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折々の記 2014 C
【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】03/22〜     【 02 】03/22〜     【 03 】03/26〜
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【 02】03/22

  02 01 2014年ソチパラリンピック 阿部友里香選手が出場!  
  03 08 家流されても、前見た3年 パラリンピック出場阿部選手  
  03 09 金メダル狩野、原点は家族スキー 「自分変えてくれた」  
  03 22 高梨沙羅が7連勝 今季18戦15勝  
  02 01 2014年ソチパラリンピック 阿部友里香選手が出場!  
  03 24 鶴竜、初優勝 横綱昇進へ 大相撲春場所  


 02 01 (日) 2014年ソチパラリンピック 阿部友里香選手が出場!  

ソチパラリンピック・阿部選手情報
   <http://www.town.yamada.iwate.jp/osirase/2014_sochi.htm>

 3月7日に開幕する2014年ソチパラリンピックに、当町出身の阿部友里香さん(18)が出場します。出場競技は、クロスカントリースキーとバイアスロンで、本町からパラリンピック選手が出たのは初めてのことです。
 阿部選手の大舞台での活躍に、皆さんの熱い声援をお願いします。

【阿部友里香選手プロフィール】
 平成7年10月7日生まれ。山田町出身で、山田南小、山田中を卒業。中学ではバレーボールに打ち込んだ。22年12からクロスカントリースキーを本格的に始め、翌年4月に日立ソリューションズのジュニアスキークラブに入部。盛岡南高に通いながら選手生活を送っている。左腕にまひの障害がある。

◎出場壮行会開催される(2月1日)
 2月1日、町中央公民館で町民ら約200人が集まり「阿部友里香さんソチパラリンピック出場壮行会」が盛大に開かれました。「自分の力を出し切って、応援してくれる皆さんに元気と勇気を与えられるようがんばりたい」。水色の公式ブレザーに身を包んだ阿部選手が力強く宣言すると、「万歳」の声と拍手が沸き起こりました。

◎クロスカントリースキーとの出会い
 冬になるとアルペンスキーを楽しんでいた阿部さんは、2010年のバンクーバーパラリンピックでメダルを獲得した日本選手の活躍をテレビで見て感動。その選手が所属するスキー部のある企業・日立ソリューションズに自ら連絡して、経験のなかったクロスカントリースキーの世界に飛び込みました。
 県立山田高校への入学を目前としていた平成23年3月、東日本大震災に見舞われて実家が全焼し、同校への進学を断念。雪が多く練習に打ち込みやすい環境ということもあり、内陸の県立盛岡南高校に進みました。
 阿部さんは、持ち前の前向きさでめきめきと頭角を現し、昨年のジャパンパラ・クロスカントリースキー大会において5`クラシカル、5`フリーの2種目で2位、同年開催された障害者ノルディックスキー世界選手権スウェーデン大会においてもクロスカントリースキー・ロング・フリーで7位と、大成長。念願のソチパラリンピックへの出場を決めました。

<クロスカントリースキーとは>
 クロスカントリースキーは、市街地や公園など様々な場所がコースとして設定されていて、スキー本来の目的である移動手段から発展した、全スキー競技の原点といえるものです。バイアスロンはこれにライフル競技が加わります。

 03 08 (土) 家流されても、前見た3年 パラリンピック出場阿部選手  

 ソチ・パラリンピックに、東日本大震災の津波で自宅を失った高校3年生が出場する。スキー距離とバイアスロンの阿部友里香(18)。震災後、家族と離れ、下宿生活をして競技を続けてきた。「この3年間で、すごく成長できた」。培った力で初の大舞台に挑む。

 生まれた時から左腕が自由に動かせず、ストックを持てるのは右手だけ。1日にソチに入り、練習を続ける競技場で「やってきたことを出すだけ」と話した。


 岩手県山田町出身。母英美(てるみ)さん(47)は「みんなと同じように」と育ててきた。中学校ではバレーボール部に所属。コーチでもあった英美さんに仕込まれたが、「自分だけ動きが違うという思いがあった」。

 転機は中2の冬、母の一言だ。「あなたみたいな人が出ているよ」。テレビに映るバンクーバー・パラリンピックで、同じ障害者が世界を相手に競い合う姿に、「いつかあの舞台で」と夢見た。日本代表チームの荒井秀樹監督(59)の連絡先をインターネットで探し、メールを送った。「私でも、できますか?」

 中3の冬、荒井監督に誘われ、クロスカントリースキーを初めて履いた。前に進まず「向いてない」と思った。だが、荒井監督は「経験はなくても、バレーで鍛えた下半身があった。何よりも自ら連絡をしてくる行動力を持っている」と成長を信じた。

 震災が襲ったのは、その3カ月後だった。家族は無事だったが、自宅は津波で全壊。その春、地元の高校に進んだら本格的に始めるために買ったスキー道具も流された。父は仕事で地元に残り、兄妹は学校のある宮古市に母と移った。

 「スキーどころではない」。だが、夢は捨てられなかった。荒井監督に相談し、強豪の盛岡南高(盛岡市)に進学。下宿生活を始めた。練習は健常者の部員と一緒。筋力トレーニングはもちろん、悪路の山道を走ってバランス感覚を養った。片手しか使えないため、バランスを崩しがちだったスキーのフォームが、いつしか安定する。荒井監督は「弱音を吐かず、力の限りを尽くすのは、つらい震災を体験したからかもしれない」と話す。

 「震災で失ったものはたくさんあるけれど、得たものも多い。スキーを通して多くの人にも知り合えた」と阿部。今大会中、震災3年を迎える。「頑張った成果を山田の人に見せたい。それが元気づける手助けになれば」(吉永岳央、松本龍三郎)

テレビを見ていて、応援する側と思っていたら安倍選手の心根に激しく励まされました。 あさイチのゲスト六角精児 「オレ、はずかしい ! 」と一人神妙な表情でした。 涙が出ます。

 03 09 (日) 金メダル狩野、原点は家族スキー 「自分変えてくれた」  

 ソチ・パラリンピックで、日本勢初の金メダルに輝いたアルペンスキー男子滑降座位の狩野亮(かのうあきら、27)。競技場には、支え続けた家族の姿があった。

 北海道網走市出身。小学3年の時に交通事故に遭い、脊髄(せきずい)損傷で車いす生活になった。落ち込む狩野に、父の操さん(55)は「やりがいを見つけてほしくて、いろいろなことをさせた」。アーチェリーや車いすマラソン、車いすバスケット、水泳……。中学1年でたどり着いたのがチェアスキーだった。スキーは2歳の時から、中学校教師でスキーの指導員だった操さんから教わっていた。

 チェアスキーを始めたころは、転んでは泣いた。もともとスポーツ万能。上達するとのめり込んだ。「両親がチェアスキーを与えてくれ、ふさぎ込んでいた自分を変えてくれた」。精度の高いチェアスキーを使うほどに、立って滑りたいとは言わなくなった。母の照美さん(56)は「あの子の笑顔がもう一度見たかったから」と振り返る。

 スーパー大回転で金メダルを獲得した2010年バンクーバー大会の時より、上半身は一回り大きくなった。世界でもトップクラスの身体能力を誇る。

 この4年で新しい家族が増えた。チェアスキーのシートを製造する義肢装具製造会社に勤める綾華(あやか)さん(25)と12年7月に結婚。綾華さんは、願掛けで日の丸や金メダルをイメージしたネイルアートを施してソチ入りした。画像を送ると、「気合入っているね」と返事が来たという。

 金メダルは支えてくれた家族への恩返し。「早く家族に会って、『やったよ』って言いたい」(野田枝里子)

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 03 22 (土) 高梨沙羅が7連勝 今季18戦15勝  

<W杯スキー:女子ジャンプ>◇個人最終戦◇22日◇スロベニア・プラニツァ(HS139メートル、K点125メートル)

 既に個人総合2連覇を決めていた17歳の高梨沙羅(クラレ)が135メートル、132・5メートルの合計271・6点で7連勝した。今季18戦中15戦で優勝し、通算勝利数を24に伸ばした。

 伊藤有希(土屋ホーム)は128・5メートル、125メートルの244・9点で今季5度目の表彰台となる2位に続き、個人総合3位となった。

 岩渕香里(松本大)は21位、渡瀬あゆみ(アインファーマシーズ)は25位、茂野美咲(CHINTAI)は27位、竹田歩佳(ライズ)は28位だった。

高梨沙羅 ぜひ開いてみてほしい。

 03 24 (月) 鶴竜、初優勝 横綱昇進へ 大相撲春場所  

 大相撲春場所(大阪・ボディメーカーコロシアム)千秋楽の23日、東大関鶴竜(かくりゅう)(28)=本名マンガラジャラブ・アナンダ、モンゴル出身、井筒部屋=が14勝1敗で初優勝し、横綱昇進を確実にした。14日目に横綱白鵬を破って単独首位に立つと、千秋楽で大関琴奨菊を破った。▼15面=頂へ闘志、39面=実った相撲愛

 鶴竜は1月の初場所で14勝を挙げたが、優勝決定戦で白鵬に敗れた。北の湖理事長(元横綱)は今場所で「13勝以上の優勝」を横綱昇進の条件に示していた。

 日本相撲協会の審判部は、理事長に横綱昇進を諮る臨時理事会の招集を要請、了承された。24日の横綱審議委員会に理事長が諮問し、推挙が決まれば、26日の臨時理事会と番付編成会議で正式に昇進が決定。71代横綱が誕生する。新横綱誕生は2012年秋場所後の日馬富士以来。朝青龍からモンゴル力士が4代続く。

 <鶴竜の話> このまま終わりたくない、と思っていた。横綱(になること)よりも優勝したい、という気持ちだった。横綱昇進は自分の決めることではない。でも、横綱は勝って当たり前の存在。精進しないといけない。

▼15面=頂へ闘志、昇る鶴竜 初賜杯、コツコツ12年半 大相撲春場所・千秋楽

 1人だけ1敗だった鶴竜が琴奨菊を圧倒。初優勝を手にし、場所後の横綱昇進を確実にした。

 横綱対決は日馬富士が勝ち、両横綱はともに12勝。ほかの大関陣は稀勢の里が9勝、琴奨菊は8勝に終わった。関脇豪栄道は12勝、平幕の大砂嵐は勝ち越したが、遠藤は3連敗で6勝止まりだった。十両の豊真将の全勝優勝はならなかった。

 ■東西トーザイ

 鶴竜の師匠、井筒親方(元関脇逆鉾)は言う。「土俵上で闘志が表れるようになった」。初優勝、そして綱がかかる一番。最後の仕切り前、塩をつかむまな弟子の眉間(みけん)に、しわが寄った。

 立ち合い。右前みつが取れず、呼び込みかけた。だが、こらえる。右、左と差し込み、右を前まわしに取り換えた。最高の形で、20キロ以上重い琴奨菊を寄り切る。万雷の拍手。「ぼーっとなっていた」。土俵下で、目をぐっと閉じた。

 序盤戦は引く相撲が目につき、3日目に隠岐の海に土をつけられた。「考え込んだら止まらない」。そう漏らしていた1年前までの鶴竜なら、立て直せなかったかもしれない。

 だが今場所は朝稽古の後、理想の取り口を聞かれると「ない」と答えた。前に出る相撲にとらわれすぎず、できなくても引きずらない。「悔しい思いもした。でも自分なりに考えて一生懸命やってきた。経験してきたことがやっと身についたというか、生かせるようになってきた」

 4日目から白星を重ねた。「(負けて)楽になった。肩の力が抜けた」という。先場所も、初日に黒星を喫してから14連勝だった。今年に入り、まだ役力士に負けていない。

 関取になる夢を抱いて日本へ渡って、12年半。“こつこつ”の先に、想像もしなかった綱はあった。支度部屋。賜杯(しはい)を抱き、この日初めて、太い眉が垂れた。(鈴木健輔)

     *

 鶴竜力三郎(かくりゅう・りきさぶろう) 本名マンガラジャラブ・アナンダ。1985年8月、モンゴル・スフバートル出身。井筒部屋。高校を中退して2001年9月に来日し、同年九州場所で初土俵を踏んだ。06年九州場所に新入幕。東関脇だった12年春場所で13勝し、大関に昇進した。優勝決定戦は12年春、14年初場所の2度経験したが、どちらも白鵬に敗れた。三賞受賞は殊勲2、技能7。186センチ、154キロ。

 ▼鶴竜は雲竜型 横綱昇進が確実な鶴竜の土俵入りが、朝青龍以来の雲竜型になることが決まった。師匠の井筒親方(元関脇逆鉾)が23日、明らかにした。時津風一門の横綱は、柏戸以来。

 ■白鵬V逃し「悔い残る」

 すでに優勝の可能性が消えた結びで、白鵬が3連敗を喫した。取り直しの一番で日馬富士に一気に寄り切られた。

 危なげない相撲で12連勝しながら、13日目に琴奨菊に敗れて右手を痛めてから勝てなくなった。「前半は万全だったけど、後半に崩れた。ケガのせいにはしたくないけど」。春場所の連覇は4で止まった。「終わってみれば29度目の優勝もできなかった。悔いが残ります」。ただ、鶴竜の充実ぶりは認めた。「今年に入ってから、見違えた。精神的にも肉体的にも成長したと思う」と評した。

 ■遠藤6勝「上出来です」

 遠藤は星を伸ばせず、初めて幕内上位と総当たりした場所を6勝で終えた。「上出来だと思う」と語った一方、「15日間メンタルや集中力を保つというのは、難しいなと思った。身を削るような感じだった」と本音もこぼした。

▼39面=鶴竜、実った相撲愛 モンゴル出身、横綱へ

 「床山にするか……」。来日直後は体重が65キロしかなく、あまりの体の細さに、師匠の井筒親方(元関脇逆鉾)を悩ませたモンゴル出身の大関鶴竜(28)が23日、大相撲春場所で初優勝を決めた。場所後に横綱昇進が決まれば、同国出身では4人目の快挙になる。▼1面参照

 土俵下でインタビューを受ける鶴竜に、館内から「横綱」の声が早くもかかった。「これからも一生懸命努力して、皆さんに喜んでもらえる相撲を取っていきたい」。一言ずつ、かみしめるように話した。

 ■昔はバスケ少年

 先輩横綱の朝青龍、白鵬、日馬富士はいずれもモンゴル相撲の力士を父に持つ。鶴竜の父、マンガラジャラブさんは大学の学部長。ただ、裕福ではなかった。「プロのスポーツ選手になる」と少年時代はバスケットボールに打ち込んだが、十分な指導を受けられる環境にはなかった。

 14歳の頃、目に留まったのがテレビの大相撲中継だった。旭天鵬や旭鷲山らの活躍に「自分もやってみたい」と刺激された。

 ■入門志願の手紙

 相撲界への道を開いたのは、本人の熱意と行動力だ。角界入りへの思いをつづった手紙を父の知人に日本語に訳してもらい、相撲部屋などに送った。それが井筒親方の目に留まった。

 とんとん拍子にここまで来たわけではない。三段目から序二段に2度落ちた。幕下昇進には初土俵から17場所を要した。今場所は初土俵から74場所目。太るため、母国では神聖な生き物とされる魚を食べられるようになろうと一人ですし屋に通い詰めたこともある。

 今は体重154キロになった。語学の学習も努力し、母国語のほか、日本語、英語、ロシア語を話す。

 異国の地を踏み12年半。この日、優勝を見届けた父は「長い間、ずっと待っていた」。強くなった息子にキスで祝福した。(箕田拓太)

 03 24 (月) 知と行は一体のものでなくてはなりません  

「知」と「行」
   <http://blogs.yahoo.co.jp/grandtheurgy15/8393079.html>

 王陽明が言うに「知は行の始め、行は知の成るなり。知行は分かちて両事と作(な)すべからず」、即ち「知行は連続して一体のものであり、知行は二つに分けることが出来ない」という説明がある。

「知」というものは行いの始めであって、「行」というものは「知」の完成であるという。つまり、いくら知識があっても、その知識が行動に伴なわなければ意味が無いではないか。その知識は、その人にとって空虚なものに過ぎないということである。「知行合一」のことだ。

 学問と行動は別個のものとした二元論の朱子学とは対比をなす考えだが、アプローチの違いであり、視点を変えればどちらも正しいと思う。「先知後行」が意味するように、理論を極めてから行動する視点では後の無駄が少なくなり、合理的でもある。ただ実際、どちらの考え方を重視するかは個々人の個性に依るころだ。王陽明と違って朱子の「先知後行」も重要と考える合理主義者の私でもあるのだが、重視するのは「真の学びとは行動とワンセットだぞ」という陽明学寄りの考え方だ。

 頭で得た知識は基礎的なものであり、現実の千差万別な状況の中で生かすには実際に行動しなければ分からないことも多い。行動する中で色々と調整しつつさらに学びが入り、元の知識を補完する形となり、自分にとって完全なものへと成すことが可能である。私個人の考えでは、この視点からも「行」による「知」の完成を言うことができると思う。理論だけの知識は不完全な「知」なのだ。そして、完成された「知」は最初の「行」ではなく、次の高みにある「行」の始めとなる。この循環を繰り返すことで、「知」と「行」の連環はどんどん広がり、その人を成長させる比類なき源泉力となるのだ。

 似たようなことに「有言実行」がある。きちっと実践できる人は、間違いなく信頼を得る。まともなこと偉そうなことをよく口にするが、自分では全く実行しない人がいるとする。諸兄は、どう思うだろうか? 私ははっきり言って、口ばかりの人間は嫌いだ。

 学ぶにも時間とお金と労力が必要となる。それを費やして敢えて学ぶと言うのに、日常の行動に反映しようとしないのは、何事何様? そういう人間も嫌いな人種の一つだ。道楽遊びと自覚しての上なら、費やすものもそれに応じた程度で良かろうよ。

 石門心学の開祖、石田梅岩も「実践しない学問には何の価値もない」と言い切っている。探せば、もっと多くの人が同じことを言っているだろう。

 正見できる人は、行き着くところが同じということ。無論、そこに行く為にも知行循環が必要だ。


インタビュー 特集 複雑系の「知」から学ぶもの
   <http://www.hiroshitasaka.jp/kotoba/library_file/01_TM0086.html>

露木 先生のこれまでの著書を読ませていただき、先生のお考えの「複雑系の知」は教育の中でも全く当てはまることだと感じました。この「複雑系の知」について、先生のお考えをご紹介いただけますか。

三つの知の分離という問題

田坂 私が根本的に問題にしたいと思っていることは「知のパラダイム」なのです。世界を見る見方を変えていかなければ、この世の中に起きているいろいろな問題を解決していく力にならないのではないか、と考えているのです。誰が悪い彼が悪いと「犯人探し」をしてみても世の中はよくならない。みんなどこかでつながっているわけですから。

「複雑系の知」の本の中にも書いていることですが、現代の教育が力を持たないとすれば、あるいは、現代の「知」が力をもたないとすれば、それは「三つの分離」に大問題があると思っているのです。その「三つの分離」とは、「知と知の分離」「知と行の分離」「知と情の分離」です。

知と知の分離

「知と知の分離」というのは、世界はもともと全体性をもっているにもかかわらず、専門知識がそれぞればらばらに教えられてしまうのです。例えば、子どもに、村のはずれにある魚屋さんに魚を買いに行ってくれと言ったとします。子どもは魚屋さんまでの地図を広げてどこにあるか調べるでしょう。行きに坂があればアスレチック感覚で、運動能力が試されるかもしれません。魚屋さんでは計算が必要でしょう。このように、子どもだけでなく、もともとわれわれが生きている世界というのは、全体性をもっているにもかかわらず、教える時には社会だ、理科だ、算数だというようにそれぞれの教科に分けて教えています。教える方法としてはそれで構わないのですが、最後までばらばらのままという傾向があるわけです。言葉なども、もともと生きていくために不可欠なものですが、それが特別な教科になってしまっているわけですね。国語でジェスチャーを教えているのかどうかわかりませんが、現実には言語的なコミュニケーションをする場合には、今、私がやっているように目であるとか、ジェスチャーとか「間」であるとかを使っているわけです。もともと、全体性があったものが、知識として教えようとすると、何か大切なものが失われていくわけです。これが「知と知の分離」です。

知と行の分離

次の大きな問題は「知と行の分離」です。「知る」ということと「行なう」ということが分離してしまっているということです。一番困るのは、「知った」ことによって「できる」と思い込んでしまうことです。例えば野球で、「バットを持って来たボールを打ち返せばいい」と言われれば、分かった気になりますね。ああ、野球なんて簡単だと。しかし、実際には、飛んできたボールを打ち返すのがどれほど大変なことかわかりますね。

野球の場合は「知る」ことと「できる」ことが違うことがわかりやすいのですが、高度な話になればなるほどわかりにくくなるのです。例えば、経営学というものがあります。しかし、経営学がわかってもそのことと経営ができることは全然別問題ですね。何かが「できる」ためには、実はもっと多くの知識が必要で、それが学校教育で伝えられる書物とかペーパーとかを越えた、いわゆる「暗黙知」と呼ばれるものなのです。そして、日本の教育の世界には、この「暗黙知」を伝えられる技法がないように見えるのです。もちろん、最初は、言葉にして表される「形式知」――私はあまりこの言葉は使わずに「言語知」と呼んでいますが――を伝えることが基本です。

私たちはなぜ言語を使って他人に伝えようとしているか、そのことについて二つのパラダイムがあります。一つは、言葉を使えばたいがいのことは伝えられると、無意識に思い込んでいる場合です。もう一つは、私たちが言葉で一生懸命相手に伝えようとすることの意味は、ヴィトゲンシュタイン流に言えば、「我々は、『言葉』にて語りえるものを語り尽くしたとき、『言葉』にて語りえないもの知ることがあるだろう」ということなのです。つまり、言葉で伝えようとしてベストを尽くし、限界に直面したとき、言葉を超えて伝えられないものが伝えられるということがあるのです。

例えば、私が何か悲しみを抱いていて、「露木さん、聞いてくれるか」といって一生懸命話して「でも、しょせんわからないよなあ、俺の気持ち」と言って天井を仰いだ瞬間、伝わるようなことがあるのです。

そういう世界のあり方を子どもたちに教えてあげないと、言語知の知識をそのまま身につけると暗黙知の知識は身についていないにもかかわらずわかった気になってしまうのです。でも、暗黙知を含めて身についていないと、実際に行動ができないのです。いわゆる「身体性の知」になっていないのです。これからの時代では、特に学校教育では「言語知」に対して「暗黙知」や「身体性の知」まで統合して伝える技法が必要だと考えています。本気で、学校教育にこの「暗黙知」の教育がでてきてほしいと思っています。

言葉でわかったことによって世界がわかったような気になるのだけど、実際には「暗黙知」や「身体性の知」の部分にまで降りてこないとわからない、行動に移せない、これが「知と行の分離」という問題です。

知と情の分離

三番目の問題は「知と情の分離」です。これは何かと言いますと、観念の世界だけで世の中を見てしまう悪い傾向があるのです。例えば、ベトナム戦争の歴史を勉強すれば、繊密な歴史学が論じられると思うのです。しかし、ベトナムの歴史を論じるのであれば、サイゴンが陥落した時の、あのドキュメンタリーに克明に残っている人々の姿を見つめる力を持っていなければならない。私は池田晶子さんという哲学者を評価しているのですが、彼女は、あのドキュメンタリーフィルムを見て涙が止まらないと言うのです。私も同じです。

サイゴンが陥落した時、米軍の飛行機が逃げ出そうとしている、そのタラップにすがりついて乗せてもらおうとしているベトナム人を米軍の兵士が足で蹴落としているのです。それをもって米軍を非人間的といいたいのではなく、戦争というものの悲しみをいいたいのです。次のシーンで、脱出する最後の船に全員が乗れないため、子どもたちだけを乗せて泣きながら見送っている父親が出ます。その父親がどんな思いで子どもたちを見送ったか、ということを私は考えてしまいます。正直涙が止まりません。それをもって、私に何ができるのか、ということではありません。ただ言えることは、歴史とか、人間社会とか地球環境などを抽象的に論ずるだけの学問であってはいけない、と思うのです。

例えば、私はもともとは環境問題が専門なのですが、私にとって水俣病というのが原点としてあります。ユージン・スミスとかいろいろな方の写真がありますが、当時、公害によって現実に家族の命が失われたりしているわけです。そういうものに対する原体験的な自分の思いをもっていないと、語ることが薄っぺらくなってしまうわけです。

ベトナムの歴史を論ずるのであれば、そのベトナムの歴史を生きた人たちの思いをどれだけ共感できているか、とか環境問題であれば富士山の5合目あたりの酸性雨の影響で立ち枯れの木への思いとか、が一方にあってそれが「知」とつながっていなければならないのです。ところが、いつの間にか「知と情」が分離して、情的なものを持ち込むと「あの人は情緒的だ」とか「学者としては二流だ」と言われたりする状況があるのです。これが違うのです。

21世紀に向けて、ますます私たちは非常に大きな問題に直面していくのですが、それに処そうとするとき、どこから変革の手をつけなければならないかというと、それは行政改革でも総選挙でもなくて、私は、人間の「知」のあり方を変えるということだと思います。

そして、その「知」のあり方をもっとも最初に手をつけられるのは、みなさんの初等教育の世界だと思います。そういう意味でレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」の世界はとても大切なことだと考えます。

露木 先生は本の中で宮沢賢治についても触れられていますね。

田坂 「銀河鉄道の夜」に出てくるジョバンニなどは宮沢賢治によって理想的な子どもとして描かれていますね。

世界はもともとは瑞々しい全体性をもっているわけですが、それを私たちは専門的な知識で切り刻んでしまったり、情というものを捨てて、その世界と心をもって接することを辞めたり、世界と自分を切り離して客観的に論ずるようになったり、世界に対して働きかけるという行動の部分と離れて物事を論ずるようになったりしてきたということが20世紀から21世紀にかけて私たちに大きな課題を生み出しているわけです。ですから、「知」のあり方を見直すべきであるというのが私の考えなのです。

「存在」の不思議を問う理科教育を

露木 今、理科離れが話題になったり、理科が嫌いな子が多いというようなことが話題になったりします。小学校の理科で、大切にしたいことを田坂先生はどのようにお考えでしょうか。

田坂 子どもが理科を好きでなくなっていくというのは、今の世の中の流れでは当然のような気がするわけです。どうしてかというと、例えば物理は「物の理」と書くわけですが、この「物」に対する原点がわかっていないのです。子どもたちにとって「物」に対する不思議さは究極的には「存在」ということに対する不思議さにつながるべきだと思います。

つまり、初等教育で、哲学が復活すべきだと思っているのです。「存在論」というのを分かりやすく教えるべきだと思っています。子どもたちにとってセンス・オブ・ワンダーというのは、星がすごいねという感激や砂浜の砂に対する感動はカーソン的な世界でもあるのですが、もっと根本的に言えば不思議さの究極は「私はなぜここにいるか」です。それが、私たちの究極的な問いです。

「死」は否応なく子どもたちに教えられていきます。しかし、表裏一体としてある、なぜ「われわれはここにいるのか」という存在論としての不思議を教えなければ、片手落ちなのです。私は素朴に、このことが不思議だなあ、というのを伝えたいのです。

そもそもこの宇宙というのは、もし、現代宇宙物理学を信じれば、160億年前には何もなかった。真空しかなかった。それがある瞬間に揺らいだ、どうして揺らいだか私にはわかりませんが、揺らいだ瞬間にインフレーション宇宙がばっと始まったわけです。その後ビッグバンです。宗教的直観ってすごいと思いますが、「はじめに光あれ」という聖書の言葉にあるように、瞬間的に光に満たされるのです。それが徐々に冷えていって水素やヘリウムのような軽い元素が生まれ、太陽が生まれていきます。超新星爆発によって重金属が生まれ、やがて新たな太陽が生まれ、その回りに地球のような星が生まれました。そして、原始の海の中で複雑な物質であるたんぱく質が形成されます。そのたんぱく質がどの時点かで生命を獲得したわけです。ジャンプしたわけです。そして、その生命が壮大な進化をとげて霊長類が誕生します。それはおよそ200万年とも言われるのですが、その霊長類がある時に高度な心を獲得しました。その心とか精神が今の文明や文化とか社会をつくったのです。

私は、この160億年の歴史というものを天文学や物理学の問題にするのではなくて、「存在」の問題にするべきだと考えているのです。私の問いは根本にあって、「なぜ、真空は真空のままであり続けなかったのですか、なぜ、物質は未来永劫物質のままであり続けないのですか。なぜ、複雑化をとげて生命を生み出したのですか。その生命のなかで、アメーバのようなものはなぜアメーバでい続けないで、複雑に高度に多様化していって、霊長類を生み、われわれにとって楽しくもありやっかいなものである『心』を生み出したのですか」と。そして、その『心』は今どこに向かっていっているのですか。心と言うものは、人間社会にあってこれほどの悲しみとか喜びとか苦しみを生み出しながら、何に向かっているのですか、という根本的な問いを、瑞々しい小学生の子どもたちの時代に教えてあげるべきだと私は思います。

その、もっとも深い問いを子どもたちに伝えられたら、教育のぎりぎり、究極の仕事は終わりだと思っています。なぜかといえば、教育という仕事は、ものを教えることではなく、世界から学びとっていく力を身につけさせることだからです。

そして、世界から学びとる時にもっとも大切なことは、実験の方法でもなければ、本の読み方でもなくて、「問い」です。逆に、成長しなくなり、学ばなくなる人は「問い」を持たない人です。何を聞いても「まあ、そんなもんだよ」とか「経営ってそんなもんだよ」などとわかってしまったようなことを言います。ところが、そうではなく「なぜなんだろう」と問い続ける人が、人間としてもっとも深い学びの世界へと向かって行く。これが教育の原点だと思います。

このことは、おそらく心ある教師であれば皆さんに同感していただけるのではないでしょうか。

「存在」ということに対する不思議さ、ゴーギャンの言葉を借りれば、

  「われわれはどこから来たのか。
   われわれは何者か。
   われわれはどこへ行こうとしているのか」

この問いをもっとも瑞々しい子どもの時代に持たせてあげたいと思うのです。

もう一つ、申し上げたいことは、亀井勝一郎の言葉で、

  「知性とは何か」

ということです。

私は大学の講師もやっていますので、最終の講義に必ず学生さんに聞くのです。
「知性の府、最高学府である大学生の皆さんにお聞きしたいのは、知性とは一体何ですかということです。それは、誰よりも速く問題を解くことですか。そうではありません。最も正しい定義は、「答えのない問いを問い続ける力」です。

人間がすごいのは、答えがない、一生かかっても答えが得られないとわかっていながら、それでも自ら問いを問い続けようとする、その力こそが「知性」の根本的な定義なのです。

それは、難しい哲学を教えようとするわけではなく、実は素朴な教育の中にあると思うのです。先程の160億年の物語にしても、今ほどマルチメデアが発達していればどのようにもわかりやすく子どもに教えることは可能です。NHKスペシャル「生命」もよくできていましたが、ただ残念なのは、根本に流れる「問い」が伝わってこないことです。

露木 「複雑系の知」を具体的な教育の場に生かすための知見はございませんか。

田坂 今の初等教育が抱えている問題は、今の大学とか社会の「知」の在り方の問題をそのまま映し出しているのです。学問領域でそれぞれの専門で研究をしているのだけれどもその領域をクロスオーバーしていく部分がない。学際と呼ばれる領域がないのです。学際研究所はあっても寄り合い住宅のような感じです。小学校も同じです。本当は一つの世界を扱っている、という自覚が必要なのです。教育においてもそれぞれの教科をつないでいくものが必要なのです。それは単に「総合的な活動」にすればいい、という問題ではなく、哲学が必要なのです。

もう一つは、「進化」という思想を教えるべきだと私は考えています。これまで、進化の速度は遅かった。ところが、これから、ハイテク産業など社会はものすごい勢いで進化していくのです。進化の理(ことわり)を知っていないと対応できない時代がきているのです。哲学と言ったのはそういう意味で、世界がどのように変化しているか、とういうことの理なのです。世界というのは複雑系そのもの、姿なのです。単純だったものがなぜか複雑になろうとし続けている。物事が複雑化してくると全く新しい性質を獲得して世界はますます多様化し複雑化していくのです。「心の生態系」も複雑に複雑に進化していっている。これからの子どもたちは、進化の最先端にいるのです。

露木 最後に、全国の先生へのメッセージをお願いいたします。

田坂 率直に申し上げたいことが一つあります。人にものを教えようと思わない方がいいと思います。自分が学び続けようとしない教師には限界があります。ご自身が自らの生涯をかけて問い続けていく問いを持っていますか、ということです。

教師が子どもたちに伝えるべき最後のことは、人間というものはどのように生きていくべきか、ということを、言葉を越えた世界で伝えることです。私が教師だったら、子どもは私の後ろ姿を見ていると思うのです。この人ってどのように生きているのだろうって、きっと子どもはつぶらな瞳でみていると思うのです。だから、後ろ姿で構わない、無言で構わないから、ああ、この先生は与えられた生を、一回限りの人生を精一杯に、もっとも深き問いを問い続けて歩いている、ということを伝えられれば、教育はそれで役割は果たせるのです。理科や社会などの教科はそのための道具にすぎないのです。

この生き方ということは言葉では伝えられないのです。教師は生き方を問われているのです。それは私とて同じです。私も成長している、部下の方々にその姿をみていただきたいと思っているのです。

露木 複雑系を単に方法論に還元して考えていました私の不明を恥じる思いです。きょうはお忙しいなか、本当にありがとうございました。

( 初等理科教育 1月号 Vol.34 )



安岡正篤を学ぶ  ……「知」と「行」/安岡正篤一日一言……
   <https://www.facebook.com/yasuoka.masahiro/posts/598660040163291>

「知は行の始めなり。行は知の成るなり」という王陽明の説明がある。

「知」というものは行ないの始めである。
「行」というものは「知」の完成である。
これが一つの大きな循環関係をなすものである。
知から始まるとすれば、行は知の完成、そしてこれは行の始めが知だから、知というものは循環するわけです。
本当に知れば知るほどそれは立派な行ないになってくる。
知が深くなれば行ないがまた尊くなる。


知は行ないの始め、行ないは知の成れるなり
   <http://yamadahoukoku.com/ohyomei/okada/3.htm>

 王陽明の名句とその解説
 岡田先生に名句選定をお願いした経緯と、選定した王陽明の各句の
  意味の解説を掲載しています。

竜場の竜岡書院での陽明の高い評判はだんだん広まって、貴州省の長官や学政官の耳にまで届きました。そこで、彼らは省の都にあった書院を修復して陽明を院主に招き、子弟を引き連れて講義を聴くことにしました。そのときに講義した陽明の話がいわゆる知行合一説であります。そこで陽明がいったのは、右に掲げているように「知は行ないの始めであって、行ないとは別のものではない。また、知が成し遂げられたものが行ないであって、行ないは知から離れたものではない。両者は一つにつながっているもので、離すことはできない」ということであります。これが陽明学で有名な「知行合一」という教えでありますが、この考え方は、世の中で主流となっていた朱子学の考え方とは正反対で、世問の人に対して衝撃的な説でした。といいますのは、朱子学では「先知後行説」という考えを唱えていたからです。

つまり、実践する前に先ず事物の理法を窮めておかないと、その実践はでたらめな行ないになると朱子は考えたのです。先ず知った後で行なうという考え方は常識的で分かりやすいものでありました。そこで、ある日、偉い門人の一人が陽明に「誰でも親に孝行しなければならないと知ってはいますが、現実に孝を尽くすことは中々できません。そうしますと、知と行ないとが別のものであるの、は明らかではないでしょうか」と尋ねたことがあります。これに対して陽明は「そのように知と行ないとが二つに見えるのは、その人の考えが私欲におおわれているためであって、知行の本来の姿ではない。知っておれば必ず行なうものだ。知っていて行なわないのは、要するに知らないのだ」といい、「だから、昔の人は真の知行は美しい色を好み、嫌な臭いをにくむようなものだと説いたのだ。

つまり、嫌な臭いを嗅ぐのは知に属し、嫌な臭いをにくむのは行に属するが、嫌な臭いを嗅いだ時は既にそれをにくんでいるのであって、それを嗅いでから後に別の心を働かせて嫌な臭いをにくむのではない。例えば、鼻づまりの人は嫌な臭いを出すものが目の前にあっても大してにくみはしないが、それは嫌な臭いを知らないからだ」と教えたのであります。

また陽明は知行合一について、「今の学者は知行を二つに分けるから、一念が発動した場合、それが不善のものであっても、まだ行に至っていないからと止めない」ともいっています。つまり陽明は、不善の念や私欲を徹底的になくすようにと教えたのであります。