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折々の記 2016 ①
【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】02/10~     【 02 】02/13~     【 03 】02/15~
【 04 】02/19~     【 05 】02/19~     【 06 】02/21~
【 07 】02/22~     【 08 】02/22~     【 09 】02/23~

【 08 】02/23

  02 23 憲法学者の考え【その五】   安倍政権の舵とり
       【001】 法学館憲法研究所
       【007】 「中高生のための憲法教室」一覧表
          【007】 ■第11回<「普通の国」と「日本の独自性」>
          【007】 ■第12回<「表現の自由」はなぜ大事?>
          【007】 ■第13回<嫌いなのは自由、歌うのは義務?>
          【007】 ■第14回<教育は何のために?>
          【007】 ■第15回<憲法は押しつけられたか?>
          【007】 ■第16回<あなたも私も納税者>
          【007】 ■第17回<「教科書検定」を憲法からみると>
          【007】 ■第18回<教科書を選ぶとはどういうことか>
          【007】 ■第19回<私たちはなぜ選挙に行くのか>
          【007】 ■第20回<「よくわからないけど小泉さんが好き」?>

 02 23 (火) 憲法学者の考え     安倍政権の舵とり

第2次安倍内閣 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%86%85%E9%96%A3)、 や第1次安倍内閣、第3次安倍内閣でもいいが、安倍内閣の概要を知るのに好材料が整理されている。

安倍氏は今までにないアメリカ従属の政治を勝手に国益と称して進めてきた。 いまやUSAは戦争扇動国家として多くの識者から批判され、国内でも影を落としている。

あらぬことか、報道によれば9.11事件すらUSAの陰謀と囁かれ、それが暴かれさえしてきている。 国連を無視したイラクの軍事侵攻も、アフガン侵攻も陰謀と言われ、ビンラデンへの執拗なまでの追撃は、ISの無法反撃という火をつけてしまった。

軍産の暗黒モンスター(死の商人)の謀略の顛末としか言いようがない。

暗黒モンスターに操られているアメリカ行政に、あろうことか安倍氏は尻尾を振ることにしている。

日本の明るい未来のシンボルである戦争放棄の憲法が危機に瀕している !!!




【001】

法学館憲法研究所の内容は次の通りです。

   【001】法学館憲法研究所 http://www.jicl.jp/index.html
   【002】「今週の一言」 http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber.html
   【003】「浦部法穂の憲法時評」http://www.jicl.jp/urabe/index.html
   【004】「浦部法穂の『大人のための憲法理論入門』」http://www.jicl.jp/urabe/otona.html
   【005】「日本全国憲法MAP」http://www.jicl.jp/now/date/
   【006】「ときの話題と憲法」http://www.jicl.jp/now/jiji/
   【007】「中高生のための憲法教室」http://www.jicl.jp/chuukou/chukou.html

これらをテーマごとに分類・カテゴライズしました。 有益な情報が多数あります。 ご活用ください。



【007】

「中高生のための憲法教室」一覧表
      伊藤所長(伊藤塾塾長)が「世界」(岩波書店)に連載したものをご紹介します。
      http://www.jicl.jp/chuukou/chukou.html

  実施回数と内容  執筆年月日
 ■第48回<憲法の力> 2008年03月17日
 ■第47回<貧困と憲法> 2008年02月18日
 ■第46回<米軍再編と地方自治> 2008年01月14日
 ■第45回<日本の国際貢献> 2007年12月17日
 ■第44回<裁判員制度> 2007年11月12日
 ■第43回<外国人の人権> 2007年10月15日
 ■第42回<戦後レジームからの脱却> 2007年09月10日
 ■第41回<被害者参加制度> 2007年08月13日
 ■第40回<明確性の理論> 2007年07月16日
 ■第39回<力と民主主義> 2007年06月11日
 ■第38回<議員定数不均衡問題> 2007年05月14日
 ■第37回<環境問題> 2007年4月16日
 ■第36回<違法でなければそれでいいのか> 2007年03月12日
 ■第35回<住基ネットはなぜ危険なのか> 2007年02月19日
 ■第34回<表現の自由と国民投票> 2007年01月15日
 ■第33回<平和と福祉の強いつながり> 2006年12月18日
 ■第32回<安倍「改憲」で「美しい国」に?> 2006年11月13日
 ■第31回<憲法から考える自民党総裁選挙> 2006年10月16日
 ■第30回<「敵基地攻撃論」と暴力の連鎖> 2006年09月11日
 ■第29回<被害者の人権と被告人の人権> 2006年08月14日
 ■第28回<犯罪の相談だけで処罰される!?> 2006年07月17日
 ■第27回<学校で強制される「愛」?> 2006年06月12日
 ■第26回<「国民投票法」を考える> 2006年05月15日
 ■第25回<黙秘権は何のために?> 2006年04月17日
 ■第24回<女性天皇の是非も私たちが決める> 2006年03月13日
 ■第23回<ビラ配りは犯罪か?> 2006年02月13日
 ■第22回<平時になんで新憲法?> 2006年01月09日
 ■第21回<首相の靖国参拝と裁判所の役割> 2005年12月12日
 ■第20回<「よくわからないけど小泉さんが好き」?> 2005年11月14日
 ■第19回<私たちはなぜ選挙に行くのか> 2005年10月17日
 ■第18回<教科書を選ぶとはどういうことか> 2005年09月15日
 ■第17回<「教科書検定」を憲法からみると> 2005年08月15日
 ■第16回<あなたも私も納税者> 2005年07月14日
 ■第15回<憲法は押しつけられたか?> 2005年06月13日
 ■第14回<教育は何のために?> 2005年05月16日
 ■第13回<嫌いなのは自由、歌うのは義務?> 2005年04月11日
 ■第12回<「表現の自由」はなぜ大事?> 2005年03月14日
 ■第11回<「普通の国」と「日本の独自性」> 2005年02月21日
 ■第10回<公務員の人権が制限されるワケ> 2005年01月17日
 ■第9回<「公共の福祉」ってなんだろう?> 2004年12月13日
 ■第8回<プロ野球選手がストしていいの?> 2004年11月15日
 ■第7回<オリンピックは誰のため?> 2004年10月18日
 ■第6回<黙っていたら人権はない> 2004年09月13日
 ■第5回<攻められたらどうするの?> 2004年08月09日
 ■第4回<「戦争放棄」の理由> 2004年07月12日
 ■第3回<「憲法改正」を考えるヒント> 2004年07月05日
 ■第2回<守らなくてはならないのは誰?> 2004年07月05日
 ■第1回<世界に一つだけの花> 2004年07月05日




【007】ー ■第11回
<「普通の国」と「日本の独自性」>
      2005年02月21日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/11.html

今年は「憲法改正」が大きな国民的な議論になると思われます。そこで憲法改正を考えるときの視点について、もう一度整理しておきましょう。
現在の日本国憲法の特長をしっかりとふまえた上で、改憲論議に積極的に参加していくことが必要です。

日本国憲法は西欧の近代憲法と同じところと違うところを持っています。

まず、同じところです。それは、憲法は「個人の尊重」(憲法一三条)を達成するために国家権力に歯止めをかけるための道具である、と考える点です。

アメリカもイギリスもフランスもドイツも、近代の先進国の憲法の共通点はここにあります。つまり、「一人ひとりを個人として尊重し、その個人の人権を保障するために、国家権力を制限することを目的とするものが憲法である」という理解は、近代文明国家において共通の到達点なのです。

こうした考え方を「立憲主義」と言いますが、この「個人の尊重」と「立憲主義」の思想こそ、血と涙を流して獲得した人類の英知といえます。日本国憲法は人類が生み出した貴重な財産を引き継いでいるのです。

次に日本国憲法が持っている、西欧近代憲法とは違う独自性がどこにあるのか見てみましょう。それは「平和的生存権」を保障し(前文三項)、「積極的非暴力平和主義」(前文、九条)を採用している点にあります。

そもそも国家の役割は国民の生命と財産を守ることにありますが、日本国憲法は、軍事力という暴力ではなく、外交や非軍事の国際貢献など、理性にもとづく非暴力の手段によって国民を守ることにしました。

それは、軍事力によって国民の生命や財産を守ることは、現実問題として不可能であると考えたからです。また、「人道」や「自由」といった美名のもとで他国へ軍事的介入することは、憎しみや暴力の連鎖(れんさ)を招くだけであり、けっして真の国際貢献にはならないからです。

西欧諸国と共通の「個人の尊重」という価値観を、日本国憲法ではさらに発展させて、「平和的生存権」という人権を保障しています。一人ひとりを個人として尊重するからには、その一人ひとりの命が大切に守られ、恐怖と欠乏に怯える(おびえる)ことなく平和に生きていくことができなければなりません。そのことを「権利」として、はっきりと保障したのです。

平和が国家の単なる「政策」ではなく、「人権」として保障されることになると、国家はこの人権を保障する義務を負うことになります。外交政策も国防政策も、すべてこの平和的生存権という人権に奉仕するものでなければなりません。国民を恐怖に陥れ(おとしいれ)、命を脅かすような「軍事力による防衛」ではなく、他国から信頼され、攻められない国をつくることで国民を守ることが国家の義務となるのです。

もちろん、日本だけが平和であればよいとする「一国平和主義」ではありませんから、世界の紛争地域から恐怖と欠乏を根絶するために、非暴力の手段によって積極的な活動をすることも求められています。

こうした前文と九条にもとづく「平和的生存権」と「積極的非暴力平和主義」は、これからの世界の進むべき方向を明らかにしたものであり、日本国憲法の先進性を示すものといえます。戦争によって多くの命を失った代償として獲得した、まさに日本国憲法独自の宝であり、過去の歴史から学び取った日本の英知なのです。

私は、憲法を改正するのであれば、人類の英知としての「個人の尊重」と「立憲主義」をさらに進め、かつ、日本の英知としての「積極的非暴力平和主義」をより発展させるものであればよいと考えています。

仮に「個人の尊重」や「立憲主義」という価値を後退させ、個人よりも「公」や「国家」を尊重するような改憲であれば、それは改正の名に値しません。近代文明国家としての日本の歩みを近代以前に戻してしまうことになります。

また、平和主義において日本の独自性を捨て去るような改憲であれば、人類共通の願いである真の国際平和を実現する方向性を失い、日本が国際社会において「名誉ある地位」を占めるチャンスを逃すことになります。なによりも戦争で失われた命が無駄になってしまいます。このような改憲は許すことはできません。

改憲論議をする際には、どの点で「普通の国」となろうとし、どのような点で独自性を発揮しようとしているのかをしっかりと見きわめないといけません。立憲主義を捨て去ることによって独自性を発揮し、軍事力の点において「普通の国」になろうとするのでは、そのめざすべき方向性がまったく逆であることをしっかりと理解しておいてください。

人類の英知を正しく引き継ぎ、それを次の世代にさらに発展させてつなげていくことが、今を生きる私たちの責任なのです。



【007】ー ■第12回
<「表現の自由」はなぜ大事?>
      2005年03月14日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/12.html

今回はテレビや新聞などのメディアから発信される情報と、「表現の自由」について考えてみたいと思います。

こうした情報について考えるときに前提として理解しておかなければならないことがあります。それはメディアから流される情報は、事実に対してなんらかの評価が加えられて流されているということです。そこには評価し、判断する人の考え方や価値観が反映しています。

テレビや新聞を見ているとどうしてもそこに書いてあることだけが客観的な真実のような気がしてしまいます。しかし、そのニュースは世界中に無数にある事件の中から番組制作者や編集者が選択したものです。どのニュースを載せるかを一定の価値観に基づいて判断した結果です。

テレビならば何分放送するか、どのような映像を流すか、反対の人の意見をどうするかなど、すべて番組制作者の意見や価値観がそこには反映されます。そして、そのような報道を正しくないと考える人もいるかもしれません。ですが、「この番組内容は中立的でないから変更した方がいい」という批判もまた、ある価値観に基づいたひとつの主観的意見にすぎないということになります。

問題はこのように意見が対立したときに誰がどのようにそのよしあしを決めるのかということです。国や政治家が「この内容は偏っていてよくないから内容を変更すべきだ」ということを一方的にメディアに押しつけることができるとしたらどうでしょうか。それでは国や政治家の気に入った番組や記事しか流されなくなってしまいます。

たとえば、アメリカがイラク戦争を始めるときに「イラクには大量破壊兵器が隠されていてテロリストとつながっている」という情報だけが、政府の影響を受けてメディアから大量に流されました。多くのアメリカ国民がそれをもとにイラク戦争賛成という判断をしてしまいました。しかし、その情報は間違いだったことが今は明らかになっています。何万人もの命を奪う結果になるような重大な判断材料となる情報が正しく流されず、国民が自由に情報に接することができないと、大きな不幸を招くという一例です。

メディアから流される情報のよしあしは国や政治家のような権力を持った者が判断するのではなく、あくまでも、情報を受け取る側である国民が自ら判断するべきものなのです。国や政治家はメディアの報道内容に口をさしはさむべきではありません。

私たちには、国の干渉を受けずに自由に表現し、かつ情報を受け取る自由(知る権利)が保障されています。憲法二十一条一項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定していますが、これは「表現の自由」とともに国民の「知る権利」を保障したものだと考えられています。表現行為は情報の受け手が存在して、はじめて意味を持つものですから、二十一条一項は情報が発表されてから受け手が受け取るまでその過程のすべてを国家権力による干渉から保護しているのです。

私たちは自分の思いや考えを人に知ってもらったり、また、人の発表するものを見たり聴いたりすることで、より幸せになることができます。たとえば、アーティストは自分のつくった楽曲を多くの人に聴いてもらうことで、自らの才能や役割を確認し、喜びを感じるのだと思います。そして私たちも、好きな曲を自由に聴いて楽しむことで心が豊かになります。もし、「この曲はよくない曲だから聴いてはいけない」と国が決めつけてきたら、みなさんも納得できないでしょう。

このように何かを表現したい、知りたいという欲求は、もっとも人間らしい、私たちの本質に関わるものなのです。「その人」らしさという意味では人間の尊厳に関わるものです。

さらに「表現の自由」、「知る権利」は私たちの政治にとって不可欠であり、民主政治にとって重大な意味を持ちます。

民主政治は一人ひとりの国民がその知り得た事実に基づいて判断した考えを、議論を通じて実現しようとするものです。国民が十分な議論をして何が正しいかをみんなでみつけようとしているときに、「こう考えなければだめだ」と特定の考え方を押しつけられたのでは、民主政治は成り立ちません。

そもそも民主主義は、何が正しいかわからないからこそみんなで議論しお互いの考えをぶつけ合って、もっともよいものを見つけだそうとするものです。そこでお互いが自由にものを言えなければ成り立たないのです。

国や政治家が特定の考え方をメディアに押しつけることも、メディアの自由な報道に何らかの影響を与えるような行動をとることも許されません。国や政治家などの権力を持つ者は、国民の思想や言論活動といった精神的な営みの領域には立ち入ってはいけないのです。

それは「表現の自由」を侵害し、人間の尊厳を傷つけるだけでなく、民主主義の本質をつき崩してしまうことになるのです。



【007】ー ■第13回
<嫌いなのは自由、歌うのは義務?>
      2005年04月11日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/13.html

みなさんの学校でもそろそろ卒業式や入学式が近づいてきたと思います。最近、公立学校では、日の丸、君が代を強制されることが問題になっているようです。これからこの問題を三つに分けて整理して考えていきたいと思います。
一つは、そもそも国旗掲揚や国歌斉唱によって、国家を意識させる意味は何なのだろうかということです。よく「愛国心をもとう」ということが言われますが、この「愛国心」とは何なのでしょうか。

二つめは、教育の場において、「愛国心」を教え込むことがどのような意味をもつのかという点です。ここでは「教育ってなんだろう」「誰が何のためにやるのだろう」ということが問題になります。

そして三つめは、「愛国心」や「国を自覚すること」を強制することが、そもそも許されるのかということです。

日の丸や君が代についてはその歴史的な意味合いから,国旗や国歌にふさわしくない、だから自分は敬意を表したくないし、歌いたくないという人もいます。そのような人たちに国旗掲揚や国歌斉唱を強制することができるのでしょうか。

今回は、この三つめの問題について考えてみましょう。

日の丸、君が代には共通点があります。天皇制、靖国神社とともに、天皇を中心とした「神の国」のシンボルだという点です。万世一系の天皇、その天皇のために死んだ人を英雄としてまつる神社、天皇のためにたたかうときの旗、天皇の世が永く続くように願う歌……これらは明治以降、近代国家としての日本を統一するための道具として、政治的に利用されてきたものばかりです。ときの権力者が天皇のもとに国民を支配するために創り出したものであり、日本古来の伝統でも何でもありません。またこれらは同時に軍国主義とも結びつき、血塗られたイメージを持つ人も少なくありません。

こうした国旗や国歌というシンポルにどのような気持ちをもつかは一人ひとりの自由であり、まさに内心の問題です。憲法では「思想・良心の自由」として保障されています(19条)、そして、仮に多くの国民が納得するような新しい国旗や国歌ができたとしても、それを敬うように強制することはできません。多くの国民がそれをよしとしても、少数の人たちにそれを強制することはできないのです。

そもそも憲法のもとでは、一人ひとりの人権は最大限に保障されます。その思想が表現活動や行動に表れて、他人に迷惑をかけるようになると話は別ですが、そうでないかぎりは、国家に対して内心の自由は絶対的に保障されるのです。

そして、どのような思想や良心をもっているのかを国が調査したり、それを強制的に言わせたりすることもできません。心のなかのことは人に言いたくないこともあるはずです。それを無理やりに言わせるというのは、その人の人格を無視することになり、人間としての尊厳を軽視することになるからです。これでは「一人ひとりを個人として尊重する」という憲法の理念(一三条)に真正面から反してしまいます。

それでは、特定の思想や良心を強制するわけではないけれども、一定の行為を強制することはどうでしょうか。たとえば、日の丸や君が代に反対する気持ちをもつことは自由だが、起立したり歌ったりすることを義務づけるというものです。

たしかに形式的には、心のなかでどのように思っていようと自由なわけですから、こうした行動の強制は一定の必要性があれば許されるようにも思われます。

ですが、そもそも「思想・良心の自由」を保障した趣旨は、その人が自分の考えをもつことによって、その人らしく、自分らしくありたいと思う気持ちを、尊重するところにあります。とすると、「たとえ内心でどのように思っていてもいいから、とにかく起立して歌いなさい」と強制することは、君が代をこころよく思っていない人にとっては大変な苦痛ですし、自分らしさを強制的に奪われることになってしまいます。

自分が悪いことをやったわけではないのに、「土下座して謝れ」と強制されると、誰でもいやな気持ちがするはずです。それは「自分は悪いことをしていないのだから謝りたくないしという、人間としてのゆずれない思いがあるからです。そこで謝ってしまったら、自分ではなくなってしまうと考えるからです。こうした人格の本質にかかわることについては、たとえ法律によっても、強制することはできないのです。

君が代斉唱を強制されることがその人にとってこうした意味を持つ場合には、その強制は憲法違反になります。

そして憲法に違反することは、たとえ公務員への職務命令によっても強制することはできません。ましてや、子どもたちに事実上強制することなどできるはずもありません。

「思想・良心の自由」は、「自分らしく生きたい」という個人の尊重の延長線上にあります。日の丸・君が代の強制はこれを正面から否定することになってしまうのです。



【007】ー ■第14回
<教育は何のために?>
      2005年05月16日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/14.html

学校教育の現場で、国や地方自治体などが日の丸・君が代を強制することが憲法一九条の保障する「思想・良心の自由」に反することは、前回お話ししました。

では、そもそも学校の式典で国旗掲揚や国歌斉唱を行うのはなぜでしょうか。私は、日の丸も君が代も「教育」という名において、子どもたちに「国家」を意識させ、その一員であることを自覚させ、愛国心を高めるためのものだと考えています。そこで今回は、愛国心や国家の役割、そして「教育を受ける権利」についてお話しましょう。

サッカーの国際試合などで自分の国を応援したくなる人も多いと思います。そうした場合に自然にわき出てくる愛国心や国への帰属意識は必ずしも悪いものではないという考えの人もいると思います。しかし私は、「国家」を必要以上に意識させることは排外主義と結びつく危険があり、これからの時代には克服されるべきものだと考えています。むしろこれからは、一人ひとりがあまり国家を意識せずに、いかに地球市民としての連携を深めていくかを考えるべきなのではないかと思っています。

もちろん、社会の秩序を維持し、そこで生活する者の生命と財産をまもるためには、国家という権力装置が必要なことは否定できないでしょう。しかし、国家が愛国心をあおって、国民にことさら国を意識させることは危険を伴うこともまた自覚しておかなければなりません。

国家というものは必要最小限の役割を果たせばいいのであって、あまり強調されるべきものではありません。ことさらに国民としての連帯意識を強制したり、ましてや愛国心を強制するようなことがあってはなりません。なぜでしょうか。二つ理由があります。

一つは、憲法の根本価値である「個人の尊重」の理念に反するからです。つまり、「国家が重要なんだから、個人はガマンしろ」ということになりかねないということです。これでは「個人の尊重」の理念に反します。サッカーの試合でも相手国チームの選手を応援したいこともあるでしょう。そんなときに「非国民」などと言われたのではたまりません。

また、「国家」という枠でものを考えるということは、「その枠にあてはまらない人」を排除することにつながります。この日本にも二〇〇万人ほどの外国人が住んでいます。そうした外国人の方々とうまく共存していくためにも、あまり「国家」という枠組みを強調しない方がよいと考えています。

日本古来の文化や伝統を大切にできなければ、日本人として失格であるかのごとくにいうのもおかしな話です。私たちが使っている漢字も食べ物もさまざまな生活様式も、その多くが中国大陸や朝鮮半島から伝来したものです。何をもって「日本古来の文化や伝統」というのか、そもそも文化は異文化と融合して発展するものです。

わざわざ過去にとらわれるために国家を意識する必要はまったくありません。むしろ、私たちは意識的に、国家という枠から自由になるようにするべきなのです。

そして国民がそのような自由な意識を持てるかどうかは、教育にかかっています。憲法は「学問の自由」(二三条)や「教育を受ける権利」(二六条)という人権を保障しています。とくに子どもは「学習権」といって、「自分の能力に応じて、自己の人格を完成させていくための教育」を大人一般に要求する権利を保障されています。

そこでは、一定の価値観や思想を強制的に注入することがあってはなりません。それは教育ではなく「洗脳」です。

ときの権力者が自分の都合のいいように国民を洗脳することはいつの時代にもあることです。ですが、子どもの学習権を保障する観点からは、あくまでも教育は国家や組織のためのものではなく、子どもたち自身がより幸せになるために行われるべきものです。「より幸せになる」とは、より自分らしく生きることができるようにその個性を伸ばし、自分の頭で考えて決定できる能力を育むことです。国や強い者の言いなりになる「奴隷の幸せ」ではなくて、自立的に生きていく能力を育てることが必要なのです。

思えば、日本の学校教育の現場には、制服、形式ばった朝礼や入学式や卒業式、整列や「前ならえ」というかけ声、運動会の行進やラジオ体操……など、一定の命令に従うことがあまりにも当然のように行われてきました。これらはみな、「お上の言うことをきく従順な国民」を養成する仕組みに思えてなりません。支配する者にとって都合のいいような教育が、戦前戦後を通じて行われてきたのだと思います。

こうした観点から考えてみると、日の丸・君が代を子どもたちに事実上強制するような職務命令には従う必要はありません。それどころか、子どもの人権を守るためにそれに抵抗する権利が親や教師にはあるというべきでしょう。それは同時に、子どもに対する責任であり、大人たちの義務でもあるのです。



【007】ー ■第15回
<憲法は押しつけられたか?>
      2005年06月13日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/15.html

みなさんは「押しつけ憲法」という言葉を聞いたことがありますか。

いまの憲法は戦争で負けたときに外国から押しつけられた憲法だから、自分たちでつくった憲法とはいえない、だから自分たちの手で新たな憲法をつくらなければならないという主張です。

いまの日本国憲法は本当に外国から押しつけられたものなのでしょうか。

そもそも押しつけというのは、その人の意思に反して強制することをいいます。では、日本の国民の意思に反して強制された憲法なのでしょうか。そんなことはありません。たしかにマッカーサー案をもとに憲法草案はできました。しかし、その後、普通選挙で選ばれた国民の代表者がしっかりと審議し、みんなが賛成してできたものです。

しかも、審議の過程では、前文に国民主権が明記され、二五条に生存権の規定が設けられ、国家賠償請求の条文(一七条)や刑事補償の条文(四〇条)なども追加されました。国民はもちろん反対することもできましたが、多くの国民はこの憲法を支持しました。

ただ、「押しつけられた」と感じた人たちもいたようです。明治憲法のように、天皇を中心とした憲法のままにしておきたいと考えていた政治家たちです。その当時の権力者の一部は、自分たちが考えている憲法と違うものができたので、これではイヤだと思い、押しつけられたと感じたのです。

ですが、そもそも憲法とは何だったでしょうか。憲法とは、国家権力を制限し、国民の人権を守るものです。つまり、権力者に歯止めをかけるためのものですから、権力者が押しつけられたと感じるのはむしろ当然のことなのです。それに対して、国民は権力者に憲法を押しつける側にいるのですから、自分たちが押しつけられたと感じる必要はまったくありません。

もちろん、日本人だけでつくることができたらもっとよかったと思う人もいるかもしれません。ですが、どこの国の憲法もさまざまな混乱のなかから生まれるので、いろいろな問題をかかえているものです。どのように生まれたかよりも、現在の国民がその憲法にどのような意味を与えているのかのほうがよほど重要なことなのです。

「国民が改憲論議にあまり熱心ではない」と嘆く政治家がいるそうです。それはそうです。国民は現在の憲法で、とくに不都合は何も感じていないのですから。政治家の人たちが戦争のできる国にしたいと考え、そのためには自分たちに課せられた歯止めをはずさなければならないので、改憲が必要だと主張しているのです。

どうして偉くなると大人は憲法を変えたくなるのでしょうか。多くの政治家や財界の偉い人たちは、改憲して、軍隊をもつ「普通の国」にしたいそうです。それに対して、中小企業の社長さん、労働者の人たち、教育現場の先生たち、主婦のみなさんなどには、改憲に反対の人が多いようです。政治家や財界人には、武器を輸出して大もうけをしたいと考える人が多いのでしょうか。何か強いものに憧れるのでしょうか。

それに対して中小企業の社長さんは、平和でなければ仕事がないことをよく知っています。武器輸出でもうかる工場などごくわずかです。また、労働者の人たちも、軍事費に国の税金が使われて、福祉や教育に割り当てられる予算が大きく減ってしまい、自分たちの生活がもっと苦しくなることがわかっているので、まさに自分たちの生活に影響する問題だと感じて反対するわけです。

学校の先生たちは、日の丸、君が代を国旗、国歌と決める法律ができたときに、国は「絶対に強制はしません」といっていたのに、いま卒業式や入学式でおそろしいほどの強制がおこなわれているので、国のいうことはまったく信用できないとよくわかっています。「軍隊を作っても侵略戦争には加担しない」などといっていても、そんな政治家の言葉などまったく信用できないことを身をもって知っているのです。

弁護士などの法律家も、改憲に反対する人たちが多いようです。それは、憲法の中身をしっかりと理解すると、とてもよくできていて、とくにいま、直す必要などないとわかっている人が多いからです。また、改憲され軍隊をもつ国になると、安全保障のためだからといっていろいろな形で私たちの自由や権利が制限される危険性とその怖さを、職業柄よく知っているからなのです。

私たちは、勇ましいことに憧れる気持ちや、なんとなく押しつけられたからイヤだというようなあいまいな気持ちで、いまの憲法を変えてしまってはいけないと思います。

ここで憲法を変えてしまうと、みなさんや、もっと若い次の世代の人たちの生活がとても息苦しくなってしまいます。いまを生きる人間には、次の世代の人たちに対して、少なくともいまの自由な社会を守る責任があります。憲法を知ってしまった人間には責任があります。ぜひ、多くの人たちに憲法を伝えてください。



【007】ー ■第16回
<あなたも私も納税者>
      2005年07月14日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/16.html

先日、長者番付が発表されました。

「高額納税者公示制度」といって、多くの税金を納めた人に納税額で順位をつけて国が発表するのです。スポーツ選手や芸能人だけでなくサラリrマンであろうと会社の社長であろうと、年収の多い人はみんな発表されてしまいます。本人の承諾なしに国が氏名や住所などの個人情報を公表してしまうのですから、プライバシー保護の観点からは問題のある制度で、見直しも検討されているようです。

ただ実際には、多くのサラリーマンは自分がいったいいくら税金を納めているのかあまり実感していないかもしれません。会社から給料をもらうときに、あらかじめ税金はさし引かれて渡される「源泉徴収制度」があるからです。

この制度は日本に昔からあったわけではありません。膨大な戦費を安定的に調達するための制度として、一九四〇年に導入されたものです。戦争が終わって廃止すればいいものを、税金を取る手段としては効率的なので国はそのまま残しているわけです。この制度があると、自分は納税者であり、この国のお金の使い方について意見を言える立場にある主権者なんだということを、どうしても忘れてしまいがちです。

これまで何度もお話ししてきたように、憲法は、国民の人権を保障するために国家権力を制限する道具です。ですから、憲法には人権に関する規定が多く、義務規定はたった三つしかありません。「教育を受けさせる義務」(二六条二項)、「勤労の義務」(二七条一項)、そして「納税の義務」(三〇条)です。

「教育を受げさせる義務」は文字通り、「子どもが教育を受けることができるように親は責任を果たせ」という意味であり、子ども自身の義務ではありません。

また、「勤労の義務」は、「働く能力も機会もあるのに働かないでおいて国に生活保護を要求することはできません」という程度の意味です。「強制的に働かされる」というような意味ではありません。

結局、義務らしい義務は「納税の義務」だげです。ではなぜ、国民の権利規定である憲法に、こうした納税の義務が置かれたのでしょうか。

そもそも憲法は何のためにあるのかをもう一度考えてみましょう。私たちは生まれながらに人権を持っています。そしてその人権をお互いに守るために政府をつくりました。そのときどきの政府つまり国は、私たちが自分たちのためにつくった制度なのです。ですから、自分たちでつくったものを動かすための費用を、自分たちで負担するのは当然のことです。これが「納税の義務」です。

それは日本が国民主権の国であることとも関連します。国民が主人公なのだから、国民が自分たちでお金を出し合ってこの国の運営を専門家にまかせ、そのお金の使い方についても、しっかりと目を光らせていくことが必要なのです。「予算」という税金の使い道の計画をしっかりとチェックし、さらには実際にどのように使われて、どれだけの効果があったのかを後でしっかりと監視していかなけれぱなりません。

みなさんは、自分で直接税金を納めたことがないから関係ないと思っていませんか。みなさんもちゃんと税金は納めているのですよ。みなさんが毎日買い物したりするときには消費税という税金がかかっています。そうした税金が何に使われているかをぜひ意識してください。

国民の税金で、皇族の結婚式が行われます。
国民の税金で、災害救援の費用も支払われます。
国民の税金で、犯罪者の更正プログラムも運用されます。
国民の税金で、公務員がおこなった不始末の損害賠償が支払われます。
国民の税金で、日本に駐留する米軍の生活費がまかなわれます。
国民の税金で、米軍の爆撃機が燃料を補給され、アフガニスタンやイラクを攻撃します。

自分の払った税金が戦争に使われていると考えると、私は黙っていられなくなります。何にいくらかかっているのか、はっきりしてほしくなります。ですが防衛庁は、自衛隊のイラク駐留でどれほどの税金を戦争請負会社に支払っているのか、秘密にしています。

納税者として税金の使い道を監視するということは、主権者としてこの国の政治を監視することであり、まさに国民主権そのものです。私たちは自分たちの支払った税金の使い道についてしっかりと意識し、意見を述べないといけないのです。私たちの支払った税金が、世界の人びとを幸せにするためで使われるのならぱよいのですが、一部の人のふところを肥やすような使われ方や、ましてや人を傷つけるために使われることは断じて許せません。

みなさんも納税者であることをしっかりと自覚して生活してください。それが憲法を考えることにもつながるのです。



【007】ー ■第17回
<「教科書検定」を憲法からみると>
      2005年08月15日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/17.html

最近、中国や韓国どの関係が少しぎくしゃくしています。小泉首相の靖国参拝のみならず、「教科書問題」もその原因にあげられます。そこで今回は、「表現の自由」との関係で、「教科書検定制度」について考えてみたいと思います。

日本では、小中高の学校の教科書は、文部科学大臣の検定に合格しなければ教科書として出版できないことになっています。これが「教科書検定制度」です。この制度が、教科書を執筆したり出版したりする「表現の自由」(憲法二一条一項)を不当に侵害し、憲法が禁止する「検閲」(二一条二項)にあたるのではないかが問題となります。

そもそも「表現の自由」が人権として保障されているのはなぜでしょうか。私たちは自分の言いたいことを言いたい、書きたいことを書いて誰かに読んでもらいたい、好きな曲をつくって発表したいというように、自分の内面を表現したいという欲求があります。

何を考え、何を発言し、どのような行動をとるのかに、「その人らしさ」が現れます。人は誰でもかけがえのない価値を持っていて、それは「その人らしさ」という人格的な価値として尊重されるべきものなのです。そしてその人格は表現行為によって刺激を受け、さらに発展させることができます。

音楽やダンスも、絵やアニメ、コントや漫才も、作品を人にみてもらい、批評されてよりよくなります。いろいろな事柄に対する意見も同様です。私たちは自分の思いを外に表現することによって、自分自身の内面を発展させ、より自分らしく生きることができるのです。

さらに私たちは、おたがいにいろいろな意見を主張しあい、議論することで、よりよい考え方をみつけることができます。みんなで議論し、相談していくうちによい考え方にまとまっていったということは、みなさんにも経験があると思います。どのような意見であっても、まずは発表してみなければ、そのよしあしはわかりません。ですから、まずは発表してみることが大切です。

「おまえの言うことは価値がないから、何もしゃべるな」と言われたらどうですか。くやしいし、本当はすごくよいことを言おうとしていたのなら、みんなにとっても残念なことです。ですから、誰かが前もって、「おまえの意見は発表させない」と決めつけることは許されないのです。

たとえば、安くて品質のよい商品なら、だまっていても市場で生き残っていくはずです。それと同じように、「よい意見と悪い意見とをみんなの前でたたかわせたら、きっとよい意見が残るであろう」ということから、まずは表現してみることが大切なのです。このような考え方を、「思想・言論の自由市場」といいます。

憲法は、「表現の自由」を人権として保障するだけでなく、この「思想・言論の自由市場」の発想から、検閲を禁止しました。「検閲」とは、政府など行政権が、私たちの表現行為について事前にその内容をチェックして、不適当と認めるときにはその発表を禁止することを言います。

国民の思想や表現について、国がその「正しさ」をあらかじめ判断することはそもそも許されません。思想や表現のよしあしは、国民がそれにふれて、自分たちで決めるべきことなのです。思想や価値観のような私たち人間の内面に関して、国家は干渉するべきではありません。

さて、このように考えてくると、「教科書検定」という制度はどうでしょうか。歴史の教科書などでは、その著者の歴史観や教育観がそのまま現れます。文部科学大臣がそのよしあしを問題にして一定の判断をくだすことは、その記述が正しいかどうかにかかわりなく、憲法上許されないはずです。

この問題についての裁判所の判例は、教科書検定が「思想内容等を審査するものである」と認めながらも、「たとえ検定に不合格になっても一般図書として出版することができるのであるから、発表の禁止を目的とするものではなく、検閲にあたらない」としています。

みなさんはどう思いますか。こんなことを言ってしまったら、教科書として出版しようとする著者の「表現の自由」を実質的に奪ってしまうことになります。そもそも、「検閲の禁止」は、「国が国民の思想内容に介入してはならない」という点にその本質がありました。「一般図書として発表できる」ということは、その本質を傷つけることを正当化する理由にはなりません。

たとえ、検定の場で国が何も言わなくても、検定制度があること自体によって、「何か言われるといやだな」と躊躇して書きたくても書けないということもあるのです。こうした萎縮的効果を含めて、教科書検定制度の存在自体が、「表現の自由」に対する重大な侵害となっているのです。

ちなみに、こうした教科書に対する国の検定制度を採用しているのは、サミット参加国のなかでは日本だけだそうです。



【007】ー ■第18回
<教科書を選ぶとはどういうことか>
      2005年09月15日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/18.html

前回は、「教科書検定でその内容を審査することを許すべきではない」という話をしました。とすると、過去の事実を否定するような記述をしているものも、教科書として出回ってしまってよいのでしょうか。

たとえば、従軍慰安婦制度(国連の人権委員会では「日本軍性奴隷制度」と呼ばれています)や旧日本軍によるアジアの人々に対する虐殺行為などをしっかりととり上げず、むしろ日本のおこなった戦争を美化するような記述の教科書が使われることになってしまってもいいのか、という疑問が生じます。

こうした教科書が出回ることを防ぐには、国がしっかりと内容を審査して、不許可にすればいいのでしょうか。

この問題は、結局は、「誰がどのように教科書の内容を検討し選択するのか」という問題に帰着します。

私は前回お話したように、少なくとも国が統一的にその内容を審査するという方法は、憲法に違反すると思っています。著者の歴史観や教育観それ自体を問題にして、文部科学大臣が事前に審査すること自体が、憲法の保障する「表現の自由」に対する重大な侵害になると考えています。

もし誤った歴史観の教科書が出回ることがあるとしたら、それを許す国民や政治風土の問題です。ドイツのように歴史から目をそむけることなく、歴史的事実を忘れない努力を国をあげておこなうという断固とした態度が国民と政府にあれば、そうした教科書が使われることもなくなるはずです。

国に教科書の内容をチェックしてもらえば、不適切な教科書を事前に排除できて簡単だと考える人もいるかもしれません。ですが、そのように考えることは、自分の自由を犠牲にして手軽さを選択することになります。安易にそちらの方向に流れると、結局は多くのものを失うことになります。

「表現の自由」という人権は、「あなたのいうことにはまったく賛成できないが、あなたがそのようにいう権利があることは私は命をかけても守る」というヴォルテール(一八世紀、フランスの思想家・文学者)の言葉にその本質があらわれています。つまり、ちがう考えの人の意見も忍耐強くきいて、議論を重ねていこうとするところにその意味があるのです。

自由に生きるということは、私たちがすべてを国にまかせてしまうのではなく、「自分たちでできることは自分たちでする」ということです。「自由」は単なる人まかせによって得られるものではなく、一定の責任をともなうものなのです。

どのような教育がいいのか、教師に何を期待するのか、家庭では何を教えるのかなどを私たち自身が考え、それぞれの役割を果たすことが必要となります。

教育内容も国に決めてもらってそれにしたがうのではなく、みずからの問題として考え、行動することが求められています。それこそが、「一人ひとりの国民が主人公である」という民主主義そのものです。そのためには、現場での選定方法が民主的であることは不可欠です。親も意見をいうことができ、またそれを使って教える教師がみずから教科書を選ぶことができるようにするべきです。

私たちが歴史の教科書を選ぶ際に、忘れてはならないことがあります。それは「歴史的事実は放置しておけば時間とともに風化し、なかったことになってしまう」ということです。

過去の事実はすべて、ある意味では評価をともなって記述されます。ですから、その評価がわかれることは仕方がないことかもしれません。ですが、事実そのものを記載しなければ、過去から学べるはずの教訓を、私たちは次の世代に引き継ぐことができなくなります。南京大虐殺、従軍慰安婦制度、平頂山事件、七三一部隊、強制労働、遺棄毒ガス事件など、旧日本軍による多くの残虐行為とその被害者の方々の苦しみは、記述しなければなかったことになってしまいます。

もちろん、そうした事実を世代を越えて語り続けることは、けっして日本をおとしめることにはなりません。過去のあやまちをごまかすのではなく、反省し、よりよく生きることができるように努力することは、人間の勇気ある正しい生き方です。

戦争で失われた被害者の方々の命は、二度と同じあやまちをしない教訓として生かされてこそ、その価値を増します。過去から学び、次の世代に事実を伝えることは、いまを生きている人間の責任です。未来永劫忘れない、語り続けるとの決意をあらわすことで、北東アジアにおける安全保障の基礎となる、隣国の信頼を勝ちとることができるのです。

「現場の教師や親たちでは適切な判断ができないから、国がかわりに教育内容も決めてあげましょう」といわれないように、国民一人ひとりが主体性をもって判断し、子どもを育てていこうとする姿勢が不可欠です。

教育内容の決定権の問題も、結局は、私たちが民主主義を実践できるかの問題なのです。



【007】ー ■第19回
<私たちはなぜ選挙に行くのか>
      2005年10月17日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/19.html

「日本国憲法第七条により衆議院を解散する」。

この言葉から衆議院の解散、総選挙がはじまりました。憲法七条には、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」とあり、その三号に「衆議院を解散すること」とあります。

天皇にはいっさいの政治的決定権はありませんから、「内閣の助言と承認」、つまり内閣の意思によって衆議院は解散されます。そして解散後の総選挙によって、国民の意思が問われることになります。今回はこの選挙や「統治機構」の意味を考えてみましょう。

憲法は、私たち国民が自由に生きることができるように国のしくみを定め、国家権力に歯止めをかけるために存在しています。そして私たちが自由に生きるためには、政治に参加することが必要となります。

国家の側にいて国民の自由を制限する人たち、つまり権力者と、自由を制限される国民とがまったく別々だと、権力者たちは好き勝手なことをしてしまう危険があります。自分には不利益がおよばないからです。そこで自由を制限される立場の人が、自由を制限する立場にまわって、「自分のことは自分たちで決める」という方法をとることで、自由の制限を最小限にすることができるのです。

つまり、「個人の尊重」という価値から導かれる「自己決定権」という人権を政治の場面にも反映させて、自分たちのことは自分たちで決める、誰かえらい人が決めたことに無批判にしたがうのではな<て、自分たちの生活のことは自分たちで主体的に決めていこう、という発想が民主主義なのです。

そして、このように政治に積極的に参加していくための人権を、「参政権」といいます。「選挙権」や「被選挙権」がその代表です。

「自由権」という人権と「参政権」という人権とは、実は表裏一体であることがわかっていただけたでしょうか。言葉をかえれば、「自由主義」という価値と「民主主義」という価値とは、切りはなせないものなのです。自分たちの生活を自分たちで決めることができて、はじめてほんとうの自由を獲得できるのです。

政治に参加したり、代表者を選んだりする「参政権」は、この権利を行使した結果が自分にはね返ってくるだけではなくて、多くの人の生活にも影響を与えます。

ですから、自分や社会のことを適切に判断できるだけの最低限の能力が必要とされるので、年齢制限がついています。みなさんが参政権を行使できるようになるまで少し待たなけれぱならないのですが、せっかくこれを使うことができるのに使わないのはほんとうにもったいないことです。自分のことは自分で決める、自由に生きるためには人まかせにしない。これが選挙に行くいちばんの理由です。

選挙の結果によって、立法権をになう国会ではいろいろな法律がつくられ、重要なことが決まっていきます。内閣総理大臣も国会で決められます。そしてその総理大臣によって選ばれた大臣たちによって内閣が組織され、これが行政権をにないます。内閣から任命された裁判官が裁判所で司法権を行使します。

つまり、国民が国会のメンバーを選び、国会で内閤のメンバーを選び、内閣で裁判所のメンバーを選ぶのですから、すべての出発点は国民にあるのです。この国会、内閣、裁判所が中心となって国の組織を運営していきます。この国のしくみのことを「統治機構」といいますが、このように統治機構は国民の意思によって成りたっています。

その出発点であった選挙は、国民が自分たちの人権を守るためにおこなうものでした。自分たちの政治に自分たちの意見を反映させて、自分たちの人権を守るために選挙に参加するわけです。その結果できあがる統治機構も、最終的には国民の人権保障のためのものでなければなりません。

つまり人権保障が「目的」であり、統治機構はそのための「手段」だということになります。政治はあくまでも、国民の人権を保障するために存在するのです。国民がより安全に、幸せに、自由に、そして安心して生きられるためには、どのような法律や制度が必要なのかを必死で考えて実現するための組織が国会であり、内閣であり、裁判所です。

国会議員も大臣も官僚も裁判官も、すぺてそこで働く人たちは私たち国民が税金で雇って仕事をしてもらっています。私たち国民が主役であり、私たちの人権保障のために仕事をしてもらっているのです。これが民主主義の基本構造です。

そして民主主義は、選挙によって代表者を選んだ後からが本番です。彼らがしっかりと仕事をしているかどうか、国民は監視しつづけなければなりません。

民主主義は代表者を信頼するのではなく、疑ってかかり、監視しつづけるところにその本質があるのです。



【007】ー ■第20回
<「よくわからないけど小泉さんが好き」?>
      2005年11月14日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/20.html

九月一一日の衆議院選挙の結果、与党が圧倒的多数をしめることになりました。

「郵政民営化を問う」という争点がはっきりしていた選挙では、国民も判断をしやすかったのだと思います。そして、小選挙区制という選挙制度のもとでは、国民の意見の多数派が議席を独占するしくみになっているために、あのような結果になったわけです。今回は、「民意を問うための解散」の意味、また憲法が「間接民主制」を採用している意味について考えてみましょう。

そもそも衆議院の解散について、憲法は二つの条文しかおいていません。六九条と七条です。

六九条は「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」と規定し、内閣不信任決議をつきつけられた内閣は、衆議院を解散できることを示しています。

もうひとつ、七条は、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。……三 衆議院を解散すること」と規定しています。この七条によって、「内閣に実質的な解散権がある」と解されていますが、内閣がどのような場合に衆議院を解散できるのかは、はっきりしていません。

六九条の解散は、衆議院つまり国会に対して内閣が抑止力を行使する意味をもつもので、「権力分立」の考え方のあらわれです。もともと権力分立は、権力の集中を避け、権力を分散させることで国民の自由を保障しようとするものです。そこで、六九条の解散は、「自由主義的意義の解散」といわれます。

解散はこの場合にしかできないという考えもありますが、多くの憲法学者は、「国民の意思を問うための解散も可能である」と考えています。つまり民意を問うための「民主主義的意義の解散」です。有力な見解は、「衆議院で内閣の重要法案が否決されたときには解散できる」としています。

今回は参議院で郵政民営化法案が否決されたのですが、その後衆議院での再議決を求めても否決されたでしょうから、この場合にあたると考えてよいと思われます。

「民意を問うための解散」は国民にはわかりやすいのですが、一種の国民投票のような性格をもつため注意が必要です。というのは、憲法は民主主義をとても重視しながらも、「直接民主制」に対しては少し慎重な態度をとっているからです。

そもそも民意を国政に反映させる方法としては、有権者が直接、国民投票などによって政治的意思を表明する方法(直接民主制)と、国民から選ばれた代表者が政治をおこなう方法(間接民主制、代表民主制)とがあります。

日本では憲法前文に「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し……」とあるように、間接民主制を採用しています。そして、国政レベルでは、最高裁判所裁判官の国民審査(七九条)、地方特別法の住民投票(九五条)、憲法改正国民投票(九六条)の三つの場合だけ、直接民主制的制度をとり入れました。

国民投票などをもっと積極的に採用して、直接、民意を問う場面を多くしてもよさそうなものですが、あえて、直接民主制を原則としていないのです。なぜでしょうか。

民主主義にもとづく政治というものは、多くの人の意見を聞いて、それを最終的にはひとつにまとめあげていかなければなりません。その過程で、全国民のあいだでそのような審議・討論をし、おたがいに妥協しあって、意見をひとつにまとめあげていくことは事実上不可能に近いことです。

また、ヘタをすると、ときの権力者による世論操作や情報操作により、国民が正しい判断をすることができない危険性もあります。それによって少数派の意見が無視され、多数の横暴によって人権侵害を招きかねません。そこで代表者が慎重に審議し、少数派の意見も十分に聞いて、国の方針を決定していくべきだと考えているのです。

国民投票のような方法だとどうしても、争点に対する純粋な判断ができずに、そのときのリーダーに対する信任投票のような雰囲気になってしまって、ムードで結論が左右されてしまう危険があることも指摘されます。

「郵政民営化についてはよくわからないけど、小泉さんが好きだから自民党に投票する」といった具合です。「国民から信任を得た」と考える国のリーダーが暴走して、独裁政治を招く危険があるーー憲法はこの点にも慎重なのです。

さて、民意を問うための解散は、そこで争点となったテーマについては国民の意思を確認することができます。ですが、それ以外の問題点については、けっして国民はそのときのリーダーに白紙委任をしたわけではありません。国民はそのあと国会議員がどのような行動をとり、どのような政策を実現していくのか、しっかり監視しつづけなければなりません。

これからが民主主義の正念場です。