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折々の記 2013 ⑥
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】10/15~ 【 02 】10/25~ 【 03 】10/27~
【 04 】10/30~ 【 05 】11/08~ 【 06 】11/11~
【 07 】11/14~ 【 08 】11/17~ 【 09 】11/21~
【 01 】10/15
10 15 神様、仏様、蝮様
10 16 花の命は短くて
10 16 政治家に惑わされないように
10 20 出版物 「高麗王若光物語」他4冊
10 22 3Dプリンターとは何か
10 22 ドクダミの効用
10 15 (火) 神様、仏様、蝮様
昨14日は体育の日で祝日でした。 原家では秋葉様参詣ということをお聞きし、家では伊那市創造館の井上井月(せいげつ)展示会を見て勉強しようということになった。
放浪俳人としての井上井月については、丸岡夫妻が来飯のとき「ひがしの」で一献し、小沢修から上伊那で地域アピールとしての井上井月についてのお話をお聞きした。 調べてると、その資料は膨大なものでした。 コピーにしたのが150ページですが、データはもっともっとありました。
中国に発した詩歌の目指したものの中で、飾り気のない大自然との共生をこよなく愛でる心は、やがて日本にも深く根を下していた。 そのうちの俳句では芭蕉が初めて蕉門といわれる道を開き、多少異なるものにしても日本全土に流布されてきました。 信濃の一茶のおじさん、良寛和尚などいろいろと私たちが旅行を通したり勉強したりしてまいりました。そして井上井月を調べてみると、異彩を放っている得難い俳人であったことが思い知らされました。
それはそれとして、今朝になって walking を済ませてから朝食では歯が痛くて食べられない。 歯医者に行こうと思いながら午後も四時ころになってどうしても痛みにこらえきれなくなって秀の運転で歯医者へ行きました。
炎症どころかもっと進んで化膿し始めた感じでした。 入れ歯の支えとしても残していた歯ですから、ぐさぐさしたのが繰り返されていた歯でした。 痛くてたまらない。
歯医者さんはすぐ手を下すことはできない。 化膿止めを8個くれました。 痛くて仕方ない時にと6個の痛み止め錠剤をくれました。 家に帰ってきて横になっていたが、痛くてたまらずに痛み止め1錠のみました。 夕食にはお粥を食べ食後30分に化膿止めを飲みました。 痛みを我慢して寝ていたが、どうしても痛くてたまらない。
夜中に秀を起こして顎から右寄りに蝮の湿布をしました。 痛みはたちまち治り始めました。 有難かった。 朝食後蝮の焼酎を追加して湿布を続けました。 10時に、公民館の起工式があるのだが、秀に出てもらいました。
蝮様様てす。 足指炎症にも蝮の湿布をして事なく済みました。 今回の歯の炎症も事なくすみました。 蝮焼酎様様です。
10 16 (水) 花の命は短くて
花の命は短くて苦しきことのみ多かりき
林芙美子が色紙などに好んで書いた短詩。女性を花にたとえ、楽しい若い時代は短く、苦しいときが多かったみずからの半生をうたったもの。 ...
検索により林芙美子を調べてみると、Wikipediaでは次のように出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90 - Wikipedia -
林 芙美子(はやし ふみこ、1903年(明治36年)12月31日 - 1951年(昭和26年)6月28日)は、日本の小説家。物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある。
生涯[編集]
当人は、生まれは下関と言い、生年は明治37年、誕生日は5月5日などとも書いて語っていたが、没後20年余り経って、誕生の地は門司市小森江(現、北九州市門司区)との説が発表された[1][2]。(ただし出生届は叔父の家の現・鹿児島市に明治36年12月31日誕生として翌1月に出ている[3][4]。)
実父は宮田麻太郎、母はキク。麻太郎が認知しなかったので、娘は『林フミ子』として、母方の叔父の戸籍に入った。麻太郎は下関で競り売りやテキ屋をやって当て、1907年若松市(現・北九州市若松区)へ移って繁盛したが、浮気して、母子は1910年、番頭の沢井喜三郎と家を出た。養父と母は北九州の炭坑町を行商して回り、芙美子の小学校は長崎・佐世保・下関と変わった。喜三郎は下関で古着屋を営んで小康を得たが1914年倒産し、11歳の芙美子は本籍地の鹿児島に預けられたのち、旅商いの両親に付いて山陽地方の木賃宿を転々した。1916年(大正5年)(13歳)、尾道市にしばらく落ち着き、翌年、市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業した。
1918年(大正9年)(15歳)、文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学した。図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。女学校の教諭も文才を育んだ。18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せた。尾道では親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」した。
1922年(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活し、義父・実母も東京に来てからは、その露天商を手伝った。翌1923年、卒業した恋人は帰郷して婚約を取り消した。9月の関東大震災を、3人はしばらく尾道や四国に避けた。この頃から筆名に『芙美子』を用い、つけ始めた日記が『放浪記』の原型になった。
1924年、親を残して東京に戻り、再び3人の生計を稼いだ。壺井繁治、岡本潤、高橋新吉、小野十三郎、辻潤、平林たい子らを知った。同棲しては別れることを繰り返した。詩のパンフレット『二人』を、友谷静栄と3号まで出した。原稿を雑誌社・出版社に売り込んで回り、ときに拾われた。
1926年(23歳)、画学生の手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)[5]と内縁の結婚をし、落ち着いた。緑敏は実直で、妻の執筆を助ける人であった。
1928年(昭和3年)2月、長谷川時雨主宰の女人芸術誌が芙美子の詩『黍畑』を載せ、10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載した。その間の1929年6月には友人の寄金を受けて、初の単行本の、詩集『蒼馬を見たり』を自費出版した。『放浪記』は好評で、1930年改造社刊行の『放浪記』と『続放浪記』とは、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は流行作家になった。印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた。
1931年11月、朝鮮・シベリヤ経由でパリへ一人旅した。既に満州事変は始まっていた。金銭の余裕があれば旅に出て、向こう見ずな単独行を怖じなかった。ロンドンにも住み、1932年6月に帰国した。旅先から紀行文を雑誌社に送り続けた。
1935年(昭和10年)(32歳)の短編『牡蠣』は、私小説的な作風を離れた本格的な小説として、評価された。
1937年の南京攻略戦には、毎日新聞の特派員として現地に赴いた。1938年の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』の紅一点として従軍し、男性陣を尻目に陥落後の漢口へ一番乗りした(『戦線』、『北岸部隊』)。「共産党にカンパを約した」との嫌疑で、1933年に中野警察署が留置したのは的外れで、芙美子は思想ではない行動の人だった。
「おもな文業」の項からうかがえる活発な文筆活動を続けながら、1940年には北満州と朝鮮に行った。1941年には、「ついのすみか」となった自宅を下落合に新築し、飛行機で満州国境を慰問した。『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分を受けた。日米交渉が難航していた。
太平洋戦争前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在した。戦局が押し詰まって出版界も逼塞し、1944年4月から、綠敏の故郷に近い長野県の上林温泉、次いで角間温泉に疎開した。しばらく二階を借りた民家が、林芙美子文学館になっている。
下落合の自宅は空襲を免れ、1945年(昭和20年)10月に帰京した。自由に書ける時代を喜んだ。用紙事情は厳しかったものの、人は活字に飢えていて、翌1946年から新旧の出版社が動き始めた。
かって原稿の売り込みに苦労して、人気作家になってからも執筆依頼を断らぬ芙美子は、ジャーナリズムに便利だった。書きに書いた。その中に『晩菊』や『浮雲』などの名品もあった。私用や講演や取材の旅も繁くした。1949年から1951年に掛けては、9本の中長編を並行に、新聞・雑誌に連載した。
1951年(昭和26年)、6月26日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌27日払暁心臓麻痺で急逝した。『ジャーナリズムに殺された』と、世間は言った。
なお、急逝の直前、6月24日には、NHKラジオの生放送「林芙美子さんを囲んで」に出演し、女子大生数人に対し質疑応答をおこなっている。この中で芙美子本人が「すでに晩年であると思い、むだな球は投げない」とも語っていた。この放送は録音保存され、直近では2011年7月26日にNHK第2ラジオで放送された。
7月1日、自宅で告別式が執り行われた。近在の市民が大勢参列した。葬儀委員長の川端康成は、『故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います』と弔辞の中で述べたという[6]。
『純徳院芙蓉清美大姉』。萬昌院功運寺に埋葬した。享年47。生前、色紙などに好んで、『花の命は短くて苦しきことのみ多かりき』と書いた。
1943年に新生児を貰い受けて養子にした泰は、1959年、事故死した。芙美子を支え続けた夫緑敏は、彼女の文業の整理に長く協力して、1989年物故した。
旧宅が新宿区立林芙美子記念館になっている。
花の命!! 花の命も名も知らぬ道草の命も、芭蕉の命も井上井月の命も、命の尊厳と共に焼けば灰となり、また花や草も土に同化してしまいます。 輪廻と言えばこれまた反論の余地もない事実であります。
葬儀委員長の川端康成は、『故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います』と弔辞の中で述べたという[6]。
そうしてみると、東北の大震災後の「花は咲く」の作者の切なる願いは、花を愛でる人さまのために一足飛びで煩悩を乗り越えてこれからを生きようとする励ましの歌に違いありません。
10 16 (水) 政治家に惑わされないように
情報社会化した今日のありさまを見ていると、むかし老生が惑わかされていたような過ちにやすやすと押し流されるようなことになってはいけません。 プロパガンダという横文字を使った騙しの情報が何度も何度も繰り返されていると、それが真実だろうと受け入れることが人の悲しい性であります。
秘密は人に漏らしてはなりませんという。 内緒の秘密が横行し始めると、何が秘密なのか、何が出鱈目なのか、疑心暗鬼になるのが人の性です。 しかもそれが国防という手前勝手な国益のためという言葉が使われるのが前提なのです。 国益というのは、所属する集団の利益を指して使う言葉ですから、その集団以外の集団から見れば手前勝手な主張ということになります。
一つの家庭でのよその家庭の悪口を言い合ったとして、お互いの悪口の言い合いが始まったとすれば、どうなるのでしょう。 この悪口を秘密として守ろうというのは、疑心暗鬼の温床になりそうだということは小学生でも判断できます。
秘密社会のなかでは自由権の保証や情報開示の保証も閉ざされやすいのです。
金融社会という現在の経済の根幹でさえ、この秘密取引が行われており、取引の真実は提示されません。 お金の社会でも秘密法はありません。
野菜の市場や海産の市場では取引は公然として開示されています。 金融の市場でも取引は開示されています。 国際間の契約は調査していけば解明できます。 ここに秘密法が登場してきたのは、アメリカ流儀の自分勝手の法律を作ろうとしていることにほかなりません。
10 20 (日) 出版物 「高麗王若光物語」他4冊
① 高麗郡の創設者・若光の波乱に満ちた生涯描く
http://komagun.jp/2013/0328/749
「陽光の剣―高麗王若光物語」60代目の子孫が歴史ロマン小説を出版
霊亀2年(716年)、日高市と飯能市を中心とした県西部に高麗郡が設置されました。奈良に平城京ができ、日本の国の仕組みが整いつつあったころです。高麗郡の初代郡司に 任命されたのが、高句麗の王族とされる若光です。しかし若光の生涯に関する記録はほとんど残っていません。
そこで記念事業委員会では、若光の直系60代目の子孫で高麗神社宮司の高麗文康さん にお願いし、その生涯を小説「陽光の剣―高麗王若光物語」として書き上げていただきました。高麗さんは古代史に詳しく当時の資料をもとにした上で、およそ 1 年がかりでエンターテイメント色豊かな歴史ロマン小説に仕上げました。大冒険あり、ラブロマンスありと子どもから大人まで楽しめる内容になっています。今後、記念事業委員会では映像化も 検討していきます。
高麗さんは「この本が、さまざまな年代の方が地域に関心を持つきっかけになればと願っています。とくに子どもたちには、長い歴史の上に自分たちが生きていることを知ってほしいですね」と話しています。
〈あらすじ〉
時は7世紀後半。朝鮮半島の大国・高句麗の若き王族・玄武若光は戦乱の世に生まれた。
若光は人並みはずれた武芸と仲間たちの協力を得て、めきめきと頭角をあらわしていく。 幾多の試練や冒険を経て成長した若光は、祖国を救うため、ついには海を越えて倭(当時 の日本)へとやって来る。しかし若光の願いむなしく高句麗は滅亡。失意を乗り越えた若 光は、未来の子孫の平和と幸せを願い、東国に新天地を築こうと決意する。
タイトル 「陽光の剣―高麗王若光物語」
著者 高麗文康(こま・ふみやす)
1966年生まれ。高麗王若光の60代目子孫、高麗神社宮司
企画 高麗郡建郡1300年記念事業委員会
発行所 幹書房
発行日 2013年(平成25年)3月22日
体裁 四六判・ハードカバー、312ページ
定価 1,500円(税別)
② 糖質ダイエットと人類史 - 『炭水化物が人類を滅ぼす』 池田 信夫
http://agora-web.jp/archives/1564125.html
炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学 (光文社新書) 夏井 睦
私のブログで以前、『主食をやめると健康になる』という本を紹介したら大きな反響があり、「この本の通りやって15kgやせた」とか「10kgやせた」という報告があった。私もやったら血糖値は下がったが、体重は数kgしか下がらない。不徹底なせいもあるが、個人差があるのだろう。
著者も半年で11kgやせたというが、本書の本題はそこではない。肥満や高血圧や糖尿病など、炭水化物はいろいろな病気の原因だが、なぜこんなに体に悪いのだろうか。それは人体がもともと大量に炭水化物をとるようにできていないからだ。広い意味での人類の歴史は500万年ぐらいだが、農耕生活が始まったのは1万年ぐらい前だから、人類の遺伝子は狩猟・採集社会に適応している。
その一つの証拠が、排泄である。犬や猫のように特定の場所に巣をつくって定住する動物は、巣の外に排泄する習慣があるが、猿や牛や馬のように定住しない動物は、基本的に垂れ流しである。そして人間は、赤ん坊のしつけが排便から始まるように、明らかに後者なのだ。したがって食物は肉食を中心とする雑食で、もちろん穀物などは食べたことがなかった。
ところが定住して農耕が始まると、小麦や米などの穀物は効率よくカロリーがとれ、貯蔵も容易なので人口は増えたが、もともと自由に移動するノマドの遺伝子をもっている人類が集団で定住することにはいろいろ無理があった。その一つが穀物の栽培に必要な灌漑で、水路をつくって農地を管理するには国家が必要になり、文明が発達した。
しかし農耕社会になって、人類の寿命は短くなった。穀物だけ食べていると、蛋白質などが不足して栄養のバランスが悪くなるからだ。カロリーが絶対的に足りなかったときは穀物がもっとも効率的な食物だったが、現代の飽食社会では穀物はいらない。糖尿病学会は「極端な糖質ダイエットには害がある」というが、本書はそれに医学的に反論し、炭水化物は必須栄養素ではない(体内で合成できる)ので、糖質ゼロにしても健康に影響はないという。
人間の遺伝子は狩猟社会に適応しているが、そのミーム(文化的遺伝子)は農耕社会に適応している。米を「主食」として「カロリーベースの食糧自給率」を守ろうとする政治家や、会社という農村共同体を守ろうとする日本の経営者は、まだその幻想にとらわれているが、現代はもう農耕社会ではない。むしろ本能に忠実に、ノマドとして自由に生きる社会を構築したほうがいいのではないか。
③ 主食をやめると健康になる
http://komagun.jp/2013/0328/749
「主食をやめると健康になる」 江部康二
江部康二(えべ・こうじ)
医師、高雄病院理事長。1950年生まれ。京都大学医学部卒業。
高雄病院での臨床活動の中から肥満・メタボリックシンドローム・糖尿病克服などに
画期的な効果がある「糖質制限食」の体系を確立。
ブログ「ドクター江部の糖尿病徒然日記」を発信中。
ご飯・パンを抜くのが人類本来の食事法 1
私たちが毎日食べている米飯やパン。これらの「主食」を控えれば、肥満や糖尿病などさまざまな生活習慣病が予防・改善できます。江部康二医師が理事長をつとめる京都・高雄病院での10年以上の経験をもとに、糖質制限食の効果をご紹介します。この第2回では、「変わった食事」と思われがちな糖質制限食が、じつは「人類の健康食」であることをご説明します。
食前・食後血糖値の変化からみる人類の食生活
約700万年間の人類の歴史のうち、穀物を主食としたのは、農耕が始まってからの約1万年間にすぎません。それまではすべての人類が糖質制限食を実践していました。これは私たちの食生活を考えるうえで非常に大事なことなので、少し掘り下げて考えてみましょう。
人類の食生活は「農耕が始まる前」「農耕以後」「精製炭水化物以後」の3つに分けることができます。この3つの変化がきわめて重要な意味を持っているので、それ以外のことはすべて枝葉末節と言い切ってもよいくらいです。その重要な意味というのは、血糖値の変化です。
血糖値を切り口にして人類の食生活を考えてみると、鮮明な変化が見えてきます。
人類の歴史のうち農耕が始まる前の約700万年間は、食生活の中心は狩猟や採集でした。米や小麦などの穀物は手に入らなかったので、誰もが糖質制限食を実践していたといえます。
このような糖質の少ない食生活なら、血糖値の上下動はほとんどありません。例えば、空腹時血糖値が100mg/dl(ミリグラム・パー・デシリットル)程度とすると、食後血糖値はせいぜい110~120くらいで、上昇の幅は10~20程度の少なさです。これならインスリンの追加分泌はほとんど必要ありません。
次に、農耕が始まったのが約1万年前です。人類は狩猟民から農耕民になったとき、単位面積あたりで養える人口が50~60倍にも増えました。しかし、収穫した穀物を食べると血糖値が急上昇します。
空腹時血糖値が100mgとして、食後血糖値は140くらいで、上昇の幅は40もあります。穀物を食べるたびに血糖値が上昇してインスリンが大量に追加分泌されますから、農耕以後の1万年間は、すい臓のβ細胞はそれ以前に比べて毎日10倍以上も働き続けなくてはならなくなったのです。
ご飯・パンを抜くのが人類本来の食事法 2
さらに、18世紀に欧米で小麦の精製技術が発明されます。白いパンの登場です。日本では江戸中期に白米を食べる習慣が定着していきます。すなわち、ここ200~300年間、世界で精製された炭水化物が摂取されるようになりました。
現代では、少なくとも文明国の主食は白いパンか白米です。精製炭水化物は未精製のものに比べて、さらに血糖値を上昇させます。空腹時血糖値が100mgとして、食後血糖値は160~170くらいで、上昇の幅は60~70もあります。
こうなると、インスリンはさらに大量に追加分泌されます。頻回・大量分泌が長期におよび、すい臓のβ細胞が疲れきってしまえば糖尿病にもなります。インスリンの分泌能力が高い人は、さらに出し続けて肥満になります。
健康を維持するには、恒常性を保つことが重要です。人類の食前・食後血糖値の恒常性は約700万年間保たれていましたが、農耕開始後の約1万年間は上昇幅が2倍になり、精製炭水化物を摂るようになった約200年間は3倍になり、インスリンを大量に分泌せざるをえなくなりました。
農耕が始まる前の人類は何を食べていたのか?
それでは、農耕が始まる前の人類はいったい何を食べていたのでしょう?
約700万年間、人類は狩猟・採集を生業としており、日常的な食料は、魚貝類、小動物や動物の肉・内臓・骨髄、野草、野菜、キノコ、海藻、昆虫などです。ときどき食べることができたのは、木の実、果物、球根(山イモなど)でしょうか。
すなわち、高脂質・高タンパク・低糖質食です。糖質制限食における3大栄養素の割合は「脂質56%、タンパク質32%、糖質12%」ですから、これが「人類本来の食生活」に近い比率だと思います。
この700万年間は穀物がなく、日常的に摂取する糖質のほとんどが野草や野菜分の糖質です。古くから野草や野菜は日常的に食べていたと思います。
このことは、人類がビタミンCを体内で合成できないことからも推察できます。動物性食品だけでは、ビタミンCが必ず不足してしまうからです。野草にもビタミンCが豊富なものがたくさんあります。
ご飯・パンを抜くのが人類本来の食事法 3
ちなみに、現在、糖質制限食で野菜を摂ることは、ビタミンCを確保するためにも重要な意味を持っています。皆さんも適量の野菜(最低ビタミンC必要量)は必ず食べるようにしてください。ただし大量の野菜は糖質量が増えるので要注意です。
次に果物やナッツ類は、秋を中心に季節ごとに少量は手に入るので、当然食べていたと思います。もっとも、当時の果物やナッツは野生種ですから、現在食べているものに比べたら、はるかに小さくて糖質含有量も少なかったと思います。
そして、ジャガイモやサツマイモを人類が食べはじめたのは、農耕開始と同じ頃か、それ以降です。山イモなどの球根は、さまざまな種類が山のなかに自生していたと思われるので、たまに運よく採集できたら食べていたと思います。
私たち人類の遺伝子は穀物に対応できていない
人類がチンパンジーと分かれて700万年です。その後、アウストラロピテクス属、パラントロプス属、ヒト属などの7属23種の人類が栄枯盛衰をくり返し、結局、約20万年前に東アフリカで誕生したホモ・サピエンス(現世人類)だけが現存しているわけです。
ここで大切なことは、7属23種の人類はすべて狩猟・採集が生業だったということです。つまり、農耕が始まる前の約700万年間は、人類皆糖質制限食であり、ヒトは進化に要した時間の大部分で狩猟・採集生活をしていたということです。
したがって、現世人類の行動や生理・代謝を決める遺伝子セット(DNA)は、狩猟・採集の生活条件に適応するようにプログラムされていると考えるのが自然です。
大ざっぱですが、人類の歴史700万年のうち、農耕が始まって1万年なので、穀物を主食にしている期間はわずか700分の1となります。残りの期間は、人類の食生活は糖質制限食でした。
ご飯・パンを抜くのが人類本来の食事法 4
くり返しますが、人類の進化の過程では「狩猟・採集期間:農耕期間=700:1」で、狩猟・採集期間のほうが圧倒的に長いのです。
このように人体の生理・栄養・代謝システムにおいては、糖質制限食こそが本来の食事であり、穀物に60%も依存するような食事を摂るようになったのは、ごく短期間にすぎないのです。
本来、人間は、穀物に依存するような遺伝的システムは持っていないということです。しかし、人口の増加を支えるため、やむをえず穀物が主食になっていったものと考えられるのです。
糖質制限食の基本スタンスは、長い歴史のなかで人類が日常的に摂取していたものを食べるということです
糖質制限食でも、「適量の野菜、少量のナッツ類、少量の果物」程度の少なめの糖質量は、大昔からときどき摂取していたもので、人体の消化吸収・栄養代謝システムにおいても許容できる範囲だと思います。
山イモはさすがに糖質含有量が多いので、正常人はともかく糖尿人はやめておくほうが無難です。正常人が、健康のためにスーパー糖質制限食を実践する場合は、糖尿人より多めの野菜、適量のナッツ類、適量の果物、適量の山イモなど球根、くらいまでの糖質量は許容範囲だと思います。
④ 光文社新書
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334037680
「世界で最もイノベーティブな組織の作り方」山口周/著
イノベーションはビジネスの世界に咲く大輪の花のようなものです。
人間は、花それ自体を創造することはできません。人ができるのは、花が健全に芽吹き、育成されるように適切な土壌、太陽、水、風通しを整備してあげることだけです。
そして、これは企業におけるイノベーションについても同様です。まず組織とリーダーシップのあり様に目を向け、苗床となる土壌を整備してあげること。それができて初めて、イノベーションの種子は健全に芽吹くようになるのです。
これが、本書を通じて読者の皆さんに筆者が伝えたいメッセージのエッセンスです。
目次
第一章 日本人はイノベーティブか?
第二章 イノベーションは「新参者」から生まれる
第三章 イノベーションの「目利き」
第四章 イノベーションを起こせるリーダー、起こせないリーダー
第五章 イノベーティブな組織の作り方
著者紹介 山口周(やまぐちしゅう)
1970年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科美学美術史学専攻修士課程修了。電通、ボストン・コンサルティング・グループ、A.T.カーニー等を経て2011年より組織開発を専門とするヘイグループに参画。専門はイノベーション、組織開発、人材/リーダーシップ育成、キャリア開発。著書に『グーグルに勝つ広告モデル――マスメディアは必要か』『天職は寝て待て――新しい転職・就活・キャリア論』(以上、光文社新書)、『外資系コンサルのスライド作成術――図解表現23のテクニック』(東洋経済新報社)など。
⑤ これでわかった!内閣法制局 新刊
法の番人か?権力の侍女か?
http://gogatsu-shobo.hondana.jp/book/b140445.html
「これでわかった!内閣法制局」 法の番人か?権力の侍女か?
今まさに役割を問われている内閣法制局。安倍首相による異例の長官人事の問題、集団的自衛権と憲法解釈の問題等をわかりやすく解説。
著者 西川 伸一 著
出版 2013/10/04
定価 本体1,300円+税
目次
第1章 安倍人事のなにが問題なのか
(1)内閣法制局長官というポスト
内閣法制局長官は特別職の国家公務員/第一部長→次長→長官という不動の昇進コース/勉強を重ねて長官になる/閣議に出るただ一人の非認証官/記念撮影の「怪」
(2)内閣法制局参事官になれるのはだれか
内閣法制局参事官とは/「目星を付けるんです」/総務主幹が幹部への登竜門
(3)安倍人事はやはりおかしい
「政治主導」と慣例破りでうまくいくのか/「特オチ」の脅し/保守政治家は憂える/「法制局というのは黒子なんです」/「内閣全体として」を繰り返した小松新長官
第2章 集団的自衛権の行使はなぜ認められないのか
(1)自衛隊は「憲法の禁じている『戦力』」か
警察予備隊は「戦力」にあらず/保安隊は「戦力」にあらず/自衛隊は「戦力」にあらず/「自衛のための必要最小限度の実力」は「憲法の禁じている『戦力』」を下回る
(2)若き日の安倍議員が挑んだ論戦
自衛権発動の範囲/集団的自衛権行使は「ゼロでございます」/「保有と行使の分離」は矛盾なのか/集団的自衛権の典型的・中核概念は実力行使
(3)集団的自衛権行使は安倍首相の宿願
「必要最小限度」であれば集団的自衛権の行使は許されるのか/「外的概念」としての集団的自衛権行使の余地はあるか/相変わらず数量的概念としてとらえる安倍首相/「個別的自衛権で対応できる」/安倍首相にみなぎる「双務性」願望/国是変更への覚悟は国民にあるのか
第3章 内閣法制局の現場をみる
当時も安倍首相/法案審査の現場をみる/参事官は半個室で執務
第4章 法治国家の戸口に立つ双面神(ヤヌス)
(1)「法の番人」としての顔
審査事務と意見事務/内閣提出法案が閣議決定されるまで/接続詞の使い方にもルールがある/「、」をつけるかつけないか/本審査における「職権修正」/「他の人を手伝うなんてことは絶対にない」/読会の進め方/法案審査のスケジュール/参事官にとっての最難関は部長説明
(2)「政府の法律顧問」としての顔
昭和天皇の和歌引用は天皇の政治利用か/流鏑馬見物だけOK/「政府が決断をしてやってしまえば、何とでもしてやる」/クアラルンプール事件とダッカ事件/「超実定法的措置」という造語
第5章 政治的圧力と双面神の苦悩
(1)「髪の毛一本のスキを探せ」
権力の侍女になりきれない内閣法制局の苦悩/「その他政令で定める者」で対処/避難民は「およそかけ離れたもの」ではない/「法律的に読めないことはない」ということでやった/解釈をめぐる歴代長官たち
の発言/「政治の怠慢」の犠牲者
(2)解釈が変わった初夏の夕べ
「最も重要なのは論理性」/「文民」でないのはどういう人びとか/「自衛官は文民に当たる」/自衛官のまま大臣になれるのか/「自衛官は文民にあらず」へ解釈を変更/佐藤首相が解釈変更を確認/時間軸を考慮に入れた柔軟性を
むすびにかえて
批判を脇に置いて支持します。/ほんの少しの勇気と想像力を
内容説明
“知られざる官庁”が国是を変える!?
今まさに、内閣法制局の役割が問われている。
安倍首相による長官人事の何が問題なのか、
集団的自衛権の行使は認められるのか・・・。
法治国家を支える“2つの顔を持つ役所”の表と裏を
数々の具体的事例からわかりやすく説く!
■西川伸一 (にしかわ しんいち):
1961年新潟県生まれ。明治大学政治経済学部教授。政治学博士。著書『知られざる官庁・内閣法制局』『官僚技官 霞が関の隠れたパワー』『会計監査院の潜在力』『日本司法の逆説』『楽々政治学のススメ』『裁判官幹部人事の研究』『最高裁裁判官国民審査の実証的研究』(以上 五月書房)、『オーウェル「動物農場」の政治学』(ロゴス)等多数。訳書に『日本の最高裁を解剖する』(デイヴィッド・S・ロー著・現代人文社)がある。「週刊金曜日」に政治時評を連載。
注文
『陽光の剣―高麗王若光物語』
『炭水化物が人類を滅ぼす』 - 糖質ダイエットと人類史
『主食をやめると健康になる』
10 22 (火) 3Dプリンターとは何か
3Dプリンター- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/3D%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC
3Dプリンター(英語: 3D printer)とは、通常の紙に平面的に印刷するプリンターに対して、3DCAD、3DCGデータを元に立体(3次元のオブジェクト)を造形するデバイスを指す。通常は積層造形法によるものを指し、切削造形法によるものは3Dプロッター(英: 3D plotter)と呼ぶ。3次元のオブジェクトを造形することを、3Dプリンティング(三次元造形、英: 3D printing)と呼ぶ。
3次元造形機(ラピッドプロトタイピング)の中でも小型かつ低価格で後処理が少ない装置を示す。メーカーによって多少の違いはあるが、基本的な仕組みは、コンピュータ上で作った3Dデータを設計図として、断面形状を積層していくことで立体物を作成する。液状の樹脂に紫外線などを照射し少しずつ硬化させていく、熱で融解した樹脂を少しずつ積み重ねていく、粉末の樹脂に接着剤を吹きつけていく、などの方法がある。
現在、製造業を中心に建築・医療・教育・先端研究など幅広い分野で普及している。用途は業界によって様々である。製造分野では製品や部品などの「デザイン検討」「機能検証」などの試作やモックアップとして、建築分野ではコンペやプレゼン用の「建築模型」として、医療分野ではコンピュータ断層撮影や核磁気共鳴画像法などのデータを元にした「術前検討用モデル」として、教育分野では「モノづくり教育のツール」として、先端研究分野ではそれぞれの研究用途に合わせた「テストパーツ」「治具」などの作成用途で使用されている。
用途
3Dプリンターの使用用途としては、実際に製品を作る前にそれぞれの部品を3Dプリンターで出力できるサイズに縮小して出力して、デザインの検証・機能検証などの試作に使われることが多い。大手建設会社では建物の模型を3Dプリンターで出力して客に説明する際に使われている。これまでは安くても数百万円するため主に企業など事業所で導入されていたが、主に海外でではあるが数万円~数十万円のものが発売され始めたため、個人や家庭でも導入されつつある。この3Dプリンターを使用するメリットとしては、1cm2あたり20円という安価(メーカーによって多少のばらつきはある)で試作できる、今までパソコンの画面上でしか見ることができなかったものが、模型とはいえ実際に手に取ることができるため、完成したときのイメージが非常にしやすくなる、などが挙げられる。完成したときのイメージがしやすいということは、実際に製作している過程でも、完成形のイメージがしやすいため製作者に迷いが生じにくいということを意味し、作業効率の向上にも繋がりうる。
機種 主な機種には次のものがある[1]。
・ アクリル系光硬化樹脂を使用したインクジェット紫外線硬化方式のObjet社Edenシリーズ
・ ABS樹脂を使用した熱溶解積層法方式のストラタシス社Dimension/uPrintシリーズ
・ 石膏粉末を使用した粉末固着方式のZ社のZシリーズ
比較的安価なものとしては次のものなどがある。
・ Blade-1
・ Cube3D
・ Lunavast
・ MakerBot Replicator
・ MakiBox
・ Solidoodle
その他 ・ 脚注 ・ 参考文献 ・ 関連項目 ・ 外部リンク などの説明がある。
3Dプリンターで検索してみると、上記のほかに多くのページがありますから参考にすればいい。
10 22 (火) ドクダミの効用
健康・野草茶センター
http://www.yaso-cha.com/
純度100%パウダー、純度100%顆粒&微粒、健康茶々葉【リーフ】、 錠剤【タブレット】、オリジナル商品、
純度100%パウダーを始めHPに紹介している、健康に類するパウダーや茶葉の商品が各種 紹介されています。
クマザサパウダー、桑の葉パウダー、ドクダミパウダーを始め、多くの健康パウダーや茶 を調べることができます。
ドクダミ
http://www.yaso-cha.com/SHOP/547043/549949/list.html
トップページへ > 純度100%パウダー > ドクダミ(兵庫県丹波産)
特長1 ドクダミの茎・葉・花もまるごとパウダーに!
ドクダミは東アジア地域に分布し、日本では全国各地でみられる多年草で、6月の梅雨の時季に黄色い穂状の花をつけます。一般的に白い花びらのように見えるのは、花ではなく「蔀(ほう)」と呼ばれるがくの部分です。
ドクダミという名前は、生のドクダミが持つ特有の臭気がまるで毒を溜めているようで「毒溜み・毒矯み(ドクダミ)」に由来しています。
健康・野草茶センターのドクダミは、兵庫県丹波市の契約農家で大切に育てられたドクダミの茎・葉・花をまるごとパウダーに加工しています。
特長2 古くから美容に定評のあるドクダミ
ドクダミは古くから美容のハーブとして親しまれてきました。美容を保つ上で大切な成分クエルシトリン・イソクエルシトリンは、花が咲く時期に一番多く含まれていると言われています。
健康・野草茶センターのドクダミは、花が咲いている短い時期に収穫し、乾燥させてパウダーに加工しているため、大切な成分がまるごと含まれています。また、強い独特な香りを持つデカノイルアセトアルデヒドという精油成分は、乾燥することにより香りが抑えられるため、ドクダミの強い香りが気になる方もおいしくお召し上がり頂けます。
特長3 マルチなフラボノイド成分を含有
ドクダミに含まれているフラボノイド成分のクエルシトリン・ルチン・クエルセチンは、外食が多い方や暴飲暴食などの生活習慣が気になる方におすすめです。
また、クエルシトリンに加えクロロフィル(葉緑素)も含まれているため、頑固で溜め込んで悩んでいる方は毎日スッキリに!
さらに、ミネラルも豊富に含まれており、中でもカリウムが多く含まれています。そのため、夕方になると出てくる靴が入りにくくなるハリ感にも役立ちます。
特長4 安心・安全の無添加100%パウダー
健康・野草茶センターのドクダミは、溶けやすくするためのデキストリンや甘味料・着色料などの添加物は一切使用していません。さらに、お客様に安心してご愛飲頂くために、残留農薬検査と放射能検査を実施しています。
検査結果はそのまま公表していますので、ご覧ください。
残留農薬検査結果はこちら 放射能検査結果はこちら
栄養成分表示(100g当たり)
エネルギー 356kcal 炭水化物 70.8g
水分 2.3g 灰分 13.2g
タンパク質 10.2g ナトリウム 6mg
脂質 3.5g 食塩相当量 0g
商品名 ドクダミ100%パウダー
原材料名 ドクダミの葉・茎・花
産地 兵庫県丹波市
内容量 100g 200g(各商品ラベルに記載)
値段 100g 1,600円(税込)
もろみ黒酢の効果ランキング
http://もろみ黒酢.com/
発酵どくだみ黒酢濃密ソフト
https://www.dmjegao.com/items/view/133DVB0000033
古来より身体に良いと重宝されてきた健康食材「どくだみ」。さらに発酵熟成することにより、どくだみの持つパワーを最大限まで引き出しました。燃焼運動ダイエットに強力な味方となる、鹿児島県福山町産の黒酢もろみも厳選使用。圧倒的な栄養パワーをひと粒 ...
ドクダミ酒 2011/6/8(水)
http://blogs.yahoo.co.jp/ball_of_uguis_1/52049148.html
酒も飲めないくせに!という声が聞こえてきそうだが、囲み記事に「ドクダミのあのニオイはすっかり消えて、リンゴ酒のような香りと甘みで絶品。」の文句にやられてしまった。
それに「療養型病院で~食欲もなくて車いす生活だった老人たちがみんな歩き始め~」なんて内容も。
ちょっぴり食欲のなかった相棒も、これなら喜んでくれるかもというのもあって。なにせ、お酒はご無沙汰だから(笑)
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作り方は至って簡単で、ドクダミを搾って、ハチミツを加えて(イーストを少々加えてもよい)、2~3ヶ月で完成。
ただ、成功のポイントがいくつかあって、ピックアップするとおおよそこんなところ。
・ ドクダミ汁を搾る時期は汁がたくさん出る花が咲く前に採取するのが最適
・ 搾る前に1~2日、水を吸わせてからジューサーにかけることで、後から水を足すのと異なり成分が濃くなる
・ 発酵させる酵母菌を流さないために極力洗わない。さっと流す程度はOK!
・ ハチミツの量は、酵母を活かすために多すぎず少なすぎず。ハチミツ1:ドクダミ汁5程度。
ポイントを把握し終え庭をみると、もう蕾がつき始めている。
採取時期は今!ということで、早速収穫!
「極力洗わない」がコツなので、汚れが少なそうなところを選んでみた。まあ、途中から随分いい加減になってしまったが・・。まあ、大丈夫だろう、発酵するしネ。
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2日、水につけてから、ジューサーに入りやすい大きさに切る作業に着手。
はじめは近寄ってきたメチャはドクダミ臭で一目散に別部屋に待避^^;
結構ツンツンするけど、慣れると耐えられないニオイでもない。
切ってはジューサーに押し込む作業をして半時間、搾れたドクダミ汁は約400ml。
一応、軽く漉してからハチミツを追加(←ハチミツはキンカン蜜♪)。
呼吸できるように蓋はサラシで。
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搾り滓は、他の野菜屑等と一緒に後日米ヌカで発酵させて、また農地に戻る予定。
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搾ってしまうと、あの強烈なニオイとはかなり違う。単なる青汁って感じか。
成功確認ができるまで時折、かき混ぜてやりながら2~3ヶ月。長いような気もするが、これまで柿酢やらで培った忍耐?で、ゆっくり待つことにしよう。
初秋の風呂上がりにでも、記事のように相棒とグラスを鳴らしたいな。