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折々の記 2016 ①
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 09 】02/23
02 23 憲法学者の考え【その五】 安倍政権の舵とり
【001】 法学館憲法研究所
【007】 「中高生のための憲法教室」一覧表
【007】 ■第21回<首相の靖国参拝と裁判所の役割>
【007】 ■第22回<平時になんで新憲法?>
【007】 ■第23回<ビラ配りは犯罪か?>
【007】 ■第24回<女性天皇の是非も私たちが決める>
【007】 ■第25回<黙秘権は何のために?>
【007】 ■第26回<「国民投票法」を考える>
【007】 ■第27回<学校で強制される「愛」?>
【007】 ■第28回<犯罪の相談だけで処罰される!?>
【007】 ■第29回<被害者の人権と被告人の人権>
【007】 ■第30回<「敵基地攻撃論」と暴力の連鎖>
02 23 (火) 憲法学者の考え 安倍政権の舵とり
第2次安倍内閣 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%86%85%E9%96%A3)、 や第1次安倍内閣、第3次安倍内閣でもいいが、安倍内閣の概要を知るのに好材料が整理されている。
安倍氏は今までにないアメリカ従属の政治を勝手に国益と称して進めてきた。 いまやUSAは戦争扇動国家として多くの識者から批判され、国内でも影を落としている。
あらぬことか、報道によれば9.11事件すらUSAの陰謀と囁かれ、それが暴かれさえしてきている。 国連を無視したイラクの軍事侵攻も、アフガン侵攻も陰謀と言われ、ビンラデンへの執拗なまでの追撃は、ISの無法反撃という火をつけてしまった。
軍産の暗黒モンスター(死の商人)の謀略の顛末としか言いようがない。
暗黒モンスターに操られているアメリカ行政に、あろうことか安倍氏は尻尾を振ることにしている。
日本の明るい未来のシンボルである戦争放棄の憲法が危機に瀕している !!!
【001】
法学館憲法研究所の内容は次の通りです。
【001】法学館憲法研究所 http://www.jicl.jp/index.html
【002】「今週の一言」 http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber.html
【003】「浦部法穂の憲法時評」http://www.jicl.jp/urabe/index.html
【004】「浦部法穂の『大人のための憲法理論入門』」http://www.jicl.jp/urabe/otona.html
【005】「日本全国憲法MAP」http://www.jicl.jp/now/date/
【006】「ときの話題と憲法」http://www.jicl.jp/now/jiji/
【007】「中高生のための憲法教室」http://www.jicl.jp/chuukou/chukou.html
これらをテーマごとに分類・カテゴライズしました。 有益な情報が多数あります。 ご活用ください。
【007】
「中高生のための憲法教室」一覧表
伊藤所長(伊藤塾塾長)が「世界」(岩波書店)に連載したものをご紹介します。
http://www.jicl.jp/chuukou/chukou.html
実施回数と内容 執筆年月日 ■第48回<憲法の力> 2008年03月17日 ■第47回<貧困と憲法> 2008年02月18日 ■第46回<米軍再編と地方自治> 2008年01月14日 ■第45回<日本の国際貢献> 2007年12月17日 ■第44回<裁判員制度> 2007年11月12日 ■第43回<外国人の人権> 2007年10月15日 ■第42回<戦後レジームからの脱却> 2007年09月10日 ■第41回<被害者参加制度> 2007年08月13日 ■第40回<明確性の理論> 2007年07月16日 ■第39回<力と民主主義> 2007年06月11日 ■第38回<議員定数不均衡問題> 2007年05月14日 ■第37回<環境問題> 2007年4月16日 ■第36回<違法でなければそれでいいのか> 2007年03月12日 ■第35回<住基ネットはなぜ危険なのか> 2007年02月19日 ■第34回<表現の自由と国民投票> 2007年01月15日 ■第33回<平和と福祉の強いつながり> 2006年12月18日 ■第32回<安倍「改憲」で「美しい国」に?> 2006年11月13日 ■第31回<憲法から考える自民党総裁選挙> 2006年10月16日 ■第30回<「敵基地攻撃論」と暴力の連鎖> 2006年09月11日 ■第29回<被害者の人権と被告人の人権> 2006年08月14日 ■第28回<犯罪の相談だけで処罰される!?> 2006年07月17日 ■第27回<学校で強制される「愛」?> 2006年06月12日 ■第26回<「国民投票法」を考える> 2006年05月15日 ■第25回<黙秘権は何のために?> 2006年04月17日 ■第24回<女性天皇の是非も私たちが決める> 2006年03月13日 ■第23回<ビラ配りは犯罪か?> 2006年02月13日 ■第22回<平時になんで新憲法?> 2006年01月09日 ■第21回<首相の靖国参拝と裁判所の役割> 2005年12月12日 ■第20回<「よくわからないけど小泉さんが好き」?> 2005年11月14日 ■第19回<私たちはなぜ選挙に行くのか> 2005年10月17日 ■第18回<教科書を選ぶとはどういうことか> 2005年09月15日 ■第17回<「教科書検定」を憲法からみると> 2005年08月15日 ■第16回<あなたも私も納税者> 2005年07月14日 ■第15回<憲法は押しつけられたか?> 2005年06月13日 ■第14回<教育は何のために?> 2005年05月16日 ■第13回<嫌いなのは自由、歌うのは義務?> 2005年04月11日 ■第12回<「表現の自由」はなぜ大事?> 2005年03月14日 ■第11回<「普通の国」と「日本の独自性」> 2005年02月21日 ■第10回<公務員の人権が制限されるワケ> 2005年01月17日 ■第9回<「公共の福祉」ってなんだろう?> 2004年12月13日 ■第8回<プロ野球選手がストしていいの?> 2004年11月15日 ■第7回<オリンピックは誰のため?> 2004年10月18日 ■第6回<黙っていたら人権はない> 2004年09月13日 ■第5回<攻められたらどうするの?> 2004年08月09日 ■第4回<「戦争放棄」の理由> 2004年07月12日 ■第3回<「憲法改正」を考えるヒント> 2004年07月05日 ■第2回<守らなくてはならないのは誰?> 2004年07月05日 ■第1回<世界に一つだけの花> 2004年07月05日
【007】ー ■第21回
<首相の靖国参拝と裁判所の役割>
2005年12月12日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/21.html
10月17日に、小泉首相がまた靖国神社に参拝して、物議をかもしています。
この問題については、三つの高等裁判所の判決が出ましたが、その結論はまちまちでした。大阪高裁判決は、「靖国参拝は憲法違反(違憲)」と判断しましたが、東京高裁と高松高裁の判決では違憲かどうかの判断をしませんでした。
小泉首相もふくめて政治家のなかには、このように裁判所の判断がわかれていることを理由に、違憲判決を気にもとめないで靖国参拝をする人がいるようです。
こんなにもめるのなら、もっとはっきりと裁判所が違憲か合憲かを判断してくれればいいのに、と思う人もいるかもしれません。首相の靖国参拝は、「政治と宗教は分離されなければならない」という憲法上の「政教分離原則」に違反するかどうかの問題です。裁判所で明確に判断することができれば、話は簡単のように思えます。
ところが、実は現在の日本の裁判制度では、小泉首相の靖国参拝を直接、裁判所で争うことはできないことになっているのです。
それは日本の裁判所の役割が、私たち個人の権利を守ることを第一の目的としているため、原則として私たちの権利や義務に関する法律問題しかあつかってくれないことになっているからです。
例外的に、地方自治体の首長(都道府県知事や市町村長など)がおこなった行為なら、それが違法だと訴えることができるのですが、首相の靖国参拝のような行為を、「政教分離違反だ」といって直接、裁判で争う手段が、現在の法律では認められていません。
そこで多くの裁判では、原告の人たちは、「精神的な苦痛を受けた」といって、損害賠償請求の形をとって国や首相を訴えるしかないのです。
損害賠償請求という形をとるために、法律上は、「権利の侵害があったのか」とか「首相が職務行為として参拝したのか」といった細かな問題が出てきてしまいます。こうした法律技術的な問題に対してどのように対応するかによって、裁判所ごとに判断がわかれてしまうのです。
その結果、ことがらの本質であるはずの、「首相の靖国参拝は憲法違反か」という問題を正面から判断することがむずかしくなっています。もちろん、首相の違法行為を直接争えるような法制度にすればいいだけのことですが、いまの政治家たちがそんな法律をつくるとは思えません。
さて、これでよいのでしょうか?憲法に違反している状態が現にあるのに、「法制度の限界だからしかたがない」といってあきらめるしかないのでしょうか?
たしかに裁判所の第一の役割は、具体的な個人の権利を守ることにあります。ですが、それとともに、憲法の価値を守ることも重要な役割です。そのために、憲法は裁判所に「違憲審査権(憲法81条)」という特別の権限を与えています。憲法の大切な価値をしっかり守るため、個人の権利救済の必要性とは別に、積極的に違憲判決をおこなっていくことが求められているのです。
とくに政教分離違反のように少数の人の気持ちや人権が侵害されているときには、どうしても国民の多数派は「自分には関係ないから」と思ってしまい、政治家に文句をいってそれをやめさせようとしたりはしません。
つまり、多数決を本質とする民主主義によってでは、憲法違反を正していくことがむずかしい場合があるのです。民主主義では守りきれない少数者の権利や利益を守り、憲法の価値を実現することも、裁判所に期待された重要な役割です。
憲法は民主主義によって、多くの国民の幸せを実現しようとしました。そして同時に、民主主義によってはうまく救済しきれない個人の人権を、裁判所で救済することを予定しました。まさに「人権保障」という憲法の価値の実現を、裁判所に期待したわけです。
とすれば憲法が、違憲状態を正す努力じたいを裁判所に期待しているということもできるはずです。ただし憲法は、そのような裁判所の違憲判断を、政治家に強制する手段までは用意していません。政治家を裁判所の判断にしたがわせるのは、国民の役割なのです。裁判所の違憲判断を無視するような人間は政治家失格ですから、選挙で落選させるしかありません。
私たちは、裁判所が違憲審査権を積極的に行使して、憲法の価値を守ってくれることを期待するとともに、自分たち自身も民主主義を通じて、政治家の暴走に歯止めをかけていかなければならないのです。
憲法は、私たち国民が国家権力に歯止めをかけて守らせるものです。つまり、私たち国民が主体となって、まちがった政治を正し、憲法違反の状態をなくしていく努力をしなければならないのです。
【007】ー ■第22回
<平時になんで新憲法?>
2006年01月09日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/22.html
一〇月二八日に、自民党の「新憲法草案」が発表されました。
これはそのタイトルがしめすように、「改憲案」ではありません。内容的にも現在の憲法の根本価値を否定しているので、あきらかに「新憲法の制定」です。
ですが、そもそも私たち主権者は、国会議員に新憲法制定の権限などあたえていません。改正のための発議権を国会にあたえているだけです。
たしかに国会議員が憲法改正の議論をすることは認められています。しかし、新憲法の制定となると話は別です。
「改正」はいまの憲法との連続性をたもちつつ、部分的な手なおしをすることですが、「新憲法の制定」はいまある憲法の価値を否定して、あらたな憲法秩序を構築することを意味します。「国会議員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」ことを定めた憲法九九条に違反するのは明らかです。
こうした自民党案の本質について、名古屋大学の浦部法穂教授(憲法学)は、「そもそも平時に新憲法の制定をおこなう国などない」と指摘します。百歩ゆずったとしても、国民が「憲法制定会議」の代表を選出してはじめて新憲法制定の議論が可能となるはずです。現憲法下の国会議員が憲法九九条を無視して新憲法の制定をおこなうことは、一種の「政治的クーデター」ともいうべき行為ではないでしょうか。
内容的にも、愛国心を強制する前文や、「公益」の強調など問題が多いのですが、今回は二点だけ指摘しておきます。
第一は「自衛軍」の創設です。
自民党案は、総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持するだけでなく(九条の二)、社会的儀礼の範囲内なら国による宗教的活動、つまり靖国参拝も可能にしようとしています(二〇条三項、八九条一項)。戦争になると戦死者が出ることはさけられません。そこで戦死を美化するための用意をしたということです。さらに総理大臣の権限を強化し、閣議決定なしで直接、行政各部を指揮監督できるようにしました(七二条)。こうして戦争へのハードルをかぎりなく低くしています。
平和を「人権」として主張することがいまの憲法のいちばんの特徴ですが、それも廃止し、将来にむけた「積極的非暴力平和主義」の展望をも奪ってしまう内容になっています。
自民党案には、「自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する」とあります(九条の二の二項)。つまり「文民統制」(文民=非軍人が軍隊をコントロールすること)を規定しているのですが、「国会の承認」は不可欠なものではなく、「その他の統制」でもよいことになっています。これでは文民統制は骨ぬきです。
また、自民党案九条の二の三項には、自衛軍の活動が三つ規定されています。その三つめには、「緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命もしくは自由を守るための活動を行うことができる」とあります。
つまり、国内で暴動などが起こったら自衛軍がその鎮圧にあたるということです。なにをもって「公の秩序を維持するための活動」とするのかがはっきりしませんが、とにかく国民に対して、軍の銃口がむけられるということです。そしてこうした活動には、国会の承認はおろか、憲法上はなんの統制も必要とされていません(「国会の承認その他の統制」は九条の二の一項の活動にだけ必要とされています)。
第二は「地方自治」の問題です。自民党案では、住民に、「地方自治体の役務の提供」の負担を分担する義務を負わせます(九一条の二の二項)。憲法に「義務負担」の規定をおくことじたいが、まず問題です。
そして九二条では、「国と地方自治体の適切な役割分担」を定めています。では、誰が「適切」と判断するのでしょうか? どのような役割分担がなされるのでしょうか?
この規定によって、「国防や外交、軍事、国際協力などは国の役割だから、地方は口を出すな」といわれる危険性があります。横須賀市や神奈川県が「原子力空母入港反対」と声をあげたり、沖縄県が独自に米軍に意見をのべたりすることもできなくなります。「無防備地域宣言」のような平和活動も、大きく制限されることになるでしょう。
それを決定づけるのが九五条の削除です。
いまの憲法の九五条では、特定の地方公共団体だけに不利益に適用される法律をつくるときには、その地域住民の住民投票が必要となっています。つまり国が特定の地域に、不利益な法律を勝手に押しつけることはできないのです。
この条文を削除してしまえば、国は特定の地域に不利益な法律も自由につくれることになります。地方自治体は法律の範囲内でしか権限をあたえられていませんから、国が法律によって、いくらでもその権限を制限することができてしまうのです。まさに地方は国のいいなりです。
これで「地方の時代」などといえるのでしょうか。
【007】ー ■第23回
<ビラ配りは犯罪か?>2006年02月13日
2006年02月13日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/23.html
「立川自衛隊官舎ビラ配り事件」で有罪判決が出ました。東京都立川市で長年、反戦運動をおこなってきた活動家が、防衛庁立川官舎ヘビラ配りのために立ち入った行為が住居侵入罪で起訴され、一審は無罪となりましたが、二審の東京高等裁判所で有罪となったものです。
「住居侵入罪」とは、他人の住居やその敷地内に勝手に入ってはいけないというものです。その家や敷地を管理している人の管理権を侵害するので、違法であり犯罪とされるのです。一種のプライバシー権侵害だといってもいいでしょう。
たしかに他人が勝手に自分の家の敷地に入りこんでくることは困ります。ですが、そうした行為があればつねに処罰されるわけではありません。もともと犯罪は、刑法の条文に書いてあることをやっても成立しないことがあるのです。
たとえば、刑法235条には、「他人の財物を窃取したものは窃盗の罪」とすると書いてありますが、となりにすわっている友人の机のうえのティッシユ一枚(これは「他人の財物」にあたります)をだまってもらって鼻をかんだとします。このときに10年以下の懲役刑が科される窃盗罪で処罰することは、不当です。そもそも処罰の必要性がないからです。
刑罰は最大の人権侵害ですから、ほんとうに必要最小限の刑罰を科すことが許されるだけです。刑罰に値するような行為をやっていない場合には処罰するべきではありません。
そしてその行為が処罰に値するかどうかは、そこでおこなわれた行為の目的や方法、相手方の侵害された利益の大きさなどを考慮して決められます。「なんのためにそのような行為をしたのか」も、重要な判断材料です。
私たちの権利はおたがいに衝突することがあります。そこではおたがいに少しずつガマンすることも必要です。たとえば、出版のような表現行為によって、公然と事実をしめして他人の社会的評価を下げてしまった場合には、名誉毀損罪の条文(刑法230条)にあてはまります。しかし、その表現行為が公益目的でなされたものであり、そこでしめされた事実が公共性をもつものであり、真実であれば、犯罪になりません。また、労働者が使用者と交渉しているときに、要求を受けてもなかなか事務所から立ちのかなかったとします。これは不退去罪にあたる行為です(刑法130条後段)。ですが、労働基本権(憲法28条)の行使なので処罰されないことがあります。
同じように住居侵入罪も、住居権者の意思やプライバシー権と、ここでビラを配りたいという人の表現の自由との衝突を、どう調整するかの問題となります。憲法上の重要な権利である「表現の自由」を重視する立場に立つのであれば、被害者の損害の大きさを考慮しつつ、その被害がそれほど大きくなければ、犯罪不成立とすることは十分に可能なのです。
刑法は住居侵入を犯罪として処罰することで、住居権者の利益を守り、かつ社会の秩序を維持しようとします。ですが、刑法でも憲法上の価値とぶつかるときには、一定限度で犯罪にすることをさし控えなければなりません。それは刑法よりも憲法のほうが上にあるからです。国家権力が「刑罰権」という権力を行使しようとするときに、それに歯止めをかけることもまた憲法の仕事だからです。
「民主主義社会」は自分と異なる意見をも受けいれ、そうした考えをもつ人と議論をすることによってはじめて発展します。自分のききたくない意見であっても、ある程度それを受けいれなければならないときがあります。私も、街を走る車のスピーカーから大きな音楽とともに政治的な演説が流れてくると、うるさくてちょっとイヤだなと思うことはあります。しかし、だからといってそうした表現を一切禁止すべきだとは考えません。人権を尊重しようとするならば、私たちは多少不快だと感じることがあっても、それをガマンしなければならないのです。
「表現の自由」(憲法21条)は、個人が目分の言いたいことを言って自己実現をはかるために重要な権利ですが、それにとどまらず、多くの多様な意見を参考に、人びとが自分の意見をつくりあげ、そのことによって社会が進歩するという、民主政治に不可欠の役割をはたす権利です。もちろんいくら「表現の自由」といっても、住民が本当にうんざりしていやがっている場合には、その意思を無視してビラ配りをする権利はありません。しかし、住民よりも官舎の管理者、つまり国がいやがっていただけだとしたら問題です。国がいやがる言論は問答無用でとりしまるということになってしまいます。それでは自由な言論が保障された社会とはいえません、権力者にとって不愉快だからといって、異論、反論などの少数者の権利を封じこめたのでは、民主主義は死んでしまいます。
「私たちの思想や言論のような精神活動の領域に国家はむやみに立ち入ってはいけない」というところに、憲法の人権保障の本質があることを忘れてはなりません。
【007】ー ■第24回
<女性天皇の是非も私たちが決める>
2006年03月13日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/24.html
国民の祝日に関する法律第2条に「建国記念の日」が規定されています。
この法律では日にちは特定されておらず、政令で2月11日となっています。「建国をしのび、国を愛する心を養う」が趣旨となっています。明治憲法のもとでは「紀元節」という祝日でした。これは神武天皇元年の元旦を西欧暦で計算してみたものということです。歴史的にはあやしいところもありますが、天皇制とむすびついていることだけはたしかです。
お正月には年賀状に、「平成18年」と元号を使う人もいます。この元号は天皇の苗字のようなものです。もともと天皇家の人たちには苗字がありません。国民とちがって苗字で区別する必要がないくらい特別な存在だからです。しかし、天皇が死亡すると、元号が天皇の苗字としてあたえられます。こうして元号も天皇制と深くむすびついています。
昨今、天皇の跡継ぎをどうするかという議論がさかんにおこなわれています。今回はこの天皇制について、明治憲法と対比しながらすこし考えてみましょう。
明治憲法では天皇は主権者であり、日本でもっともえらい人となっていました。すべての統治権は天皇に帰属し、天皇が立法権、行政権、司法権を行使することになっていたのです。法律は天皇が承認しなければ成立しませんでしたし、議会とは別に、天皇が勅令というかたちで立法をおこなうことができました。各国務大臣は行政権をもつ天皇を補佐し、天皇に対して個別に責任を負っていただけでした。裁判所が出す判決も、天皇の名で言いわたされました。
さらに、天皇は神聖なもので、国家神道とむすびついた象徴でもありました。そしてその地位は天照大神(あまてらすおおみかみ)の意思にもとづくことになっていました。国民は、神の意思によって統治権をもち、神聖な象徴である天皇だからということで、これを敬うことを強制されたのです。
こうした君主としての天皇を否定して、主権を国民にあたえ、天皇を象徴としての地位だけにとどめることにしたのが日本国憲法です。憲法はまず一章で天皇について規定していますが、その内容は、天皇に政治的な権力がないことを徹底させるものです(4条)。政治的に天皇を悪用することがないように、天皇の権限を憲法で制限してはじめて、国民の人権が保障されるというわけです。
1条では、天皇は象徴でしかないことを明確にし、しかも主権が国民にあることを宣言しました。この天皇の地位は、国民の総意にもとづくとされています。つまり、私たち国民が、天皇の地位すらも決めることのできる主体なのです。国民は決して「天皇を象徴として敬え」と強制されるような、支配の客体ではないことを示しています。
2条では皇位を世襲(せしゅう)のものと規定しますが、これは「法の下の平等」をうたっている14条との関係で、どうにも説明がつきません。天皇はどう考えても、その存在じたいが平等原則に反します。女性天皇を認めるかどうか、男系男子にかぎるのは平等権侵害ではないかという議論もありますが、そもそも天皇制じたいが平等原則の枠の外にあると考えるほかないようです。つまり、ここには第三章の人権規定がおよばないのです。
現在、皇位継承の資格は「皇室典範(こうしつてんぱん)」という法律によって「皇統に属する男系の男子」たる皇族にかぎられています(皇室典範1条、2条)。明治憲法時代は、この皇室典範は皇室の家法のようなもので、その改正には議会も口を出すことはできませんでした。それに対して、日本国憲法のもとの皇室典範は、その名称は同じですが性質はまったく変わりました。一般の法律と同じ性質のものとなったのです。
ですから、この皇室典範という法律を改正すれば、女性天皇を認めたり、生前の退位を認めたりすることも可能となっています。つまりここでも、私たち主権者が法律によって皇位継承の資格や順序をも決められるということです。
また天皇の行為に着目してみても、天皇は「国事行為」という形式的儀礼的行為のみをすることができるのですが、日本国憲法3条ではこの「国事行為」も、内閣の助言と承認が必要としています。つまり天皇の行為は、国会によってコントロールされた内閣が決定するということです。ここでも、最終的には主権者たる国民の意思にもとづくことが要求されているわけです。
憲法は世襲制の天皇を認めることで、平等原則の重大な例外を認めてしまいました。そしてその天皇を、日本国民統合の象徴としています。平等をむねとする国民とはかなり異質の存在をあえて象徴としているのですが、その象徴という地位もふくめて、天皇に関するすべてのことがらは国民が自分たちの意思で決めることができるのです。
天皇のありかたもけっしてタブーとすることなく自由に議論できる社会が、真の民主主義社会といえるでしょう。
【007】ー ■第25回
<黙秘権は何のために?>
2006年04月17日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/25.html
逮捕された人が取調べを受けても黙っていることがあります。真相究明しようとしているときに黙っているなんて、とんでもないヤツだと思いませんか。今回は刑事手続きについて考えてみましょう。
まず、犯人なら反省してきちんと話すべきだ、黙っているのはおかしいという声があります。ですが、「犯人として知っていることをきちんと話せ」というのは、その前提に間違いがあります。被疑者・被告人は、罪を犯したかどうかわからないから裁判を受けています(起訴される前を被疑者、起訴された後は被告人と呼ばれます)。判決がでるまでは真犯人かどうかわからないのです。もし、逮捕された時点で真犯人だとわかっているなら、そもそも裁判はいりません。ですから、「知っているはずだから、拷問してでも自白させろ」というのはまちがっています。
テレビドラマの世界でははじめから犯人が決まっていますから、テロリストを拷問してもいいように思うかもしれません。しかし、現実の世界では無実かもしれないのです。拷問はどのような理由があっても許されません(憲法36条)。
憲法は38条1項で「黙秘権」を保障しています。なぜ、黙秘権が保障されるのでしょうか。それは、そもそも人間の内面に、国家権力が入り込んで強制的に調べることが許されないからです。自分の知っていることを話すかどうかは本人が決めるべきことであり、強制されるべきことではありません。個人の尊重にもとづく幸福追求権から自己決定権が導かれますが、その延長線上に黙秘権が位置づけられます。
ただ、こう考えても、自分に不利にならないことを話す義務くらい負わせてもよさそうです。しかし、もし不利なことしか黙っていることはできないとしてしまうと、黙っているのは自分に不利だから、つまり犯人だからだと推測されてしまいます。そこで、不利なことも有利なことも、一切黙っていることができるとしたのです。
ですが、真犯人でないのなら、きちんと弁解するべきだと思う人もいるのではないでしょうか。しかし、これではうまく弁解できない人が有罪になってしまいます。つまり「疑わしきは罰する」ということになってしまうのです。「罪を犯したかもしれない人」をすべて処罰することで、社会の治安は維持できるかもしれませんが、それでは無実の人が処罰されることになってしまいます。つまり、社会の治安のために無実の個人が犠牲になるということです。
これでは憲法が一番大切にしている「個人の尊重」(憲法13条)に反してしまいます。憲法は社会や国のために個人が犠牲になることを認めません。あくまでも個人のために国があるのであって、けっして国のために個人があるわけではないのです。そこで、犯人かどうか疑わしいときには、無罪とすることになっています。これを「無罪の推定」といいます。みなさんも、たとえばアリバイを証明できなければ有罪とされてしまうとしたらどうでしょう。昨日の夜2時のアリバイを証明してくれる人はいますか。いくら自分の部屋で寝ていたといっても、家の人がみんな寝てしまっていて、それを証明できないとしたらどうでしょうか。それで有罪とされたらたまらないでしょう。
このことを「適正手続の保障」という人権として保障しました(憲法31条)。黙秘権を人権として保障し、有罪の証明は国の側にさせることによって、警察や裁判所という国家権力によるあやまちを最小限にくい止めようとしているのです。
警察や裁判所は社会の秩序を維持し、正義を実現するために重要な役割を果たしています。しかし、同時におそろしい権力としての側面もあわせ持っているのです。この二面性を忘れてはなりません。テレビ映画では、警察やテロ対策の組織などは正義の味方として描かれていますが、それはあくまでもつくり話の世界であって、現実は権力による人権侵害も、テロと同じくらいに恐ろしいものだという認識をもたなければなりません。「横浜事件」のような、特高警察による拷問と不正な裁判を経験した日本ではなおさらです(「横浜事件」はアジア・太平洋戦争中に起きた言論・思想弾圧事件。でっち上げによる逮捕と拷問によって多くの犠牲者を出した)。
こうした過去の苦い経験にもとづいて、現在の憲法は被疑者・被告人の人権保障を充実させました(31条から39条)。警察や裁判所という権力の暴走とあやまちは取り返しがつきません。だからこそ、私たちはこうした権力に対しても、しっかりと監視の眼を光らせておかなければならないのです。
裁判所を常に正義の味方と考えてしまい、判決を無批判に受け入れるだけでは、真の民主主義国家とはいえません。国民による不断の監視の眼があるからこそ、警察や裁判所という権力は適正手続をたもち、その判断が正当性をもつことができるのです。ここでも私たち国民が、しっかりと主体的に裁判と向き合わなければならないのです。
【007】ー ■第26回
<「国民投票法」を考える>
2006年05月15日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/26.html
国会で「国民投票法案」が審議されようとしています。
憲法を改正するには、各議院の総議員の3分の2の賛成によって提案された改正案に対して、国民の過半数の賛成が必要です(憲法96条)。そこで、改憲したいと考えている人たちにとっては、国民投票を実施するための国民投票法がぜひとも必要となります。
この憲法改正の国民投票は、主権者たる国民が、主権者としてみずからの意思を表明できる数少ない場ですから、とても貴重なものです。ところが、改憲に反対の人たちはこの法律じたいにも反対しています。それは国民主権じたいに反対することにならないのでしょうか?
国民投票が国民主権の発動として、ただしく機能するためには、いくつかの前提が必要となります。その前提を欠くような国民投票は、たんなる多数の横暴にすぎません。国民の多数意思は、ときにたいへんな人権侵害やまちがった政治判断を加速させる危険性をもっています。そうした弊害をなくすためには、どのような前提が必要なのでしょうか。
まず国民が、「憲法とはなにか」を知っていることが必要です。ふつうの法律と憲法のちがいすらわからずに、ムードに流されて投票してしまうことほど危険なことはありません。
また、結果的に多数派の意思によって決められるとしても、けっして少数派を無視したものであってはなりません。少数派への配慮を十分に考えたうえで、真の立憲民主主義にもとづく国民投票でありたいものです。
そのためには、投票前に国民自身が、自分の問題としてしっかりと議論することができなければなりません。かりに教師が改憲について発言できないとなると、大学をふくめた学校では十分な議論もできず、明日の主権者である若者がますます政治に無関心になってしまうでしょう。また、反戦ビラを配布したくらいで警察に逮捕されるような状況では、憲法改正に関する表現活動の自由が保障されているとは思えません(くわしくは本誌2月号(編集部注:「第23回」です)の「ビラ配りは犯罪か?」をお読みください)。
さらに、改憲案はわかりやすく提示されることが必要です。内容がよくわからないときには、提案者への従順な支持や棄権が多くなってしまいます。フランスでも憲法改正(1958年)のさいに、当時のドゴール大統領への信任投票となってしまって、ただしく民意が反映しなかったといわれます。 こうした前提条件がととのっていない段階では、国民投票そのものを阻止しようとすることは十分に理由のあることなのです。
地方自治レベルで住民投票が成功しているから、国民投票も大丈夫だろうと単純に考えるのは危険です。地方自治レベルの住民投票では私たち自身に身近な問題をあつかいますから、具体的に考えて判断することができます。ですが憲法改正となると、すこし抽象的で、まだよくわからないことが多いのではないでしょうか。たとえば、「公共の福祉」と「公の秩序」のちがいはなにかといわれても、よくわからない人が多いと思います。
また、地方レベルの住民投票の結果は自治体を拘束しませんから、その結果がかりにまちがってしまったとしても、弊害はそれほど大きくはありません。しかし憲法改正は、国民投票が最終的な判断であり、とり返しがつかない結果をまねきます。より慎重にならなければなりません。
ところで、「これまで国民投票法がなかったのは国会の怠慢だ」という人がいます。ですが国民投票は、国民が憲法改正の必要性を感じたときにはじめておこなわれるものです。これまでは国民が憲法改正の必要性を感じていなかったから、国民投票法をつくる必要がなかっただけのごとです。
そもそもこうした手続法は、「たんなる手続を定めるだけで、なんの目的ももっていない」ということはありえません。たとえぱ、刑事訴訟法という手続法は、国家の刑罰権の実現を目的にしています。民事訴訟法という法律も、私法上の権利の実現を目的にしています。国民投票法は憲法改正という目的があって存在するのですから、憲法改正に反対する人たちがこの法律の制定に反対するのは当然のことです。
憲法改正は国会が提案し、国民が評決して決定されます。国会という権力が憲法を変えようとしてきたときに、主権者であり、「憲法を権力者に押しつけている」側の国民が、「きちんと憲法を守りなさい」とつき返すのが国民投票です。ですからその前段階として、「国民投票じたいをさせない」というつき返しかたもあるのです。
政治家主導の憲法改正に対して、国民のなかから反対運動が起きます。これは国家権力と主権者たる国民とのたたかいです。「国民主権の発動だから国民投票もいいではないか」と安易に考えることは、そうした本質をおおいかくす危険性をもっていることに、注意しなければなりません。
【007】ー ■第27回
<学校で強制される「愛」?>
2006年06月12日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/27.html
「教育基本法」の改正が問題になっています。その本質は「愛国心」を教育の目標として、法律で定めることにあります。そこにはどのような問題があるのでしょうか?
一つめは、そもそも国が教育の内容に介入する点です。
生活が苦しくて学用品を買えない家庭を財政的に援助したり、過疎地域に学校を建てたりして教育の条件を整備することは、国の大事な仕事です。しかし、何をどのように教えるかをすべて国がきめて、全国一律に子どもたちに押しつけるべきではありません。
かけ算九九はどのように教えようと、子どもたちの心にそれほど影響をおよぼすことはありません。しかし歴史や公民などの社会科や道徳などは、教え方によっては「何を大切に考えるか」がきまってしまいます。
民主主義はおたがいのちがいを受けいれること、自分の頭で考えて行動することが前提となります。国民がだれかえらい人のいいなりになるのでは、民主主義は成りたちません。ですから民主主義の国では、多様性を受けいれ、自分の頭で考えて行動できる力を子どもたちから引き出すことが何よりも求められます。そのためにはきまった価値観を、国が法律で押しつけるべきではないのです。
現場の教師の努力や親や地域の力によって、子どもたちが自分の考え方をもって行動できるようにサポートすることが国に期待された役割です。憲法は教育条件を整備することを国に求めていますが(憲法26条)、教育を通じて子どもたちの思想や良心に介入することは許していません(憲法19条)。 二つめは、「愛国心」という心の問題を法律で規定して、事実上強制する点です。
そもそも「愛」は学校で教育されるものではないと思います。ましてや強制されるべきものではありません。国の愛し方を教えてもらい、点数をつけてもらう国とはいったいどのような国なのでしょうか。
この国は日本人だけが生活する国ではありません。憲法は多様性を受けいれていくオープンな社会をめざそうとしています。これからもますますいろいろな国の人が、日本で生活し、その子どもたちも日本で教育を受けていくことでしょう。にもかかわらず、日本の伝統や文化を知識として学ぶだけではなく、「国を愛すること」を教育の目標として強制することは、外国人など少数者への配慮に欠けます。憲法の人権保障は少数者のためにあることを忘れてはなりません。
「愛国心」をことさらに強調することは、仲問うちでは心地よいかもしれませんが、それはときに排除の論理につながります。むしろ教育では、多様性や異文化理解をこそ教えるべきでしょう。
三つめは、憲法改正への布石となっている点です。
教育基本法は「憲法的な法律」といわれます。そもそも憲法は、国家権力を制限して国民の人権を守るためにあるものですが、教育基本法も不当な教育を子どもたちに押しつけることを禁止します。子どもの人権を守るために、「国がやってはいけない教育」をこの法律で定めているのです。
国民主権の国では国民が主人公であり、国民が主体となって国を動かします。国民は「統治される対象」ではなくて、あくまでも「統治する主体」なのです。それと同じように、教育の場面においても、子どもはみずから学習する権利をもった主体です。そこでは「子どもの人権を守る教育をいかにおこなうか」が、国や大人の責任となってきます。
国がコントロールしやすい国民をつくり上げるための手段として、教育を利用することがあってはなりません。あくまでも、子どもたちが主体的にものを考えて生きていくことができるように、子どもを人権の主体としてあつかっていくことが求められているのです。
いま政治家たちから、憲法改正が主張されています。「国を愛する義務」や「国を守る義務」を国民に課し、国民をコントロールしようとしています。しかし憲法は、国民の側が国家をコントロールするための道具であって、けっして国家が国民をコントロールするための道具ではありません。
このような憲法の本質をまったく変えてしまう憲法改正の布石として、まず教育基本法の位置づけが変えられようとしています。教育基本法の改正の後にどのようなことが待ち受けているのかを、しっかりと見きわめないといけません。
そして、どのような国であれば子どもたちが主体的に誇りをもち、地域や郷土を愛するようになるのかを、大人たちはしっかりと考えなげればいけないように思います。
私は世界一の平和憲法をもっている国に生活できていることに、誇りをもっています。
【007】ー ■第28回
<犯罪の相談だけで処罰される!?>
2006年07月17日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/28.html
今回は国会で議論がなされた共謀罪を憲法の観点から考えてみることにしましょう。
共謀罪とは、実際の犯罪行為を行っていない場合でも、一定の犯罪について相談したり、議論したりするだけで、処罰されるというものです。もともとはテロなどの国際的な組織犯罪を防止するために導入が検討されました。しかし、政府が出してきた法案では、国際テロと関係ない犯罪も含めてなんと619種類もの共謀罪が新たに作られることになってしまうということで批判されました。
そもそも日本の刑法は、実際に犯罪行為に出て、被害が発生したときに初めて処罰することを原則としています。そして、それよりも前の段階で処罰するのは、いくつかの限られた重大犯罪だけに限っています。それに対して、犯罪を相談しただけで処罰しようというのですから、これは従来の刑法の考え方を根本から逆転させてしまうものといえます。
さて、憲法上はどのような問題が生じるのでしょうか。ここでは三つほど問題点を指摘しておきます。
一つは、思想良心の自由の侵害になる危険性が高いということです。憲法は19条で、思想良心の自由を保障しています。私たちは心の中で何を考えても許されますから、たとえ犯罪であっても心の中で考えている限りは処罰されないのです。一定の思想を持つことを犯罪として処罰してきた、日本の苦い歴史への反省から生まれた規定です。ですが、内心にとどまらず行為を伴うようになると、それは人に迷惑をかけることもありますから、許されないこともあります。
さて、相談しただけではどうでしょうか。目くばせしたり口でぶつぶつ言っただけで犯罪行為をしたわけではないのに、これを幅広く処罰することは、実質的には私たちの内心や思想を処罰することに等しいといえます。ですから、共謀しただけで処罰することは、思想良心の自由の侵害につながるのです。
二つめは、処罰する要件が不明確なため、言論活動が萎縮してしまうという問題があります。共謀罪が適用される団体は、組織的な犯罪集団に限定されるというのですが、どのような集団がこれにあたるのかがはっきりしません。たとえば環境保護団体が環境破壊をするような企業に対してクレームのファックスを頻繁に送りつけるというようなこと(これは場合によっては業務妨害罪にあたる可能性があります)を日常的に行っていた場合に、この団体は組織的な犯罪集団とみなされる危険性があります。犯罪集団とされる危険があるから、こうした相談や議論じたいを差し控えておこうと萎縮してしまうとしたら、それは表現の自由(憲法21条)を間接的に侵害していることになります。
三つめは、国民が監視される社会になってしまうということです。この共謀罪では、自首した者は刑を減軽されたり免除されたりします。すると、誰かを陥れるために、共謀罪となるような発言をそそのかして、その場の様子をテープに録音し、自分は自首してその人をはめることができるようになります。また、あらゆる行為が捜査の対象となりますから、国民は盗聴や密告により国家から監視されていないか、びくびくして生活しなければならなくなります。つまり国民が国家から監視される対象となってしまうのです。
もちろん、一般市民の普通の生活が共謀罪で処罰されることはあまりないと思われます。ですが、政府の側が気に入らない行動をする市民グループにねらいをつけて、共謀罪で逮捕して懲らしめるということがありうるかもしれません。こうしたことが可能になってしまうと、政府を批判するような言論を抑制してしまいます。
政府の間違いを批判し正していこうとすることは、まっとうな民主主義社会においてはきわめて重要なことのはずです。それを萎縮させてしまうのでは、日本の民主主義が正しく機能しなくなってしまいます。政府が国民を監視し支配するのではなくて、私たち市民が主体として政府を監視し支配することが民主主義であり、そのために憲法が存在するのです。
いくら今の政府が「共謀罪は普通の市民団体や労働組合に適用されることはない」と言っていても、それはあてになりません。そうした口約束を信頼するのではなくて、ときの政府によって濫用される危険のないものにしておかなければなりません。
アメリカ独立宣言を起草したジェファーソンの有名な言葉があります。「信頼はどこまでも専制の親である。自由な政府は信頼ではなく猜疑に基づいて建設される」
つまり、政府は信頼の対象ではなくて、疑って監視する対象なのだということです。だからこそ、憲法でときの権力に歯止めをかける必要があるのです。こうした立憲主義の本質から共諜罪をみた場合、政府はテロから国民を守ってくれる存在であり、政府を信頼しておけば安心だ、という考え方は正しくないことがわかります。
【007】ー ■第29回
<被害者の人権と被告人の人権>
2006年08月14日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/29.html
皆さんは殺人事件の被害者の遺族の気持ちになってみたことがありますか。私はいつも、憲法を理解するには想像力が必要だと言っています。もし、自分の最愛の人を無惨に殺されたら、自分の手で復讐してやりたい、それができないなら、一日でも早い死刑によって自分の復讐心を満たしたいと思うでしょう。ですが、もう一人の自分がそれは違うとも言ってきます。どう考えたらいいのでしょう。
まず私たちは、刑事裁判という公的な制度の問題と、復讐心という個人的な問題をしっかり区別しなければなりません。
そもそも刑事裁判とは何のためにあるのでしょうか。それは、けっして被害者の復讐を国が代わって行うためにあるのではありません。刑法の目的も、被害者の復讐心を満足させるところにあるのではなく、人の命や財産という法的に保護されるべき利益を守り、犯罪を防止するところにあります。まず、ここが出発点です。
刑事裁判は、あくまでもルールに基づいて真実を明らかにし、国家が刑罰を科すことができるかを判断していく手続きです。そこでは、法に基づく客観性や公正さが要求されます。この裁判手続きを通じて、傷ついた社会の秩序を回復しようとするのです。
ちょっと冷たく聞こえるかもしれませんが、はっきり言えば、刑事裁判は被害者のためにあるのではありません。秩序の回復や犯罪防止といった公共的な役割を果たすためにあるのです。これが近代文明国家の刑事司法制度の本質です。
では、被害者や遺族の無念さや復讐心はどうしたらいいのでしょうか。
この被害者の苦難を、被害者だけに負担させるのは公平ではありません。以前は個人的な不幸の問題として片づけられ、社会の同情やまわりの人たちの自発的な援助によって、被害者は自分たちの力で乗り越えてきました。しかし、犯罪の被害に遭ってしまうという危険は、今日の社会において、誰もがさらされているもので、けっして人ごとではありません。社会の歪みが犯罪の遠因になっていることもあります。犯罪被害をこれまでのように単なる個人的な不幸の問題として片づけてしまうことは間違っているのです。
そうではなく、社会全体の問題としてみんなで等しく引き受けて、国民全体で何らかの負担をしていくべき問題となってきているのです。金銭的な問題も国民全員が税金の形でなんらかの負担をすべきですし、精神的なサポートも受けられるように立法や行政が十分に配慮すべき問題です。
憲法は被害者の人権を保障していないという人がいますが、間違いです。それは憲法でしっかりと保障されています。プライバシー権は13条で、知る権利は21条で、生活の権利は25条で保障されているのです。あとはそれを具体化し、実現する政治の問題です。つまり、福祉政策の問題として国会や行政によってきちんと解決されなけれぱならないのです。
この被害者へのケアが不十分だと、被害者も刑事裁判という公的な場面に怒りを訴えていくしかなくなってしまいます。これはとても不幸なことです。そもそも制度の目的が違うわけですから、司法の場だけで被害者や遺族の方の気持ちが慰謝されることはないからです。
そして被害者の人権をしっかりと政治部門が保障し、実現することと、被告人の人権を守るということはまったく別の問題です。被害者の人権と被告人の人権が衝突するように見えても、この二つはまったく次元の違う話であり、そもそも対立するものではありません。ですから、被害者が迅速な裁判を望んだからといって、適正な手続きを踏まない迅速すぎる裁判などは許されません。被害者の人権を保障することが、一被告人の人権を制限する理由になってはならないのです。
そして司法のシステムがうまく機能するためには、検察官、弁護士、裁判官がそれぞれの役割を果たすことが必要です。検察官が処罰を求め、弁護士が被告人の利益を守り、裁判官が中立的な立場から判断する。こうした役割分担が行われて、はじめて司法制度は機能するのです。
最近は、裁判官が検察官と同じ立場で審理を急がせたりしています。また、有罪にすることに協力的でないということで、弁護士がマスコミからバッシングされたりしています。これでは、法律家全員が検察官になってしまいます。
車にも、アクセルもあればブレーキも必要、もちろんハンドルも必要です。三つそろってはじめて安全運転ができるわけですから、みんながアクセル、つまり検察官になってはいけません。それはとても危険なことです。プレーキとしての弁護士や、ハンドルとしての裁判官が、きちんとした役割を果たすことが重要なのです。
私たち国民も、みんなが犯人を処罰する検察官になってしまってはいけません。むしろ一歩離れて、こうしたシステム全体がうまく働いているかどうかをしっかりと監視していくことが必要なのです。それこそが主権者たる国民の役割です。
【007】ー ■第30回
<「敵基地攻撃論」と暴力の連鎖>
2006年09月11日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/30.html
北朝鮮のミサイル発射実験はたとえ国際法違反がなかったとしても周辺国への配慮を欠いていますから、非難されるべき行動だったかもしれません。ですが、日本の反応は突出していました。今回はこの問題を暴力の連鎖という点から考えてみたいと思います。
世界でもっとも平和的な憲法を持つ日本が、軍事制裁への道をも開くもっとも強硬な国連決議を求めていました。それどころか政治家の口から敵の基地を攻撃することも検討するべきだという議論(敵基地攻撃論)が出てきました。
北朝鮮が保有するミサイルのうち、日本を射程に入れたものがあるそうです。それらはひとたび発射されてしまうと、打ち落とすことが難しいため、ミサイルに燃料を入れ始めるなどの準備段階で、こちらから攻撃して発射基地を破壊してしまおうという議論です。一種の先制攻撃論ですが、攻撃される前に相手をやっつけておかないと日本を守れないというわけです。
こうした攻撃も自衛権の範囲内の行為として憲法でも許されると考える立場があります。憲法は九条二項で、戦力は持たないと宣言しています。その結果、自衛戦争もできません。ですが、政府は自衛権は独立国家であればどこの国も持っているので、自衛のための実力を行使することはできるというのです。自衛のための戦力は持てないが、実力なら大丈夫というわけです。戦力と実力の違いはどこにあるのかというと、自衛のために必要最小限度のものは実力として許されるけれども、それを越えると戦力となってしまい認められないというのです。
必要最小限度かどうかは、そのときどきの国際情勢によって変わりますから、他国との緊張関係が高まって、自衛のために必要であれば、敵の基地を攻繋したり、場合によっては核を持ったりすることも憲法上は許されることになります。これでは事実上、なんでもありとなってしまい、憲法で軍事力に歯止めをかけて、戦争をしないと宣言した意味がなくなってしまいます。
憲法は多数決によってもやってはいけないことを予め規定したところに意味があります。そのときどきの国民の多数派が雰囲気に飲まれてしまってわーっと暴走してしまいそうなときに、歯止めをかけるのが憲法の役割です。政治家が他国からの脅威をあおって国民がそれに乗せられてしまい、冷静な判断ができなくなる危険性があるので、予め危なっかしい軍事力は持たないことにしたのです。こうした憲法の趣旨からすると、自衛のためならなんでもOKなどという解釈はとうてい正しい憲法解釈とはいえません。軍隊を持たないと言っている憲法の下でもこうした状況ですから、平和を維持するためには軍隊も必要という声に惑わされて、自衛隊を自衛軍に変えて戦争のできる国にしてしまえば、なんの歯止めもなく日本の軍隊が外国に出ていくことになります。
さて、九条の解釈としても問題がある敵基地攻撃論には他にも問題があります。まず、敵の基地を先制攻撃したとしても、それで争いが終わるわけではないという点です。むしろそこからお互いの憎しみの連鎖が始まり、国民はテロの危険に晒されることになります。相手が大規模な反撃に出たら全面戦争に突入してしまいますが、その暴力の連鎖の引き金を日本が引くことになるのです。
また、こうした攻撃の準備をすることは、かえって周辺諸国との緊張をたかめ、相手国に軍備増強や攻撃の口実を与えるだけです。ますますアジアで孤立してしまい、安全保障にもっとも必要な周辺諸国との信頼関係を築くことができなくなってしまいます。
さらに、ミサイル防衛などの軍事力の競争は莫大な費用がかかります。これによって潤う企業もあるかもしれませんが、限られた国家予算を軍事費にまわすことは、これまで以上に、私たちの福祉にまわるお金が削られることを意味します。年金、医療、教育、子育て支援、そして災害対策など充実して欲しい分野は山ほどあるはずです。私たちの生活にとって、本当の脅威は何かをしっかりと考えなけれぱなりません。年間3万人以上が自殺をし、100万世帯を越える家庭が生活保護を必要としています。そしてひとたび災害が起こったとき、迅速に対応してくれるのでしょうか。
社会保障費の削減、格差社会、漠然とした不安感、そうしたうっぷんが溜まっている社会、理不尽に泣くしかない社会はとても健全とはいえません。今回のミサイル事件後に、民族学校の生徒達へのいやがらせがあったそうです。社会が健全でないと、このように不満のはけ口として暴力が自分より弱い者に向けられてしまいます。これもまた悲しい暴力の連鎖です。
憲法は、世界に先駆けて暴力の連鎖を止めようとしました。そのことの意味をもう一度考えてみる必要があると思います。