折々の記へ
折々の記 2014 ⑥
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】06/08~ 【 02 】06/18~ 【 03 】06/22~
【 04 】06/27~ 【 05 】06/29~ 【 06 】07/06~
【 07 】07/11~ 【 08 】07/21~ 【 09 】08/12~
【 08 】07/21
07 21 この日からの【 08 】は誤って消去しましたのでありません
08 13 日本と中韓 異常な外交に終止符を 朝日新聞社説
(声)戦力持たない日本の夢を見た
(声)「もう戦争しない」誓ったはず
08 13 (戦後70年へ プロローグ:2)歴史観ぶつかる海
(戦後70年へ プロローグ:2)同時代史、ずれるアジア 日清戦争、中国屈辱の原点
(社説)南シナ海掘削 中国は直ちに中止せよ 2014年5月9日
08 14 (社説)戦後69年 歴史を忘れぬ後代の責務 新聞メディアの精神を貫いて戴きたい
海外向け英文記事(社説)戦後69年
08 14 (世間の戦争 第1次世界大戦から100年:2)徴兵制にみた平等の幻想 … 幻想 … 幻想 … 幻想 …
(世間の戦争 第1次世界大戦から100年:1)「浮かれ気分」に流された大衆
【下平・註】戦力持たない日本の夢
7 21 (月) この日以降は誤って消去しましたのでありません
およその内容は、習金平率いる中国政治が崩れていく兆候が現われているようすを扱いました。
後日になるけれども、関係した内容を拾い出して整理するつもりです。
8 13 (水) 日本と中韓 異常な外交に終止符を 朝日新聞社説
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11295117.html
隣国の外相同士が、これほど長い間まともに会談できなかったことに、改めて驚かざるを得ない。
岸田外相が、ミャンマーでの東南アジア諸国連合(ASEAN)関連の会議にあわせ、中国の王毅(ワンイー)外相、韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外相と個別に会談した。
日中外相会談は第2次安倍内閣になってからは初めてで、実に約2年ぶり。日韓は約10カ月ぶりである。
ふたつの外相会談とも、まだ実現していない日中、日韓の首脳会談を意識してのものだった。たった一度の外相会談で道筋がつくものでもなかろうが、一歩前進であることは確かだ。首脳会談に向けた双方のいっそうの外交努力を求めたい。
日中両政府が念頭に置くのは、11月に北京で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の際の安倍首相と習近平(シーチンピン)国家主席の会談だ。中国が各国首脳を迎えるホスト役を務めることから、2国間の首脳会談を設定しやすいからだ。
7月には福田康夫元首相が訪中し、習主席とひそかに会談。日中関係の改善で一致し、福田氏は首脳会談実現に向けた安倍氏の意欲を伝えたという。
中国の台頭に伴い、アジア太平洋地域では、経済と安全保障の両面で新たな秩序がつくられようとしている。
自由貿易協定(FTA)や環太平洋経済連携協定(TPP)などの経済協定をどうつくりあげ、発展させていくか。安全保障面では、北朝鮮の核・ミサイル開発への対応ばかりでなく、領土・領海をめぐる南シナ海での中国の強硬姿勢にどう対処していくか。
米国や韓国が戦略対話などを通じて積極的に中国とかかわっているのをよそに、地域の大国である日本だけが「対話のドアは常にオープンだ」と言っているばかりですむはずはない。
おととしの尖閣諸島の国有化をきっかけに、東シナ海では自衛隊機が中国の戦闘機に異常接近される事態まで起きた。対話は急務である。
これから終戦記念日の8月15日や満州事変の発端となった柳条湖事件の9月18日など、戦争の惨禍や歴史に思いをはせる季節がやってくる。ここでまた関係改善の機運に水を差す事態が起きることは、何としても避ける必要がある。
首相はじめ日本の指導者は靖国神社への参拝は慎まねばならない。また中国も、日本の過去の行為をいつまでも国際的な宣伝の材料に使うべきではない。
双方の自制と努力を望む。
(声)戦力持たない日本の夢を見た 医師 森弘行(北海道 53)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11295123.html?ref=pcviewpage
こんな夢を見た。
20××年、時の内閣は閣議で憲法解釈の変更を決定した。憲法を「積極的」に解釈し、一切の戦力を放棄するというものだ。その後、自衛隊は完全な武装解除を行い、国際救援隊となった。世界各地で大きな災害や事故があると駆けつけ、日本人は「汗を流して」働いた。どこの国でも銃を持たない救援隊と日の丸は歓迎された。いつか夢物語でなくなる日が来ることを願う。
国際救援隊の志願者は増え、多くの若者が国内外で働き、多くのことを学んだ。予算規模も大きくなったが、日本の高度な技術力でこれまでにない機能の救助ロボットや機器が開発された。どこの国でも、日本企業はそれまで以上に好意的に受け入れられるようになった。戦力を持たない国に対し、戦争を仕掛ける口実は誰にも見つけられなかった。
夢物語と笑われるかもしれない。しかし、ここ20年ほどの間に、世界中で何が起きているかをリアルタイムで見ることができる時代になった。短期間に世界は変わりうるのだ。国家間の経済依存も格段に大きくなっている。世界中の為政者の頭の中よりも、現実社会は先を進んでいくだろう。
(声)「もう戦争しない」誓ったはず 高校生 大金七菜(千葉県 18)
私の大学受験のため、我が家はこの夏から新聞をとっています。「声」欄で毎日のように集団的自衛権についての意見が飛び交っているのを読んで、たいへん驚きました。私も社会に向けて、声を発しなければならないような気がしました。
私は集団的自衛権の行使容認に反対です。閣議決定の日、安倍晋三首相の会見を見ました。「かつての湾岸戦争やイラク戦争のような戦闘に参加するようなことはない」という趣旨の話をされていました。本当にそうでしょうか。米国が他国から武力攻撃を受けた際、日本が集団的自衛権を行使したら、米国が要求をエスカレートさせる可能性は大いに考えられます。
もうすぐ8月15日。終戦の日がやってきます。「もう戦争はしない」と固く心に誓った終戦直後の日本人だったら、集団的自衛権の行使容認に賛成するでしょうか。
8 13 (水) (戦後70年へ プロローグ:2)歴史観ぶつかる海
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11296996.html
この夏、ベトナムで「遠い島」という歌がはやっている。「故郷の愛のある場所は海の中 そこはホアンサ(西沙)」
35年も前の曲が人気を呼ぶのは、中国との緊張のためだ。中国は5月以降、南シナ海の西沙(パラセル)諸島のそばで石油採掘を強行。近寄るベトナム船を沈め、漁師を捕まえた。
◆とがる対中世論
中国は7月半ばに石油採掘を終え、ベトナムは中国批判の矛を収めた。だが対中世論はとがったまま。今月、中国が「西沙に灯台を5基建設する」と表明すると、世論はまた硬化した。
ベトナム中部の港町ダナン。ジャン・バン・ボンさん(38)は、生活の糧だった漁船を沈められた。
「真後ろからドガンドガンと追突されたんだ。船員10人とも放り出された」。僚船が撮った動画には、巨大な中国船がしつこく体当たりする様子が映る。
「志願して最前線で戦うぞ」。ダナンで飛び交う声は勇ましい。とはいえ軍事力は圧倒的な劣勢。本音では、武装した中国漁民らの挑発に乗り、紛争が拡大することを恐れている。
ベトナム政府はこの四半世紀、中国と対話による国境画定に努めてきた。1999年に陸の国境が決着。2004年にはトンキン湾でも最終合意に至った。
「残るは南シナ海だけでした。がまんして紳士的に交渉してきたのに、中国が石油採掘で台無しにした」。高官級の国家国境委員長だったトラン・コン・トルックさん(71)は嘆く。
アジアの海で領有紛争が一向に解決しない。緊迫の度合いはベトナム、フィリピンが高く、日本やマレーシアがこれに続く。
領有の根拠とする文書や古地図を互いに突きつけ合うが、それを判定する審判役がいない。各国とも自分たちの史料の正しさを一方的に主張するだけだ。
西沙諸島はベトナム本土のそばにある。そのベトナムを中国はかつて支配していた。だから中国領の時代も長い。つまり時間軸の取り方しだいで、どちらの主張も理を得てしまう。
こうした歴史観が食い違う「断層」が、日本と中国をはじめ、東アジアの至るところにある。ヨーロッパ史を「われわれの歴史」として共有する取り組みが進む欧州とは逆に、めいめいが「自分の歴史」を声高に叫ぶ傾向がむしろ、強まっている。
◆対話姿勢に批判
ベトナムやフィリピンでは反中感情がナショナリズムを刺激し、そのうねりに政府が手を焼くほどになっている。勇ましく中国を批判したベトナムのズン首相の支持が跳ね上がり、対話にこだわったタイン国防相が弱腰批判を浴びる。
「領有紛争がいずれ武力衝突につながると思う」
米ピュー・リサーチセンターの調査に、そう答えた人はベトナムで84%、日本85%、フィリピンでは93%に達した。 (特別編集委員・山中季広)
(2面に続く)
(戦後70年へ プロローグ:2)同時代史、ずれるアジア 日清戦争、中国屈辱の原点
(1面から続く)
1972年の国交正常化以来、日中政府が今ほど声高にののしり合った時代があっただろうか。
かつては不信があっても政府同士は表だった批判を極力ひかえた。報道官が感情的な言葉で難じ、外務省が相手国の大使や公使を呼びつけて抗議するような日常はなかった。
尖閣諸島をめぐる問題はこじれにこじれた。中国では抗議デモこそなくなったものの、反日機運はなお高い。日本人とわかると顔をそむける人もいる。
記者が先月、日清戦争の激戦地だった中国山東省劉公島を訪れた時のこと。清朝時代の北洋艦隊本部跡で受付の男性が「日本人には来てほしくない」。見学者名簿に名前を記入して去ろうとしたが、それも拒まれた。
中国では今年、開戦120年を迎えた日清戦争(甲午戦争)の教訓がさかんに語られる。研究会や写真展などの催しが目白押しだ。
中国にとって日清戦争は格別の重みをもつ。同じアジアにあって、かつては文明を伝えた若い弟のような新興日本に敗れたことは屈辱だった。中国近現代の苦難はこの戦争から始まったという歴史認識が、広く浸透しているからだ。それは旧日本軍による被害や抗日の記憶とも重なり合う。
中国政府は今年、劉公島を「海洋強国」教育の拠点に指定した。「屈辱の120年前を忘れるな」「いまこそ中国全沿岸部の守りを固めよう」と宣伝に励む。
一方、日本では69年前の終戦が現代の起点と意識されている。戦後日本は経済に専心し、軍備を抑え、平和の道を歩んできた。それを誇りに思う日本人がいれば、いまになって戦前の問題を近隣国に蒸し返されることに反発する人もいる。
つまり「どこまでを同時代史と見るか」という歴史のモノサシが日本と中国で大きくずれているのだ。
日本に11年間、滞在した中国・復旦大学の張翔(チャンシアン)・教授(57)は、「日清戦争や七・七(盧溝橋事件)、九・一八(柳条湖事件)など中国が重視する史実が、日本であまり教えられていない。これが日本の閣僚や進出企業幹部が不用意な発言で騒ぎを起こす一因になっている」と指摘する。
◆憤るベトナム、侵略国の側面も
異なる歴史のモノサシは中国とベトナムの間でも顕在化している。
中国の習近平(シーチンピン)・国家主席は今年、「中華民族の血には他者を侵略したり、覇権を唱えたりする遺伝子はない」と述べた。日本や欧米を批判する文脈での発言だったが、これがベトナム知識層をひどく怒らせた。
元外交官グエン・ゴク・チュオンさん(67)は「中越の歴史をねじ曲げる発言だ。中国ほど侵略の遺伝子で動く国はないのに」と憤る。「過去10世紀、中国は15回もベトナムに攻め込んだ。幾万もの女性や子供が殺された」
そのベトナムも、隣のカンボジアから見れば侵略国である。
1970年代末、ベトナムはカンボジアに兵を進め、首都プノンペンを攻略して親ベトナム政権を樹立した。その後の約10年間の駐留をベトナムは「自国民を虐殺した(カンボジアの)ポル・ポト政権に幕を下ろすため」と位置づける。だがカンボジア人にとっては「ベトナムに侵略された屈辱の10年」としか受け止められない。
歴史のモノサシがこれほど違うのはなぜか。近代国家として成り立った時期が国ごとに異なる事情もある。たとえば日本は明治維新後、藩を超えた国家意識が生まれ、第2次大戦の敗戦やその後の占領を経ても維持された。アジアの多くの国が自立したのは、植民地化をあきらめた欧米や日本が去った戦後である。
一方、欧州は二つの大戦で同時に戦い、深く傷ついた。戦後もほぼ同時に復興し、反目を超えて欧州連合(EU)を築いてきた。共有する歴史や記憶も多く、今では「欧州人」という共通のアイデンティティーも育ちつつある。
自国に都合のよいところで歴史を区切る。自国民に受けのいい文脈で語る。古来多くの国が歴史をそんな風に利用してきたが、今の東アジアではそれが危険な域に達している。
◆溝に危機感 私財投じ奨学生基金
隣国同士がいがみ合う現状にうんざりする声も出始めている。
香港の実業家、曹其チー(ツァオチーヨン)さん(75)は、日中が今の険悪な関係を解決できないことが歯がゆくてならない。中国浙江省出身。東京に留学した1950年代、日中国交正常化の前だったが、同じ宿舎に住んだ日本人と腹を割って話し合い、生涯の友もできた。
自分にできることは何かと考え、私財から1億ドル(約102億円)を投じて奨学生基金を設立した。
日本の京都大、早稲田大、一橋大と、中国の北京大、浙江大、香港科技大を結び、日中とアジアから毎年100人の学生を留学させる。目玉は毎年1カ月の日中合同合宿だ。「若き賢者を育てたい。日中をよく知るリーダーがアジアで年100人育てば、島の領有問題など難なく解決できる」と話す。
中国の国営テレビには、戦車に乗りこんだ迷彩服姿の安倍晋三首相の写真がしばしば登場する。領有問題で外国が中国を批判すると「中国固有の領土。断固として守り抜く」と強気一辺倒で報じる。それをうのみにする視聴者はいる。
だが冷めた受け止めをする知識層や学生も少なくない。ネットを駆使して外国での報道や中国をめぐる論評に通じているからだ。
中国は世界有数のネット大国だ。政府の見解が腑(ふ)に落ちなかったりすれば、人々は瞬時にネットを操り、外国発の信頼に足る情報を見つけ出す。当局の「うそ」を見抜く鍛錬を中国の人々はかなり積んできている。
実際、ベトナムやフィリピンに比べ、中国ではナショナリズムのうねりが充満しているようには、あまり感じられない。米ピュー・リサーチセンターの調査で「領有紛争がいずれ武力衝突になる」と答えた中国人は62%。東アジアでは際だって低い。
とはいえ、歴史をめぐる対立が存在する限り、紛争の火種は消えない。
「溝」をこれ以上放置してはいけない――。張翔・教授は東京大、ソウル大の歴史学者らの呼びかけに応じ、昨年から3カ国合同の歴史研究会に加わった。2年目となる今年の研究テーマの一つに、日中韓で異なる理解をされてきた「日清戦争」を選んだ。
◆歴史観読み比べ相互理解を 取材後記
同じアジアに暮らしていながら、近隣国の人々がどんな史実を学び、どんな文脈で語り継いでいるのか、私たちはあまりに知らずにいる。だれもが納得する「最大公約数」のような歴史記述はおよそ不可能だろう。けれどもそれぞれの歴史観を併記して読み比べることならできる。加害と被害の立場ばかりでなく、根っこにある世界観の違いもわかる。「違い」を知れば、互いの理解は格段に進むにちがいない。
あすは、戦後の高度成長期から現在までの日本経済を、「消費者」というキーワードで読み解く。(特別編集委員・山中季広)
(社説)南シナ海掘削 中国は直ちに中止せよ 2014年5月9日
南シナ海の緊張が高まっている。中国とベトナムが権益を争う海域に中国艦船が集まり、ベトナムの巡視船と衝突した。
中国は国有企業が現場で石油の採掘を始めると表明し、機材を運びこんでいる。その作業のさなか、中国側が衝突や放水などの行動に出たらしい。
ゆゆしい事態である。そもそも論争のある海域で、大がかりな経済活動に一方的に着手するのは慎むべきだ。中国側は直ちに作業をやめねばならない。
現場近くの西沙(パラセル)諸島を中国政府は「わが国の領土」とし、近海での掘削に何の問題もないと主張している。
しかしベトナムから見れば、自国が主張する排他的経済水域の完全な内側だ。西沙は中国が実効支配するが、ベトナムも領有権を主張している。一方的な通告で済む話ではない。
南シナ海は多くの国々の利害がぶつかる。島の領有権や経済権益を主張しているのは中越のほかフィリピン、マレーシア、ブルネイ、台湾がある。
そのなかで中国は、南シナ海のほぼ全域を囲む「九段線」と呼ばれる線を引いている。その性格は不明確で、国際ルールでは説明できない。中国は、その線の内側に排他的な権益があると言わんばかりである。
南シナ海を管轄するという中国海南省政府が外国漁船の入漁に手続きを義務づける規定を設け、周辺国の反発を招いたのは今年1月のことだった。九段線内での既成事実を積み重ねる狙いがあるのではないか。
ともに共産国家の中越だが、戦火を交えたこともあって歴史は複雑だ。それでも90年代には陸続きの部分とトンキン湾について、境界線画定の共同作業に時間をかけ、合意に達した。
当時、南シナ海部分の同時解決はできなかったが、それは両国関係に悪影響を及ぼす争いを避ける知恵だったはずだ。
東南アジア諸国連合(ASEAN)と中国の間では02年、南シナ海問題の平和的解決をめざす行動宣言で合意し、具体的な行動規範づくりに取り組むことになっている。今回の中国側の行動はそうした国際公約を踏みにじるものでもある。
米国政府は早々に懸念を表明した。南シナ海全域で航行の自由の原則が阻害されかねない重大な問題とみるからだ。
このままではアジアの海が力と力のぶつかり合いの場になってしまう。それは誰の利益にもならない。まずは事態悪化を招いた中国が退かなくてはならない。ベトナムにも冷静な行動を望みたい。
8 14 (木) (社説)戦後69年 歴史を忘れぬ後代の責務
喝采!! 時の権力に迎合せず、メディア精神を貫いて進めていってほしい … 好上 …
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11296884.html 2014年8月13日
今年は日清戦争の開戦から120年にあたる。東アジアの平和が破られたその時、1894年7月29日付の東京朝日新聞朝刊は、歓迎する社説を掲げた。「戦争は災害ではなくむしろ進歩の方法」「清国は日本に大敗すれば反省するだろう」
富強を目指す国同士が戦うのを当然視した時代だった。火砲の発達がもたらす残虐さに対する意識も薄かったかもしれない。実際には将兵、一般人を含め犠牲者が多数にのぼった。
その後、二つの世界大戦の経験を通じて各国は、戦争を基本的にやってはいけないこととみなした。武力行使を慎むと規定する国連憲章、平和主義を掲げる日本国憲法とも、その延長線上にある。
版図拡大と破綻(はたん)を経験した日本人自身の心にも、戦争の何たるかが刻まれた。だが戦後69年も経てば記憶は風化する。どう伝えていけばいいだろう。
◆書き換えられる物語
歴史は、ときに忘れられ、忘却からよみがえり、書き換えられる。それが古代ギリシャの時代からあったと、英国の歴史学者、R・オズボーン氏が指摘している。(刀水書房刊「ギリシアの古代」による)
紀元前510年、アテネが独裁者ヒッピアスを追放し、民主政に道を開いたのはスパルタの協力によってであった。ところがアテネでは、その4年前にヒッピアスではなく、その弟を殺したアテネ人の偉業という話にすり替わり、像が建てられた。それはアテネとスパルタが敵対関係に入ったためだった。
連想されるのは中国である。日本による侵略と戦った歴史を語ることは、友好関係を最優先とした80年代まで抑えられていたが、90年代以降、強調するようになった。関係が悪化した最近はなおさらだ。中国の発展に日本が貢献したことなど、なかなか触れられることはない。
そんなやり方にうんざりする向きもあろう。だが相手に注文をつける前に、まずは、わが国について省みよう。
安倍首相は昨年4月、サンフランシスコ講和条約発効を記念する主権回復式典を初めて催した。「国破れ、まさしく山河だけが残ったのが、昭和20年夏、わが国の姿でありました」。敗戦の悲惨を語り、その後の復興をたたえた。
一方で4カ月後、8月15日の全国戦没者追悼式では、アジア諸国への加害についていっさい言及しなかった。
「屈辱から栄光へ」という受け入れられやすい物語を強調し、不都合な史実には触れない。必ずしもうそではない。しかし、歴史書き換えの一歩が潜んでいるのではないか。
もちろん、自国にもたらされた戦争被害を思い出すのは、平和思想の起点として大事だ。
◆平和を尊ぶために
だが、当時の日本軍がアジア諸国に戦火を広げ、市民を巻き込んだ歴史を忘れるわけにはいかない。平和を何よりも大事にする者としての義務である。
それを自虐史観と呼ぶのは愚かである。表面的な国の威信を気にして過去をごまかすのは、恥ずべきことだ。過去から教訓を正しく引き出してこそ、誇りある国だろう。
加害の歴史を記憶していくのは、よほど自覚しないと難しい。手を下した当事者は口をつぐむ。聞くほうもつらい。被害者やその遺族の居場所は、ほとんどが国外だ。
そして69年が過ぎた。特攻隊の物語はベストセラーになるが、戦争加害を正面から扱う文学で読み継がれているものが、どれほどあるだろう。
後代の者の務めは、忘れがちな歴史を忘れないと、折に触れ内外に示すことだ。だからこそ8月15日、歴代首相が戦没者追悼とともに加害責任に触れる慣例が、意義を持ったのだ。
安倍首相も、第1次政権の07年は「アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」と述べた。にもかかわらず、昨年は異なる選択をした。今年こそ、日本国民を代表して再び言うべきである。
◆日清戦争の教訓とは
先月、中国では日清戦争を回顧した論評がいくつか発表された。当時は弱いから負けた、ならばいま、どうすればいいか、という問題意識だ。
中国共産党機関紙・人民日報(海外版)は「我々は海軍を基本とする強大な海上権を確立し、国家の主権、安全を守る能力を高め、甲午戦争(日清戦争)の悲劇が繰り返されないようにすべきだ」と論じた。
しかし昨今の軍備拡張の正当化のために歴史を利用するのでは、方向性を間違えている。120年前と同様、力と力の衝突を肯定するかのような議論は、むしろ歴史を踏まえていないものだ。
そのような議論に、こちらのほうから現実味を与えるわけにはいかない。そのためにも、69年前の反省をきちんと掲げ続けなくてはならないのである。
英文記事は、前日までの朝日新聞記事をベースに編集した海外読者向けの「Asia & Japan Watch(AJW)」の記事です。完全な対訳とは限りません。
EDITORIAL/社説―戦後69年
http://digital.asahi.com/articles/ASG8F5VDVG8FUEHF009.html?ref=reca 2014年8月13日
◆Japan has duty to keep alive lessons of wartime abuse:
This year marks the 120th anniversary of the outbreak of the First Sino-Japanese War. When peace was shattered in East Asia, the Tokyo Asahi Shimbun, the predecessor of The Asahi Shimbun, welcomed it in its July 29, 1894, editorial.
“War is not a disaster,” it read. “Rather, it is a means for progress. If trounced by Japan, China will repent.”
Back then, it was taken for granted that countries seeking greatness would battle one another. And people were probably not really aware yet of the brutality of modern artillery. But many soldiers and civilians ended up dead.
After two world wars in the 20th century, countries around the world learned from hard experience that they should not go to war as a rule. This understanding is reflected in the Charter of the United Nations that provides for restricted use of arms, and in Japan’s pacifist Constitution as well.
The Japanese people came to understand acutely what war means after expanding their territory and then bringing ruin upon themselves. But with the passage of 69 years since their nation’s defeat in World War II, their collective memory is fading. How do we keep the memory alive?
REWRITTEN NARRATIVES
History is sometimes forgotten, sometimes brought back from oblivion, and sometimes rewritten. This was already going on in ancient Greece, notes British historian Robin Osborne in his book “Greece in the Making 1200-479 BC.”
In 510 B.C., the expulsion of Hippias, a tyrant, from Athens brought democratic rule to Athens, which “was directly a product of Spartan action,” writes Osborne.
But the Athenians came up with their own narrative, in which two Athenians, who had assassinated Hippias’s brother four years previously, were given full credit for ending tyranny in Athens. The Athenians even built statues of the two assassins to honor them. Why? Because relations between Athens and Sparta had become hostile.
This reminds us of China. Until the 1980s, China refrained from openly discussing its history of fighting Japanese aggression because maintaining amicable relations with Japan was Beijing’s top priority then. But China began harping on Japanese aggression in the 1990s, and has since become increasingly strident. Nowadays, China hardly ever mentions Japan’s past contributions to China’s development.
Some people may be quite put off by China’s ways. But before we complain to China, let us first look at our own country.
In April 2013, Prime Minister Shinzo Abe hosted a ceremony for the first time to commemorate Japan’s recovery of sovereignty in 1952 when the 1951 San Francisco Peace Treaty took effect. Lauding the nation’s phenomenal postwar recovery and stressing the horrors of the lost war, Abe noted: “Japan was in ruins, and only its mountains and rivers remained. Such was the state of our country in the summer of 1945.”
But four months later, at the Aug. 15 memorial ceremony to mourn the nation’s war dead, Abe made no mention whatsoever of the damage Japan inflicted on its Asian neighbors during the war.
“From humiliation to glory” was the theme of Abe’s appealing narrative that left out any inconvenient historical fact. The narrative is not necessarily all false, but there seems to lurk a design to rewrite history.
WHAT IT MEANS TO RESPECT PEACE
Of course, remembering the war damage done to our country is an important first step in the path to pacifism.
But we must also remember our country’s history of spreading the horrors of war across Asia and victimizing innocent citizens. To remember this history is the duty of all citizens who value peace above everything.
It is silly to criticize such citizens for having a masochistic view of history. It is shameful to be obsessed with the nation’s superficial prestige and try to protect it by misrepresenting or distorting the past. A country can be considered honorable only if it can honestly face the past to learn lessons from it.
Keeping alive the memories of the country’s history of abuse of its wartime enemies and citizens is not easy in the absence of a firm resolve to do so. The people who personally committed acts of abuse do not want to talk, and it is certainly hard and painful to listen to harrowing accounts. And most of the victims of abuse or their surviving families live outside Japan.
In the 69 years since the end of World War II, many stories about kamikaze suicide missions have become bestsellers. But among war-related works that continue to be read today, how many deal with the damage Japan inflicted on Asian nations?
It is the duty of Japan’s postwar generation to keep reminding itself not to forget the easy-to-forget history and let the rest of the world know its resolve whenever appropriate.
And this is exactly why it is of tremendous significance that generations of Japanese prime ministers have established the custom of mentioning Japan’s war responsibility while mourning the nation’s war dead on Aug. 15 every year.
In 2007, during his first stint as prime minister, Abe said that Japan had “inflicted tremendous damage and pain on people in Asian nations.” But last year, he chose a different approach. We urge him strongly to repeat those original words this year on behalf of the people of Japan.
LESSONS FROM FIRST SINO-JAPANESE WAR
Last month, several opinion pieces on the First Sino-Japanese War were published in China. Noting that China of the Qing dynasty lost the war because it was weaker than Japan, the authors discussed what China of today should do.
The overseas version of The People’s Daily, the organ of the Chinese Communist Party, argued to the effect, “We must ensure not to repeat the tragedy of the First Sino-Japanese War by securing extensive maritime rights with our navy and enhancing our capability to protect our sovereignty and security.”
But in using history to justify its recent arms expansion, China is heading in the wrong direction. Its argument in favor of an armed clash, just like 120 years ago, suggests China’s failure to understand history correctly.
And Japan definitely must not do anything that might result in giving credence to China’s perception of history. Even if only to prevent such an eventuality, Japan must continue to express the remorse it felt 69 years ago.
--The Asahi Shimbun, Aug. 13
◇ … 以下の訳文は前出の社説と同じなので、サイズを小さくしました …
今年は日清戦争の開戦から120年にあたる。東アジアの平和が破られたその時、1894年7月29日付の東京朝日新聞朝刊は、歓迎する社説を掲げた。「戦争は災害ではなくむしろ進歩の方法」「清国は日本に大敗すれば反省するだろう」
富強を目指す国同士が戦うのを当然視した時代だった。火砲の発達がもたらす残虐さに対する意識も薄かったかもしれない。実際には将兵、一般人を含め犠牲者が多数にのぼった。
その後、二つの世界大戦の経験を通じて各国は、戦争を基本的にやってはいけないこととみなした。武力行使を慎むと規定する国連憲章、平和主義を掲げる日本国憲法とも、その延長線上にある。
版図拡大と破綻(はたん)を経験した日本人自身の心にも、戦争の何たるかが刻まれた。だが戦後69年も経てば記憶は風化する。どう伝えていけばいいだろう。
◆書き換えられる物語
歴史は、ときに忘れられ、忘却からよみがえり、書き換えられる。それが古代ギリシャの時代からあったと、英国の歴史学者、R・オズボーン氏が指摘している。(刀水書房刊「ギリシアの古代」による)
紀元前510年、アテネが独裁者ヒッピアスを追放し、民主政に道を開いたのはスパルタの協力によってであった。ところがアテネでは、その4年前にヒッピアスではなく、その弟を殺したアテネ人の偉業という話にすり替わり、像が建てられた。それはアテネとスパルタが敵対関係に入ったためだった。
連想されるのは中国である。日本による侵略と戦った歴史を語ることは、友好関係を最優先とした80年代まで抑えられていたが、90年代以降、強調するようになった。関係が悪化した最近はなおさらだ。中国の発展に日本が貢献したことなど、なかなか触れられることはない。
そんなやり方にうんざりする向きもあろう。だが相手に注文をつける前に、まずは、わが国について省みよう。
安倍首相は昨年4月、サンフランシスコ講和条約発効を記念する主権回復式典を初めて催した。「国破れ、まさしく山河だけが残ったのが、昭和20年夏、わが国の姿でありました」。敗戦の悲惨を語り、その後の復興をたたえた。
一方で4カ月後、8月15日の全国戦没者追悼式では、アジア諸国への加害についていっさい言及しなかった。
「屈辱から栄光へ」という受け入れられやすい物語を強調し、不都合な史実には触れない。必ずしもうそではない。しかし、歴史書き換えの一歩が潜んでいるのではないか。
もちろん、自国にもたらされた戦争被害を思い出すのは、平和思想の起点として大事だ。
◆平和を尊ぶために
だが、当時の日本軍がアジア諸国に戦火を広げ、市民を巻き込んだ歴史を忘れるわけにはいかない。平和を何よりも大事にする者としての義務である。
それを自虐史観と呼ぶのは愚かである。表面的な国の威信を気にして過去をごまかすのは、恥ずべきことだ。過去から教訓を正しく引き出してこそ、誇りある国だろう。
加害の歴史を記憶していくのは、よほど自覚しないと難しい。手を下した当事者は口をつぐむ。聞くほうもつらい。被害者やその遺族の居場所は、ほとんどが国外だ。
そして69年が過ぎた。特攻隊の物語はベストセラーになるが、戦争加害を正面から扱う文学で読み継がれているものが、どれほどあるだろう。
後代の者の務めは、忘れがちな歴史を忘れないと、折に触れ内外に示すことだ。だからこそ8月15日、歴代首相が戦没者追悼とともに加害責任に触れる慣例が、意義を持ったのだ。
安倍首相も、第1次政権の07年は「アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」と述べた。にもかかわらず、昨年は異なる選択をした。今年こそ、日本国民を代表して再び言うべきである。
◆日清戦争の教訓とは
先月、中国では日清戦争を回顧した論評がいくつか発表された。当時は弱いから負けた、ならばいま、どうすればいいか、という問題意識だ。
中国共産党機関紙・人民日報(海外版)は「我々は海軍を基本とする強大な海上権を確立し、国家の主権、安全を守る能力を高め、甲午戦争(日清戦争)の悲劇が繰り返されないようにすべきだ」と論じた。
しかし昨今の軍備拡張の正当化のために歴史を利用するのでは、方向性を間違えている。120年前と同様、力と力の衝突を肯定するかのような議論は、むしろ歴史を踏まえていないものだ。
そのような議論に、こちらのほうから現実味を与えるわけにはいかない。そのためにも、69年前の反省をきちんと掲げ続けなくてはならないのである。
8 14 (木) (世間の戦争 第1次世界大戦から100年:2)徴兵制にみた平等の幻想
… 幻想 … 幻想 … 幻想 …
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11296895.html 2014年8月13日
「これって召集令状?」
7月初旬、ネット上にそんな書き込みがあふれた。きっかけは、自衛隊が高校3年生の自宅に送った自衛官募集のダイレクトメールだ。例年通りの募集活動だったが、今年は届いたタイミングが、集団的自衛権の行使容認が閣議決定された直後。ただでさえ少子化が進んでいるのに、危険な任務を嫌って自衛官の志願者が減ってしまったら? 素直な想像力が連想したのが、徴兵制だった。
ネット上で波紋が広がるなか、内閣官房は安全保障法制についての見解をホームページに掲載した。「徴兵制は憲法上認められません」「解釈変更の余地はありません」
だが、「ありえない」とされていた徴兵制が一転、導入された例がある。第1次世界大戦時のイギリスだ。自由主義に基づく志願入隊制をとり、「徴兵制の欠如は誇るべき伝統」のはずだった。それを吹き飛ばしたのが、人類が初めて直面した総力戦の現実だ。軍事力をはじめ、経済力、科学力など国力のすべてを動員する戦い。前線の兵士は、機関銃など機械化された兵器の前に次々と倒れ、想定外の人員の補充を迫られた。
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イギリス近現代史に詳しい京大准教授、小関隆さん(53)は「反対が強かった世論を変えたのが『軍事的必要性』と『負担の平等』という言葉。戦時社会の同調圧力もあり、愛国心のある志願兵に負担が偏るのは平等ではないという論理を民衆は支持した」と話す。
欧州での総力戦は、遠く離れた当時の日本にも影響を与えた。まだ戦火のやまぬ1918年に改正された徴兵令。高学歴の富裕層や在外留学生を対象に、期間を短くしたり猶予したりしていた特権を縮小した。国民一丸が求められる総力戦を見据え、重視されたのは公平感だった。
「現代以上の格差社会だった戦前は、民衆が軍に『平等』という幻想を見た面がある」。日本近現代史を研究する一橋大教授、吉田裕さん(59)はそう話す。徴集されて一兵士になれば、学歴も貧富も家柄も関係なく、軍隊内の階級で扱いが決まる。東京帝国大助教授だった政治学者の丸山真男が一兵士として召集され、先輩兵士にさんざん殴られたのは有名な話だ。
丸山は戦後、軍隊の「擬似(ぎじ)デモクラティック的なものが相当社会的な階級差からくる不満の麻酔剤になっていた」と指摘した。格差社会の不満を一時でも忘れさせてくれる「平等」という幻想が、兵役の重荷を人々に受け入れさせるという見方だ。
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「徴兵制などもう古いスよ。近代戦はゲームみたいなもんでしょ。母国にいて遠隔操作で無人機を飛ばし、標的をピンポイントで空爆する……」
漫画誌ビッグコミックで連載中の「隊務スリップ」(新田たつお著)で、主人公はそうつぶやく。
第1次大戦時と現代では、戦争のあり方は一変。長足の進歩を遂げたハイテク兵器を扱うには、高度な訓練を積んだ職業軍人でなければ難しいとされ、量より質が求められる。事実、徴兵制廃止は世界の流れだ。
ところが、この漫画では、近未来の日本に徴兵制が復活してしまう。ハイテク化によって、人材に量より質が求められるのは企業も同じ。余剰人員の扱いに困った財界が、受け皿として徴兵制に目を付けるという設定だ。食いつめた人々が生きるため、雇用を求めて戦場へ。気鋭の漫画家が想像してみせた21世紀の「リアル」だ。
「貧困層が戦地に送られる『経済的徴兵制』はSFではなく、現実の話だ」。ジャーナリストの堤未果さんはそう話す。志願制の米国で、貧しい若者が学費補助などと引き換えに入隊を選ぶ姿を取材してきた。
「政府は教育と社会保障の予算を削って、格差を拡大させさえすれば、入隊志願者を確保できてしまう。日本の若者を戦場に送りたくないなら、憲法9条を守るだけでなく、まともに生活できる環境を守らなければならない」
古代ギリシャの昔から、軍事的義務と政治参加の権利はセットで考えられてきた。第1次大戦時にも、日系カナダ移民が参政権を求めて、欧州戦線に身を投じた。
既に参政権を手にしている我々は、生存権を求めて戦場に赴くのだろうか。(上原佳久)
(世間の戦争 第1次世界大戦から100年:1)「浮かれ気分」に流された大衆
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11295103.html 2014年8月12日
100年前の夏、朝日新聞は連日、岡本一平の「戦争漫画」を載せた。7月に欧州で始まった第1次世界大戦は、日本を含む31カ国が戦い、4年間で約1千万人が戦死したとされる。
だが、東京へ打電された戦況報告をもとに一平が描いた絵は明るく滑稽だ。漫画史が専門の明治大学准教授、宮本大人(ひろひと)さん(44)は「どんな政治的な立場も突き放して相対化してしまうのが一平のスタンスだった」という。それが結局、「当時の大衆の気分に応えてしまったのではないか」と。
漫画に限らず、当時は戦争を競技のように報じていた。欧州各国の戦力一覧表や元首の顔を並べた紙面は、サッカーW杯を報じる昨今の紙面をどこか連想させる。
第1次大戦の日本の戦死者は千人未満とされる。だが第2次大戦では戦没者が桁違いの約310万人に上り、戦争のイメージは「悲劇」となった。漫画「はだしのゲン」(73年)やアニメ映画「火垂るの墓」(88年)で描かれた庶民は、国家や軍部によって戦争に巻き込まれた被害者だ。
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しかし近年、描き方に変化が起きている。意識的に、あるいは無意識に、戦争に加担していく人々が映画などに登場している。
山田洋次監督(82)の「小さいおうち」は、太平洋戦争開戦の日を描く。小学生が「バンザーイ」と叫び、御用聞きの酒屋が威勢のいい言葉を並べ立てる。1月の公開時、山田さんは「僕も小学生だったが、まさにあんな感じで、大人たちも大喜びしていた。米国人を殺したのを喜んでいることに、思いが至らなかった」と話した。
昨夏公開された宮崎駿監督(73)の「風立ちぬ」は、零戦設計者の主人公が人殺しの道具を作っていることへの一抹の疑問を口にしつつも、より美しく性能の良い戦闘機の設計に邁進(まいしん)していく姿を、肯定も否定もせず、淡々と描いた。
家族の出征を悲しみつつ、勝利に喝采する。映画評論家の佐藤忠男さん(83)は、当時の人々の気持ちのあいまいさを「グレーゾーン」と呼ぶ。「戦後70年近くたって、ようやく描けるようになった」
佐藤さんは日中戦争が始まった37年に小学校に入った。帰還した将校が学校で、捕虜の首を切るのがどんなに面白いかを講演したことがあった。校長は苦笑いし、佐藤少年は戸惑った。「戦地がどんなものか、知ろうと思えば知れたのに、私たちはそうしなかった。聞いちゃまずいかなという気分が何となくあった」。一人ひとりの遠慮の重なりが、戦争の実相を遠ざけた。「グレーゾーンから目をそらして社会を単純化すると、また同じ過ちを繰り返してしまう」
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敗戦から69年。戦前・戦中世代の表現者が自らの経験を誠実に描こうとする一方で、戦後世代も新たな視点を模索し始めた。
劇作家の坂手洋二さん(52)は昨年、演劇「カウラの班長会議」を書いた。44年、日本人捕虜が豪州の収容所から集団脱走を図り、約230人が死亡した事件に取材した。
物語の中では、事件を映画化する現代の学生と捕虜たちが撮影を通じ「交信」する。脱走をやめさせようとする学生たちに、捕虜は「君たちが止めなきゃいけないのは、俺たちじゃない」と諭す。坂手さんは「歴史の『もしも』ではなく、今の僕らの問題だと考えなくてはいけないと思う」と話す。
7月に刊行された今日マチ子さんの漫画『いちご戦争』は、無表情な少女たちがいちごをぶつけあい、フォークを手にフルーツサンドの壁へ突撃する。「お菓子と戦争は似ている。どちらもなくてもいいはずなのにやめられない」。お菓子を武器にした戦いには、甘さと残酷さが共存する。
ひめゆり学徒隊をモチーフにした『cocoon(コクーン)』以降、戦争ものは3作目。描き続けるうちに、傷つけられる少女から、傷つける少女へと視点が変わった。読者からは、被害者を描くと「泣いた」と言われ、加害者を描けば「楽しかった」と言われる。「不思議ですね。傷つける側に立てばそう思ってしまうのかも。大きなものに流されてしまうのが戦争の怖さだと思う。私も周りに流されやすい、ふつうの人だから」
(編集委員・石飛徳樹、中村真理子、増田愛子)
【下平・註】
安倍総理の戦争右傾化が始まっている。
(「積極的平和主義」の実像)防衛装備、日英が急接近 脱「米一辺倒」、関心一致に見るように武器輸出三原則がくずれさり、川崎重工業による兵器産業が堂々とはじめられ新聞紙上に平然と出ました。
すべての社会風潮の基盤が、地震前兆の地殻変動のように目には見えず、きな臭い戦争へと微動しはじめています。 だとすれば、12日の新聞に出ていた(声)欄の “戦力持たない日本の夢を見た”への転向を真剣に考えた方がいい。
戦力持たない日本の夢を見た 医師 森弘行(北海道 53)
こんな夢を見た。
20××年、時の内閣は閣議で憲法解釈の変更を決定した。憲法を「積極的」に解釈し、一切の戦力を放棄するというものだ。その後、自衛隊は完全な武装解除を行い、国際救援隊となった。世界各地で大きな災害や事故があると駆けつけ、日本人は「汗を流して」働いた。どこの国でも銃を持たない救援隊と日の丸は歓迎された。
国際救援隊の志願者は増え、多くの若者が国内外で働き、多くのことを学んだ。予算規模も大きくなったが、日本の高度な技術力でこれまでにない機能の救助ロボットや機器が開発された。どこの国でも、日本企業はそれまで以上に好意的に受け入れられるようになった。戦力を持たない国に対し、戦争を仕掛ける口実は誰にも見つけられなかった。
夢物語と笑われるかもしれない。しかし、ここ20年ほどの間に、世界中で何が起きているかをリアルタイムで見ることができる時代になった。短期間に世界は変わりうるのだ。国家間の経済依存も格段に大きくなっている。世界中の為政者の頭の中よりも、現実社会は先を進んでいくだろう。
いつか夢物語でなくなる日が来ることを願う。