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折々の記 2015 ①
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 06 】02/24

  02 24 「文官統制」見直し法案   制服組、背広組と対等 防衛省方針
  02 25 天声人語   自衛隊派遣という歌声
  02 25 中華民族復興   インタビュー パトリック・ルーカス
  02 25 9.11のテロは何故おきたのか   真実は強大な権力によって縛守

 02 24 (火) 「文官統制」見直し法案    制服組、背広組と対等 防衛省方針

2015年2月24日
「文官統制」見直し法案
   制服組、背広組と対等 防衛省方針

   http://digital.asahi.com/articles/DA3S11617420.html

 防衛省は、文官である背広組(内局)が制服組(自衛官)を監督する根拠となってきた防衛省設置法の条文を見直す方針を固めた。同法改正案を、今国会に提出する方針だが、背広組を制服組より優位としてきた「文官統制」の大きな転換となるだけに、国会でも議論を呼びそうだ。


      防衛省設置法   (昭和二十九年六月九日法律第百六十四号)
最終改正:平成二六年六月一三日法律第六七号

  (官房長及び局長と幕僚長との関係)
  第十二条 官房長及び局長赤字は新たに盛り込んだ文言】≪並びに防衛装備
  庁長官は、統合幕僚長、陸上幕僚長、海上幕僚長及び航空幕僚長が
  行う ……隊務に関する補佐と相まって、…… 防衛省の所掌事務が法
  令に従い、かつ、適切に遂行されるよう、≫
その所掌事務に関し、次の
  事項について防衛大臣を補佐するものとする。

 一  陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊又は統合幕僚監部に関する
    各般の方針及び基本的な実施計画の作成について防衛大臣の行う
    統合幕僚長、陸上幕僚長、海上幕僚長又は航空幕
    僚長(以下「幕僚長」という。)に対する指示

 二  陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊又は統合幕僚監部に関する
    事項に関して幕僚長の作成した方針及び基本的な実施計画につい
    て防衛大臣の行う承認

 三  陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊又は統合幕僚監部に関し防
    衛大臣の行う一般的監督


 ▼4面=制服組、増す影響力

 「文官統制」の仕組みができたのは、戦前・戦中の軍の暴走の反省からだ。

 文民である防衛相が自衛隊を統制するのが「文民統制」。その防衛相を政策の専門家である「文官」の背広組が支えるのが「文官統制」だ。「文官統制」をとり入れたのは、制服組への統制をより強化する狙いがあった。

 その根拠になってきたのが、防衛省設置法12条だ。ここでは、防衛大臣が、制服組のトップである統合幕僚長や陸海空の幕僚長らに対して指示を出したり、監督をしたりする際、背広組の幹部である局長や官房長が大臣を「補佐する」と定められている。

 これが根拠になり、防衛相が自衛隊部隊への命令や人事を出す際や、自衛隊から防衛相に連絡する際は、背広組を通す仕組みになっていた。一方で、制服組の中には「部隊の運用になぜ内局が口を出すのか」などの不満が根強くあった。

 今回の改正案では、局長と官房長、それぞれの幕僚長とが対等に、防衛相を補佐する仕組みとする。ミサイルへの対応や大規模災害などの危機対応の際に、背広組を通さずに部隊から直接、防衛相に連絡が上がるようになるほか、防衛相から各幕僚長を通じて部隊に直接指示が出されることになるなど、制服組の影響力が強まることにつながる。

 (三輪さち子)

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  制服組、増す影響力 揺らぐ「文官統制」 防衛省設置法改正案(2/24) ⇒後出
  背広組と制服組、対等に 「文官統制」大転換 法改正へ(2/23) ⇒後出



2015年2月24日
制服組、増す影響力
    揺らぐ「文官統制」 防衛省設置法改正案

       http://digital.asahi.com/articles/DA3S11617339.html

 「文官統制」の象徴だった防衛省設置法12条の改正に同省が乗り出した。防衛省は、自衛隊の効率化や意思決定の迅速化などを理由に掲げるが、制服組(陸海空の自衛官)の影響力は増大する。背広組(文官の防衛省職員)の影響力低下で、現場の自衛官の暴走が万一にもないのか。チェック態勢の確保に加え、防衛相の責任が一層問われる。▼1面参照

 同法12条をめぐっては、撤廃したい制服組と、残したい背広組との間で長年のせめぎあいがあった。「12条そのものを削除すべきだ」との意見もあったが、背広組と制服組が対等に防衛相を補佐する条文案で折り合った。

 見直しを求めてきたのは、自衛官出身の中谷元・防衛相や自民党国防族の石破茂・元防衛相らだった。議員らは、2008年にイージス艦「あたご」と漁船の衝突事故で、現場から防衛相に報告が上がるまで、約1時間40分かかった例を挙げる。内局の複数の部署のやりとりに時間を取られたためだ。

 中谷氏は著書で「オペレーション(部隊運用)と訓練は、各幕僚長や統合幕僚長が直接、大臣・官邸・総理に連絡し、指示をもらうことを徹底すべきだ」と主張していた。今回、改正法の検討に至ったのは、中谷氏が防衛相に就任したことも大きい。

 今回の改正案では制服組の権限が大幅に強化されることになり、制服組は歓迎している。将官級の自衛隊幹部は「運用の専門家でもない内局職員(背広組)が大臣と統幕長の間に関与すること自体、論理矛盾だった」と語る。

 設置法改正案では、内部部局の運用企画局を廃止し、運用担当の内局職員も統合幕僚監部のスタッフになり、制服組トップの統合幕僚長が自衛隊の運用について防衛相を直接補佐する仕組みに変わる。別の自衛隊幹部は、「背広組は政策的な見地から判断をして、制服組は軍事的な見地から判断する。それぞれが車の両輪で支える」と話す。

 一方、権限が縮小されることになる背広組幹部は「部隊の運用に関わる判断を制服組に任せて、本当に政策的な判断ができるのだろうか」と懐疑的だ。

 制服組にも権限の拡大を自戒する声がある。海自幹部は法改正を歓迎しつつも、制服組は自衛隊の運用の補佐に徹すべきだ、と強調する。この幹部は「『運用は制服の聖域』から始まって、軍部が政策、政治にまで介入していったことが戦前の教訓。我々は絶対そこを超えてはいけない」と話す。(三輪さち子、土居貴輝)

 ◆<考論>早く的確に反応できる

 元陸将の志方俊之・帝京大教授(安全保障) 小笠原、伊豆両諸島の周辺に統率のとれた中国漁船が続々とやって来る。ある日、突然、中国の漁民が尖閣に上陸するかもしれない。冷戦時代と違って、より迅速な対応が求められており、法改正は必要だ。

 自衛隊を使う理由や制御を考えるのは「背広組」の仕事。一方、「制服組」が部隊の運用を考える。二つをわけた方が、こうしたグレーゾーン事態により早く的確に反応できるはずだ。

 制服組が何もかもやるということではない。防衛相は文民だ。文民統制は変わらない。部隊行動基準をあらかじめ決めれば歯止めになる。法改正によって、制服組が暴走するという批判は当たらない。

 ◆<考論>統制へ新たな方策必要

 青井未帆・学習院大教授(憲法) 「背広組」の要だった防衛参事官制度の2009年の廃止など、文官優位は崩れつつあったが、法改正で完全に崩れるだろう。

 本来、軍事を統制する立場にある政治家の足りない部分を補ってきたのが背広組と呼ばれる防衛官僚だった。その力を弱め、「制服組」を強めれば、軍事を統制するバランスは変わる。

 集団的自衛権など、防衛をめぐる論議はより専門性を増している。政治家の質が変わらないなかで、首相、防衛相、国会に本当の意味で制服組を統制できるか心配だ。

 政治家は「自分たちを信用してくれ」と言うだろう。だが、バランスを変えるのなら統制のための新たな方策が必要だ。

 (聞き手・いずれも斉藤佑介)

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  「文官統制」見直し法案 制服組、背広組と対等 防衛省方針(2/24)
  背広組と制服組、対等に 「文官統制」大転換 法改正へ(2/23)



2015年2月24日
背広組と制服組、対等に
    「文官統制」大転換 法改正へ

       http://digital.asahi.com/articles/ASH2R5X1SH2RUTFK00P.html?iref=reca

 防衛省は、文官である背広組(内局)が制服組(自衛官)を監督する根拠となってきた防衛省設置法の条文を見直す方針を固めた。同法改正案を、今国会に提出する方針だが、背広組を制服組より優位としてきた「文官統制」の大きな転換となるだけに、国会でも議論を呼びそうだ。

 「文官統制」の仕組みができたのは、戦前・戦中の軍の暴走の反省からだ。

 文民である防衛相が自衛隊を統制するのが「文民統制」。その防衛相を政策の専門家である「文官」の背広組が支えるのが「文官統制」だ。「文官統制」をとり入れたのは、制服組への統制をより強化する狙いがあった。

 その根拠になってきたのが、防衛省設置法12条だ。ここでは、防衛大臣が、制服組のトップである統合幕僚長や陸海空の幕僚長らに対して指示を出したり、監督をしたりする際、背広組の幹部である局長や官房長が大臣を「補佐する」と定められている。

 これが根拠になり、防衛相が自衛隊部隊への命令や人事を出す際や、自衛隊から防衛相に連絡する際は、背広組を通す仕組みになっていた。一方で、制服組の中には「部隊の運用になぜ内局が口を出すのか」などの不満が根強くあり、自民党防衛関係議員らの間にも、自衛隊の運用を素早くする観点などから、見直しを求める声が強かった。

 今回の改正案では、局長と官房長、それぞれの幕僚長とが対等に、防衛相を補佐する仕組みとする。ミサイルへの対応や大規模災害などの危機対応の際に、背広組を通さずに部隊から直接、防衛相に連絡が上がるようになるほか、防衛相から各幕僚長を通じて部隊に直接指示が出されることになるなど、制服組の影響力が強まることにつながる。(三輪さち子)

 
 02 25 (水) 天声人語    自衛隊派遣という歌声

▼唱歌教育のためにまとめられた明治期の報告書に、音楽と人間形成をめぐる次のようなくだりがあるそうだ。幼い頃から長調で教育された者は勇壮活発の精神を発揮するのに対し、短調で教育された者は柔弱憂鬱(にゅうじゃくゆううつ)の資質を成す――

▼渡辺裕さんの著書『歌う国民』に教えられた。富国強兵をかかげた時代は「長調的な明るさや勢い」を求めたのだろうか。報告書の当否はさておいて、そこから連想する一節が、民俗学の柳田国男にある

▼「日本の男子には妙な習癖があって、不景気な考え方だ引込思案(ひっこみじあん)だと言われると、随分尤(もっと)もな意見を持っていてもすぐへこたれ、明らかに無謀な積極政策を提案しても、大抵は威勢がいいの進取的だのと言って誉(ほ)められる」。こちらは昭和初期の講演記だ

▼その後の日本がたどった道を思えば、含みは深い。威勢のいい旋律が、異論の調べを消していった。そんな教訓を歴史の箱から取り出して、かえりみるときかも知れない。安全保障をめぐり、政府の拡大志向が止まらない

▼海外での自衛隊の活動の歯止めを、次々に外そうという「積極策」である。詳しく書く字数はないが、朝日川柳にあった〈どうしても派兵をしたい首相持ち〉に同感の方もおいでだと想像する

▼残忍な過激派が跳梁(ちょうりょう)する時代、テロへの不安をはらんで、勇ましくわかりやすい主張が幅をきかせがちだ。理のある異議まで利敵のように扱われる空気が広まるなら、世の中は危うい。自民党の歌声ばかり高くないか、気にかかる。

 02 25 (水) 中華民族復興   インタビュー パトリック・ルーカス

2015年2月25日 インタビュー パトリック・ルーカスさん
中華民族復興
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11619169.html?ref=pcviewer

 「中華民族」という言葉が高らかに唱えられる最近の中国。日中関係の行方がまだまだ不透明な中、戦後70年の今年、日本への風当たりも強まりかねない様相だ。中国の変化を約30年にわたって見つめてきた米国の文化人類学者、パトリック・ルーカスさんは、中国国内のナショナリズムを、中国語で「民族主義」と語る。意見を聞いた。

問――「偉大なる中華民族の復興」。習近平政権が強調するこのスローガンからお聞きします。どう見ますか。

 「習近平氏の発する言葉は、この20~30年間の中国の最高指導者のなかで、最も民族主義的な色彩が強いものだと言えるでしょう。彼の言葉にはイメージ的なものも含めて二つの理論が盛り込まれています。一つは『中国は特別である』ということ。もう一つは『中国の需要は他者より大事だ』といったものです」

 「『偉大なる中華民族の復興』とは、我々は歴史上優秀な民族であり、アジアの中心だった元々の地位に戻ると言いたいのです。こうした考え方は、とても危険です。歴史がどうだからといって、そのことで未来を決めることはできないから」

問――ナショナリズムについて、あなたは今の中国で高まっているのは愛国主義ではなく民族主義だと、はっきり区別していますね。

 「愛国主義には健康的な部分もあり、必ずしも他者を傷つけるわけではありません。民族主義はそもそもが差別意識であり、他者を必要とする。そして往々にしてその他者に害を与えます。『我々は別の人々よりも優れており、特別』、だから、『我々はやりたいことができる』。それが基本理論です」

 「中国政府の高官や外交官の言葉を思い起こしてみても、『中国の歴史は特別』『中国文明は特別』『中国の思想は特別』などなど、この種の発言がなんと多いことか」

    ◆■     ◆■

問――民族主義をあおるような言葉が使われる背景をどう見ますか。あなたは経済改革が始まった1980年代から中国を研究してきました。

 「歴史を遡(さかのぼ)ってみれば、80年代、中国共産党は『破産』しました。共産党が呼びかける共産主義のイデオロギーを、だれも信じなくなったからです。私の知る党官僚自身ですら、そうでした。共産党は、市民の信任を得るため、何か新たなものを必要としました」

 「共産党がまず導入したのは人々の物質的な要求を満足させる方法。共産党には欠点もあるけれど、言うことをきいてくれれば誰もが豊かになれますよ、というものでした」

 「これは悪くありませんでした。みんなが自転車やミシン、テレビを持つようになりました。しかし、物質的な欲求をある程度満足させた人々は、もっと多くの物質的な欲求を満足させると同時に、精神的な欲求も満足させたいと思ったのです」

 「人々は、この社会は不平等だと考え始めました。権力者や金持ちは、すべてを思いのままにしているが、そうでない人は、すべてにおいて受動的でなければならない、と」

問――不平等の問題が、共産党統治を揺るがす最初の危機として現れたということですね。

 「そう。もう一つは社会システムの問題です。人々は、共産党に何も依存していないと思う一方、何も社会的な貢献をしようとしない。指導者が何を言おうが、自分の人生とは関係ないと思ってしまう。統治を空洞化しかねない二つ目の危機でした。共産党は一党支配を変えることができない。だから、帽子を変え、マスクを変えることにしました。共産主義はいわば淘汰(とうた)され、民族主義が統治に使われ始めたのです」

    ◆■     ◆■

問――「抗日戦争勝利50周年」の1995年前後、当時の江沢民国家主席は愛国主義教育を強めました。

 「ここで登場したのが『被害者の物語』。これは極めて便利なものでした。なぜならば、西欧や日本から受けた被害の歴史を強調することで『ほかの民族は堕落しており、野蛮であり、自分たちは善良で無辜(むこ)である』と言えるから。この場合の敵は、西欧人であり帝国主義。さらに日本人と、その侵略行為でした。民族主義と共に、こうした『記憶』が呼び起こされたのです」

 「民族主義を広めるのは実はびっくりするくらい簡単です。理論が簡単、というより空っぽですから。空っぽの核心によく入れられるのが『歴史』。これは中国だけでなく、日本などでも同じでしょう」

 「興味深いことは、49年の建国の際に毛沢東たちが訴えたのは、中華民族が立ち上がった『勝利者の物語』だったということです。80年代まで、統治者は『被害者の物語』を必要としなかった。中国の庶民たちの記憶もこの点、もやっとしているように見えます。指導者やエリートが『我々の社会は元々こうだ』と言い出すと、人々はわりと簡単に歴史認識を変えてしまいます。それだけ民族主義は、統治者にとって使いやすい道具ということなのです」

問――ただ2012年の反日デモでは、日本車だとの理由でパトカーまで壊されました。

 「中国政府も民族主義のパワーが大きくなりすぎて、コントロールできない状況が生じています。中国政府は対外的に一寸たりとも譲らないといった強硬姿勢を見せていますが、問題は、それでどうやってほかの国と付き合っていくかです。政治はお互いに譲歩するものです。しかし、外国人に譲歩をすれば、政府も批判を免れなくなっています」

    ◆■     ◆■

問――あなたはこうした民族主義が、中国国内の少数民族に与える影響も指摘しています。

 「正確に言えば、中国の民族主義は中国人全体の民族主義ではありません。漢族の民族主義です。最近の『漢服運動』はその一つの例です。以前、中国の伝統服と言えば清朝のもの。分かりやすいのは女性が着る旗袍(チーパオ)(チャイナドレス)ですね。でも清朝は満州族が統治者だったから、今やこれらは淘汰され始めています。私が研究した中央民族大学は中国の56民族が学ぶ学校ですが、その校内でも漢服運動が行われている。多民族国家である中国にとって危険な動きです」

問――ここ数年、新疆ウイグル自治区やチベット自治区で、少数民族と漢族との摩擦が強まっています。

 「漢族中心の民族主義拡大と関係があるはずです。自分たちの民族の学校を閉鎖するぞと言われたり、ウイグル語を使うなと言われたりしたら少数民族は直感として危機感を覚えます。新疆では、ウイグル族が漢族と結婚すればお金がもらえるという話も聞きました。いわば『漢族になれ』ということで、少数民族側に受け入れられるわけがありません」

問――中国周辺の国や地域にとっても、こうした民族主義の拡大にどう対処するかは大きな課題です。

 「昨年、台湾や香港で起きた民主を求める動きも、中国の民族主義の影響を無視することはできないと思います。ある中国の学者は『香港人は長年、西洋の奴隷だった』とテレビで発言していました。多くの香港人も漢族のはずですが、大陸の漢族は香港を下に見ています。これに反抗しようと考える香港人が出るのは当然のことです」

 「巨大な隣国で民族主義が高まれば、周辺の人々は圧力を感じます。日本の状況はよく分からないので、具体的なことは言いたくありません。でも、中国の民族主義の高まりによって、日本の民族主義が高まることは自然な流れです」

 「誤解のないように言っておきたいのですが、中国のすべてが民族主義というわけではありません。民族主義だけで中国を定義してはいけません。民族主義は中国の一側面に過ぎない。私が中国の民族主義を観察しているのは、それを理解しなければ、今の中国を分かることはできないと思うからです」

問――民族主義一色でない状態が、周囲にいる私たちに見えにくいという悩みがあります。

 「確かに今の中国で聞こえてくるのは、エリートの声と民族主義的な言葉ばかりです。でも、それ以外の言葉も話しやすい開放的な社会になれば、民族主義に反対する人が多くを話し出すかもしれません」

    *

 Patrick Lucas 文化人類学者 1964年生まれ。80年代から中国に留学。中央民族大学(北京)などでの研究を経て2011年、米国学生の中国留学を進める国際教育交流協議会・北京センター長に。中国少数民族の調査研究をまとめた著書がある。

 ◆取材を終えて

 ルーカス氏は中国のナショナリズムの動きを文化人類学の視点から研究してきた人物である。国際的に知られた学者ではないが、流暢(りゅうちょう)な中国語を駆使して、貴州省などで少数民族の文化を現地調査した経験も持つ。中国で高まる漢族の民族主義が、少数民族を刺激し、さらには日本を含む周辺地域の民族主義に影響を与えていると指摘する。

 今年は戦後70年であるとともに、大隈重信内閣が当時の中華民国政府に日本の権益拡大を求めた「対華21カ条要求」から100年にあたる。要求への抗議を機に、中国では愛国主義と民族主義が混ざった排日運動が高まり、それが日中戦争へとつながる日本の対中強硬論を煽(あお)った。

 隣り合う国の民族主義が互いに刺激し合うことは避けられない。同氏の指摘は、我々日本人もまた、民族主義の「負の連鎖」のなかにあることを気づかせてくれる。東アジアの民族主義の拡大を抑えるにはまず、この自覚こそが求められている。(中国総局長・古谷浩一)

 ◆キーワード

 <漢服運動> 中国全人口の9割を占める漢族の伝統衣装をできるだけ着ようとする文化運動。漢族の王朝だった明が17世紀に滅びて以降、漢服は忘れられた存在だったが、1990年代から注目されるようになり、最近も特に若者の間で「着ると動きが優雅になる」などと人気が広がっている。

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  「中台統一へ妥協ない」 習主席、強硬姿勢へ変化(9/27) ⇒後出



2014年9月27日 
「中台統一へ妥協ない」 習主席、強硬姿勢へ変化
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11371741.html?iref=reca

 中国の習近平(シーチンピン)国家主席は26日、台湾の統一派訪問団と北京で会見した。「国家統一という重大問題では我々の立場は堅く、一切の妥協や動揺はない」と述べ、中台統一への強い思いを示した。発言全体のトーンはこれまでの台湾関連発言に比べて強硬で、台湾政策が調整された可能性がある。

 中国の新華社通信によると、習氏は、香港やマカオで行われている「一国二制度」による平和的な統一が「中台統一の最も良い方式だ」と言及した。一国二制度での統一は中国の以前からの方針だが、台湾の聯合晩報によると、習氏が提起したのは2012年の共産党総書記就任後初めて。

 同制度は香港行政長官の選出方法をめぐって限界が指摘されており、もともと受け入れを拒んできた台湾の総統府は「全く受け入れられない」と改めて反論。反発が広がる可能性がある。

 習氏はまた、「国家の統一は中華民族が偉大な復興に進む歴史の必然」と主張。「台湾同胞も、大陸の13億人の同胞の受け止めや気持ちをもっと理解すべきだ」と求めた。さらに、「台湾独立の分裂勢力は両岸の敵意と対立をあおっている。関係の平和的発展における最大かつ現実的な脅威だ」と強く警戒。「いかなる国家分裂の行為も絶対に容認しない」と牽制(けんせい)した。

 習氏は今年2月、台湾の連戦・元副総統と会談した際には「両岸は一家の情」などと強調。数百年前に中国から台湾に渡った人たちなどにも触れるなど親しみやすさをアピールしていた。

 今年3月に台湾で中台の過度な接近に抵抗感を持つ学生らが立法院(国会)を占拠。その後、台湾側で中台サービス貿易協定の審議が止まり、中台協議が停滞している。習氏の姿勢の変化には、こうした状況への不満があると見られる。

 (台北=鵜飼啓)

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 02 25 (水) 9.11のテロは何故おきたのか   真実は強大な権力によって縛守

9.11のテロは何故おきたのか。 真実の狙いは何だったのだろうか。 私たちの耳に入ってはこない。

それに関するニュースがあるにせよ、真実は強大な権力によって縛守されているだろう。 近づけば暗殺されるに違いない。

9.11事件は何故おきたのか。 検索してみると次のようなものが出てくる。



約 768,000 件 (0.18 秒)  何と0.18 秒で約 77万件のURLが検索されるのです。

 アメリカ同時多発テロの目的や原因とは?子供にもわかりやすい ...
50秒ニュース.com/syakai/9-11/
2014/08/28 - 2001年9月11日火曜日。歴史に刻まれる大事件が発生しました。アメリカ同時多発テロ。通称9・11と呼ばれ歴史的なテロとして今でも世界共通の認識として存在しています。 犠牲者に日本人も含まれており多くの命が奪われた悲劇の事件です ...

 911テロが最近ニュースに出ない本当の理由とは・・・【保存版 ...
matome.naver.jp/odai/2136056666857347801
真実はいったい何だったのか今となってはわかりませんが、メディアで報道されないこと情報を鵜呑みにしないことは大切だと思います911で被害を負った皆様へ哀悼を捧げま...

 9.11はなぜ起こった。 - 政治 | 教えて!goo ⇒後掲示
oshiete.goo.ne.jp › 社会 › 政治
2007/05/14 - アメリカはなぜテロの標的となったのか?』No.5 http://okwave.jp/qa2387045.html 以下、引用します。 >まずは、アルカイダの創始者であるウサマ・ビンラディンの話から始めます。 >彼はサウジアラビアの大富豪の息子ですが、いろいろあっ ...

 9・11 事件の真相
yogananda.cc/daily/you/911.html
2001年9月11日 アメリカで起きた同時多発テロには誰しもが 強烈な衝撃を受けたことと思います。 私も事件の ... この事件は、アルカイダというテロ組織が起こした戦争(!) ... なぜ事件当日世界貿易センタービルには、ユダヤ人がほとんどいなかったのか。

 アメリカ同時多発テロ事件は、なぜおきたのですか - Yahoo!知恵袋 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp › ... › 政治、社会問題 2011/09/13 - アメリカ同時多発テロ事件は、なぜおきたのですか、ぼくは6年生ですので、わかりやすいように - 理由は色々あるけど、当時のアメリカ大統領ブッシュはその前のクリントンと違って、中東和平に消極的で...

 9.11 いまなお消えない9つの謎 - dot.(ドット) - 朝日新聞デジタル ⇒後掲示
dot.asahi.com/wa/2012092600508.html
2011/05/10 - 9・11から始まったテロ戦争という有事体制の中で、米国メディアがいや応なしに体制に引きずられるのは当然です。 ... (7)ビンラディンはなぜ9・11事件の容疑で指名手配されていないのか? ... (8)容疑者の人違いはなぜ起きたのか?

 見えてきた911事件の深層 - 田中宇の国際ニュース解説 ⇒後掲示
tanakanews.com/d0327wtc.htm
2003/03/27 - アメリカで911事件が起きてから1カ月後の2001年10月上旬、この大規模テロ事件の犯人を特定することにつながるニュースが、インドとパキスタン ... なぜアメリカ政府は、パキスタン当局が911事件に関与していたことを不問に付したのか。

 9.11アメリカ同時多発テロとは? - グローバル・イノベーション ナビ
gipj.net/news/n140912/
2014/09/11 - “9.11”として知られるアメリカの同時多発テロとは、2001年9月11日の午前中にアメリカの国内便4機がアラブ系のグループによりハイジャックされ、乗客・乗員を道連れにして世界貿易センターならびにアメリカ国防総省本庁舎に衝突した事件 ...

 911 の真相は?
rose.eek.jp/911/
2008/09/25 - すべてに目を通し検討した上で掲載しているわけではないことをお断りしておきます。また、YouTubeの動画などは入れ替わりが ... ラディンの近くで撮影をしながら(?)、なぜ捕まえないのか、なぜテロを阻止できなかったのかが不思議でした。

 なぜ9/11だけ特別視するの? 世界中でもっと酷い事件が起き ...
goyaku.blog45.fc2.com/blog-entry-705.html
2014/09/11 - 日本の捕鯨を叩く欧米人がアラスカの捕鯨を観てどう言い訳するのか覗いてきた ..... なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか(祥伝社新書287) ..... 911が起きても他国から「アメリカはいつかやられると思ってたわ」と言われまくって「え?


③ 9.11はなぜ起こった - 政治 | 教えて!goo

No.6ベストアンサー  回答者:DieMeute   回答日時:2007/05/17 04:04

. NO.3です。補足があったのでそれに対して回答します。

イスラエルとパレスチナが戦っているのは、色々問題はあるのですが、単純化すれば土地争いです。簡単に言いますと・・・
約2000年前、パレスチナにはユダヤ人の国がありました。しかし、戦争によって滅び、生き残ったユダヤ人達は世界各地に離散します。
19世紀になると世界各地で迫害を受けるユダヤ人達の中に、パレスチナの土地に帰ってまた自分達の国を作ろうという運動が起こります。
そして色々あって、第二次世界大戦後にパレスチナに、ユダヤ人の国が作られる事になりました。
パレスチナに世界各地から大勢のユダヤ人がやってきて移り住んだ訳ですが、そこには既に長い間住んでいたアラブ人がいました。ユダヤ人が以前は国を持っていたとは言え、それは2000年も昔の話なわけで、そこに暮らしていたアラブ人は納得いきません。土地を巡って諍いが起きたりしました。
周辺のアラブ諸国も、アラブ人の土地を奪うものとして反発します。
そしてユダヤ人とアラブ人の争いとなりました。
この辺はウィキで「イスラエル」とか「パレスチナ問題」を見ていただければ、理解が深まると思います。

アメリカがイスラエルを支援するのは国内におけるユダヤ人社会が大きな力を持っているからです。長く迫害を各国で受けてきたユダヤ人は生き残る為に、勤勉で教育熱心で、商業活動にもひと際熱心でした。アメリカに移民した多くのユダヤ人もそうです。アメリカの政治、経済、金融、石油、マスコミなどの重要なポスト、経営者等に多くのユダヤ人がいます。その影響力は大きく、また選挙等においても、票や資金で多くの政治家が支援を受けていると言われます。
ユダヤ人の票と資金が無ければ落選する政治家は、少なくないと言われています。
そしてアメリカのユダヤ人社会は、同胞の国であるイスラエルを支援する事を国に求めています。この要望を無視する事はアメリカの政治家にはできないのです。

No.5  回答者:cse_ri2   回答日時:2007/05/14 23:21

. 以前に類似の質問に回答しています。

『アメリカはなぜテロの標的となったのか?』No.5
 http://okwave.jp/qa2387045.html

以下、引用します。

>まずは、アルカイダの創始者であるウサマ・ビンラディンの話から始めます。
>彼はサウジアラビアの大富豪の息子ですが、いろいろあって当時アフガニスタンに侵攻していたソ連軍と戦うため、現地のゲリラ勢力に身を投じていました。
>その頃は、ソ連という共通の敵がいたため、アメリカとイスラム過激派の関係は良好であり、アフガニスタンで戦う彼らのために、アメリカが武器弾薬を援助するような関係でした。
>その後、ソ連がアフガニスタンから撤退し、さらに冷戦終結後、ソ連が崩壊します。
>ウサマ・ビンラディンも、アフガニスタンから祖国のサウジアラビアに戻りました。
>ところがその後、イラクのフセインがクウェートを占領するなど、中東において軍事力で他国を圧倒する姿勢を見せました。
>中東一の金持ち国であっても、軍事力で劣るサウジアラビアは、自国の防衛のため、イラクとの国境線にアメリカ軍の基地を作ってアメリカ軍を駐留させる政策をとります。
>これに激怒したのが、ウサマ・ビンラディンでした。
>なぜ彼が怒ったかというと、サウジアラビアにはイスラム教の最大の聖地メッカがあるからです。
>今でもそうですが、メッカにはイスラム教徒以外の人が立ち入れません。
>そのメッカがあるサウジアラビアに、異教徒(キリスト教徒)のアメリカの軍隊を置くなどもっての他だということです。
>しかし彼の意見は、サウジアラビア政府に受け入れられず、かえって国からを追い出される結果となります。
>その頃、既にアルカイダの組織を結成していた彼はスーダンに移りますが、アメリカの圧力でスーダンも追われてアフガニスタンへと拠点を移します。
>その間に、アメリカへのテロ攻撃も行っていました。
>そしてアフガニスタンで本格的な軍事拠点を構えた彼は、アメリカへの最大の攻撃を計画します。
>それが9.11事件であったわけです。
>今までのアメリカのやり方に全く問題がないわけではありませんが、彼らが執拗にテロ攻撃を行う背景には、歴史的事情があることも加味しなくてはいけないでしょう。

その他、以下のブログの記事も参考になります。

参考:退避禁止!『文明の挑戦と応戦 前編・・オサマ・ビン・ラディンの戦略』
 http://kei-liberty.mo-blog.jp/taihikinsi/2006/10 …

ビンラディンは、イスラエルを排除するために、本気でアメリカと戦いたかったようですね。
我々から見たらテロであっても、彼にとっては世界的なゲリラ戦略の一つだったのでしょう。

No.4  回答者:straker505   回答日時:2007/05/14 23:03

. 湾岸戦争時に異教徒である米軍が サウジアラビアに駐留したことが イスラム教の聖地を汚した そういう根拠で特攻を敢行したようですが 今ひとつ、そこまでやる根拠が薄弱である そういう印象を強く持ちました 本拠が発見されて未だに砂漠の山岳地帯を彼らは逃亡生活をしているようです・・・・
確かに失うものの方が大きかったようですが 今後のイラク情勢によってはどうころぶか、やや不透明な部分もあります
広報戦術に対しては米政府の担当者も 完敗を認めているようですし

No.3  回答者:DieMeute   回答日時:2007/05/14 23:00

. 1.アメリカがイスラエルに莫大な資金援助をしている事。

この事についてビンラディンは次のように発言しています。
「アメリカ企業はアラブ世界で大金を儲けて、その税金をアメリカ政府に納めている。その金をもとにアメリカは、年間30億円ドルをイスラエルに送り、イスラエルはその金を使ってイスラム教徒のパレスチナ人を殺している」

2.聖地メッカのあるサウジアラビアにアメリカ軍が駐留している事。

1990年にイラクがクウェートに侵攻し占領した後、サウジアラビアを狙う姿勢を見せます。サウジ政府はアメリカに援助を求めますが、この時、ビンラディンは聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が入る事に反対していました。そして湾岸戦争終了後、数年経ってもサウジアラビアから撤退しないアメリカについて、ビンラディンは1998年に次のように発言しています。
「7年以上にもわたり、アメリカはイスラム教の最も神聖であるアラビア半島を占領し続けている。その富を荒らし奪い、統治者に命令し、人々を辱め、周囲を恐怖に陥れ、半島内の基地を近隣のイスラム教徒と戦う為の最前線基地にしている。善良なイスラム教徒は、全能の神に従って、どこにおいてもアメリカの市民や兵士と戦い、彼らを殺さなければならない」

また、イスラム原理主義者であるビンラディンの解釈では、アメリカは金銭と不道徳な快楽を追求する堕落し腐敗した神に背く国だそうです。

これらの理由からビンラディンは次のような事も発言しています。
「民間人であろうと軍人であろうと、アメリカとその同盟国の人間を殺す事は、全てのイスラム教徒に果たされた義務である」

No.2  回答者:tanuki4u   回答日時:2007/05/14 20:48

. 敵の敵は味方 しかし最初の敵がいなくなっても 味方とは限らない。
最初にある敵がソ連です。
ソ連がアフガニスタンに侵略したことに対してアメリカとイスラム勢力は協力しました。
アメリカが金と武器を提供して、イスラム勢力が兵士を提供する。
ビンラディン等はその時、サウジアラビアからの義勇兵です。
ソ連がアフガニスタンから撤退し、そして湾岸戦争が始まったら、メッカの守護者を任じているサウジアラビアに異教徒であるキリスト教徒がいるじゃありませんか、それがアメリカだったのです。
アメリカはイスラエルのバックについているしさぁ!
ってことデス

No.1  回答者:myeyesonly   回答日時:2007/05/14 19:18

. こんにちは。
そもそもは、あの地域にアメリカの気に食わない政権があったので、ひっくり返すべく特殊部隊を派遣してクーデター集団を養成した事です。

そのクーデター集団がそのうちに、「何もアメリカの言いなりになってなくてもいいじゃないか」と独立?を考え出して、アメリカの要求と自分たちの要求が合わない場合、アメリカ軍にたてつくようになったのが事の始まりです。

この点では、キリスト教国家であるアメリカとイスラム教徒でそもそもうまくいくはずがない、という想像はつかなかったのかは謎ですが。

つまりあのテロリストといわれてる人達は、米軍の教え子なのです。
そういう視点で見ると、911もまた違う面が見えてくると思います。


⑥ 9.11 いまなお消えない9つの謎 - dot.(ドット) - 朝日新聞デジタル

 9・11事件は、アラブ人の若者たちによって準備され、米国の防衛網の盲点を突いて実行されたという、一般に信じられているストーリーでは説明できないことが多すぎます。

 むしろブッシュ政権は、2001年9月11日に大規模なテロ事件が起きると知りつつ放置したか、もしくは事件の計画そのものに関与していたと考えたほうが無理がないのです。

 米国は、約40年間続いた冷戦に代わる構造を再構築するために、新たな戦争を望んでいた。そのきっかけとして、9・11が起きたのではないでしょうか。

 9・11から始まったテロ戦争という有事体制の中で、米国メディアがいや応なしに体制に引きずられるのは当然です。一方、インターネットは、その埒外にあるため、公式発表への疑問点も数多く報じられてきました。それは事件直後から今日まで続いています。

 9・11を考える入り口として、ここでは重要な疑問点を挙げてみます。

    *

(1)ワールド・トレード・センター(WTC)ビルはなぜ崩壊したのか?

 WTCのツインタワーは旅客機が突っ込んだ後に崩壊しましたが、その様子を見た多くの建築専門家が「あらかじめ爆弾が仕掛けられていたのではないか」と指摘していました。爆弾を次々に爆破させてビルを解体する「制御解体」との見方ですが、米政府は調査結果をもとに、それは根拠のない間違いと一蹴しています。

 「旅客機の衝突による衝撃と火災によって崩壊した」という公式発表が出ると、報道もその線に沿ったものになっていきました。

 しかし、最近になって米国の建築家グループが、ツインタワー崩壊は「制御解体」だったとして、米政府に再調査を求めています。自然落下に近いスピードで崩れ落ちたことなど、公式発表の内容では説明できない、としています。指摘される「制御解体」であったとしても、「だれが、どのように爆発物を仕掛けたか」との疑問は残ります。

(2)旅客機が衝突していない第7ビルはなぜ崩壊したのか?

 ツインタワー崩壊の約7時間後、近くにあるWTC第7ビルが崩れ落ちました。公式説明ではツインタワー崩壊の影響と火災が原因とされていますが、旅客機も衝突していない第7ビルが崩壊したのは、やはりビル解体に用いられる「制御解体」と見るのが自然です。謀略説を分析する人々の間では、この崩壊は「WTC7にも爆弾が仕掛けられており、犯人の手違いで爆破時刻がずれたのではないか」と考えられています。

(3)ビル崩壊の現場を十分な検証もせずに片づけたのはなぜなのか?

 ツインタワーの崩壊現場はただちに撤去作業が行われ、崩壊原因を特定するための十分な証拠調べが行われていなかった、という指摘が出ています。

◆ペンタゴン衝突、穴が小さすぎる◆

(4)米国防総省(ペンタゴン)ビルにできた穴は、なぜ衝突したとされる旅客機の大きさより小さいのか?

 ペンタゴンにはハイジャックされた旅客機が突っ込んでビルの一部が破壊されたとされていますが、公開された事件直後の写真を見ると、ビルの壁面にできた穴は旅客機が突っ込んだにしては小さすぎます。さらに旅客機の残骸などの証拠物も映っていません。ビルに突入した際に旅客機の機体が破壊されたとされ、機体の一部もペンタゴン周辺から見つかったとされています。だが、後に公表された激突の瞬間を映した監視カメラの映像にも機体は映っていません。

(5)米軍の緊急発進はなぜ遅れたのか?

 ハイジャックされた旅客機に対して、米軍は戦闘機を緊急発進させて旅客機を捕捉したり、撃墜したりする態勢を整えています。事件当日も米連邦航空局から米軍に緊急発進の要請が出されましたが、実際に戦闘機がニューヨーク上空に到着したのは、2機目の飛行機がWTCビルに激突した数分後でした。

 ペンタゴンに衝突したとされるハイジャックされた旅客機に対しても、ニューヨークから戦闘機を回しても間に合う時間的余裕がありましたが、戦闘機はその後3時間ほどニューヨーク上空を旋回し続けました。

 ペンタゴンがあるワシントンDCの守備は、15キロほど離れたアンドリュー空軍基地が担当していますが、この日はなぜか、約200キロ離れたラングレー空軍基地から3機の戦闘機が緊急発進しています。結果としてテロは阻止できませんでした。

(6)刑事捜査もせず、なぜ戦争に突き進んだのか?

 日本の警察・司法当局は、オウム真理教による一連のテロ事件を刑事事件として捜査し、教祖の松本智津夫(麻原彰晃)被告に死刑判決を下すなど、刑事手続きにのっとって解決しました。

 ところが米政府は「首謀者ビンラディン、実行犯19人。悪いのはタリバーンとアフガニスタン」と一方的に宣言し、実行犯への刑事手続きを踏まないまま、戦争へと突き進みました。

(7)ビンラディンはなぜ9・11事件の容疑で指名手配されていないのか?

 米連邦捜査局(FBI)のウェブサイトに、「もっとも重要な10人の指名手配犯人」の欄があり、オサマ・ビンラディンも、その中に含まれています。

 しかし、その容疑は、1998年8月にケニアとタンザニアの米国大使館が爆破され、200人以上が死んだ事件に関与したとあるだけで、9・11事件への言及が一切ありません。

 容疑の欄には最後に「その他、世界各地のテロ事件への関与も疑われている」と付け加えられているので、ここに9・11事件が入っているとも考えられますが、ビンラディンの事件への関与は薄いという意味にもとれます。

(8)容疑者の人違いはなぜ起きたのか?

 FBIは事件から3日後、主犯格のモハメド・アタをはじめ19人の実行犯のリストを発表しました。続いて実行犯の顔写真も公開しましたが、後に何人かは人違いだったとわかっています。最初にWTCに突っ込んだ旅客機をハイジャックしたとされたサウジアラビア人は、実際はモロッコに住む事件と関係のない人物でした。

 ところが、FBIはその後の発表でも、なぜか最初に発表したのと同じリストを使い続けました。

(9)度重なる警告はなぜ「無視」されたのか?

 2001年7月、イタリア・ジェノバで主要国首脳会議(G8)が開かれた際、イスラム過激派組織が飛行機で会議場に突っ込むテロ計画があるとの情報を、エジプト当局がイタリア当局に伝え、ジェノバでは厳戒態勢がとられた。この時点で、アメリカ当局は飛行機がビルに突っ込む形式の自爆テロがあり得ると十分、認識していたはずです。

 01年6月、ドイツの情報機関はアメリカでのテロ計画を察知し、米当局に通告していた。事件の1カ月前には、イスラエルの情報機関の幹部が「米国内にはビンラディンと関係する200人規模のテロ組織があり、米国内の有名な建造物を標的にしたテロ攻撃を起こそうとしている」と、FBIと米中央情報局(CIA)に報告しています。

 これらの警告は、すべて表向きは"無視"されました。

    *

 私の見方が、米国の繁栄を信じて追従する日本政府、さらにはメディアにとって受け入れがたい、というのは理解できます。しかし、9・11に対して今後は「当局が事件発生を黙認ないし誘発したのであるなら、その理由は何なのか」といった、突っ込んだ分析が必要です。公式発表を支持する立場からであっても、ジャーナリズムには事件を表面的に報じるだけでなく、本質を問う解説記事が求められると思います。 (構成 本誌・堀井正明、佐藤秀男)

    ◇

たなか・さかい 1961年生まれ。東レ勤務を経て共同通信社に入社。その後、マイクロソフト社で本格コラムサイト「MSNジャーナル」を立ち上げる。現在は独立して国際ニュース解説記事を配信している。『米中逆転』(角川oneテーマ21)、『タリバン』(光文社新書)、『仕組まれた9.11 アメリカは戦争を欲していた』(PHP研究所)など著書多数


⑦ 見えてきた911事件の深層 - 田中宇の国際ニュース解説

 アメリカで911事件が起きてから1カ月後の2001年10月上旬、この大規模テロ事件の犯人を特定することにつながるニュースが、インドとパキスタンの各新聞に、非常に短い記事として掲載された。

 2001年10月7日、パキスタンのムシャラフ大統領が、軍の諜報機関であるISI(統合情報局)のマフムード・アーメド局長ら3人の軍首脳を解任した。マフムードが解任された理由は、彼がオマル・シェイク(Umar Sheikh)という男を通じて、911実行犯の主犯格だったとされるモハマド・アッタにテロ資金を送金していたことが、FBIの調べで明らかになったからだった。FBIはインド当局からの情報をもとに、ISIのマフムード長官がアッタへの送金を指示していたことをつかみ、パキスタン側に圧力をかけたという。(関連記事)

 マフムードらの解任自体は、世界中で報じられたが、その理由は多くの記事では「マフムードらがアフガニスタンのタリバンと親密な関係だったから」となっている。私自身も、そういう趣旨で記事を書いた。(関連記事)

 ところが、インドとパキスタンのいくつかの新聞は、解任理由について、はっきりと「マフムード将軍の指示で、911実行犯のアッタに10万ドルが送金されたことが分かった」と書いている。マフムード将軍らを頂点とするISIは、もともと組織的にタリバンを支援しており、タリバンとアルカイダは一心同体であった。つまり、パキスタン当局であるISIは、タリバンを支援していただけでなく、911事件の黒幕でもあったことになる。

 もしインドの新聞だけがそれを指摘しているのであれば、パキスタンを悪者に仕立てたいインド側がウソ情報を発した可能性もあるが、パキスタンの大手新聞「ドーン」も、ニューデリー発でこの記事を載せているので、ISIが911事件の裏にいたことは、パキスタン側も暗に認めた事実であると考えてよい。(関連記事)

 こんな衝撃的な事実が報じられたにもかかわらず、どうしたわけか世界のマスコミは、フランスのAFPなど一部を除き、ほとんどこれを報じなかった。当時すでにアメリカのマスコミは、911後のショックの中で極度に大政翼賛的な傾向を強めており、米当局が望まない報道は一切行わないようになっていた。(関連記事)

 ふつうに考えれば、このニュースはアメリカにとって最も衝撃的であるはずだが、それをアメリカのマスコミが一切報じなかったのは、アメリカ政府自身が、パキスタン政府と911の関係を世界に知らせたくなかったからだと思われる。なぜアメリカ政府は、パキスタン当局が911事件に関与していたことを不問に付したのか。アメリカ政府自身が、パキスタン当局と911の関係を世界に知らせたくなかったからだと思われるが、なぜそうなのか、大きな疑問が残る。この部分が911事件の最も大きな暗部である可能性がある。

▼送金者サイード・シェイク

 前出のパキスタンのドーン紙の記事によると、ISIのマフムード長官は、オマル・シェイクという人物を通じて、911事件主犯格とされるモハマド・アッタに10万ドルを送ったとされる。

 1999年12月、インド航空機がハイジャックされ、アフガニスタンのタリバンの本拠地カンダハルまで飛んだ後、インド当局が獄中にいるイスラム過激派(アルカイダ)の幹部3人を釈放する代わりに、ハイジャックされた飛行機の乗客乗員155人が解放されるという事件があった。この事件で釈放された3人の中に、オマル・シェイクが含まれていた。

 このハイジャック事件を報じたBBCの記事などを見ると「オマル・シェイク」ではなく「アーマド・オマル・サイード・シェイク」(Ahmed Omar Sayed Sheikh)となっている。この人物はたくさんの別名を持っており、本名はサイード・シェイクだが、別名としてオマル・シェイクのほか、ムスタファ・モハメド・アーマド(Mustafa Mohammed Ahmed)、ムスタファ・アーマド・アルハウサウィ(Mustafa Ahmed al-Hawsawi)などを使っていた。

 アメリカCNNテレビは2001年10月6日の報道で、サイード・シェイクが、ムスタファ・モハメド・アーメドの名前を使い、10万ドル以上の資金をパキスタンから911主犯格のモハメド・アッタに送っていたと報じている。そして、このサイード・シェイクは1999年のインド航空機ハイジャック事件で人質と交換に釈放された人物である、としている。つまり、サイード・シェイクが911犯人グループに10万ドルを送ったことは、アメリカの大手マスコミも報じた「事実」である。

 送金を受けたモハマド・アッタは、911事件が起きる数日前、あまった資金を再びサイード・シェイクの「ムスタファ・モハメド・アーメド」名義の口座に戻す送金手続きをとったことも報じられている。だが、アメリカにおける報道はここまでである。サイード・シェイクが何者であるか、ということは、まったく謎のままになっていた。  その「謎」に解答を与える形になったのが、サイード・シェイクはISIの指示で送金を行っており、その送金を指示したISIのマフムード長官が、FBIからこの件を追求され、ムシャラフ大統領によってアフガン戦争の開戦直前に解任された、というニュースだった。

▼インド人誘拐の身代金が911事件のテロ資金に

 ロサンゼルスタイムスが報じたところによると、サイード・シェイクからモハマド・アッタへの10万ドルの送金は、911事件の約1カ月前に行われ、その資金の出所は、そのさらに1カ月前の2001年7月、イスラム過激派がインドのカルカッタでお金持ちの靴工場経営者を誘拐し、そのときの身代金83万ドルの一部であるという。

 インド当局者がロサンゼルスタイムスに語ったところによると、靴工場の経営者を誘拐したのは、アフタブ・アンサリ(Aftab Ansari、別名Aftab Malik)というドバイ在住のインド人が率いるイスラム過激派系の犯罪組織で、この組織は以前から金持ちのインド人を誘拐して身代金を集めることを繰り返しており、インド当局は、パキスタンのISIがインド国内でのテロ活動の資金源を確保するため、この組織を支援していると非難している。

 アルハサウィからアッタへの送金は、911実行犯がアルカイダの一味だったことを示すほぼ唯一の根拠だが、これまで私は「アルハサウィなる人物が何者なのか分からない以上、アルカイダと911事件とのつながりも証明できていない」と考えていた。ところが、パキスタンのISIがアルハサウィ(サイード・シェイク)を通じてアッタに送金していたことが分かり、話の全体像が見えてきた。

 その一方で大きな謎として登場してきたのが「パキスタン当局は、なぜ911事件に関与したのか」「アメリカはなぜその疑惑を不問に付しているのか」といった疑問である。

▼「影の政府」ISIとアメリカ

 アメリカとパキスタンとは、以前からの同盟国である。パキスタンの諜報機関ISIは、アメリカの諜報機関CIAと昔から親密な関係にあった。ISIはパキスタンの国家の諸組織の中でも特に強力な組織である。タイム誌の記事によると、ISIはパキスタンの「影の政府」「政府内政府」であるという。パキスタンでは、首相や大統領でさえISIが何をしているか、把握し切れていない部分がある。

 こうしたISIの強さの源泉は、1980年代にソ連軍がアフガニスタンを占領し、アフガン人のムジャヘディン・ゲリラ(イスラム聖戦士)たちがゲリラ戦でこれに対抗し、そのゲリラを支援していたのがISIで、その背後にCIAなどアメリカ当局がいた、ということに起因する。つまり、アメリカがアフガニスタンでの冷戦を通じてISIを強くし、パキスタンの「影の政府」にまで成長させたということだ。

 こう分析していくと、次に生じる疑問は「ISIは単独で911事件に関与していたのか、それともアメリカ当局の黙認ないし積極的な認知・関与のもとで、ISIの動きがあったのか」ということである。

 ISIのマフムード長官が解任されたのは、911事件から約1カ月後である。アメリカ当局は、このときまでISIの動きを知らなかったのだろうか。多分そうではない、と思われる事実がある。911事件が起きる前後、マフムード長官はワシントンにおり、アメリカの政権や議会の上層部の人々と会談していたからである。

 パキスタンの「カラチ・ニュース」によると、マフムード長官は911事件が起きる一週間前の9月4日からワシントンを訪問し、CIAのテネット長官のほか、国防総省やホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)の要人たちと相次いで会合を持った。マフムードはこのころ、3カ月間に2回、ワシントンを訪問しており、それまでISI長官の訪米はめったになかっただけに、大きな緊急の課題があるのではないか、という憶測がパキスタンの新聞にも載った。

 911の当日には、マフムード長官は、上院のボブ・グラハム議員ら米議会で諜報問題委員会のメンバーと、テロ対策について会合を持っていた。まさにそのとき、ハイジャックされた飛行機が次々と世界貿易センタービルに突っ込んだのだった。ニューヨークタイムスなどによると、マフムードとグラハムらは、2機目の旅客機が突っ込むまで、会合を続けていたという。(関連記事)

 マフムード長官は911事件の後もワシントンに滞在し、9月12日から13日にかけて、パウエル国務長官やアーミテージ国防副長官らとも会ってからパキスタンに帰国した。アーミテージはCIA出身で、1980年代にISIがアフガニスタンのソ連軍と戦っていたムジャヘディン・ゲリラを支援していたころから、マフムードを含む多くのISI幹部らと親しい関係を持っていたことで知られている。

▼テロリストを野放しにする米当局

 911事件をめぐっては、アメリカの捜査当局がホワイトハウスからの圧力を受け、十分な事件の真相究明ができないままになっていることや、9月11日当日の防空体制が異様に貧弱で、ふつうなら防げた旅客機のビル突入が、不可思議な出動の遅れなどによって防げずに終わったことが分かっている。 (以前の記事「テロをわざと防がなかった大統領」、「テロの進行を防がなかった米軍」)

 また米当局は、911事件だけでなく、それ以前にアメリカ国内で起きた2つの大規模なビル爆破事件である、1995年の「オクラホマ連邦ビル爆破事件」と1993年の「(1回目の)世界貿易センタービル爆破事件」についても、予防策や捜査を十分に行わず、真犯人と思えるパキスタン人や中東系の容疑者を野放しにして、その存在自体をマスコミの目から隠したという「前歴」がある。 (以前の記事「オクラホマ爆破事件と911」、「サウジアラビアとアメリカ」)

 これらの疑惑から見えてくるのは、アメリカ政府は以前から「イスラム原理主義」系のテロリストたちをわざと野放しにして、アメリカ国内を含む世界各地でどんどんテロをやってもらうよう、いざなっていたのではないか、という仮説である。この仮説に立つと、アメリカ政府と親密な関係にあったパキスタン政府の一部門であるISIの長官が、911事件の犯人組織にテロ資金として使える大金を送っていたことも、不自然なことではなくなる。

 アメリカ当局がわざとイスラム過激派のテロ活動を放置したのだとしたら、その目的は何だったのか。確かなことは分からないが、一つ考えられるのは、ソ連の消滅というアメリカにとっては先方の一方的な都合で冷戦が終わってしまった後、冷戦と似たような「正義のアメリカ」対「世界的な悪」という巨大な対立構造が生まれることを望む勢力がアメリカ中枢に存在し、その「世界的な悪」として「アルカイダ」などイスラム過激派組織の存在がうってつけだった、というシナリオである。

 イスラム過激派という巨大な敵が存在することにより、アメリカ政府は戦略的に重要だと思われる世界のあちこちの国に対し「テロ防止のために貴国に米軍を駐留させる」と宣言することができる。米国内的には、景気が悪化しても連邦政府の予算を拡大することができ、ワシントンの政治家にとってのメリットがあり、政界と結びつきが深い軍需産業も潤う。

▼外交政策の持続性とテロ戦争

 ただ、テロが増えると経済活動が減退し、世界経済に大きな打撃を与える点ではマイナスだ。これに対しては、日本や中国などの台頭により、アメリカは経済面で超大国ではなくなり、このまま経済不振が長引くと「ドル」の国際通貨としての威信が傷つき、ドル暴落の可能性もある。だから、その前に経済ではなく軍事で世界を支配し続ける「テロ戦争」の世界体制を作る必要がある、といった説明が成り立つ。(関連記事)

 アメリカの大統領制は4年ごとに選挙があり、大統領が交代すれば政策も変わる。ソ連がアフガニスタンから撤退した1988年には大統領はパパブッシュだったが、その後クリントン(2期8年)、そして現在の息子のブッシュへと、3回政権が交代している。3回も交代したのに、その間ずっと「テロリストとの冷戦」が画策され続けていたと考えるのは、仮説として不十分ではないか、という見方もあるだろう。

 しかしアメリカの場合、外交政策は政権や政党を超越して長期間同じようなものが続けられることが多い。冷戦体制が40年以上も続いたのがその一例である。冷戦は、ソ連とアメリカとの「談合」のような面があり、両者が相手を敵視する政策を維持してはじめて成り立つ世界体制だった。1989-90年にソ連のゴルバチョフが自国の体制を解体し、一方的に冷戦のリングから降りてしまうと、一夜にして冷戦は終わってしまった。

 だから、アメリカの方で冷戦時代の40年間の大統領のいずれかが「ソ連敵視を止める」と言い、米ソ和解を強力に進めていたら、冷戦はもっと早く終わらせることができたはずだと私は考える。第二次大戦後のアメリカには、自国を中心とする世界の枠組みを決定する権限があるが、その枠組みは、政権を超えて存在するのである。冷戦後、現在まで続く「イスラム過激派とのテロ戦争」も、そうした枠組みの一つであると思われる。

 1993年の貿易センタービル爆破から2001年の911事件、そしてその後の「テロ戦争」や「悪の枢軸」そしてイラクとの「第2湾岸戦争」への流れを見ていくと、アメリカの敵として「イスラム原理主義」が、しだいに大きな存在として立ち現れてくる過程だったことが分かる。イスラム原理主義やビンラディンといった存在は今やアメリカにとって、かつてのソ連に勝るとも劣らない強敵として存在している。

 以前、この仮説の問題点は「アメリカ政府がそんなことをするはずがない」というアメリカに対する信頼感との間のギャップがあまりに大きいということだったが、アメリカ政府に対する信頼感は、イラク戦争をめぐって急落したので、今ではこの仮説も、人々に受け入れられるようになってきているのではないかと思われる。

▼不可思議な事件の上塗り

 ISIのマフムード長官から依頼され、911事件の主犯格とされるモハマド・アッタに送金をしていたサイード・シェイクは、昨年2月に逮捕されている。逮捕容疑は、アメリカの新聞ウォールストリート・ジャーナルのダニエル・パールという記者を誘拐殺人したことである。パール記者は、911事件とISIの関係を深追いしようとして、逆にISIのエージェントと目されるサイード・シェイクらに誘拐されたという展開だった可能性がある。(関連記事)

 パール記者誘拐事件もまた、非常に不可解な事件である。そもそも、誘拐の主犯はサイード・シェイクではなかったと思われる。パキスタン政府は、サイード・シェイクに対する一審判決が出た直後に「主犯は別におり、尋問中。サイード・シェイクは主犯ではなく、パール記者をおびき出す役目を果たしただけだ」と言い出した。(関連記事)

 こうした不可思議な状況を総合すると、911事件の真相を握っているサイード・シェイクは、911に関する暴露発言を行う可能性があるので、ISIとムシャラフ政権によってパール記者誘拐の容疑を着せられ、生涯獄中に閉じ込められることになった可能性がある。

 もう一点は、誘拐されたのがウォールストリート・ジャーナルの記者だったという点である。この新聞はタカ派系で、アメリカの中枢部でブッシュ政権の外交政策を牛耳り、イラク侵攻を引き起こした黒幕とされる「ネオコン」(新保守主義派)に近い立場の新聞である。ネオコンはイスラエルと近い半面、イスラム主義のサウジアラビア、イラク、パキスタンなどを非難している。イスラエルは、パキスタンと対立するインドと親しい関係を築いている。

 ブッシュ政権中枢でネオコンと対立してきた中道派は、911以前のアメリカの外交政策を古くから握ってきた主流派で、サウジアラビア、パキスタンの政府と親しい関係を築いている。現在の米政府内では、国務省とCIAで中道派の色彩が強いのに対し、国防総省はネオコンの色彩が強い。国務省とCIAは、2000年10月にイエメンで起きた米軍の駆逐艦爆破テロ事件に対するFBIの捜査を妨害するなど、911以前から、テロリストに行動の自由を与えるためではないかと思われる政策を続けてきた。

(イエメンの駆逐艦爆破テロ事件を捜査するため、FBIのテロ捜査の最高責任者だったジョン・オニールらFBI捜査官がイエメンに行って調べようとしたところ、国務省から「イエメンとの友好関係にひびが入るのでもうイエメンに来るな」と命じられ、妨害されて十分な捜査ができなかった。イエメンにはアルカイダの拠点があり、この拠点の動きをウォッチしていれば、911事件の発生も防げた可能性がある)

▼911事件を誘発したのは中道派?

 サウジアラビアの中枢(王室の一部や財界)はビンラディンらを通じてアルカイダに資金援助してきた経緯がある。サウジアラビア(ビンラディン)-パキスタン(ISI)-アフガニスタン(タリバン、ムジャヘディン)-アメリカ(CIA)という「4者連合」は1980年代にアフガニスタンで対ソ連ゲリラ戦をともに戦った仲であり、その後はタリバン政権を支援した仲間たちである。この4者連合のうち、ビンラディンとタリバンは911事件への関与が取りざたされ、今回さらにパキスタンのISIの911に対する関与も明らかなった。

 アメリカ国内で、この4者連合に参加しているのは、ネオコンではなく中道派である。つまり、米当局が911事件を「事前に知っていたが見逃した」「予防策や捜査を怠って誘発した」とすれば、それはネオコンよりも中道派の仕業だった可能性が大きい。

 アメリカなどでは「911はイスラエルのスパイの犯行に違いない」といった言説がけっこう出ている。911事件の直後、実際にニューヨークの近郊で引越し業者のふりをしたスパイと思われるイスラエル人が5人か逮捕され、その後2カ月の尋問を経て国外退去処分になっている。(関連記事)

 また、主犯格のモハマド・アッタのフロリダの家の近くにイスラエルのエージェントが住んでいた、ということも報じられている。こうした事実から「911はイスラエルがやった」という見方になるのだろうが、私はイスラエルの諜報機関は911のテロ計画が実施される一部始終を「ウォッチしていた」ものの「荷担した」可能性は低いのではないかと今の時点では考えている。

 イスラエルの諜報機関モサドは911直前の2001年8月23日、CIAに対し「アメリカ在住の19人のテロリストが間もなくテロをやりそうだ」と通告し、テロ容疑者のリストまで渡した。そのリストには、モハマド・アッタなど、911事件の容疑者とされたメンバーが少なくとも4人載っていた。もしイスラエルが911事件の実行犯サイドに関与していたのなら、こんなリストを出すとは思えない。(関連記事)

 また、911事件でハイジャックされ貿易センタービルに突っ込んだアメリカン航空11便には、イスラエル軍の特殊部隊「サエレト・マトカル」(Sayeret Matkal)の元メンバーだったダニエル・ルイン(Daniel Lewin)という男が乗っており、機体がビルに突っ込む前にハイジャック犯のひとりに刺殺されたことが分かっている。この情報は、この旅客機に乗っていた乗務員が航空機電話を使って地上の職員に伝えたものだが、このことも「イスラエルはテロ実行犯をウォッチしていたが、一味ではなかった」と私が考える根拠となっている。(関連記事)

 911以降、イスラエルと親しい関係にあるネオコンは、ブッシュ政権内での権力を急拡大させ、かねてからやりたかったイラク侵攻を実現させるに至っているが、これは中道派による911事件の誘発を把握した上で、ネオコンが911事件の真相について黙っている代わりに、中道派が阻止したかったイラク侵攻を実現させたという「交換条件」だったのかもしれない。こうした大胆な仮説は推測に過ぎないのだが、ネオコンと中道派の間で何らかの裏取引があり、その結果イラク侵攻が実施された可能性はある。

 もう一点分からないのは、イラク侵攻の直前にパキスタンでビンラディンに対する逮捕劇が始まったこととの関係である。以前の記事「ビンラディン逮捕劇の怪しさ」に、この逮捕劇の意味をあれこれ推察して書いたが、イラク侵攻とビンラディン逮捕劇を連携させて考えた私の推察が外れる一方で、イラク開戦後もビンラディンに対する逮捕劇は続けられている。これが今後どうなるか、イラク戦争の長期化でネオコンが責任を取らされる事態になるかもしれないということとあわせて、推移をもう少し見る必要がある。