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折々の記 2014 ②
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 09】03/03

  03 03 惜別の歌  人との別れ


 03 03 (月) 惜別の歌  


惜別の歌
<http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/04/post_4858.html>

原詩:島崎藤村、作曲:藤江英輔

                 1 遠き別れにたえかねて
                   この高楼に登るかな
                   悲しむなかれ我が友よ
                   旅の衣をととのえよ

                 2 別れといえば昔より
                   この人の世の常なるを
                   流るる水を眺むれば
                   夢はずかしき涙かな

                 3 君がさやけき目のいろも
                   君くれないのくちびるも
                   君がみどりの黒髪も
                   またいつか見んこの別れ

                 4 君の行くべきやまかわは
                   落つる涙に見えわかず
                   袖のしぐれの冬の日に
                   君に贈らん花もがな


《蛇足》 この歌の解題を書くに際して、資料不足に悩まされました。中央大学の学生歌ということは知っていたので、同大に聞けばわかると簡単に考えていましたが、同大広報部から情報は得られず、やむを得ず、歌の研究書やネット上の断片的な情報をつなぎ合わせて、解説らしきものを作り上げました。
 しかし、これには推測で書いた部分や不確かな箇所がいくつかあり、何とか確認できないものかと考えていました。

 そんな折、W・Kさんという方がある資料を送ってくださいました。彼はそれを中央大学出身の友人からもらったとのことでした。
 それを見て、私はビックリしました。伝説の人・藤江英輔氏が自ら書いた『惜別の歌』の誕生物語だったからです。それは21世紀社という出版社が出していた『センチュリーフォーラム21』という小冊子の平成15年(2003)4月臨時増刊号に掲載されたものでした。

 藤江氏の文章に基づいて解説を書こうとしているうちに、これは私がへたな解説を書くより、原文をそのまま掲載したほうが、読む人の感動が大きいのではないかと思うようになりました。藤江氏の文章は、敗戦前後の時代を舞台とした青春小説のような趣があったからです。

 転載の許可を得るために21世紀社に連絡しようとしましたが、その会社はもう存在しませんでした。やはり自分で解説を書くほかないかと思っていたところ、ひょんなことから藤江氏に連絡を取ることができたのです。
 これこれの事情で文章を使わせていただきたいと説明申し上げたところ、すぐにご快諾いただきました。

 掲載にあたって、表記の統一などいくぶん文章を整理し、また前記資料に添付されていた藤江氏と作家・北村薫氏との対談(文藝春秋社『本の話』)を参考に若干内容を補足しました。しかし、ほとんどは原文そのままです。

 なお、上記対談では、藤村の詩を東京高等女子師範の女生徒から渡されたのは友人ではなく、藤江氏自身だったと語っていらっしゃいますが、ここでは原文のままにしました。

 それはともかく、困難な時代に名曲を生んだ若者の青春記をお楽しみください。(二木紘三)



惜別の歌 藤江英輔 FUJIE Eisuke
<http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/04/post_4858.html>

 太平洋戦争が末期的症状を示してきた昭和20年冬――。
 この年の2月22日、東京は珍しい大雪であった。前夜半から降り出した牡丹雪は、明け方になってもその勢いに衰えを見せず、鉛色に垂れ込めた空から大ぶりの雪片が次から次に舞い落ちてきた。
 午後7時から翌朝5時までの夜勤を終えて、一歩、工場の外に出たぼくらは思わず喚声をあげた。目を洗われるような白一色の世界であった。気象庁が発表したこの日の積雪は38センチということだったが、吹き溜まりには腰まで没するほど、深い雪の堆積があった。

 そのころの東京の街は、東京を焦土と化した3月10日の大空襲の前ではあったが、年初から頻度を高めたB29による本土空襲に加えて、延焼を防ぐための家屋取り壊しなどで、むしばまれた地図のように無惨な姿を見せていた。
 その街が一夜にして皚皚(がいがい)たる粧いで蘇生したのである。喚声は当然であった。

 だが、この喚声には、もう1つ、別の思いもこめられていた。いつ降り止むとも見えず、薄明の空から舞いおりてくる雪の花びらを見つめていると、そのときぼくらが置かれていた位置――その日がいつかはわからないが、そう遠くないうちに確実にやってくる死の瞬間まで、この雪の乱舞と同じように踊り続けなければならないのか――そういう場所に置かれた人間の無常感にどこかで結びついた喚声でもあったのだ。

 ぼくらが雪を見つめていた場所は、東京・板橋にある陸軍造兵廠第三工場。昭和19年3月7日に閣議決定した学徒勤労動員実施要項によって、その年の暮れからぼくらはこの陸軍の兵器工場で働いていた。
 そこは音無川に沿った丘陵地帯で、南西にめぐらした土手に上れば、わずかな俯角ではあったが、市街を一望することができた。その街が雪に埋もれてまだ眠っている。

「ああ、故郷を思い出すな」
 背後でつぶやく声に、ぼくは振り返った。信濃の山奥から出てきた同じクラスの中本次郎の茫洋とした顔がそこにあった。
 この男は信州人らしい理論派で、訥弁(とつべん)ではあったが、筋道の通った思考を好んだ。ぼくらの議論の席では、むしろ聞き役だったが、議論が錯綜すると、いつもその整理役を引き受けることになった。
 前夜も夜食後の休憩時間に、「おれたちは学問から離れて、ここで兵器生産に励んでいる必然性はどこにあるのか」という議論がむし返されていた。
 ぼくらは昭和19年の春、中央大学予科(旧制)に入学した。独法、英法、経済の3クラス編成で、同期生は120人あまりであった。

 戦局は日々に緊迫したものになり、この年の6月19・20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は空母の大半を失い、西太平洋の制空権は完全にアメリカ軍に握られた。さらに7月7日には、サイパン島の日本軍が全滅する悲報が相次いだ。
 もちろん大本営の発表は、「わが軍の戦果」に重点を置き、真相は糊塗されていたが、7月18日、東条内閣が総辞職するや、もう敗色を国民の目から覆うことはできなくなった。

 ぼくらは日本の暗い運命の予感におびえ、そのおびえをひたすら学問に打ちこむことでまぎらそうとしていた。しかし、その教室を閉ざされ、この板橋造兵廠に動員されてきたのであった。もうおのれを支えるものは、油で汚れた作業服のポケットにひそめた岩波文庫くらいしかなかった。

 そういう状況でのぼくらの議論は、つねに悪循環することをまぬがれなかった。聖戦遂行こそおれたちに課せられた最高の使命だという主張が、そのころの最大公約数的意見だった。しかし、戦争否定とまではいかなくても、戦争の早期終結を望む意見は、弱い、小さな声であったが、けっしてすべて圧殺されていたわけではなかった。そこはやはり学徒であった。

 中本は、そのどちらでもなかった。議論の席では、いつも眼を空中の一点に置いたまま、むっとした表情を崩さなかったが、議論が結局「非国民!!」という問答無用の段階になり、仲間同士が胸ぐらを取り合う段階に突入すると、おもむろに口を開くのだった。
「やめろ! 殴り合うのは勝手だが、おれたちはそういう手段でしか、この場の決着をつけられないのか。それじゃ、あまりにもみじめじゃないか」

 この言葉にみなが納得して鎮まったわけではない。もしこの騒ぎが学徒休憩室の外に洩れたら、たちまち監督官である職業軍人が飛んできて、その制裁は理非も問わぬ連帯責任として、全員に及んだからである。例えば、寒風の広場に3時間も不動の姿勢で立たされるのだ。

 ぼくらはこの無教養な下士官あがりの中年の少尉に猛烈な反感をもっていた。この工場には、ぼくら以外に他の大学・専門学校・旧制中学などから1000人を超える学生・生徒が動員されており、そのなかには多数の女子学生・生徒もまざっていた。
 ところがこの少尉は男女学生の対話を厳禁した。「風紀厳正」がこの少尉の常套句だった。それでいながら、軍人だけに配給される特配の酒に顔を赤くして、女子工員に卑猥な言葉で話しかけているのを、ぼくらは何度も見ていた。

 この大雪の朝、中本はめずらしく彼のほうから話しかけてきた。
 ぼくは、戦争は遂行せねばならぬと思っていた。国家主義、あるいは国粋主義的思想があったわけではない。どうすればこの戦争を終結させられるか、その方法がわからなかったからである。ただわかっているのは、もうすぐおれは死ぬのだという単純、絶対の力に支配されていることだけだった。
 だが、中本は違っていた。自分の運命に客観的価値を発見するため、渾身の力をふりしぼっていたのであった。そういった相違はあったが、なぜか気が合った。

「おい、お前はよく文学書を読んでいるが、この詩を知っているか」
 中本が差し出した紙片には、優しい文字で次の詩が書かれていた。

      とほきわかれに たへかねて
      このたかどのに のぼるかな
      かなしむなかれ わがあねよ
      たびのころもを ととのへよ

      わかれといえば むかしより
      このひとのよの つねなるを
      ながるるみづを ながむれば
      ゆめはづかしき なみだかな

 ぼくはその詩を知っていた。島崎藤村の『若菜集』に収められている、たしか『高楼』という題の詩だった。
 中本はその詩を、隣の旋盤で働いている東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の女子学生から手渡されたという。
 彼女がどういう気持ちでそれを中本に渡したのか、受け取った彼がどう感じたのかはわからない。しかし、2人の間に何らかの心の交流があったことは十分想像できた。
 お前は顔に似合わずロマンチックな奴だなと、ぼくは中本に笑いかけたが、中本は例によって一点を見つめる表情でなにも言わなかった。

<http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/04/post_afc2.html>

 その日、膝まで没する雪を、朴歯(ほおば)の下駄で踏みしめ、踏みしめ、わが家へ帰った。そのころ、革靴は貴重品で、ゲートルを巻けば下駄での通勤が許されていた。
 板橋から2キロほど離れた巣鴨に、祖母の隠居所があった。朴歯に雪が食い込み、何度か雪中に腕をついた。

 かなしむなかれ、わがあねよ――その文句を繰り返しているうちに、いつしか姉が友になっていた。哀しむなかれ、我が友よ、旅の衣をととのえよ……。

 このとき、ぼくが思い浮かべた〝旅の衣″は戎衣(じゅうい)であった。軍服。「風蕭蕭(しょうしょう)として易水(いすい)寒し、壮士一たび去って復(ま)た還(かえ)らず」という漢詩の一句が脳裏をよぎった。
「旅の衣は鈴かけの、露けき袖やしほるらん」
 これは、弁慶が傷心の義経を守って、陸奥に落ちていく情景を唄った長唄『勧進帳』の最初の一句である。それがオーバーラップした。義経も弁慶も、富樫の情で、死をまぬがれるひとときを得た。だが……。

 そんなことを考えているうちに、あるメロディが自然に浮かび上がってきた。ぼくの胸の中で死と隣り合わせになっていた若い、未熟な、無秩序な願望から、突然湧き出した不思議なメロディであった。
 家に帰りつくと、『若菜集』を書架から引き出して来て、あらためて目をこらした。

      きみがさやけき めのいろも
      きみくれなゐの くちびるも
      きみがみどりの くろかみも
      またいつかみん このわかれ

      きみのゆくべき やまかはは
      おつるなみだに みえわかず
      そでのしぐれの ふゆのひに
      きみにおくらん はなもがな

 旋盤を動かすモーターの音が工場内を圧しているとき、その音がかき消える瞬間があった。ぼくらの仲間に召集令状が届いたときである。
 粛然として、ぼくらは動員学徒の控え室に集まった。口を開けばいつも口論になる憎いあいつでも、そのときだけは目をうるまして相手の手を握った。

 君に贈らん花もがな。文字通りなんにもなかった。許せ、友よ。言葉にならぬその思いしかなかった。そして、その回数が頻繁になった。
 ぼくがこの『高楼』に曲をつけたのは、言葉に出せぬ無言の別れを無言のままに済ませることに、どうにも我慢できない焦燥を感じていたからだった。

 このつたない曲は、むろん表立って発表した訳ではない。口から口へと伝わっていっただけである。
 中本は音痴のくせに真っ先に覚えた。調子のはずれた変な歌唱ではあったが、一点に眼をこらす例の表情で、おもしろくもおかしくもないという顔でいつも歌っていた。そして、この歌はいつか陸軍造兵廠第三工場から出陣する学徒兵を送る別れの歌になった。

 その中本に召集令状が来たのは3月の末、桜がようやくほころびかけたころであった。その日は昼間の勤務であった。工場裏の土手に呼び出されて、ぼくはそれを知った。
「お前にはいい歌をもらった。だが、おれはお前にやるものがなにもない。これはつまらんものだが、おれの心にとめた先人の言葉を書いておいたものだ。もうこれからはおれにとって無用のものだ。もしよければ受け取ってくれないか」
 表紙がボロボロになった1冊の大学ノートであった。
「いいのか。お前のご両親に残しておくべきじゃないのか?」
「いや、いいんだ。おやじやおふくろには別に書いてあるものがある。これはお前がもっていてくれ」

 工場から中本の姿が消えて数日たった日、ぼくは昼休みに土手にのぼった。中本のノートを開いた。そこには老子やショーペンハウエル、パスカル、ボードレールなど、さまざまな先哲の苦悶の言葉が書き連ねてあった。赤い線が引いてある箇所がとくに印象的だった。

「末法たりといえども、今生に道心発さずは、いずれの生にか得道せん」(道元「正法眼蔵随聞記」)

「我より前なる者は、千古万古にして、我より後なる者は、千世万世なり。たとえ我等を保つこと百年なりとも、亦一呼吸の間のみ今幸いに生まれて人たり。庶幾(こいねがわくば)人たるを成して終らん。本願ここにあり」(佐藤一斎「言志録」)

「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのでなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである」(三木清「人生論ノート」)

 そういった箴言(しんげん)が、そのノートにはあふれていた。痛ましいほどの自己格闘がそこに点滅していた。

 8月の初め、ぼくにも召集令状がきた。その1銭5厘の赤い葉書には、「9月1日午前9時、静岡県三方ヶ原陸軍航空隊に入隊を命ず」と記されているだけだった。それまでは準備期間として学徒動員が解かれ、自宅待機が許されていた。

 そして8月15日がきた。その日、ぼくは焼け残った祖母の隠居所にいた。
 酷暑という言葉にふさわしい日であった。正午、終戦を宣する天皇の玉音放送を呆然として聞いた。四球真空管のぼろラジオから流れてくる抑揚のない天皇の声はひどく聞き取りにくかったが、
「……耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」
 という一言だけが、なぜかぼくの肺腑をつらぬいた。このとき、涙があふれた。国運を賭けて今日まで耐えてきた歳月の重さが、全身から抜けていくようであった。

 だが、それは生き残った人間の虚しさであった。生き残った者の心情など、この際どうでもよかった。
 そのとき、ぼくが流した涙は、この戦いで死んでしまった幾百万の日本人の魂は、もう行くべき彼岸がないではないか、というその無念さであった。彼らの魂は、この瞬間、もう安堵することなく、無限にこの天空を翔び交うほかないではないか。

 この日から1か月ほど、ぼくは近所の焼跡を覆う瓦礫の山を、なんの目的もなく、ただ1人で掘り崩す作業を、連日、痴呆のように続けるだけだった。もうB29の爆音も聞こえない夏の空は、吸い込まれるような青さに輝いていた。

 大学が開いたのは、その年の10月であった。幸い神田の校舎は焼失をまぬがれていた。割れ落ちたガラス窓には秋風が吹き抜け、ときには黄ばんだプラタナスのわくら葉が教室に舞い込んできたが、ぼくらの精神はもっと病んでいた。

 登校する学生の数は入学時の半分に減っていた。敗戦直前の戦闘に斃れた者、戦地から引き揚げてはきたが、そのまま郷里に根をおろしてしまった者、いちおう上京はしたが、もう学問など一顧もしない生活に飛び込んでいった者、それぞれが自分の運命の道を歩いていった。中本はついに帰ってこなかった。

 帰校した学生のなかには、「おれはもう独逸法はやめた。これからは英米法の時代になる」という機敏な見通しで進路を変更する者や、「おれはマルクスをやる。これからのおれを支える杖は唯物論しかない」といって、さっさと転科の手続きをとる変わり身の早い者もいた。
 が、大方の学生は、自分の思考を行動化できる人間に羨望と軽蔑のないまぜになった視線を投げるだけで、校庭の日だまりに身を寄せあい、無為な時間を過ごす以外に方法がなかった。

 変身する者も、それができない者も、ささくれだった心の内面は同じだったのだ。両手の中で必死になって暖め続けてきたもの、その暖かさのためにのみ、自分の死を肯定しようとした掌(たなごころ)の中のものが消えたとき、若者たちの裡(うち)にあった何物かが死んだ。
 戦中派といわれる世代に共通した点は、その胸中の死者を葬い切れないままに余生を生き続けている、という不逞な自覚にあるのではなかろうか。

 昭和19年4月に予科に入学してから大学を卒業するまでの6年間、ぼくの心にアカデミズムはついに復活しなかった。いや芽生えなかった。
 仲間のうちには学問への情熱をとり戻し、母校法学部の教授になった田村五郎や、東洋大学経済学部の教授になった坂本市郎などが、親しい友人としてぼくの周囲にいた。司法試験の難関を突破し、今は判事、検事、弁護士の要職にある友人も十指に余るほどいた。
 そして、ぼくのように〝行方も知らず″組も何人かいて、ひとつのグループを作っていた。いずれも得がたき良友たちである。
 みな『惜別の歌』を同じ心情で歌った仲間だった。その仲間が大学を卒業して、それぞれの道に散っていったのは昭和25年3月のことである。

 造兵工廠の仲間は散り散りになったが、『惜別の歌』は中央大の後輩たちへと受け継がれ、学生歌として定着した。
 中央大学の音楽研究会・グリークラブが、『惜別の歌』のレコーディングを企画し、学生課の人がぼくを訪ねてきたのは、昭和26年の夏ごろであった。学生たちが、いまもなおこの歌を愛唱しているので、ぜひレコードにしたいとのことであった。

 拒む理由はなかったが、1つ問題があった。  この島崎藤村の詩は、処女詩集『若菜集』(明治30年、1897年)にある『高楼』から採ったもので、原詩は嫁ぎゆく姉とその妹との対詠という形式になっている。だから『惜別の歌』の1節、「悲しむなかれ、わが友よ」は、正確には「悲しむなかれ、わが姉よ」である。姉を勝手に友に置きかえて歌っていたのだ。
 レコードに吹き込むなら、原詩の著作権者の諒承が必要であった。

 幸いだったのは、ぼくの勤務していたのが新潮社だったことである。たまたま、その時期に『島崎藤村全集』19巻が新潮社から刊行中だった。そのおかげで、藤村の遺児で画家の蓊助氏とは、ぼくも面識があった。
 さっそく、蓊助氏宅をお訪ねして、ご承知いただけたのは何かの〝めぐり合わせ″という感が深かった。

 この歌がさらに一般の歌となるまでには、なお曲折があった。
 戦争中、板橋の造兵廠で『惜別の歌』を歌って学徒出陣兵を送った学生・生徒たちは、それぞれの大学や学校に戻ったあと、友人などにこの歌を歌って聞かせた。東京女子高等師範学校(お茶の水女子大)の学生など、卒業後教師になった者のなかには、赴任先の学校で生徒にこの歌を教えた者も多かったと聞く。
 そのようにして、この歌は全国に拡散していったのであった。

 ぼくは知らなかったが、昭和30年ごろ、各地の盛り場に「歌声喫茶」なるものが続々と出現していた。毎夜、100人を超える若者たちが集まって、〝われらの歌″の大合唱をするのである。
 その合唱の曲目のなかに『惜別の歌』が組み込まれていた。レコード会社は「歌声喫茶」に着目し、リクエスト回数の多い歌を次々にレコーディングして売り出した。『惜別の歌』もそうして商品化された。

 ただ、レコード会社の敏腕な社員も、この曲を作ったのは、おそらく藤村と同時代の人間で、すでに物故者だろうという早合点から、積極的に作曲者を探そうとはしなかったようである。
 なぜなら、ぼくのところへ日本コロムビアの邦楽責任者が探し探しして訪ねてきたのは、もうとっくに小林旭というスターの吹き込みが終わり、発売予定の1週間前だったからである。

 レコードジャケットを見ると、ぼくが楽譜に書いた『惜別の歌』は『惜別の唄』となっており、歌詞の4番が削られて3番までとなっていた。
「もう発売を待つばかりです」と言われては否も応もなく、断る余地は残されていなかった。こういう形で世に出たのも、やはり何かの〝めぐり合わせ〝だったかもしれない。
 それはともかく、1少年の感傷から生まれた歌は、このようにして思いがけず長い生命をもつことになったのであった。

<http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/04/post_f368.html>

 中央大学の猪間驥一教授がぼくを新潮社に訪ねてこられたのは、昭和41年の初秋であった。

 この人は一風変わった人物だった。
 昭和39年から40年にわたって全国を吹き荒れた学園騒動で、中央大学も一時学校を閉鎖し、授業を放棄せざるを得ない状況にあった。そのとき、この硬骨の教授は、学外にビルの一室を私費で借りうけ、授業を受けたい学生たちに呼びかけ、自分の担当する統計学・財政学の講座を完結させたのであった。
 このことは当時の毎日新聞社会面のトップ記事となって報道されたが、ぼくがお会いしてその話に触れたとき、「教師が講義したことがニュースになるなんて、変な世の中ですね」と苦笑しておられた。

 この猪間教授が、41年冬、中央大学としては画期的な告別講演(Farewell address)を行った。
 欧米の著名な大学では、正教授の講座就任には就任演説、退職時には離任演説というセレモニーがあるのが普通である。高名な経済学者アルフレッド・マーシャルの「冷ややかな頭脳、しかし温かい心情」という名言は、彼がケンブリッジ大学の教授になったときの就任演説で語られた言葉である。

 だが、日本の大学では、全校の学生に呼びかけるような学問的ボルテージは、非常に低い。それを承知のうえで猪間教授は、定年で大学を去る機会に告別講演を実行した。
 ただし、講義の題目は専門講座から離れた。統計学ではいくら全学生に呼びかけても、集まる学生の数は知れている。だから教授は、告別講演という習慣を作るために、あえて演題を「中央大学校歌と『惜別の歌』の由来」に変えたのである。
 ぼくを訪ねてくださったのは、その数ヶ月前であった。

 この告別講演は12月1日に行われた。招かれたとき、紹介も挨拶もいっさいなしで、ただ一書生として告別講演を聞くだけなら、とのわがままを、先生はそのまま認めてくださった。
 講堂には300人を超える学生が集まっていた。ぼくは後ろのほうの席に身をひそめるような格好で坐った。
『惜別の歌』の由来は、造兵廠時代から歌声喫茶にまで及び、ぼくは赤面のしどおしだった。そして、最後に先生は結びの言葉を、こう述べられた。

「諸君、今日は12月1日である。12月1日といっても、諸君には歳末の1日だというほかは何の興味もない日かもしれない。だが、私のように戦争を経てきた者は、この日に特別な記憶をもっている。そして私と同じようにつらい記憶をもっている多くの日本人のいることを記憶されたい。
 23年前の今月今日、氷雨ふる代々木原頭で、第1回目の学徒出陣ということが行われた。祖国の危機に対し、何万のうら若い学生はペンを捨て、教室を去って、この日、戦場に赴いた。その学生たちの何千かは、再びこの国には帰らなかった。それらのなかには諸君の先輩たる中央大学生も数知れず含まれていたのである。

 私は先年、大学からヨーロッパヘやっていただいたが、そのとき、ウィーン大学を訪ねた。ウィーン大学の玄関には女神の首の像があり、その台座の正面には『栄誉、自由、祖国』、右側には『わが大学の倒れし英雄をたたえて』、左側には『祖国ドイツ学生及びその教師これを建つ』と彫られてあった。
 次にハイデルベルク大学に行くと、そのメンザ(学生食堂)の戸口の上に、『喜びの集いありても、宴の装いに輝く広間にありても、汝らのために死せる者はなお生きてありと思え』と書かれてあった。

 中央大学にはそういう像もなく、碑銘もない。しかし、この『惜別の歌』がある。これを歌って戦いに赴き、倒れた英雄は、わが大学にも少なくなかったのだ。今日のわれわれの繁栄と幸福は、これら英雄の犠牲の上に立つ。
 私は諸君が『惜別の歌』を歌うとき、普通には単なる惜別の情をそれに託するのでもちろんいいのだが、十度に一度、五十ぺんに一ぺんは、この歌がいかなる由来に基づくものかを思い出されんことを望む」

 これは明らかに過褒である。ウィーン大学やハイデルベルク大学に掲げられた高揚たる碑銘になぞらえるなど、身のすくむ心地がする。
 だが、そう感じたことすらが、ぼくの思い上がりであることにすぐに気づいた。

 猪間先生のおっしゃりたかったのは、『惜別の歌』に仮託して、世代の断絶などという言葉を安易におのれの生活のなかに持ち込むな、ということだった。戦後日本の民主主義(デモクラシー)は混沌としかいいようのない価値観の乱れを生んだ。その乱れに乗じて、あらゆる虚飾、打算、変節、背任、詐術が、最大多数の最大幸福という、実体不明のご都合主義に名を借りて、白昼公然と横行している。
「真鍮(しんちゅう)は、鍍金(めっき)した真鍮から軽侮を受ける理由はない」という意味のことを漱石は言っているが、こうした言葉は通用しにくい世の中なのである。猪問教授の告別講演は、この現実を直視したうえで、だからこそ若者はおのれ自身に衿持(きょうじ)をもてと、言外に訴えていたのである。


 国破れて25年の歳月が経った年の晩秋、ぼくは友人に招かれて、一夜、霞ヶ浦の岸近い1軒の旅亭(霞月楼…土浦駅から北西1km)にのぼった。2階の座敷からは、暮色の中に鈍色(にびいろ)に光る湖面が遠望され、その湖面から寒々とした風が渡ってくる。

 その店は、かつて連合艦隊司令長官山本五十六が贔屓(ひいき)にしたことで有名である(東郷平八郎、吉田茂も泊まっている)。山本司令長官はしばしば彼の若き属僚を引きつれて、ここで痛飲したと聞く。いまもなお昔のままの面影を残した大広間や廊下、古色のにじんだ床の間や建具に、彼らの息吹が染み込んでいるかのようであった。

 そういう感慨がふと酒席を支配し、会話が途切れたとき、年老いた女将は、「私の宝物をお目にかけましょう」と話の穂を継いだ。「あれを……」と女中に命じて、その席に取り寄せたのは一双の屏風であった。
 墨痕あざやかな寄せ書きが一面に書かれていた。
「これを書いていった人は偉いお方たちじゃありません。ここ(かつての霞ヶ浦航空隊)から飛び立って、2度と帰ってこなかった若い軍人さんたちが書いたものばかりです」

 おそらく20歳前後の若者たちが、特攻出撃に出る寸前のわずかなひとときを過ごした宴の場所だったのであろう。いずれも達筆であった。「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」「祈皇国弥栄(いのる・すめらみくに・いやさか)」などの言葉にまじって、突然、ぼくの眼に飛び込んできた一句があった。

 茶を噛みて 明日は知れぬ身 侘び三昧

 穏やかな筆づかいであった。それに連句がついていた。

 猿は知るまい 岩清水

 これも水のように淡々とした筆致であった。ただ一気に筆が流れていた。これを見たとき、ぼくの背中に戦慄が走った。
 この猿が何であるか、それはいくらでも想像できる。しかし、猿という言葉を使わざるを得なかったところに、想像を超えた無限の痛憤がこもっていた。

 表面の筆致が静かであればあるほど、なにか煮えたぎるような感情が痛々しかった。なんのために自分たちは死ぬのか、国のため、わが愛しき人たちのためと、ひたすら信じようとしながらも、なお抑えきれぬ若い生命への愛惜が、その墨跡に脈打っていた。
 あのころの若者たちは、欝積した暗いエネルギーを、かくもがむしゃらに押し殺しながら、短くかつ長い時間を生きていたのだ。中本の大学ノートがまざまざと思い出された。

「あの人たち、生きていれば、ちょうどお客さんたちと同年輩だろうに……」
 老女将の静かなつぶやきを聞きながら、ぼくはぼくの胸の中の死者たちが、まぎれもなく蘇ってくるのを感じていた。(終)2007年4月29日 (日)

  藤江英輔氏略歴
  昭和元年(1926)生まれ。中央大学法学部卒。
  昭和25年(1950)新潮社に入社。『週刊新潮』『小説新潮』等の編集に携わり、
  広告局長を最後に退職。以後、会社を経営。



【創立125周年を迎えて】特別講演
藤江英輔
  <http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/hakumon/2010aniv125th03.htm>

 本学の卒業式で中央大学の学生歌として歌われている『惜別の歌』。昭和19年につくられ、66年経た今日も歌い継がれている。作曲したのは本学OB(昭和25年法卒)の藤江英輔氏で、中大予科生当時に、召集令状がきて、戦地に赴くことになった学友に哀惜の情を込め、島崎藤村の詩にのせて曲をつけた。時代が移り変わっても、人の心情を揺さぶり続ける歌は、どうして生まれたのか。10月6日、藤江氏を多摩キャンパスにお招きして、『惜別の歌』の生い立ちについて講演いただいた。(編集室)

 ただいまご紹介いただきました、藤江英輔です。きょうは皆さんにお目にかかれて、本当に嬉しく思います。よくいらしてくださいました。

 きょう、私に与えられたテーマは『惜別の歌』がどのような時代背景の下に生まれ、どうしてこんなに長い間、歌い継がれているか、そういう背景をお話ししたいと思います。

 今年はわが母校、中央大学の創立125周年記念、そういう記念の節に当たる大事な年です。一口に125年と言いますが、この歳月は本当に長い歳月です。1世紀プラス4分の1世紀、この長い時間に中央大学の伝統が築かれ、ここに世界に冠たる中央大学が存在するようになりました。おめでとうございます。

66年前から歌い継がれる

 さて、『惜別の歌』ができましたのは、昭和19年、今から66年前です。中央大学の歴史の半分くらいを占める歳月ですが、この長い間、歌い継がれ、またこれからも中央大学がある限り歌われるであろうこの『惜別の歌』が、どのようにして生まれてきたのか。それは長い歳月を語るということではありますが、歳月とは何か、この問題が非常に重要だと僕は思っています。

 今、ここにお見えの皆さまも、年配の方から若い大学生まで、その年齢差はずいぶんあると思いますが、長い歳月の間から見れば、そう変わったことではありません。いや、むしろ共通しているものがあるはずです。その共通しているものは何でしょうか。それは人との出会いと別れです。出会いというのは、言うまでもなく心震える喜びであり、別れというのは悲しみを笑顔で装う、そういうときの悲しみです。これは今、何歳であるかということには変わりなく、万人が、自分の歩いてきた道を振り返ったときには、誰もが是認することだと思います。

 そして、自分の生きている人生というのは、ただ一人の人間の履歴書ということだけではなく、その生きている時代に吹いている時代の風というものがあります。時代の風、これはそのときどきによってずいぶん違うものです。あるときは春風駘蕩、暖かい風が吹くときもありますが、あるときは秋霜烈日、つらい、つらい風が自分の身辺を吹きまくることもあります。そしてこの『惜別の歌』が生まれた、私の生きていた青春時代は、その苛烈なつらい、つらい風が吹きまくる時代でありました。

昭和19年4月に中大入学

 僕が中央大学に入学しましたのは昭和19年4月1日です。土曜日です。そこまでちゃんと覚えています。うれしかったですね。入学式は神田駿河台にあった中央大学の大講堂でした。クラス編成は3組になっていて、英法、経済、独法という3クラスでした。1クラスだいたい40人の生徒がいて、全部で120人いました。

 昭和19年というと、太平洋戦争ももう末期です。その4月のころの日本というのは、まだそれほど、東京に住んでいる限りは空襲もそんなにありませんでしたし、偵察機が飛んできて、ちょっと爆弾を落とす程度のことはありましたが、まあまあ平穏な日々が続いていたころです。そして、その4月1日に会った友達たちと、みんなで初対面のあいさつをしたり、握手をして「よろしく頼む」などと言って、大学というところはアカデミズムの風が吹いていていいなと、大講堂の中には何かそういう空気、においがありました。これこそ学問する場所だと。

 実際に学校が始まってみると、国語では、例えば『万葉集』をやったり、『源氏物語』を読んだり、『徒然草』を読んだり、僕は独法に入ったのですが、ドイツ語では最初の2か月ぐらいは文法を教わり、der、des、dem、den という定冠詞の変化から入って、2か月たったときにはシュトルム(ドイツの法律家・作家)の『みずうみ』という小説を読み始めたのです。嬉しかったですね。6月ぐらいまでは、そういう大学での学問の世界の生活が送れました。

その年7月に学徒動員令

 ところが19年の6月になると、もう太平洋戦争も末期で、負け戦、負け戦。昭和16年の開戦のころの真珠湾で勝ったのが夢のような、もう負け戦ばかりです。昭和18年のミッドウェー海戦ではばたばたに負け、これはいかんと思い始めたころ、昭和19年になると、6月に西太平洋の、今は観光地になっているグアム島、マリアナ諸島の大きな島々が全部、敵の手に落ちました。グアム島は太平洋委任統治地といって、日本が委任されてそれを統治していたので、邦人も住んでいました。軍人ばかりではなく、1万の邦人、一般人です。そういう人たちがみやげ物屋をやったりして住んでいました。1万の在留邦人と、むろん軍隊も駐留していて5万いたのです。その6万が全滅したのです。

 サイパン島は1万8000人、これは守備隊というかたちで、軍人ばかりでしたが、全員玉砕。1人も助かる人はいなかったのです。そして、7月17日、あの悪名高い東条英機の内閣が総辞職したのです。これはサイパンやグアム島陥落の責任を取らされたということです。

 もうそのころになると、学問をしているときではない、という判断だったのでしょう。7月に学徒動員令というのがあったのです。その前の年の昭和18年は学徒出陣という、神宮外苑で氷雨降る中を行進する、今でもニュース映画みたいなものをときどきやりますが、あれの後の組織です。学徒出陣というのは法文系の学生は20歳になれば徴兵延期はないということで、全部一般の人たちと同じように、軍隊に行かなければいけない。そういう特例がありましたが、僕らが昭和19年7月に受けたのは、「学徒は勤労動員に就くべし」という特別措置です。学校はそれで閉鎖されました。教室は閉じられて、どうしたかというと、日本全国にあった軍需工場に全部動員されて、兵器をつくるという仕事が日常生活になりました。

陸軍造兵廠に勤労動員

 動員されたのは、東京、板橋にあった陸軍第一造兵廠という大兵器工場でした。日清・日露の昔からつくられていた陸軍の兵器工場で、僕らが行ったころには、15万坪ぐらいの広い敷地の中に、赤レンガでつくられた工場が10棟以上も建っていました。旋盤のモーターの音がごうごうと響く大軍需工場でした。そこへ10月1日から行って、軍のためにペンを捨てて兵器をつくる仕事に埋没するようになりました。

 そこは僕ら中央大学の学生だけではなく、他の大学、立教や早稲田の学生もいましたし、女子学生は、東京女子高等師範学校、これは官立ではいちばん上位にランクされる学校で、そういう女子高等師範学校の女子学生から、旧制の中学、女学校という小学校を卒業して、だいたい5年制の学校に行っている生徒たちも動員されて仕事をしていたのです。我々の生活は日勤と夜勤が1週間交代という勤務になりました。

 そういう中でも、召集令状が来るのです。なぜ、勤め先、任地の軍需工場まで、召集令状という軍の発した1銭5厘の葉書が来るかというと、空襲が始まって、東京の町も虫に食い荒らされた地図のように、だんだん汚い町になってきて、いわゆる戦災に遭い、普通の郵便物が届かなくなっていたのです。中大の予科生というのは、日本全国から集まっていたので、たいていどこかに下宿するとか、親類の家に寄宿するという生活だったのですが、そういう家もどんどん焼けていって、郵便物が届かなくなった。そういう弊害があったので、大学に尋ねて、「今、何某はどこにいるか」ということを調査し、陸軍造兵廠に勤めているということがわかり、その工場まで召集令状が届くようになったのです。

召集令状を渡す役目負う

 その召集令状が、派遣されていた工場にある学生室という一室に届くのですが、それをご本人に届けるのが僕の役目だったのです。まあ、みんな覚悟はしていました。けれども、その届けられたご本人は、一瞬、顔がサーッと、青くなっていって、届けるほうの私も、何かその瞬間までごうごうと聞こえていた、工場内の大きなエンジンの音がぱっと止まってしまったような、一瞬の静寂が流れ、緊張感といいますか、そういう衝撃が流れるような一瞬があったのです。それ以上、交わす言葉がないのです。「おい、きたぞ」「うん、そうか」「まあ、しっかりやってくれ」。ほかにいろいろな感情が山ほどあるのですが、表現することができなかった。

 そして、その学生は明日からもう工場にこない。入隊を指定された軍隊に出向かなければいけません。いやあ、つらかったですね、あの別れは。

 そういうときに、一緒に働いていた東京女高師(現・お茶の水女子大学)の女子学生から、「この歌をご存じ?」と言って手渡されたのが、『惜別の歌』だったのです。僕はその歌は知っていました。明治30年に島崎藤村が春陽堂から第一詩集として、『若菜集』という詩集を発売したのですが、その『若菜集』の中に収められた『高楼』で、「とほきわかれに たへかねて このたかどのに のぼるかな」、詩が全文平仮名で書いてあったのです。 姉と妹、嫁に行くお姉さんと、それを送る妹の対詠で組まれた、非常に優しい歌なのです。僕は藤村の詩集が前から好きで、その歌は知っていたのですが、これは僕も知っているからということで、一瞬、話題の時間を持ったのです。その歌に何とか曲をつけたいとは、つねづね思っていたのです。

「わがあねよ」を「友よ」に

 昭和19年12月、東京地方に珍しく大雪が降ったことがあります。僕らは夜勤の勤めを終え、朝6時ごろ、工場から表に出てみると、ひざが没するぐらいの雪が積もっているのですね。後で東京気象台が発表したときの記録によると、その日の積雪は38センチだったそうです。吹き溜まりには腰を没するぐらいの雪が積もっていました。

 その雪の夜明けの道を、工場の仕事が終わって、それぞれ自分の家に向かって帰る。私が通っていた家は、造兵廠から徒歩で5キロぐらいの距離にある、僕のじいさん、ばあさんが隠居所として使っていた西巣鴨にあって、近いからということでそこから通っていたのです。

 その5キロの道を、当時の学生のスタンダードな服装だった黒マントに朴歯の下駄という姿で歩いて帰ったのですが、朴歯の下駄に雪が食い込んで、雪道を歩くものだから、どうしても転んでしまうのです。転んでは起きて、立ち上がり、また歩いて転んで。そういう時間の中で、突然噴き出したのは、あの『惜別の歌』の第3節、「悲しむなかれ わが友よ」。あのメロディーが突然噴き出したのです。原詩は「かなしむなかれ わがあねよ」ですが、それが「悲しむなかれ わが友よ」になって噴き出してきた。

学友を送る送別の歌に

 家に帰って、1日でそれに曲を付けました。それからは、工場に通って旋盤を動かしている最中に、「遠き別れに 耐えかねて この高楼に のぼるかな 悲しむなかれ わが友よ 旅の衣を 整えよ」と口ずさみながら旋盤を動かしていると、みんながそれを聞いていて、「それはどういう歌だ。おれにも教えろ」と。そのようにして、発表したわけでも何でもないのですが、みんなが覚えてくれたのです。そしていつの間にかそれが、赤紙がきた、召集令状を受け取った学友たちを送る送別の歌になったのです。これは僕ら中央大学の同級生だけではなく、その軍需工場に働きに出ていた、中学から大学までの人たちが、男も女もみんな覚えてくれました。

 職場からその友人たちを送るときには、みんなもその歌を歌い、合唱して、いつの間にか送別の歌になったのです。送別会をやっても、冷えた番茶1杯ぐらいでしか送ることができなかった。そういう送別会を少しでもなぐさめてくれたのが、この歌だった。それが、この『惜別の歌』の最初の出発点でした。

 そのころは非常に空襲が激しくなり、昭和20年になると、例の東京大空襲をはじめとして、名古屋、大阪、北九州、そういう大都会はほとんどやられました。もうひどい時期でした。他に歌う歌が何もないので、最後の最後まで、『惜別の歌』を歌った記憶があります。

 そして、8月15日、終戦の日がきます。僕らはいまだに「終戦の日」とは言わないで、あれは「敗戦の日」「敗戦記念日」という言い方をしていますが、一般には「終戦記念日」ということになります。

「終戦の詔勅」に悲しみの涙

 この日、昭和天皇の「終戦の詔勅」が読まれました。僕の家は幸いにして焼け残っていたのですが、家の周辺の人たちはみんな焼かれて、防空壕生活をしている人が多かったのですが、ラジオが僕の家1軒にしかなかったので、みんな、そのラジオの放送を聞きにきました。三極真空管のボロラジオから聞こえてくる昭和天皇の声は、どうもはっきり聞こえなかったのですが、ただ一つ聞こえたのは、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す」、この言葉だけはなぜかはっきりと聞こえました。

 そのとき僕は思わず涙を流しました。これは生き残った僕らのために流す涙ではなくて、死んでしまった人たちの魂はいったいどこに帰ったらいいのか、もう帰る場所はないじゃないか、そういう悲しみの涙でした。暑い日でした。

 それから、僕が何をやったかと言うと、焼けてしまって、瓦礫と化した家々が、近所にもたくさんありました。なぜ僕がそういうことをやったのか、自分でもわからないのですが、スコップを担いでいって、その瓦礫の山を崩し始めたのです。瓦礫の山を崩して、何をしようとしたのか、よくわからないのですが、とにかく何かにぶつかっていった。自分の憤りというか、そういうものをぶつけたかったのでしょうね。

昭和26年、学生歌に公認

 1か月ぐらい、ただそういう生活を続けたという記憶がありますが、10月になって、中央大学が再開されました。戦争へ行って、戦死して帰ってこない学友も十数人いました。地方からも、もう上京できないと言って、大学をやめるという手紙をくれた友人もいました。僕は群馬県の沼田というところに住んでいる友達の家まで、「学校だけは続けようや」と勧めに行ったのですが、「いや、家の事情でどうしても大学には行けない」ということでした。

 そして、大学が再開され、大学に出られる人間だけが集まり、授業も始まったのですが、何かもう、何をやっていいのか、さっぱりわからない。それでも歳月がたつにしたがって、アカデミズムに対する喜びをまた取り戻した人間も、クラスメートの中に何人かいます。大学の教授になった人もいますし、司法試験をパスして判事や検事、弁護士になって司法界で活躍するようになった友人も何人かいました。また、僕のように「行方知らず組」も何人かいて、実に何か空白の時間が流れたような感じがしますが、それでもなぜか『惜別の歌』だけは、何かというとみんなで集まり、歌っていたのです。

 『惜別の歌』が中央大学の学生歌として公認されたのは、昭和26年になってからです。中央大学の学生課に、他の大学やいろいろなところから、「中央大学には『惜別の歌』という学生歌があるそうだが、この歌はいったいどういう歌なのか」という問い合わせがずいぶんたくさんあったそうです。そこで中央大学の学生課が調べてみると、造兵廠時代から歌われていて、作曲した人間は藤江英輔という男だということがわかり、昭和26年にグリークラブが、レコード化して、学生歌にしようということで、正式にレコードがコロムビアから発売になり、学生歌となりました。

原作者「藤村」の許可を得る

 そのときに、ただ一つ問題がありました。この藤村の原詩は、先ほども申し上げたように、『若菜集』にある『高楼』という詩です。それを『惜別の歌』と題まで変え、「かなしむなかれ わがあねよ」を「悲しむなかれ わが友よ」として、みんな、歌っていた。

 これを原作者が何と言うか。藤村は昭和18年に亡くなっていますが、まだ著作権はあったので、さてどうするかということになりました。当時、私が勤務していたのは新潮社という出版社でした。昭和26年、偶然にも『島崎藤村全集全19巻』が新潮社から発売中だったのです。その編集責任者として藤村の息子である島崎蓊助さんがいたのです。三男坊で、本職は絵描きなのですが、自分の親父の全集が出るということで、幸い、新潮社に出勤していたのです。

 そして、部屋もたまたま私がいた『小説新潮』という雑誌の編集部と同じ部屋だったのです。これは本当に偶然でした。2人とも酒が好きなものですから、歳は向こうが10ぐらい上でしたが、よく一緒に酒を飲む仲でもありました。

 その島崎蓊助さんがいたので、「実はこういうことになって、レコード化することになったのだけれども、中央大学から意向を受けて、ぜひ何とか、レコード化を許してくれないか」と言ったら、蓊助さんが、「そういうことならいいだろう」ということで、許可を得られたのです。蓊助さんが藤村の著作権継承者だったので、このときは本当に偶然とはいえ、ありがたかったですね。

温泉宿の女中さんも歌う

 そして、中央大学の学生歌として決定しました。これを一般の人たちが歌うようになるまでには、まだ少し曲折があります。最初に僕がびっくりしたのは、長野県の諏訪湖の近くの温泉宿に行ったときに、温泉宿の女中さんが、掃除をしながら『惜別の歌』を歌っていたことです。中央大学の学生歌としてレコード化はされましたが、まだ一般の歌としては全然、はやっていない、昭和30年ぐらいのことです。

 なぜこの歌を知っているのかと聞いたら、昔、東京で働いていたころに覚えたのだと。どこで働いていたのかと聞いたら、陸軍造兵廠だと。陸軍造兵廠には男の工員さんもいたし、女の工員さんもいて、そういう人たちも『惜別の歌』を覚えてくれて、みんな出陣学徒を送ってくれたのです。その中の1人だったのです。これには僕はびっくりしました。

 その次に同じような体験をしたのは、岐阜市の柳ケ瀬の一杯飲み屋でした。ギターを持った流しがきて『惜別の歌』を歌った。まだ全然、一般化するなんて、夢にも思わなかったころです。それがギターを片手に入ってきて、歌いだしたら『惜別の歌』なので、これもびっくりして、どうして知っているのかと聞いたら、やはり陸軍造兵廠にいて工員をしていた。そういうことがあり、あのとき、みんな、覚えてくれたんだなということがよくわかりました。

歌声喫茶でもリクエスト

 東京に歌声喫茶というのが、はやり始めたのはそれからです。昭和32年ごろだったと思いますが、新宿や渋谷、東京の盛り場で、若い人たちがみんな集まって、ビールを注いだコップを片手に歌を歌うのですね。みんながリクエストした歌を合唱する仕掛けになっていて、合唱するのを楽しむ場所が、歌声喫茶だったのです。

 その中にリクエストの回数が多い歌としてあったのが、『惜別の歌』です。僕自身は歌声喫茶というのはあまり行ったことがないのですが、はやって歌っていたそうです。これに着目をして、今度はコロムビアが営業的に、この歌だったら売れるぞということで、レコード化してしまったのです。それがあの小林旭が歌った『惜別の歌』の第1号です。

 これは昭和36年で、そのとき、コロムビアの邦楽部長が、いまだに目黒賢太郎という顔も名前も思い出すのですが、僕の家にやってまいりました。カラカラと玄関を開けて、その第一声が「お父さまはいらっしゃいますか」でした。なぜ、うちの親父なのか、「どういう御用ですか」と聞いたら、「いや、藤江英輔先生にお目にかかりたいのです」と。作曲家を私の親父と間違えているのです。

 藤村は明治5年生まれで、私は大正14年生まれ、年齢差は53歳あるのですが、藤村作詞の歌だと言えば、たぶん、まあ、僕の姿を見て、この人ではなくて、この人のお父さんぐらいの年配の人だろうと、そういう想像でもって、「お父さん、いますか」ということでした。

 僕が藤江英輔だとわかったときには、目黒さんもびっくりしてしまって、「あなたが藤江さんですか、まだ生きていたのですか」と(笑)。僕はそのとき36歳でしたから、まだ若い方でしたが、まだ生きていたのですかと言われて、ちょっと二の句が継げませんでした。それから何回も、そういう目に遭いました。「まだ生きていたのですか」というのを今言われるならいいのですが、30代から言われて、若いころはずいぶん年寄りに見られたものだと思います。

小林旭がレコーディング

 その目黒さんいわく、「これは実は小林旭という歌手で、レコーディングも済んでしまって、あと1週間たったら発売になる。そういうことで、ぜひ頼む」と。否も応もなく発売を断ることもできなかったのです。そうして、一般に発売になった歌が、そのころの時代の風があったのかもしれませんが、すごく売れたのです。でも、レコード大賞を取り損なってしまったのです。そのときの1位は『上を向いて歩こう』でした。

 最後のころは、パチンコ屋の店頭で、もうがんがん流れているのです。なぜ、『惜別の歌』がパチンコ屋から流れてくるのか、まことに、私も不思議に思いましたが、まあ、これも成り行きだということで、それで一般化したわけです。

 それからもう一つは、女高師の人たちが、戦争が終わってから日本全国各地に散らばって、女子高等学校の先生になり、とくに音体科(音楽体操科)というのが女高師にあって、僕らと同じ区隊で働いている人たちが大勢いたのです。それが自分の故郷に帰って、みんなに『惜別の歌』を教えたらしいのです。そういう体験を持った人がずいぶん大勢いることを後で知りました。やはりこれは女高師のおかげもあるのだなと思いました。

猪間教授の訪問受ける

 でも、私の中では何となく落ち着かないものがあったのですが、歳月はどんどん流れ、昭和42年のことだったと思いますが、中央大学に猪間驥一という統計学の教授がいました。当時、大学で吹き荒れていた学園騒動で、どこの大学でも学校と学生たちが対立し、大騒動になり、教室は閉鎖されるわ、学生たちは町に出て、警官隊とはしょっちゅうぶつかり合うわという険悪な世相になった時代があります。

 このとき、わが中央大学もまだ駿河台に校舎があったのですが、学校が閉鎖されて、授業を開くことができないのです。そこで猪間先生は自分のポケットマネーを払って、神田の大学のそばのビルを借りて、そのビルの一角を教室に見立てて、統計学の授業を全部終わらせたのです。僕はこのことを毎日新聞の夕刊でしたが、4段抜きの大きな記事でみて、猪間教授の骨の堅さ、大学の教授として成すべきことは成すのだという姿勢に本当に感じ入りました。

 その猪間教授が私を新潮社に訪ねてきたのは昭和42年、そのニュースの記事が出てから1か月ぐらいたったころだと思います。猪間先生が、なぜ私に用事があるのかと思って、お目にかかったときに、「先生の記事は毎日新聞で拝見しました。自分のポケットマネーで授業を完成させたということは立派なことですね」と言ったら、「学校の先生が講義をすることがそんなに珍しいんですかね」と言われて、この先生はなかなかつわものだなと思いました。

退官演説で『惜別の歌』を

 その先生が、実は大学を退官することになり、退官演説をするのだと。今度それを中央大学でやろうと思ったけれども、テーマが統計学ではとても学生が集まらない、だから悪いけれども、テーマは「中央大学校歌と『惜別の歌』」というタイトルにしたい、自分の聞いている『惜別の歌』の話が間違っていたら、ぜひ、あなたに訂正していただきたいので、本当のところを確認してもらいたいと。『惜別の歌』の取材にきたのです。僕は少し恥ずかしかったのですが、猪間先生が骨の堅い立派な教師だということを知っていたので、『惜別の歌』の由来をお話ししました。

 そして猪間先生が別れ際に、「近々、私はこのテーマで告別講演をやるけれども、あなた、聞きにきてくれないか」。僕は最初はちょっと恥ずかしいので断ったのですが、「いや、あなたにも聞いてもらいたいのだから、ぜひ、きてくれ」「僕はあいさつすることも何もなく、ただ、先生のお話を聞く一書生として行くのだったら、出かけます」「それでけっこうだから来てくれ」と。

戦死者称える欧州の大学

 猪間先生が『惜別の歌』に関する話をした後で、結びとして話してくれたのは、大学が「停年になってごくろうさまです」というお礼の意味も込め、ヨーロッパの大学に研究に行ってくれということで、1か月ぐらいかけてヨーロッパの大学を回ったそうです。それでウィーン大学に行ったときに、ウィーン大学の正門を入ったところに立派な女神の胸像があって、その台座に「栄誉・自由・学問」と書かれている。右の側面には「わが大学のために倒れし英雄たちにこれを捧げる」という文字が刻み込まれている。左の側面には「ドイツ学生団及びその教師、これを建つ」と、これを建立した責任者の名前が書いてあったそうです。

 次に猪間さんがいらしたのはハイデルベルク大学です。そこのメンザ(学生食堂)の入り口の上、正面の壁に、次のような文句が彫られていたそうです。「喜びの集いの中にあっても、限りなき美しき衣装にまとわれた広間においても、きみたちはかつての苦労を忘れてはならない。きみたちのために死した、きみたちの先輩はまだ生きている。彼らはきみたちの心の中にある」、そういう文章が彫られていたそうです。

 猪間先生はそれについて感想は何も言いませんでしたが、最後に付け加えるようにして、「わが中央大学には、こういう立派な碑銘もなければ像もないけれども、『惜別の歌』がある」と。それを聞いたときには、そんな立派な碑銘に比べられるようなことではないと、本当に恥ずかしさで身が縮むような思いがしましたが、そう思ったのは僕の思い上がりで、本当は昭和42年ごろに、大学では教師に対する尊敬もなければ、学問に対する情熱もなく荒れ狂っていた空気の中で、世代の断絶という簡単なことでもって物事を決めるような判断だけはしてはいけない。猪間先生の真意はそういうところにあったのだと気がつきました。

 たしかに、あの戦争に行って死んでいった人たちのことを、そういう美しい言葉でもって称えられる国というのは、僕もその話を聞いて立派だと思いました。

予科連の若者の心情に触れる

 そしてまた、歳月が流れて、昭和45年、僕は友人に招かれて、霞ヶ浦のほとりにある「霞月」という料亭の中にいました。「霞月」というのは、霞ヶ浦の、かつて少年航空兵たちが特攻の訓練をし、最後は死んでいった、その航空隊のある場所です。予科練の本拠です。そこで友人に招かれ、国破れて25年、その歳月をしのびながら酒をくみ交わしていたときに、「霞月」の歳取ったおかみさんが、「ちょっと、あなたたちに私の宝物を見せてあげましょう」と言って、女中に命じて持ってきてくれたのは、一双の屏風でした。

 それには予科練の若者たちが、いよいよ特攻に旅立つ前に書いた寄せ書きがたくさん書いてあるのです。「不惜身命(身命を惜しまず)」という言葉から、「祈皇国弥栄(皇国のいやさかを祈る)」とか、その当時の若者たちの心情がいろいろ書かれていました。

 その中に一句、俳句がありました。「茶を噛みて 明日は行く身の 侘び三昧」、達筆で、すらすらと流れるように書いてありました。それに連句が書いてあって、「猿は知るまい 石清水」。その一句を発見したときに、僕は本当に背筋がぞっとする、寒気がしました。この「猿」は何を意味しているか。僕たちは明日、死んでゆく身だけれども、自分たちの気持ちを誰がわかってくれるのか、「猿は知るまい 石清水」。あのころの若者たちというのは、胸の中にうずまいていたいろいろな痛憤を、そういう言葉によって押さえつけていたのだと思います。

 そのおかみさんが最後に、「これを書いた人たちが、今生きていれば、きっとあなたたちと同じぐらいの年齢になっているでしょうね」とぼそっとつぶやきました。その気持ちもまた、よく胸の中に染み通ってきました。

昭和45年が日本の転換期

 きょう僕は、歳月を通じていろいろ話をしたかったのですが、僕は昭和45年が日本のターニングポイントだったという考えを持っています。昭和45年は、大阪で日本万博があった年です。3月から9月まで、半年やったのですが、会長は日本経団連の会長だった、僕の好きな日本人の一人、石坂泰三さんです。あの人が主催して、大成功しました。半年間の万博の入場者は6422万人。これはその当時、オギャーと産まれた赤ん坊から最高年齢層までひっくるめた日本の人口の半分です。入場者が多すぎて、「万国博」と言わないで、「日本残酷博」(笑)と、別名が付いたぐらい、たいへんな盛況でした。

 それからもう一つは、「よど号事件」といって、日航機が全共闘の連中に航空機ジャックされて、北朝鮮に飛んで行った事件がありました。もう一つは、11月25日、「三島由紀夫事件」がありました。市谷の駐屯場で、彼が自衛隊の決起を促す大演説をやって、それがかなわないといって、彼は割腹自殺をしました。

 なぜ、昭和45年のこの三つの事件を挙げたかというと、よく考えてみると、「三島事件」というのは間違いなく右翼的な思想です。「よど号」は全共闘の暴力的左翼。経済的には、万国博が日本国民の半分が見に行ったという隆盛を極めた。要するに、経済界というのはものすごく立派な成果を上げていた。

 東大の安田講堂が陥落したのは昭和44年だったと思いますが、それを境にして、全共闘も動きが鈍くなった。47年には「あさま山荘事件」があり、全共闘の勢いもぱたっとなくなりました。経済も、それ以来、「失われた20年」になるには、まだ少し間がありますが、一つの転換期です。

長い目で見る日本人に

 長時間いろいろと話しましたが、僕が、きょう、歳月を考えようと言ったのは、これからの歳月です。どういう歳月が皆さんを待っているか。それを考えるには、僕は日本人に足りないものが一つあると思います。長いスタンス、歩幅でものを見る、この忍耐力がなくなったのです。これだけはぜひ、日本人に取り戻してもらいたい。長い目で見て、冷静に自分のことをよく考える。少なくとも10年間ぐらい先のことは、自分の頭で考えてみようということを言いたいです。

 その方法としては、活字の力を借りたほうがいいと思います。新聞でも雑誌でも、読んで、これと思う記事を切り抜いて、スクラップをつくったらいいと思います。それで10年たって、それをパッと開いてみるのです。僕はジャーナリズムに35年間いて、今でもそうですが、まだ誰がどう言ったか、スクラップはつくっています。

 少し長い目でものを見てもらいたい。それが私のきょうの言いたいことです。決して悪いことはありません。10年ぐらい先はどうなるのか、そのくらいは考えてみましょう。どうもきょうはお時間をいただき、ありがとうございました。

〔本講演会は、(株)文藝春秋、(社)学術・文化・産業ネットワーク多摩 の後援をいただきました〕



風蕭蕭として易水寒し
「史記」刺客列伝
<http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-054.htm>

 春秋戦国の時代には、敵国の王侯を刺殺するために、一本の匕首(短剣)に全てをかけて敵地に入り込む刺客が、ことに多かった。 その最も著名なのが荊軻である。

 荊軻は衞の生まれだったが、祖国に用いられず、国々を遍歴して燕に行き、そこで巷に人望の高かった任侠の士・田光の知遇を得ていた。 彼はまた筑(琴に似た竹製の楽器)の名手の高漸離と意気投合し、いつも二人で酒を飲み歩き、酔うと高漸離は筑を鳴らし、荊軻はそれに和して歌い、傍若無人に振る舞っていたが、巷に酔いしれているかと思えば独居して書を読み、また剣を磨くことも怠らなかった。

 秦が着々と天下統一の歩みを進めている頃であった。 韓を滅ぼし、趙を滅ぼした秦は、趙と燕との国境を流れる易水に臨んで、将に燕に攻め入る態勢を整えていた。 その時燕の太子の丹が秦王・政を刺すべき刺客として選んだのは、田光であった。 だが田光は自分の老齢を考えて、荊軻を薦めると、その決意を励ますために、自らは首をはねて死んだ。 大事を命じられながら果たし得ない老骨の身の、それが太子のためになし得る唯一の道だと思ったのである。

 そのころ、秦から樊於期という将軍が燕に逃れてきて太子丹の元に身を隠していた。 荊軻は秦王が莫大な賞金をかけて樊於期の首を求めているのを知ると、その首と、燕の督亢の地図を持って行けば秦王は心を許して引見するに違いないと考え、そのことを太子丹に申し出た。 太子丹は荊軻を一刻も早く秦へやりたいと焦慮しながらも、樊於期を斬るには忍びない様子である。 荊軻はそれを知ると、自ら樊於期に会って死を求めた。 それが秦王に対する樊於期の恨みを晴らし、太子丹に対する恩にも報い、かる燕の憂いを除く道であると説いたのである。 ――樊於期は田光がしたのと同じように、荊軻の前で自ら首をはねて死んだ。

 樊於期の首と、督亢の地図とのほかに、荊軻はともに秦へ行くべき友人を待っていた。 太子丹は秦舞陽と言う若者を副使として荊軻につけたが、荊軻には秦舞陽が頼みとするに足りる男とは思えなかったのである。 友は遠方に居てなかなか来なかった。 太子丹は、既に出発の準備を整えながら荊軻が立たないのを見ると、いよいよ焦慮して、秦舞陽一人を先に行かせようとした。 荊軻は心ならずも友を待たずに行くことに決めた。 秦舞陽を一人やることは危ないと思ったからである。 それに時期も切迫している。 太子の焦慮も解らぬではなかった。

 太子丹をはじめ、事を知っている少数の者は、服を喪服に替えて荊軻達を易水のほとりまで送っていった。 いよいよ別れの時である。 高漸離は筑を奏で、荊軻はそれに和して歌った。 易水の風は冷たく人々の肌を刺し、高漸離の筑と荊軻の歌声とは悲壮に人々の心をふるわせた。 秦へ行けばおそらく生きては帰れないであろう。 これが荊軻を見る最後かと 思うと高漸離は暗然と涙ぐみ、密かに涙を拭いかつ筑をかき鳴らして友を送った。 荊軻は進みながら歌った。

 風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず

     風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還

     兮  *音調を助ける助辞。。「兮」は感嘆や強調の語気をあらわす助辞で、読まない。
        同じようなものに乎があります。  兮・・・~たり、乎・・・~か。
     荊軻を検索してみると分かりやすい解説がある。
     <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%8A%E8%BB%BB>

 その声は人々の肺腑をえぐった。 人々は皆、眼を怒らして秦の方を睨み、髪逆立って冠を突くばかりであった。 ――すでにして荊軻は去り、ついに振り向くこともなくその姿は遠くなっていった。

 秦へ行った荊軻は、樊於期の首と督亢の地図とを伴って、秦王政に近づくことを得たが、匕首一閃、秦王は身を引いて、荊軻の手にはただ王の袖だけが残った。 後ろから王を抱きとめるはずの秦舞陽は、もろくも人々にねじ伏せられていたのである。 荊軻はついに志を遂げることが出来ず、みずから自分の胸を開き、指さして秦王に刺させた。 秦王政の二十年、燕王喜の二十八年、紀元前二二八年のことであった。 政が天下を統一して始皇帝と号したのは、それから七年の後である。



「旅の衣はすずかけの、露けき袖やしほるらん」
<安宅:勧進帳>

   旅の衣はすずかけの、露けき袖やしほるらん
   時しも頃は如月の、きさらぎの十日の夜、 月の都を立ち出て
   これやこの、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の、
   山かくす、霞ぞ春はゆかしける、
   波路遥かに行く舟の、海津の浦に着きにけり。

  [一行の]旅の衣は山伏の衣の、(草木の露と涙で)しめっぽくなった袖は
      濡れるだろう
  時の頃は、まさに二月の、二月の十日の夜、 (美しい)月の都を出発して
  これがまあ、行く人も帰る人もここで別れては、知っている人も知らない
      人も出会うという、逢坂の関の、
  山を隠す霞に(これからの旅路の)春がしのばれる、
  (琵琶湖をわたる)波路を遥かに行く(一行の乗った)舟は、海津の浦(琵琶
      湖の北岸、越前への順路)に着いたのだ。

  ※ 謡曲「安宅」を題材に歌舞伎十八番『勧進帳』の伴奏に使われた長唄曲。
    兄頼朝と不和になった義経主従が、北国へ落ちていく途中、安宅の関で
    富樫にあやしまれる。 が弁慶の機転で無事通り抜ける。 後を追って
    きた富樫の勧める酒を飲み、豪快に延年の舞を舞い六法を踏んで退場す
    るまでが有名な歌舞伎十八番「勧進帳」



有名な別れの漢詩
李 白
<http://kanshi.roudokus.com/koukakurou-moukounen.html>

黄鶴楼送孟浩然之広陵

   故人西辞黄鶴楼
   烟花三月下揚州
   孤帆遠影碧空尽
   唯見長江天際流


黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る

  故人西のかた黄鶴楼を辞し、
  烟花三月揚州に下る。
  孤帆(こはん)の遠影碧空(へきくう)に尽き、
  唯見る長江の天際に流るを。

現代語訳

   旧友の孟浩然先生が西方の黄鶴楼を去って、
   霞たなびくこの三月、揚州へと下っていく。
  (楼に登ってそれを見送ると)一艘の帆かけ舟が
   遠く水平線のかなたまでいって見えなくなり、
  長江が天のかなたまで流れているのが見えるばかりだ。

語句

■広陵 江蘇省揚州。唐代には繁栄した都市だった。■黄鶴楼 湖北省武昌の西南。長江を見下ろす高台にある楼。崔顥「黄鶴楼」で知られる。 ■烟花  春霞。 ■揚州 広陵 に同じ。金がめいっぱいあって景色のいい揚州の上空を飛ぶことは誰もが夢に描くがけして叶わないことから、「揚州の鶴」というと「叶わない夢」のたとえ。 ■孤帆  一隻の帆かけ舟。 ■遠景  はるか彼方に見える姿。 ■碧空 青空。 ■天際 は天のキワ。空と水の接する部分。

解説

「友を送る」は漢詩において重要なテーマの一つです。  「故人」という単語もよく出てきます。「故人」は「死んだ人」でなく「友人」「旧友」のことです。

李白は12歳年上の孟浩然を詩業における先輩として大変尊敬していました。 この詩には先輩に対するあたたかい気持ちがあふれています。

孟浩然が乗った舟を李白が楼の上からジーッと見守っていると、 舟がどんどん小さくなって、しまいには水平線に溶けるように見えなくなってしまう…。

いろいろなことを、李白は考えたでしょうね。
 「先生、また飲みに行きましょうね」
 「文学談義に花を咲かせましょうね」
 「酒ばっかり飲んで、奥さん泣かせちゃダメですよ。あ、それは俺も同じか!」
などと。

ジーーッと舟を眺めていると、どんどん、どんどん、小さくなっていく…長い時間経過。 この長い時間経過を意識して朗読しました。

別れの歌といっても、それほど悲壮感は無いと私は思いました。  実際どんな状況だったかは詳しくわからないのですが、 詩の文面からはまぁ元気で行ってきてくださいという微笑ましいものを感じました。

黄鶴楼の伝説

黄鶴楼は湖北省武昌の西南にある楼で長江がとてもよく見渡せます。 黄鶴楼に、ある伝説が伝わっています。

昔、この地に料理屋がありました。 そこへみすぼらしいなりの老人がやってきます。 ところがこの老人は、豪華なものを次々と注文し、一皿一皿、きれいに平らげていきます。

主人とその奥さんは、心配になってきました。 食い逃げされたら大変だと!
 「あんた、あの年寄り大丈夫なの?」
 「うーん、俺も心配になってきた」
そこで主人は老人に話しかけます。
 「お客様、御代のほうが、けっこうなことになっておりますが」
 「あん?金。心配するな。どんどん持って来い」
ふところをたたいて金があることをアピールする老人。
 「どうやら大丈夫らしい」
 「本当かしら…」
さらに数時間飲むわ食うわでたらふくになった時、

 「そろそろ帰るぞ」
 「へえ。では…お代のほうを」
 「無い」
 「は?」
 「無いと言ったのだ」
 「はあ。では、あのー、お代が無い?」
 「何度も言わせるな。代は無い」
 「そんな、あんた、通用しませんよ!
 「おい食い逃げだ。この年寄り、とっ捕まえてくれ」

若い者が飛び出してきて、老人を取り押さえようとしますが、老人はハッ、ホッとすり抜け、すり抜け、ぜんぜん、つかまえることができません。

ガックリと肩を落とす、料理屋の主人。
 「しょうのない奴だな。そんなにも、お前は金が欲しいのか」
 「当たり前じゃねえか!こっちは商売だからな!! 」
 「商売か。商売と言われれば、それは仕方がない。 よし。これをやろう」
さらさらさらっと壁に鶴の絵を描いて、これが御代だと言って、去っていきました。

 「なんだこんなラクガキなんか。 だまされた!!」

ところがこれが大ヒットになります。 お客さんが酒に酔って歌い始めると、壁の中の鶴がひらひらと舞い踊るのでした。  「これは面白い」

店は、行列ができるほどの大繁盛となりました。

1年ほどしてあの老人が帰ってきます。

 「どうだ。鶴の働きぶりは」
 「あ…あの時のお客様!へえ、もうおかげさまで、この行列ですよ」
 「よかった。では充分に借りは返したな」

鶴に乗ってすーーと飛び去っていったという、黄鶴楼に伝わる伝説です。

李白「贈孟浩然」

   贈孟浩然   孟浩然に贈る

  吾愛孟夫子   吾は愛す 孟夫子
  風流天下聞   風流 天下に聞こゆ
  紅顏棄軒冕   紅顏 軒冕を棄て
  白首臥松雲   白首 松雲に臥す
  醉月頻中聖   月に醉うて頻りに聖に中り
  迷花不事君   花に迷いて君に事えず
  高山安可仰   高山 安んぞ仰ぐ可けんや
  徒此揖清芬   此より清芬に揖す

  ※ 味読するに井上井月に似ている

李白の「贈汪倫」

   贈汪倫        汪倫(王倫)に贈る

  李白乗舟将欲行   李白舟に乗って将に行かんと欲す
  忽聞岸上踏歌声   忽ち聞く岸上踏歌の声
  桃花潭水深千尺   桃花潭水深さ千尺
  不及汪倫送我情   及ばす汪倫が我を送るの情に