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折々の記 2014 ⑤
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】04/27~
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【 07 】06/03
06 03 天安門事件から25年
老生が田中緑ヶ丘中学校長の依頼を受け、英語教師のアシスタントとして二年生副担任を務めていた。 それからもう25年が経っていた。
1989年6月4日、天安門事件が起きたのである。 「この事件は非常に大事なことだから、記憶しておくように」と生徒に語った。
いまも中国は同じような路線上にあり、その中枢部幹部は国内治安にバタバタして躍起になっています。
歴史の歩みを大雑把に検索し取り上げてみる。
天安門事件から25年
・(消される言葉 天安門事件から25年:5)民主化求める戦い、続く(2014/06/03)
・ 天安門から25年「自由ない」 元リーダーが東京で講演(6/2)
・ 民主化や自由求めて行進 香港・東京でデモ 天安門事件25年(6/2)
・ 中国、言論の規制強化 ネットの摘発拡大 天安門事件25年(2014/06/02)
・(消される言葉 天安門事件から25年:4)校舎崩落、遺族の声圧殺(2014/06/02)
・(消される言葉 天安門事件から25年:3)学問の自由縛る「七不講」(2014/06/01)
・(消される言葉 天安門事件から25年:2)裁判官、党の要求拒み解職(2014/05/31)
・ 中国、活動家を拘束 天安門事件25年を前に引き締めか(2014/05/30)
・ 米下院、中国の人権状況の非難決議を採択 天安門事件から25年(2014/05/30)
・(消される言葉 天安門事件から25年:1)中国ネット弾圧、中3拘束(2014/05/30)
・(消される言葉 天安門事件から25年)「微博」の自由、せめぎ合い(2014/05/30)
・ 中国、改革派の記者拘留 天安門事件25年へ統制強化か(2014/05/08)
・ 中国、女性記者が不明 天安門事件から25年控え拘束か(2014/05/01)
・(社説)台湾学生運動 中国に響け、自由の声(2014/04/12)
・ 台湾学生運動―中国に響け、自由の声(2014/04/12)
(2014/06/03)
(消される言葉 天安門事件から25年:5)民主化求める戦い、続く
「悲劇を断ち切らなければならない」
4月、北京の法廷で元教師の趙常青氏(45)は静かに語り始めた。
「1989年に戦車や銃の前に倒れた人々に比べたら、私が払った犠牲など何でもない。民主と自由と人権と法治が、中国では今もあこがれの対象でしかないことを私は恥じている」
すぐに裁判官は趙氏の言葉を遮った。1歳の息子を抱いて傍聴席にいた妻(37)が夫の言葉を聞いていた。親類や友人の傍聴は認められず、大半の席を埋めたのは当局関係者のようだった。退屈そうに裁判を眺め、居眠りしたり、持ち込み禁止の携帯電話で話したりする人もいた。
裁判所は結局、「公共の秩序を乱した罪」で懲役2年6カ月の実刑判決を言い渡した。
趙氏は昨年3月、北京の繁華街で公務員の資産公開を求める横断幕を掲げ、翌4月に拘束された。言論や集会の自由など憲法が認める権利を実現していこうという「新公民運動」。急速な広がりを警戒した習近平(シーチンピン)政権による弾圧の始まりだった。
趙氏は自宅から連行される時、穏やかな笑みをたたえて「懲役刑を受けたら離婚してくれ。体を大切に。この子には君しかいないのだから」と言い残した。
共産党に正面から挑むのではなく、憲法をよりどころに変革を迫る。ゲリラ的に横断幕を掲げ、その様子をネットで公開するという新たな運動のきっかけを作ったのが、趙氏だった。
■新公民運動広がる
2011年、中東に広がった「アラブの春」を受け、中国で呼びかけられた「茉莉花(ジャスミン)革命」を当局が徹底的に弾圧。中国で民主化を求める運動がことごとく挫折する中、趙氏は「語ることをやめてはいけない」と、志を同じくする数人の仲間に小さな食事会を発案した。
集まるのは、毎月最後の土曜の夜、市内の山東料理店。事前に連絡を取り合う必要がなく、当局に察知されるのを防ぐためだ。
当局の動きは早かった。「ほどほどにするよう旦那に言っておけ」。長男を身ごもったばかりだった妻は、自宅に現れた当局者の警告を覚えている。
だが、食事会は民主派の知識人を引きつけ、「新公民運動」という名称と方向性が定まった。地方政府の不当な扱いを訴えに上京した陳情者らがその方式を地元に持ち帰り、運動は拡大。水面下で広がった取り組みは、公務員の資産公開要求という形で各都市で噴き出し政権を慌てさせた。
■「悲劇繰り返さぬ」
原点は25年前にさかのぼる。親しい知人によると、89年6月4日、趙氏は西安から北京行きの列車に飛び乗りじりじりする思いで車窓を見つめていた。地方大学の学生組織の幹部として4月から天安門広場にいたが、新たな学生を呼び寄せるため西安に戻った直後、「軍が発砲した」と聞かされた。
北京に着いてすぐに逮捕され、4カ月余り服役した。出所後、陝西省で高校教師になり、97年に党の推薦を受けずに地元の議会選挙に出馬。公約に民主化を訴え、国家政権転覆扇動罪で懲役3年の実刑判決を受けた。02年にも民主化を求める書簡を公開して同罪で懲役5年。今回の判決が確定すれば服役は4度目だ。
法廷で訴えは遮られたが趙氏は民主化にこだわる理由を弁護士に託していた。
「この政治体制が続く限り、私の子も民主と自由を求めて戦い、刑務所に送られるかも知れない。戦車にひき殺されるかもしれない。それは中国の全ての家庭に潜む悲劇だ。我々の子が私のような人生を送らずに済むようにしたいだけなのです」(北京=林望)
(2014/06/02)
天安門から25年「自由ない」 元リーダーが東京で講演
中国・北京で民主化を求める学生らを当局が武力制圧した天安門事件から4日で25年になるのを前に、香港で1日、事件の犠牲者を追悼する民主派団体によるデモがあり、約3千人(主催者発表)が参加した。デモ隊は「(中国共産党の)一党独裁を終わらせよ」などと声を上げながら、中心市街を行進した。
また、東京都内では同日、民主派団体「民主中国フォーラム」がシンポジウムを開いた。当時の学生リーダーの一人で、事件後は台湾に逃れたウアルカイシ氏(46)は「25年たったいまも中国に自由はない。これからも民主化を求める活動を止めてはいけない」と訴えた。
シンポの後、在日中国人ら約60人が「天安門事件を決して忘れない」などと書かれた横断幕を手に、JR池袋駅周辺をデモ行進した。「我々に自由を」「独裁反対」などとシュプレヒコールを上げた。(鬼原民幸)
(2014/06/02)
民主化や自由求めて行進 香港・東京でデモ 天安門事件25年
中国・北京で民主化を求める学生らを当局が武力制圧した天安門事件から4日で25年になるのを前に、香港で1日、事件の犠牲者を追悼する民主派団体によるデモがあり、約3千人(主催者発表)が参加した。デモ隊は「(中国共産党の)一党独裁を終わらせよ」などと声を上げながら、中心市街を行進した。
また、東京都内では同日、民主派団体「民主中国フォーラム」がシンポジウムを開いた。当時の学生リーダーの一人で、事件後は台湾に逃れたウアルカイシ氏(46)は「いまも中国に自由はない。民主化を求める活動を止めてはいけない」と訴えた。
シンポの後、在日中国人ら約60人が「天安門事件を決して忘れない」などと書かれた横断幕を手に、JR池袋駅周辺をデモ行進した。「我々に自由を」「独裁反対」などとシュプレヒコールを上げた。 (鬼原民幸)
(2014/06/02)
中国、言論の規制強化 ネットの摘発拡大 天安門事件25年
中国公安当局は政治的な集会などへの取り締まりを強めるため、刑法の「故意に騒動を引き起こした罪」の解釈を拡大し、ネット空間を「公共の空間」として取り締まる方針に切り替えた模様だ。天安門事件から25年の節目が迫る中、著名弁護士らが摘発された事件でも新たな方針が適用されたとみられる。
北京市公安当局は5月初旬、天安門事件をテーマにした私的な集会に参加したとして、著名弁護士の浦志強氏(49)ら5人を相次ぎ同罪で刑事拘留した。
刑事拘留は中国の刑事手続きの一つで、容疑が固まれば正式逮捕に至る。
同罪は「公共の場所で騒動を引き起こし秩序を乱した」場合などに適用され、懲役5年以下の刑を科す。
集会は先月3日、拘留されたメンバーの一人の自宅で開かれ、写真がネットや一部の海外メディアに掲載された。
自宅は「公共の場所」ではない。だが、北京の人権活動家によると、市公安当局者は昨年4月、自宅で集会を開いた芸術家を連行。その際、「どこで行っても、写真などをネットに公開すれば公共の秩序を乱したとみなす」と警告した。
解釈の拡大は党や公安省を通じて全国で行われ、浦氏らのケースにも当てはめられたとみられる。
関係者によると、先月3日の集会を企画したメンバーは、天安門事件の20周年を控えた5年前にも市内の飲食店で集会を開催。ネットで写真を掲載するなどしたが、当局の摘発や警告などもなかった。
今年は慎重を期して自宅で開いたにもかかわらず参加者が拘束され、2年前に始動した習近平(シーチンピン)指導部の厳しい弾圧姿勢の表れとの受け止めが広がっている。
習政権は、民主や人権などの欧米式の「普遍的価値」の浸透に警戒を強める。情報を広げ、活動家らをつなぐネット空間の引き締めに余念がない。
関係者の証言やメディア報道などを総合すると、今春以降、一時的な拘束後に釈放された例を含め、摘発された改革派の知識人や活動家は全国で100人を超える模様だ。
政治制度改革の必要を唱える中国の研究者は「天安門事件から25年を迎える節目に世界各地で呼びかけられている抗議活動に、国内の改革派が呼応することに当局は神経をとがらせている」と話す。(北京=林望)
(2014/06/02)
(消される言葉 天安門事件から25年:4)校舎崩落、遺族の声圧殺
中国四川省都江堰市に住む主婦、趙徳琴さん(50)は5月12日朝、工芸店などが入る郊外の真新しい4階建てのビル「文化芸術広場」を訪れた。ビルは数百人の警官に取り囲まれていた。死者を弔う爆竹を握って近づくと、警官に両腕をつかまれ、引きずられるようにして連れ去られた。
2008年の5月12日、約9万人の死者・行方不明者を出した四川大地震が起きた。ビルの場所にあった聚源中学校の校舎も崩落。15歳だった双子の娘、キキさんと佳佳さんを通わせていた趙さんは、校舎で娘の名前を叫びながら素手でがれきを掘った。同校では生徒ら約300人が死亡。がれきの下から趙さんの2人の娘も遺体で見つかった。
アニメが大好きだった娘たちの夢は、服飾デザイナーと客室乗務員になることだった。趙さんは毎年、追悼しようとここを訪ねるが、当局は許さない。「静かに娘たちをしのぶことが、なぜいけないのか」
校舎は、細い鉄筋や崩れやすいセメントが使われ、悪質な手抜き工事だった。各地の学校も軒並み倒れ、約6千人の子供が死亡したとされる。手抜き工事は役人の腐敗とも関係し、子供が犠牲になったことで民衆の怒りは大きかった。政府に批判が向きかねず、当局は沈静化に躍起になる。
各地の遺族は校舎建設に不正があったとして責任追及を始めたが、地元当局は何も動かなかった。
一方、当局は遺族に死者1人あたり約6万~約10万元(約100万~165万円)の見舞金などを提示し、一部の遺族に建設工事の仕事を与えるなど懐柔策を進めた。聚源中では大半の遺族が抗議運動から手を引き、抗議を続けるのは数十家族となってしまった。
趙さんらは、倒壊の責任などを追及する行政訴訟を起こそうと弁護士に相談したが、「検察や裁判所に、提訴を受理しないよう内部通達が出ている」として、引き受けてくれなかった。
中央政府に陳情しようと一昨年、北京に向かった。しかし、北京のホテルで都江堰市の当局者が待ち構えていた。趙さんは脇腹を殴られ、当局が用意したバスで自宅に戻された。
今でも駅で身分証を見せて切符を買うと、別室に連れて行かれ、駅員に目的地を問われる。地元で重要会議や国家指導者の視察があると、当局者が自宅の外で趙さんを見張るという。
事件から半年後、国内メディアは手抜き工事をほとんど報じなくなった。党宣伝部が国内メディア向けに独自取材を禁じたリストに「四川大地震の校舎倒壊問題」が含まれていたことが取材で分かった。
遺族の声を圧殺しようとする当局の姿勢に、趙さんは無力感を抱く。「娘を失った親がなぜ犯罪者扱いされるのか。政府にも、裁判所にも、メディアにも、私たちの声は届かない」(都江堰=小山謙太郎)
(2014/06/01)
(消される言葉 天安門事件から25年:3)学問の自由縛る「七不講」
昨年5月初旬、法曹界に人材を輩出する上海の華東政法大学の教員だった張雪忠さん(37)は、定例会議のため約50人の同僚と会議室に集まった。すると大学の幹部が、授業で取り上げてはならないことを列挙し始めた。
「(人権などの)普遍的価値」「報道の自由」「(欧米式の)市民社会」「共産党の歴史的な過ち」「司法の独立」……
張さんは「当局がこれだけはっきり禁止事項を明らかにするなんて」と驚いた。「七不講(七つの語るべからず)」と呼ばれる指示で、昨年春、党中央から各地の大学に出されたとされる。中国政府はこれまで、「中国には報道の自由がある」「中国には中国式の民主がある」などと主張してきた。張さんは「政府の主張が建前なのはみんな知っている。しかし、現政権はその建前さえもかなぐり捨ててしまった」と感じた。
張さんは翌日午前、一般市民の反応を知りたくて、自宅のパソコンを使って中国版ツイッター「微博」に七不講の内容を書き込んだ。1~2時間で約5千回転送されるなど反響が広がった。その日夜、「微博」のアカウントが使えなくなった。
張さんは江西省で、商売人の父と看護師の母の間に生まれた。重慶の大学で法律を学び、2000年に弁護士資格を取った。華東政法大学では01年から民法や商法を教え、学生にもわかりやすい語り口で人気だった。
■習政権から強化
習近平(シーチンピン)指導部が発足した12年11月の党大会後、学内の言論の引き締めが強まってきたという。「憲法に基づく政治の実現」といった当たり前のことを言っても、批判にさらされる。大学のホームページやネット上の掲示板の監視も強まり、問題のある書き込みがすぐに削除される。授業で外部から講師を招く場合、党の担当者らが事前に入念に審査してから可否を判断するようになった。
張さんが担当する教科は、七不講の指示に触れるような内容ではなかったため、授業に特段の支障はなかったが、教員の間で不満の声が高まった。しかし、学内はそれを大っぴらに言える雰囲気ではなかった。
■「独創性育たない」
張さんは昨年6月、憲法をないがしろにしている政権を批判する論文をネット上で発表した。この論文が大学で問題となり、大学側は翌月から張さんに授業をさせず、主張の誤りを認めるよう求めた。自説を撤回しなかったため、昨年末で教員の身分を失った。張さんは、大学で言動が厳しく制限されている現状に危機感を募らせる。
「教員でさえ自由に語ることができないような教育から、独創性のある若者が生まれるだろうか」 (上海=金順姫)
天安門事件
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6>
六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)とは、1989年6月4日に、同年4月の胡耀邦の死をきっかけとして、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力弾圧(市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺した[1][2]との報告がある)し、多数の死傷者を出した事件である。
略した通称は六四、また中華人民共和国内の検索エンジンにて「六四天安門事件」というキーワードを検索すると接続不可能になることから、「5月35日(5月31日+4日)」、VIIV(ローマ数字の64)や、「82(8の2乗を表す言葉で、答えが64=6月4日)」などを[3][4]、隠語として使うことがある。
目次 [非表示]
01 解説
02 事件概要
02.1 「百花斉放・百家争鳴」
02.2 胡耀邦死去
02.3 四・二六社説
02.4 デモの拡大
02.5 ゴルバチョフ訪中
02.6 戒厳令布告
02.7 報道管制
02.8 武力弾圧
03 死傷者
04 国内における反応
04.1 批判
04.2 中国共産党による隠匿工作
05 世界各国の反応
05.1 香港の反応
05.2 西側諸国の反応
05.3 東側各国と一党独裁国、その他の国々の反応
以下省略
06 指名手配された21名の中心人物
07 劉暁波のノーベル平和賞受賞
08 国外への影響
09 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
01 解説
この出来事は、抗議者からの異議を寛大に取り扱っていた胡耀邦の死がきっかけとなった[5]。胡耀邦の葬儀までに、10万人の人々が天安門広場に集まった[6]。抗議運動自体は、胡耀邦の死の4月15日から続いていた。統一がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声[7]に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた中国中の都市に波及していった。1989年6月の初頭、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して実弾を発射し、天安門前を一掃した。ニューヨーク・タイムズのニコラス・クリストフは「正確な死亡者数は、おそらくは分かっていないだろう。そして、数千の人間が証拠を残すことなく殺されたかもしれない。しかし、今現在入手できる証拠に基づけば、400人から800人の民間人と一緒に、およそ50人の兵士と警官も殺されたことは確かなようだ」という[8]。
衝突のあと、中国当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、自国の周辺でのほかの抗議も厳重に取り締まり、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。天安門広場に集まった抗議者たちに対して公然と同情した総書記の趙紫陽(当時)は総書記ほか全役職を解任されて一党員となり、自宅軟禁下に置かれた。
通常、「天安門事件」という場合はこの事件を指す。中国においては1976年4月5日に周恩来が死去したときに発生した四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別して「第二次天安門事件」とも呼ばれる。
抗議者に対する中国共産党政府による武力弾圧に対しては、広範な国際的非難が集まった[7]。犠牲者の数は後述のように諸説あり、正確な数字は分かっていない。
02 事件概要
02.1 「百花斉放・百家争鳴」
1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが、共産党による一党独裁制が続く中で言論の弾圧や思想、信条の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み硬直化した同国を立て直すために「ペレストロイカ」を表明して同国の民主化を進めるなか、同じく1949年の建国以来長年共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、1986年5月に中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し、国民からは「開明的指導者」として支持を集めた。
これに対して鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発した。同年9月に行われた六中全会では、国民からの支持を受けて胡が押し進めようとした政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は長老グループや李鵬らの保守派の批判の矢面にさらされた。
12月に北京他地方都市で学生デモが発生すると保革の対立は激化し、胡は1987年1月16日の政治局拡大会議で鄧小平ら党内の長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚した。同月には胡の後任として改革派ながら穏健派と目された趙紫陽が総書記代行に就任、同年11月の第13期1中全会で総書記に選出された。趙には経済・政治の両改革のいずれにも反自由化の影響が及ばないよう指示を出したが、鄧小平が1988年夏から始めた公定価格制度の廃止が物価上昇を招き、提起者の趙紫陽は経済の主導権を保守派の李鵬らに渡すことになる。
02.2 胡耀邦死去
胡は失脚後も政治局委員の地位にとどまったが、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、1989年4月8日の政治局会議に出席中心筋梗塞で倒れ、4月15日に死去した。
胡が中国の民主化に積極的であったことから、翌16日には中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた集会を行った。
これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌18日には北京の複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内でデモを行ったのち、民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で座り込みのストライキを始めた。同時に別のグループが中国共産党本部や党要人の邸宅などがある中南海の正門である新華門に集まり、警備隊と小競り合いを起こした。
翌19日には北京市党委員会の機関紙である『北京日報』が批判的に報じたが、4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が天安門広場において民主化を求めるデモを行うなど、急激に規模を拡大していった。翌22日にはデモ隊に「保守派の中心人物の1人」と目された李鵬首相との面会を求めた声明を出すと、文化大革命期に学生たちに痛い目に遭わせられていた八大長老たちはこれを「動乱」として強硬に対処することで一致した。同日午前10時、人民大会堂で胡耀邦同志追悼大会が開催された。
02.3 四・二六社説
学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも広がっていったが、全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場でカンパを集め始めたころからである。西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生した。
趙紫陽は田紀雲らの忠告にもかかわらず、「国外に動揺を見せられない」として北朝鮮への公式訪問を予定通り行うことを決め、李鵬に「追悼会は終わったので学生デモを終わらせる、すぐに授業に戻すこと、暴力、破壊行為には厳しく対応すること、学生たちと各階層で対話を行うこと」とする3項目意見を託した。しかし、出国してすぐの4月25日、李鵬や李錫銘北京市党委書記、陳希同北京市長ら保守派が事実を誇張した報告を受け、鄧小平の談話を下地に中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」で発表され、続いて翌日の4月26日付の人民日報1面トップに、「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説(四・二六社説)が掲載された。
北朝鮮訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけたことで学生たちの反感を買い、趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。
上海市の週刊誌である『世界経済導報』は胡耀邦の追悼をテーマとした座談会を開き、その中で参加者が胡の解任を批判したり名誉回復を要求する発言を報じた。校正刷りの段階で内容を把握した上海市は、党委員会書記(当時)の江沢民が宣伝担当の曽慶紅市党委副書記と陳至立市党委宣伝部長に命じ、問題の箇所を削除するよう命令を出した。社長である欽本立はこの要求を拒否したため、同紙は発行停止となった。前出の四・二六社説発表後に市の党幹部1万人を集めて勉強会を開いた対応と共に評価され、江沢民が党総書記に選ばれる要因となった。
中国共産党は人民日報やテレビなどの国営メディアを使って事態を沈静化するように国民に呼びかけたものの、『世界経済導報』事件などもあって活動は逆に拡大をみせ、中国共産党は学生だけでなくジャーナリストの反感をも買った。
4月29日午後に、袁木国務院報道官、何東昌国家教育委員会副主任と北京市の幹部が高校生と会見した。李鵬から四・二六社説を擁護するよう指示を受けていた袁木は党内に腐敗があることを認めたものの、「大多数の党幹部はすばらしい」と述べ、『世界経済導報』事件があった直後にもかかわらず「検閲制度など無い」と否定し、「デモは一部の黒幕に操られている」と高姿勢を続けた。この模様が夜に放送されると、学生は抗議デモに繰り出した。
02.4 デモの拡大
趙紫陽は4月30日に北朝鮮から帰国し、翌5月1日の常務委員会で秩序の回復と政治改革のどちらを優先させるかで李鵬と対立したが、5月4日の五・四運動70周年記念日までにデモを素早く抑えることで一致した。
五・四運動の70周年記念日である前日5月3日に開かれた式典では、北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。学生運動終息に期待が持たれ、党内部の評価はまずまずだった。
鄧小平や保守派の長老も歩み寄りが見せたが、5月13日から始まったハンガーストライキが「四・二六社説」から柔軟路線への転換を破綻させた。ゴルバチョフ訪中前に活動を収束させることで鄧、楊尚昆、趙の3人は一致したが、袁木(国務院報道官)ら保守派が送り込んだ政府側代表の尊大な態度に学生側の態度は硬化し、さらに学生側も「四・二六社説」の撤回に固執したためハンガーストライキの終結は困難となった。
この頃全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していった。併せてイギリスの植民地であった香港、日本やアメリカなどの諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。
この民主化運動の指導者は、漢民族出身の大学生である王丹や柴玲、ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などで、5月18日午前に李鵬、李鉄映、閻明復、陳希同らが彼らと会見した。まず李鵬が「会見の目的はハンストを終わらせる方法を考えることだ」と発言すると、ウーアルカイシは「実質的な話し合いをしたい。我々は李鵬を招待したのであって、議題は我々が決める」と反論した。学生側は「学生運動を愛国的なものとすること」と、「学生と指導者の対話を生放送で放送すること」を要求したが、李鵬は「この場で答えることは適当ではないし、2つの条件はハンスト終結と関連付けるべきではない」と話し、会見は物別れに終わった。李鵬を激しく非難する姿が全世界にテレビにより流されたことで注目を集めることとなった。
02.5 ゴルバチョフ訪中
このような状況下で、5月15日には「改革派」として世界的に知られ、国内の改革を進めていたゴルバチョフが、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定通り北京を公式訪問した。
中国共産党は、ゴルバチョフと鄧小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。
このため、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が中止になったり開催場所を変更しておこなわれることとなった。
ゴルバチョフと会見に臨んだ趙紫陽は当日、人民大会堂での会見で記者を前に、
“鄧小平同志從1978年十一届三中全会以来,是国内外公認的我們党的領袖。儘管在十三大根据他的請求,他退出了中央委員会,退出了政治和常委会,但是我們全黨都知道,我們離不開他,離不開他的智慧和經驗。我告訴你一个秘密,在十三届一中全会有一个正式的决定,雖然這个决定没有公布,但是它是一个很重要的决定,就是說,我們在最重要的問題上需要他掌舵。”
鄧小平同志は1978年の第11期三中全会より国内外が認める我々の党の指導者だ。第十三回党大会における彼の要求に基づき、中央委員会、政治局と政治局常務委員会からは退いたが、我々全党は彼から、彼の知識と経験からは離れられないことを知っている。1つ秘密を話そう。第13期一中全会では正式な決定を行っている。これは公布していないが重要な決定だ。つまり、我々は最も重要な問題において彼の指導を必要とするというものだ。
と「最終決定権が鄧小平にある」ことを明かしたが、学生たちの矛先を鄧小平に向けたとして、第13期4中全会で「罪状」に数えられることとなった。
外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と、中国における一連の民主化運動を絡めたものになった。また、デモ隊の多くがゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕[9]が報道されるなど、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったが、結果的には中国共産党のメンツが完全に潰される結果になった。
ゴルバチョフは、この様な結果になることを予想してあえて訪中時期を変更せず、また中国共産党もゴルバチョフの訪中予定日をあえて変更しないことで、長年対立してきたソ連に対するメンツを保つとともに、国内の「平静」を内外にアピールしようとした狙いがあったと言われている。ゴルバチョフは、当初の予定通り5月17日に北京首都国際空港から帰国した。
02.6 戒厳令布告
この頃の中国共産党内部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、李鵬首相や姚依林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日にゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。
5月17日夜、ゴルバチョフが公式日程を終えて帰国したことを受け、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人による常務委員会が開かれ戒厳令を発令することについて話し合われ、趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が棄権したため結論が出ず、改めて党長老で事実上の最高権力者である鄧小平を含めた会議が行われた[10]結果、5月19日に北京市内に戒厳令が敷かれることが決定された。
5月19日午前5時頃、当時党中央弁公庁主任を務めていた温家宝を連れてハンストを続ける学生を見舞う中で涙を見せ「党の分裂を示唆した」趙紫陽は、先の政治局常務員拡大会議で「動乱を支持し、党を分裂させた」として、事実上党内外の全役職を解任され自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消すことになる。
5月19日午後10時、党中央、国務院が中央と北京市党政軍幹部大会を開き、戒厳令治視の報告を行った。党中央、国務院、全人代、中央軍事委員会、中央顧問委員会、中央紀律検査委員会、全国政協と北京市の副部長級の幹部及び、党中央弁公庁、国務院弁公庁の局長クラスが出席した。趙紫陽は「体調不良」により欠席することが大会を主催する喬石から伝えられ、趙紫陽に割り振られていた講和は楊尚昆が担当した。まず李錫銘北京市党委書記が北京市の状況を説明し、続いて李鵬が戒厳令の必要性を訴える講話を行った。
これ以降は保守派によって戒厳令体制の強化が行われることになったものの、23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化しないばかりか益々拡大して行く。また、政府による戒厳令の布告を受けて、日本やフランスをはじめとする多くの西側諸国の政府は、自国民の国外脱出を促すようになった。
こうした中、カナダを訪問中の全人代委員長の万里が、「改革を促す愛国行動」と学生運動を評した発言を5月17日付けで新華社が報じたことで、学生たちだけでなく社会全体に希望が生まれた。全人代常務委員らが万里の出国前に6月20日前後となっていた常務委員会の繰上げ開催に奔走し、李鵬解任要求や戒厳令反対の機運が高まりかけたものの、万里自身は北京には戻らず「病気療養」のため上海に入り、江沢民を説得役として変心させた。2日後、万里は党中央の決定に対し一転して「支持」を表明する。
武力介入が避けられない状況となったことで、知識人らは学生たちに撤収を促したものの、地方から集結した強硬派が多数を占めた学生側の話し合いで反対票が9割を超えたため、撤収は不可能となった。5月30日には、天安門広場の中心に、ニューヨークの「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京美術学院の学生によって作られ、その後この像は、民主化活動のシンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。またこの頃香港や台湾、アメリカなどの国外の華僑による民主化推進派支援の活動が活発になっていた。
02.7 報道管制
戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本やイギリス、西ドイツなどの西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は中国共産党によって次々と遮断されていたものの、アメリカの CNN は依然として世界各国へ向けた生中継を続けていた。
これに業を煮やした中国共産党の上層部は、CNNが生中継を行っていた最中に現場に係官と警察官を派遣して放送を中止するよう要求したが、テレビカメラが回り続けていたために、特派員のバーナード・ショーらCNNのスタッフと係員のやり取りも生中継され、中国共産党による報道管制の実態が世界中に発信された。なおその後の西側メディアによる報道は、主にビデオ収録による録画中継と、電話や携帯電話を使用した音声による生中継によって行われるようになった。また、民主化推進派が香港や台湾などの国外の民主化推進派の支援者やメディアに対して、ファクシミリを使って北京市内や政府内部の状況を逐一報告していたといわれている。
02.8 武力弾圧
6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装した兵士が配置に着いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された[11]。
その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心にした民主化要求をする学生を中心とした民衆に対して投入された。一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で争乱を繰り返す民衆に対して無差別に発砲した。
武力鎮圧は数時間続き、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に人民解放軍の説得に応じて広場から退去した[12](また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた)。なお、学生運動の主立ったリーダー達の一部は武力突入前にからくも現場から撤収し、支援者らの手引により海外へ亡命した。
武力鎮圧の模様は、イギリスのBBCや香港の亜洲電視、アメリカ合衆国のCNNを始めとする、中国国内外のテレビ局によって世界中に中継され、無差別発砲によって市民の虐殺を伴う武力弾圧に対して、世界中から多くの非難が中華人民共和国に浴びせられた。武力鎮圧のために進行する中国人民解放軍の戦車の前に1人の若者が飛び出して戦車の進路方向の前に立ち、その戦車の走行を阻止しようとした男性の映像も放映された(無名の反逆者)[13]。
武力弾圧に動員された中国人民解放軍の部隊は、「北京に知人、友人が少ないため、北京市民への無差別発砲に抵抗が少ない」という理由で戒厳令の施行後に地方(新疆ウイグル自治区など)から動員された部隊が中心と報道された[14]。
天安門事件を取材したジャーナリストの相馬勝は、天安門広場の付近の路地を通る途中、広場から逃げてきたという眼鏡をかけた血まみれの学生が市民を前にして、「奴らは3歳の赤ん坊を撃ったんだ。同級生の女子学生をいま病院に送ってきたところだ。彼女は死んだ。血だらけになって…。同級生のなかには体を吹き飛ばされた者もいる。奴らは鬼だ」と涙ながらに訴えているのを目撃した(この学生の白いワイシャツは赤い血で染まっていたという)。相馬がその学生の言葉をメモしてから広場へと進む途中、相馬の姿を見た中年の男性から「お前は日本人の記者か?」と話しかけられた。男性は茫然自失した様子で、「軍が撃った。こんなことは許されない。中国はもう終わりだ。鄧小平を許さない」と語ったという[15]。
03 死傷者
中国共産党の発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者については上記の中国共産党による報道規制により客観的な確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり定かではない。また、天安門広場から完全にデモ隊が放逐されたあとに人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報[16]があるように、事件後に中国共産党によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。 また、約300名の活動家がパリに亡命した。
ウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電の1990年3月の内容には、軍兵士は下された「無差別発砲」命令を受けて、1000人以上の学生を死亡させたことが記されていた[17]。
またソ連の公文書に収められているソ連共産党政治局が受け取った情報報告では、「3000人の抗議者が殺された」と見積もられている[18]。
04 国内における反応
04.1 批判
事件後、中国共産党によって民主化活動の中心的存在の1人と目された王丹などの「反体制派」と目される人物に対する一斉検挙が行われた。そのような中で、「中国のサハロフ」と呼ばれる物理学者の方励之夫妻がアメリカ大使館に駆け込み、政治亡命を申請した(その後亡命)ほか、ウーアルカイシや柴玲などの民主化活動の中心人物が香港などを経由して西側諸国へ亡命した。
また、中国共産党首脳部の強硬派が、密かに行った自国民への虐殺に対する批判が行われ、批判ビラの配布や、香港や中華民国、アメリカなどの国外の支援者を経由した事件時の隠し撮り写真の流出が行われた。
中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」の司会者である張宏民と杜憲は、喪服をイメージさせる服装で6月4日の放送に臨んだ。訃報を伝えるような速度でニュース原稿を読み、抗議を表したという。張宏民は許されたが杜憲は1992年に中央電視台を退社し、2000年から香港のフェニックステレビでアナウンサー業を再開させている。
04.2 中国共産党による隠匿工作
上記の様に、西側諸国だけでなく東側諸国を含む世界各国ではこの事件は大きな驚きと怒りをもって報道されたものの、国内においては、事件後には平常時にも増して報道管制が強化されたため、事件に対する詳細な報道は殆ど行われなくなった。しかも、最終的に事態を掌握した強硬派とその一派がその後現在に至るまで実権を握り続けているために、中国共産党によるこの事件に対する反省や謝罪の姿勢の表明だけでなく、この事件に対する検証的な報道はこれまで殆ど行われていない[19]。
国防部部長の遅浩田は1996年にアメリカを訪れた際に、「天安門広場では1人も殺されなかった」と発言[20]して世界各国から反発を受けた。
また、中華人民共和国内の検索エンジンでは、「六四天安門事件」などの特定のキーワードで検索すると接続不可能になるといった規制や(Yahoo!やGoogle、MSNなど)、この事件についての記事が存在する「ウィキペディア」に対する接続規制が2004年の6月4日(天安門事件の記念日)前後に行われたりしたこともある[21]ことや、Twitterやhotmailなどのコミュニケーションツールを事件発生日の6月4日前後に遮断したり[22]、国内向けの衛星放送などで海外ニュースから天安門事件を報じると突如放送を停止させたり[23][24]、さらには海外メディア対策として外国人カメラマンが天安門を写そうとすると目の前で傘を開いて天安門を写させないようにする[25]、更に劉暁波のノーベル賞受賞の際、日本など各国に対し、授賞式に政府代表団を送らない、劉暁波を支持するような声明を発表しないことを要請するなど、事件から20年以上経過した現在でも当局ぐるみでの事件の隠匿が行われている。
そのため、本件以降に学校教育を受けた世代は事実をほとんど知らず(知っているとしても暴徒が軍を襲ったための自衛行為という程度であり、なかには海外メディアの街頭インタビューに対して『そんな事件はなかったんですよ』と答える者までいた)、海外に出て初めて真実を知るという傾向にある。結果、中華人民共和国国内の民主化運動は一気に下火となるが、本件で中国共産党に失望して決別した活動家は多く、石平をはじめとした活動家が海外で活動を続けることになる。なお、その後石平は日本に帰化している。
05 世界各国の反応
05.1 香港の反応
全世界で六四天安門事件に最も早く反応したのは、当時イギリスの植民地であるものの、その住人のほとんどが華僑で、中華人民共和国への「返還」を8年後に控えた香港である。このような非民主主義的な行為をする中国共産党に対して、抗議デモが起こった。
1989年6月5日には、香港のほぼすべての学校や企業、政府機関が公式に譴責・哀悼を行っており、たとえば学校では、小学校なども含んで校長や教師が泣きじゃくりながら声明を読み上げ、学生を率いて黙祷をしている。テレビやラジオ、新聞、雑誌などのメディアもこれを報道している。おそらく中国共産党に打撃を与えるためか、6月5日の早朝に、香港全土にある中国銀行グループの各銀行から、一日のうちに50億香港ドルが引き出されている。また後述のように香港市民に海外移住者が増え、香港企業も海外に本社を移転する動きも出た。
同日に香港の議会が、武力鎮圧に対する譴責を全会一致で採択。その宣言は中国への「返還」後の今でも撤回しておらず有効であり、香港と中国共産党の基本的な政治思想の差を示している。なお、事件を契機に、香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)が結成され、今なお中華圏最大の民主化運動組織として活動しており、香港がイギリスより中国へ返還、譲渡された後も、同組織によって事件で犠牲になった学生らを悼む集会が毎年香港島で開かれ、2007年6月4日には5万5千人の参加者を集めた[26]。2012年6月4日、約18万人の参加者が集めて歴年の記録を破った[27]。
また、結果的に香港人のイギリス・カナダ・オーストラリアなどのイギリス連邦諸国やアメリカなどへの移住ブームを本格的に始動させた事件となったが、その後、宗主国のイギリスと中国の間で結ばれた「返還後50年間は現状維持」の方針を受けて、「返還」後に中国共産党からの言論の締め付けなどがあるにもかかわらず、かろうじて政治的に安定している香港を評価して、多くの移民が香港に戻った。
だがこの事件は、1997年以降の香港憲法にあたる、香港基本法の起草委員の多くが委員を辞退したことや、「中国全国人民代表大会」の香港代表が「六四事件が香港の人々の心を大きく傷つけた」と発言したことなどが象徴するような、現在の香港人の中国共産党に対する不信感の原点とも言われる。この影響で2008年の北京オリンピックの聖火リレーでも中国共産党への抗議活動が起きている。
また事件当日から6日にかけて明報や新晩報などの香港メディアは情報が錯綜したことから、「軍同士の衝突が起きた」、「鄧小平氏の死亡」などの様々な未確認情報を報道した[28]。
05.2 西側諸国の反応
民主主義国である西側の政府が次々と、事件における中国共産党による武力弾圧についての声明を発表した。日本、アメリカ、台湾、フランス、西ドイツを含む各国は、武器を持たぬ市民への「虐殺」とも言える武力弾圧に対して譴責あるいは抗議を発表し、G7 による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止、日本からの対中借款停止などの外交制裁を実施した。
天安門に集まる一般市民を最初は非難していたシンガポールのリー・クアンユーは、武器を持たない一般市民の騒動に対しては最低限の治安目的の対応を期待していたため、「今回の中国共産党の対応に衝撃を受けるとともに悲しみを受けた」とニューヨーク・タイムズ紙のインタビューに応えた[29]。その後、「譴責」や「抗議」を行った国を含めて、ほとんどの国が1992年日本の宮沢内閣が行った天皇の中国訪問と制裁解除を契機に時期をおいて中国との外交関係の回復を行ったものの、この事件が中国共産党による一党独裁とその異常性を示す例であるとして、その後の西側諸国を中心とする諸外国における同国の評価を下げる大きな原因の1つとなった。
2007年6月1日にアメリカ国務省副報道官のトム・ケーシーが、「民主化運動(六四天安門事件)に参加した」ことを理由に現在も身柄を拘束されている人々を釈放し、併せて事件の再調査を行うように中国共産党政府に要請した[30]。また、2009年6月3日にアメリカのヒラリー・クリントン国務長官は、中国共産党政府に「過去の事件を検証し、死者や行方不明者についての報告を行うように」と要求し、事件の検証や拘束中の人権活動家を釈放するよう求めた。
一方、スペイン国営放送テレビの「レストレポ」記者[31]は、撮影した映像を証拠に「少なくとも天安門広場内では、人民解放軍による虐殺はなかった」と主張している[32]。
05.3 東側各国と一党独裁国、その他の国々の反応
そのほとんどが中国と同じく一党独裁国である東側諸国にあっては、「ベルリンの壁」において自国国民に対する銃撃を行っていた東ドイツ政府が、公式に中国共産党による武力弾圧を支持した。
その一方で「遺憾の意」を示した国には、ベトナムのような社会主義国や、タイのような華僑の多く住む中国と関係の深い国も含まれている。華僑が多く、中国と微妙な関係下にあるフィリピンやインドネシアは、事件について直接コメントせず、「(内政のことなので)事件は中国と自国とのあらゆる関係に対して影響を及ぼさない」と発表した。