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折々の記 2014 ②
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 08】03/01

  03 01 まど・みちお 28日 104歳  
  03 02 集会所名 = 両平コミュニティ-センター  
  03 02 教育は国家百年の大計  安倍政権の教育政策


 03 01 (土) まど・みちお 28日 104歳  

まど・みちお 詩人

童謡「ぞうさん」や「やぎさん ゆうびん」などで知られ、やさしく深い言葉で命の貴さをうたいあげた詩人のまど・みちお(本名石田道雄〈いしだ・みちお〉)さんが、2月28日午前9時9分、老衰で亡くなった。104歳だった。葬儀は近親者で営む。

 1909(明治42)年、山口県生まれ。本名は石田道雄。北原白秋選の絵本雑誌に投稿したのを機に、25歳ごろから童謡や子供の詩を書き始める。代表作に「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」「一ねんせいになったら」「ふしぎなポケット」など。野間児童文芸賞、芸術選奨文部大臣賞、路傍の石文学賞特別賞、朝日賞などを受賞。1994年には国際アンデルセン賞を受けた。

俵万智さん「ことばの究極の使い手」 まどさん悼む
親子で愛唱してきました。こどもは耳で聞いていっぺんで覚えてしまう。直接子どもの心に響く。シンプルで難しくない表現は、ことばを信じていないと決してできないことです。ことばの究極の使い手でいらしたと思います。



     「ぞうさん」

   ぞうさん ぞうさん おはながながいのね
   そうよ かあさんも ながいのよ

   ぞうさん ぞうさん だあれがすきなの
   あのね かあさんが すきなのよ

1948年に書かれたもので、1953年に團伊玖磨が曲をつけてNHKラジオで放送された。その歌詞は自らのもつ差異を肯定し、誇りとするものとされている。周南市徳山動物園には「ぞうさん」の歌碑がある。

みちおは「ぞうさん」について次のように語っている。
「『鼻が長い』と言われれば からかわれたと思うのが普通ですが、子ゾウは『お母さんだってそうよ』『お母さん大好き』と言える。素晴しい」

     「ふしぎなポケット」

   ポケットの なかには
   ビスケットが ひとつ
   ポケットを たたくと
   ビスケットは ふたつ

   もひとつ たたくと
   ビスケットは みっつ
   たたいて みるたび
   ビスケットは ふえる

   そんな ふしぎな
   ポケットが ほしい
   そんな ふしぎな
   ポケットが ほしい

1954年発表。たたくたびに中のビスケットが増える魔法のポケットがほしいと歌う作品。

 03 02 (日) 集会所名 = 両平コミュニティ-センター  

コミュニティー‐センター【community center】国語

地域社会にあって、住民の地域共同体意識を高めるための施設。公民館・図書館・学校・公園など。

[補説]「コミュニケーション」は、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。「親子の―を取る」は親が子に一方的に話すのではなく、親子が互いに理解し合うことであろうし、「夫婦の―がない」という場合は、会話が成り立たない、気持ちが通わない関係をいうのであろう。

community center 英和

コミュニティーセンター:教育・文化・娯楽施設があり地域活動の中心.


地域活動の願いは何か

明るい希望がある地域にしたい。

そのコア(【core】=中核、核心) になるものは、“人と人の関係が明るい希望がもてること”にあろう。

人と人の間では、何が大事な心がけだろうか?

  明るさ  控えめ  優しさ

放牧地の馬や牛を見ても、“集団としてまとまる”ことが動物がもっている本能的な生命維持の本質と思われます。 集団から爪弾きにされると、人は生命が極まって死を選びます。

こうした原則からみると、集団の個々にとって必要な心がけは、お互いの「明るさ」「控えめ」「優しさ」などでしょう。 明るい声や笑顔は人に安堵感もたせます。 我儘を通しますと、みんなが迷惑がります。 思いやりの心によって人は癒されるのです。

こうした心がけは大昔からの素晴らしい人の文化だといえます。 日本文化というものは具体的に言えば何でしょうか。  平安文化と言えば、それはどのように先人たちは仕上げてきたのでしょうか。

心を支えてきた東洋文化は、多くの人々の集団社会の中から築き上げられたものでしょう。 戦乱の世にあっても平安な社会はどのようにして仕組みあげればいいのか、考えぬかれてきたのでしょう。

春秋戦国の時代から孔子、老子、三藏法師にはじまる儒教、道教、仏教など、心の在り方を求め続けてきたものは、今の世に通用する素晴らしい文化です。

「ならぬものはならぬ」という会津藩の什の薫陶もその一端でしょうし、「他人のふり見て吾がふり直せ」という多くの諺や「おごちそうさま」など今も役に立つ素敵な文化です。

「よい子は明るいよい返事」に伝わる言葉づかいなどの礼儀作法も明るい社会にしていく立派な日本文化ですね。 恵那市岩村町へ行くとどの家の入口に佐藤一斎の言志四録からとった言葉がかけられています。 気に入った言葉を座右にするのも一法でしょう。

よい子を育てることも community center の活動の一つにしてもよいでしょうし、年寄りがピンピンコロリを求めて活動してもよいでしょう。 よりよい文化を求める活動もよいでしょう。

みんなの力で文殊の智慧を求めていきたいものです。 新築の建物の名に恥じないように !!



 03 02 (日) 教育は国家百年の大計  安倍政権の教育政策

2014年3月2日05時00分
脱「自虐」、教科書変える
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11007155.html

 安倍政権が教科書制度の見直しに踏み出した。領土教育を強め、政府の考え方をよりはっきり教科書に書かせる仕組みをつくろうとしている。安倍晋三首相(59)は「自虐史観」が強いとみる戦後教育体制からの脱却を目指す。▼2面=突貫審議、3面=宿願へ着々

 第2次政権発足からちょうど1年となる昨年12月26日午前11時半、安倍首相は靖国神社に参拝した。この日朝、政権内部でもう一つの重要課題が動いていた。

 首相官邸の官房長官室で、菅義偉官房長官(65)、下村博文文部科学相(59)、岸田文雄外相(56)がひそかに協議した。「尖閣・竹島が我が国固有の領土なのは明らかだ。あとは発表のタイミングをどうするか」と切り出したのは、教育政策で首相を支える側近の下村氏だ。

 下村氏は首相の意向を受け、尖閣・竹島を「固有の領土」と教科書に明記させる中学・高校向け学習指導要領の解説改定の発表時期を探っていた。

 政府は中国と韓国の反発を意識し、尖閣の記述を避け、竹島も高校の教科書で明記されてこなかった。今春から検定が始まる中学校教科書で方針転換するには、解説改定の期限が迫っていた。外務省は1月末から中国で始まる旧正月を避けるよう主張。3閣僚は1月後半の発表で合意した。

 首相も了承し、政権は水面下で米国に説明した。旧正月前の1月28日、下村氏は改定を発表した。

 自民党内でも動きが進んだ。首相側近の萩生田光一・総裁特別補佐(50)が主導する「教科書検定の在り方特別部会」は昨年6月、歴史問題であいまいな点は本文に書かないなどの改善策を提言した。

 一連の動きで首相はもう一つ重要な判断をした。教科書の検定基準で「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」と義務づける「近隣諸国条項」の扱いだ。

 首相は長年、同条項が「自虐・偏向」教科書を生み、南京事件や慰安婦問題の記述が増えたと考えてきた。2012年冬の衆院選公約では見直しを掲げた。

 だが、政権復帰した同年末の初閣議で、歴史認識問題には政府一体で対処する方針を確認。萩生田氏の部会を使って条項見直しを「その他の課題」に格下げした。政権の安定を優先し、中韓の反発が予想される条項見直しを封印しつつ、学習指導要領の解説改定や検定基準の厳格化によって教科書の記述を変えさせる――という同条項の「骨抜き」につなげた。

 教科書業界には、見直しムードが広がる。今年2月、文科省の説明会に参加した教科書会社の編集者は「無言の圧力をひしひしと感じた」と漏らした。南京事件の記述見直しを検討する会社も出てきた。

 16年4月から使われる中学社会の教科書は大きく変わりそうだ。首相が思い描いた通り、竹島は「我が国固有の領土」「韓国が不法占拠」、尖閣諸島は「我が国が有効に支配し、領有権問題は存在しない」と教えられる見通しだ。


(2面)
検定、越えた一線 突貫審議

 小中高校向け教科書に政府見解の記載を求める――。教科書検定基準の改定を、文部科学省は異例の速さで進めた。自民党の意向をくんで練った新基準は、抑制的だった従来の検定から踏み出した。教科書づくりの現場では、議論の分かれる記述を避けるなど自粛が始まっている。▼1面参照

 「非常に短時間で集中してご審議いただき、お礼申し上げます」。昨年12月20日、教科用図書検定調査審議会(文部科学相の諮問機関)で前川喜平・文科省初等中等教育局長が頭を下げた。審議会はこの日、2回目の会合で検定基準の改定案を了承した。杉山武彦会長(成城大教授)は言った。「ごく当然の内容だし、大臣から『年内に』と要請がありましたから」

 文科省が改定案を検討し始めたのは、その1年以上前だ。自民党の政権交代を見越して、実現可能な案を練り始めた。

 半年後の昨年4月18日、自民党文部科学部会と「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の合同会議。党内きっての保守派がそろう場で布村幸彦・文科省初等中等教育局長(当時)は「自民党の提言を受けて検討しており、制度の見直しにつなげたい」と話した。

 「南京事件は捏造(ねつぞう)と書かせるべきだ」「戦争で日本が加害者になった点は少数意見まで書くのに、被害は書かれない」。会議では教科書への不満が続き、布村局長は「検定は抑制的。学説状況をみて判断せざるを得ない」と理解を求めた。

 検定では、かつて国による修正意見が「裁量権の逸脱」と違法判決も受けた。保革勢力や諸外国の主張に揺れた歴史もある。このため「具体的に記述させる指示はせず、学説状況に照らして偏りや誤りがなければ合格」という方針が定着したが、そんな抑制的な姿勢が「自虐史観」の教科書をはびこらせた、との不満が自民党内には根強い。

 合同会議の約2カ月後、同党・教科書検定の在り方特別部会の中間まとめが公表された。盛り込まれた「教育基本法をしっかり踏まえた教科書」というあいまいな文言をもとに、「教基法に照らして重大な欠陥があれば不合格」という趣旨の項目が検定ルールに加わることになった。自民党との調整過程で省から提案したという。

 「学習指導要領に沿った教科書作りをすれば『重大な欠陥』という事態はあり得ない。法の趣旨をより意識してほしいという、いわばメッセージだ」。文科省の永山裕二教科書課長はそう話し、不合格になるかもしれないという教科書会社の懸念を打ち消す。

 省幹部の一人は「記述のバランスを期する目的だし、政府見解に反する主張の紹介も否定しない。穏当な改定だ」とする一方、こうも言う。「『政府見解を書く』というのは、抑制的な検定から少し踏み出した違和感はある。教科書は政府広報じゃないんだから」

 昨年11月15日に下村博文文科相が「教科書改革実行プラン」を公表すると、文科省は基準改定へ猛スピードで突き進む。

 前回、2009年の改定時は検定審で約1年かけて議論した。今回は対象が限定的とはいえ1カ月で終了。その後、21日間募った一般からの意見(パブリックコメント)は約6500件集まったが、締め切りの3日後に改定を告示した。「意見内容について必要な精査はした」と永山課長は説明するが、募集前後で改定内容に変更はなかった。

 1月28日に改定した「学習指導要領の解説」も、通常なら約10年に1回の指導要領改訂に合わせて改める。「指導要領の改訂では間に合わないので解説が先になってしまった」。翌日、下村氏は例外的な対応と認めざるを得なかった。(岡雄一郎)

■トラブル敬遠、業者は萎縮

 2月18日、東京・市谷。文部科学省の教科書会社への説明会が開かれた。領土の記述を充実するよう求めた中高の学習指導要領解説の改定がテーマだった。

 説明会は12月には検定審の議論、2月13日には検定細則の改定について開かれ、この日は3回目。新しい検定基準が適用される中学校教科書の編集は、文科省への提出を前に現在、「第4コーナー」にさしかかっている。参加した編集者は語る。「教科書づくりの追い込みの時期、しかも学習指導要領改訂のサイクル途中でのルール改正は、ほとんど例がない。そして何より、その中身が異例」

 「愛国心」養成などを掲げる教育基本法の目標などに照らして重大な欠陥がある場合、不合格になる。しかも今のところ、「重大な欠陥」の基準を文科省は明らかにしていない。「一発ドボン検定」と彼は呼ぶ。

 不合格になると、会社は編集の費用を回収できないため、確実に合格できる内容を、と考えるようになる。「教科書づくりの現場は確実に萎縮する」

 別の会社の幹部も言う。「やはり『伝統文化の尊重』や『愛国心』に沿った教科書をつくることになるだろう」。具体的な記述は担当者に任せていたが、これからは会社全体でチェックするという。

 現行のルールでも、小学校の算数教科書で、教員が参考にするため学校に配る資料に、教科書記述と「道徳」を関連づけた表をつけた会社が現れている。

 〈相撲の土俵の大きさについて考える=愛国心〉

 〈しきつめられた図形の美しさにふれる=畏敬(いけい)の念〉

 〈オムレツづくりを通して家族の協力を知る=家族愛〉……。

 記述の自粛の動きは、もう始まっている。「何が通説か議論が分かれる記述や、異論のある数字は避ける。敬遠策です」と中学社会の教科書を発行する会社の関係者。ある会社は領土問題の記述を増やそうと、文章を組み直す最中だ。

 南京事件や沖縄戦などの記述を全社分並べ、比較検討する会議を開いた会社も複数ある。そのうちの1社は「基準がわからず、我が社が突出していないかどうか確認した」という。

 そんななか、生徒に考えさせる教科書づくりを改めて目指す動きもある。

 ある会社の執筆者は話す。「政府見解というなら、戦後50年の村山談話や、慰安婦についての河野談話も含まれるのでは。政府の姿勢が政権によって変わることを考えさせたい」

 別の執筆者は、これまで「侵略」の語句や関東大震災の朝鮮人虐殺の被害者数をできるだけ入れようとしてきたが、「重要なのは歴史的な意味を考えること」と言う。生徒の関心を高め、批判力をつけるため、いくつもの資料を読み比べる内容を盛り込んではどうか。執筆者会議でそんな議論を始めている。(氏岡真弓)


(3面)
政権、宿願へ着々 近隣諸国条項、骨抜きに

 教科書制度見直しへの地ならしを進めたのは、3人の側近たちだった。下村博文・文部科学相(59)、萩生田光一・自民党総裁特別補佐(50)、義家弘介・前文科政務官(42)だ。

 昨秋、下村氏を中心に政権は「教科書制度の見直しスケジュール」と題した「工程表」を作った。(1)下村氏が教科書改革実行プランを発表(2)2014年1月下旬に文科省が検定基準改定を告示(3)15年3月、改正検定基準に基づく検定結果発表(4)16年4月から、新教科書の使用開始――という段取りだ。

 下村氏は昨年11月15日、改革実行プランを発表。「政府見解がこうだということは明確に、必ず書いてもらいたい」と教科書検定基準に切り込む姿勢を示した。

 義家氏は第2次政権で文科政務官に起用され、首相と下村、萩生田両氏との間で調整役を担い、領土教育を強める道筋を作った。昨春、加藤勝信(58)、世耕弘成(51)両官房副長官と相次いで会い、中学・高校向け学習指導要領の解説に尖閣・竹島を「我が国固有の領土」と明記する方針を確認。さらに菅義偉官房長官(65)、下村氏、岸田文雄外相(56)の3閣僚の調整に持ち込み、首相から「明記は当然のことだ」と了解を得た。義家氏は「これは外交問題ではなく、日本の事実について書くということなんだ」と強調する。

 一方で、萩生田氏は昨年4月、首相の指名で党の「教科書検定の在り方特別部会」主査に就任。近隣諸国条項見直しは「中国、韓国に配慮し、あえてクローズアップしない」との判断から封印を主導した。萩生田氏は取材に「改正教育基本法で、あらゆる国々の歴史を尊重して敬意を払うという趣旨が盛り込まれた。近隣諸国条項を廃止しますというのは大人げない話だ」と説明した。

 文科省が昨秋作った「主な文部科学行政施策」の教科書改革の項目に、近隣諸国条項見直しは明記されなかった。萩生田氏はこうも語った。「もう、近隣諸国条項の使命は終わった」(疋田多揚、大津智義)

■首相、戦後教育に不信感

 「マインドコントロールから抜け出して、必要なものはしっかりと子どものために書き換えていく必要がある」。2月20日の衆院予算委員会。安倍首相は第1次政権で手がけた教育基本法改正を例に挙げて「指一本触れられないものではない」。戦後教育体制への強い不信感をにじませた。

 首相には「日本の教育は戦後ゆがめられてきた。脱却しなければ真の独立はあり得ない」という思いがある。当選2回だった97年、故・中川昭一氏らと「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を結成。教科書検定・採択方法の「改善」▽近隣諸国条項の改定▽従軍慰安婦の強制性を認めた河野談話の見直し――を目指した。

 英国の「サッチャー教育改革」も大きな影響を与えた。首相は2004年秋、下村氏らを英国に派遣。視察団はフォークランド紛争を機に国民が誇りを取り戻し、「自虐偏向教科書の是正」といった改革へ続いた、と結論づけた。

 「国民としての誇りと自信の回復、しっかりとした学力の形成をねらいとして実施された」。06年10月、首相は衆院本会議でサッチャー教育改革を絶賛した。ただ、有識者には「英国に定められた『教科書』はなく、概念のすり替えだ」(上田学・日英教育学会代表)との指摘もある。

 首相は07年に参院選敗北や病気で退陣。その後の政権の鈍い動きに「改革が後退している」と不満を漏らした。12年末、再び政権の座に就き、衆参両院で与党過半数を確保。日本維新の会なども首相の考えに近く、教育制度見直しを進めやすい環境が整っている。

 戦後教育体制の解体に進む首相の胸の内を、教育政策ブレーンの八木秀次・高崎経済大教授(51)は「戦後教育界が日本の国力をそいできた。日本人のアイデンティティーを見直し、世界の模範となる国にする」と解説する。首相側近はこう語った。「後世に、正しい歴史認識を残す必要がある」(池尻和生、山下龍一)

◆キーワード

 <近隣諸国条項> 教科書の検定基準で「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」と義務づける規定。1982年、前年度の教科書検定で中国への「侵略」が「進出」に書き換えられた、と朝日新聞を含む報道各社が報じ、中韓が日本政府に抗議した。実際は報道側に誤りがあったが、日本政府が「政府の責任で是正する」と談話を発表し、検定基準に盛り込まれた。

 ◇安倍首相が進める政策は、どのように決まり、何を目指そうとしているのか。安倍政権の政策決定プロセスと、その意味や狙いを随時検証していく。


(ニュースがわかる!)
教科書検定、何を誰が調べるの?

 コブク郎 教科書(きょうかしょ)の検定(けんてい)って何なの?

 A 出版社(しゅっぱんしゃ)の教科書の中身(なかみ)を国がチェックする制度(せいど)だよ。検定に合格しないと、教科書として学校で使えないんだ。

 コ どうしてそんな制度ができたの?

 A 戦前(せんぜん)は国が中身を決める「国定(こくてい)」の教科書だったけれど、軍国主義(ぐんこくしゅぎ)を根付(ねづ)かせる役割(やくわり)を担(にな)ったという反省(はんせい)から、1947年にできた。中身は出版社が作り、国はチェックだけをする、という仕組(しく)みだ。

 コ 教科書には何を書いてもいいのかな。

 A いや、国が決めた「学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)」や、もっと細かい「指導要領の解説(かいせつ)」に沿っていないとダメだ。「企業(きぎょう)の宣伝(せんでん)になってはいけない」「特定政党(とくていせいとう)の主義(しゅぎ)に偏(かたよ)ってはいけない」などのルールを決めた検定基準(きじゅん)も守る必要がある。

 コ 誰がどんな手順(てじゅん)でチェックするの?

 A 出版社が作り、まず文部科学省(もんぶかがくしょう)の調査官(ちょうさかん)が調(しら)べる。学説(がくせつ)の状況(じょうきょう)に照(て)らすなどして不適切(ふてきせつ)な記述(きじゅつ)があれば、意見案(いけんあん)を教科用図書(きょうかようとしょ)検定調査審議会(けんていちょうさしんぎかい)に出す。さらに審議会の意見を受けて出版社が修正し、最終的に文科相(もんかしょう)が合否(ごうひ)を決める。

 コ 検定のルールが変わると聞くけど、いつから?

 A 検定基準と指導要領の解説が1月に改められ、4月に始まる中学教科書の検定で使われる。検定に1年、教科書選びでさらに1年かかるから、新しいルールで作られた教科書が使われるのは16年度からだ。(岡雄一郎)


(八木教授のインタビュー)
安倍流教育改革、狙いどこに? 首相ブレーンが語る

 教科書制度見直しをはじめとした安倍晋三首相の教育改革の狙いはどこにあるのか。首相の教育政策ブレーンで、政府の教育再生実行会議委員を務める八木秀次・高崎経済大教授に聞いた。

 ――文部科学省が教科書検定基準を改定し、政府見解や確定判例の記述、通説のない事項の明示などを盛り込みました。南京事件や従軍慰安婦問題が念頭にあるとみられますが、どう評価しますか。

 「これまでは検定が甘くなりすぎていて、複数の学説が対立していても一方の学説だけで検定を通ってきました。児童、生徒が手に取る教科書は一つです。A説やB説があるのにA説だけ学ぶというのは、憲法が保障している教育の機会均等からもおかしなことです。昨年6月に自民党の部会に招かれ、そういった意見を述べました。今回の改定では、党を通じて文科省にほぼ採用されたように思います」

 ――一方で、時の政権によって教科書内容が左右され、国定教科書につながるとの指摘があります。

 「その指摘は間違いです。まず、時の政権によって政府見解がころころ変わったことが、これまであったでしょうか。ほとんど変わっていません。政権が交代しても、それまで蓄積された議論があるので、それを教育の現場でも踏まえてくださいという趣旨です。教科書は自分の意見を書く場ではない。そこを『右翼』も『左翼』もはき違えている面があります。学習指導要領があって、それを教材化したものです」

 ――政府見解を書く必要があると考える具体的テーマはなんですか。

 「領土問題です。我が国の立場を踏まえて公教育を行うわけですから、そこは正確に記述し、そのうえで外国はどう言っているのかを書くのが妥当です。ところが、これまでの教科書には、竹島(島根県)や尖閣諸島(沖縄県)がどこの国の領土か不透明なものもある。それはおかしい。教科書会社によって見解が異なるのではなくて、教材としてどこが優れているかの競争をするべきです。そのために、検定のストライクゾーンを狭めようということなのです」

 ――歴史教育はこれまで外交問題化してきた経緯があります。

 「中国、韓国などに配慮するよう義務づけた『近隣諸国条項』が設けられ、近隣諸国からの干渉を受け入れるかたちで、学問的には裏付けのないことが教科書の場で野放しにされてきた。税金が投入される教科書は、一般図書と違います。理科の教科書では学問的裏付けのないことは書けない。それと同じで、外国から何を言われようが正確に教えるべきです」

 ――東アジアの緊張が高まる状況で、中国や韓国の反発を招きませんか。

 「緊張が高まっている状況だからこそ、領土について国民意識を高めていくことも必要です。尖閣は我が国固有の領土だという国民世論が大勢を占めていれば、そのこと自体が中国に対する抑止力になり、武力衝突の可能性が下がります」

 ――首相が教育に熱心なのはなぜだと思いますか。

 「安倍さんが教育に関心を持ったきっかけは、イデオロギーの側面からだと思います。戦後の教育界の主流だった左翼的な考えに対し、『この人たちの考えを実現していくと日本の国がだめになる』という考えがあるのです」

 「安倍さんは幼い頃から(教師らに)自民党の悪口を聞かされ、『この野郎』と思いながら、どうやってそれに反論するか考えてきたと思います。左翼イデオロギーに対するアレルギーと、それをどう乗り越えるのかの考えを持ち続けていて、教育問題も日本教職員組合(日教組)による支配が日本の国力をそいでいるという認識です。レーガン(元米大統領)やサッチャー(元英首相)は、衰退していた国を盛り返すにあたって教育のあり方を見直した。それは、教育界に任せるのではなく国家戦略として教育改革を行う必要があったからです。安倍さんや我々の念頭にも同じ考えがある。教育を国家戦略として位置づけようとしているんです」

 ――首相は、教育制度の見直しを加速させています。

 「第1次政権で教育基本法を変えたのは大改革でした。しかし、政権は短命に終わってしまいました。それでも、安倍さんは改正教育基本法に沿って日本の教育はよくなると思っていましたが、教科書の記述は一向に変わらない。ショックだったと思います」

 ――首相がめざす教育像は、「愛国教育」との指摘もあります。

 「偏狭なナショナリズムはだめです。声高に愛国の感情を叫ぶのではなく、どうやって世界の模範となり尊敬されるような国をめざすか。安倍さんには、サンフランシスコ(講和条約)体制にものすごく愛着があります。日米同盟も重要だと考えています。日本が国際社会に復帰したのはサンフランシスコ体制のおかげで、戦後日本の自由民主主義、人権、法の支配という基本的な価値の基礎になっています。首相の政策を戦前回帰とか言う人がいますが、そうじゃない。そういう意味では、安倍さんはもっとめざす国家像を説明した方がいいと思います」(聞き手・池尻和生)

八木秀次・高崎経済大教授 政府の教育再生実行会議委員



評論「学びの温故知新」 第一回「教育政策を考える基本」
<http://www.aomori-u.ac.jp/president/2012/05/post-2.html>
青森大学学長 崎谷康文

 人材の育成は、国家・社会のあらゆる分野の発展の基盤となる。古今東西を問わず、教育政策は国家の最重要課題である。 最近では、平成9年から10年間首相の座にあった、英国のブレア首相が「優先課題は三つある。 一に教育、二に教育、三に教育」と述べ、国政の責任者としての高い見識を示したことが記憶に鮮明である。 教育は、社会的存在としての人間一人ひとりの価値を高める作用であり、学校教育、社会教育、生涯学習、文化、学術、スポーツなどに関する政策は、人材の育成が本質的に重要であるので、これらを総合して、教育政策あるいは教育文化政策と呼ぶことができる。 教育が人間の価値を高める作用であるとの性格を持ち、国家・社会の重要な基盤であることから、安定的、継続的な支援が必要であること、全国的な統一性と機会均等に配慮すべきこと、関係する者の自主性、創造性を尊重すべきことなど、他の行政分野とは異なる配慮や取扱いが必要である。 教育政策を考える重要な基本として、次の三つの視点を考えたい。

(1)教育は国家百年の大計

 第一に、教育は国家百年の大計である。 長期的な視点が不可欠である。 管子に、「一年の計は穀(こく)を樹(う)うるに如(し)くは莫(な)く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し」とある。 穀物を育てるのは一年の計画であり、木を育てるのは十年の計画である。 しかし、人材を育て、その成果を見極めるには、一生涯をかけた計画が必要である。

 教育は、日々の実践の積み重ねであり、成長発達に従い、一時たりともゆるがせにせず継続することが大切である。 昨日学んだことを今日確かめることも必要であり、学期末の考査でよい成績をとり、入学試験に合格することも重要な目標となる。 しかし、試験の結果や学校の成績に一喜一憂するのでは、将来の展望は開けない。教育の在り方としては、短期的な目標の達成だけでは不十分であり、社会に出て生涯にわたり人間として成長しつつ充実した生き方ができる力を身に付ける必要がある。

 教育政策を考えるに当たり、当面の課題を克服することは重要であるが、短期的な対策だけを講じていてはならない。 教育の確実な振興のために不可欠な長期的政策や制度がきっちりと構築されている。 しかるに、目の前の問題しか見えず、重要な制度の根幹を変えてしまえというような乱暴な議論に惑わされてならない。 教育については、対症療法だけではなく、長期的な視点に立った予防的な方策を講ずることが必要なことが多い。 未来の世代を育成するには、確かな洞察の下で、計画的に教育施策を進める必要がある。

(2)教育における不易と流行

 次に、教育における不易と流行ということである。 不易流行とは、蕉風俳諧の理念の一つであり、永遠に変わることのない不易と、絶えず新しいものを求める流行とが根元において一に帰すべきものであり、それは風雅の誠から出るという説である。

 文化と教育に関する懇談会は、臨時教育審議会に先立ち、内閣総理大臣の私的諮問機関として昭和58年6月に設置され、59年3月に報告をまとめた。 その報告は、
「我々の歴史は、常に時代を超えて『不易』なるものと、『変化』するものがあることを教えている。 来るべき未来へ向けて、既成の観念にとらわれない、新たで最も必須なものの教育が行われなければならないが、それとともに、人間が社会を作り上げていく以上、人間として当然備えるべき不易の価値を保持し、より高め、養っていくことこそ教育の本旨であろう」
とする。 これが多分政府の機関が教育に不易流行の考えを取り入れた最初の文書であろう。 臨時教育審議会第二次答申は、
「人間の文化と社会は、無常なるもの(万物が生滅して、定まりがないこと)、変転きわまりないもののようではあるが、深く洞察してみると、そこには、①時代をこえて変わらないものと、②時代とともに変化していくものとがあり、しかもこの両面は複雑に、分かち難く結びついていることを認識させられるのである。 このことを芭蕉は、『不易』と『流行』と表現したが、教育の本質もまた常にこの不易と流行の両面を統一するものとしてとらえなければならないであろう」
と指摘し、
「この両面を統一することを忘れて、前者のみに固執すれば、教育は独断、硬直に陥り、後者のみに流されれば、教育は軽佻浮薄に堕するであろう」
と論じている。 その後、教育における不易流行は、審議会答申等で何度か取り上げられている。

 教育、そして教育政策について考えるとき、現状の打破が必要である、改革が急務であるとして、すべてをひっくり返そうとするのは行き過ぎである。 歴史の重みを確かに受け止める必要がある。 地方分権のための改革が必要であっても、大きな視野に立って国家戦略を築くことは不可欠である。 時代を超えて変わらない大切なものは何かしっかりと見定めて、その根幹を確保することが必要である。 同時に、時代が求めるものを的確に把握し柔軟な対応を図る必要がある。 たとえば、市町村立の義務教育諸学校の教職員の給与負担を都道府県が行い、その給与負担について一定割合を国庫負担とする義務教育費国庫負担制度について考えるとき、教育の機会均等と全国的な教育水準維持のために不可欠な仕組みであることを確認して、制度の根幹を維持しつつ、学級編成や教職員の配置等について地方の裁量を広げるのは、不易流行の考え方に合致する。

(3)米百俵

 第三に、小泉内閣総理大臣が就任当初の所信表明演説(平成13年5月)で述べた米百俵の精神である。

 米百俵の精神とは、教育が最も優先すべき政策課題であり、教育に必要な財政資源を他に先駆けて確保し投入するという考え方である。 明治の初め、戊辰戦争で焼野原となった長岡藩に支藩の三根山藩から米百俵が見舞いとして送られたが、長岡藩の大参事小林虎三郎は、その米百俵を国漢学校の建設資金とした。 人材を育てるための投資を最優先し、他のことは我慢せよとの意味である。 教育も辛抱しなさいということでは、断じてない。

 義務教育費国庫負担金制度は、国家の責任において必要な教育財源を間違いなく確保する制度として、長く有効に働き定着している。 現在は国庫負担の割合が三分の一になっており、本来の二分の一に戻すべきであるものの、米百俵の精神を体現する制度であると評価できる。 ともすれば、他の分野と同様に、教育文化についても一律の割合で予算を削減すべきであるというような乱暴な議論が横行しているが、米百俵の精神を忘れていると言わざるを得ない。
日時: 2012年5月 7日 08:50

http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/  長岡市 米百俵など案内豊富



<米百俵の由来>
   <http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/bunka/komehyaku/kome100.html>

 幕末維新の風雲は、戊辰戦争で長岡城下にも及んだ。長岡藩は、軍事総督・河井継之助の指揮のもと、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行った。このことは、司馬遼太郎の歴史小説「峠」で広く紹介されている。その結果、250年あまりをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、石高は7万4千石から2万4千石に減らされた。

幕末に江戸遊学をし、佐久間象山の門下生であった虎三郎は、独自の世界観を持ち、「興学私議」という教育論を著していた。戊辰戦争の開戦に際しては、長岡藩が参戦することに反対の立場をとっていた。敗戦後、文武総督に推挙された虎三郎は、見渡すかぎりの焼け野原のなかで、「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」という理想を掲げ、その実現に向けて動き出した。明治2年(1869)5月1日、戦火を免れた四郎丸村(現長岡市四郎丸)の昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校し、子どもたちに「素読」(論語などの読み方)を教えた。 翌年5月、長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られてきた。藩士たちは、これで一息つけると喜んだ。食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であった。

しかし、藩の大参事小林虎三郎は、この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百俵を売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。こうして、明治3年6月15日、国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目、大和デパート長岡店の位置)に開校した。国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされた。ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥……。

この国漢学校は現市立阪之上小学校に引き継がれ、「米百俵」の精神は長岡市のまちづくりの指針や人材教育の理念となって今日に至っている。

 この国漢学校創立時の故事をもとに、文豪・故山本有三氏が戯曲として書き下ろしたのが<米百俵>である。この戯曲は、虎三郎に関する詳細な研究と合わせて一冊の本にまとめられ、昭和18年(1943)に新潮社から出版された。

山本有三の戯曲<米百俵>の中で、虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける。 「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」

教育と反戦の思想で裏打ちされた戯曲<米百俵>は大ベストセラーとなったが、時代は軍部の支配下にあり、反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となり、自主回収の憂き目を見た。
それから約30年後の昭和50年(1975)、長岡市が<米百俵 小林虎三郎の思想>を復刻出版すると、大きな反響を呼んだ。また、昭和54年(1979)と平成13年の2度にわたり歌舞伎座で上演され、多くの人々に感銘を与えた。

米百俵が来る

 虎三郎が弟雄七郎にあてた手紙には、「長岡藩は極度に窮迫し、士族の中でも日に三度の粥すらすすることのできない者がいる」とある。
 こうした状況の中で、明治3年(1870)5月、長岡藩の支藩である三根山藩(現西蒲原郡巻町)の士族たちから長岡藩士族へ見舞いとして米百俵が贈られてきた。米百俵は当時の相場でおよそ金270両前後。そば一杯がおよそ24文、金1両は約10,000文であったので、いかに大きな贈り物であったかがわかる。



・小林虎三郎(1828~1877)
 文政11年(1828年)8月18日、長岡藩士小林又兵衛の三男として生まれる。崇徳館で学び、若くして助教を務める。23歳の時、藩命で江戸に遊学、兵学と洋学で有名な佐久間象山の門下に入り、長州の吉田寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」と称せられる。象山に「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」と言わせるほど、虎三郎は教育者であった。
 教育の重要性を説く虎三郎の思想は、帰郷後に著した「興学私議」に詳しい。
 戊辰戦争に敗れ焼け野原となった長岡で、「国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ。」と教育第一主義を唱え、三根山藩からの救援米百俵をもとに、国漢学校を設立し、多くの人材を育て上げた。
 虎三郎は明治4年、自ら「病翁」と名を改めているように、終生を病にさいなまれた。明治10年、湯治先の伊香保で熱病にかかり、8月24日に弟雄七郎宅で死去。享年50歳であった。

・小林 虎三郎(1828年~1877年)
小林虎三郎は、戊辰戦争後の長岡藩大参事を務めた人物です。
戦争によって長岡は廃墟となりましたが、小林虎三郎の掲げた「教育こそ人材を育て、国やまちの繁栄の基となる」という教育第一の思想が、お見舞いとして贈られた米百俵を学校に替え、そこから山本五十六をはじめ多くの有為な人物を輩出しました。
目先の利益にとらわれることなく、ずっと先を見据えていた小林虎三郎の姿勢が、米百俵を何万倍もの価値にしたのです。 虎三郎の考えは、今も長岡に根付いています。まさに、米百俵で長岡の未来を創った人物と言えます。