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折々の記 2016 ①
【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】02/10~     【 02 】02/13~     【 03 】02/15~
【 04 】02/19~     【 05 】02/19~     【 06 】02/21~
【 07 】02/22~     【 08 】02/22~     【 09 】02/23~

【 05 】02/19

  02 19 憲法学者の考え【その三】   安倍政権の舵とり
       【001】 法学館憲法研究所
       【003】 浦部法穂の憲法時評一覧表
       【004】 浦部法穂の『大人のための憲法理論入門』一覧表
          第07回 表現の自由の重要性がとくに強調されるのはなぜか?
          第09回 「集団的自衛権」は「自衛」ではない!
          第10回 「集団的自衛権」容認で「自衛隊合憲」の論理は吹っ飛んだ
       【005】 日本全国憲法MAP一覧表
          丸子警報器事件

 02 19 (金) 憲法学者の考え     安倍政権の舵とり

第2次安倍内閣 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%86%85%E9%96%A3)、 や第1次安倍内閣、第3次安倍内閣でもいいが、安倍内閣の概要を知るのに好材料が整理されている。

安倍氏は今までにないアメリカ従属の政治を勝手に国益と称して進めてきた。 いまやUSAは戦争扇動国家として多くの識者から批判され、国内でも影を落としている。

あらぬことか、報道によれば9.11事件すらUSAの陰謀と囁かれ、それが暴かれさえしてきている。 国連を無視したイラクの軍事侵攻も、アフガン侵攻も陰謀と言われ、ビンラデンへの執拗なまでの追撃は、ISの無法反撃という火をつけてしまった。

軍産の暗黒モンスター(死の商人)の謀略の顛末としか言いようがない。

暗黒モンスターに操られているアメリカ行政に、あろうことか安倍氏は尻尾を振ることにしている。

日本の明るい未来のシンボルである戦争放棄の憲法が危機に瀕している !!!




法学館憲法研究所の内容は次の通りです。

   【001】法学館憲法研究所 http://www.jicl.jp/index.html
   【002】「今週の一言」 http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber.html
   【003】「浦部法穂の憲法時評」http://www.jicl.jp/urabe/index.html
   【004】「浦部法穂の『大人のための憲法理論入門』」http://www.jicl.jp/urabe/otona.html
   【005】「日本全国憲法MAP」http://www.jicl.jp/now/date/
   【006】「ときの話題と憲法」http://www.jicl.jp/now/jiji/
   【007】「中高生のための憲法教室」http://www.jicl.jp/chuukou/chukou.html

これらをテーマごとに分類・カテゴライズしました。 有益な情報が多数あります。 ご活用ください。



【003】
浦部法穂の憲法時評一覧表
      浦部法穂さん(法学館憲法研究所顧問)
      http://www.jicl.jp/urabe/index.html

浦部法穂・法学館憲法研究所顧問が社会の様々な事柄について憲法の視点で解明・問題提起します。二週間ごとに新しい情報を発信する予定です。

内容一覧
 
 ■憲法の言葉シリーズ⑧「平和」 2014年09月01日
 ■日本国憲法「平和主義」の歴史的意味 2014年08月11日
 ■沖縄密約文書公開請求訴訟の最高裁判決 2014年07月24日
 ■「違憲」を「合憲」に変える「解釈変更」は許されない 2014年07月10日
 ■「集団的自衛権」に関する2編再掲 2014年06月23日
 ■憲法の言葉シリーズ⑦「自由」 2014年06月09日
 ■安倍晋三と14人の「無識者」たち 2014年05月22日
 ■「集団的自衛権」の次は…… 2014年05月12日
 ■憲法の言葉シリーズ⑥「自衛権」 2014年04月24日
 ■最高裁「砂川判決」と集団的自衛権 2014年04月10日
 ■6億円のむだ遣い  2014年03月27日
 ■憲法の言葉シリーズ⑤「個人」 2014年03月10日
 ■「予測不能で危険な国」 2014年02月24日
 ■STAP細胞 2014年02月06日
 ■名護市、南相馬市、そして東京都  2014年01月23日
 ■2014年を「戦前の始まりの年」にしないために 2014年01月09日
 ■特定秘密保護法  2013年12月09日
 ■政治権力を私物化する品のない政治家たち 2013年11月21日
 ■憲法の言葉シリーズ④「国」あるいは「国家」 2013年11月07日
 ■政治が教育を支配しようとするとき 2013年10月24日
 ■「右翼の軍国主義者」 2013年10月07日
 ■非嫡出子相続差別と集団的自衛権  2013年09月23日
 ■「憲法の言葉」シリーズ③ 人権 2013年09月05日
 ■「謝罪」も「反省」も「不戦の誓い」もなしで… 2013年08月19日
 ■「政権交代」という幻想  2013年07月25日
 ■「本物の野党」と「擬似野党」 2013年07月08日
 ■「国」・「国家」という言葉がやたら出てくる自民党「改憲案」 2013年06月20日
 ■地震予知  2013年06月06日
 ■「『日米同盟』と『慰安婦問題』」再掲!!  2013年05月23日
 ■国民を信用していない?  2013年05月09日
 ■憲法を国民の手から奪い取る96条「改正」 2013年04月22日
 ■「日本を孤立と軽蔑の対象に貶める」のはどっちだ 2013年04月08日
 ■96条の改正 2013年03月21日
 ■「憲法の言葉」シリーズ②「公共」または「公」 2013年03月07日
 ■憲法尊重擁護義務2013年02月21日
 ■「自衛隊」と「国防軍」のちがい 2013年02月07日
 ■「アベノミクス」で救われるのか? 2013年01月24日
 ■2013年のはじめに 2013年01月07日
 ■「日本転落」・自滅の道 2012年12月20日
 ■「破れかぶれ解散」のあとは・・・ 2012年11月22日
 ■「憲法の言葉」シリーズ①「憲法」 2012年11月05日
 ■「違憲状態」の国会 2012年10月22日
 ■日中国交正常化40年 2012年10月04日
 ■「日米同盟」と「慰安婦問題」 2012年09月20日
 ■人も住めない「島」のために戦争するとでも言うのか 2012年09月06日
 ■「憲法の言葉」シリーズ 2012年08月09日
 ■集団的自衛権 2012年07月19日
 ■政党とは何なのか? 2012年07月05日
 ■スカイマークの「サービスコンセプト」 2012年06月21日
 ■生活保護と扶養義務 2012年06月07日
 ■沖縄「復帰」40年 2012年05月24日
 ■「競争」と「相互扶助」 2012年05月10日
 ■原発再稼働 2012年04月26日
 ■「日本が壊れていっている」 2012年04月12日
 ■「がれき」の広域処理 2012年03月22日
 ■「何か変」な「市民感覚」 2012年03月08日
 ■民主主義とは何か 2012年02月23日
 ■新自由主義と高額年俸 2012年02月09日
 ■税を考える 2012年01月12日
 ■公務員の給与 2011年12月22日
 ■日米地位協定 2011年12月08日
 ■度が過ぎる対米従属 2011年11月17日
 ■韓国の「大学構造改革」 2011年11月03日
 ■「秘密保全法制 2011年10月20日
 ■「教育基本条例」案 2011年10月06日
 ■野田内閣と普天間問題 2011年09月22日
 ■「9・11」 2011年09月08日
 ■円高 2011年08月25日
 ■いまに始まったことではない「やらせ」 2011年08月04日
 ■なでしこジャパン 2011年07月21日
 ■電力使用制限令 2011年07月07日
 ■大連立? 2011年06月16日
 ■脱・原発 2011年06月02日
 ■民主主義と独裁 2011年05月19日
 ■非常事態と憲法 2011年05月05日
 ■復興に向けての原理原則 2011年04月21日
 ■裁判員裁判と検察官上訴 2011年04月07日
 ■人智の限界 2011年03月17日
 ■法律と予算 2011年03月03日
 ■住基ネットと「共通番号制」 2011年02月17日
 ■国旗・国歌強制のほんとうの問題 2011年02月03日
 ■財政再建・増税? 2011年01月20日
 ■韓国ドラマ『戦友』 2010年12月02日
 ■TPP 2010年11月18日
 ■武器輸出三原則 2010年11月04日
 ■領土問題 2010年10月21日
 ■検事の証拠改ざん 2010年10月07日
 ■地方議会と首長 2010年09月23日
 ■内閣総理大臣の訴追 2010年09月09日
 ■「韓国併合」100年 2010年08月26日
 ■日印原子力協定 2010年08月05日
 ■参議院選挙 2010年07月15日
 ■消費税 2010年07月01日
 ■司法修習生の給与廃止 2010年06月17日
 ■結局、辺野古 2010年06月03日
 ■憲法を知らない裁判官 2010年5月20日
 ■憲法改正の「作法」 2010年05月06日
 ■政党の名前 2010年04月22日
 ■公務員の政治的行為 2010年04月08日
 ■乱造・乱立 2010年03月18日
 ■時効廃止 2010年03月04日
 ■外国人参政権問題 2010年02月18日
 ■オリンピックと国旗・国歌 2010年02月04日
 ■個人の尊重 2010年01月21日
 ■2010年 2010年01月07日
 ■天皇の政治利用 2009年12月24日
 ■ベーシック・インカム(その2) 2009年12月10日
 ■ベーシック・インカム(その1) 2009年11月26日
 ■憲法解釈も『政治主導』? 2009年11月12日
 ■普天間移設問題 2009年10月29日
 ■一票の格差 2009年10月15日
 ■議員立法 2009年10月01日
 ■連立政権 2009年09月17日
 ■政権交代 2009年09月03日
 ■韓国メディア法改正 2009年08月10日
 ■核廃絶 2009年07月27日
 ■脳死と臓器移植 2009年07月13日
 ■「全盲のピアニスト」 2009年06月29日
 ■足利事件 2009年06月15日
 ■農地法改正 2009年06月01日
 ■Swine flu 2009年05月18日
 ■裁判員制度 2009年05月04日
 ■「ミサイル」狂騒曲 2009年04月20日
 ■政治と金 2009年04月06日



【004】
浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」一覧表
      浦部法穂さん(神戸大学名誉教授・法学館憲法研究所顧問)
      http://www.jicl.jp/urabe/otona.html

2009年4月からほぼ月2回のペースで書いてきた「憲法時評」は、前回をもってひとまず休止させていただきます。今月からは、「大人のための憲法理論入門」と題して、何回か書いていきたいと思っています。"なにが「大人のため」なのだ?"と突っ込まれると答えに窮するのですが、ただ単に「憲法理論入門」では堅苦しい印象を持たれてしまうだろうということと、憲法について一応の勉強はしたという人がもう少し理論的に突き詰めて考えるきっかけみたいなものが必要ではないか、ということから、このようなタイトルにしてみました。憲法がまさに危機にさらされているいま、時々の時勢に応じた評論も、もちろん重要だと思いますが、じっくり腰を据えた「理論武装」もまた重要な意味を持つのではないかと考えます。そのための手がかりとなるような内容のものを書いていければ、と思っています。最初のテーマは、「憲法はなぜ憲法なのか?」です。

内容一覧

 ■第17回 国家と社会の関係をどのようにとらえるか?(1) 2016年02月08日
 ■第16回 社会保障を考える(5)~低成長下での社会保障の確立のために 2016年01月11日
 ■第15回 社会保障を考える(4)~社会保障の歴史② 2015年12月07日
 ■第14回 社会保障を考える(3)~社会保障の歴史① 2015年11月05日
 ■第13回 社会保障を考える(2)~社会保障とはなにか 2015年10月02日
 ■第12回 社会保障を考える(1) 2015年09月07日
 ■第11回 なぜ憲法は「政教分離」を規定したのか 2015年08月04日
 ■第10回 「集団的自衛権」容認で「自衛隊合憲」の論理は吹っ飛んだ 2015年07月06日
 ■第9回 「集団的自衛権」は「自衛」ではない! 2015年06月01日
 ■第8回 国旗・国歌の押しつけが許されないわけ 2015年04月27日
 ■第7回 表現の自由の重要性がとくに強調されるのはなぜか? 2015年04月06日
 ■第6回 「ヘイト・スピーチ」も「言論の自由」? 2015年03月05日
 ■第5回 憲法の「人権問題」と社会の「人権問題」 2015年02月05日
 ■第4回 日本国憲法のもとで「新憲法の制定」は、どうやったらできる? 2015年01月08日
 ■第3回 「憲法の改正」と「新憲法の制定」の違い 2014年12月8日
 ■第2回「約束事」がぐらついたら、おしまい 2014年11月10日
 ■第1回 憲法はなぜ憲法なのか? 2014年10月20日



第7回 表現の自由の重要性がとくに強調されるのはなぜか?

 言論・出版などの表現の自由(あるいは、広く、内心の自由を含めた精神的自由権全般)は、とくに重要な人権だというようなことが、しばしばいわれる。では、ほかの人権は表現の自由ほど重要でないということになるのかといえば、もちろんそうではない。人権はどれも重要なものである。そしてまた、個々人にとって一番重要な人権はなにかということは、それぞれの人が現に置かれている状況によってまちまちであろう。「健康で文化的な最低限度の生活」が現実に営み得ない状況にある人にとっては、生存権こそが切実に必要とされる人権だということになろう。あるいは、自分で事業を営んで生計を立てている人にとっては、営業の自由が一番重要だと感じられるかもしれない。さらには、軍事基地の存在によって日常的に戦争や軍隊の脅威にさらされている人々にとっては、そうした軍事的脅威をいっさい感じることなく「平和のうちに生きる権利」が、なによりも重要となろう。そういう意味で、人権について、《これが一番重要で、二番目はこれ…》、といったようなかたちで「序列化」してしまうのは、正しくない。

 にもかかわらず、表現の自由の重要性ということがとくに強調されるのはなぜなのか。それは、表現の自由というものが、最も権力によって傷つけられやすい性質の自由であり、人権のなかで一番不当な制限を受けやすいものだからである。そのわけは、こうである。権力の側に立ってみると、表現の自由は、民主主義の権力としてのたてまえを前提とするかぎり、みずからの正当性の源泉として不可欠の自由である。それに、表現の自由は、権力に対する批判や反対が、暴力や革命にまで進展しないようにする「安全弁」としての役割を果たすこともある。そのかぎりで、権力の側にとっても、表現の自由は、一定の程度まではなくてはならないものである。しかし、逆に、手放しで表現の自由を認めるならば、権力そのものやそれを支えている既存の秩序を破壊する反体制的な活動を勇気づけることにもなってしまう。だから、権力の側からすれば、そういう危険は芽のうちに摘み取っておこうというわけで、権力やそのよって立つ既成秩序を脅かしそうな言論は、可能なかぎり抑圧しようとすることになる。その場合、正面から権力にとって危険だという理由を掲げて制限を加えることは、権力自身の民主主義的正当性を傷つけることになるから、利口なやり方ではない。したがって、やれ交通秩序の維持だの街の美観だの善良な風俗だの、その他もろもろのもっともらしい理由がつけられることになる。つまり、表現の自由が制限されている場合、一見もっともらしい理由がつけられていてもじつは権力にとって都合の悪い表現行為を抑圧することが目的である、という場合が少なくないのである。

 そしてまた、他人を害する行為の規制という、本当に憲法上許される目的のための制限を意図したものであっても、法律の規定上、規制対象となる行為を過不足なく明確に定めることが難しいという場合もある。これは表現行為の規制の場合に限らず、たとえば営業行為を規制する場合であっても同じなのだが、法律の規定上規制対象が必ずしも明確でないということになれば、その法律を執行する機関(警察や行政庁など)に法律の適用についての裁量の余地が出てくる。そうして表現行為の規制について権力側に裁量の余地が与えられることになれば、権力にとって都合の悪い表現行為をとくに厳しく規制するという形で、その法律が執行される危険も出てくる。そして、ひとたびこうした形で法律が執行されれば、国民の側は、規制を恐れて、権力に歯向かうようなことは言いたくても言えないようになる(いわゆる「萎縮効果」)。

 以上のような意味で、表現の自由は最も権力によって傷つけられやすく不当な制限を受けやすい人権だといえるのである。だから、表現の自由の重要性ということがとくに強調され、また、表現の自由に対する制限の合憲性は厳格な基準によって判断されるべきだとする「優越的地位」の理論が語られるわけである。以下、復習の意味で、表現の自由の重要性、つまり、表現の自由はなぜ保障されなければならないのか、ということをあらためて確認しておこう。

 第1に、そもそも言いたいことを言うのは人間のいわば本性である、ということがあげられる。すでに1644年にジョン・ミルトンが語ったように、表現の抑圧は、「自由で知的な精神に対して加えられる最も不愉快で侮辱的なもの」(ミルトン『アレオパヂティカ』)というべきなのである。それに、自分の考えを発表し他人の考えを知ることによって、人間は人格的な発展を遂げることができる。そういう意味で、表現の自由は、精神的・知的な存在である人間の尊厳そのものにかかわる人権である、ともいえるのである。

 第2に、私たちが考えることのうちには、当然、ひとりよがりや間違いということもあるが、それは、他人の考えに接することによって是正されうる。したがって、それぞれの人が自由に自分の考えを発表できるということによってはじめて、各人もそして社会全体としても、正しい結論に到達することができるといえる。少なくとも、表現の自由がないところでは、国や社会が間違った方向に進んでいっても、それを止める手立てはないことになろう。

 第3は、民主主義の基礎として表現の自由は絶対不可欠だ、ということである。国民主権原理に立つ政治的民主主義にとって、主権者である国民が自由に意見を表明し討論することによって政策決定を行っていくことが、その本質的要素であることは言うまでもない。この民主政治にとって不可欠な自由な意見発表と討論を保障するものとして、表現の自由はきわめて重要な意義をもつ。こうした観点からいえば、とりわけ「政治的な」言論が自由に交わされることこそが、憲法における表現の自由の保障の中核をなすものとして位置づけられなければならないこととなるはずである。



第9回 「集団的自衛権」は「自衛」ではない!

 このシリーズは、なるべく体系的な順序を追って書いていこうと思ったが、「国のかたち」を「戦争できる国」に変えようとする「戦争法案」の国会審議が始まったので、それにかかわる問題のほうに少し寄り道することにした。その中で、理論的にきちんと整理しておく必要がある一番の問題が、「集団的自衛権」ではないかと思う。結論から先に言えば、いわゆる「集団的自衛権」は、「自衛権」という言葉が使われているものの、じつは「自衛」ではなく「他衛」なのである。いわゆる「集団的自衛権」と言われているものの本質は他国防衛にあるのであって、自国を守るという意味での「自衛」ではないのである。そこのところをきちんと切り分けた議論が、政治の場ではもちろん、マスコミでも、学会においてすら、どうもほとんどなされていないように思われる。

 一般に、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある他国が武力攻撃を受けたときに、自国は直接武力攻撃を受けていなくても、攻撃を受けた当該他国と共同して防衛行動をとる権利、などと言われる。自国が武力攻撃されたときにそれに反撃して武力行使するのが「個別的自衛権」で、自国は攻撃を受けていなくても同盟国が攻撃を受けたときにその国と一緒に反撃するのが「集団的自衛権」だ、というわけである。だから、「集団的自衛権」を行使して守る対象は、自分の国ではなく、攻撃を受けた他国である。だとすれば、それは本来「自衛」とは言えないはずのものである。たとえば、アメリカが攻撃されたときに、アメリカを守るために日本がアメリカと一緒になって武力行使する。それは、アメリカを守るためであって、日本にとっては「自衛」ではない。にもかかわらず、それが「自衛権」という言葉で語られることによって、人々に、自分の国を守るためのものなのだと錯覚させてしまうことになっているのではないかと思う。

 「集団的自衛権」というのは、国連憲章51条ではじめて認められたものだといわれる。国連憲章51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利(the inherent right of individual or collective self-defense)を害するものではない。」と規定する。ここでいう「集団的自衛(collective self-defense)」とは、言葉の本来の意味からいえば、武力攻撃を受けた国が自分だけで反撃するのでなく、同盟国に助けを求めて同盟国と共同で反撃することを言っていると解される。それは、攻撃を受けた国にすればまさに「自衛」である。「自衛」の手段として、自国だけで戦うのではなく、他の同盟国にも助けを求めて戦う。それが、国連憲章51条のいう「集団的自衛」ということの本来の意味だとみるべきであろう。この場合、攻撃を受けた国に加勢して戦う国は、みずからは攻撃を受けていないのだから、その国にとっては「自衛」ではない。けれども、攻撃を受けた国の「自衛」を助けるためだから、そのかぎりで攻撃を受けていない国による武力行使も違法ではないとされる。これが国連憲章51条の本来の意味だと、私は思う。しかし、実際には、「集団的自衛権」という言葉は、「直接攻撃を受けていない国が、攻撃を受けた国を助けるために、武力行使できる権利」というように、「自衛」という側面に重きを置かずに「武力行使できる権利」ということに重点を置いて語られてきた。国連憲章51条にいう「個別的又は集団的自衛の固有の権利」は、武力攻撃を受けた国の権利として認められているはずのものだったのに、いつの間にか、「集団的自衛」の部分が一人歩きして、「自身は武力攻撃を受けていなくても武力攻撃を受けた同盟国を守るために武力行使できる権利」という意味で「集団的自衛権」というものが語られるようになったのである。しかし、武力攻撃を受けていない国の「武力行使権」を、「国家の固有の権利」だとするのは、相当に無理があるのではないのか。

 いわゆるニカラグア事件は、1979年にニカラグアに親社会主義的な革命政権が成立したことで反ニカラグア政策に転換したアメリカが、1981年に、ニカラグア政府によるホンジュラス等隣国の反政府勢力への武器等の援助を理由に、ニカラグアの港湾への機雷敷設や空港などへの爆撃を行ったことに対し、ニカラグアがアメリカの行為は国際法違反だとして国際司法裁判所に提訴した事件である。これに対し、アメリカは、みずからの武力行使を、ニカラグアによるホンジュラス等隣国への武力攻撃に対する集団的自衛権の行使である、と主張した。この事件の判決(1986年)で、国際司法裁判所は、「集団的自衛権」行使の要件として、とくに、武力攻撃を直接受けた国による武力攻撃を受けた旨の宣言と他国への援助の要請の2点が必要だ、とした。そして、本件の場合には、この両者とも存在しなかったしニカラグアの隣国に対する行為を武力攻撃と認定することもできない、として、集団的自衛権の行使だとするアメリカの主張を退けた。ここで、国際司法裁判所が、武力攻撃の直接の被害国による武力攻撃を受けた旨の宣言と援助要請を要件としてあげたのは、「自衛権」の主体はあくまでも武力攻撃の直接の被害国だということを前提にしているからであり、「集団的自衛権」の本来的意味、つまり「自衛」という側面を重視したものだとみることができよう。一方、アメリカの主張は、「自衛」という観点からではなく、「武力行使権」として「集団的自衛権」をとらえているといえる。しかし、そのような「集団的自衛権」は、このニカラグア事件の事例が示すとおり、「自衛」とはまったく無縁のものであるばかりでなく、大国が自分の意に沿わない国やその政府を武力でもって潰すための口実として役立つだけである。実際、この事例だけでなく、ハンガリー動乱(1956年)や「プラハの春」(1968年)への旧ソ連の軍事介入、ベトナム戦争(1965~75年)でのアメリカの軍事行動など、いずれも「集団的自衛権」が口実とされていた。

 日本で安倍政権が行使できるようにしようとしている「集団的自衛権」とは、こういうものである。「自衛」というその本来的意味はほとんど無視され、もっぱら武力行使を正当化するための口実でしかなくなっているのである。それなのに、「自衛権」という言葉によって、「国民の生命と幸せな暮らしを守るために必要だ」などと国民を欺こうとしているのである。もう一度くり返すが、いわゆる「集団的自衛権」、すなわち、「武力攻撃の直接の被害国ではない国の武力行使権」という意味での「集団的自衛権」は、「自衛」とは無縁のものであり、したがって、かりに「自衛権」は国家の固有の権利だとする立場に立ったとしても、そのような意味での「集団的自衛権」を国家の固有の権利とすることはできないはずである。



第10回 「集団的自衛権」容認で「自衛隊合憲」の論理は吹っ飛んだ

 前回、いわゆる「集団的自衛権」は「自衛」ではないことを述べた。そもそも「自衛権」とは、国際法上の定義では、「国家または国民に対して急迫不正の現実の侵害があった場合に、やむを得ず実力をもって侵害を排除する国家の権利」だとされている。つまり、「自衛権」とは、その定義上、「急迫不正の現実の侵害」(国連憲章51条は、これを「武力攻撃が発生した場合」として具体的に明確化している)を受けた国の権利として認められるものである。したがって、武力攻撃を受けていない国に「自衛権」が認められるはずはない。その頭に「集団的」という言葉が付こうが付くまいが、「自衛権」である以上は、本来、そうなるはずである。それなのに、「集団的」という言葉が付いたとたんに、「自衛権」が武力攻撃を受けていない国の権利になるというのは、「自衛権」概念の濫用・誤用でしかない。

 そういう濫用・誤用が国際法上あたりまえのように通用してきたのは、前回述べたように、アメリカや旧ソ連といった大国が、自分の意に沿わない国や政府や運動を武力でもって潰す、そのための口実として「集団的自衛権」を持ち出してきたからである。「自衛権」という言葉に忠実に国連憲章51条の規定を読むならば、そこにいう「集団的自衛権」とは、武力攻撃を受けていない第三国の権利ではなく、武力攻撃を受けた国が自国だけで対抗する(個別的自衛権)のでなく第三国に援助を求めて共同して自衛措置をとる権利を意味している、とすべきである。前回述べたように、これが「集団的自衛権」の本来の意味だと、私は考える。

 そういう観点から、日本についていえば、日米安保条約で、日本が武力攻撃された時にはアメリカ軍が日本を守るために日本と一緒になって戦うということになっている。だから、日本の「自衛」という意味での「集団的自衛」の枠組みは、じつはすでに出来上がっているのである。ただ、アメリカが攻撃された時には、日本は、「日本国の施政の下にある領域」においてそれが発生したときにかぎりアメリカと共同して対処する(日米安保条約第5条)が、それ以外の場合には、日本の自衛隊がアメリカ軍と一緒に軍事行動を行うことは想定されていない。つまり、日本に対する攻撃がなくてもアメリカが攻撃されたならアメリカと一緒に日本も戦うという意味でのいわゆる「集団的自衛権」(上に述べた、濫用・誤用の「集団的自衛権」。「いわゆる」つきで言う場合は、すべてこの濫用・誤用の「集団的自衛権」を指す)は、日米安保条約でも規定されていないのである。それは、憲法9条のもと、いわゆる「集団的自衛権」は行使できないとされてきたからである(日本の施政下にある領域においてアメリカに対する攻撃があった場合、つまり、日本の領土・領海内で米軍基地や米艦等が攻撃された場合には、それは同時に日本に対する攻撃でもあると言えるから、この場合には、いわゆる「集団的自衛権」の問題にはならないとすることができる)。

 では、なぜ、いわゆる「集団的自衛権」は行使できないとされてきたのか。歴代の政府はなぜそう言い続けてきたのか。それは、一言でいえば、このことが、本来違憲の自衛隊を合憲と言い繕うための最低限の条件だったからである。「一切の戦力を保持しない」とする憲法のもとで自衛隊という「立派な軍隊」をなぜ持つことができるのか。この問いに対する政府の答えは、こうである。①憲法9条は一切の戦争を放棄し一切の「戦力」の保持を禁じている。②したがって、日本が「戦力」を持つことは自衛のためといえども憲法上禁止されている。③しかし、憲法9条は独立国家に固有の権利としての「自衛権」まで放棄したものではない。④したがって、この「自衛権」の行使としての必要最小限度の行動は憲法の禁ずるところではなく、そのための手段として「自衛のために必要な最小限度の実力(自衛力)」を持つことは憲法9条に違反しない。⑤自衛隊は「自衛のために必要な最小限度の実力」であり憲法9条が禁止する「戦力」にはあたらない。

 ここでいわゆる「集団的自衛権」にかかわるのは④であり、そしてそれこそが自衛隊を合憲だとする最大の論拠となっていることがわかるであろう。憲法上認められるのは「『自衛権』の行使としての必要最小限度の行動」だけである。自国が攻撃を受けたわけでもないのに「行動」を起こすのは「『自衛権』の行使としての必要最小限度の行動」とはいえない。自衛隊は、「必要最小限度の行動」のための手段としての「必要最小限度の実力」なのだから、それを自国ではなく他国が攻撃を受けた場合に出動させることは、当然許されない。だから、いわゆる「集団的自衛権」の行使は憲法上認められない、という結論になるのであり、これは、上記の政府の自衛隊合憲論の核心なのである。つまり、自衛隊合憲論といわゆる「集団的自衛権」否認論というのは、論理的に合体していたのである。逆にいえば、いわゆる「集団的自衛権」の行使を容認したなら、これまで政府が言ってきた「自衛隊合憲」の論拠は完全に吹っ飛ぶことになる。いわゆる「集団的自衛権」の行使容認は、従来の政府見解との論理的整合性すらなく、憲法9条に関する従来の政府解釈(それ自体、正当な憲法解釈とは言えないが)を前提にしたとしても、明らかに「違憲」である。衆議院憲法審査会で自民党推薦を含む3人の憲法学者が、いわゆる「集団的自衛権」容認をそろって「違憲」と明言したことが話題になっているが、憲法をどうねじ曲げようとも、それ以外の結論は出てきようがないのである。



【005】
「日本全国憲法MAP」一覧表
      http://www.jicl.jp/now/date/

一覧表は省略し、このサイトの中から‘長野編 丸子警報器事件 2007年5月7日’を取り出してみました。


丸子警報器事件
      H.T.記
      http://www.jicl.jp/now/date/map/20.html

今、労働者に支払われる総人件費の削減と「格差社会」が進行しています。その主な原因は、正社員を減らし、派遣、請負、パート労働者など「非正規雇用」の労働者の著しい増加です。中でも、パート労働者(所定労働時間が通常の労働者よりも短い労働者)はこの20年で3倍近くになり、約1260万人に達し、全労働者の4人に1人となりました。パート労働は、雇用の保障がなく、社会保険も適用されないなど、正社員と比べて不公平、不均等な待遇が社会問題になっています。特に賃金の差別は深刻です。男性は正社員の半分、女性は7割です。長く勤めても、賃金にはほとんど反映されません。スーパーの店長など従来は正社員が担当していた基幹的な地位に就いても、差別は続いています。この賃金の差別を初めて問題にしたのが、丸子警報器事件(長野地方裁判所上田支部・1996年3月15日判決)です。

 丸子警報器は長野県にある自動車部品を製造販売する会社です。ここに期間2か月の雇用契約を反復更新する形で数年から25年継続勤務する日給の28人の女性パート労働者が、正社員との差別賃金額の支払い等を請求して訴えを提起しました。原告らが従事する業務は、女性正社員もいる製造ライン等で労働の内容、勤務時間、勤務日数は正社員と同様でした。正社員には、原則的に年功序列の基本給が月給として支払われていました。

 原告らが差別だと主張する理由とそれに対する判決は多岐に渡りますが、ここでは均等待遇に関連する問題について紹介します。

 原告らは、パート労働と正社員は同一(価値)労働に従事しているのに、低い賃金しか支払わないのは、同一(価値)労働同一賃金の原則という「公序良俗」に反すると主張しました。

 主張や判決には明示されていませんが、「公序良俗違反」という概念の背後には、憲法14条で保障する平等権の侵害という考え方があります。憲法は国家権力に向けられた規範です。従って、憲法は、この事件のような私人同士の問題には直接には適用されず、民法などの法律の解釈にあたってその趣旨を十分斟酌するという形で憲法を間接的に適用すべきだというのが通説であり、裁判所の立場です。従って、本件でも、民法90条の「公序良俗」に違反するかどうかが問題になりました。

 判決は、「これまでの日本社会においては、年功序列、前歴加算、生活給などの制度が設けられており、同一(価値)労働同一賃金の原則は『公の秩序』とは言えない」としました。しかし、「労働基準法3条(均等待遇)や4条(男女同一賃金の原則)は同一(価値)労働同一賃金の原則を反映したものであり、その根底には、およそ人はその労働に対し等しく報われなければならないという均等待遇の理念が存在し、これは人格の価値を平等と見る市民法の普遍的な原理と考えるべきものである(傍線は筆者)。この理念に反する賃金格差は、使用者に許された裁量の範囲を逸脱したものとして、公序良俗違反の違法となる場合がある。」という趣旨の判示をしました。そして「原告らの賃金が、同じ勤務年数の女性正社員の8割以下となるときは、許容される賃金格差の範囲を明らかに超え、その限度において被告の裁量が公序良俗に違反し違法となる」と判断し、8割までの賃金の支払いを命じました。

 この判決は、大きな反響を呼びました。今年の春闘でも均等待遇の要求に援用されました。今国会に上程されているパート労働法改正案でも、一定の均等待遇の実現に向かって後押しする力となりました。

 しかしながら、この改正案で同一(価値)同一労働が適用されるのは、パート労働のうちのごく一部の例外的なケースに過ぎません。ILO(国際労働機関)パート条約やEU(欧州連合)及びその加盟諸国では、正社員との差別を禁止する「均等待遇の原則」を定めています。日本でも、憲法14条や13条(個人の尊重)の理念を実現するために、格段の努力が望まれます。


「臨時者の賃金差別撤廃の新しい扉を開いた熱き28人の女性たち」

全日本金属情報機器労働組合(略称JMIU)
                     長野地方本部 書記長 塩之入 安男


 長野地裁上田支部の画期的な判決から11年、東京高裁で実質的な正社員化を勝ち取ってから7年が経過しました。人間の尊厳を求める28人の女性たちのたたかいは、語り尽くせない沢山のドラマがありました。JMIU丸子警報器支部の当時の委員長だった立場から裁判闘争を振り返ります。

(1)臨時者が組合に加入し 愚痴を要求に変え 裁判闘争へ

 1970年代の後半から労働組合に対抗する形で正社員の採用やめ2ケ月契約の既婚女性のみを採用した事から管理職と臨時者で従業員の半数近くを占めました。
 JMIU丸子警報器支部は、「みんなが安心して働ける職場」を目指して、組合規約を変え、90年に臨時者を組合に迎え入れたことから事件が始まりました。組合に加入して3年で多くの事を学んだ臨時者は93年10月に裁判提訴。マスコミが大々的に報道した事から反響の凄さは想像に絶するものがありました。「臨時者の賃金は安くて当たり前」の風潮が強く、しばらく人に合うのが苦痛だと訴えたほどでした。
 28人の女性たちは、勇気を振るいおこし「男性は正社員になれるのに、既婚女性はどんなに頑張っても高卒の初任給より安い賃金」「子供を産み育て働く事が、どこが特殊なのですか」(既婚女性は特殊従業員規則により形式的な2ケ月契約更新)「こんな差別は私たちの代で終らせたい」の必死の訴えは、しだいに地域の人々の心を動かし世論となり丸子町での住民過半数を超える署名の実現や「一日も早い争議解決を求める」町議会全員一致の決議となり、県内はもとより全国各地に広がりました。

(2)長野地裁の画期的な判決

 長野地裁上田支部に提訴してから判決までの2年5ケ月、13回の弁論では毎回28人の原告が交代で感動的な意見陳述を背景に裁判長を先頭に異例の原告の労働実態検証がビデオカメラを使って行われました。そして3月15日の判決は、県内外から寄せられた共感の多くの署名、裁判官の心を動かす世論をつくった大きな運動を背景に、「およそ人はその労働に対して等しく報われなければならない」「一定年月以上勤務した臨時社員には正社員になる途を用意するか、あるいは地位はそのままとしても年功序列賃金を設ける必要がある」「同じ勤務年数の正社員の8割以下となるとき公序良俗に違反し違法」という全国ではじめての賃金差別を認める画期的な判決につながりました。
 この判決は、テレビ・ラジオで流され、新聞各紙は一面トップでとり上げた事から、全国各地から「たたかってくれてありがとう」「おかげで待遇が改善されました」等々の手紙や「判決を交渉に生かしたい判決文送って欲しい」「是非、話を聞きたいので来てほしい」等々の激励や問い合わせが殺到しました。長野県内ではこの判決によって多くの職場で臨時・パートの待遇改善が進みました。(地裁の判決後、報復的に60歳を超えた臨時者の解雇事件(原告2名)が起きたが、地裁、高裁でも完全勝利し職場に復帰。その後、長野県では解雇問題が起きても、この事件の判決が活用され裁判にならず大半が解決)

(3)東京高裁で一審を上回る実質的な正社員化で和解

 東京高裁に舞台を移したたかいは、原告はもとより当該支部の予想をはるかに超え、1100万人の不安定雇用労働者の期待を担う全国的なたたかいとなりました。東京高裁では最後意見陳述を含めて11回の法廷、12回の和解交渉が行われました。この間、高裁の大法廷には毎回入りきれない100名以上の傍聴者がかけつけ、全国から6千7百を超える団体署名と17万7千余の個人署名が集約されるなど支援の輪が野火のように広がりました。
 12回に及んだ和解交渉の結果、99年11月29日、東京高裁で和解が公開法廷で成立しました。和解条項は、①臨時者の賃金は、日給制をあらため月給制とする。②通常の4月昇給とは別に、平成16年まで(6年間)毎年12月に月額3,000円の特別増額是正をおこなう。③昇給・夏冬のボーナスは、正社員と同一の計算方法とする。⑤退職金は、和解成立から60歳までは正社員と同一規定を適用し、60歳以降は従前の基準に2.5倍に改める。事が決められました。この和解によって、実質的に正社員化を勝ち取った原告28名は、すでに10名が退職しましたが、定年の定めがないため60歳を過ぎた人も含め現在でも18名が職場で頑張っています。

(4)丸子判決をいまに生かそう

全日本金属情報機器労働組合(略称JMIU)は、07春闘では、「格差と貧困をなくそう」の旗を高く掲げ、「すべての仲間の賃上げ」「若者に雇用を」「均等待遇」の課題で奮闘し、偽装派遣の仲間の直接雇用、雇用の拡大、企業内最賃の引き上げで大きな成果をあげ奮闘しています。組合の組織率が20%を割り込み、青年の2人に1人、労働者の3人に1人が非正規労働者と言われ、ワーキングプアが流行語になるなど貧困と格差が拡大しています。昨年全労連の「臨時・パート連絡会」やJMIUは、それぞれ丸子判決をから10年の節目として「丸子判決を職場地域に生かそう」のシンポジュームを開きました。いま、「均等待遇」の理念に反する差別は違法とした丸子の判決をどこの地域・職場にも生かすことが必要だと思います。(丸子警報器事件の全容は学習の友社から「パート臨時だって労働者」の冊子が発行されています。)