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折々の記 2013 ⑤
【心に浮かぶよしなしごと】
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08 24 悔やむことの多かりき
09 19 今日の朝日新聞
09 20 ヒマワリの収穫時期
09 20 08 24~09 19音楽著作権侵害修復期間中の 新聞ニュース
08 24 (土) 悔やむことの多かりき
①2013年08月24日
「天声人語」
降りすぎれば厄介だが、干天(かんてん)なら慈雨と呼ばれ、恵みの雨と拝まれもする。底が抜けたような雨の目立つ夏ながら、水不足に悩む地も多い。雨量分布は斑(まだら)をなして、ある所では田んぼがひび割れ、ある所ではダムの水量が心細い▼鹿児島県南さつま市では先週、渇水対策本部の初仕事に雨乞いをした。棒でたたくと雨を呼ぶと伝わる巨石に、市長らが願をかけた。サツマイモやミカンへの影響が心配されるといい、降っても照っても農業は気がもめる▼現代版の「雨乞い」もある。東京都は21日、小河内(おごうち)ダム周辺の人工降雨装置を12年ぶりに動かした。ヨウ化銀の溶液を燃やして煙を上空に放つと、煙の粒子が雨粒をつくる理屈という。間もなくぽつぽつと雨が降りだしたそうだ▼人工降雨はれっきとした技術で、多くの国が取り組んでいる。北京五輪では「人工消雨」が話題にのぼった。雨にたたられないように、前もって雨を降らせて雨雲を消してしまおうとする試みで、理屈は同じである▼照れば雨を、降れば陽光を、人は求めてきた。雨乞いはもとより、昔の欧州には、雲に大砲を撃ち込み、刺激して雨を降らそうとした記録も残るそうだ。砲弾はむなしく落下して、雨が降ることはなかったろうけれど▼きのうは二十四節気の処暑。暦の上では暑さがおさまる頃となり、列島は広く雨の週末である。雨乞いの南さつま市も一息だろうか。気象を操る大望もいいが、天の恵みの好日と好雨はもっといい。秋への傾斜が待ち遠しい。
②2013年08月23日
「天声人語」
野球音痴、などと呼ばれる人がいる。作家の故・吉村昭さんの妻、作家の津村節子さんもそのくちだったらしい。テレビ観戦していた吉村さんの弟が「長嶋は、全くよく打つなあ」と感嘆した。そのときの応答が振るっている▼「それなら、長嶋という人につづけて打たせればいいじゃないですか」。吉村さんと弟は絶句したそうだ。その長嶋さんをイチロー選手に換えた珍問答が、アメリカのどこかの家庭であったかもしれないと想像すれば楽しい。イチローは全くよく打つなあ、と▼打撃の技を最高の域に磨き上げてきた仕事師が、また金字塔を打ち立てた。日本で9年、米国で13年。合わせて4千本目となる安打は、快音とともに、飛びつく三塁手の脇を抜けていった▼この高みに届いた選手は日本の球界にはいない。大リーグでも過去2人を数えるだけだ。「日米通算」という新しい形の数字だが、価値が減じることはあるまい。大リーグの記録にならなくても、一人の大リーガーの偉大な記録である▼高校時代の恩師、中村豪さんが言う「丸太の中で、竹ひごが通用した」の祝福がよかった。高2の夏、甲子園で初戦敗退したとき、鈴木一朗君は寄せ書きに「悔しい!」とだけ書いている。努力の天才は細身の少年だった▼腕っぷし自慢の中で、この10月に40歳。一年一年が勝負になるが、まだ安打記録の「確定」を見たくないファンばかりだろう。伸ばせるところまで――。身を削るような鍛錬に頭(こうべ)を垂れながら、そう思う。
③2013年08月22日
「もっと楽しい記憶残れば」イチロー、試合後会見
日米通算4千安打を達成したイチロー選手は試合後、日本メディアとの会見に応じた。一問一答は次の通り。
――今の率直な気持ちは
数字よりも、チームメートやファンの人たちが祝福してくれたことがとても深く刻まれた。ただ、ただ、感激した。
――多くの伝説的な選手と数字を並べてきた
これはややこしい数字。(日米)両方のリーグを足したものだから。4千の安打を打つには、8千回以上は悔しい思いをしてきた。それと常に向き合ってきたので、誇れるとしたらそこじゃないかな。
プロの世界でやっていて記憶に残っているのはうまくいかなかったこと。その記憶が強く残るからストレスを抱える。その中で瞬間的に喜びが訪れる。それがプロのだいご味。もっと楽しい記憶が残ったらいいのになと常に思っている。
――一つ一つの積み重ねが4千安打につながった
4千を打つには3999本の安打が必要なわけで、僕にとっては4千本目の安打もそれ以外の安打も同じように大切なもの。(ニューヨーク=大西史恭)
【下平・記】
イチローの『悔やむ』言葉の深さが胸に深くしみこみました。 若いのに素晴らしい人です。 『わが巨人軍は永遠に不滅です』この浮薄な言葉とは比ぶべきレベルではありません。
言葉の美しさは字面で比べる意味は何もありません。 どんな言葉でもその人が表わしたかった言葉です。 ただ、老生の比較思考という寒しい心が、両者の言葉を脳内で比較し、その結果が心をよぎるのです。
他山の石と座右の銘このことを思うとき、吾が身の悔やまれる言行を省みて‘悔やむことを自戒の根っことし微笑(ホホエミ)をこそ心がけよ’という一事を大切な心がけにしたいものです。 そしてそれは、簡単な言葉としては“人がよろこぶように”ということこそ座右の銘としたいのです。
吾願在他悦是佛願也。
悔を字通で調べてみると、次のような意味が含まれていることがわかります。
悔
毎は多く髪飾りをつけた女の姿。その甚だしいものを毒という。 毎・毒に甚だしいもの、上を蔽われたものの意があるのであろう。卜文に毎をの意に用いる。〔説文〕十下に「恨なり」とみえる。古い用法では、神意に合わないことをいい、〔詩、大雅、雲漢〕「を恭す 宜しく怒すること無(なか)るべし」、〔詩、大雅、抑〕「庶(ねが)はくは大无(なか)らん」のように神怒、神の降すとがをいう。 とが。 神怒に対して悔悟することをいう。くい、くいる。 国語で弔意を示すこと、くやみ。
「くいる」は自分について反省する倫理的な感じが強く、文章語的である,
後悔は智慧の糸口
含蓄のある言葉です。
09 19 (木) 今日の朝日新聞
①2013年09月19日 朝日新聞第1面の記事
日中関係「全然冷え込んでない」 小澤征爾さん語る
【今村優莉】世界的指揮者の小澤征爾さん(78)が、朝日新聞の取材に応じた。満州事変が始まってから、18日で82年になるのを前に、緊張が続く日中関係や、戦争体験に根ざす平和への思いを語った。
小澤さんは旧満州(中国東北部)で生まれた。2010年に食道がんを手術。長期休養もあったが、今月7日まで長野県松本市で開かれたサイトウ・キネン・フェスティバル松本で、完全復活を印象づけた。
「冷え込んでいるのは、日中政府間の関係。大事なのは一人ひとりの関係で、ぼくは、中国にいる友人たちを信じている」
■中国で生まれ、6歳で日本に
黒いポロシャツに、ピンクのシャツをはおった小澤さん。「写真はいつでもどうぞ。もう厚化粧してますから」とおどけてみせた。サイトウ・キネン・フェスの公演後ほどなく、行きつけという東京・成城の喫茶店で話を聞いた。
今、日中関係は冷え込んでいますが。そう問いかけると、「あなた今、冷え込んだって言ってるけどね。それは政府の人が冷え込んだんだよ」と答えた。
「俺なんか全然冷え込んでないよ。全然冷え込んでないよ。用があったら明日にでも(中国)行くし。全然冷え込んでない。そんな軽いもんじゃないよ。人生は」。冷え込んでない、を3回繰り返した。
「人間生きていくときにね、俺の政府と、お前の政府との仲が冷え込んでいるからって俺には何の関係もないよ。不便になるかもしれないけど、全然関係ない」「ぼくはまったく心配してない。中国にいる僕の仲間だって心配してないと思う。どこ行ったって関係ないよ、それは」。よく通る声だった。
小澤さんは、満州事変の発生から4年後の奉天(現・中国の瀋陽市)で生まれた。北京に移り、1941年に6歳で日本に引き揚げた。帰ったばかりのころは、けんかするとすぐ中国語が出て、ばかにされた。「頭に来て、中国語をしゃべらなくなっちゃった」
■父の存在、平和への思い支える
父の開作さんは満州事変の前に、歯科医として旧満州に渡った。その後、「五族協和」を唱えて結成された「満州青年連盟」の幹部となった。五族協和は漢、満州、モンゴル、朝鮮、日本の5民族が仲良くやろうという理念。日本がつくった傀儡(かいらい)国家「満州国」のスローガンだが、開作さんは愚直に取り組み、中国人と仲良くなりすぎて、憲兵ににらまれた。
戦争を経て、開作さんの平和主義者の側面は強まった。ベトナム戦争さなかの67年ごろ、当時カナダ・トロントで音楽監督をしていた小澤さんに開作さんは「ロバート・ケネディ(ケネディ元米大統領の弟)に会わせろ」と頼んだ。つてをたどって米ワシントンでケネディ氏に会った開作さんは「東洋人同士の戦争はもうやめさせないとだめだ」と直訴した。70年に72歳で亡くなったが、父の存在は、小澤さんの平和への思いを支えている。
■原点は東京での空襲体験
平和を願う原点としての体験は、引き揚げ後、終戦まで過ごした東京・立川で遭った空襲にある。45年春ごろ、自宅近くの桑畑で弟と遊んでいた。空襲警報が鳴り、戦闘機が向かってくる。「機銃掃射って言うの? ダカダカダカダカーッて撃つのよ。向こうはね、恐らくふざけてやっていた気がするな。桑畑なんて撃つ必要ないんだから」。防空壕(ごう)に逃げたいのに、恐怖で体が動かない。「操縦士の顔が見えたような気がしたの。それくらい低く降りてきたの。びゃーって」
同級生の自宅は直撃弾に襲われ、一家3人は即死した。迎撃された米軍の爆撃機B29から落下傘で降りてきた米兵が、撃たれて殺されるのも目撃した。死んだ米兵を見に行く人がいた。
「戦争はほんっとうにめちゃくちゃだと思った」
■中国で楽団指揮の約束
中国語こそ忘れたが、戦後も、小澤さんと中国との交流は続いた。
初の訪中は76年末。当時は文化大革命の影響で、西洋音楽の演奏はほとんど出来なかった。「今度帰ってくる時は指揮したい」と中国側と約束。2年後に北京で中国中央楽団を指揮した。国交正常化30周年では新日本フィルの指揮者として北京の舞台に。2002年に母さくらさんが94歳で亡くなると、遺骨の一部を北京の旧居の中庭に埋めた。「おふくろが植えた木があるのね。その下にみんなで、セレモニーしてもらって埋めたんですよ」
取材予定の時間が、20分以上過ぎていた。最後にもう一度、今の日中関係について聞いてみた。「政治的なことはよくわからないけど、一人ひとりがもうちょっと、ちゃんと考えるべきだよ。政府がどう言ったからだとか、新聞が書いているから、とかじゃなくて。大事なのは一人ひとり。政府よりも、政府じゃない普通のひとがどう考えるかが一番大事。僕はそう思う」。
ぐっと顔が近づき、その目はまっすぐ私に向けられていた。
◇
〈満州事変〉 日本が中国東北部(満州)や内モンゴル東部に侵攻した戦争。日本が日露戦争で得た旅順、大連などの租借地や南満州鉄道(満鉄)の経営権を取り戻す中国側の動きに対し、日本の関東軍が奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖の満鉄線を爆破。「中国軍が爆破した」との口実で攻撃を開始した(柳条湖事件)。当時の日本政府は、不戦条約などの国際法に違反しているという指摘を避けるために、戦争ではなく「事変」と認定することをわざわざ閣議決定した。
「快なるかな! その考え方!」
快なるかな、快なるかな! 全幅の賛意を惜しみません!
一人一人が生きている権利があり、保障もされている。 試みに Google で自由権を検索してみよう。
私たちは如何に自由を大事にしなければならないか、改めて自覚しなくてはなりません。 老生はそう思います。 単数思考を基にしよう、という言葉は使わなくてもいい。 独自性を大事にしていくことを小澤征爾さんの発言は端的に言ってくれました。
「快なるかな! その考え方!」
②朝日新聞朝刊(2013年09月19日)
リニア、1万1500円想定 品川―名古屋 のぞみより700円高く
JR東海は18日、東京・品川―名古屋で2027年の先行開業を目指すリニア中央新幹線のターミナル2駅と、沿線4県の中間4駅の構造を発表した。首都圏と中部圏を約40分で結ぶ大動脈の全容が明らかになった。▼2面=険しき道、38面=沿線、期待と懸念
沿線の環境影響評価(アセスメント)準備書に盛り込んだ。JR東海は「建設の環境への影響に問題ない」とし、2014年度の着工を目指している。
JR東海は、品川―名古屋で1時間に上下各5本のリニアの運行を想定。4本がノンストップで最速約40分。中間駅に停車するごとに8分ずつ延び、全駅に停車すると72分かかる見込み。東海道新幹線の同区間ののぞみは最速約90分だ。
また品川―名古屋のリニア料金について、のぞみより700円程度高い約1万1500円を検討する。
リニアの全長約286キロのうち、86%にあたる約246キロがトンネル。ターミナル駅は、東海道新幹線の品川駅と名古屋駅のいずれも地下に設置。中間駅は、相模原市緑区のJR橋本駅近くの新駅を地下に造るが、残り3駅はいずれも地上で、甲府市大津町、長野県飯田市上郷飯沼、岐阜県中津川市千旦林のJR美乃坂本駅近くに設ける。
③朝日新聞朝刊(2013年09月19日)2面
リニア、険しき道 南アルプス貫通・活断層横断・消費電力
東京―名古屋間を約40分で結ぶリニア中央新幹線は、前例のない巨大プロジェクトだ。深さが40メートルを超える地下の掘削や超伝導など最新技術も使われるだけに、不安も残る。リニアに死角はないのだろうか。▼1面参照
■弱い地層、残土処理は 南アルプス貫通25キロトンネル
「東京五輪までに名古屋まででも、乗れるようになればいい」
2020年の東京五輪開催が決まった翌日の9日。経団連の米倉弘昌会長は、27年のリニアの開業時期の前倒しに強い期待を示した。念頭にあるのは、64年の東京五輪にあわせて造られた東海道新幹線だ。
だが、JR東海の山田佳臣社長はつれなかった。「どうみても2ケタの年数はかかる。鉄腕アトムが一緒に掘ってくれれば別かもしれないが……」
開業の前倒しが難しいのは、リニアは全長286キロのうち86%が地下を通るため。地上からの深さは最大で40メートルを超し、建設期間は約10年かかる。
中でも、最難関と目されるのが、南アルプスを貫通する約25キロのトンネル。この地域の地層は「メランジュ」と呼ばれるタイプで崩れやすく、水が出やすい。
JR東海もこうした事実を把握。当初は、南アルプスを迂回(うかい)するルートも検討していた。しかし、09年、「より直線的で時間短縮が見込める」として現ルートに方針を転換した。
長野県在住で、60年以上、南アルプスを踏破してきた地質学者松島信幸さん(82)はこうしたJRの姿勢に「自然に対する思い上がりにほかならない。無謀な計画だ」と憤る。
「日本のトンネル掘削技術は進歩している」と語っていた山田社長だが、18日の記者会見では「技術面については工事を始めてみなくてはわからない」と語るなど、弱気も見せた。
南アルプスでの工事が難航すれば、開業の時期が延びるのは避けられない。東京―名古屋間で5兆4千億円、大阪までつながれば9兆円と国の年間公共事業費に匹敵する巨額の建設費が、さらにふくらむ恐れもある。
工事で生じると見込まれる残土の扱いも難題だ。南アルプスのトンネル工事だけで、長野五輪の工事で生じた量の約4倍の950万立方メートルと予想されている。
長野県環境保全研究所の富樫均主任研究員(環境地質学)は「県内に処理できるスペースはない。安全に環境負荷なく処理できるのか。トンネル工事は地上に影響しないというのは大きな間違いだ」と指摘する。地元では、オオタカの生息環境が損なわれないかといった懸念も広がっている。
■災害時の避難に課題 86%が地下、活断層横断も
リニアは、東海道新幹線が南海トラフ地震などで不通になった時の「バイパス」の役割もある。
では、リニアは地震でも大丈夫なのか。
JR東海は「リニアは地震に強い」と強調する。電磁力で浮かび上がって走るほか側壁もあるため、脱線の恐れがないからだ。たとえ停電しても、しばらくは浮上走行を維持。複数のバックアップブレーキで減速して、停車する。そもそもルートの86%を占めるトンネルは「地上よりも地震の揺れは小さい」と説明する。
問題は深い地下で被災し、停車した場合だ。
リニアは指令室で運行管理するため、運転士が乗っていない。乗客は車掌らの誘導で、約5キロごとに設けられ、階段やエレベーターのある非常口から地上に脱出することになる。
しかし、16両編成の場合、リニアの乗客は最大1千人。お年寄りや子どもが多ければ、避難は困難を極める。たとえ地上に脱出できても、そこが標高の高い山の中だったら、どうするのかという課題もある。
山梨、長野、岐阜にかかるリニアのルートは、複数の活断層を横切る。このため、JR東海は活断層では強度のあるコンクリートを使ったり、岩盤にボルトを打ち込んだりするなど、耐震性を強化する方針だ。「できるだけ距離が短い地点を横断するようルートも設定する」ともいう。だが「断層が動いた場合、短い距離で通過すれば安全というわけではない」(地元研究者)との声も出ている。
■消費電力、新幹線の3倍
リニアのピーク時の消費電力は1本あたり約3・5万キロワットと、東海道新幹線の約3倍にもなる。
リニアの最高時速は505キロで、東海道新幹線の約1・7倍。車体が強い空気抵抗を受けて高速で走れば、それだけ大量のエネルギーが必要になるからだ。
「新幹線でエコ出張」をうたうなど、JR東海はかねて、運行に使う電力の節約を意識し、「環境に優しい企業」というイメージを広げてきた。最新型の東海道新幹線の電力消費量も技術革新で初代の半分まで減らした。山田社長はリニアも「長年の技術開発の中でより電力の少ないように成長していくだろう」と期待を寄せる。
ただ、現在、国内のすべての原子力発電所が停止中だ。このままの状態が続けば、電力不足は慢性的となる可能性もある。そうしたなかで、電力を使うリニアを走らせることは、これまでの「エコ路線」に逆行しかねない。これに対し、山田社長は「このまま電力のない状態で(日本が)衰退していくとは思っていない」と語り、原発再稼働に期待感を示した。
④朝日新聞朝刊(2013年09月19日)
(天声人語) 集団的自衛権の議論再開
国会の古い議事録を読み返してみた。1975年の衆院予算委員会。約40年後のいま議論されていることが、当時から問題となっていたことがわかる▼日本が他国から攻撃され、自衛隊と米軍の艦船が公海上でいっしょに行動している時、自衛艦が米艦を守ることはできるのか。当時の宮沢喜一外相は「共同作戦をしておって共同の艦船を守らないということは、普通常識的に考えればいかにも奇妙なこと」と答えた▼8年後の同じ場でも同じ問いが出された。日本が武力攻撃を受け、助太刀に来た米艦もやられた。当時の中曽根康弘首相は「日本側がこれを救い出すことは、公海においても、憲法に違反しない個別的自衛権の範囲内である」と答弁した▼安倍政権の有識者懇談会がおととい、集団的自衛権をめぐる議論を再開した。憲法解釈を変え、行使できるようにするという。公海上で米艦を守れるかどうかは、その焦点の一つだが、政府はずいぶん前から守れると解釈してきたわけだ▼なにを今さらといいたいのではない。要は日本がまだ攻められていない段階でも米艦を助けられるようにしたいのだろう。だが、その場合の自衛隊の働きが、結果として米国の戦争に日本を巻き込むことにならないか。危ない選択である▼9条の縛りを専門家の判断だけで解き放つわけにはいかない。平和主義は、国民主権や人権尊重とともに戦後日本の自由な暮らしを支えた土台でもある。そのことにも目を向けた国民的な議論が欠かせない。
⑤南信州新聞(2013年09月19日)
JR東海がリニア環境影響評価準備書発表
JR東海は18日、2027年の開業を目指すリニア中央新幹線(東京―名古間)の環境アセスメントの結果案を記した環境影響評価準備書を発表した。県内駅は飯田市座光寺の恒川(ごんが)遺跡群を南に避け、同市上郷飯沼に設置する計画。風越山の水源域も南側に回避する。20日に公告し、沿線市町村の役場などで縦覧、10月2日の阿智村清内路から順に飯伊10カ所を含む県内12会場で説明会を開く。
環境影響評価法に基づき、東京―名古屋間の286キロの沿線7都府県別に作成。詳細なルートと中間駅の具体的位置、環境アセスメントの結果案などを記載した。
焦点だった県内駅の位置は、県や飯田市などが回避を求めていたJR元善光寺駅周辺800メートル四方に広がる恒川遺跡群を南側に回避し、商業店舗や住宅が集積する上郷飯沼に計画した。
中間駅の延長は1キロメートル、幅は最大50メートルで面積は約3・5ヘクタール。座光寺と上郷地区の境界を流れる土曽川を駅でまたぎ、東側の一部は座光寺地区に掛かる。パチンコ店の付近で国道153号線と交差する。駅の中心は飯沼北条で、品川のターミナル駅からの距離は約180キロ。
県内のルートは48・5キロ。地上部は中間駅を含む天竜川周辺と、大鹿村の小渋川(橋梁部は200メートル)、喬木・豊丘村境界の壬生沢川、飯田市大休・切石の松川の渡河部(同100メートル)の計4・4キロ。残りは山岳トンネルや段丘下部などのトンネル区間となる。
南アルプストンネルの総延長は約25キロ。県内経路の東端は3000メートル級の稜線の中で比較的標高が低い小河内岳の南側。大鹿村の小渋川周辺の集落を回避し、同河川を地上で渡河する。
天竜川右岸の河岸段丘までは山地部をトンネル構造とし、阿島橋の北側に長さ500メートルの橋梁を設けて天竜川を渡る。河岸段丘の地形を活かし、中間駅のすぐ西側、田園神社付近で飯田線直下の段丘下部に入る。
上郷黒田、今宮町、丸山町などの直下を通り、中央アルプス南縁の風越山付近の水源域や猿庫の泉を南に迂回。松川ダム下流の風越公園北側、中部電力松川第4発電所北を地上部で松川を渡る。
座光寺の中部電力飯田変電所南側に約3ヘクタールの保守基地、豊丘村伴野と大鹿村大河原に同面積の変電施設を設置する。
地上と結ぶ非常口は大鹿村大河原、豊丘村神稲、同市座光寺、同上郷黒田、同今宮町、阿智村清内路など計11カ所設ける。
中間駅とJR元善光寺駅の距離は約1キロ。在来線との結節性を確保するため、飯田線への新駅設置や路線付け替えなどが今後の課題として浮上するが、同社の澤田尚夫環境保全統括部担当部長は「地元から要請があれば請願駅の位置づけで、設置の可否について判断することになるが、現状は新駅の設置などについて考えていない」とした。
09 20 (金) ヒマワリの収穫時期
栽培については色々と勉強しておかなくてはならない。
一番困ったのは、四年ほど前に鳥の群れが来て収穫がほとんどダメになった年がありました。 防鳥網を翌年購入したが、ネットを張るのに大変苦労しました。 それに加えて収穫時期がはっきりしなかったことでした。 時期が遅いとヒマワリのかさが黒くなって種を取るのに苦労しました。 そうかといって早いと種のもぎ取りに時間がかかり、さらに搾り取る油の量が少なくなってしまいます。
だから勉強しなければならないのです。
対策は二つでした。
一つは収穫時期(http://www.youtube.com/watch?v=Uq3Kv43YqXo)を知ることでした。
もう一つは病害虫対策(http://www3.cty-net.ne.jp/~fumifuji/insects.html)を知っていることでした。
今年は上手にできたから、ヒマワリ油が多くとれると思っています。
09 20 (金) 08 24~09 19音楽著作権侵害修復期間中のニュース
2013年9月13日
(天声人語)国会の長すぎる夏休み
からだがだるい。朝起きるのも、学校に行くのもめんどくさい。授業中も気が散って身が入らない。子どもたちの「夏休みボケ」の症状である。明けてからまもなく2週間。そろそろ調子も切り替わるころか▼この時期にまだ休んでいる職場がある。国会である。参院選後に短く開いただけで夏休みに入った。視察などの活動はあっても、肝心の審議がない。もう1カ月を超えてしまった。われらが選良たちも、休みボケにならないか心配である▼仕事ならいくらでもあったのだ。なにより福島第一原発の汚染水漏れである。安倍首相は胸を張った。「私が保証する。状況はコントロールされている」「完全にブロックされている」。え、そうだったの? ブエノスアイレスでの唐突な言葉に驚いた人は少なくなかろう▼発言は本当なのか、根拠はなにか。直ちに、首相に詳しい説明を求めるのが国会の役目ではないか。今月末に閉会中審査を開くというが、遅すぎる。そもそも五輪招致に差し支えるからと、決まる前になにもしなかったことがおかしい▼麻生副総理の「ナチス発言」も放置したままである。民主党の大畠幹事長は先週、撤回しただけですむのかと述べた。これもやはり国会の場で真意を問い質(ただ)し、議論をかわす。それくらいしなければ内外の十分な理解は得られないだろう▼与党は旧習を改め、首相らの国会出席の負担を減らしたいという。それ自体はうなずける話だ。しかし、その前に働くべし。夏休みが長すぎる。
ニュース>朝刊(2013年09月13日)
増税対策、政官の攻防 景気重視する官邸VS.財政再建狙う財務省 5兆円超検討
安倍政権は、消費増税する場合の景気の落ち込みを防ぐ経済対策を、総額5兆円超とする検討に入った。3%の税率引き上げで生じる負担増は約8兆円。低所得者に現金を配ったり、公共事業を増やしたりすることで、約2%分を国民に「還元」する考えだが、増税で一律に吸い上げたお金が、公共事業や一部の企業に偏って分配されることにもなりかねない。
「経済対策の規模や中身を安倍晋三首相が掌握したうえで、最終的に判断する」。菅義偉官房長官は12日の記者会見でこう強調し、首相の最終決断には時期尚早との考えを示した。
首相は経済指標が軒並み好転したことに自信を深め、指標上は消費増税の環境が整った、と判断している。それでもすぐに増税を決断しないのはなぜか。ようやく衆参両院で過半数を獲得し、政権基盤を安定させたのに、ここで景気を腰折れさせては長期政権への道筋が描けなくなる――との思いが強いからだ。
首相の意向を踏まえ、官邸側は景気落ち込みを防ぐのに十分な対策を講じる考え。だが、財政再建を重視する財務省は対策の規模を抑えようと考え、官邸との攻防が激しくなっている。
「できるだけ財政出動せずに済ませたいという財務省の思惑がみえみえだ」。今月2日、福岡市で講演した甘利明経済再生相は、財務省を名指しで批判した。
甘利氏が問題視したのは財務省と内閣府が作った資料。増税すると、来年4~6月期の実質経済成長率がマイナス5・3%に落ち込むという民間の経済専門家40人の予測の平均を示し、人々がモノを買おうとする需要が「約1・8兆円落ち込む」との予測を記した。
財務省の本音は「(経済対策の規模が)大きくなると、新たに国債(借金)を発行しなければならなくなる」(幹部)。甘利氏は、財務省が経済対策の規模を2兆円以下に抑えようとしていると受け止めた。麻生太郎財務相は「規模は言える段階ではない」と口をつぐむが、官邸側には財務省の存在は「目の上のたんこぶ」に映る。首相に近い閣僚は早くも「財務省の敷いたレールには乗らない」と牽制(けんせい)する。
そんななか、官邸側から出てきたのが「5兆円超」だ。消費税率を一気に3%引き上げると、企業や家計などが年間8兆円程度の負担増となり、この手当てには、増税分2%分以上に相当する5兆円超は必要だと判断した。毎年1%刻みの緩やかな増税を主張する浜田宏一、本田悦朗両内閣官房参与の首相ブレーンの存在も影響を与えた。
自民党では12日、高市早苗政調会長と野田毅税調会長が会談。政権は9月末までに経済対策をまとめる方針。補正予算編成に加え、財務省の反対が根強い法人税の実効税率の引き下げも検討される可能性がある。首相周辺はこう話す。
「これから大激論だ」
(池尻和生、大津智義)
■財源・使い道、置き去り 国債頼み・「ばらまき」懸念も
経済対策の財源や中身の議論はこれからだ。
検討されているメニューは、所得が少ない人の家計を助けるための現金給付や、企業の設備投資を促す減税などだが、いずれも必要なお金は数千億円規模と見られている。
そこで、金額を積み上げるために検討されそうなのが、災害に備えた道路整備など「国土強靱(きょうじん)化」のための公共事業だ。
財源のメドも立っていない。「消費増税3%分(約8兆円)の2%分以上を還元する」というのが5兆円の根拠だが、そもそも経済対策を盛り込む今年度の補正予算は、来年度から入ってくる消費増税のお金を当てにできない。
計算できる補正予算の財源は、(1)前年度に使い残したお金(2)高めの金利で見積もっている国債の利払い費の余り(3)景気回復による税収増の計3兆円程度にとどまる。景気回復で予想以上に税収が増えるか、国の資産を売るなどして「埋蔵金」をひねり出す必要があるが、それでも足りなければ、国債(借金)の追加発行を迫られる。
補正の規模を抑え、減税の規模を大きくすると、財政への負担はもっと重くなる。減税は「制度」として定着するため、税収が毎年減ってしまう。財政赤字が膨らみ、足りないお金をまかなうための国債発行が増えてしまう。たとえば法人税率を1%引き下げ、企業のもうけが増えなければ、国の税収は毎年4千億円減る計算だ。
国債増発や減税をすれば「国の政策にかかる予算の赤字を今後2年間で4兆円ずつ減らす」という中期財政計画の達成は難しくなる。増税対策のために財政再建が遅れかねないのだ。
3%の消費税を導入した1989年や、税率を5%に上げた97年は、消費増税の代わりに、同規模かそれ以上に所得税などを減税し、家計へのショックを和らげようとした。だが、予算の半分を借金に頼る今の日本で、消費増税に見合う大型減税は難しい。
一方、1回限りの対策は、公共事業や企業補助金に偏りがちになる。家計から吸い上げる消費税のお金を、企業や公共事業にばらまく構図になりかねない。
(大日向寛文、鯨岡仁)
■「我慢も必要」「一定のコスト」 金融関係者ら評価割れる
金融関係者や経済専門家の見方は分かれる。
「国債を追加発行するほどの規模の補正予算にすれば、国は借金漬けから抜け出せなくなる」。BNPパリバ証券の河野龍太郎チーフエコノミストは心配する。みずほ証券の上野泰也氏も「無駄な対策はせず、(財政出動を)我慢する時があってもいい」と大型の対策には懐疑的だ。メニューが企業向け中心であることにも、「消費増税で落ち込むのは個人消費。投資減税などでは落ち込みをカバーできない」とみる。
逆に、8%への消費増税で国内総生産(GDP)が4兆円落ち込むと試算する大和総研の熊谷亮丸(くまがい・みつまる)氏は、「落ち込み分をカバーできるし、株価も下支えされるだろう」と歓迎する。経済対策で国の借金が増えても、「長い目でみれば財政再建につながる。対策は一定のコストとみるべきだ」と指摘している。
(笹井継夫)
ニュース>朝刊(2013年09月13日)
安保の秋、駆け足 国家戦略、年内策定へ議論 有識者会議が始動
安倍晋三首相肝いりの安全保障論議が12日、始動した。この日は外交・安保政策の指針をまとめる国家安全保障戦略(NSS)に関する有識者会議がスタート。12月の防衛大綱策定に向け、急ピッチで議論を進める。首相は集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更に意欲を示しており、集団的自衛権に関する有識者会合も17日、7カ月ぶりに再開する見通しだ。
「NSSは安保政策に指針を与えるものだ。防衛大綱とあわせて議論いただきたい」
首相は12日、NSSのあり方について話し合う有識者会議「安全保障と防衛力に関する懇談会」(安防懇)の初会合で力を込めた。
NSSは、これまで首相の国会演説や防衛大綱などでバラバラに示してきた外交・安保方針を取りまとめ、20~30年間の長期にわたる指針を打ち出す。
安防懇は10月下旬から11月にかけてNSSについて結論を出し、その後、民主党政権時代に策定された防衛大綱の見直しに着手するという2段階の手続きを描く。これを受け、政権はNSSと、NSSを反映した防衛大綱をそれぞれ閣議決定する見通しだ。
政権は10月15日召集予定の臨時国会で、外交・安保政策の司令塔となる国家安全保障会議(日本版NSC)の設置法案と、米国などと情報共有を進めるため国の機密情報を漏らした公務員らへの罰則を最長で懲役10年とする特定秘密保護法案の成立も目指す。政府高官は「NSSはNSCを動かす『理念』だ。議論を急がなくてはいけない」と指摘する。
安倍政権がNSS策定に乗り出した背景には、北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の海洋進出など、東アジア地域を中心に「大変厳しい安保環境」(首相)への危機感がある。
安防懇座長を務める北岡伸一国際大学長は初会合後、NSSのキーワードを「国際協調主義に基づく積極的平和主義」と説明。「戦前の帝国国防方針はひどい内容だった。日本が戦前に道を誤った大きな理由だ」と振り返り、NSS策定に向けた取り組みを「日本は近代において外交と防衛を統合した戦略的方針を作ったことはない。画期的なことだ」と語った。
■集団的自衛権も近く法制懇再開
一方、参院選をはさんで小休止していた集団的自衛権の行使容認をめぐる議論も、再び動き出す。政権は17日、首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を7カ月ぶりに開く予定だ。
安倍政権は8月、行使を可能にする憲法解釈の変更に向け、行使容認に積極的な小松一郎・前駐仏大使を内閣法制局長官に起用。「集団的自衛権は行使できない」としてきた憲法解釈の元締に積極派を充てた。
安保法制懇の座長代理を務める北岡氏がNSSを議論する安防懇座長に就いたのも、集団的自衛権とNSS、防衛大綱をめぐる論議を結びつける狙いがある。
首相は12日、防衛省で自衛隊幹部らに「現実とかけ離れた建前論に終始してはならない。私は現実を直視した安保政策の立て直しを進めていく」と強調。集団的自衛権行使の手続きを定める国家安全保障基本法案を来年の通常国会で成立させる構想も政権内にある。
ただ、政権が行使容認へと一直線に突き進むかは不透明だ。公明党の山口那津男代表は10日、訪問先の米ワシントンで「(憲法解釈を)変えるのであれば、なぜ、どのように変えるのか。丁寧に議論を進め、国民の理解を得る必要がある」と慎重な考えを重ねて示し、帰国後に首相と会談する考えを示した。政府高官は「反応が厳しいのは公明党だけではない。自民党内にも議論があるし、国民への説明も必要だ」。
北岡氏は12日、安保法制懇の報告書提出時期については「政府の要請に従って出す」と、首相の政治判断に任せる考えをにじませた。
2013年08月27日
「法制局に決定権」は不正確 小松長官インタビュー要旨
集団的自衛権にかかわる憲法解釈が非常に重要であることは間違いない。政府は「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の報告書も踏まえ、内閣として熟議のうえ、結論を出すと言っている。その結論を出す過程では当然、意見は申し上げる。
集団的自衛権「内閣が決定」首相の認識に理解示す
意見を述べるにあたっては、法治国家としての法的安定性、整合性、継続性を十分に勘案しなければならない。(集団的自衛権の行使には)歴代長官も有力な学者も極めて慎重にすべきだ、と述べている。今までの政府見解もそう書いている。それを総合的に勘案して、最後は内閣が決定する問題だ。内閣法制局が最終的な決定権を持っているという認識は法的に正確ではない。「内閣が『右』と考えているのに、法制局が勝手に『左だ』と決めている」という認識は正しくない。政府見解は何度も閣議決定されている。
その結論に従い法的な手当てが必要であれば、(法案づくりの段階で)法令審査は当然やる。
国連憲章には、安全保障理事会が必要な集団安全保障上の措置をとるまでの間、どの加盟国も個別的、集団的自衛の固有の権利を妨げられない、と書いてある。隣の家に強盗が入って今にも殺されそうで、110番してパトカーがすぐには来ないかもしれないので隣人を守る。これも国内法でいえば他者のための正当防衛だ。国内法でも自助は仕方ないとなっている。国際法の仕組みとして同様の制度があるのは、そんな変な制度ではない。
安倍晋三首相は日本をめぐる安全環境が厳しさを増しているという認識を持っている。宗教・民族対立や貧困に基づく国家の破綻(はたん)などに国際社会の責任ある一員として支援するのは必要ではないか、と。これは多くの国民が共有している認識と思う。安全保障の法的基盤のあり方が今のままでいいのか真剣に議論すべきだ、というのが首相の問題意識だ。
2013年8月11日
法制局長官人事を批判 共産・志位委員長
共産党の志位和夫委員長は10日に東京都内で講演し、安倍内閣の内閣法制局長官人事を「集団的自衛権行使の容認派に強制的にすげ替えるクーデター的やり方は、法治国家を土台から揺るがす」と批判した。新長官の小松一郎・前駐仏大使は、歴代内閣が憲法解釈で禁じてきた集団的自衛権行使の容認に前向きだ。
2013年08月20日
集団的自衛権行使容認「非常に難しい」 最高裁判事会見
【田村剛】前内閣法制局長官の山本庸幸(つねゆき)氏(63)が20日、最高裁判事への就任会見で、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認について、「私自身は非常に難しいと思っている」と語った。憲法判断をつかさどる最高裁判事が、判決や決定以外で憲法に関わる政治的課題に言及するのは、極めて異例だ。
最高裁・山本判事の会見詳細憲法改正をめぐるトピックス
山本氏は、解釈変更を目指す安倍内閣が、集団的自衛権の行使容認に前向きな内閣法制局長官を起用したため、最高裁判事に転じた経緯もあり、発言には政権内からの反発も予想される。ただ、最高裁内部では、「個別の裁判に関して見解を示したわけではなく、発言に何ら問題はない」と静観する見方が大勢。発言が進退問題に結びつく可能性はなさそうだ。
この日の会見で山本氏は、「我が国への武力攻撃に対し、他に手段がない限り、必要最小限度で反撃し、実力装備を持つことは許される。過去半世紀、ずっとその議論で来た」と自衛権をめぐる解釈の経緯を説明。「集団的自衛権は、他国が攻撃された時に、日本が攻撃されていないのに戦うことが正当化される権利で、従来の解釈では(行使は)難しい」と述べた。
その上で、行使容認には「憲法の改正しかない」と指摘。「それをするかどうかは、国会と国民のご判断だ」と話した。
一方で、「国際情勢や安全保障上の状況の変化などを踏まえて内閣が決断し、新しい法制局長官が理論的な助言を行うことは十分あり得ると思う」とも述べた。
安倍内閣は今月8日、集団的自衛権の行使容認に前向きな小松一郎・前駐仏大使を法制局長官に就任させ、山本氏は最高裁に転じた。山本氏を含めて歴代の法制局長官は「憲法上、集団的自衛権の行使は認められない」との解釈を示してきたが、小松氏を長官に据えた今回の人事は、容認に向けた体制づくりの一環とされる。
◇
山本庸幸(やまもと・つねゆき)氏 京都大卒、73年通商産業省(現経済産業省)入省。内閣法制局第1部長、内閣法制次長などを経て、11年12月から内閣法制局長官を務めた。63歳。
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朝刊(2013年09月13日)
アベノミクス・李コノミクスに関心 経済政策、懸念の声 夏季ダボス会議
中国・大連で始まった「夏季ダボス会議」で、安倍晋三首相の経済政策「アベノミクス」と、中国の李克強(リーコーチアン)首相の「リー(李)コノミクス」が、並んで話題になっている。アベノミクスに対しては「金融緩和の副作用はないのか」、リーコノミクスには「影の銀行問題は大丈夫か」と、懸念を指摘する意見も出ている。
世界の要人らが国際問題を話し合う「世界経済フォーラム(WEF)」は、毎年冬にスイス・ダボスで年次総会(ダボス会議)を開いている。2007年からは毎夏、中国でも会議を開いており、「夏季ダボス会議」と呼ばれている。
12日は、アベノミクスが議題になった。三つの柱の一つである「成長戦略」を巡り、20年の東京五輪開催が追い風になる、との意見が相次いだ。竹中平蔵・慶大教授は「『アベノリンピックス』という新たな言葉を提唱したい」と述べ、五輪を機に長年の課題だった規制緩和を一気に進めることを提案した。米ライシャワー東アジア研究所のケント・カルダー所長も「全国的にはまだ抵抗が多い施策も、東京を経済特区にして始める手がある」と語った。
ただ、会場からは「来年4月に予定される消費増税と、景気のバランスをどうとるのか」「大規模な金融緩和の副作用はないか」といった課題についての指摘も数多く出た。
一方、「リーコノミクス」を巡る議論では、中国経済の「アキレス腱(けん)」といわれる不透明な金融制度が話題になった。中国政府が国有銀行の金利を規制しているせいで、規制の枠外にある「影の銀行」が膨らんでいるとして、金利の完全自由化を求める意見が出た。中国の李首相は11日の開会式で、「短期的な刺激策に頼らず、構造改革を進め、健全な経済成長を維持する」と述べ、改革に取り組む姿勢を強調した。(大連=斎藤徳彦)
9月13日朝刊記事一覧
ヒアリング、賛否双方から意見百出 消費増税、10月までに首相判断写真付き記事(9/1)
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2013年9月13日
進まぬ和平、共存遠く イスラエル・パレスチナ、オスロ合意から20年
イスラエルとパレスチナの共存を目指した「オスロ合意」から13日で20年。なぜ、和平交渉に終わりが見えないのか。交渉を見続けてきた2人に聞いた。(山尾有紀恵)
■占領許すサインだった PLO幹部、ハナン・アシュラウィ氏
私は「オスロ合意」とは呼びたくない。それはただの「原則宣言」で、「和平合意」ではなかった。交渉を通じて紛争を政治的、平和的に解決することを承認した点では、武装闘争時代の終わりだった。だが、パレスチナに帰ってきたパレスチナ解放機構(PLO)などの指導部は、独立国家ではなく占領下に住むことになった。
問題だったのは、段階的なアプローチを適用したことだ。最終地位の協議に取り組まず、「暫定」とされたことはすべてイスラエルにとって「永久」的なものになった。イスラエルはこの20年、パレスチナ人の土地や資源を盗み、入植地を建設、封鎖し、検問所を建てた。
問題はいかに早くイスラエルが占領地から撤退するかということだったのに、我々がどれだけの責任を引き受ける能力があるかという話にすり替わった。皮肉にもPLOは、イスラエルに対する治安面や経済面の協力者とさせられたのだ。
オスロ合意にサインする必要はなかった。イスラエルに権力を行使させ、占領を続けることを許すものだったからだ。イスラエルは我々が「占領の管理人」であることを望んだ。我々が望んでいたのは占領を終わらせることだったのに。
2国家解決策がまだ可能なのかどうか、分からない。非常に難しくなっていると言える。イスラエルの現在の政権にとって、短期的な土地の獲得は、長期的な平和と安定に勝るのだ。
和平や交渉の原則に反対する人はいない。ただ、その条件について懐疑的なのだ。アメリカはイスラエルの味方だ。その保護下で入植活動は進み、エルサレムは完全に併合されて変質した。それでも、交渉なのか。
イスラエルは超法規的な国であるかのように振る舞い、国際法の順守を拒否している。一方でパレスチナ世論は今、和平に無関心だ。だが今の交渉が失敗に終われば、将来は再び暴力が噴き出すかもしれない。デモもあるかもしれない。
交渉は、政治的意思と真の約束があれば、1カ月あれば決着する。だがそれは、米国が政策を変え、イスラエルの政権も変わらない限り、起こりえない。
*
1946年、ヨルダン川西岸ナブルス生まれ。米国留学後、ビルゼイト大学(西岸)で英文学を教え、87年の第1次インティファーダに参加。91年以降の和平プロセスでパレスチナの報道官を務めた。キリスト教徒。
■世論は「離婚」望んでる 元イスラエル外相、シュロモ・ベンアミ氏
オスロ合意は、イスラエルとパレスチナ解放機構が初めて互いを承認した点で突破口だった。そして、イスラエルとヨルダンとの和平につながり、湾岸諸国などのアラブ世界への門も開かれた。
その半面、合意はパレスチナ人にガザとエリコの暫定自治だけは与えたが、それ以上の明確な約束はなかった。そもそも、「占領者と被占領者が交渉で信頼を構築する」という偽りに基づいているのだ。
イスラエルは占領を続けた。しかし、パレスチナ自治政府ができたために国際社会から支援が入るようになり、占領のコストがかからなくなった。
ラビン首相がアラファト議長と交渉したのは、当時起きていた第1次インティファーダ(反イスラエル民衆蜂起)を終わらせるため、影響力のある人物が必要だったからだ。一方、アラファト氏の狙いは、地元のリーダーを排除し、当時チュニジアにいた自分たちを舞台の中央に導くことだった。
私は政府にいたとき、初めて最終地位についての交渉を行った。交渉を通じて和平の本当の値段が明らかになった。和平プロセスのスローガンは「土地と平和の交換」。イスラエルが占領した土地すべてを平和と交換するということだ。
だが、ラビン氏はすべての土地を返そうとは考えていなかった。彼が生きていれば和平が実現したと思うのは無意味だ。彼は「和平の聖人」ではない。和平を真剣に考えたが、その代価をすべて支払う準備はできていなかった。一方、パレスチナ側には、闘争と交渉を同時にすれば和平を達成できると考える人がいた。それはイスラエルにとって耐え難いことだった。
イスラエル世論は、自分たちが譲歩をして、その揚げ句に第2次インティファーダを招いたと信じている。それが和平派の終わりを招いた。最近、和平交渉が再開したが、だれも関心を持っていない。和平が達成されても、されなくてもかまわない。まるでパレスチナ人が月の反対側にでもいるかのように、見ようともしないのだ。イスラエル世論がいま望むのはただ、パレスチナ人との「離婚」だ。
*
1943年、モロッコ生まれ。歴史学者、トレド国際平和センター副所長。テルアビブ大、英オックスフォード大卒。99年に警察相に就任。00年のバラク首相とアラファト議長による和平交渉に参加したのち、外相に就任した。
◆キーワード
<オスロ合意> イスラエル軍が第3次中東戦争で占領したガザ、ヨルダン川西岸両地区から撤退してパレスチナ側が暫定自治を行うことや、境界線や最終地位を巡る交渉を進めることを定めた合意。
<オスロ合意-wikipedia> オスロ合意は、1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で同意された一連の協定。正式には「暫定自治政府原則の宣言」と呼称されている。
概要[編集]
主に以下の二点が合意内容とされている。
1.イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。
2.イスラエルが入植した地域から暫定的に撤退し5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。
オスロ合意および後の協定で明文化されたイスラエルとアラブ国家の関係正常化の期待は未だ解決されていない。
2006年7月の、イスラエルによるガザ地区・レバノンへの侵攻により、事実上崩壊したとアラブ連盟では見做されている。
対話から合意に至るまでの間、両者との関係が良好なノルウェー政府がこの成立に尽力した。ホルスト外相ら、政府関係者による交渉は、オスロあるいはその周辺で行われ、1993年8月20日の合意に至るまで内密に行われていた。
<【オスロ合意20年】 パレスチナ取材から合意の意味を問う(2)オスロ合意の欠陥と後遺症> 土井 敏邦
2013/09/10
【オスロ合意の欠陥】
拡大パレスチナの現地ガザからオスロ合意の意味を問う「届かぬ声」第2巻「浸食・イスラエル化されるパレスチナ」(土井敏邦監督)
オスロ合意の調印前後、日本の多くのメディアや専門家たちはこの合意を、「現状では、最も現実的で、唯一の和平への道」と称賛した。それは日本に限らず、大半の国際社会のムードだったし、占領地でも同様の空気だった。しかしこれまでのイスラエル側の政策やイスラエル人のメンタリティーを熟知している有識者たちは、この合意が公になった直後から、その本質を鋭く見抜いていた。
ヨルダン川西岸のビルゼート大学、リタ・ジャカマン教授は、オスロ合意は占領地の指導者や民衆の参加を排除するものだったと言う。
「オスロ合意の枠組み自体が、マドリッド会議に関わったパレスチナ人からだけではなく、第1次インティファーダを起こした人たちの足元からカーペットを引き抜いてしまい、彼らを指導層から排除した。民主的に参加していた若者や女性たちを含めてです。マドリッド交渉とオスロ合意の違いは、前者は様々な人びとの代表を含んだプロセスだったが、オスロ合意は2人の指導者の握手だった。“民衆の参加”が消えた。これが最初の問題だった。民衆はオスロ合意に同意することを強いられた。しかもそれはイスラエルの権益に利するものだったのです」
またガザ地区の政治指導者、ハイデル・アブドゥルシャーフィ氏は、1999年4月の私のインタビューの中でオスロ合意を「ひどい合意」と言い切り、2つの主な欠陥を指摘した。
「第1に、交渉が行き詰まり、ユダヤ人入植地について言及がなかった。第2に、あまりに多くの問題に、違った解釈の余地を残してしまったために、強い立場にあるイスラエルに思い通りに扱う機会を与えてしまった。実際、私の懸念の通りになった。私の見方では、この5年間の交渉期間で、イスラエルは実際には交渉などしなかった。強者がその主張を弱者に押しつけることになったのだ。交渉のプロセスはまったく実質的な価値がなかった。それが我われが置かれた立場なのだ」
さらにパレスチナ人権センター代表のラジ・スラーニ弁護士は、「合意が調印される数ヵ月前に、この『非公開の交渉』の情報を知ったとき、激怒した」と、2002年1月、私に語った。
「合意文章を読めば、“占領”が法的にも物理的にも継続され、我われは将来も“占領”と取り組んでいかなければならず、仕事の指針は変わらないことは明らかだった」
「政治的には大惨事だった。イスラエル人の政治的な考え方を知っているからだ。少なくとも2つのことが具体的に言及されるべきだった。でもまったく触れられず、ゴーサインのままだった」
「1つはユダヤ人入植地だ。パレスチナ人とイスラエル人の交渉で決定的な問題だ。入植地を阻止するために何も明確に言及されていない。それが不法であることに、だ。入植地の撤退についてもだ」
「2つ目は暫定自治の期間中、イスラエルが決定権を握ることだ。イスラエルは具体的な事項に対する決定権を握る“主人”だったのだ。暫定期間が5年で終わらず、長引くことはわかっていた。政治的な展望もないことはわかっていた」
「99年5月4日が最終的な地位交渉の結論が出る日だと決まっていたが、どのように決定されるか誰もわかっていなかったのだ」
【なぜオスロ合意だったのか】
長年の宿敵だったイスラエルと、アラファトPLO議長はなぜ「和平合意」に踏み切ったのか。彼はこの合意がほんとうにパレスチナ国家の建設につながると信じていたのか、イスラエルはこの合意で何を目指していたのか。
第1次インティファーダの指導者の1人、東エルサレム在住のジャーナリスト、アタ・ケマリ氏は2011年11月、私にこう解説した。
「1991年マドリッド和平会議とオスロ合意の間の2年間、民衆は失望していた。マドリッドから始まった和平プロセスは何も動かなかった。そんなときオスロ合意はちょうど電光のようにやってきた。一方で、占領地のパレスチナ人代表たちによるワシントン交渉が行われたが、2年間の交渉の中で何の成果も上げることができなかった。だから、オスロ合意が明らかになったとき、占領地の民衆は『遂に我われは成果を手にした。インティファーダ時代の苦難が報われる』と考え歓喜した。しかし民衆は、合意の詳細を知らなかった。ただ、パレスチナ人は遂に“パレスチナ国家の建設”というゴールにたどり着いたと思ったのだ。民衆は、『パレスチナ人の合法的な権利が認められ、PLOが戻ってくる、自治政府ができる、これはすべて民衆の成果だ、それは喜び踊るに値することだ、それは占領との闘いから勝ち取った成果だ』と考えたのだ。たとえあと5年かかるとしても、これまでのさまざまな苦難に比らべれば5年待つことなど何でもないことだった。これは我われの苦しみとインティファーダの終結であり、イスラエルを打ち負かしたと考えた。そのようにして、イスラエルはパレスチナ人を騙したのだ」
一方、アラファトPLO議長は、「和平合意」に踏み切らざるを得ない事情があったとケマリ氏は言う。
「PLOは湾岸戦争で、イラクのフセイン大統領を支持するという大きな失策をした。この決定はPLOをまったく弱体化する決定的な決断だった。PLOは地に落ちた。とりわけ財政的な困窮は深刻だった。クゥエートに侵攻したフセインを支持することで、湾岸諸国の怒りを買い、それまでPLOの最大の資金源であった湾岸諸国からの援助を断ち切られた。資金なしでは組織運営もできない。占領地の組織に資金援助もできない。アラファトはそのとき、PLOが占領地で何の援助もできなければ、占領地の指導者たち、ファイサル・フセイニやハイデル・アブドゥルシャーフィが権力を奪い、自分は民衆の間で影響力を失うと恐れた。その結果、アラファトは、ワシントン交渉ではファイサルやハイデルら占領地の指導者たちに強硬姿勢をとるように命じる一方、ラビンとの間で妥協をし、オスロ合意を実現させたのだ」
ではイスラエルは、なぜオスロ合意に踏み切ったのか。ケマリ氏は「オスロ合意は第1次インティファーダを終結させるためだった」と言い切った。
「公にされてはいないが、当時のイスラエル首相ラビンがオスロ合意についてこう語っている。『我われはインティファーダを終わらせるために、外からPLOを入れた。それによって我われ自身が彼らを抑圧するのではなく―そうすれば最高裁判所や人権団体が非難する―、パレスチナ人がそれをやってくれる。それは誰も非難しない。彼ら自身のやり方でやっているのだから。今後のパレスチナ人のどんな惨事にも我われは責任はない。パレスチナ人自身がそうするのだから、我われは占領を終了することなく、インティファーダを“終結”させることができ、我われ自身が力を加えることなく、また非難されることもなくインティファーダを壊滅することができる』。これがラビン首相のインティファーダを終結させるためのビジョンだった」
「もちろん、それは外のPLOつまりアラファトの野心と合致していた。つまりアラファトは歴史から葬られることもなく、指導者としての立場を再び獲得し、占領地に自治政府を持つという新たなプロジェクトを創り上げることができたからである」
「アラファト自身も、自分の役割は第1次インティファーダを抑えることだと理解していた。しかし5年後に国家を持てるのなら、彼にとってその代価はなんでもないことだった。彼は歴史的な政治家だ。彼は闘争のための犠牲、負傷や殺害などまったく考慮していなかった。真の独立の達成のためなら、それは元が取れると考えた。その点に関しては、アラファトとても『寛大』だった。パレスチナ人のゴールのためにそういうビジョンを持っていた。そのために小さなことはすべて犠牲にした。彼は『5年後に国家ができれば、誰も自分がインティファーダを抑え込んだことを言及しなくなる。インティファーダなどパレスチナ人の自由に比較すればなんでもないことなのだ』と」
「一方でアラファト自身は、オスロ合意のトリックを理解していなかった。自分はイスラエルを外からよりも内側から打ち倒せると考えていたのだ。イスラエルは自分を2度とパレスチナの外に追放することはできない。自分は彼らの喉に引っかかったトゲとして留まり、5年後に国を持つことができると信じた。だから闘争は違ったかたちで続いていた」
オスロ合意の誤算はパレスチナ側だけではなかった。イスラエル側にとっても、期待とは違う方向に状況が動いてしまったとケマル氏は指摘する。
「イスラエルはこれが暴力の終結になると考えていた。たとえ西岸やガザで再び暴力が起こっても、我われが簡単にそれを破壊できると考えていた。しかしそうはならなからかった。邪悪な意志が双方から働いた。パレスチナ側はイスラエルを内側から打ち倒せると思ったし、イスラエル側はパレスチナを打ち負かし、大した代価を払うこともなく占領を続けられると考えた」
「しかし、パレスチナ人は自爆テロなど暴力に戻り、イスラエルは占領を続け、入植地活動を続け、パレスチナ全体を支配し、パレスチナ人の合法的な権利を与えることもなかった。オスロ合意が失敗したのは、双方とも2つの民が違った地域で違った集団として隣合って共存することを望もなかったからだ。イスラエルはそれを望まなかった。パレスチナ人を支配し続けようとした。イスラエルは“人のいない土地”を欲しかったのだ。『自治』? それは住民個々人に対する『自治』であり、土地の自治ではなかった」
【オスロ合意の“後遺症”】
オスロ合意への失望と怒りが爆発した第2次インティファーダ、その蜂起に対するイスラエルの徹底した弾圧と封鎖政策、それがさらにパレスチナ経済の崩壊を招いていく。
一方、ファタハの自治政府の失政と腐敗への“懲罰”として民衆はハマス政権を選び、それがやがてファタハとハマスとの内部紛争、パレスチナ社会の分裂へとつながっていった。
一方、イスラエル側は、ガザ地区への徹底した封鎖政策と、ヨルダン川西岸での分離壁を建設とユダヤ人入植地の拡張によって、将来のパレスチナ国家建設の基盤を着実に侵蝕していった。
オスロ合意から20年。パレスチナをめぐる情勢は、当初、住民たちが期待した和平とパレスチナ独立国家の建設とはまったく逆の方向へと悪化の一途をたどっていると言っていい。ただ、現在のこの情勢のすべての根源がオスロ合意だというのは、あまりに問題を単純化し過ぎる。この合意の結果、好転した状況もたしかにある。ガザ地区やヨルダン川西岸の主要都市部はイスラエルの支配から解放され、パレスチナ人が一定の自治と自由を確保した。
しかし一方、ヨルダン川西岸での分離壁建設やユダヤ人入植地の拡張によるパレスチナ人土地の没収やパレスチナ人地区の囲い込み、西岸内での住民の移動の制限など、状況は悪化している。ガザ地区でも、内部からイスラエルの存在は消え、住民の政治的、経済的、社会的な自由は確保できたが、一方で、“封鎖政策”によってイスラエルは2005年のユダヤ人入植地に完全撤退以後も、ガザ地区を経済的にも社会的にも、さらに間接的に政治的にもコントロールし続けている。つまり国際法が定義する“占領”は今だ続いているのだ。パレスチナ人の有識者の中には、「オスロ合意が占領状態を“合法化”した」という声さえもある。
一方私は、オスロ合意がパレスチナ、イスラエル双方にもたらした最も深刻な“後遺症”は、相互不信と「和平」の幻滅ではなかったかと思う。パレスチナ側にとって、「これでパレスチナ国家がやっと実現する」と期待し「占領からの解放感」に酔いしれたあの高揚感と、20年間後の現状への絶望との落差があまりに大きく、民衆の失望と諦念、さらにイスラエル側への不信と憎悪はこれまでになく高まっている。
一方、イスラエルの国民も「オスロ合意」によるパレスチナ側や周辺アラブ諸国との関係改善、それによるイスラエルの安全確保と経済的な繁栄を期待した。しかしその後の事態に、国民は「和平」の期待を打ち砕かれ、パレスチナ側への不信と怒りを募らせいく。それが「和平」を推進しようとした労働党など「左派」への幻滅と、その反動としてのイスラエルの急激な“右傾化”をもたらしていく。
現在、アメリカの圧力によって「和平交渉」が再開されはしたものの、双方の民衆の根深い不信と憎悪が解消される希望はほとんどなく、それは国際社会とりわけアメリカ向けの実質的な意味のない、単なる「ショー」にようにさえ映る。先の展望の見えない混沌したパレスチナ・イスラエル情勢の中で、東エルサレムや西岸における入植地拡張に象徴される“パレスチナのイスラエル化”が着実に進行している。しかし国際社会はその現実を無視し続ける。
この現状に対するパレスチナ人の絶望感と怒りが何らかの形で爆発し、周辺アラブ諸国の現在の混沌とした状況と連鎖反応を起こすとき、中東全体を根柢から揺り動かす事態になりはしないかと私は危惧する。
■オスロ合意とその後の主な流れ
1993年 9月 オスロ合意が結ばれる
95年11月 イスラエル・ラビン首相暗殺
2000年 9月 第2次インティファーダ(民衆蜂起)
01年 9月 米国同時多発テロ事件
03年 3月 イラク戦争
04年11月 アラファト議長が死去
05年 9月 イスラエルがガザから撤退。その後は封鎖政策に
08年12月 イスラエル軍がガザを攻撃、和平交渉中断
10年12月 「アラブの春」始まる
12年11月 イスラエル軍がガザ空爆
13年 8月 米の仲介で直接和平交渉再開
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朝刊(2013年09月13日)
暴力の応酬、新たな中東危機招く オスロ合意20年 中東アフリカ総局長・川上泰徳
「流血も涙ももうたくさんだ」――1993年9月13日、米国のホワイトハウスで、イスラエルのラビン首相の声が響いた。取材していた私は、絞り出すような言葉に鳥肌が立った。イスラエルとパレスチナ解放機構が結んだオスロ合意の調印式。アラファト議長は「我々は難しい決断をともにした」と語り、ラビン氏と握手した。
あの歴史的な瞬間から20年が過ぎた。ラビン氏の言葉とは裏腹に、どれほどの血と涙がその後、流れたことだろう。ラビン氏も95年にユダヤ人極右の銃弾に倒れ、アラファト氏も2004年にイスラエル軍包囲下で体調を崩し、死去した。
調印式の翌94年5月。中東特派員となった私はパレスチナ自治の始まりを取材した。ガザからイスラエル軍が撤退し、代わりにパレスチナ警察が入った。解放闘争の元戦士たちだ。
パレスチナ人には合意への批判が強かった。占領地からのイスラエル軍の全面撤退、ユダヤ人入植地の解体、東エルサレムのパレスチナ国家への帰属、パレスチナ難民問題の解決――パレスチナ側の要求は、いずれも「将来の交渉事項」とされていたからだ。
それでも当時は「どうなるか分からないが、まずは育ててみよう」という期待があった。
だが、その後も入植は止まらず、西岸の入植地人口は2倍以上に増えた。東エルサレムと西岸は分離壁で分断され、ガザはイスラエルの封鎖下にある。
和平プロセスは、2000年9月に始まった第2次インティファーダ(民衆蜂起)で暗転した。エルサレム支局に翌01年4月から勤務した私は、今度は和平の崩壊を見ることになった。
イスラエル軍は自治区への侵攻を繰り返し、パレスチナのイスラム過激派は自爆テロで応じた。「土地と平和の交換」という交渉の原則は、暴力の応酬の前に破綻(はたん)した。パレスチナには絶望と、「オスロは死んだ」という声が広がった。
パレスチナ情勢は、中東全体の空気を左右する。第2次インティファーダが始まると、「反米・反イスラエル」の空気が中東に広がった。その後の米同時多発テロで、アラブ民衆は喝采をあげ、ビンラディン容疑者は一躍「英雄」になった。
91年の湾岸戦争の時にもイスラエルにミサイルを撃ち込んだイラクのフセイン大統領が「英雄」となった。当時、パレスチナでは第1次インティファーダが続いていた。
米国は湾岸戦争後、イラクを封じ込める一方、パレスチナ和平にも取り組んだ。それがオスロ合意に結びついた。合意で第1次インティファーダは終わった。しかし、合意に基づく和平が行き詰まった時、第2次インティファーダが始まった。その翌年に米国がテロに襲われた。
米国はフセイン政権を倒し、ビンラディン容疑者も殺害した。それでも、米国とイスラエルにとって中東がより安全な場所になったわけではない。
占領下の西岸と東エルサレム、ガザに約370万人のパレスチナ人が住む。48年のイスラエル建国で故郷を追われたパレスチナ難民は現在、500万人。パレスチナ人の苦難の上にイスラエルが存在し、それを米国が支えるといういびつな構図は変わらない。
和平プロセスの復活を探るオバマ大統領はこの夏、直接和平交渉を再開させた。しかし、イスラエルはなおも入植者住宅の建設を決めた。
いまパレスチナ人の口から出るのは、新たなインティファーダへの警告である。そこに、新たな中東危機への予兆がある。
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朝刊(2013年09月13日)
アサド・シリア大統領がロシア案に同意 化学兵器管理
シリアのアサド大統領は、12日放送のロシア国営テレビのインタビューで、保有するすべての化学兵器を国際管理下に置くというロシア提案を受け入れ、化学兵器禁止条約に加盟する考えを示した。
イタル・タス通信によると、アサド氏は「条約加盟に必要なすべての文書を国連に送る」と述べた。「ロシアの提案に応じたためで、米国の脅威に屈したためではない」とも強調した。ロシア提案についてアサド氏自身が態度を表明するのは今回が初めて。(モスクワ)
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朝刊(2013年09月13日)
(社説)除染・賠償 避難者に判断材料を
原発事故で、国が除染を担う福島県の11市町村について、環境省が作業計画を見直した。
今年度末までに完了する予定だったが、守れそうなのは、すでに作業を終えた田村市を含めて4市町村だけ。7市町村については、インフラの復旧状況などを踏まえ、年内に新たな計画をまとめる。
一度除染した場所の追加的な除染や、縁から20メートルを原則としてきた森林除染の拡大を、個々の場所の状況に応じて認める考えも打ち出した。
当初の計画が破綻(はたん)したのは、除染で生じた廃棄物を運び込む中間貯蔵施設の建設にメドが立たず、市町村ごとに設ける仮置き場も十分確保できていないことが大きい。
除染への不信からカギとなる施設の建設が進まず、避難生活が長びく――。こうした悪循環を断つには、地元との対話を重ね、理解を得るしかない。どこまで除染を進めるか、詰めた議論も必要になろう。政府の責任は重い。
大震災と原発事故から2年半がたち、避難者の忍耐は限界に近づきつつある。
11市町村では、今後の放射線量の見通しに沿って、避難区域の再編が行われた。国が除染を進めているのは、線量が比較的低い避難指示解除準備区域と、それに次ぐ居住制限区域だ。十分な線量低下が見込めない帰還困難区域では実験的な除染にとどまっている。
本当に自宅に戻れるのか。戻れるならいつごろか。戻れない場合や、新たな場所で再出発したい人は、どのような支援が得られるのか。
政府はこれらの点について全体像を示し、避難者が生活再建について判断できる環境を早く整えるべきだ。
とりわけ関心が高いのは、金銭面だろう。自宅などの不動産に対しても東京電力による賠償の支払いが始まったが、古い家屋の所有者を中心に「あまりに額が少なく、今後の青写真を描けない」との声が強い。
賠償の基準を決める政府の損害賠償紛争審査会は上積みする方針を打ち出したが、ほかにも課題は多い。
避難指示が解除された場合、いつごろまで賠償を受けられるのか。帰還困難区域など、なかなか戻れない場合の賠償をどう考えるのか。基準作りを急いでほしい。
汚染水問題などの混乱がいつまで続くのかも、避難者の判断を左右する。政府は避難者の視点に立って、それぞれの課題に向き合わねばならない。
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EDITORIAL/社説―除染・賠償(9/13)
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朝刊(2013年09月13日)
(インタビュー)米リベラル派の見たオバマ外交 ジョン・アイケンベリーさん
米国は、世界のリーダーとしての役割を今後も演じていくのか。地域紛争への介入は続けるのか――。中東の不安定化、台頭する中国からの挑戦などに直面し、米国外交が揺れている。プリンストン大学教授で米国のリベラル派を代表する論客、ジョン・アイケンベリーさんに、軍事介入、米中関係、日本の役割などについて聞いた。
――米国のシリア介入が世界の注目を集めています。米国外交は今、何が問われているのでしょう。
「議論の焦点は、米国が世界に対する責任や深い関わりを追求し続けるべきかどうかだ。同盟関係、開放市場、多国間協力などの特徴をもった米国主導のリベラルな国際秩序がこれまでにどんな成果を挙げたか、米国の外交政策立案者たちに思い起こしてもらうことは極めて重要だ。我々はリベラルな国際秩序が様々な問題を解決できることは当たり前だと思っている。しかし、実際は(国連など)いくつかの国際機構や国家間の関係があって初めて、世界各国はより平和的で、相互に利益をもたらす形で共存できている」
――米国外交について、世界の諸問題に深く関与すべきだと主張する一方で、ブッシュ政権がテロとの戦いで見せた介入姿勢は「新帝国主義」と批判しました。その違いは。
「『深い関与』とは同盟であり、リベラル国際主義のことだ。アジアや欧州に現存する同盟関係に体現されている安全保障協力だ。それはグローバルコモンズ(国際公共財)を守り、地球規模の諸組織、機構を支えようという姿勢だ。このリベラル国際主義は、(ブッシュ政権で影響力のあった)ネオコン(新保守主義)とは峻別(しゅんべつ)されるべきものだ。リベラルホークともちょっと違う」
――リベラルホークとは。
「米国など自由民主主義諸国は、人道的に悲惨な状況や国家の破綻(はたん)がどこかで起きた場合、その国民を暴力や大量虐殺から守るために介入すべきだという考えだ。いわばネオコンの民主党バージョンだ。伝統的なリベラル国際主義より一歩踏み込み強力な対応を主張する。国連が行動しなければ独自対応もいとわない」
「彼らが達成しようとする目標には賛同する。ただ、はっきりさせたいのは、世界における米国の断固とした役割を支持しても、(ネオコンが推し進めた)イラク戦争のような軍事介入や、単独行動主義の先制攻撃型の軍事力行使には、明確に反対の立場を取れるということだ」
――最近の雑誌論文で中国を「潜在的に地域覇権を争う相手」と書いています。なぜですか。
「中国は経済、軍事両面で急速に力をつけ、アジアさらには全世界に影響を及ぼすようになっている。世界の主要国のなかで中国だけが、『対等の競争相手』として米国に挑戦する構えを見せている」
――本も執筆中ですね。
「台頭する中国は、米国主導のリベラルな国際秩序に挑戦するのか、あるいはそれに自ら参加し、協力していくのかを問うている」
――結論は。
「中国はより大きな権力を追求するだろうが、既存のリベラルな国際秩序をひっくり返し、中国中心の世界を打ち立てようとはしない。中国の重商主義的な資本主義が成功するためには、グローバルな自由貿易を必要とするからだ。自由主義、民主主義を信奉する資本主義諸国は力を合わせ、経済成長や社会の進歩を図れるよう、国際的な諸組織を改善しなければならない。そうすれば中国が参加してくる動機も強くなる」
■ ■
――しかしリーマン・ショックなどを通じて自国の制度の方が優れているとの思いを深めているのでは。
「だから私のこれまでの議論の多くは、自由民主主義諸国に向けられているのだ。各国は、格差の拡大、経済の停滞、財政危機、政治的な機能不全などの問題を解決しなければならない。今から20年後もまだ、自由民主主義諸国が世界政治の中心にいるか、あるいは西側諸国に対する中国の影響力が一層強くなっているかは、民主主義国、非民主主義国のどちらがより効率的に社会、経済問題を解決し、より魅力的なモデルを提示できるかにかかっている」
「長期的にみれば独裁国家は正当性に乏しいし、危機の際の国家資源の動員でより非効率だと思う。確かに中国は一党独裁の国家もうまくできることを示しているかもしれないが、それが世界のモデルになりうるか、持続可能かといえば、そうは思えない。腐敗を断ち切れているかといえば、明らかにできていない」
――米中関係の今後は。
「米中間で最も根本的な衝突があるとすれば、米国主導の同盟システムの役割をめぐるものになるだろう。果たして東アジアの安定につながるかどうかだ。もし中国側に『そうした同盟は正当性に欠けるものであって、中国を地域に結びつける多国間の地域安全保障システムの障害になる』という声があるなら問題だ。米中両国がともに受け入れられる、より大きなビジョンをいかにして見つけるかが課題だ」
――しかし、米国は「アジア回帰」によって、地域のリーダーシップは手放さないと宣言したのでは。
「米国は二つのことを同時にやろうとしている。まず一連の関与策を通じて、中国を地域およびグローバルなシステムに引き込もうとしている。その一方で、同盟システムを強化することで、中国の拡大する影響力に対抗しようとしている。我々が今、目の前にしている大きなドラマは、米国が安全保障、経済の両面で中心となった覇権秩序から、大国間の均衡に基づく多極型力学への移行だ。米国は中国との均衡をはかることによって、地域各国が安全保障は米国に依存する一方で、中国との経済的な関係を深めることができるようにしている」
――とはいえ、中国は「アジア回帰」を脅威と見て、両国間の緊張が高まっています。
「『アジア回帰』を批判するとしたら、両手を振って『我々はここにいるぞ。存在を強めるぞ』と言いつのることは、米国の国益にはつながらないということだ。静かに同盟を深化させれば済むことだ」
――日中関係も、尖閣諸島問題などで戦後最悪と言われています。
「非常に危険な状況だ。双方とも一歩下がり、冷静になる必要がある。責任は日本と同様、中国にもある。中国の指導者は、ナショナリズムに基づく政治的な動きを抑制する必要がある。中国の利益にはならないからだ」
■ ■
――日米両国は現在、「防衛協力のための指針(ガイドライン)」の見直しを進めています。同盟はどう調整すべきでしょうか。
「はっきり指摘しておきたいのは、日本が世界における立場を劇的に再評価すべきではないということだ。むしろ、軍事大国にならなかったことで達成した成果を思い起こすべきだ。平和憲法や抑制的な防衛政策に代表される戦後システムを脱却することには、非常に慎重であるべきだ。中国の台頭は、日本が世界における今の立場を作り上げるにあたって基本とした、長年の方針から目をそらす口実となっている」
――集団的自衛権の行使は許されないとする、現在の憲法解釈を変えることは好ましくないと。
「憲法の修正がすべて悪いとは言っていない。注意を喚起したいのは、地域における日本の安全保障上の性格を、根本からくつがえしてしまうような大きな変更だ」
――しかし、日本により大きな役割を求めているのは米国です。
「安倍晋三首相は、これまでの演説で日本外交のアイデンティティーとして次の3点をあげた。(1)国際的なルールや機構を支持する(2)国際公共財を守る(3)民主主義や人権などの価値を信奉する。日本が軍事的能力や同盟を強化するにあたっては、このような目標を強調することが重要だ。日本は二つのことを同時に行う必要がある。米国と同盟強化の協議を進める一方で、中国や韓国に対し、歴史問題に積極的に取り組み、国際主義を支持する特別な大国であり続けるとシグナルを送ることだ」
■ ■
――他にできることは。
「日本はアジアでの軍備管理協議を検討すべきだ。日本が防衛費を増やそうとしているのは、中国の急速な軍事力増強を目の当たりにしているからだ。米国も同様だ。軍備増強の連鎖が始まっており、衝突の危険性も高まっている。日本は広島、長崎の悲劇を体験したからこそ、この連鎖からの脱却で主導権を握る道義的権威を持っている。たとえば新たな兵器システム(の開発、調達や配備)についてモラトリアム(一時停止)を提起したらどうか」
*
G.John Ikenberry 米プリンストン大学教授 54年生まれ。米ジョージタウン大教授などを経て04年から現職。著書に「リベラルな秩序か帝国か」など。
<取材を終えて>
米国ではリベラル派も外国への軍事介入を忌避しない。むしろ積極的な姿勢がオバマ政権のシリア対応で鮮明になった。国連を迂回(うかい)する構えものぞかせており、ブッシュ政権の単独行動主義と紙一重だ。アイケンベリー氏はその微妙な違いを説明する。「アジア回帰」の中核である「リーダーシップ維持」の背景にも、このリベラル介入主義がある。(編集委員・加藤洋一)
◆英文は朝日新聞の英語ニュースサイトAJWに掲載しています。http://ajw.asahi.com/
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朝刊(2013年09月13日)
(私の視点)シリア軍事介入 反戦キング演説思い出せ 大類久恵
人種差別のないアメリカを夢見たキング牧師の演説から50年。8月28日にワシントンで開催された記念式典では、半世紀前には想像すらできなかった史上初の黒人大統領が、キングと同じ場所に立ち、自らの大統領当選を引き合いに出した。
「肌の色でなく、人となりによって評価される国」というキングの「夢」にアメリカは近づいた。一方で経済格差や人種による雇用差別の問題を今なお抱えている――とオバマ大統領は語った。
1963年8月28日の「仕事と自由を求めるワシントン行進」は、全米各地で非暴力の抗議行動に対する暴力による応酬が激化していた当時、例外的に平和裏に遂行されたことで、公民権運動の輝かしき記憶として語り継がれてきた。
行進のクライマックスと見なされる「私には夢がある」演説もまた、その美しい部分のみが記憶される。演説で強調された人種差別というアメリカの現実を、希望に満ちた「夢」が覆い隠す。キングが語る夢はいつの間にか「アメリカの夢」となり、83年にキングの誕生日が国家の祝日に制定されてからは、キングはアメリカという国家と一体化した英雄となった。
しかし、キングには、愛国心をもって、国家に提言する素顔があったことを忘れてはならない。
67年4月4日に、キングはニューヨークのリバーサイド教会で「ベトナムを超えて」と題した演説を行い、ベトナム反戦をはじめて公にした。
戦争は貧者から奪い、富者を利する。国内では軍事費の増強により福祉・貧困対策費が削減され、一方で黒人を多く含む貧困層が高い割合で戦場に送られる。黒人兵たちは、自らがアメリカで手にできない「自由」を東南アジアの民に与える名目で命を賭する。兵士たちの行為は、結局のところベトナムの一般市民を殺し、人々の生活を破壊する。戦争の背後に控える巨大な軍産複合体を、キングは見据えていた。
ベトナム戦争に「人種差別、物質主義、軍事優先政策という三つの悪」を見たキングは、途方もない暴力をふるうアメリカをいさめた。それは「アメリカの魂を救う」ための苦言であり、正真正銘の愛国心に根ざしていた。
戦争の本質は半世紀たった今も変わらない。ひとたび始まれば、貧者は奪われ、一握りの富者だけが潤うことになろう。ワシントン行進50周年の余韻のなかで、シリアへの軍事介入を検討したアメリカに、反戦を唱えて国家をただそうとしたキングのもう一つの演説を思い起こしてほしい。
(おおるいひさえ 津田塾大准教授〈アメリカ史〉)