ne.jp/1434.html


有馬哲夫
原発・正力・CIA
新潮新書 2008
ISBN:4106102498
編集:後藤裕二 装幀:新潮社装幀室
  イミシンなタイトルである。
  日本の原子力利用と原発導入にあたって、
  正力松太郎とCIAが
  利害を一致させて動いたというのだ。
  いや、それだけではなかった。
  そこにはもっと複雑な戦後が政官財絡ませながら、
  60年安保に向かって蠢いていた。
  それにしても正力は、
  なぜ初代原子力委員長になれたのか。
  そしてなぜ科学技術庁長官と
  国家公安委員長を兼任できたのか。



 いま、日本政府はTPP(環太平洋経済連携協定)に参画するかどうか、土壇場の選択を迫られている。農産破壊や医療破壊がおこると反対する向きも多い。民主党の中も半数近い議員が反対署名をしたらしい。
 とりあえずはEPA(経済連携協定)にどう対処するかを議論してから決めようというのだが、選択を迫られているといってもAPEC(アジア太平洋経済協力会議)で意志表明をするのかどうか、そのリミットをオバマに区切られただけで、こんな時期に準備なく拙速に走ることはないのだが(もっと早くから組み立てておけばよかったが)、どうもそういう雰囲気にない。
 似たようなことはしばしばおこっている。沖縄普天間基地の辺野古移転でもミスジャッジしてしまったし、ごく最近の暴力団排除条例もアメリカの意向やオバマの発言が反映していた。
 しかし国が何をどのように決定するかという問題は、なかなか一筋縄では組み上がらない。一気呵成に進めるべきこともあれば、慎重に組み立てていく必要もある。歴史を見ればたちまちわかることであるが、意外なキーパーソンや協力者の登場によって決まることもある。  戦後社会では、とくにアメリカとの駆け引きでどんなカードを用意しているかによって、事態が二転三転していった。日本が原発開発を決定していった経緯にも、このことが如実だった。
 本書に書いてあることがすべて事実であるかどうか、ぼくにはわからない。この手の多くはしばしば“陰謀史観”と言われてしまいかねないのだが、著者のこれまでの研究実績や、ここで述べられている事実追跡の細部性からみて、ほぼこのようなことがあったのだろうと思えた。著者は早稲田大学社会科学部のメディア論の教授で、ぼくより8年ほど若い同窓生にあたる。
 本書が暴いたのは、日本が原子力発電所の開発に向かったについては、そこに正力松太郎の野望とアメリカ、とりわけCIAの要求と仕掛けとの少なからぬ合致があったということである。これらのことを有馬はアメリカ国立第二公文書館などの「CIA文書」を首っ引きで読み解くことで“実証”した。

 念のために先に言っておくが、正力松太郎の野望は最初は原発にあったのではなかった。「マイクロ波通信網の建設」と「太平洋ネットワークの確立」にあり、そのために政治権力のトップの座にのぼりつめる必要があっただけだった。ところが理由はあとで説明するが、事情がいろいろ捩れて、これが原発開発プロジェクトの旗振り役に一転していった。
 一方、アメリカの要求と仕掛けは、日本に親米政権をつくること、反共産主義の基盤を盤石にさせること、そのために正力を利用することだった。アメリカは日本に原子力エネルギーの研究や開発を用意させる気はなかった。そんなことを促進させれば、日本は被爆国でありつつ原爆を保有する国になり、たちまち一流国になる。それはアメリカのすぐ選ぶところではない。けれども、ここにまた別の幾つかの捩れが生じて、これが正力の原子力活用シナリオの導入につながっていった。
 そういうふうになっていったのには、これらがおこった時期が重要になる。以上の一連の出来事は、日本が1955年の保守合同に向かっていこうとしていた時期であり、続いては1960年の新安保条約が締結されていく時期での出来事なのである。
 以下、事態進行の概略を一応の順を追って書いておくが、正力松太郎がどんな前半生を歩んだかということについては、佐野眞一『巨怪伝』(769夜)のときにあらかた紹介しておいたので、ここでは省く。

 1945年8月、広島と長崎にアメリカが開発した原爆が投下された。アメリカは自粛するどころか、この技術を独占するため、1946年8月、原子力法(マクマオン原子力法)を制定した。これは原子力に関する知識や技術の国外流出を防ぐ立法だった。
 ところが1949年8月、ソ連が原爆実験に成功した。このためトルーマン大統領は原子力法派の反対を押し切って、翌年1月に水爆開発を指令してソ連に対する軍事的優位をゼッタイ獲得することをめざし、1952年11月エニウェトク環礁で水爆実験に成功した。けれどもソ連はまたまたその水爆の実験にも成功した。原爆開発のときは4年がかかったのに、水爆では9カ月でソ連が追いついてきた。
 驚いたアメリカは(かなり驚いた)、やむなくむマクマオンの原子力法の方針を転換した。きっと機密漏洩がおこっているか、共産圏のスパイが活動しているにちがいないと見たジョゼフ・マッカーシー上院議員は“レッドパージ”(赤狩り)の強硬をまくしたてた。
 他方、まるでこれに呼応するかのように、アイゼンハワー大統領は1953年12月の国連総会で有名な「アトムズ・フォー・ピース」(原子力の平和利用)の演説をおこなった。核兵器の開発競争が世界平和の脅威になっているため、アメリカは原子力の平和利用を各国に呼びかけ、そのための共同開発を援助する用意があるというものだ。この提案を実現するための国際原子力機関を設置することも提案された(これがのちのIAEA)
 アメリカの意図はあきからだ。もはやソ連に先んじて原子力の軍事利用のカードを独占することは不可能だろうし、これ以上原爆・水爆の開発ばかりを進めると、アメリカは平和破壊のシンボルにされかねない。方針転換しつつ、そのかわりソ連圏の封じ込めを狙ったのだ。当然、このアメリカのシナリオでは日本にも一翼担わせたい

 敗戦後の日本は連合軍にすっかり占領されていた。SCAP(連合国軍最高司令官体制)のもと、マッカーサーGHQが“民主化”を徹底させていた。その渦中、国内では戦後復興をめざして、ありとあらゆる計画と再編と駆け引きと競争がおこっていた。
 占領下の日本にとって、1949年10月に中華人民共和国が成立したことと、1950年6月に朝鮮戦争が勃発したこと、同7月に日本でも“赤狩り”が始まったことが大きかった。2・1ゼネストは中止され、下山事件・三鷹事件・松川事件などが仕組まれた。松本清張(289夜)がことごとく暴いたことである。
 そうしたなか、マッカーサーは国家警察予備隊の創設と海上保安庁の拡充を指令した。51年9月にはサンフランシスコ条約と日米安全保障条約が調印締結された。全面講和ではなく、単独講和だった。単独講和にすぎなかったことが大問題で、このことがその後の日本の行方を決定づけたのだが、GHQのほうはこれで日本の兵器製造を緩和し、そのまま52年の保安隊の発足へ、54年の自衛隊の発足へと押し切っていった。


 当時、日本の政権は吉田茂の日本自由党が握っていた。自由党はもともとは鳩山一郎が辻嘉六や児玉誉士夫の資金を得て敗戦直後に立ち上げたものだったのだが、鳩山は組閣直前に公職追放で表舞台から去った。鳩山の番頭格の三木武吉、河野一郎、石橋湛山も公職追放を受けた。
 鳩山がもたついているあいだに、吉田は地歩を築いた。アメリカの評判も悪くない。戦争末期に吉田が近衛文麿・牧野伸顕らと組織した「ヨハンセン・グループ」の連絡役を務めていたことは、GHQやアメリカにも都合がよかったのだ。
 51年に公職追放は解除されたが、吉田は鳩山に政権を渡そうとはしなかった。鳩山は離党と復党をくりかえしつつ、日本民主党の結成に向かった。この吉田と鳩山のシーソーゲームを睨んでいたのが読売新聞グループの総帥・正力松太郎「ふざけるな! 読売新聞! 正力松太郎!」 だった。
 正力は「マイクロ波通信網」を構想していた。マイクロ波は第二次世界大戦中にレーダー開発によって注目され、その後は音声・映像・文字・静止画像などの大量情報を高品質で伝送できるため、放送と通信の両方に用いることが可能そうだった。正力はこの通信網を全国に張って、ラジオ・テレビ・ファクシミリ・データ放送・警察無線・列車通信・自動車通信・長距離電話などの多重サービスを一手に握ろうと考えていた。1953年8月、正力は日本テレビを開局するが、その名称が「日本テレビ放送網株式会社」であったのは、この通信網構想を反映していた。

 アメリカは正力のマイクロ波構想に賛成した。正力は折り紙付きの反共主義者だったし(もともと警視庁のボスだった→769夜参照)、正力の放送通信網ができれば、これを利用して日本に対する情報作戦や心理作戦がやりやすくなる。アメリカは正力の構想に100万ドルの借款を与える約束をした。
 正力は心情的には鳩山に加担していたが、吉田にはマイクロ波構想を実現させたいと考えていた。しかし吉田はこの構想に反対する。のみならず、アメリカの100万ドル借款を崩すため、当時の電電公社総裁の梶井剛のほうに4年間100億円の借款を外国銀行に申し込むように指示した。公衆電気通信法によって電気通信事業は電電公社の独占になっていたから、公社が借款を獲得すれば、正力の借款に政府承認を与える理由がなくなるからだ。
 吉田はアメリカの都合ばかりで日本が再軍備をすることには反対で、それなりの抵抗をしていたのである。そこからすると、正力の構想はアメリカが日本に要求する再軍備、とくに航空兵力の拡充と密接に結びつきすぎる。なんとか正力の野望を阻止しておかなければならない。
 そんな折りの1953年9月、怪文書がばらまかれた。「正力は100万ドルの借款を売るためにアメリカ国防総省と密約を結んだ、これは国民のための通信インフラを外国に売り渡すことになる」というものだ。
 怪文書は衆議院の委員会でもとりあげられ、正力はこれ以上の無理押しができなくなった。著者はこの怪文書は吉田が流したものだと見ている。アメリカも正力だけに頼ることに限界を感じて、駐留軍用のマイクロ波通信回線の建設と保守を電電公社に委託することにした(日本の電電体制もアメリカの意向を反映したわけなのである)。
 ここで鳩山が動いた。正力を自陣営にとりこみ、読売新聞を使って打倒吉田キャンペーンを張ろうというものだ。鳩山は正力がこのことに協力してくれれば、鳩山が内閣をつくることになったときに“大臣の椅子”を用意すると言ったにちがいない。

 発行部数は群を抜いていたが、正力の読売にとって永遠のライバルは朝日新聞である。しかも朝日には主筆に緒方竹虎(575夜)がいた。
 緒方はやがて副社長で退社すると、東久邇宮内閣の書記官長をへて、吉田内閣では官房長官になっていた。このままでは自由党総裁にのぼりつめそうだった。ここはなんとしても鳩山と組んで吉田と緒方を打倒し、そのうえでアメリカとの連携をひそかに強め、ひいては朝日を睥睨したい。
 新たなカードは53年12月のアイゼンハウアーの「アトムズ・フォー・ピース」に隠されたシナリオであった。マイクロ波構想を挫折させられたのなら、この新たな原子力シナリオの力を借り、勢いをつけたい。
 すでにアメリカは年末ぎりぎりになってオネストジョンを沖縄に配置していた。地対地の核ミサイルである。さらに明けて54年1月、国務省が「原子力発電の経済性」という秘密文書を送り付けてきた。ジェネラル・ダイナミックス社が建造した原子力潜水艦ノーチラス号がコネティカット州グロートンで、2万人が見守る派手な式典のもとで進水したのはその直後のことだった(搭載原子炉はウェスティングハウス社製)。社長のジョン・ホプキンスはその後も日米の原子力折衝の黒幕になっていく。
 正力は54年正月から読売新聞で大キャンペーン「ついに太陽をとらえた」を連載させると、3月の「原子力予算案」の可決に向けた準備に目を輝かせていた。日本の電源不足を補うために、吉田が7年越しの交渉のうえ、やっとアメリカの輸出入銀行から総額4200万ドルの借款を得たのだが(GEとウェスティングハウスが保証した)、これではとうていまにあいそうもなかったからだ。水力発電、火力発電に次ぐ“第三の火”としての原子力発電が必要なのである。

 3つのグループが原子力発電に向かって作動していた。学者グループ、産業グループ、政界グループだ。
 学者グループの中心は仁科芳雄である。本書にはあまりふれられていないけれど、仁科は理化学研究所(理研)に所属していて、戦時中に当時の大河内正敏所長から原爆の実現可能性についての研究を指令され(その指令の大元は陸軍航空技術研究所の安田武雄所長)、いわゆる「ニ号研究」に携わっていた。原爆製造としてはまことにお粗末な研究だった。ちなみに海軍にも「F研究」という原爆研究があって、これは京都帝国大学の荒勝文策の原子核実験が中心になっていたが、研究途上で敗戦によって潰えた。
 戦後の仁科に研究の再開を促したのはGHQのハリー・ケリーだった(ケリーは「戦後日本の科学復興の恩人とみなされることがある)。そこへマンハンタッン計画の首脳の一人だったアーネスト・ローレンスが来日して実験核物理研究の背中を押した。ローレンス放射線研究所にいた東大の嵯峨根遼吉があいだをつないだ(日本の核物理学研究の発展にはアメリカのカードが次々に提示されていたのだ)。
 産業グループの中心は電力事業業界である。のちの電力9社がこの主役を担ったのだが、それら電力事業各社が原子力発電にとりくむことになったのは、もともとは1939年に国策会社として発足した日本発送電株式会社(日発)が、戦後に設置した電力技術研究所を改編して、51年11月に電力中央研究所が誕生したことが大きかった。その傘下の電力経済研究所は、さっそく52年に新エネルギー委員会をつくって、ここで最初の本格的な原子力研究開発の下地ができた。

 3つ目の政治家グループの中心は中曽根康弘(当時は改進党)と稲葉修(のちに法相となる)・斎藤憲三(のちにTDKを創業する)・川崎秀二・松前重義たちだった。
 とくに中曽根は53年7月から11月までハーバード大学の国際問題研究会に出席するためアメリカ滞在をして、すっかり原子力のとりこになっていた。このとき中曽根の世話をしたのはハーバード助教授だったヘンリー・キッシンジャーである。日本の再軍備と原子力が中曽根のアタマの中ではっきり結び付いた瞬間だったろう。大井篤(元海軍大佐)をアメリカに呼んだ中曽根は、しきりに軍事施設の説明案内をさせた。大井はGHQ参謀第二部(通称G2)のウィロビーと昵懇だった。
 54年3月1日、アメリカのビキニ環礁での水爆実験によって近くでマグロ漁業をしていた第五福竜丸が「死の灰」で被災した(まもなく乗組員二人が亡くなった)。杉並区の住民が立ち上がると、ここに全国的な原水爆反対運動が盛り上がっていった。日本の原発議論に、4つ目のグループ、原水禁グループが加わったのである。
 第五福竜丸事件と原水禁運動の高揚はアメリカを苦らせた。国会でも「核の持ち込み」をめぐる議論が沸騰し、穂積七郎や中田吉雄が事前協議の必要性をアメリカに談判するべきだと問うた。
 伏見康治をリーダーとする日本学術会議も検討に乗り出し、「核兵器研究の拒否と原子力研究の三原則」を策定した。このままでは反米運動がおこりかねない。ホプキンスはさっそく「原子力のマーシャル・プラン」を提唱して、アメリカが開発途上国に対して原子炉を与える用意があることを示した。
 稲葉・中曽根らの政治家グループはここで攻勢に出る。54年5月に原子力利用準備調査会を立ち上げると(副総理が会長、経済企画庁が事務局)、一挙に原子力予算をとる段取りを練った。

 かくてようやく、このあたりから日米の原子炉推進派の利害が一致するようになっていく。正力は54年8月に新宿伊勢丹ですばやく「だれにでもわかる原子力」展を催させ、会場に被爆した第五福竜丸を展示するという離れ業をやってのけた。  正力の腹心である柴田秀利(のちの日本テレビ専務)は、東京某所(寿司屋「源」らしい)でCIA局員と何度か会って、正力の原子力作戦に協力してほしい旨を頼みこんでいた。このCIA局員はダニエル・スタンレー・ワトスンという人物で、佐野眞一の『巨怪伝』にも柴田とともに出てくる。

 二人のあいだには、
  ①現在の政権政党が混乱と分裂を続けているのは、親米保守を日本が続けていくうえで危険であること、
  ②このままでは共産主義者が反原子力を反米プロパガンダにしていくだろうこと、
  ③その隙にソ連が台頭してくるだろうこと、
  ④これらを防ぐには早々にホプキンスなどの原子力専門家が来日すべきであること、
  ⑤読売グループこれらの来日を大きく喧伝できるだろうことなどが交わされた。

 だいたいこんなふうな駆け引きのなか、アメリカでは「D-27計画」という対日心理作戦のあらかたが出来上がり、正力は日本の原子力平和利用の盟主として確固たる地位を獲得したのである。どうやらアメリカの日本洗脳と正力の野望が重なっていったのだ。
 政界の表舞台に出る準備も整ってきた。こうして54年3月に衆議院本会議を通過した原子力予算案にもとづき(原子炉築造予算2億3500万円)、“堂々たる原子力計画”が船出をした。折よく12月には鳩山念願の民主党政権が誕生していた。

 1955年に入ると、事態は次々に「原発日本」に向かって進み始めた。アメリカは井口駐米大使に原子力要員の訓練と濃縮ウランの提供をちらつかせ、日本テレビは「原子力の平和利用」や映画『原子未来戦』を放映し、正力は衆議院議員に打って出て初当選をはたした。
 そこへアメリカの原子力平和利用使節団(ホプキンス・ミッション)がやってきて、各地で原子力賛歌の講演会やイベントなどが打ち続くと、もう事態はとまらない。日米原子力協定が仮調印され、アメリカからの濃縮ウラン受け入れも決定された。
 しかし政権が不安定すぎた。55年2月の総選挙では鳩山の民主党は第一党になったものの、過半数には達しない。自由党の総議席数ともそれほどの差がつかない。社会党も右派と左派に分かれていたが、両派がまとまってこれに共産党が加われば民主党の議席を上回る。民主党・自由党・革新野党が三すくみなのだ。これでは政権は安定しない。日本の発展もない。こうしたなか自由党と民主党を合体させて、巨大な保守政党をつくろうとする動きが水面下で活発になってきた。
 正力はただちに動いた。5月17日、高輪の料亭「志保原」で自由党総務会長の大野伴睦と民主党総務会長の三木武吉を会談させ、保守大合同の第一歩を踏み出せたのだ。正力は大野と三木に2000万円の軍資金を渡した(実際にはそれ以前にアラビア石油の山下太郎が二人を密会させていたという説もあるし、そこに藤山愛一郎が加わっていたという説もある)。
 こうなると正力に擦りよる者も出る。揉み手をする者もアトをたたない。その一人、民主党の大麻唯男が正力に近づいて、保守大合同が成就した暁には、正力を総理にすることを約束した。この“密約”のことはCIA文書の中であきらかにされている。
 11月15日、民主党と自由党は解党し、自由民主党という巨大保守党が誕生した。しかし、正力は総理にはなれなかった。いや、誰もこの日には総裁になってはいない。幹事長の岸信介と総務会長の石井光次郎は総選挙をしたのちの総裁選びに転じたからだ。
 とはいえ正力に総理の椅子に座るチャンスがなくなったわけではなかった。先送りされただけだ。そう見た正力は引き続いて原子力カードを総裁レースの切り札にしようと、アメリカ相手に工作を重ねていった。CIAはこうした正力を「ポダム」の暗号で、当時の正力の“おねだり”の大半を文書に残していた。それによると、アメリカは正力の“死に物狂い”に呆れ始めたのだ。「正力は利にさとく、食えない奴だ」ということになっていったのである。

来日した原子力平和利用使節団(右端がウェルシュ、その左がホプキンス)を出迎える正力(左端)

 正力は総理大臣にはなれなかったものの、55年年末に原子力三法(原子力基本法・原子力委員会設置法・総理府設置法)が可決されると、明けた56年1月1日に総理府に原子力委員会が発足し、そこで初代の原子力委員長に就任した。1月5日に第1回の原子力委員会で、正力は「5年以内に採算のとれる原子力発電所を建設したい」とぶち上げた。
 産業界にも拍車がかかった。最初に走り出したのは三菱原子動力委員会で、旧三菱財閥系23社がずらりと顔を揃えた。ついで日立と昭和電工による16社の東京原子力産業懇談会が発足し、住友系14社の住友原子力委員会が、56年6月には東芝など三井系37社の日本原子力事業会がつくられた。
 原発はまさに挙国一致体制によって発進することになったのである。その頂点に正力松太郎がいた。日本原子力研究所の敷地として東海村が決定すると、その鍬入れをしたのは正力だった。かくて1960年1月16日、東海村の原子炉建設が着工した。その3日後、新日米安全保障条約(60年安保)がアメリカで調印された。
 本書はこのあとの正力の変転をさらに描き出しているのだが(たとえば原子炉開発のパートナーをアメリカからイギリスに乗り換えしようとしたことなど)、またアメリカとの複雑怪奇な駆け引きの裏面史を浮き彫りにしているのだが、実際には正力は“原子力の父”の誉れを得たのちは、しだいに“メディア王”のほうに戻っていくことになる。
 では、その後の原発開発はどうなっていったのかということは、本書よりも、吉岡斉の『原子力の社会史』(朝日選書)や武田徹の『私たちはこうして原発大国を選んだ』(中公新書ラクレ)のほうが詳しい。いずれも3・11以降に新版が出ている。

  新潮新書249

  『原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史』
  著者:有馬哲夫
  2008年2月20日 発行
  発行者:佐藤隆信
  発行所:株式会社新潮社

  【目次情報】

  プロローグ 連鎖反応
  第一章 なぜ正力が原子力だったのか
      メディア王と原子力発電/正力マイクロ構想/政界進出を決心させたもの/
      テレビ人脈と原子力
  第二章 政治カードとしての原子力
      アトムズ・フォー・ピース/アメリカの狙い、日本の思惑/軍産複合体/
      流れを変えた第五福竜丸事件/正力は原子力カードを握った
  第三章 正力とCIAの同床異夢
      寿司屋での会談/親米世論の形成/却下された正力の計画/
      讀賣の大キャンペーン柴田の狙いは/保守大合同工作
  第四章 博覧会で世論を変えよ
      再び正力マイクロ構想/幻に終った訪米/CIAの協力体制/
      博覧会で世論を転換
  第五章 動力炉で総理の椅子を引き寄せろ
      アメリカから見た保守合同/死に物狂いの正力、突き放すCIA/
      科学プロパガンダ映画『わが友原子力』
  第六章 ついに対決した正力とCIA
      総理の椅子に肉薄/東海村の選定/原子力朝貢外交/ついにCIAと決別/
      訪英視察団で衝動買いを止めろ/ソ連から動力炉を入手していいのか/
      大野派買収計画/閣外に去る
  第七章 政界の孤児、テレビに帰る
      石橋政権は短命に/政界の孤児となる/ジェット戦闘機とディズニー/
      とどめを刺したイギリスの免責条項/東京ディズニーランドへの道
  第八章 ニュー・メディアとCIA
      足長おじさんを誰にするのか/衛星放送の父になり損なう
  エピローグ 連鎖の果てに
  あとがき

  【著者情報】

  有馬哲夫[ありま てつお]
  1953年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。
  93年ミズーリ大学客員教授。現在、早稲田大学社会学部・大学院社会科学研究科教授(メディア論)。
  著書に『中傷と陰謀』『日本テレビとCIA』など


「天声人語」 2013年08月01日

 ぎょっとした。麻生副総理が7月29日、ある会で改憲に触れて、こう述べたという。「気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうか」。同僚記者の取材と麻生事務所に確認した結果をあわせ、以下紹介する▼麻生氏はまずナチスがどうやって独裁権力を獲得したかを語った。それは先進的なワイマール憲法の下でドイツ国民が選択したことだ、と。いかに憲法がよくても、そうしたことは起こるのだ、と▼次に、日本の改憲は騒々しい環境のなかで決めてほしくないと強調した。それから冒頭の言葉を口にした。素直に聞けば、粛々と民主主義を破壊したナチスのやり方を見習え、ということになってしまう▼氏は「民主主義を否定するつもりはまったくない」と続けた。としても、憲法はいつの間にか変わっているくらいがいいという見解にうなずくことは到底できない▼ヒトラー政権は当時の議会の機能不全に乗じて躍り出た。対抗勢力を弾圧し、全権委任法とも授権法とも呼ばれる法律を作って、やりたい放題を可能にした。麻生氏の言うナチス憲法とはこの法のことか。そして戦争、ユダヤ人大虐殺へと至る▼巨大な罪を犯した権力集団を、ここで引き合いに出す発想が理解できない。熱狂の中での改憲は危うい、冷静で落ち着いた論議をすべきだという考えなら、わかる。なぜこれほど不穏当な表現を、あえてしなければならないのか。言葉の軽さに驚く。

「天声人語」 2013年08月05日

 〈それほどに戦(いく)さがしたい男らよ 子を生んでみよ 死ねと言えるか〉。そんな歌と反戦平和運動への献身を残して、沖縄の中村文子さんが亡くなったのは6月末のことだ。存命なら来月に100歳を迎えるはずだった。追想の夏、お聞きした話の数々が胸をよぎっていく▼教師だった文子さんは、「ひめゆり学徒隊」と同じ世代を小学校で教えた。沖縄戦のときは出向して川崎市にいた。敗戦翌年に戻り、母や多くの教え子が戦火に消えたのを知る▼軍国教育を担ったことを、生涯をかけて悔やんだ。米国の沖縄戦フィルムを買い取って上映する「1フィート運動」を切り回し、平和を語るどんな小さな集まりにも顔を出した。「口が動く限りは」と基地への異議を訴え続けてきた▼国会の調査団が来たときは、〈痛かろう薬やろうかと調査団痛みを知らぬことばしらじらし〉と詠んだこともある。繰り返されてきた痛みの押しつけ。再びのオスプレイ配備に、泉下(せんか)で何を思うだろう▼こんな話もうかがった。川崎に住んだ戦争中、沖縄からの移住が多かったサイパン島が陥落したとき、彼女の出身を知らずに言う人がいたそうだ。「玉砕したのはほとんど沖縄の人ですって。内地人の犠牲が少なかったのが救いだったんですって」▼敗戦から68年、ヤマト(本土)の意識は根っこのところでどれほど変わっただろう。99%が1%に忍苦を強いる民主主義は正しいといえるのだろうか。追加配備によって、沖縄の怪鳥は24羽に倍増する。

「天声人語」 2013年08月06日

 それは過去の記録ではない。写真家の石内都(いしうちみやこ)さんが、ドキュメンタリー映画『ひろしま』の中で言う。「私が生きている今の時間を撮っている」。被爆して亡くなった人の服や靴などの遺品を作品にしてきた▼それらは石内さんにとっては「生きもの」だ。「写ってね」と念力をかけて、カメラを向ける。ワンピースなら、着ていた女性のことを思う。彼女の透明な容姿が見えたような気がしたら、「こんにちは」と声をかけてシャッターを切る▼その撮影作業や、カナダで開いた写真展の様子を、日本生まれの米国人、リンダ・ホーグランド監督が映画にした。原爆忌をはさみ東京や大阪などで上映されている。核の悲惨を物語るのはキノコ雲だけではないと、今更のことを考える▼遺品の持ち主はどんな人だったのか。見る側も想像に誘われる。壊れた眼鏡の写真に「最後に見たのは何だったの」と問いかける人がいる。「ここにいるよ」という呼びかけを聞いたと話す人もいる。死者を感じ、死者と語る。映画が示すのは、そんな「新しい経験」としての広島だ▼ある時、写真展の会場に広島から修学旅行の女生徒がきた。偶然だった。ホーグランド監督は記念写真を撮らせて欲しいと頼み、その場面を映画の一コマとした。1945年に命を奪われたのはこんな子たちだったのだという痛切なメッセージだ▼「広島は表現され尽くしている」。石内さんは以前そう思っていたという。描かれるべき広島の「今」はまだまだあった。

「天声人語」 2013年08月07日

 きのうに続き、死者と通じ合うということについて。来日中の米国のアカデミー賞監督、オリバー・ストーンさんが、広島の原爆ドームや平和記念資料館を訪れた。本紙のインタビューに「あの日の瞬間を感じた」と答えている▼感じる力、想像する力が大切というメッセージだ。「瀕死(ひんし)の被爆者がさまよっていた。川に浮き沈みする遺体も見えた」。この後、長崎と沖縄にも行く。米軍事戦略の最前線で苦しむ沖縄への「連帯」を、かねて語っている。米軍ヘリが墜落したばかりの現地で何を感じるだろうか▼「生き残った者は、死者の無念を自分自身の生き方として受け止めなければならない」。仙台で被災した宗教人類学者、山形孝夫(やまがたたかお)さんの言葉だ。近著『黒い海の記憶』の副題は「いま、死者の語りを聞くこと」▼♪わたしは何を残しただろう……。山形さんはNHKの復興支援ソング「花は咲く」の歌詞に目をとめる。ここで歌っているのは死者ではないか。だから、口ずさむとひとりでに涙があふれてくるのだ、と▼国策のため、繁栄のため、豊かさのためと称して、過去にどれだけの人々が犠牲にされてきたことか。戦争も、原爆も、沖縄の基地も、原発事故も。犠牲を強いる構造に抗(あらが)うには死者と共闘しなければならないと、山形さんは訴える。それは「殺すな」の哲学を徹底することだ、と▼8月、列島の各地で死者の声が聞かれるのだろう。平和への、未来への思いがこもごも語られるだろう。じっと耳を傾けたい。

「天声人語」 2013年08月11日

 「泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ」と諺(ことわざ)に言うほどだから、泣く子をあやすのは難しい。俳人の中村汀女(ていじょ)に〈秋暑き汽車に必死の子守唄〉の一句があって、親の方が泣きたくなるような光景が目に浮かぶ▼自分のことではなく、汽車に乗り合わせた母子だそうだ。残暑の車中、母親への同情をこめた描写は、まわりの乗客の困った顔まで想像させる。汽車は混んでいたに違いない▼時は流れて平成。子どもの声への不寛容は往時の比ではなくなった感がある。「泣く子のせいでバスから降ろされた」「機内で泣きやまず、降りるときに何人かから罵声を浴びた」といった声が、半年前の本紙別刷り「be」に載っていた。この手の話を、昨今よく聞く▼かつて小欄で子どもの肩を持ったら、ずいぶん反論を頂戴(ちょうだい)した。若い親の甘やかしや、公共の場での無責任を叱る声が目立っていた。意外なことに年配の女性からの苦言が多かった▼うなずく点もあったが、生身の存在である子どもが泣いて、周囲の不機嫌に親が縮こまる図はいかがなものだろう。遊び声さえ迷惑がるご時世、「社会で育てる」という言葉はむなしくないか――などと、お盆休みの交通混雑のニュースを見ながら考えた▼親御さんの処世術としては、新幹線でも飛行機でも、先に周囲にあいさつしておくだけでだいぶ違うようだ。気づかいと寛容で歩み寄り、「お互いさま」の雰囲気をつくりたいものだ。「旅は道づれ世は情け」と、これも諺に言う。道中は楽しい方がいい。

「天声人語」 2013年08月13日

 ほてりを残す夜の空に、天の川が美しい。盆休み、都会を離れた静寂の中で眺める人もおいでだろう。仰ぎつつ、宇宙の無限と悠久にわが身の小ささを思えば、逆におおらかな気分がわいてくる▼14億4千万キロの彼方(かなた)から見た地球を、米航空宇宙局の土星探査機カッシーニが送ってきた。漆黒に浮かぶ一粒の点。なるほど、こんなところに住んでいますか、私たちは。水の惑星は、点ながらにうっすらと青い▼土星の軌道からの写真には、かの星のリングが光の帯となって写る。特徴的な輪は地球から望遠鏡を覗(のぞ)く子どもたちの人気の的だ。その輪を観測したイタリア生まれの天文学者の名をもらって、探査機は地球を飛びたった▼これまでで最も遠くからの地球の写真は、太陽系を去りつつある探査機ボイジャー1号が、約60億キロ先から振り向いてパチリと撮った。1990年のことだ。そんな遠方からも、地球は青くとらえられた▼地上に戻れば、昨夜から今日の未明にかけて、ペルセウス座流星群が見ごろだった。音もなく流れる光の筋に、ささやかな涼を味わった方もおられよう。このところの猛暑はついに国内最高気温を塗り替えて、青い星が沸騰するような日が続く▼流星群は明後日ごろまで見られるという。星が流れたら、消えないうちに「秋、秋、秋」と願いを三度唱えようか。宇宙の時は悠久だが、夏から秋へ、冬から春へ、暑さ寒さは地球の時間が連れ去ってくれる。首を長くして、やさしい季節を待ちわびる。

「天声人語」 2013年08月15日

 角川書店の創業者で国文学者でもあった角川源義(げんよし)に〈命綱たのむをかしさ敗戦忌〉の一句がある。1975年の8月15日にがんで入院し、最期の闘病中に詠んだと、長女で作家の故・辺見じゅんさんからお聞きしたことがある▼同世代が大勢落命したのに、自分は生き延びた。いま病を得て、治療を命綱と頼んでいる。そんな我が身を突き放して眺めた句であろう。源義氏は「終戦」という言葉を嫌った。辺見さんが不用意に使うと、「あれは敗戦だ。終戦なんて簡単に言うな」と怒ったそうだ。譲れない一点だったようである▼同じ思いの人は少なくないと見え、この欄でも毎年「終戦」と書くと、ご意見が届く。やや意味合いは異なるが、「終わるものなら、なぜ」と恨む手紙もあって考えさせられる▼先の戦争での日本人戦没者は軍民で約300万人。その数は戦争の末期に激増し、最後の1年で200万人近くが落命した。特攻、沖縄、空襲、原爆――悲劇の多くがこの間に起きている▼特攻隊で8月15日に出撃予定だった人の話を、朝日小学生新聞で読んだ。命拾いしたのだが、数日早く出撃した人もいよう。最後の1年を逆回しして玉音放送を早めてみれば、死なずにすむ人は日々増える。きょうは遅すぎた敗戦の日でもある▼「敗戦」への執着は、無謀な戦いに突き進んだ愚を忘れまいとする戦中派の心であろう。「軍事力の敗北であった以上に若い文化力の敗退であった」と源義氏は述べている。色あせぬ言葉だと思う。

「天声人語」 2013年08月16日

 映画の木下恵介監督といえば数多(あまた)の名作で知られるが、戦時中に撮った「陸軍」も忘れがたい。出兵の行進の中にわが子を見つけた母親が、横についてひた走りに走り、最後に合掌して見送り、立ち尽くす▼軍の依頼で作りながら軍に睨(にら)まれた、伝説のラストシーンに重なる歌がある。〈わが生のあらむ限りの幻や送りし旗の前を征(ゆ)きし子〉。作者の小山ひとみさんは、戦死したひとり息子を詠んで、朝日歌壇によく選ばれた人だ▼行商をして独りの暮らしを立てていた人という。「その痛哭(つうこく)のあまりのはげしさに、この人の名を記憶されている読者もいるだろう」と、40年前、8月15日の小欄は書いている。戦争が終わって28年、戦没兵の親もまだ多くご健在だった▼きのう東京であった全国戦没者追悼式の参列予定者には、3年続けて戦没兵の父母の名はなかった。妻も16人で過去最少となった。戦後の時を死者と分かち持ってきた人が、いよいよ減りつつある▼記憶する人も死に絶えたとき、死者は真に死ぬという。その謂(い)いに従えば、戦没者は続々と「真の死者」になりつつある。静かでたしかな追悼のかたちが、むしろこれから大切になる▼とともに、他国の犠牲者も忘れてはなるまい。〈遺棄死体数百といひ数千といふ いのちをふたつもちしものなし〉と戦時中、新聞人で歌人の土岐善麿は詠んだ。これは日本軍の戦果を報じたニュースへの歌という。おごそかな真実の前に自国他国の違いはなく、母の痛哭に軽重はない




【下平・記】

  拝啓、総理大臣殿
  人を殺せば殺人罪に問われます
  国益、国防軍という
  軍人であれば
  他国の人を殺しても
  戦争という言葉がつけば
  殺人罪には問われません
  これはどういうことでしょうか?
  人を殺してもいいのでしょうか?
  お答えください。
                  敬具