折々の記へ
折々の記 2014 ⑤
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】04/27~
【 02 】05/03~
【 03 】05/07~
【 04 】05/12~
【 05 】05/16~
【 06 】05/26~
【 07 】06/03~
【 08 】06/04~
【 09 】06/07~
【 02 】05/03
05 03 憲法記念日 新聞記事
05 04 憲法(続)
(01面) (憲法を考える:上)改憲に執念、安倍首相の源流 挫折経て再挑戦、背押す保守人脈
(02面) (憲法を考える)安倍首相、突き進む理由 憲法観・前文と9条・改正手法
(03面) 解釈改憲、「法の支配」危機 長谷部・杉田両教授の連続対談
(04面) 集団的自衛権、行使範囲「広げられる」 石破氏、米議員に講演
(04面) 公明参院会長「姑息」 解釈変更で行使容認、批判 集団的自衛権
(04面) 集団的自衛権、各党割れる 憲法記念日で談話・声明
(04面) 日中改善、議員に託す 超党派・自民有志、相次ぎ訪問へ
(06面) (憲法を考える)一からわかる立憲主義
(14面) (社説)安倍政権と憲法 平和主義の要を壊すな
(14面) (声)憲法特集:下 「砂川事件」通じ憲法が身近に
(14面) (声)憲法特集:下 一方的な押しつけではない
(14面) (声)憲法特集:下 沖縄から「初原の命」示し続ける
(14面) (声)憲法特集:下 中学生と公民教科書を読んで
(14面) (声)憲法特集:下 平和こそが人類普遍の真理
(15面) (寄稿)今この国はどこにあるのか 作家・小林信彦
(38面) 改憲や憲法解釈「国民的議論を」 寺田最高裁長官
(39面) 排除の理由:(1~6)
(01面)
改憲に執念、安倍首相の源流 挫折経て再挑戦、背押す保守人脈
私たちの憲法は3日、施行から67年の記念日を迎えた。安倍内閣は集団的自衛権の行使を認める解釈改憲を掲げ、国のかたちを決める法は岐路に立たされている。旗を振る安倍晋三首相の論理や狙いを探ることから、憲法のいまと行方を3回にわたって考える。▼2面=突き進む理由、3面=解釈改憲「法の支配」危機
安倍は4月2日、自民党副総裁の高村正彦や幹事長の石破茂、官房長官の菅義偉を首相公邸に集めた。憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使に向け、慎重な公明党をどう説得するかを協議するためだった。
政権中枢の意見は割れた。石破は公明党に配慮し、集団的自衛権を認める閣議決定の先送りを提案した。だが、安倍は「集団的自衛権という言葉は外せない」と強い調子で語り、石破の案を退けた。
側近が別の場で「閣議決定で集団的という言葉を使わない選択肢もある」と水を向けた時も、安倍は「全然だめだ」と言い切った。側近は確信する。
「首相の決意は本物だ」
安倍はなぜこだわるのか。周辺が狙いを語る。「まず解釈を変更し、できる範囲で集団的自衛権を認める。だがそれだけでは国際標準の安全保障は実現できない。やはり憲法を改正するしかないと、はっきりする」。安倍にとって集団的自衛権は本格的な改憲への一里塚というわけだ。
■「政権の大前提」
2007年9月。参院選で大敗した安倍は1度目の首相の座を1年で手放した。第1次政権の首相秘書官で、今はみんなの党参院議員の井上義行は退陣から約2カ月後、安倍の自宅を訪ねた時に明かされた言葉を覚えている。
「在任中に靖国神社に行きたかった。どうしても憲法改正をやりたかった」
5年後の12年9月。安倍は党総裁に返り咲き、同年12月16日の衆院選で大勝し、政権復帰を果たした。
その2日後。安倍が最も信頼する側近の一人が、政権運営の優先課題をまとめたメモを手渡した。内容は安倍に近い政治学者らの意見を集約したものだ。政権発足後は経済環境や国際情勢の変化に合わせ、10回以上書き換えられた。安倍と側近は政局の節目ごとにひそかに会い、懸案事項をすり合わせてきた。
最初のメモで主な項目に挙がったのは、憲法改正だ。側近は、発議要件を衆参各院の総議員の3分の2以上から過半数に引き下げる96条改正を先にするよう進言した。安倍も12年の党総裁選で主な政策に掲げ、「国民の半分以上が変えたいと思っても3分の1超の議員の反対でできないのはおかしい」と訴えていた。
だが、改正のハードルを下げる手法は改憲には賛成する保守派からも「裏口入学」(小林節・慶応大名誉教授)などと厳しく批判され、報道各社の世論調査でも反対が賛成を上回った。安倍は13年5月以降、慎重姿勢に転じる。その直後、96条改正は側近が示す「優先課題」からも外された。
集団的自衛権、日米関係の修復、尖閣諸島、歴史認識……。最新のメモには7、8項目が掲げられている。側近は「憲法改正は政権にとって大前提となる目標。96条改正の旗を降ろしていないが、先行にこだわってはいない」と語る。
■「筋のよい若手」
第1次政権の挫折を経てなお、憲法改正にこだわる安倍。1993年の初当選直後から、憲法改正に向けた発信を繰り返してきた。
94年、元官房長官の後藤田正晴が会長を務めていた自民党基本問題調査会は、55年の結党以来掲げる「自主憲法制定」の党是見直しを検討。これに激しく反対したのが安倍だった。穏健派の大物に挑んだ安倍の行動に、保守派の学者らは「筋のよい若手」と注目した。安倍は、憲法学者の八木秀次や政治学者の中西輝政ら改憲派の識者や団体に人脈を広げていった。
「悲願」の憲法改正に向け、安倍と思いを同じにする国会議員や識者らは一つの目標を見据え始めた。
昨年11月、東京・永田町。早期改正を求める国会・地方議員、識者ら800人が集う会議が開かれた。自民党政調会長の高市早苗や首相補佐官の衛藤晟一らも並ぶなか、安倍と親しいジャーナリストの桜井よしこが講演。非公開の第2部では、憲法学者で日大教授の百地章が壇上で訴えた。
「16年夏の参院選を衆院選とのダブル選にし、改正の是非を問う国民投票も同時にやるしかない」
安倍政権の支持率が安定するなか、改憲派の期待は膨らむ。とはいえ、国会の発議要件の「3分の2」を獲得できなければ、国民投票に持ち込むことはできない。安倍周辺のブレーンや議員が模索するのは、野党も含め衆参各院で3分の2を確保できる項目に絞り、改正を先行させる方法だ。
安倍周辺からは「災害時など緊急時の対応も憲法に規定されていない。国民の誰もが賛成するようなテーマがいい。9条改正は後回しでいい」との声が上がる。自民党憲法改正推進本部事務局長で首相補佐官の礒崎陽輔はこう話す。
「国民に憲法改正の手続きを一度示せば、改正は怖いことではないと理解してもらえるはずだ」
=敬称略(渡辺哲哉、池尻和生)
(02面)
安倍首相、突き進む理由 憲法観・前文と9条・改正手法
憲法改正を悲願とする安倍晋三首相は、現行憲法のどこに不満を感じ、どんな国家像をめざしているのか。過去の発言や首相に近い関係者の証言などをもとに、首相の狙いを「憲法観」「憲法前文と9条」「改正手法」の三つから読み解く。
■憲法観 「日本の国の形、理想と未来を語るもの」
安倍首相は3月の参院予算委員会でこう語った。「憲法自体が占領軍の手によって作られたことは明白な事実。私は戦後レジーム(体制)から脱却をして、今の世界の情勢に合わせて、新しいみずみずしい日本をつくっていきたい」
首相が「戦後レジーム」と呼ぶのは、敗戦後の1945年から52年のサンフランシスコ講和条約発効まで、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の主導で日本に導入された民主主義的な制度を指す。教育委員会制度や歴史認識など対象は幅広いが、首相やその周辺は「脱却」すべき戦後体制の中心に「GHQに押しつけられた憲法」があると主張する。
再び就いた自民党総裁として臨んだ一昨年10月の衆院本会議の質問ではこう述べた。「国民の生命、財産と日本の誇りを守るため、今こそ憲法改正を含め、戦後体制の鎖を断ち切らなければならない」
首相の考えに強い影響を与えたのは祖父の岸信介元首相だ。岸氏は1957年の衆院予算委答弁で「日本民族の独立」を目標に掲げ、自主憲法の制定が必要と強調していた。
安倍首相が今年2月の衆院予算委で示した、憲法や立憲主義についての考え方は波紋を広げた。「(憲法は)国家権力を縛るものだという考え方はある」としつつ「かつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であり、いま憲法というのは、日本という国の形、理想と未来を語るものではないかと思う」。
これは首相に近い憲法学者の西修・駒沢大名誉教授が、2年前の参院憲法審査会で参考人として述べた考え方とそっくりだ。西氏は「国家権力を規制するのが憲法との考えはちょっと古く、絶対王制の18・19世紀の考え方。今や国民が国家権力と一緒になって、国をどう形成していくかを考えていかなければならない」と語っていた。
ただ立憲主義は、憲法で権力を縛り、権力分立や基本的人権を保障するとの考え方だ。日本国憲法など民主主義的な憲法を貫く基本理念で、首相の答弁は多くの憲法学者から批判を受けた。
最近の集団的自衛権をめぐる国会質疑で、首相は憲法解釈について「最高の責任者は私だ。政府答弁に私が責任をもって、その上で私たちは選挙で国民の審判を受ける」と答えた。ただこれも、時の政権の判断で解釈を変えられるととれる主張で、多数派の横暴を憲法で抑えようとする立憲主義の考えを「ないがしろにしている」と指摘された。
*
<ジャーナリスト・桜井よしこ氏> 日本の現行憲法は、憲法を知らないGHQの素人集団が短期間でつくったもので、専門家によるチェックもなかった。憲法のゆえんたる民族の価値観や、歴史伝統というものをまったく踏まえておらず、憲法の体を成していない。無味無臭でいったいどこの国の憲法なのかと思う。例えば中国や韓国などは憲法に自国の歴史や国が大事にしている価値観を高々と書いている。憲法をすべて書き換えるのが理想だが、現実的ではない。今できることは現行憲法を1項目ずつ見直していくことだ。
■前文と9条 「安全、命を他国の善意に委ねていいか」
安倍首相が、現在の憲法の中でも、とりわけ変えるべきだと強くこだわるのは、前文と9条だ。
憲法前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とうたう。首相は昨年4月の参院予算委で、自民党議員から「戦後レジームからの脱却」の意味を問われ、前文の内容をこう批判した。「自分たちの国民の安全、命を他国の人たちの善意に委ねていいか、このこと自体を疑問に思わない方がおかしい」
この考えの背景には、父・晋太郎元外相の秘書官時代から取り組む北朝鮮の拉致問題がある。首相のブレーンは、安倍氏がかつて「前文の『平和を愛する諸国民』には北朝鮮も入っている。そんなバカな話はない」と語っていた、と振り返る。他国民の信義に期待するような憲法では国民の生存や安全は守れず、拉致事件を招いたとの理屈だ。
党幹事長代理だった2005年には、月刊誌の対談で、憲法の前文を変えて白地から書くべきだと語っている。
「前文は何回読んでも、敗戦国としての連合国に対する詫(わ)び証文でしかない」
憲法9条については、首相は元々、特に戦力の保持や国の交戦権を禁じた第2項を削除すべきだとの考えを示していた。首相の側近は、東西冷戦が終わり、中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル問題への対応に迫られていると指摘。「9条はGHQが日本を占領した際の国際秩序である『ポツダム体制』の維持装置。日本が置かれている時代状況は大きく変わった」と、9条改正の必要性を唱える。
首相自身も就任前の12年1月、評論家の西部邁氏とのテレビ対談で「(9条は)自分たちの国を守る軍隊も持たないと書いてあるけど、そんなことはないでしょう」などと語っている。
ただ、首相に就任後は9条改正を打ち出すことはしていない。昨年10月の参院予算委では「私たちは戦後の歩みに胸を張るべきだ。9条において平和主義という理念が確立されていると思っている」と答弁し、慎重な姿勢を示している。
首相が9条の平和主義を守るとしつつ憲法改正への動きを強めることを批判する声もある。古賀誠・元自民党幹事長は今年4月の講演で「右傾化のテンポが早まっている。今やるべきことは、我が国が享受してきた平和主義をしっかり理解して、次の世代に教えることだ」とクギを刺した。
*
<衛藤晟一・首相補佐官> 1990年代後半から中国が著しく台頭し、国際情勢は明らかに変わった。日米安保という核の傘のもとで、米国が日本を無条件に守るという時代は終わり、他人任せにできない状況になっている。そのなかで一番合わなくなったのが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とする憲法前文の規定だろう。多くの国民は前文こそ平和の象徴だと思ってきたが、現実との相違が明らかになってきた。今こそ憲法を改正しないといけない。
■改正手法 「国民投票の機会、閉じ込めてはいけない」
本格的な憲法改正に先立って憲法96条を先行改正し、現在は衆参各院の総議員の3分の2以上が必要な発議要件を過半数に引き下げる――。2011年6月、野党時代の安倍氏は超党派の議員100人超とともに、96条の先行改正を掲げる議員連盟を発足させた。安倍氏は再起を賭けた12年9月の党総裁選でも、主要な訴えの一つとした。
首相は就任後の昨年2月、衆院予算委でその理由を答弁している。「例えば70%の(国民の)方々が憲法を変えたいと思っていても、3分の1をちょっと超える国会議員が反対すれば、指一本触れることができないのはおかしい」
首相は「日本のみが3分の2プラス国民投票だ」とも語り、他国より憲法が改正しにくいと強調。昨年4月の衆院予算委では、同年7月の参院選を意識して「国民投票をする機会を国会に閉じ込めてしまってはいけない。まさに憲法を国民の手に取り戻す」とアピールしていた。
しかし96条改正には、9条改正などに賛同する自民党議員や保守派からも「邪道だ。正規の手続きで改正をめざすべきだ」との批判が相次いだ。特に連立政権を組む公明党からも「手続き論よりも憲法全体の問題をどう考えるかの方が重要だ」(井上義久幹事長)などと反対する声が出た。
参院選直前の4、5月には報道各社の世論調査で軒並み反対が多数を占めた。首相側近は「国民も改憲の権利が自分たちに取り戻せるようになるから、喜ぶと思っていた。正直意外だった」と打ち明ける。
首相も昨年6月の朝日新聞のインタビューで、96条改正について「議論が十分に広く深くなっているかといえば、そうではない」「(賛成が)まだ多数を形成するには至っていない」と認めた。
その後、政権内で96条改正をめざす動きは一気にしぼんだ。ただ12年衆院選と13年参院選では自民党に加え、日本維新の会やみんなの党など憲法改正に積極的な野党が伸長。衆院ではこれらの勢力が3分の2を超え、参院でも3分の2をうかがう状況だ。首相に近い憲法学者は「民主党の改憲派を加えれば潜在的には3分の2を超えた」と語る。
対立が続いていた国民投票法改正案も、与野党7党が提出し、今国会中に成立する見通し。自民党は4月から支持者らを対象に、一昨年にまとめた憲法改正草案を説明する対話集会を開始。まずは支持層から固めようと、今後2年間で全国100カ所を回る方針だ。(池尻和生、渡辺哲哉)
*
<八木秀次・麗沢大教授> 96条の「衆参各院の3分の2以上の賛成」という発議要件は他国と比べてもハードルが高すぎる。その結果、国民が憲法を変える権利を行使する機会を奪っていると言える。96条を改正する意味は、そのハードルを少し下げて、国民の間でもっと憲法のあり方を議論しようということだ。安倍首相は、96条の改正を引っ込めたわけではない。国際秩序の変化や中国の海洋進出などで日本に危機が迫るなか、喫緊の課題として、憲法解釈を変え、集団的自衛権の行使を認めることを優先しているのだろう。
(03面)
解釈改憲、「法の支配」危機 長谷部・杉田両教授の連続対談
安倍晋三首相は将来の憲法改正も視野に政府解釈を変え、集団的自衛権の行使を認めようとしている。特定秘密保護法の成立を機に始めた、長谷部恭男・早稲田大教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)の連続対談は今回、憲法がいま直面する状況などについて、幅広く語り合ってもらった。
■杉田「冷戦的思考、対立あおる」 長谷部「政府の解釈、あやふやに」
杉田敦・法政大教授 集団的自衛権の行使容認など、自衛権をめぐる政府の憲法解釈を変更しようという動きが急です。推進派は、これは憲法問題ではなく安全保障上の政策判断の問題だと強調しています。「このままでは憲法は守れても、国は守れない。それでいいのか」と。どう答えますか。
長谷部恭男・早稲田大教授 憲法を守るか、国を守るかという二者択一的な問題設定自体がおかしい。「国を守る」は単に生命や財産を守ることではありません。憲法が保障する現在の自由で民主的な政治体制を守り、その体制の下で我々の暮らしを守ることこそが「国を守る」ことです。
杉田 相変わらずの冷戦的な思考で議論が進められています。中国への抑止力として、日本が集団的自衛権を行使できるようにし、日米安保体制を強化すべきだと。そういう発想自体が冷戦的な対立構造を再生産し、緊張を高める危険性があることを、あまりにも軽視しています。
長谷部 推進派の方々の議論は、一見すると訳が分からない。日米安全保障条約は日本を守るための条約です。日本は個別的自衛権を行使する。米国は日本を守るために、米国の集団的自衛権を行使する。この条約の枠組みから、どうして日本が集団的自衛権を行使すべきだという話が出てくるのか。理解できません。
杉田 米国は、条約相手国が攻撃されても、助けるかどうかはその都度判断するとしている。だからこそ、普段から米国にいい顔をしていないと「助けない」と判断されかねないと気にしているのでしょう。
長谷部 助けるという判断の支えになるのは駐留米軍だけです。米国は米国人のことは助けるから、付随して我々のことも助けてくれるだろうと。それが、北大西洋条約機構(NATO)加盟国はじめ、米国と相互安全保障の約束をする国の伝統的な考え方です。
杉田 米軍はいわば「人質」だと。ただ逆に、基地が攻撃目標になる面も否定できませんよね。ところで推進派は最近まで、集団的自衛権を行使するために憲法9条を改正すべきだと主張してきたはずですが、突然、政府解釈の変更でできると方針を変え、矛盾があらわになっています。
長谷部 政府はこれまで、(1)集団的自衛権は行使できない(2)この政府解釈は時の政権の政策判断では変えられない(3)行使できるようにするには憲法を改正する必要がある――と言ってきました。今回、この三つを一気に転換しようとしているわけですが、どうしたらそんなことが可能になるのか。非常に不思議です。
杉田 地動説を天動説に変えるようなものだと。
長谷部 いや、太陽系自体が壊れるんじゃないか。政府の憲法解釈というもの全体を、非常にあやふやなものにし、「法の支配」をゆるがせにしかねません。
杉田 そのような批判をかわすためか、55年前の「砂川判決」が唐突に持ち出され、最高裁は必要最小限の集団的自衛権行使は排除していないなどと言い出しています。
■杉田「『集団的』、本来の自衛権と違う」 長谷部「同盟国の関係、友情ではない」
長谷部 砂川判決は日米安保条約の合憲性についての判断です。日本には個別的自衛権は認められる。しかし憲法9条によって持ち得る防衛力には限界があるので、その不足を補うために「平和を愛する」米国と安保条約を結んだ。だから安保条約も米軍の駐留も9条には違反しないのだと。憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」はそういう意味です。安倍首相が言うような「国民の安全、命を他国の人たちの善意に委ねる」ということではありません。
杉田 砂川判決で集団的自衛権行使が認められていたのなら、無理だと主張し続けてきた歴代の自民党政権の判断を全否定することになる。こんなあからさまにおかしな議論を展開している人たちの狙いは何なのでしょう。
長谷部 集団的自衛権の意味の揺らぎに乗じて、憲法解釈を変える突破口を開こうとしているのではないでしょうか。集団的自衛権には、(1)複数の国が、自国の個別的自衛権を共同行使する(2)国際社会の平和と安全を実現するために他国への攻撃に対処する権利――という二つの意味があり、日本は行使できないとされてきたのは(2)です。ところが今、砂川判決は(1)を否定していないのだから、(2)も認められるかのような幻惑がふりまかれている。闘牛の赤いケープと同じで、判決が目くらましの道具に使われています。
杉田 集団的自衛権は、冷戦という文脈の中で育った、極めて不安定な概念です。他国を防衛するのだから本来の自衛権ではない。集団的自衛権と呼ぶことで相互保険のような肯定的イメージを人々に植え付けていますが、実際には、米国や旧ソ連が覇権的な行動を取る際のいわば口実にも使われてきました。
長谷部 集団的自衛権行使の条件は、軍事的な相互協力関係や安保条約を結んでいるかどうかではありません。米国にとって「大事な国」だから、集団的自衛権で助けに行く。それだけのことです。
杉田 そういう集団的自衛権の一方的な性格が一般には理解されていないし、安倍首相らもよくわかっていないのではないか。根本には、日本は安保に「ただ乗り」で肩身が狭いという感覚がありそうです。米国の世界戦略のための基地を提供し、「思いやり」予算まで付けている。その時点で、日本が「ただ飯」を食っているような議論は当たらないと思います。
長谷部 国家の関係を人間関係のように考えすぎなんですよ。国家に友人は存在しない。同盟国か否かだけです。同盟は自国の国益のために結ぶ。国益を無視して、ごちそうし返さなきゃといった「友情論」に還元してはいけません。
■杉田「立憲主義、保守性に期待」 長谷部「ゆっくりみんなで議論を」
杉田 戦後日本が誤った判断に基づいて道を踏み外しそうになった時に、「歯止め」となってきたのが憲法です。一方で、なまじ「歯止め」があるから、いつまでたっても政治的な判断力が身につかないという考え方もある。一部の政治家や学者が主張している、安全保障の問題については憲法の歯止めをはずして、政治過程に委ねるべきだという意見です。
長谷部 歯止めを外すことはありだと思いますが、憲法を改正しないで政府解釈の変更で外してしまったら、世界からおかしな国だと見られてしまいます。
杉田 そうですね。立憲主義の下で憲法をきちんと運用できないと、まっとうな国とはみなされません。ただ、「権力を縛る」という側面だけで立憲主義を捉えるのは、不十分とも思います。選挙を通じて首相となった安倍さんが、我々に代わって権力を行使している。これが国民主権であり、民主政治です。だから単に権力は縛ればいいという話にはなりません。
長谷部 その通りです。「権力を縛る」という意味の立憲主義だけでは、安倍さんの復古主義的改憲を抑えるのは難しい。安倍さん流の憲法観に基づき「理想の国柄」が書き込まれれば、今度はそれが権力を縛るわけで、立憲主義は実現されていると言えなくもない。ですから、立憲主義にはもうひとつ「多様な価値観や世界観の公平な共存を実現する」という意味もあることが、もっと理解されなければなりません。
杉田 立憲主義は、変えることに対する慎重さや熟議、言い方を変えれば保守性に期待するシステムです。ゆえに安倍首相のような決断主義者からすると、守旧的ということになる。
長谷部 変えるなとは誰も言っていません。集団的自衛権の行使を容認するには、憲法を改正しないといけない。改正するなら国民的な議論が必要で、私的諮問機関の議論なんかで変えられたら困ると言っているのです。少なくとも国民全体で大議論をして、その結果、「こう決断をした」というのがないといけない。
杉田 多数決で決める法律とは別に憲法がある。このような二重構造になっているのはなぜか。拙速に流れがちな政治に対して、遅延を狙っているわけです。
長谷部 はい。ゆっくりみんなで考えましょうと。それが立憲主義の最も大切なところです。
(構成 論説委員・高橋純子)
(04面)
集団的自衛権、行使範囲「広げられる」 石破氏、米議員に講演
米国を訪問している自民党の石破茂幹事長は2日(日本時間2日夜)、ワシントンで米上下院の議員や関係者らに講演し、安倍晋三首相が目指す集団的自衛権の行使について「まずは限定した事例からスタートし、さらに広げることができる」と述べ、安全保障環境の変化に合わせて行使の範囲を拡大していく可能性を示した。
首相は行使を必要最小限度に限る「限定容認論」で、行使容認に慎重な公明党を説得する方針だが、石破氏の発言には公明党の反発を招く可能性もある。
参加者から「日本の集団的自衛権は非常に限定的だ。政治的なコストを払ってまでやる価値があるのか」と質問されたのに対し、石破氏は、当初行使の対象とするミサイル防衛や米艦護衛、シーレーンの機雷撤去などの範囲の事例を列挙。そのうえで「スタートはかなり限定される。ただ、『これしかできません』と限定すれば、時代や環境の変化に対応できなくなるケースが出てくる」などと述べた。(ワシントン=三輪さち子)
(04面)
公明参院会長「姑息」 解釈変更で行使容認、批判 集団的自衛権
公明党の魚住裕一郎参院議員会長は2日、名古屋市内での街頭演説で、安倍晋三首相が目指す、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認について「どうして真正面から憲法改正議論をしないで、解釈を変えるという姑息(こそく)なことをやるのか」と批判した。
魚住氏は「どうして一方的に政府だけで憲法解釈が変更できるのか。40年にわたって国会の議論で積み重ねてきた解釈は、国民的な核心に至る憲法規範に匹敵する」と訴えた。同党の山口那津男代表は同日の東京都内での街頭演説で、「なぜ、どのように変えるのかを慎重に議論しながら、国民の理解を求める道筋が重要だ」と述べた。
(04面)
集団的自衛権、各党割れる 憲法記念日で談話・声明
3日の憲法記念日にあたり、与野党は談話や声明を発表した。
自民党は声明で、今国会で国民投票法改正案の成立が確実になったことを踏まえ、「いよいよ憲法改正が現実的なものになる。『改憲か護憲か』という議論でなく、どのように改正するかという段階に入った」と早期改正の必要性を訴えた。
一方、他党は安倍晋三首相が憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使容認をめざす方針について、それぞれの立場を明らかにした。
公明党は「解釈を変えるなら、どんな理由でどう変えるか、国民生活や国際社会にどう影響をもたらすか慎重に議論を尽くし、幅広い国民的な合意を形成することが求められる」との声明を出し、改めて慎重な姿勢を示した。
民主党の海江田万里代表は談話で「時代や状況の変化に伴い、国民が納得する範囲で憲法解釈が変更される余地があることは否定しない」としつつ、「内閣が便宜的、意図的に変更するのは立憲主義、法治主義に反し許されない」と批判。
4月の党見解で解釈変更を認めた日本維新の会の平沼赳夫国会議員団代表は「日米ガイドラインや日米地位協定を見直し、日米同盟をさらに深化させたい」とする談話を出した。みんなの党も浅尾慶一郎代表が談話で「平和主義を実現するため、行使できるようにすることも検討すべきだ」と訴えた。
共産党の山下芳生書記局長は談話で「憲法9条のあからさまな蹂躪(じゅうりん)を解釈変更で行うなど許されない」と主張。生活の党の小沢一郎代表も「閣議決定によって軽々に変更が許されるものではない」と反対姿勢を示した。社民党は「軍事国家、戦争できる国へと針路を誤らせるわけにはいかない」と声明で反対を鮮明にした。
結いの党の江田憲司代表は談話で「一院制や首相公選制を目指す」などとし、集団的自衛権には触れなかった。
(04面)
日中改善、議員に託す 超党派・自民有志、相次ぎ訪問へ
悪化する日中関係を打開しようと、二つの国会議員のグループが近く相次いで訪中する。両政府間のパイプが詰まる中で、議員外交によって関係改善の糸口を探る狙いがある。
超党派の日中友好議員連盟(会長=高村正彦・自民党副総裁)の10人は4~6日に訪中。公明党の北側一雄副代表や民主党の岡田克也元代表らが参加する。7日からは、自民党の議員有志でつくるアジア・アフリカ問題研究会(AA研)の野田毅会長や額賀福志郎元財務相ら6人が3日間の日程で北京入りし、どちらも、中国共産党の要人らと会談する予定だ。
高村、野田、額賀の3氏は4月中旬、首相官邸を訪れた際、首相から「(首脳会談への)環境づくりをして欲しい」と託された。(鯨岡仁)
(06面)
一からわかる立憲主義
憲法をめぐる議論で、しばしば使われるのが「立憲主義」という言葉だ。ふだんはあまり耳にしないが、憲法のもつ意義や価値を考えるうえで欠かせない考え方だ。立憲主義とは何か。一から考える。
■どんな考え方 多数決の乱用防ぎ、人権守る
まず手始めに、何でも思うままに決められる王様のような権力者を想像してみよう。権力者が自分に都合のいい法律をつくって国を治め、裁判の判決も左右できてしまうなら、国民は身の安全すら守れない。
そこで、国のあり方を定める憲法をつくり、権力者にそのルールに従って国を治めさせるのが立憲主義の基本的な考え方だ=イラスト(1)。この「憲法で国家権力を縛る」という考え方を土台にして、時代とともに人々の権利を守る仕組みが付け加えられていった。
例えば、日本国憲法にも定められている「権力(三権)の分立」。権力を行政(政府)、司法(裁判所)、立法(議会)の三つに分けて国家権力を集中させないようにし、だれもが持っている権利「基本的人権」を守る仕組みだ=イラスト(2)。「立憲主義には、こうした人権を守る要素が欠かせない」と、辻村みよ子・明治大教授(比較憲法学)は話す。
でも、例えば今の日本は王様や独裁者が治めているわけではなく、国民が選んだ議員のリーダーが政府を代表する、議会制民主主義の国だ。多数派を代表するリーダーでも憲法で縛る必要はあるのだろうか。
立憲主義はその必要があるという考え方に立つ。国民の過半数が支持しているからといって、どの宗教を信じるかを個人に強制したり、違う意見を持つ人の人権を制限したりしたら、安心して暮らせる社会ではなくなってしまうからだ。
多数決を原則にものごとを決める民主主義だけでは人権が守れないとして、多数決で決めてはいけないことをあらかじめ憲法というルールで明記しておくのが立憲主義の考えだ。
たとえると、憲法は、多数派が数の力で少数派の意見を無視したり、追い詰めたりしようとするのを防ぐルール=イラスト(3)=とも言える。もし個人の人権や思想・信条の自由などが侵害されたら、サッカー選手の反則に対して笛を吹く審判のように、裁判所がストップをかける。過半数の賛成を得てつくられた法律でも、憲法に反していると判断されれば無効にできる制度で「違憲審査制」と呼ばれる。日本では、最高裁判所がこの審判役を果たしている。ただ、ルールである憲法がころころ変わったら、公平、公正な国とは言えない。そのため時の権力者でも憲法は簡単に変えられないよう、普通の法律より改正の手続きが厳しくなっている。これも立憲主義の特徴の一つだ。
阪口正二郎・一橋大教授(憲法学)は「自分が大事だと思う価値観でも、それを多数決で押しつけたら、争いが絶えなくなる。様々な価値観を持った人々が共存するための知恵が立憲主義だ」と話す。(上原佳久)
■なぜ生まれた 権力者の力を抑える
立憲主義の歴史をたどると、中世の欧州にさかのぼる。自由や権利を求めた人々が知恵や経験を積み上げて、形づくられてきた。
源流のひとつに、13世紀の英国でつくられた法典「マグナ・カルタ」(大憲章)がある。王様でも国民から勝手に税金を取り立てたり、逮捕したりできないと定めている。法によって権力者の力を制限する立憲主義の土台となった。
ただマグナ・カルタは基本的人権を保障する内容ではなかった。その後、17世紀の英国に生まれた哲学者ロックは、人は生まれながら平等に権利をもち、その権利を守るために国家をつくったと考えた。18世紀にはフランスの哲学者ルソーが「人民主権(国民主権)」の考えを唱えた。これらの思想が、人は生まれながら平等に権利をもつとする「基本的人権」の思想につながった。
ロックやルソーの思想に影響を受けたのが、18世紀に独立宣言した米国の合衆国憲法と、フランス革命の中でまとめられた人権宣言だ。国民主権や権力分立、基本的人権の保障といった考え方が初めて盛り込まれ、今につながる立憲主義の骨組みが固まった。
20世紀、立憲主義のあり方を問い直すきっかけになったのは、戦前のドイツで権力を握ったナチスの手法だ。選挙に勝って第1党になり、政権に就くと他の政党や反対派を弾圧。当時では最も民主的とされたワイマール憲法を事実上無効にする法律をつくって独裁政治を行った。この教訓から重視されたのが、憲法に違反する法律がつくられないように裁判所などがチェックする「違憲審査制」だ。
人権が制限されていた東欧の旧社会主義国は、1989年に東西冷戦が終わると、新たに定めた憲法に違憲審査制を次々と取り入れた。民主主義と並んで立憲主義を守ろうとする取り組みは、世界的な流れとなっている。(上原佳久)
■日本での歩み 明治時代に芽生える
日本初の近代的な憲法である大日本帝国憲法にも、「憲法で国家権力を縛る」という考え方は盛り込まれている。
憲法制定の中心となり、後に首相となった伊藤博文は1882年、欧州に渡って各国の憲法や立憲主義を学び、手本にしようとした。伊藤は帰国後、「憲法を設くる趣旨は第一、君権(天皇の権利)を制限し、第二、臣民(国民)の権利を保全することにある」と語っている。
ただ、1889年に発布された帝国憲法は国家権力に一定の枠をはめたが、あくまで主権は天皇にあり、人権を守る仕組みも十分ではなかった。
明治時代、民間の人々が立憲主義の精神を学び、独自の憲法草案をつくる動きも活発だった。思想家の植木枝盛は人民主権の考えなどを盛り込んだ草案を作成。東京・多摩地区の教員や農民らが話し合って書き上げた「五日市憲法草案」は、人権の尊重などを訴えた先進的な内容だった。
戦後に制定された日本国憲法は、立憲主義の考えを本格的に踏まえたものとなった。1945年から日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、民主化を進める柱として、日本政府に帝国憲法の改正案をまとめるよう要求。しかし日本側が天皇主権にこだわっていると知ると、GHQでつくった草案を示した。
GHQがその時に評価したと言われるのが、法学者鈴木安蔵らによる憲法研究会案だ。立憲主義の考えに立って国民主権や基本的人権の尊重などを盛り込んでおり、GHQ草案を元に制定された日本国憲法と共通点が多いと指摘される。(渋井玄人)
■自民の改正案 人権尊重に条件
自民党は1955年の結成以来、「現行憲法の自主的改正」を党の目標に掲げてきた。初代総裁に就いた鳩山一郎首相も同年、首相としての所信表明演説で、まず取り組むべき目標に憲法改正を挙げた。
その動きは前身の自由党から始まる。53年、同党を率いた吉田茂首相のもとで、法制局(現在の内閣法制局)が論点を整理。同党憲法調査会を仕切った岸信介は首相就任後の57年、国会で「日本民族の独立、自由の意思からいわゆる自主憲法を制定すべきだ」と述べている。根底には「米国に押しつけられた憲法」との認識がある。
85年に新たな自民党政策綱領をまとめる際、自主憲法制定を党是とする表現をなくす検討もされたが、改憲派の反対で文言は残った。同党で現在、憲法改正推進本部事務局長を務める礒崎陽輔参院議員は「他国の占領軍が作ったものが下敷きになっている。自主憲法ではない」と語る。
ただ、自民党内でも憲法が国民に定着しているとの意見は根強く、本格的な改正案がまとめられたのは2005年と12年だった。12年の党改正案は「日本の国柄を反映する」(礒崎氏)ことに重点を置く。天皇を国家元首と位置づけ、国旗・国歌の尊重や「家族の助け合い」など国民の義務を増やしている。
一方、11条で規定された基本的人権の尊重については「公益や公の秩序に反しない」ことを条件にした。基本的人権を「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果。国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託された」などと規定した97条は11条と重複するとして削除された。
かつて自民党に所属し、05年の改正案づくりに携わった舛添要一・東京都知事は今年2月の記者会見で12年の党改正案に触れ、基本的人権の考え方を否定しているとして「立憲主義という観点から問題がある」と批判した。(田中久稔)
(14面)
(社説)安倍政権と憲法 平和主義の要を壊すな
国会の多数決だけで、憲法を改めることはできない。
憲法を改正するには、衆参両院の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票で過半数の承認を得なければならない。憲法96条が定める手続きだ。
安倍首相は昨春、この手続きを緩めようとして断念した。
時の政権の意向だけで憲法が変えられては、権力にしばりをかける立憲主義が侵される。こう気づいた多くの国民が、反対の声を上げたからだ。
安倍首相は、今年は違うやり方で、再び憲法に手をつけようとしている。
条文はいじらない。かわりに9条の解釈を変更する閣議決定によって、「行使できない」としてきた集団的自衛権を使えるようにするという。これだと国会の議決さえ必要ない。
その結果どうなるか。日本国憲法の平和主義は形としては残っても、その魂が奪われることになるのは明らかだ。
■本質は他国の防衛
政権内ではこんな議論がされている。集団的自衛権の行使は日本周辺で「わが国の存立を全うする」ための必要最小限に限る。それは59年の砂川事件の最高裁判決も認めている――。いわゆる「限定容認論」だ。
しばしば例示されるのは、日本近海での米艦防護だ。首相らは日本を守るため警戒中の米艦が襲われた時、自衛隊が救えなくていいのかと問う。それでは日米同盟は終わる、とも。
しかし、これは日本の個別的自衛権や警察権で対応できるとの見解が政府内外に根強い。
ことさら集団的自衛権という憲法の問題にしなくても、解決できるということだ。日本の個別的自衛権を認めたに過ぎない砂川判決を、ねじ曲げて援用する必要もない。
仮に集団的自衛権の行使を認めれば、どんなに必要最小限だといっても、これまでの政策から百八十度の転換となる。
集団的自衛権の本質は、他国の防衛という点にある。アリの一穴は必ず広がる。「日本が攻撃された時だけ武力を行使する」という以上に明確な歯止めを設けることは困難だ。
自民党の憲法改正草案は、自衛隊を集団的自衛権も行使できる「国防軍」にするという。安倍政権がやろうとしていることは、憲法を変えずにこれを実現しようというに等しい。
政府が方針を決め、与党協議だけで実質的な改憲をしてしまおうという乱暴さ。なぜ、こんなことがまかり通ろうとしているのか。
■行政府への抑止なく
真っ先に目につくのは国会の無力だ。論争によって問題点を明らかにし、世論を喚起する。この役割が果たせていない。
対立する政党の質問にまともに答えようとしない首相。それを許してしまう野党の弱さは、目を覆うばかりだ。
自民党内にあった慎重論も、内閣改造や党人事がちらついたのか、またたく間にしぼんだ。
立法府から行政府への監視や抑止がまるで利かない現状。そのうえ、憲法の歯止めがなくなればどうなるか。米国の軍事政策に追従し続けてきた日本だ。米国の要請に押され自衛隊の活動が「必要最小限」を超えるのは想像に難くない。
03年のイラク戦争で、小泉首相はブッシュ大統領の開戦の決断を支持し、自衛隊を復興支援に派遣した。小泉氏の理屈は「米国支持が国益にかなう」の一点張り。情勢を客観的に判断する姿勢は見えなかった。
安倍首相は国家安全保障会議を発足させた。だが、議事録は公開されず、特定秘密保護法によって自衛隊を動かす政策決定過程は闇に閉ざされそうだ。
こんな体制のもと、第二のイラク戦争への参加を求められたら、政府は正しい判断を下せるのか。国会や国民がそれを止めることができるのか。
■憲法を取り上げるな
「自衛隊員に出動命令を出すからには、一人でも多くの国民の理解を得たい」。政権の中からはこんな声が聞こえる。
集団的自衛権の行使をどうしても認めたいというのならば、とるべき道はひとつしかない。そのための憲法改正案を示し、衆参両院の3分の2の賛成と国民投票での過半数の承認を得ることだ。
北朝鮮の核開発や中国の軍備増強などで、東アジアの安全保障環境は厳しくなっている。いまの議論が、日本の安全を確実にしたいという思いからきていることはわかる。
ならば一足飛びに憲法にふれるのでなく、個々の案件に必要な法整備は何かという点から議論を重ねるべきではないか。
仮に政策的、軍事的合理性があったとしても、解釈変更で憲法をねじ曲げていいという理由にはならない。
いまの政権のやり方は、首相が唱える「憲法を国民の手に取り戻す」どころか、「憲法を国民から取り上げる」ことにほかならない。
(14面)
(声)憲法特集:下 「砂川事件」通じ憲法が身近に
大学生 北川躍(東京都 20)
最近、集団的自衛権、婚外子問題など様々な観点から憲法が注目されている。しかし、注目の大きさに対して、断固とした意見を持つ人が少ないように思う。それは、憲法という存在を身近に感じられていないのが一因だと思うのだが、そんな私に憲法を身近に感じさせる出来事があった。
自民党の高村正彦副総裁の発言で砂川判決が注目を浴びたことは、東京都立川市砂川町に住む私にとって特別な話題であった。私は米軍基地拡張をめぐる砂川事件の概要は知っていたが、憲法的にどのような意味を持つのか詳しく知らなかった。調べていくと、憲法的な知識以外にもたくさん得られるものがあった。1千人以上の負傷者を出しながらも住民たちは基地拡張のための強制測量に反対したこと、最高裁の判決前に日米間で司法の独立を揺るがすやりとりがあったこと。
胸にこみ上げるものがあった。砂川闘争をした方々と、いま砂川町に住む私との間に、60年近い時を超えて通じ合えるものがあるように感じたのだ。
憲法記念日を一人ひとりが憲法に向き合うきっかけにしたい。一人ひとりが考えてこそ、平和憲法をいかに生かすべきかの議論が深まると思う。
(14面)
(声)憲法特集:下 一方的な押しつけではない
会社役員 清水敬治(東京都 66)
憲法改正を目指す安倍晋三首相は、いまの憲法が連合国軍総司令部(GHQ)から占領下に押しつけられたという立場で、自主憲法制定を主張する。
GHQの意向で、憲法施行日が1946年5月3日に開廷した東京裁判の1周年にあたる日になった経緯もあるという。ただ、忘れてはならないのは「押しつけ論」に配慮したマッカーサー元帥は、憲法を施行2年以内に自由に改正できる権限を日本政府に与えていたことである。これを受けて、国会や民間に憲法改正の検討会が設置された。しかし、様々な検討がなされた結果、日本政府は改正の意思がないことを表明し、自主的判断によって現在の憲法を受け入れた。一方的な押しつけではなかったのである。
安倍首相は現憲法について「絶対に変えられない不磨の大典ではない」とも述べている。しかし、不磨の大典としない扱いは、憲法の骨格をなす主権在民、基本的人権の尊重、平和主義に反しない限りにおいてのみ許容されるだろう。まして解釈変更で9条を骨抜きにするなど到底許されるものではない。
(14面)
(声)憲法特集:下 沖縄から「初原の命」示し続ける
大学客員教授 真栄里泰山(沖縄県 69)
「憲法手帳」は沖縄が本土復帰した1972年5月15日に沖縄県憲法普及協議会が発行し、版を重ねている。当時の那覇市長の平良良松さんが初版に書いた言葉がある。
「平和憲法体制への復帰を要求した私たちに、本土政府が復帰対策として、真っ先に提示したのが、反憲法体制の象徴ともいうべき、自衛隊配備であった。私たちは、これに対し、反戦平和、県民福祉、市民生活の細部と結びついた憲法精神を対置して、憲法の命をよみがえらせなければならない。つまり、憲法の初原の命を、本土へさしむけるのである」
最近の政府の動きは、戦後日本の国際公約でもある平和主義を忘れ、ますます憲法から遊離している。それだけに沖縄は「憲法の初原の命」を本土にさし示し続けていきたい。それは、あの無謀な戦争で命を失った多くの「英霊」たちの声でもあるはずだ。
我ら皆 9条となりて この国を 見守りており 忘るべからず
(14面)
(声)憲法特集:下 中学生と公民教科書を読んで
主婦 瀬戸口和代(大阪府 62)
私は中学校の元社会科教員で、先日、近所の中学生から「憲法9条って何ですか」と質問された。彼女が持っている「公民」の教科書を開き、日本国憲法9条を2人で読んだ。そしてこの憲法は、どのような人たちによって、どのようにしてつくられていったのかを彼女に教えた。憲法の三原則は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義。本当に素晴らしい憲法なのだと改めて感じた。
しかし昨年12月、特定秘密保護法が成立した。安倍政権は集団的自衛権の行使容認を目指す。そんな中、特定秘密保護法の廃止・撤廃を求める意見書を地方議会が続々と可決。私の地元の市議会でも可決し、ほっとした気持ちになった。この法律に私も疑問を抱いていたからだ。
将来を担う子どもたちの幸福のため、どんな取り組みも慎重に進めてもらいたい。国でも地方でも憲法の理念に基づき、全ての人たちのための政治が行われることを望む。
(14面)
(声)憲法特集:下 平和こそが人類普遍の真理
無職 清水有(三重県 76)
昨年、東日本大震災後の福島県を訪れた際、廃虚となったJR富岡駅舎の跡に立った。たちどころに、あの先の戦争の空襲後の焼け野原が脳裏によみがえった。
敗戦後の数年、物資窮乏の日々であった。とりわけ育ち盛りの私には、飢餓が耐えられなかった。その中で、学校は戦後の民主主義の時代を迎え、私たちは「あたらしい憲法のはなし」を学んだ。
戦後69年近く、日本国民は戦争をせず、今日の平和と繁栄を得てきている。にもかかわらず、安倍内閣は集団的自衛権の行使容認や武器輸出の解禁など、右傾化を加速させているように感じる。
しかし、何があろうと私たち日本国民は、平和憲法のもと、戦争はしてはならない。今後もずっと、戦争に加担して世界の人を一人として殺してはならないし、私たち日本人も殺されてはならない。平和こそ人類普遍の真理、正義である。今こそ平和憲法を世界に輝かせようではないか。
(15面)
(寄稿)今この国はどこにあるのか 作家・小林信彦
今年のゴールデン・ウィークは、戦後もっとも暗いゴールデン・ウィークだと、私は感じている。
安倍首相が列強国の一つになりたいと焦っている。テレビにうつる顔で、そう思えるからだ。現在の憲法の制約が外されれば、集団的自衛権の行使も一内閣の閣議決定によって強引に押し通せる。国民の声を聞く必要などない。
これを〈疑似戦時体制〉というのだが、私は文字通り、〈戦時体制〉の中で育った。生れたのが一九三二年(昭和七年)だから、一九四五年の敗戦まで、幼少時、ずっと戦争の中にいた。敗戦は一九四五年の夏で、このとき、私は中学一年生だったから、生れてから〈戦時体制〉しか知らなかったともいえる。
そういう時代の小学生の生活がどういうものかを少し記す。
国技館(今の国技館ではなく丸い屋根のころだ)で菊人形の大会があった。菊人形を若い人は知らないだろうから説明すると、武士の人形などを菊でおおい、場内が黄菊一色で、その中をゆっくり見学するという見世物である。
満州事変が始まったのが、私の生れる前の年だから、昭和十年代は日中戦争一色。私は小学校二、三年だったと思うが、オトナにつれられて両国橋を渡り、国技館へ行った。
広い場内は日本の英雄・武士の菊人形がびっしり置かれていた。歩いてゆくうちに、動物が唸(うな)り声をあげているような気配が足元でする。気持が悪いので床を見ると、死にかけている中国兵が倒れて、ゼイゼイ息をしている。ごていねいに、これも菊人形であって、全身が上下していた。おそらく電気で動かしているのだろう。
ショックを受けたので、今でも覚えているのだが、いくらなんでもやり過ぎだろうと思った。日中戦争の中で、この〈死にかけた中国兵〉は刺戟(しげき)が強すぎる。〈戦時体制〉というのは、たとえばこういうものである。
太平洋戦争が始まると、靖国神社につれて行かれた。私の学校からは電車ですぐなのである。
商人の子供である私は単純に戦争は勝っている(という風に新聞・ラジオで宣伝されていた)と思っていたので、神社の中に入って、びっくりした。
左側に横長の海が作られており、アメリカの軍艦がヒョコヒョコ現れては、爆破され、海に沈んでゆく。神社の中が混んでいるので、人々が進まず、そのあいだ小学生たちは幼稚な海戦を眺める仕組みになっている。すでに映画の円谷(つぶらや)特撮を見ている私にはもの足りないどころか、どうしてこんなチープな見世物を作ったのだろうと考えた。
しかし、〈戦時体制〉の中にあっては、こうしたものも受け入れなくてはならない。ねじれたアメリカの飛行機の本物も、道の反対側に置いてあったと記憶する。中国から運んできたのだろう。
■ ■
敗戦(〈終戦〉ではない)のとき、私は日本の男はすべて去勢され、女はすべてレイプされるといわれ、信じていた。
私の敗戦が一向にドラマティックでないのは、盲腸をこじらせて寝ていたことと、敗戦が発表された時期による。戦時中でも夏休みはあるので、夏休みに入ったのは〈本土決戦〉の直前であり、夏休みが終ったときは〈敗戦直後〉であった。特殊爆弾というものは原子爆弾であり、疎開した新潟県では長岡市だけが焼き払われていた。
ラジオも新聞も、中一の私たちに「嘘(うそ)をついてすまない」とは言わなかった。学校へ行っても、教師は何も言わない。そのうちに米軍が進駐してきて、中学のある現・上越市に居すわった。米軍について怒りを覚えることはなかった。新しい憲法について、文化国家、平和国家をめざすという点も全く同感で、それは今でも変っていない。
その後のことは、孫崎享氏の「戦後史の正体 1945―2012」(創元社)にくわしい。氏の描く戦後史は私の記憶する戦後史とほぼ重なっている。
戦後の日本外交は、米国に対する「自主」路線と「追随」路線の戦いでした――と氏はまず記す。
わかり易いことである。孫崎氏はイラン大使のときに、油田開発をめぐって、ハタミ大統領の訪日にこぎつけた。しかし、イランと敵対関係にあった米国は日本側に圧力をかけ、日本側は開発権を放棄することになった。
この本は元CIA長官のW・E・コルビーが第二次大戦後にイタリアで行なった裏工作を記すと同時に、日本でもCIAが(一九五〇年代から六〇年代にかけて)自民党や民社党の政治家に巨額の資金を提供していたことが米国側の公文書によって明らかにされた事実を記している。そして、米国のやり方は六〇年安保までにだいたい出ているので、あとはその「応用編」に過ぎないとして、孫崎氏は実例をならべる。米国側にもライシャワー大使のようなユニークで優秀な人もいた。「沖縄返還」のきっかけを作ったのもライシャワー大使で、ロバート・ケネディを通じて、ケネディ大統領と協議をしていたのである。
情けないことに「沖縄返還」に気をつかっていたのは米国側であり、佐藤栄作首相は「大変に慎重で」……「岸信介なども非常に慎重でした」と書かれている。さらに、ケネディ大統領の暗殺で、大統領はジョンソンに代り、ライシャワーの動きは大使辞任後も続いた。
■ ■
池田首相とライシャワー大使の時代が日本の経済成長の黄金期だが、私自身は経済的余裕がまったくなく、小説と雑文書きに専念していた。外の世界は東京オリンピックのために忙しく動いていた。オリンピックの工事や渇水などのために、水道が時間給水になり、水を売る人間がきたのもこのころである。
ふた付きのバケツの水一杯が百円したと思う。我が家は赤ん坊がいたので、粉ミルク用の水は給水時間に湯沸かしにとっておき、親子の入浴のために風呂の水をためて沸かせるようにしておいた。おことわりしておくが、四谷三丁目――外苑のすぐ近くでのことだ。
家々には国旗がくばられ、町のあちこちに〈オリンピックはテレビで見よう〉という看板が立てられた。いま、ラジオを聞いていると、東京でオリンピックが行われれば、じかに観(み)られると考えている中年以上の無邪気な人々が多いようだが、オリンピックはテレビでしか観られなかったのである。もっとも、四谷三丁目にいた時のことを思えば、周辺では、テレビ局、新聞社、ほかのヘリコプターによって、テレビの画面はぼやけ、うつらなくなっていた。六年後に、かりに東京でオリンピックが実施されるとしても、〈新たに作られた近未来的な建造物〉に充(み)たされることは間違いない。しかし、それで〈オリンピックは見られる〉だろうか。
私がずっと、二度目の東京オリンピックに反対してきたのは、以上のような体験からである。私のような保守的な人間は「二度と街殺しをすべきではない」と、生れながらの東京の人間の叫びをくりかえすしかない。
■ ■
安倍政権が〈列強国〉になりたいと願うことから、東京でのオリンピックなどという騒がしいものが出てくる。すべては〈列強国〉になりたいという希望からだ。もちろん、こうした希望は自民党のみのものではない。民主党がみっともない政治(?)をダラダラと演じたので、自民党支持でもない国民が〈経済の安定〉を望み、こうした状態になったと考えてよいだろう。
今の政権の〈列強国〉入り志望を大ざっぱに述べれば――
1 国防軍保持義務のために、憲法第9条を変える。
2 特定秘密保護法を作り、他国の軍隊と協力して海外でも戦争ができるようにする。
3 ODA(途上国援助)の軍事使用を緩和する。
4 集団的自衛権を行使するために、戦争反対の声を抑えるようにし、憲法に基本的人権の抑制を入れ、徴兵制の導入につながるようにする。
5 原発と核燃料処理サイクルによるプルトニウム保有で、未来の核武装にそなえる。
経済から戦争が望まれるようになるのは、アメリカの例を見ればすぐわかる。軍事ビジネスの方向に進むために、安倍首相は異様なほど、テレビの画面に笑顔をさらす。テレビ局は、そのために力をそそがねばならない。
男の子、若者を家庭に持つ人々は、彼らを戦場に送るのを避けなければならない。戦場に送られるのは、幼い私が見たように、彼らなのである。
以上のことを防ぐ前に、原発を止めるのが必要である。東京オリンピック招致のプレゼンテーションで、安倍首相は福島の汚染水はコントロールされていると大うそをついた。そして、日本中の原発再稼働と原発の海外輸出を本気で考えている。
経済産業省の役人も平気でエネルギー基本計画強化の方針を決めた。東京電力は国から助けられながら、二〇一三年度の中間決算を黒字と発表した。そして、今後の除染費用を国に負担させ、柏崎刈羽原発の再稼働を持ち出した。
――ヒロシマ、ナガサキのあと、日本人がもろに被曝(ひばく)したのは一九五四年の第五福竜丸事件だった。この事件は当時の吉田政権をゆるがし、米国への批判が噴出した。
日米で問題を収めようとした動きはあったが、しかし、反核の声は一九五四年以来つづいたものである。福島の原発事故でその声はいっそう高くなったが、ともすると、ないがしろにされることがないとはいえない。
*
こばやしのぶひこ 81歳 1932年、東京・日本橋生まれ。生家は老舗の和菓子店。幼いころから落語や映画に親しむ。
45年3月の東京大空襲で生家が焼失。2度目の疎開先だった新潟県で終戦を迎える。
早稲田大学文学部英文科卒。サラリーマン生活を経て翻訳推理小説雑誌「ヒッチコック・マガジン」の編集長に。その後、アメリカのバラエティー番組も参考に、テレビの放送作家として活躍した。
70年前後から作家活動に専念。代表作に「うらなり」(菊池寛賞)、「東京少年」「日本橋バビロン」「流される」など。
映画や大衆芸能の評論でも知られ、著書に「日本の喜劇人」「天才伝説横山やすし」「黒澤明という時代」などがある。
近年は週刊誌の連載コラムで、日本の右傾化や原発問題などを批判している。
(38面)
改憲や憲法解釈「国民的議論を」 寺田最高裁長官
最高裁の寺田逸郎(いつろう)長官が3日の憲法記念日を前に記者会見した。憲法改正や集団的自衛権をめぐる憲法解釈の議論について、「憲法は国の最高法規であり、国民的な議論に委ねられるべき課題だと考えている」と述べた。ただ、「具体的な事件を離れて、憲法のありようについて申し上げるのは控えたい」として、詳しい言及はしなかった。
施行から5年となる裁判員制度については、「支えてくれる市民の方々への働きかけを強める必要がある」と述べ、参加意識を高めるために改めて制度の周知を強める方針を示した。
最高裁が20歳以上の約2千人を対象に行った今年1月の意識調査では、「裁判にあまり参加したくない」「義務であっても参加したくない」と答えた人が85・2%にのぼっている。
寺田長官は「重く受け止めないといけない数字」とする一方、裁判員を経験した人の大半が別の調査で「いい経験だった」と答えている点に言及。「経験した方と、まだ経験していない方との意識のギャップを埋めるのが私たちの責任だ」と述べた。
排除の理由
(排除の理由:1)
Japanese Only「お断り」ここにも (4/28)
◇「みる・きく・はなす」はいま
キックオフの2時間前。酒に酔った30代の男たちが、1階通路に集まっていた。3月8日午後2時すぎ、快晴の埼玉スタジアム。Jリーグ浦和レッズのサポーター集団「ウラワボーイズ・スネーク」の3人だ。本拠地開幕戦だった。
縦70センチ、横2・5メートルの白い布と、スプレー缶を持ち込んでいた。コンクリートの床に敷き、黒い文字で、英語を吹き付けた。
《JAPANESE ONLY》
午後4時前。ゴール裏の観客席は、浦和のユニホームを着た熱心なサポーターで、真っ赤に染まっていた。席の出入り口に、3人はつくったばかりの横断幕を掲げた。隣には、日の丸が掲げられていた。
■ ■
「同じ言葉だ」
6日後、東京都内の高校3年金居弘樹さん(18)は新聞の写真に目を奪われた。3人の横断幕で、浦和に無観客試合の処分が下されたと報じていた。
3カ月ほど前、浅草で「Japanese Only」を目にしていた。
クリスマスの日。アメリカ留学時に親友となった米国人男性(25)に、東京を案内していた。日本びいきで3度目の来日。皇居、浅草寺、仲見世通り……。お昼どき、友は「天丼が食べたい」と英語で言った。
老舗(しにせ)の天ぷら屋へ。寒空の下、5分ほど並び、店に入ろうとした時、友がささやいた。「どういうことだ」。視線の先には引き戸に貼られたA4ほどの紙。「Japanese Only」と書かれていた。
「やめたほうがいいかな」。悲しげな友の表情。ショックで、何と返事したのか、覚えていない。入らずに帰宅して、思った。
「オリンピックを開く東京が、これでいいのか」
記者が店を訪ねてみると、観光客の列の先に、その貼り紙はあった。
「忙しい時だけ。差別のつもりはないよ」
閉店後、片付け中の店主に声をかけた。白い調理服姿で店の外へ出てくれた。
「貼り始めたのは、だいぶ前」「はっきり言って中国人だよ。団体客に困ってたんだ」「土足で畳に上ったり、勝手に2階に上がったり。衛生面で営業停止になったら困るのはうちだ。誰が責任をとってくれるんだい」。早口で話した。
貼り紙に気づいた人から「不適切ではないか」と電話で注意も受けたという。
「こっちの立場にもなってほしいよ」。そう言い、一枚の紙を記者に見せた。
《Japanese Language Only》
「日本人だけ」が「日本語だけ」になった。
「これからは、これ貼るから。もういいだろ」
店の奥へ引き返した。
■ ■
元私立大教員の有道出人(あるどうでびと)さん(49)=米ハワイ州在住=は10年以上、日本での人種差別を研究してきた。米国出身。2000年に日本国籍を得ている。
「Japanese Only」「Foreigners are not allowed」。北海道のパチンコ店、群馬のパブ、愛知のクラブ、大阪の不動産屋、広島のバー、沖縄のカラオケ店……。いたる場で、「外国人お断り」を意味する看板や案内を確認した。その数、50以上。
「あちこちにあるこの言葉が、どれだけの外国人を傷つけているか。想像したことはありますか?」
◆「みる・きく・はなす」はいま
意に沿わぬものを一方的な論理で排除する動きがある。摩擦を恐れて見て見ぬふり。上の意向を過度に忖度(そんたく)する。そうした態度が、排除を助長する。朝日新聞阪神支局で1987年5月3日、記者2人が死傷した事件を機に始めた企画の第39部。押し流される社会が行き着く先は――。(この連載は計6回の予定で、次回から社会面に掲載します)
(35面につづく)
(排除の理由:2)
原発、隠す・言わせず (4/29)
◇「みる・きく・はなす」はいま
原子力規制委員会のホームページを見ていた山田清彦さん(57)=青森県三沢市=は、目を疑った。
「なんで真っ黒なんだ」
隣の六ケ所村に、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出すための再処理施設がある。真っ黒になっていたのは、この施設を運営する日本原燃が1月に国に出した審査申請書。配置図の中のすべての建物の名称が、塗りつぶされていた。
記者が3月中旬、東京・六本木にある規制委の資料閲覧室で過去6回分の申請書を調べると、確かに配置図はすべて黒塗りにされていた。分厚い書類の中で、配置図のページだけが真新しい。あとで差し替えられたのは明らかだった。
原子力規制庁に聞くと、差し替えられたのは昨年夏ごろのようだ。特定秘密保護法にまつわる議論が始まっていた。国会での説明は「原発の設計図は保護の対象ではない」けれど、「原発警備の状況は対象」だった。法の可決・成立後もなお、対象範囲は不透明だ。
25年間、公開資料から事業を監視してきた山田さん。「秘密法を先取りして、恣意(しい)的な情報隠しが始まった。私が集めてきた情報も『特定秘密』にされ、罪に問われるのだろうか」
指摘された規制庁と原燃は今月、黒塗りをやめた。
■ ■
福島県二本松市の主婦佐々木るりさん(41)は、安倍晋三首相の登場を待っていた。昨年7月、福島市のJR福島駅前でのことだ。
参院選公示日の街頭演説。「総理、質問です。原発廃炉に賛成?反対?」。そう書いたボードを抱えていた。目に留めて何か言ってくれるかも。気づくと、複数の男性に囲まれていた。「質問する場ではない」。ボードは持ち去られ、住所や名前を何度も聞かれた。怖くなり、自分の車に逃げ込んだ。涙があふれ、しばらく運転できなかった。
男性らのうちの1人は自民党衆院議員の秘書だった。「総裁が来る場で、混乱を避けたかっただけ」
佐々木さんは携帯電話でとっさに撮っていたやりとりの動画を、ユーチューブに投稿した。「表現の自由の弾圧だ」と、全国から反響がある一方、地元では「総理に文句を言いに行った」「政治団体に入った」と奇妙なうわさが流れた。
それでも、また機会があればボードを掲げようと思う。「私は純粋に質問したいだけ。勇気を持って発信しないと、強い人の色に染まってしまう」
■ ■
大阪市内のある中学校に今年3月、手紙が届いた。「授業に活(い)かせる放射線教育研修会」。会場は大阪府内の私立大で、実施は夏。主催者名には大学と共に、「関西原子力懇談会(関原懇〈かんげんこん〉)」と記されていた。
昨年の参加者によると、1泊2日で20人ほどが参加した。原子炉を見学して放射線を学び、授業でどう教えるかを話し合う。交通費が支給され、宿泊費や食費もいらない。主催側の大学の教授は「関原懇が負担している」と言った。
事務局は大阪市のビルの一室にある。担当の女性は「正しく放射線をこわがることを、まずは教員の方々に知ってもらうための研修です」。東京電力福島第一原発事故後の2012年夏、中学教員向けに開始。近畿と福井の中学校へ手紙を送り、参加者を募った。
ホームページによると会長は京大の名誉教授。会員企業や事業費、会の規約、電力会社との関係を尋ねた。女性は「任意団体のため明かせません」。だがその後の取材で、関原懇会長は12年1月まで関西電力の副社長が務め、この女性を含め職員の一部も関電からの出向とわかった。
「あるかどうか分からない」と言われた規約は、市民団体の国への情報公開請求で判明した。「原子力の開発と利用の推進に寄与することを目的とする」
関電は大飯、高浜両原発の再稼働を目指している。
(排除の理由:3)
特攻、伝わらぬ実像 (4/30)
◇「みる・きく・はなす」はいま
鹿児島県南九州市知覧(ちらん)。
第2次大戦末期、飛行機ごと敵艦に突入する「特攻作戦」の基地があった。跡地には知覧特攻平和会館が立ち、若い隊員の遺影と遺書で埋めつくされている。
「自分にはできないことをしたすごい人たち」。福岡市の男子大学生(21)は会館で思いを強めた。映画「永遠の0(ゼロ)」がきっかけだった。家族を思い、生還を願う腕利きパイロットが、最後は特攻隊員となる物語だ。「遺書は達筆すぎて、読めたのは『一撃必沈』ぐらい」。でも「国を守ろうという使命感を感じた」。
1975年の開館以来、1700万人が訪れた。特攻関連の映画があると、若い来館者が増えるという。
会館から約1キロ。街の中心部を流れる麓川(ふもとがわ)沿いに、「富屋食堂」と書かれた民間の資料館がある。隊員たちが通った店を移築した。
「全体主義の国家は最後には敗れる」「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます」。隊員が憲兵や上官の目を盗み、軍に渡した遺書とは別に、食堂の女将(おかみ)鳥浜トメさんらに託した手紙だ。鳥浜さんの孫で館長の明久さん(53)は「平和会館だけでは伝わらぬ姿を伝えたい」と話す。
■ ■
特攻隊員を遠縁に持つ福島昂(たかし)さん(78)は「記憶が風化し、断片的なエピソードを切り張りした美化が広がっている」と心配する。「原点」と考える遺書は傷みが激しく、2011年、南九州市に、世界記憶遺産への登録を勧めた。市は翌年、準備会を設立。アドバイスを求めた有識者の一人からこう指摘された。
「これまで平和会館が伝えてきた『物語』では、世界に誤解を与える」と。
館内の語り部は、隊員が「命をかけて家族や祖国を守ろうとした」と話す。だが特攻隊員として、九州の別の基地にいた倉掛喜一(よしかず)さん(91)=福岡市=は「志願じゃない。強制ですよ」と訴える。隊員に選ばれ、失神する仲間たち。逃げだして憲兵に捕まり、自殺した人もいたという。「逃げても地獄、突っ込んでも地獄。これが特攻ですよ」
有識者も海外から「美化」ととられぬよう、「当時の実態がわかる説明が不可欠だ」と訴え続けた。
市の担当者は「何が『美化』なのかよくわからなかった」と振り返る。来館者は、涙を流して遺書を読んでいる。戦争を繰り返すなというメッセージは、伝わっているではないか――。
市が運営する平和会館は「なるべく解説をしない展示」を心がけてきた。勝ち目はうすいと知っての無謀な作戦と強調すれば、「無意味な死なのか」と遺族や関係者が反発するかもしれない。右翼団体の街宣車が会館前に来て、構成員が軍服のような姿で行進したこともあった。実態に触れることは、極力避けてきた。
市は有識者に「国内で政治問題になる。むずかしい」と答えた。会館の展示にも、記憶遺産の登録申請書にも、有識者の訴えは、反映されなかった。
懸念は当たった。市が今年2月、ユネスコに登録申請すると、中国や韓国が「軍国主義の美化」などと反発した。
英国BBCやエコノミスト誌、豪州のテレビ局なども批判的に報じた。
■ ■
知覧を知る右翼団体「全日本愛国者団体会議」の矢野隆三議長(62)は「特攻隊員は究極の愛国者。その精神を海外は理解できない」と、記憶遺産への登録には否定的だ。一方で、「特攻は愚かな大将が始めた、二度と繰り返してはならない作戦。負の側面を隠す方がおかしい」とも話す。
「海外の誤解を解きたい」。南九州市の霜出勘平(しもいでかんぺい)市長は、批判も覚悟のうえで、「若い隊員たちの苦悩や葛藤が伝わるよう展示を見直す」と語る。「志願」の強制も含めた当時の実態を知るには、生き残った元隊員への聞きとりが必要だが、高齢化で一刻を争う。
「遺書だけ見ればわかってもらえる、という考えは通じないんですね……」
(排除の理由:4)
ナチズム語る若者 (5/1)
◇「みる・きく・はなす」はいま
拡声機を持つ軍服姿の若者の後に、40人ほどが続く。日の丸やナチスのシンボル「かぎ十字」の旗が翻った。「大日本帝国とナチス・ドイツの名誉を取り戻すぞー」。4月20日、日曜の昼下がり。東京・池袋の繁華街に大声が響く。中国や韓国の排除を訴えるスローガンも叫ばれた。
125年前に、ヒトラーが生まれた日だった。
デモの前に、主催した23歳の青年に会った。「我々が声を上げて、反韓、反中は世の中に浸透した。今度はナチズムを前面に出したい」。都内の高校を卒業して食品工場で働き、月給は十数万円。実家で暮らす。
高校生の時、人間関係のせいで部活動をやめた。ネットの掲示板を見る時間が増え、政治団体を知った。デモに加わり、自分の居場所を見つけた。
南京大虐殺はなかった、日本は欧米に占領されていたアジアを解放した――。活動で知り合った大人たちから聞く話は、掲示板にも転がっていた。「日本がまずいことをしたという話はでっち上げだとわかった」
ナチス・ドイツによるホロコースト(大量虐殺)ではユダヤ人ら約600万人が犠牲になったとされる。その迫害はどう思うのか。
「ユダヤ人に脅かされているドイツ人の生活を取り戻し、純血を守るための隔離だったと思う。『アンネの日記』だって、本人が全部書いたのかどうか」
■ ■
大量虐殺は虚構、アンネの日記は偽物。こんな説が今、ネット上にあふれる。
「日記はアンネ・フランク自身が書いたものではない。許せない」。3月、「アンネの日記」などを破ったとして器物損壊容疑で逮捕された30代の男は、警視庁にそう話したという。
東京都内では昨年2月以降、少女アンネの顔が描かれたページなどが破られた本が、各地の図書館で次々に見つかった。計38図書館で計約310冊に上る。
「眠れなくなるほど面白いヒトラーの真実」(日本文芸社)。昨年末、出版された本だ。ヒトラーとナチスの良い面にあえて光を当てる、と前書きにあるが、「ホロコースト」の文字は見当たらない。ローソンの全国約8千店舗に並んだものの、「事実と違い誤解を招く」と批判を受け、1カ月後に販売中止になった。
社会不安のたびに浮上する「ユダヤ陰謀論」。大阪大の赤尾光春助教(ユダヤ文化研究)は今回の特徴を「ネットを介し、在日韓国・朝鮮人や中国人の排斥と、ナチズムが結びついた例がある点だ」と話す。「政治経済で中韓の存在感が強まる中、日本は戦時中の行為を巡って批判されている。それを脅威と感じる心のあり方が根底にある」
■ ■
岐阜県八百津(やおつ)町は「日本のシンドラー」と呼ばれる外交官杉原千畝(ちうね)氏の出身地。第2次大戦中、リトアニアの領事館で、国の方針に反して大量にビザを発給し、ユダヤ難民を救った。
町を一望できる丘に立つ杉原氏の記念館で、ハニト・リバーモアさん(45)に会った。18年前に同じイスラエル人の夫と移住。迫害やその教訓を語ってきた。
「今の若者はユダヤ迫害の重みを感じていないから、ナチスを軽く肯定してしまうのでしょう」。フランスやドイツでは、公共の場でかぎ十字などを掲げること自体、違法だ。「日本の洋服店で、かぎ十字がプリントされたTシャツが売られているのを見た時は、怖さを感じました」。日本生まれの長男(15)が「ユダヤ人は、金持ちだから迫害されたと聞いた」と漏らしたのもショックだった。
第2次大戦前のドイツでは、ユダヤ人商店に向けた不買運動などの嫌がらせが、ドイツ人との結婚禁止などの法制化につながり、ホロコーストに至った。
「重い歴史を知ることは、痛みを伴います。今はデモだけの日本も、それを避けたままならば、中国人や韓国人への迫害へと、エスカレートする恐れはないでしょうか」
(排除の理由:5)
言論、すくむ自治体 (5/2)
◇「みる・きく・はなす」はいま
「これが本音か」。千曲(ちくま)市九条の会(長野県)の小池渡(わたる)さん(71)は思った。1月中旬、市の担当者から届いたファクスの冒頭に、こう記されていたからだ。
〈市長と立場の違う講演内容とならないようにしていただきたい〉
講演会の後援を、市に依頼していた。後援があると、公共施設で告知できるなどの利点がある。主題は自民党の憲法改正草案。数日前に担当者から「一筆書いてもらえないか」と言われていた。ファクスには冒頭の言葉に加え、「一筆」の例として「憲法改正反対や特定秘密保護法廃止を取り上げた内容にならないようにします」とあった。受け入れられず、断った。
後援は不承認。行政の「中立性」が保てない恐れがある、と判断された。原発や沖縄など、テーマは違えど、市は毎年、後援していた。2012年11月に就任した岡田昭雄市長は「改憲草案は、これから議論されるもの。反対の立場だけの後援は不公平になる」、ファクスを送った担当者は「市長の指示でなく、部内で判断した」と話した。
千葉県白井市は先月、行事の後援を拒む基準を「政治的色彩、宗教的色彩を有するもの」に見直した。それまでは「色彩」ではなく「目的」だった。東京都墨田区などをまねた。市の担当者は「申請内容を個々に吟味するには、幅広い言葉がいい」と説明する。
市は2月上旬にあった「しろい・九条の会」の護憲講演会を後援。市議の一人から議会でこれを批判された。「見直しは以前から考えてきたが、議会の件も契機の一つ」と認める。会の奥山和代共同代表(61)は、今後の後援許可が「難しくなるだろう」と話す。
■ ■
昨年6月、山形市。山形県生涯学習センター「遊学館」は、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が開く講演会の利用申し込みを断った。在特会は在日韓国・朝鮮人に、「在日は帰れ」などのヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)を繰り返すデモで知られる。反対派と殴り合ったなどとして、逮捕者を出していた。
センターは管理要綱のうち、「集団的又(また)は常習的に暴力行為又は不法行為を行うおそれがある団体の利益になると認められる場合」などにあたると判断。利用を申し込んだ在特会の支部に「不許可」を伝えた。50件以上の抗議があった。
「同じ建物には図書館も入っている。反対者との間で騒ぎになれば、利用者に迷惑がかかる可能性があった。判断は今も変わらない」。センターを運営する県生涯学習文化財団の松田洋一専務理事は説明する。
「騒ぎが起きたデモと支部は関係ない。言論、集会の自由は、誰にでも保障されているはずだ」。在特会支部の男性(30)は取材に、憤りを隠さなかった。
センターには、不許可とした経緯を尋ねる電話が全国の自治体から相次ぐ。
■ ■
日曜日の3月16日午後、東京・池袋の豊島公会堂で、在特会の集会が開かれていた。公会堂は豊島区が所有する。集会前、区には「人種差別の団体に使わせるな」と20件以上の抗議があり、区は参考となる司法判断を調べた。
07年、右翼団体の街宣活動を予想し、在日朝鮮人らの歌劇団の会場使用を認めなかった仙台市に対し、仙台地裁と高裁が「公演は憲法で保障された行為」などとして処分を取り消していた。「差し迫った危険」の有無が争点となっていた。
豊島区は結局「住民に『差し迫った危険』があるとは言えない」と使用を認める一方、警察と警備を協議。当日、一部の道路は封鎖され、公会堂周辺で多くの警察官が目を光らせた。
「朝鮮人をたたき出せ!」。集会後のデモで、在特会側の参加者が叫んだ。「レイシスト(人種差別主義者)どもは消えろっ」。抗議団体との間で怒号が飛び交い、警官隊ともつれ合う。その様子を買い物客らが不安げに見つめていた。
(排除の理由:6)
圧力恐れず報じ続ける 強まる政治からの干渉 (5/3)
◇「みる・きく・はなす」はいま
異例の出来事だった。
東京・渋谷のNHK放送センター本館。4月22日午後、経営方針を決める経営委員会で、それは起きた。
2日後に退任する上滝賢二理事が、涙で声を詰まらせた。「おわび番組で言明したことを実行するとともに、職員と対話して距離を縮めてほしい」
進言を受けたのは籾井(もみい)勝人会長だ。1月の就任会見で「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」「(特定秘密保護法は)通っちゃったんで言ってもしょうがない」と発言。先月のテレビ番組で「私の個人的見解を放送に反映させることは断じてない」と謝罪、弁明した。
選挙で特定の候補を支援した経営委員の言動なども問題になり、報道機関として、政治との距離が問われていた。一方で、風圧も、確実に強まっていた。
「勤務している外国人職員の人数をお聞きしたい」。昨年12月、衆院総務委員会で三宅博議員(日本維新の会)が質問。同局のドキュメンタリー番組などを「日本に対して大きな敵意を感じる」と批判した。
その後の予算委で籾井会長が22人と明らかにし、「募集時には国籍は不問」と答えると、三宅氏は言った。「中国の密命を帯びた工作員も一部いるんじゃないかな、というふうに私は想像しているんですよ」
三宅氏は取材に「中国、韓国、北朝鮮の側に立って制作しているように見える番組があった。外国人職員の影響でそうなったのか、疑問を感じた」と言った。
■ ■
「読者の知る権利に応える報道を続けよう」。2月末、那覇市の琉球新報社。松元剛編集局次長は局内の会議で語った。同社には同月24日付で防衛省から、申入書が届いていた。
2月23日、防衛省が南西諸島で計画している陸上自衛隊の警備部隊の配備候補地として沖縄・石垣島の2カ所を挙げ、「最終調整に入っている」と報じた。石垣市長選の告示日だった。
配備に慎重な前職に有利になる、との見方が現職を推す自民党に広がった。小野寺五典防衛相は「事実に反する報道が、このタイミングでなされるのはいかがなものか」と批判した。
防衛省からの書面は、日本新聞協会(東京)にも届いた。「慎重かつ適切な報道を強く要望」していた。個々の報道内容について、国が新聞協会に申し入れをするのは極めて珍しい。
同協会は自主的な業界団体で、加盟社を指導監督する役割はない。3月、「申し入れを受け入れる立場にはない」とする文書を防衛省に送った。小野寺防衛相は先月、国会で、現時点での候補地決定を否定した。
米軍普天間飛行場の県内移設が浮上して18年。沖縄のメディアは反対する報道を続けてきた。3年前には、琉球新報社が防衛省幹部のオフレコでの問題発言をいち早く報道。この幹部が更迭された。同社の松元局次長は申し入れを受け、現場の記者に「今まで通りの報道を」と呼びかけた。
沖縄タイムスも、申し入れをきっかけに先月、連載記事「新聞と権力」を掲載。普天間の移設先とされる名護市辺野古での取材・報道をめぐり、防衛省から幹部懇談への参加を禁止された経緯などを伝えた。武富和彦編集局長は局内報にこう書いた。「これまで通り権力監視は続けていく」
■ ■
NHKの現場には不安感も広がる。「理事の涙」を伝え聞いた職員の一人は、公共放送を担う矜持(きょうじ)を感じながらも、「巨大な力が踏みにじろうとしている、と驚き、恐れた」と言う。
別の職員は局内の雰囲気をこう語る。「ここ数年、制作の現場では上の意向を忖度(そんたく)したり、萎縮したりする空気が覆っている」。上層部に認められにくいだろう内容は、企画の段階で外すこともある。「重苦しい空気に立ち向かわなければ、と話し合っている」
今年に入り、局内の会議で籾井氏らの一連の言動が話題になった。「現場も誤解されかねない。こういうことでは困る」。職員の訴えに、幹部はこう答えた。
「これまで通りの取材、報道をしていく。ことさら忖度しないで、仕事を進めていくことが大事だ」
=おわり
(憲法を考える:中)草案に宿る「素人」の志
「占領軍の素人が数日間でつくり、押しつけた憲法」。改憲を求める人々は、現行憲法をこう批判する。だが、「素人」が国のかたちを決める法に関わってはいけないのだろうか。憲法の源(みなもと)をたどると、普遍的な理念や体験に根ざした理想を憲法に盛り込もうとした、普通の人たちの姿が浮かび上がる。
東京・五反田。哲学者の東浩紀(あずまひろき)(42)が主宰する喫茶店「ゲンロンカフェ」で3日夜、憲法記念日に合わせてイベントが開かれた。東は参加者に語りかけた。
「国民が国家を憲法で縛るのが立憲主義なら、言葉は分かりやすくなければ。憲法学者のような専門家の手を借りずに国のかたちを考えたい」
東は2011年、自民党が憲法改正草案の準備を進めていると聞き、「自分たちも憲法をつくろう」と呼びかけた。社会学者やIT企業幹部らと「憲法2・0」をまとめ、翌12年7月に発表。経済のグローバル化やIT社会を意識し、外国人の政治参加やネットを通じて国民の意見を国会に反映する規定を入れた。
「アマチュアリズムを生かし、憲法の意味を問い直したい」。そう語る東が触発されたのは「五日市憲法草案」だ。自由民権や憲法制定運動が盛り上がった明治前期、東京・西多摩の教師や商人ら数十人が欧米の憲法や人権思想を学ぶ勉強会で討論を重ね、まとめられた「私擬(しぎ)憲法」だ。こうした草案が当時各地で100以上つくられた。
草案は46年前、東京経済大教授だった色川大吉(88)と学生らが東京都あきる野市の土蔵で見つけた。基本的人権の尊重や言論・信教の自由などが204カ条にわたり、和紙24枚にしたためられていた。発見に立ち会った専修大教授の新井勝紘(かつひろ)(69)は「白熱した討論で民の知恵が凝縮され、草案が生まれた。私たちが戦争という遠回りを経て手にした憲法と共通するものがある」と話す。
最近、五日市憲法草案の意義を語った人物がいる。
美智子皇后陛下は昨年10月、79歳の誕生日に際し報道各社の質問に答えた文書で、草案を展示する五日市郷土館(同市)を視察した際の思いに触れた。
「近代日本の黎明期(れいめいき)に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした」=敬称略(佐藤達弥、田井中雅人)
(3面に続く)
(1面から続く)
(憲法を考える)日本を信じ理想盛り込む
2012年1月。天皇皇后両陛下は、五日市郷土館(東京都あきる野市)を視察した。
展示を説明した市職員の関谷学(56)は、美智子皇后から「何歳くらいの人たちが活動していたのですか」と問われた。「20、30代の青年が中心です」と答えると、皇后は黙って何度もうなずいたという。
皇后は昨年10月の誕生日に出した文書で、憲法にまつわる人との交流にも触れた。12年に死去したベアテ・シロタ・ゴードン。皇后は「日本における女性の人権の尊重を新憲法に反映させた」と功績をたたえた。
ベアテはユダヤ人で、1923年にオーストリア・ウィーンで生まれた。5歳の時に東京音楽学校教授に就いた父や母と来日し、15歳まで日本で暮らした。戦時中は米国の大学にいたが、戦後日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の民政局に入り、再び来日。当時は22歳だったが、25人のGHQ草案作成委員の1人として男女平等の実現に力を注いだ。
女性の権利にこだわったのは、多感な時期に日本の女性の姿を見聞きしたからだ。「おめかけさん」と同居する妻、親に売られる娘、親の決めた相手と結婚する女性……。ベアテは自伝で「日本女性の味方は私一人しかいない」と、当時の心境を振り返っている。
しかし、ベアテらが短期間でまとめたGHQ草案をもとにつくられた現行憲法を「押しつけ」と批判する声も多い。首相の安倍晋三は昨年4月5日の衆院予算委員会でこう主張した。
「25人の委員が、全くの素人が選ばれて、たったの8日間でつくられた。そういう事実をちゃんと見ながら、自分たちで真の独立国家をつくっていく気概を持つべきだ」
外国の「素人」が関わった今の憲法には価値はないのか。ベアテの娘で米国在住の弁護士、ニコル・ゴードン(59)は安倍の言葉に反論する。「母は確かに、私のように法律の知識はない『素人』だった。けれど母は日本の女性がどれだけ苦しんでいるのかを、よく理解していた」
ベアテの自伝は米国ではいったん廃刊となったが、シカゴ大学出版が今月3日に新装版を刊行。日本の戦後史研究で知られ、自伝に序文を寄せた歴史学者のジョン・ダワー(75)は彼女が新憲法をつくるキーパーソンの1人だったと語る。
日本側は当時、女性の権利条項の削除を求めた。これに対しベアテは男女平等の理念を新憲法に盛り込むよう強く主張。その考えは「婚姻は両性の合意のみに基いて成立」「法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定」などと規定した24条に生かされた。
「彼女がいなかったら日本の憲法に24条はなかっただろう」。ダワーはベアテが残したものを「理想主義」と表現する。
「当時は多くの人々が日本が民主主義国になれると信じていなかった。だがベアテは日本人を信頼していた。この理想主義が、合衆国憲法にも書かれていない女性の権利を保障する進歩的な憲法を生んだ」=敬称略(佐藤達弥、田井中雅人)