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折々の記 2016 ①
【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】02/10~     【 02 】02/13~     【 03 】02/15~
【 04 】02/19~     【 05 】02/19~     【 06 】02/21~
【 07 】02/22~     【 08 】02/22~     【 09 】02/23~

【 06 】02/21

  02 21 5野党党首 国政での選挙協力で合意【特集】   戦争法(安保法制)廃止、立憲主義の回復
  02 22 憲法学者の考え【その四】   安倍政権の舵とり
       【001】 法学館憲法研究所
       【006】 「ときの話題と憲法」一覧表
          【006】 1946年 日本国憲法の制定と『押しつけ』憲法論
          【006】 1950年 警察予備隊の設置 ― 再軍備への道
          【006】 1951年  サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の調印
          【006】 1957年  “昭和の妖怪”岸信介―戦前との連続性
          【006】 1959年 砂川事件判決/皇太子の結婚
          【006】 1972年 日中共同声明・国交正常化
          【006】 1978年  日米ガイドライン/A級戦犯の合祀
          【006】 2000年 衆参両院で憲法調査会発足―静かなるクーデターの準備
          【006】 2003年 イラク戦争と日本/有事関連法成立
          【006】 2009年  世界経済の危機―“金融版・大量破壊兵器”
          【006】 2009年  政権交代

 02 21 (日) 5野党党首 国政での選挙協力で合意     戦争法(安保法制)廃止、立憲主義の回復


2016年2月20日(土) しんぶん赤旗

5野党党首 国政での選挙協力で合意
      戦争法(安保法制)廃止、立憲主義の回復
      http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-02-20/2016022001_01_1.html

 日本国憲法に真っ向から背く戦争法の強行成立から5カ月となった19日、日本共産党の志位和夫委員長、民主党の岡田克也代表、維新の党の松野頼久代表、社民党の吉田忠智党首、生活の党の小沢一郎代表の野党5党首は国会内で会談し、「安保法制(=戦争法)の廃止」や国政選挙で最大限の協力を行うことなど4項目で合意しました。



“「国民連合政府」は ひきつづき主張”

志位委員長表明


 会談では、戦争法を廃止する法案を国会に提出することを確認した上で、5野党として    (1)安保法制の廃止と集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回を共通の目標とする    (2)安倍政権の打倒を目指す    (3)国政選挙で現与党およびその補完勢力を少数に追い込む    (4)国会における対応や国政選挙などあらゆる場面でできる限りの協力を行う の4点を確認しました。

 その上で、4点の具体化については5野党の幹事長・書記局長間で早急に協議し、具体化をはかることを確認しました。

 日本共産党の志位委員長は確認事項に全面的な賛同の意を表明した上で、日本共産党が提唱している「戦争法廃止の国民連合政府」の問題について「この場で他の野党に確認や合意を求めるということではありませんが」と断った上で次のように表明しました。

 「わが党としては、安保法制=戦争法の廃止、集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回のためには、この二つの仕事を実行する政府――『国民連合政府』が必要だと主張してきました。今もその立場は変わりません。ただ、同時にこの問題については賛否さまざまだということも承知しています。そこで政権の問題については横において選挙協力の協議に入り、今後の協議のなかでわが党の主張をしていきたいと考えています」

 志位氏は会談後の会見で、廃止法案の共同提案は「戦争法に怒りと不安をもつ多くの国民の声に応える重要な意義をもつものです」と強調。「国民の前で真剣に審議することを与党に強く求めたい」と表明しました。

 また、国政選挙での選挙協力を確認し、具体化の協議に入ることを確認したことについて、「『野党は共闘』という多くの国民の声に応える極めて重要で画期的な確認です」と述べ、「わが党としては、誠実かつ真剣に協議に臨み、できるだけ速やかに合意を得るよう全力をあげたい」と表明しました。

 さらに、「参院選の1人区の候補者調整については、安保法制=戦争法廃止、立憲主義回復という大義の実現のために、思い切った対応をしたい」と述べ、党首会談でもそのことを表明したことを明らかにしました。


党首会談での確認事項

 (1)安保法制の廃止と集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回を共通の目標とする。

 (2)安倍政権の打倒を目指す。

 (3)国政選挙で現与党およびその補完勢力を少数に追い込む。

 (4)国会における対応や国政選挙などあらゆる場面でできる限りの協力を行う。





2016年2月20日(土) 朝日新聞デジタル

5野党、安保法廃止案を提出
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12218182.html

 民主党、共産党、維新の党、社民党、生活の党と山本太郎となかまたちの5党は19日、昨年9月に成立した安全保障関連法を廃止するための2法案を国会に共同提出した。集団的自衛権の行使を認める現行法を憲法違反と位置づけることで、夏の参院選に向けて連携を深める狙いがある。

 5党が提出したのは、現行法の「平和安全法制整備法」「国際平和支援法」をそれぞれ廃止する2法案。民主と維新は18日、廃止法案と別に、集団的自衛権を行使せずに自衛隊の活動範囲を広げる対案を提出済みで、安倍政権との対立軸を明確にしたい考えだ。一方、与党は法案審議に応じない方針だ。(菊地直己)

 02 22 (月) 憲法学者の考え     安倍政権の舵とり

第2次安倍内閣 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%86%85%E9%96%A3)、 や第1次安倍内閣、第3次安倍内閣でもいいが、安倍内閣の概要を知るのに好材料が整理されている。

安倍氏は今までにないアメリカ従属の政治を勝手に国益と称して進めてきた。 いまやUSAは戦争扇動国家として多くの識者から批判され、国内でも影を落としている。

あらぬことか、報道によれば9.11事件すらUSAの陰謀と囁かれ、それが暴かれさえしてきている。 国連を無視したイラクの軍事侵攻も、アフガン侵攻も陰謀と言われ、ビンラデンへの執拗なまでの追撃は、ISの無法反撃という火をつけてしまった。

軍産の暗黒モンスター(死の商人)の謀略の顛末としか言いようがない。

暗黒モンスターに操られているアメリカ行政に、あろうことか安倍氏は尻尾を振ることにしている。

日本の明るい未来のシンボルである戦争放棄の憲法が危機に瀕している !!!




【001】

法学館憲法研究所の内容は次の通りです。

   【001】法学館憲法研究所 http://www.jicl.jp/index.html
   【002】「今週の一言」 http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber.html
   【003】「浦部法穂の憲法時評」http://www.jicl.jp/urabe/index.html
   【004】「浦部法穂の『大人のための憲法理論入門』」http://www.jicl.jp/urabe/otona.html
   【005】「日本全国憲法MAP」http://www.jicl.jp/now/date/
   【006】「ときの話題と憲法」http://www.jicl.jp/now/jiji/
   【007】「中高生のための憲法教室」http://www.jicl.jp/chuukou/chukou.html

これらをテーマごとに分類・カテゴライズしました。 有益な情報が多数あります。 ご活用ください。



【006】

「ときの話題と憲法」一覧表
      http://www.jicl.jp/now/jiji/

  年代          ときの話題と憲法  執筆年月日
 2009年 ◆政権交代 2010年01月25日
 2008年 ◆世界経済の危機―“金融版・大量破壊兵器” 2010年01月18日
 2007年 国民投票法の成立/格差と貧困の拡大 2010年01月11日
 2006年 教育基本法の改定/06年「骨太の方針」 2010年01月04日
 2005年 日米安保条約の「終焉」/郵政民営化/京都議定書発効 2009年12月28日
 2004年 派遣業務の拡大/初の「少子化社会白書」/「九条の会」等発足
 綿矢りさ・金原ひとみさん芥川賞受賞
 2009年12月21日
 2003年 ◆イラク戦争と日本/有事関連法成立 2009年12月14日
 2002年 日朝平壌宣言 2009年12月07日
 2001年 司法制度改革審議会意見書/テロ対策特措法 2009年11月30日
 2000年 ◆衆参両院で憲法調査会発足―静かなるクーデターの準備 2009年11月23日
 1999年 国旗国歌法/男女共同参画社会基本法 2009年11月16日
 1998年 地域の崩壊進む 2009年11月09日
 1997年 新ガイドライン(日米防衛協力のための指針) 2009年11月02日
 1996年 歴史教科書に対する攻撃の開始 2009年10月26日
 1995年 阪神・淡路大震災/地下鉄サリン事件
 日経連「新時代の『日本的経営』」/村山談話
 2009年10月19日
 1994年 衆院、小選挙区・比例代表並立制導入 2009年10月12日
 1993年 政治腐敗への怒りと細川政権の誕生/年次改革要望書 2009年10月05日
 1992年 ◆PKO協力法等の成立―自衛隊海外派兵の突破口開く 2009年09月28日
 1991年 戦争責任を問う第3の波―戦時性奴隷強制被害者等に対する私たちの責任 2009年09月21日
 1990年 ◆湾岸危機・湾岸戦争―戦争報道と日本 2009年09月14日
 1989年 冷戦の終了/消費税の実施/日米構造協議始まる/昭和天皇の死去 2009年09月07日
 1988年 バブル景気とその崩壊 2009年08月31日
 1987年 国鉄の分割・民営化―司法の「この国のかたち」への関り方 2009年08月24日
 1986年 女性差別撤廃条約の批准と男女雇用機会均等法の施行 2009年08月17日
 1985年 プラザ合意 2009年08月10日
 1984年 中曽根総理大臣の靖国神社「公式参拝」 2009年08月03日
 1983年 家族の分解の時代/司法判断を骨抜きにしたサラ金法の成立 2009年07月27日
 1982年 中曽根内閣の成立と「戦後政治の総決算」 2009年07月20日
 1981年 第二次臨時行政調査会の設置 2009年07月13日
 1980年 消費者の権利を求めて ― 灯油訴訟 2009年07月06日
 1979年 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 2009年06月29日
 1978年 ◆日米ガイドライン/A級戦犯の合祀 2009年06月22日
 1977年 君が代の国歌化 2009年06月15日
 1976年 ロッキード事件と金権政治 2009年06月08日
 1975年 司法の冬の時代 2009年06月01日
 1974年 家永教科書裁判 2009年05月25日
 1973年 福祉元年 2009年05月18日
 1972年 ◆日中共同声明・国交正常化 2009年05月11日
 1971年 沖縄の返還/金・ドルの交換停止 2009年05月04日
 1970年 ウーマン・リブ―近現代憲法に対する女性からの挑戦状 2009年04月27日
 1969年 公害の多発 ― 現代の「いけにえ」を作った企業・政府 2009年04月20日
 1968年 学園紛争の季節 2009年04月13日
 1967年 「全国で革新自治体広がる」「ベトナム戦争と日本」 2009年04月06日
 1966年 全逓東京中郵事件最高裁判決と内閣の人事政策・司法反動 2009年03月30日
 1965年 日韓基本条約発効 2009年03月23日
 1964年 「世界は一つ」東京オリンピック開催 2009年03月16日
 1963年 「人間裁判」 ― 朝日茂さんの壮烈な“権利のための闘争” 2009年03月09日
 1962年 『昭和30年代』 ― レトロ趣味?『空気』が濃かった時代 2009年03月02日
 1961年 所得倍増計画 ― 高度経済成長の時代 2009年02月23日
 1960年 ◆新安保条約の成立と反対運動 2009年02月16日
 1959年 ◆砂川事件判決/皇太子の結婚 2009年02月09日
 1958年 ◆憲法改正の動きと「憲法問題研究会」の発足/団地族・インスタント元年 2009年02月02日
 1957年 “昭和の妖怪”岸信介―戦前との連続性 2009年01月26日
 1956年 『もはや戦後ではない』・『国連加盟』 2009年01月19日
 1955年 ◆55年体制の成立 2009年01月12日
 1954年 ビキニとゴジラ 2009年01月05日
 1953年 空母オリスカニ横須賀に配備 2008年12月29日
 1952年 『鉄腕アトム』連載開始 2008年12月22日
 1951年 ◆サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の調印 2008年12月15日
 1950年 ◆警察予備隊の設置―再軍備への道 2008年12月08日
 1949年 「長崎の鐘」・「下山、三鷹、松川事件」 2008年12月01日
 1948年 戦争犯罪人に対する裁判と天皇の責任 2008年11月24日
 1947年 「不逞の輩(やから)」発言と2.1ストの禁止 2008年11月17日
 1946年 ◆日本国憲法の制定と『押しつけ』憲法論 2008年11月10日
 1945年 ◆ポツダム宣言の受託と敗戦 2008年11月03日




【006】 1946年

日本国憲法の制定と『押しつけ』憲法論
      2008年11月10日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1946.html

 1946年は、11月3日に日本国憲法が公布され、新体制の出発点となった年です。新憲法の制定は、45年10月、日本を占領した連合国最高司令官マッカーサーを長とする総司令部(GHQ)が、自由で民主的な新憲法の制定を強く促したことから始まります。これを受けて、幣原喜重郎内閣は、松本烝治国務大臣を長とする委員会で検討を開始しました。しかし、46年2月1日に毎日新聞によってスクープされた松本委員会案は「第1条 日本国は君主国とす」など、明治憲法の字句上の修正に止まるものでした。そのため、GHQは日本政府による新憲法案の作成を断念し、同月3日から自ら憲法草案の起草を開始し、13日には草案を政府に手渡しました。幣原内閣にとって最大の関心事は天皇制が護持されるか否かでした。GHQ案は占領政策を円滑に進めるために天皇の戦争責任を問うことなく天皇の権威を利用すること、その代わり天皇は象徴の地位に止めること、及び軍国主義の体質を除去するため戦争は放棄することなどを骨子とするものでした。幣原内閣は議論の末、国体護持のためにはやむなしとしてこの草案を受け入れました。

 このような経過から、1954年、「押しつけ」憲法論が現れました。「自主的憲法」の制定を提起する自由党の憲法調査会(岸信介会長)における松本烝治氏の発言を端緒とするものです。「押しつけ」憲法論は、憲法がどのように運用されているかという事実を検証するよりも、早く日本自身の手で「自主憲法」を制定することが重要であると主張しています。2000年に国会に設置された憲法調査会でも、最初に「押しつけ」論が議論されました。

 確かに、GHQ案が政府に提示された経過を見ると、「押しつけ」の側面が存在したことは否定できないという見方が一般的です。「他国を占領するときには他国の基本的な法制、制度を尊重する」という、1907年にできた「ハーグ陸戦法規」に反するのではないかという意見もあります。

 しかし、この法規は、交戦中の占領に適用されるもので、当時の日本は前回紹介したポツダム宣言を受託したことによって休戦状態にありました。この場合、休戦条約であるポツダム宣言の方が優先されると考えられています。日本は、国民主権の採用等をうたうこの宣言の受託によって、国民主権を実現する憲法を制定する義務を負いました。

 また、外形的には押しつけのように見えますが、草案には日本人の意思が反映されています。
 映画「日本の青空」でも詳細に紹介されていますが、GHQは、国民主権や手厚い人権規定をうたう鈴木安蔵らの憲法研究会案等に現れている日本の民間の考えを参考としたことは確実です。これらに見られる自由で民主的な思想には明治初期の自由民権運動や大正デモクラシーの思想が流れています。GHQ案を土台として受け入れ修正を加えた政府作成の草案要綱は、マスコミ、財界、世論調査等で圧倒的に支持されました。この要綱は、4月の衆議院議員の普通選挙で選出された議員による衆議院を経て貴族院に送られ、これらの過程で詳細に審議されました。二院制、25条の生存権規定、前文の「国民主権」の明言などは日本の政府と議会による意志を反映させた重要な修正点です。さらに、アメリカを含む連合国は、新憲法に日本国民の自由な意志が表明されるための国民投票などによる新憲法の再検討の機会を作ることを日本側に提示しました。しかし、政府も国会も再検討の必要なしと判断しました。これは不作為による新憲法の選択といえます。

 国会の憲法調査会では、改憲論を採る多くの議員からも、憲法はその内容が重要であり、今日まで日本国民が憲法を受け入れてきた事実を尊重すべきであるという意見が提出され、
 「押しつけ」論は克服されたという見方が多数です。立憲主義の憲法は、国民が政府等の権力に憲法規範の遵守を強制することを本質としています。すると、「押しつけられた」かどうかは、国民の視点から判断することが必要でしょう。



【006】 1950年

警察予備隊の設置 ― 再軍備への道
      2008年12月08日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1950.html

 アメリカ政府は、48年中には日本を反共の防波堤として冷戦体制に組み込む政策に転換しました。すなわち、「軍事化」と「民主主義の制限」の占領第2期が開始しました。

 もっとも、より広い視点で見ると、「戦後民主主義」は当初から冷戦体制の枠内にあり、民主主義も一定の制約を受けていたといえるでしょう。占領ですから、戦後の世界で突出した力を持ったアメリカの国益に適う限りでの支配としての「戦後民主主義」の性格を持っていたことは、ある意味で当然でした(パックス・アメリカーナ)。沖縄を軍事基地化し同県民の選挙権を停止して(45年12月の選挙法改正)新憲法の適用外においたことは、9条の制定と表裏一体の関係にあります。昭和天皇は、マッカーサーに、沖縄を長期に渡り利用することを認めるメッセージを渡していました。「天皇制民主主義」の採用は民主主義の徹底を深い所で阻みました。

 沖縄を基地として確保したアメリカは当初、非武装となった日本は連合国の後身である国連によって安全を保障されることが望ましいと考えていました。しかし、占領の長期化に伴うアメリカの負担軽減の声の増大と冷戦の激化の中、朝鮮戦争の勃発は第2期の政策を一気に具体化させました。朝鮮戦争勃発の翌月の50年7月、マッカーサーは日本政府に対して7万5000人の警察予備隊の結成を指令しました。憲法9条に違反する実質的な軍隊が、改憲を経ずにポツダム政令によって創設されたことは注目されます。予備隊は、朝鮮に出兵する米軍の空白を埋めることを直接の目的とし、兵器や装備は米軍によって供給され、米軍が訓練しました。訓練を担当したアメリカの大佐は「小さいアメリカ軍」と呼びました。警察予備隊は52年10月には保安隊に、54年7月には自衛隊に改組され、再軍備は進みました。この過程で、旧軍人の追放が解除され、50年代半ばには上級幹部の50%以上が旧陸軍正規将校で占められました。また、旧海軍なくして海上自衛隊の創設はありえませんでした。現在に至るも、自衛隊員の時代錯誤的な歴史認識やいじめ体質が残存していますが、出自における戦前との連続性が関係していると指摘されています。なお、海上自衛隊は、朝鮮戦争に際して機雷除去のために掃海艇を出動させました。これは極秘です(掃海艇の海外派兵は湾岸戦争が最初だったと言われることが多いようです)。

 警察予備隊の創設に当って、アメリカは一挙に30万~35万人規模の軍隊を要求しました。しかし、旧軍や軍事体制の復活に対する日本の世論の反発に加えて、吉田首相は経済的な余力がないことなどを理由に強く反対しました(軍事小国主義)。

 以上に見られる「小さいアメリカ軍」「戦前との連続性の要素の存在」「国力に比して小さい軍隊」という自衛隊の特徴は、発足当時から現在まで続いています。

 軍事化は、自由・民主主義・平和主義を求める言論を公共空間から排除する政策と一体となって進められました。この年、地方公共団体では初めてそれまでは届出制だったデモを許可制とする東京都公安条例が公布・施行されました。朝鮮戦争の開始と前後して、新聞700紙が休刊させられ、公共部門、次いで民間部門の報道業界、映画業界などからおびただしい数の人々が魔女狩り的に解雇されました(レッド・パージ)。



【006】 1951年

サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の調印
      2008年12月15日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1951.html

 連合国による日本の占領を終結させ、対日講和条約を締結する動きは1947年からみられましたが、日本で議論が活発になったのは、49年の秋にアメリカのアチソン国務長官らが講和のあり方を具体的に検討し始めたという情報が入ってきた頃からでした。
ソ連など社会主義国も含めた全面的な講和か、米英仏など西側諸国だけとの講和(単独講和ないし片面講和)かが議論になりました。政府は、冷戦の激化を考慮すると片面講和しかないという立場を採りました。これに対して丸山真男、大内兵衛らの学者・文化人の「平和問題談話会」は、50年1月、全面講和を主張しました。社会党も51年1月には「全面講和、再軍備反対、中立堅持、軍事基地反対」(いわゆる「講和4原則」)を決定しました。

 全面講和か否かは、独立した日本が西側諸国の一員となってアメリカ軍の駐留の継続を認め、武装も独自にするのか、あるいは、軍事的にもアメリカから独立し、憲法9条についての制定当初の政府の見解どおり非武装を維持し、中立の国家になるのかという問題と不可分に関係していました。

 第3の道としてこの時点では講和しないという選択もありえましたが、米英の間で片面講和が合意されました。吉田首相も早期の片面講和と米軍基地の提供を申し入れました。その方針に従って、51年9月、サンフランシスコで講和会議が開催されました。戦争の和解という講和の趣旨からすれば、主たる被害を受けた中国や朝鮮が参加することは不可欠とも考えられましたが、両国は招請されませんでした。参加国のうち、米軍の駐留等に反対したソ連、東欧諸国、インド、ビルマを除く48か国が片面的な講和条約に署名しました。

 問題点として、(1)部分的な講和であり、中国との講和にはさらに20年以上要し、ソ連との講和不成立で北方の島々の領有権問題が未解決に終わったこと、(2)東南アジアの国々が日本に要求した損害賠償がアメリカの圧力で大幅に減額されそれらの諸国民に大きな不満を残し(1)とあいまち日本の戦争責任があいまいになったこと、(3)沖縄等がアメリカの信託統治として残ったこと、(4)独立した国家としての主権の核心である軍事面でのアメリカへの従属から脱却できなかったこと、(5)多数の国から求められていた日本の再軍備の制限条項がアメリカの拒否で規定されなかったことなどが挙げられています。

 講和条約の調印式には日本からは6人の全権が参加しましたが、その日、吉田首相だけがひそかに場所を移動して講和条約と表裏一体の関係にある日米安全保障条約に署名しました。両条約は翌52年4月28日に発効し、日本は独立しました。

 安保条約によると、日本は米軍の駐留の継続を認める義務を負いますがアメリカは日本防衛の義務を負わず、アメリカに対する基地貸与条約の性格を濃厚に持っていました。また、米軍が「日本国における大規模の内乱および騒擾」を鎮圧する規定(内乱条項)は、米軍の軍事的な占領の延長としての側面を残していました。

 講和条約で日本の再軍備が制限されず、安保条約で日本政府による防衛の「効果的な自助」が謳われた結果、早くも52年には保安隊と海上警備隊が創設され、警察予備隊がかろうじて維持していた「警察」としての縛りが解かれました。

 発足した保安隊は精神的な支柱がないため、士気が盛上がらず、それをどう解決するかが大きな問題になりました。そこで、「愛国心の高揚」、「君が代」「日の丸」の復活が推進されました。しかし、愛国心によるナショナリズムの再興は、安保条約により占領軍の駐留の継続を認めたことと対立する側面を持ち、国民の関心はほとんど盛上がりませんでした。「愛国」と「日米安保」が矛盾する側面を持つという問題は、今日に至るまで抱えられています。

 1951年は、憲法法体系と日米安全保障法体系を並存させ、しかも後者が優位する体制を開始させた歴史的な年になりました。



【006】 1957年

“昭和の妖怪”岸信介―戦前との連続性
      2009年01月26日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1957.html

 1957年は、東条内閣の重要閣僚として日米開戦の詔勅に署名し、戦後A級戦犯として逮捕された岸信介が首相になり、戦争の指導層が戦後も引き続いて日本の指導層となった象徴的な年となりました。特殊日本的な「戦前との連続性」です。ナチズムを生んだドイツでは、戦後に旧ナチの幹部が政界の指導者として復活することは決してありえないことでした。戦争国家体制と民主主義・人権の抑圧は不可分の関係にあります(治安維持法体制)。この体制の責任者が日本の指導者となったことは、現在に至るまで日本のあり方に多大な影響を与えています。

 岸は山口県の官吏の家に生まれ、大資産家である実家・岸家の養子となりました。島根県令などの要職を務めた政治家である曽祖父の残像が幼い頃から色濃く刻み込まれたと言われます。東大時代は、当時の右翼のトップリーダーだった北一輝や大川周明に面会を申し入れ、深い影響を受けました。天皇制絶対主義を唱える憲法学者・上杉慎吉に見込まれ後継者にと誘われましたが、当時の農商務省に入り、戦時統制経済を立案・推進した「革新官僚」を代表する存在となります。間もなく、東条らと共に満州国の5大幹部の1人として植民地経営を指導、軍・財・官界にまたがる広範な人脈を作り、政治家としての活動の基礎を築きます。東条内閣では商工相、軍需次官を歴任し戦時経済を指導しました。

 45年9月、岸はA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収監されました。しかし、アメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)、多くの戦犯と共に不起訴となり釈放されます。さらに、52年4月、単独講和条約の発効に伴って公職追放解除になりました。直後に復古的な「自主憲法制定」を最大の目標に掲げることを主導して「日本再建連盟」を設立、翌年には衆議院議員になりました。56年の自民党総裁選では巨額の資金をばらまき、金権総裁戦の原型を作りました。首相は60年の安保国会後に退陣しましたが、以後も田中角栄と並ぶキングメーカーとして、89年に90歳で没するまで政界に隠然たる影響力を及ぼし、「昭和の妖怪」と呼ばれました。岸の政治の最終的な目標は最初から最後まで「自主憲法の制定」でした。

   岸は晩年のインタビューで語っています。「大東亜共栄圏は随分と批判があったけど、根本の考え方は間違っていません。日本が非常に野心を持ってナニしたように思われるけど、そうではなく…」(塩田潮著「『昭和の怪物』岸信介の真実」)。
 戦前との連続性は今、戦争を知らない世代によって「日本の伝統・文化・歴史の尊重」というスローガンで語られています。

  岸に代表される政治家については、①戦前との連続性の他、②戦前はファシズムに傾倒して国民を「鬼畜米英」に誘導したことと対照的に戦後は民主主義を標榜しアメリカへの従属を推進した無節操(非連続)、及び③戦争責任が話題になりました。日本国憲法については「押付け」が論じられています。しかし、GHQによる「逆コース」の支配(「逆押付け」)がなく、日本の民主化が促進されていたならば、戦争を指導・推進して内外に天文学的な犠牲者を出した政治家・官僚の政治的・道義的な免責はあり得たのか、問題となるところです。



【006】 1959年

砂川事件判決/皇太子の結婚
      2009年02月09日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1959.html

Ⅰ 砂川事件判決

    1959年は、最高規範(98条1項)である憲法の上に、日米安全保障条約による法体系を置いた重要な年になりました。

 米軍基地の接収や拡張に反対する地元住民の反対運動は、1953年の石川県の内灘村(当時)をはじめ、全国に広がっていました。55年には、米軍機のジェット化等に伴い、米軍から40飛行場の拡張を要請され、鳩山内閣はこれを受け入れたため、土地を奪われ生活権を脅かされる住民は各地で大きな反対運動を起こしました。東京都下の砂川町(当時)の立川飛行場もその一つです。基地拡張に反対するデモ隊のうちの7名が基地内に1時間、4.5メートルほど立ち入ったとして、「(旧)安保条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」違反として起訴されました。この裁判では、安保条約による米軍の駐留は憲法9条2項の「戦力」として違憲になるかが争点になりました。

 第1審の東京地裁は、9条の解釈は憲法の理念を十分考慮してなされなければならないとし、「安保条約締結の事情その他から現実的に考慮すれば…、かかる米軍の駐留を日本政府が許容していることは、指揮権の有無・出動義務の有無にかかわらず、9条2項前段の戦力不保持に違反し、米軍駐留は憲法上その存在を許すべからざるものである。」と判示しました(59年3月)(裁判長の名前を採って「伊達判決」と呼ばれます)。

   この判決は、翌年の60年に安保条約を改定する準備を進めていた日米両政府にとって大きな打撃となりました。そのため、政府は、高裁を飛び越して最高裁に異例の飛躍上告を行い、最高裁はスピード判決で、年内の12月に違憲判決を破棄しました。これを受けて、60年1月には、日米両政府によって新安保条約が調印されました。

   最高裁は、駐留外国軍隊は憲法9条2項が禁じる「戦力」に該当しないと示しました。「戦力」とは「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであ」るという理由です。最高裁は続けて、「安保条約は…主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものであって」違憲かどうかの判断は内閣や国会の自由裁量的な判断に委ねられ司法裁判所の審査には原則としてなじまないとしました。しかし、「一見極めて明白に違憲無効である」場合は司法審査できるが、安保条約の目的は平和と安全を維持し戦争の惨禍が起こらないようにすることだから、「一見極めて明白に違憲無効」とはいえないと結論しました。

 この判決は大変分りにくいと評されています。日本の指揮権、管理権が及ばない外国の軍隊だから合憲だというのでは、9条が「目的」として明示している「国際平和を誠実に希求」することができるのかということがまず問題になります。そのため、最高裁は、安保条約の条文の文章を理由にして「一見明白に違憲」ではないと判断しました。これに対しては、裁判というものは、条文の字面ではなく、実態に基づいて行うべきものであるという問題があります(立法事実論)。ベトナム戦争やイラク戦争に参戦している在日米軍の実態を見ると如何でしょうか。さらに、「高度の政治性を有するものは裁判に服さない」というのでは、国民のいのちに関わる国家の重大な行為が憲法の枠外に置かれてしまい、国民(具体的には裁判所)が「国家の行為を憲法で縛る」という近代憲法の根本原理(立憲主義)を司法権が自ら放棄し、違憲審査制(81条)のたてまえと三権分立制の基本構造を崩壊させかねないという問題があります。この点、政治部門の多数決の方を重視するというのが最高裁の立場です。

   異例の飛躍上告の経過が、昨年4月30日の各新聞で明らかされ、大きな衝撃を与えました。すなわち、判決直後に、駐日アメリカ大使(ダグラス・マッカーサー2世)が、この判決の早期破棄に向けて岸内閣の外務大臣藤山愛一郎や最高裁長官田中耕太郎と接触、密談して判決の早期破棄を積極的に働きかけたことを示す、同大使の国務省宛て秘密電報14通が、国際問題研究者新原昭治によってアメリカ政府解禁文書の中から発見、入手されたことが大きく報道されました。田中長官は、訴訟の関係人ないし準当事者ともいうべき立場に立つアメリカ政府の大使と密談し、審理の見通しを述べる形で早期結審ひいては違憲判決の早期破棄を「約束」したに等しい発言を行い、実行していたことになります。これは、日本の命運を決する重大問題について、司法権の独立(76条)、さらには最高裁自ら述べている「主権国としてのわが国の存立の基礎」である日本の主権(対外的独立性)に関わる問題です。

   憲法は何のためにあるのか、司法は根本のところで誰(外国を含む)のためにあるのかを将来に渡って問い続ける重大な判例です。

  Ⅱ 皇太子の結婚

59年4月、皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子の結婚式(「結婚の儀」)が行われました。前年の11月、二人の婚約が発表されると、日本中に興奮が走りました。皇族か五摂家という特定の華族から選ばれる皇室の慣例を破り、日清製粉の社長令嬢とはいえ「平民の娘」が雲の上の存在と思われていた皇室に入ることになったからです。しかも2人はテニスコートで知り合い「自由恋愛」で結ばれたというエピソードは、血筋の違いを超えた愛という普遍的な物語の共有として皇室を身近に感じさせることとなりました。婚約記者会見で初対面の印象を聞かれた彼女の皇太子評「ご清潔で、ご誠実で」は流行語になり、彼女がテニスで着ていた白地のVネックセーターやヘアバンド、カメオのブローチなどのいわゆるミッチースタイルと呼ばれたファッションが大流行しました。

   2人の結婚は、それまでの家父長的な天皇制のイメージを、新憲法の象徴天皇制にふさわしいものに変える大きな転機となりました。しかし、「ミッチー」と呼ばれたのは結婚まででした。「平民」から「皇族」への変化に対応して「美智子様」になりました。同時にはちきれんばかりの健康美に輝いていたミッチー自身にも変化が生じました。それは、「象徴」となったとはいえ、厳として続く「天皇制」が「人間美智子」に与えた変化でした。皇族に対する憲法の適用は大幅に制限されています。一人の人間を個人として最大限尊重することを目的とする憲法の原理と皇室の原理の狭間で、美智子皇后、、そして雅子妃はどのような思いで過ごしておられるのでしょうか。



【006】 1972年

日中共同声明・国交正常化
      2009年05月11日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1972.html

 戦後の東アジアの歴史は、日米中ソ相互のパワーポリテックスが色濃く支配してきました。1971年7月に発表されたアメリカのニクソン大統領の訪中宣言で米中の関係改善の動きが突然表面化しました(ニクソンショック)。翌年2月のニクソンの北京訪問でアメリカは中華人民共和国を中国の唯一の合法政府として認めました。対米従属一辺倒で中国を敵視していた日本はあわてました。

 アメリカの狙いは、中ソ間に楔を打ち込み進行していた離間をさらに促進すること、中国のベトナム支援を止めさせることなどにありました。一方、中国側は、台湾は中国の一部であると認めさせること、アジア地域で日本が軍事的・経済的に強くなり過ぎないように日本を牽制すること、さらには、中ソ対立がありました。中ソ間では政治路線の違いと領土論争をめぐって緊張が高まっていました。69年、中ソ国境のウスリー川中州にあるダマンスキー島(中国名珍宝島)で大規模な軍事衝突が発生。衝突と前後してクレムリンの指導部内では「中国が核大国になる前に、核兵器で北京などの主要都市を攻撃する」という軍事路線が台頭しました。ブレジネフ書記長は、ホットラインでニクソンに核攻撃した場合の承認を求めました。しかし、中国が倒され世界が二極化されるとソ連の強化につながることなどを懸念したアメリカは中国をつぶすのは下策と見なしました。この経緯は、大統領補佐官ハルドマンの回想録に表れています。そのため、ソ連は対中核攻撃を断念しますが、中国側の危機感は残り、病気で余命が少ないことを悟った周恩来首相はアメリカと手を結ぶことでソ連の脅威を防ぐ道を選びます(加々美光行・愛知大学教授「日中国交正常化」 ㈱金曜日刊「この国のゆくえ」所収)。

 しかし、米中間はあくまで関係改善に留まり、国家関係の樹立には至りませんでした。そこで米中関係を後戻りできなくするためにも、中国は対日関係の正常化を望んでいました。一方、日本側も民間は貿易など経済交流を促進することを利益としていましたが、政治の対米従属がそれを阻止していました。そのため、米中接近は政治の障害を除去しました。

 72年7月、自民党の総裁戦に勝利した田中角栄首相は、早速、同年9月29日、中国を訪問して中国の周恩来首相との間で、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」に調印。これにより両国の外交関係が樹立しました。問題点は主に4つありました。①日本側は、1952年の「日本国と中華民国との間の平和条約」(通称日華平和条約)の締結によって日中間の戦争は終了したとの立場をとっていましたが、中国側は続いていると主張していました。この点については、条約第1項で、「不正常な状態は、この共同声明で終了する」と宣言されました。②中国の合法政府がいずれであるかについては、日本は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する、 台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部である旨を認めました。

 難関は③と④でした。③日本が戦争で中国側に与えた莫大な損害については、中国政府は、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言することで決着がつきました。条約締結を急いだ中国側の大幅な譲歩であり、その後、中国の戦争被害者から日本政府や加害企業に対して損害賠償の請求が続くこととなりました。
④さらに、日中戦争に対する日本側の姿勢が重大な問題になりました。田中首相は、訪中当日の歓迎夕食会で「多大のご迷惑をかけました」と述べたことで済ませる方針でした。これは中国側の怒りを買い、共同宣言では「過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と表明することになりました。日本側は「申し訳なかった」と謝罪を名言することは拒みました。この点は③とともに問題を先送りし、しこりを残しました。

 ③と④が課題を21世紀の現在に至るまで残したのは両国に原因があると思われます。中国側は従来、国民の世論を背景に、歴史認識で日本と妥協する意図はなく、損害賠償請求権も留保すると言明していました。しかし、上記のパワーポリティックスが共同声明を可能にしました。請求権放棄には、「両国人民の友好のため」という論理が用いられました。
一方、日本側では戦争責任を直視して真摯に謝罪する方向で国交の正常化運動を担ってきた人たちが取り残される形で正常化が図られました。すなわち、一つは折からの中国の文化大革命に従順な勢力、もう一つは日中貿易に伴う利権を目当てとする勢力が田中政権を後押した経緯があります。

 政治を担い、歴史を作る主役は主権者である両国民です。国民同士の理解を深めるために、率直で多様なコミュニケーションの促進と議論の進展が不可欠です。



【006】 1978年

日米ガイドライン/A級戦犯の合祀
      2009年06月22日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1978.html

Ⅰ 日米ガイドライン

 日米安全保障条約の締結以来、同条約と憲法との関係は、最高裁も追認した前者の優位の体制の下に推移して来ました。この関係を時代区分すると、第一期(51年からの旧安保期)、第二期(60年からの新安保期)、そして、78年からの第三期に分類できます(森英樹、水島朝穂他編「グローバル安保体制が動き出す」)。

 78年は、日米安全保障協議委員会の決定を受けて閣議了承した「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」が策定され、軍事史の画期となる年となりました。

 その特徴は、①安保が核安保であることは知られていましたが、アメリカの核の傘のもとにあることを最初に文書で示したこと、②日米安保が単なる日米間のものにとどまらず、アジア全域をおおうアジア安保、つまり集団的自衛権体制であることを確認したこと、③日本有事体制の本格的登場にあります(渡辺洋三「社会と法の戦後史」)。

 その背景には、73年のオイル・ショックはアメリカの経済的、軍事的地盤の低下を明確にし、アメリカは世界戦略の補完の強化をNATO諸国や日本などに求めたことがあります。日本のいわゆる「思いやり予算」もこの年から始まりました。また、日本側の事情として、日本企業の多国籍的進出は1970年代末から本格化し、海外資本投下が活発に行われ、企業の権益を保護するためにも、自衛隊の海外出動に対する要求が強まったことがあります。

 このような重大な政策転換を国会の関与なしに進めたことは、国会中心主義を無視する国民不在の軍事外交として批判されました。なお、第四期は、90年の新ガイドラインの策定から始まります。

Ⅱ A級戦犯の合祀

 東条英機元首相ら、14人のA級戦犯が、78年10月17日(秋季例大祭の前日)に靖国神社に「昭和殉難者」として合祀されました。職員にも緘口令を敷いていましたが、翌79年4月の新聞報道で明らかになりました(A級戦犯については、ときの話題と憲法・1948年「戦争犯罪人に対する裁判と天皇の責任」をご覧ください)。

 靖国神社は、天皇に忠誠を尽くして戦い死んで行った者を祭神としてまつる神社です。これに対して、東京裁判では、天皇にはアジア・太平洋戦争の責任がなく、配下の最高幹部クラスの責任者たちが侵略戦争を起こし遂行したことを理由に、「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」で裁き、処刑しました。東条らは、天皇に忠誠を尽くして戦争を遂行した者ではないとして、昭和天皇と「戦犯」を分離した構造の上に成り立っていました。

 靖国神社は、戦前は陸海軍省が共管していましたが、戦後は一宗教法人になりました。しかし、戦後も、厚生省援護局(当時)が戦死者の名簿を靖国神社に渡し、神社側が「祭神名票」を作って合祀していました。A級戦犯の名簿も、66年に厚生省から靖国神社に送られ、70年の崇敬者総代会で合祀が了承されましたが、「宮司預かり」となっていました。当時の筑波藤麿宮司の在職中は実施されませんでした。

 しかし、78年から宮司となった松平永芳氏(元海軍少佐・一等陸佐・祖父は福井藩主松平慶永)は合祀を強行しました。氏は、その動機を次のように述べています。「私は就任前から、『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで、就任早々…思いきって、14柱をお入れしたわけです」(『諸君』92年12月号)。先の戦争を「自存自衛」「アジア解放」の「正しい戦争」だと評価する立場です。もっとも、合祀は松平氏だけの個人的な意思によるものではなかったと見られています。保阪正康氏は、松平氏の宮司就任自体が、靖国神社崇敬者総代会(賀屋興宣東条内閣蔵相、青木一男同大東亜相ら元A級戦犯らで構成)の意思によるものだったと想像しています(雑誌「世界」06年9月号)。

 この合祀に対しては、侵略戦争を否定する東京裁判の歴史認識に真っ向から反するものとして、国民の間からも、アジア諸国からも強い批判の声が上がりました。また、そもそも、日本国憲法の下においても厚生省が名簿をや靖国神社に送付していたことは、政教分離(憲法20条3項)に違反する行為です。

 06年年7月20日、88年当時の宮内庁長官だった富田朝彦氏が昭和天皇の発言・会話をメモしていた手帳に、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことを示す発言をメモしたものが残されていたと日本経済新聞の1面で報道され大きな衝撃を与えました。メモでは、「だから私(昭和天皇) あれ(合祀)以来参拝していない それが私の心だ」とも記しています。昭和天皇にとって、東京裁判は、自身の責任を否定し、それゆえに、戦後も「国体」の護持を可能にすることにもつながった、妥協できない決定的なものだったことが、再確認されました。

 A級戦犯を合祀したままでよいか、分祀すべきかの議論は、現在に至るも闘わされています。



【006】 2000年

衆参両院で憲法調査会発足―静かなるクーデターの準備
      2009年11月23日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/2000.html

 99年に改正された国会法に基づき、00年1月、衆参両院にそれぞれ憲法調査会が設置され始動しました。目的は、「日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行う」ことです。そうだとすれば、①憲法はどのように実現されてきたか、②いまだ実現されていないのは何か、③それはなぜかを明らかにし、④実現のための諸課題を調査し議論する、というのが調査会の役割でした。国会議員は憲法尊重擁護義務(99条)を負うからです。

 両院の調査会は、その後5年間にわたって、多数の参考人の意見を聴取し、各地で公聴会を開いて国民の意見を集め、議員間の議論を重ね、05年に最終報告書を作成しました。膨大な議論の中には、専門家の知見に基づく憲法実態の解明など、上記調査の目的に沿う極めて傾聴すべき意見が多数存在します。衆議院憲法調査会、参議院憲法調査会の議事録はホームページで公表されていますので、是非ご覧になってください。

 しかし、これらの貴重な意見はほとんど生かされず、国民も忘れているのが現状でしょう。マスコミも当初は調査会開催のたびに参考人の意見などを詳細に報道しましたが、尻すぼみになりました。最近の世論調査によれば、改正したい事柄として、首相公選制の採用をトップに、新しい人権の明記などが挙がっています(毎日新聞09年11月1日付)。しかし、前者は調査会で欠陥が明らかになって否定論が優勢になった議論であり、後者はむしろ人権制限の口実として利用されている政治的な議論であるという冷静な分析があった問題です。

 そして、「調査」という観点から見ると、①「調査すべき重要な事項」が調査されないか、②調査されても表面的なものに止まっている事柄の枚挙に暇がありません。現状では「立憲主義」の目的である人権保障に名ばかりなものが多いこと、政財官の癒着で民主主義の機能不全が顕著で政治が私物化されていることなどの調査がなかったのは①の例でしょう。「構造改革」の名のもと、優勝劣敗の競争主義がはびこり格差(差別)が他国と比べて拡大しつつあったのに、きちんと議論しなかったのは②の例でしょう。

 膨大な時間と国費を費やしながらまともな「調査」がされず、あるいは生かされなかったのは、憲法「改正」権を持つ主権者である国民の要望によって発足した調査会ではなかったからです。調査会は、90年代以降の財界、アメリカ、自民党、一部マスコミの強い改憲の要請に国会が呼応してできました。野党の反対意見に妥協して改憲案を発議(96条)しない「調査会」として発足しましたが、9条を中心とする改憲ムード作りのための儀式の色彩が濃厚です。調査会を10回ほど傍聴しましたが、開会の時だけ定足数を満たすために出席して退席する者、居眠りする者が多く、およそ最高規範のあり方を議論する場ではありませんでした。聞きたくない人が話す時は椅子をぐるっと反転して無視する者、自分の発言の時だけ顔を出し他人の意見は聞かない者なども目につきました。参考人の貴重な意見は聞き流され、それを踏まえて議論する姿勢も甚だ乏しかったといえます。最終報告書は、改憲を明確に打ち出せませんでしたが、それぞれの論点ごとに多数の意見が改憲に賛成であるという方向性を示しました。

 政治家やマスコミは触れていませんが、根本的な問題の指摘があります。現在なされている議論は、「現憲法の廃棄と新憲法の制定」ではないか、という問題です。通説によれば、「改正」とは同一性・継続性を前提とするものです。憲法の性格や基本原理を変更することはできません。しかし、諸々の提案、調査会での議論、05年の自民党の「新憲法草案」、同年の民主党の「憲法提言」を通じて出てきた議論は、もはや「改正」とはいえないのではないか、という問題です。自民党案の名称はそれを端的に示しています。以下に見るように、憲法の基本原理を転換させる議論が行われています。

 まず、憲法の生命は国民が憲法規範によって権力を拘束し人権を保障させるという立憲主義にあるところ、これを否定ないしあいまい化していることです。調査会の最終報告書では、「国民に上記の99条の義務を課すことの是非」を議論の分かれる論点として記載しています。自民党は、「公権力が国民を縛るルール」という側面を付け加えるよう主張しています。立憲主義の考え方を180度転換させるものです。自民党案では、表現はぼかしていますが、国民に愛国心を持つ義務を課しています。

 国家が人権保障のためにあることから、国の政治のあり方を最終的に決定するのは国民であるという、国民主権の原理を憲法は採用しています。自民党案は、国家(公=おおやけ)と国民(私人)との対抗関係をあいまいにして、国民主権を軽んじています。自民党総裁の谷垣禎一氏は、先日の総裁戦で使った「みんなでやろうぜ」を、意味は違いますが憲法論議でも主張しています。「国家が君のために何をするかを問うな。君が国家のために何をするかを問え。」(朝日新聞06年5月4日付)。「君」すなわち「個人」以前に国家があるという発想につながります。

 民主党の提言は、「『国家と個人の対立』や『社会と個人の対立』を前提に個人の権利を位置づける考えに立つのではなく、国家と社会と個人の協力の総和が『人間の尊厳』を保障することを改めて確認する。」と記載し、「国と国民の共同の『責務』」を謳っています。憲法を国民の行為規範ともするもので、谷垣氏らの考え方と接点があり、今後注目されます。

 平和主義と人権保障も憲法の基本原理です。前者については、自民、民主両党とも、自衛隊の海外における「武力の行使」を肯定しています。多国籍軍への本格的な参加も可能になります。人権の分野では、自民党案によれば、人権は「公益及び公の秩序」により制限されます。旧憲法と同じように、法律が認めた範囲内で権利を保障するというのと同じになってしまいます。これらも、憲法の基本原理を大きく変えるものとなっています。

 「改正」ではなく「現憲法の廃棄と新憲法の制定」だとすると、96条ではなく新憲法制定のための特別な手続が必要なはずです。96条によるのは、「憲法制定」権者は国民であるという国民主権を無視するものであり、「クーデター」と称されても過言ではないでしょう。



【006】 2003年

イラク戦争と日本/有事関連法成立
      2009年12月14日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/2003.html

Ⅰ イラク戦争と日本

 2003年7月、日本は「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」を成立させ、陸上自衛隊と航空自衛隊を派遣しました。アメリカは同年3月の開戦前から日本に対して、「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」(地上に部隊を)と協力を強く求めていました。小泉首相はいち早くアメリカ支持を打ち出し、この法律を成立させました。自衛隊が戦争中の外国に上陸して行った初の戦争(支援)活動として歴史を画しました。

 イラク戦争は、イラクに対する「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」などを求める停戦協定(安保理決議687)違反、同国に対する無条件の査察を求める安保理決議1441などに基づき、米英など「有志連合」軍によって起こされました。仏独露中などは、決議1441では開戦できないと強力に反対しました。しかし、米英等は、イラクは大量破壊兵器を所有しているのに無条件査察に応じないということを理由に、この年の3月、先制的自衛権の行使として(フライシャー報道官の言明)開戦しました。戦争の理由は、フセイン政権とアルカイダの結びつきや、イラクの民主化なども追加されました。しかし、大量破壊兵器は発見できず、アルカイダとの結び付きも証明できませんでした。アメリカが攻撃されることも証明できませんでしたから、「先制的自衛権の行使」というよりも、せいぜい「予防」のための侵略戦争であるという見方が支配的になりました。

 後に、戦争を正当化するためのブッシュ政権の情報操作も次々と明らかになりました。「ブッシュ政権発足当初からイラク戦争の計画はあった」(元財務長官のポール・オニール)。戦争の真の目的はいろいろ指摘されています。例えば、①アメリカは70年代半ばから世界最大の原油埋蔵量を誇るペルシャ湾岸で支配権を確立するため軍事介入策をとって来たこと(「湾岸戦争」参照)、②資本主義と違い「正当な労働の対価以外は受取ってはならない」という価値観を持ち投機を否定するイスラム諸国をグローバル資本主義経済圏に組み込むこと(内橋克人「悪魔のサイクル」)、③「イスラエルを守るため」(山崎拓・07年3月9日付け朝日新聞)、④「フセインはドルでの石油代金を拒否しユーロでしか受取らないと宣言した。石油通貨が移行することはアメリカのドル支配の終焉を意味する。これがイラク戦争を仕掛けた真実だ」(浜田和幸「08年2月9日号週刊現代」)等々。

 日本は3つの点で米軍等を支援しました。まず、安保理でイラク戦争合法化のための多数派工作を積極的に行いました(愛敬浩二「改憲論を診る」)。次いで、日本の基地から米軍が出撃しました。第3が、冒頭の特措法です。明文上は自衛隊の派兵は「非戦闘地域」に限られ、限定的な「武器使用」に止められました。また、活動目的として「人道復興支援」が強調されました。マスメディアもほとんど完全に政府情報に乗りました。しかし、自衛隊の活動の主要な柱である「安全確保支援活動」の実態は隠蔽されました。空自がサマワに医療機器を輸送したことから「復興支援」だとして大宣伝された翌々週の04年3月19日には武装米兵等の空輸が始まりました。空自が活動の中心になった06年7月から活動が終わった08年12月までの124週分だけで、空輸した2万6384人のうち米軍が1万7650人と67%を占めました。バクダッドや北部のアルビルなど戦闘地域にまで空輸しました(09年10月6日付け毎日新聞等)。

 08年4月17日の名古屋高裁判決は「現在イラクにおいて行われている航空自衛隊の空輸活動は,戦闘地域で戦闘行為に必要不可欠な後方支援を行っており、他国による武力行使と一体化した行動であり、政府と同じ憲法解釈に立ち,イラク特措法を合憲とした場合であっても、武力行使を禁止した同法に違反し,かつ,憲法9粂1項に違反する活動を含んでいることが認められる。」との違憲判決で断罪しています(伊藤真・川口創「おおいに語ろう、自衛隊イラク派兵違憲判決・前編・後編)」参照)。日本が国連決議にも違反し、集団的自衛権の行使とも言えない侵略戦争で「武力を行使」して「戦争」した事実の検証を国会、政府、マスメディアはきちんと行うのか、注視されています。

Ⅱ 有事関連法成立

 90年代からの改憲論の活発化のうねりの中で、有事立法を求める議論が現れました。有事とは、一般に、戦争、内乱、大規模災害など、国や国民の平和と安全に対する非常事態をいいます。日米新ガイドライン(1997年)や北朝鮮脅威論、イラク戦争などをてこに、03年6月、いわゆる有事3法(武力攻撃事態法、改正自衛隊法、改正安全保障会議設置法)が成立。翌年の6月には有事関連7法と3条約が成立しました。基本法である武力攻撃事態法は、国外での戦争も想定しており、憲法9条のみならず政府の解釈との矛盾が出てきています。すなわち、同法が定めている「武力行使が予測される事態」には、日本への直接の攻撃がなくても、たとえば北東アジアのどこかで米軍が紛争に介入したような場合、日本の「周辺事態」ということで日本が米軍が始めた戦争に巻きこまれ、あるいは攻撃的に加担する場合が予定されています。専守防衛で「日本有事」のはずの有事法制の変質です。この場合にも自衛隊は、自治体や指定公共機関を巻き込んで、補給活動など米軍と「共同行動」を行うことになります。04年に武力攻撃事態法を補完するものとして成立した「国民保護法」の非現実性も議論になっています。これは、日本が攻撃された場合の住民の避難のマニュアルです。しかし、たとえば有事の一つにされている「航空攻撃」にしても、空襲とか巡航ミサイルがどんどん飛んでくるという事態が起こったならば、特に大都市では避難など不可能になります。また、「有事」にはテロのような「緊急対処事態」が組み込まれています。テロは突発的に起きるものです。したがって、避難どころではなく、国民保護法制は、住民を保護するものではないと指摘されています(石埼学「『国民保護体制』と、自由の基礎としての第9条の意義」)。



【006】 2009年

世界経済の危機―“金融版・大量破壊兵器”
      2010年01月18日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/2008.html

 2008年9月15日、アメリカの5大投資銀行の一つであるリーマンブラザーズが突如経営破綻したのをきっかけに、先進国の金融システムは信用の喪失によって全面的に麻痺。資金の流れが途絶するという金融危機が勃発しました。アメリカの消費の収縮により世界の輸出と生産は縮小して世界経済が戦後初めてマイナス成長に陥り、世界同時不況が到来しました。「100年に1度か50年に1度の危機」と言われました。
1929年~33に経験したような世界恐慌はもはや起きないという資本主義の神話の崩壊です。

 リーマンのような投資銀行は日本でいえば証券会社です。それゆえ企業の株や債券の発行を引き受けたり市場での売買を仲介したりして手数料を収益としていました。いわば社会の脇役です。それが1970年代の末から突如主役への道を歩み出しました。住宅ローンという貯蓄機関による融資を新たな自己勘定の証券化された金融商品として開発して売り出したことから始まります。住宅ローンは金利や支払い能力その他まちまちですが、信用度の低いサブプライムローンも規格化されて大量に証券化されました。さらに、住宅ローンだけでなく、自動車ローンや航空機リースなど多様な種類の「原料」が混合された債券(CDO)や、貸し倒れのリスクだけを取り出して他人に肩代わりさせる金融商品(CDS)も開発され世界中に売り出されました。大きなレバレッジ(梃子)を利かしたこれらの証券は住宅バブルの時代には驚異的に売れました。第一線の優秀な数学者や物理学者などを大量動員してITの新技術で処理する「金融工学」で、リスクが見えない極めて複雑な証券を作り出すことに成功したからです。

 それらが、住宅バブルの崩壊で値崩れして巨額の損失を出しました。そのため、リーマンやゴールドマンサックスなど投資銀行の株価は暴落、経営危機に陥りました。またたく間に、5大投資銀行は姿を消しました。商業銀行も大打撃を受けました。1929年の恐慌の教訓で、商業銀行と投資銀行(証券会社)は厳しく分割されましたが、99年の金融の規制緩和で分割が撤回され、商業銀行も同様の債券を扱っていたからです。

 金融危機が実体経済を直撃して経済危機に突入したのは、「マネー資本主義」になっていたからです。すなわち、リーマンの破綻直前には金融資本は実体経済の4倍近い規模に膨張していました。株式会社の目的として株主の利益を上げることが徹底的に追求され、行き着いた先が短期で効率良く最大の利潤を上げる産業は金融業だったからです。製造業でさえ、金融活動による収益で業績を伸ばしていました。取引の手段に過ぎないマネー自体が取引され、マネーがマネーを生み経済の主役になるという倒錯した経済になっていました。

 「マネー資本主義」を可能にした土壌は、アメリカに世界中から大量の資金が流入し、アメリカを「世界の金融センター」にしたことにあります。金・ドルの交換停止と変動相場制への移行後も、アメリカは慢性的な経常赤字を続け、ドルをたれ流してきました。にもかかわらずドルが基軸通貨の特権的地位を維持できたのは、経常赤字を上回る資金が流入したからです。アメリカ主導のグローバリゼーションで、資本取引・外国為替取引の自由化(規制緩和)が世界中に強要されました。人々の欲望は暴走し、生き馬の目を抜く投機が日常的になりました(投機資本主義)。

 日本の土地バブルの崩壊の例に学ぶまでもなく住宅バブルの崩壊は予想されましたし、債権化された証券にリスクが潜んでいることは、作った当事者は分っていました。危機を作り、それを防止できなかった最大の原因は、金融機関と政治が献金や人的交流で一体化していたからです(企業による政治家、ホワイトハウスへのロビー活動の激化については、ロバート・B・ライシュ「暴走する資本主義」参照)。金融危機・世界同時不況で、投資していた年金基金などは大打撃を受け、また、失業者の増大で、市民・労働者が最も犠牲になりました。一方、金融商品の開発者・トレーダーや情報を知りうる地位にあった特権的な投資家、政治家は巨利を獲得し、格差は極端に拡大しました。金融業は長期的に見るとゼロサムゲームです。リスキーな金融商品は“金融版・大量破壊兵器”とも称されます(「マネー資本主義」NHK出版)。合法的な詐欺とも言えるでしょう。

 現在、世界経済は最悪の危機から脱し、ゆるやかではあれ回復に向かっているという観測が流れています。当面1929年の世界恐慌のような事態に陥るのが回避された最大の要因は、各国政府による巨額の金融安定化策と財政出動による景気刺激策です。

 しかし、金融危機が再び暴発するのを防ぐためには、市場原理主義によるマネー資本主義から脱却して「規制された資本主義」「管理された資本主義」になることが必要だとされています。そのため、08年の金融危機後の世界は、G8に代わって新興国などを加えたG20で金融サミットを開催し対応策を検討してきました。一定の規制策は打ち出されましたが実行に移すことは先延ばしされています。実効性があると言われる金融取引への課税(通貨取引税の導入)は、イギリスが提案し独仏などが賛成しましたが、アメリカが難色を示しています。正体不明で「影の銀行」と言われるヘッジフファンドの規制も進んでいません。不安定なドルに代わる新たな基軸通貨制度を作れという提案も無視されています。75年前にケインズが言っていたことです。大多数の発展途上国の発言権を排除しているG20でなく、国連が金融規制で中心的な役割を果すべきだという主張(ジョセフ・スティグリッツ等)が生かされる見通しも全く立っていません。

 私的な主体であることを理由に財産権に対する規制を拒否した金融機関が、危機に瀕すると公共的な主体であることを理由に税金で救済されるという矛盾についての議論もはなはだ不十分です。

 金融危機の再発を防ぎ、世界の人々の生存権を保障するためには、経済面、政治面における民主主義の前進が不可欠です。人類は、私的所有を「各人の生命を維持するのに必要な限度で自分自身の身体を自然に働きかけて得たものに対する所有」と捉え、自らの労働に基礎を置くものと根拠づけたジョン・ロックが唱えた初心に立ち戻って考える時期に来ているのかもしれません。



【006】 2009年

政権交代
      2010年01月25日
      http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/2009.html

 「政権交代」が「2009年ユーキャン新語・流行語大賞」に選ばれました。政治関連では、「事業仕分け」「脱官僚」も大賞候補のトップテンに入りました。

 昨年8月30日に行われた衆議院議員総選挙で、民主党は308議席を獲得、64.2%の議席を占め「圧勝」しました。自民党は、1993年に下野して細川連立政権ができたときにも衆院第1党でしたから、「歴史的敗北」でした。今回は、選挙前に「争点は政権交代だ」と盛んに宣伝されたこともあり、「自民党はダメ」「一度政権を代えなければ」という意思の表明としての性格が強かった選挙でした。

 選挙は、少数派の意見が議席に反映されにくく「改正」された小選挙区制中心の小選挙区・比例代表並立制の下で行われました。仮に各党の比例票で480議席を配分した場合、民主党は得票率42.4%で204議席、自民党は26.7%で128議席、その他の少数政党は28.8%で139議席(実際より94議席増)になります。比例代表区の得票率から見ると「圧勝」ではありません。資本主義が行き詰まり、多様な将来像が摸索され、価値観の見直しも提起されて少数意見の意義が益々重要になってきている現在、今回の選挙による民主主義の「前進」の意義を過度に強調することは慎重でなければなりません(参考:浦部法穂「政権交代」)。

 新政権は、自公政権との違いを浮き彫りにしたいということで、新しいメッセージを次々に発信しました。篠原一氏は、「『第二民主制』建設の試みといってもよいだろう」と評しています(「世界」09年12月臨時増刊号「大転換」)。

 第1に、政策決定システムの転換です。「官僚主導から政治家主導へ」の理念で、事務次官会議の廃止、政務3役会議による政策決定など、変化が進行しています。「官僚主導」の実態は、官僚が財界をはじめとする利益集団と政治家の利益を反映しつつ国民全体の利害を調整した利益誘導政治にあります。政財官の癒着の構造の一環です。これに(一定の)メスが入った意義は大きいでしょう。国民に一番近い位置にいる政治家による「事業仕分け」が公開されたことは、情報公開、説明責任という民主主義の促進の面で新鮮に映りました。

 第2に、「国民の生活が第一」のスローガンの下、予算の組み替えをして、「コンクリートから人へ」、つまり「土建国家」から「福祉経済」への転換に踏み出しました。10年度の予算案では、公共事業費は前年より18.2%減少しました。代わりに、社会保障費は子ども手当の創設などで9.8%と大幅に増額されました。

 第3に、日米同盟の再検討を打ち出しました。「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む。」とし、「東アジア共同体の構築をめざ」すとしたことは、「第一民主制」ではおよそ考えられなかったことです(以上「季刊ピープルズ・プラン」09年Autumn号等参照)。

 しかしながら、これらの新機軸は未知数の面が多く、また、多くの問題点が含まれています。

 上記第1の点については、「政治家主導」という名の下における民主党の「国会改革」案が憲法の予定する民主主義の理念に逆行するのではないかという問題があります。憲法は国民主権の大きな具体化として国会を「国権の最高機関」としています。しかし、改革案は、内閣と政権党指導部などの中枢部だけで政治を効率的に動かす仕組みづくりであり、小沢一郎氏が90年代から追求してきた「政治改革」の総仕上げであるという指摘が多数見られます(論稿「民主党が進める『国会改革』と国民主権」)。

 第2の点については、財源不足に制約された限界が目立ちます。税制や社会保障制度全体を見直し、体系的な所得再配分政策を提示することが求められています。

 第3の点については、民主党の外交ブレーンと称されている寺島実郎氏からも、「国際社会の常識に還って「『独立国に外国の軍隊が長期間に渡って駐留し続けることは不自然なことだという認識を取り戻』」し「知的怠惰」を排することが提起されています(「世界」10年2月号)。普天間基地の問題もこの枠組みの中で解決されるべきだと。

 今夏に迫った参院選では民主党は単独過半数を目指しています。両院で単独過半数を獲得して実現を目指す事項として、①衆院比例区定数80の削減(衆院戦のマニフェストに掲載あり)、②消費税増税法案の制定、③9条を含む憲法改正が議論されています。それぞれ上記第1~3に対応する問題です。

 これらの課題が実行に移される段階になると、政界の再編成が予測されます。その意味では、参院選前の現在は最も重要な過渡期だという見方もできます。国民の一人ひとりが憲法の真の理念に立ち返って地に足の付いた自分の意見を持つこと―民主党が強調する「国民主権」の意味を自分の問題に引き付けて具体化すること―が早急に求められています。