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折々の記 2016 ③
【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】03/12~     【 02 】03/14~     【 03 】03/17~
【 04 】03/25~     【 05 】03/30~     【 06 】04/06~
【 07 】04/09~     【 08 】04/10~     【 09 】04/12~

【 02 】03/14

  03 14 孫が友達と来宅   旅立ちか
       国王大臣に近づくなかれ 深山幽谷に住すべし   <夏目漱石のバックボーンになっている
  03 15 赤ちゃんのヒミツ ~驚くべき生命力~   0歳教育理解のために
       赤ちゃんのコミュニケーション能力   0歳教育理解のために

 03 14 (月) 孫が友達と来宅     旅立ちか

午後はこの冬初めての降雪あり。 瑞翔と見なす。 すべては温故知新より発する。


国王大臣に近づくなかれ 深山幽谷に住すべし
人間の澱(おり)について
   「貧ふして諂らはざるはあれども富で奢らざるはなし」  正法眼蔵随聞記
   http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/ori.htm

 道元禅師は如淨禅師より正法を受け嗣がれますが、如淨禅師から「国に帰って法を広め、衆生を利益せよ。市中など繁華なところには住むなかれ。国王大臣に近づくなかれ。深山幽谷に住すべし、ただ真箇の道人に法を伝えて我が宗を断絶せしむることなかれ」と示されます。
 如浄禅師から嗣法した教えとは釈尊正伝の仏法であり、只管打坐の坐禅こそ正門であり大安楽の法門であるとして『普勧坐禅儀』を著 し坐禅の方法や心得をひろく大衆に説き勧められるのです。  1230年(寛喜2)ごろに建仁寺を離れて深草の安養院に移られます。 これより、主著『正法眼蔵』の著述を開始し、正法の普及に尽力されるのです。やがて深草に一寺を建立し観音導利院興聖宝林禅寺としますが、天台宗徒の弾圧を避けるためと、また波多野義重公の切なる拝請もあり、寛元元年(1243)錫を越前の山中に移します。寛元2年、越前志比庄に大仏寺を建立され 1246年(寛元4)6月、大仏寺を永平寺と改めます。一箇半箇でも、真の求道者に正伝の仏法を伝える熱意に燃え、「正法眼蔵」の著述に心血を注がれました。そして北越入山5年後の1247年(宝治1)北条時頼の招きを受けて一時鎌倉におもむきますが程なくして(約6ケ月)再び越前に戻られました。

   如淨禅師⇒ デスクトップ > PC > ローカルデスク(C:) > abcテキスト > 如淨禅師
   建仁寺⇒ デスクトップ > PC > ローカルデスク(C:) > abcテキスト > 建仁寺
   安養院⇒ デスクトップ > PC > ローカルデスク(C:) > abcテキスト > 安養院
   興聖宝林禅寺⇒ デスクトップ > PC > ローカルデスク(C:) > abcテキスト > 観音導利院興聖宝林禅寺
   波多野義重⇒ デスクトップ > PC > ローカルデスク(C:) > abcテキスト > 波多野義重
   永平寺⇒ デスクトップ > PC > ローカルデスク(C:) > abcテキスト > 永平寺

 その時にこんなエピソ-ドがあるのです。
 道元禅師は如淨禅師の「国王大臣に近づくなかれ」という教えを守り、越前の永平寺において真実仏法の興隆と後継者の育成に力をそそがれておられました。上記のように、禅師48歳の時、波多野義重公のたっての頼みに応じて約半年、鎌倉で教化につとめられるのです。権力に近づかぬように心がけられていた禅師ではありましたが、北条時頼は21歳の若さで執権という位に就いた身であり、権力争いなどに疲れた時頼を救いたいとの慈悲心から鎌倉に赴かれたのでしょう。時頼は深く道元禅師の教えに帰依し、鎌倉に京都の建仁寺と対になるような立派な寺を建てて開祖としたい懇願されるのですが、丁重にその申し出を断られ、越前の永平寺に戻られます。
 ところが、その後、弟子の玄明が喜びいさんで時頼からの越前の土地の寄附状を持ち帰るのです。これは-- 越前の広大な土地を仏法興隆の為にお使いください。そして是非、鎌倉にも法を説きに来てほしいという道元禅師を思う時頼の善意であったことでしょう。寄進状を持ち帰った玄明は得意げに、あちこちで自慢話もしたのかもしれません。そのことも、師を思ってのことだったでしょう。しかし、道元禅師はその名利心を深く咎めて、玄明を追放処分すると共に、玄明の坐禅していた床下の土を掘り捨てさせること七尺に及んだといいます。

 最近の禅の本の中で、道元禅師のこの行動を下記のように評していました。
「この道元の行動には好悪(こうお)があって当然だろう。これを、名利を嫌った道元の高潔さを示す逸話と言い切ることは筆者にはできない。「その床下の土を掘り捨てること七尺」という部分には、道元その人の中に潜む、底深い人間の澱(おり)のようなものを感じずにはおれない
 或いは、超有名な仏教評論家は「禅と法華教」の中で
それで腹を立てた道元は、玄明を下山させ、玄明の坐禅する場所を取り去り、床下の土を七尺も掘り下げて捨てさせたという。いささかクレイジ-(狂的)である。道元にすれば、鎌倉に下向して自分がピエロ的に扱われた。たった寄進状一枚のために権力に迎合したかのように、彼は自分の行動を自虐的に受け取っている。そこに玄明が、寄進状をみせびらかすに及んで、彼は自分の恥部を見せつけられる想いがしたのであろう。その気持ち、わからぬでもない。でもさ、やっぱりクレイジ-だよね


 「親の心子知らず」というがごとくで、拙僧は受け止め方がまったく違います。

 「国王大臣に近づくなかれ」という如淨禅師の訓戒を守られたということは、道元禅師は人間の本性というものを深く透徹されておられたからのことでしょう。権力者にへつらう心こそが名利を求める心と表裏一体となって仏法を破り、後に禍を残すとして、正法を求める弟子達に深く刻みつける方便としてなされた行動と思うのです。 先の筆者は「道元その人の中に潜む、底深い人間の澱(おり)のようなものを感じずにはおれない」と評していますが、人間ならば誰しもが因縁生としての澱(おり)があるからよくよく気を付けよということであろうと受けとめています。

   因縁生⇒ デスクトップ > PC > ローカルデスク(C:) > abcテキスト > 因縁生

 先の筆者と私の受け止め方の異なる根拠を少し示してみます。

《道元禅師求法の頃の時代背景について》

 道元禅師(1200-1253)は比叡山を下りてから日本臨済禅の開祖栄西禅師(1141-1215)の高弟明全について禅仏教を学び共に正法を求めて入宋します。栄西禅師は渡航が困難な時代にあって、二度も入宋した超エリ-ト僧であり、頼朝の妻で尼将軍といわれた北条政子や源頼家などを味方に付ける政治的才覚の持ち主でもありました。時は天台宗僧兵の圧迫も強く京都での布教も困難となると鎌倉幕府に接近、その庇護のもと京都に建仁寺を建立、さらに東大寺の僧正にまで出世しています。天台座主の慈円は、その著「愚管抄」で栄西禅師を「増上慢の権化」と非難し、大師号の沙汰に対しても反対します。それでも栄西禅師は生前に称号を合法的に受けて臨済禅を確立するのです。栄西禅師には天賦の政治的才覚で、当時の国家権力を十二分に活用したしたたかさがうかがえます。日本仏教における禅の確立ということからみれば時代意識も権力機構の認識面からいっても天才であったことには違いありません。
 この栄西禅師を道元禅師はこう見ていたと二祖様は「正法眼蔵随聞記」に示されています。
 ある日、建仁寺の栄西のもとに貧しくやつれた男がやってきた。何か恵んでくれと言うのである。栄西はその男に薬師如来像を造るために用意していた銅財を与えてしまった。その処置に修行僧らが驚いて、つめよったところ、栄西は「仏の心を思えば、そうするより仕方がなかった。たとえ自分が仏罰で地獄に落ちようと悔いはしない。あくまでも衆生を救うつもりだ」と諭したという。
 道元禅師は栄西禅師の戒律の厳しさと、衆生への慈悲をのちのちまで懐かしみ、称揚した。と・・

 道元禅師が栄西禅師の高弟明全和尚について建仁寺で学んでいる時(1217-1223)とは、源実朝(3代将軍)が甥の公暁(父は2代将軍頼家の子)に暗殺(1219)された時期です。鎌倉幕府を開いた源頼朝が1199年に亡くなると、2代将軍に就任したのは頼朝の嫡男頼家であったが、北条時政(頼朝の妻、北条政子の父)は頼家を伊豆修善寺に幽閉し殺害・・。頼家の弟、実朝を将軍に据え自らは幕府の実権を掌握します。だが、時政は実朝を廃して娘婿を将軍にしようとしたことで時政の嫡男義時の反発を受けて失脚します。源氏将軍3代の血統が途絶えたことを期に、後鳥羽上皇は幕府から実権を取り戻そうと倒幕(1221)の兵をあげます。これを「承久の乱」といい道元さま22歳の時のことです。戦いは朝廷の敗北となり、上皇は破れて隠岐にながされ、以後鎌倉幕府が倒されるまでは北条家が実権を握ることになるのですが、実に世相は動乱の時勢でありました。
 実は道元禅師は関白のあとつぎになるようになっていたといいます。そうゆう教育を周りは考えていたのでしょうが、それを逃げ出して横川(よかわ)の叔父さんのところに行くのです。しかし、叔父さんも出家を思い止めようとなされた。それを道元禅師は「母の遺言」と言って出家されたのです。道元さまは明全らと本格的に禅の修行を求めて宋に渡ったのは24歳の時でした。


 当時大乗教というのは法華宗と言われた天台宗と華厳宗が最上といわれていた。そこに弘法大師が真言宗を伝えられるのです。その中において「只管打坐」はどのようにすぐれているのかという問いに対して正法眼蔵弁道話の中で 「しめしていわく、しるべし、仏家には、教えの殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし」と示されるのです。正法の主張により比叡山の圧迫は更にきびしくなったこともあったのでしょう、如浄禅師の遺言通り、興聖寺を開かれて10年、深山幽谷の北越山中に道場を開かれて弟子の育成と「正法眼蔵」の著述に邁進されるのです。
 ところで孤雲懐奘がはじめて道元禅師を訪れ法戦を挑んだのは1228年(安貞2)です。懐奘は日本達磨宗2祖覚晏の高弟です。この頃、覚晏は天台宗の弾圧を避けて大和(奈良)の多武峰の妙楽寺に身を寄せていましたが、今度は興福寺衆徒の焼き討ちで多武峰を退去します。懐奘が道元禅師を訪ねたのはこの焼き討ち直後であったと伝えられます。実に騒々しい動乱の世相であります。けれども、道元禅師は他教に対しては「どの宗の教えがすぐれているとか劣っていると云うような比較論争があってはならない」と示されておられるのです。他宗のお祖師様にはないお示しです。
 道元禅師は帰宋後、すべて透徹された上で「国王大臣に近づくなかれ」を守られ、正伝の仏法の為にあえて福井の山中に入られたのです。建長2年(1250)、御嵯峨院は禅師の徳風を慕い、勅使を永平寺に使わし紫衣を賜わりました。禅師は再度固辞したのですが、勅使三度に及んだことから、礼を失うに至るを懸念されこれを拝受されたと伝えられます。しかし、紫衣は一生高閣に蔵めて用いることはなかったと伝えられています。

   孤雲懐奘⇒ デスクトップ > PC > ローカルデスク(C:) > abcテキスト > 孤雲懐奘

《道元禅師の著書から》

 正法眼蔵(山水経)の巻の中に、「むかし徳誠和尚、たちまちに薬山をはなれて江心にすみしすなわち、華亭江の賢聖をえたるなり、魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざらんや」という文章から引用します。
 徳誠和尚というのは薬山惟儼(やくさんいげん)の法嗣です。この徳誠和尚が夾山善会(かっさんぜんね)という法嗣を得る話になるのですが、おおまかに話を進めます。

 唐の天子が道教を信じて仏教寺院を破壊し僧侶を強制的に還俗させた「会昌の破仏」の仏難の為に徳誠和尚は薬山惟儼のもとを離れて華亭江で渡し船の船頭をしていました。
 同じ薬山門下の道悟円智と雲巌曇晟も行脚していました。たまたま秀州の京口寺に住した夾山善会の上堂に居合わせます。その上堂にてある僧が質問します。道悟は善会のあまりにも型にはまった答えに思わず失笑します。それを見た善会は法座を下りると威儀を正して道悟に問うのです。道悟はそれに対して「私には同門下の僧がいる。今は華亭江で渡し船の船頭をしながら学人を待っている。汝がそこにいけば必ず得るところがあるであろう」と教えるのです。
 夾山善会という和尚は本当の求道者であったのでしょう。道悟の教えに従い華亭江に向かいます。船頭徳誠が善会を見るとさっそくいろいろな問答となるのです。
 ・・・ 「千尺の糸を垂れる修行は深い淵の真実を求めるからだ」 という善会に対し、船頭徳誠は 「三寸の釣り針(舌先)を離れてなぜ真実をいわないのか」 と詰め寄ります。そう言われて善会が何か言おうとすると徳誠は善会を水の中に突き落とすのです。善会がやっと水から頭を上げると徳誠はまた「いえ、いえ」と迫ります。善会がまた言おうとすると徳誠はまた打つのです。その時に、善会は忽然として大悟したというのです。
 そこで善会は問うのです「釣り糸や釣り針をあやつるあなたの真意は何なのか」
 徳誠が言います。「私の仏法を受けとめる人を待つ思いである。汝、速くいえ、速くいえ」
 善会は「言葉には深い意味があるが、これを述べようと舌で話そうとしても話にはならない」
 徳誠が言います。「河の水をつりつくして(無所得の坐禅をして)自己の正体に出会うのである--今後は人の多く集まるところに住することなく、一箇半箇を接取して断絶せしむることなかれ」と諭すのです。
 善会はこれを領とし、お礼を言って岸に上がります。何回も何回も振り返り遠離っていきます。
 師がついに呼びとめます。善会が振り返ります。
 徳誠は「汝、道ふべし、別に更に有ること在り」。言い終わって自分で船をひっくり返して波間に沈んだというのです。
 仏難の嵐の中でも、正法を伝えたいとの切なる思いは、渡し船の船頭になってでも持ち続け、更にこの教えを深く刻みつけるための方法としての命をかけての説法であったのでしょう。正法眼蔵の話の中でも実に感銘深い話です。

法体の滝  H10年撮影

 道元禅師は名門の関白の出身ですから、勅許を受けて正法を広めることも、あるいは考えておられたかもしれません。いや、全く眼中には無かったかもしれません。学問というのは統計であり憶測ですから、勝手な観念でこうだろうとか、ああだろうと論評しますが、結局は人それぞれ自分の身丈ほどの見方しかできないものでしょう。私もまた然りではありますが、マ-フィ-の法則という中に「完全に理解している人だけが、それを説明できる。ゆえに、ほかの誰もそれを理解できない」というのがあります。悟られたかたの心境や境地とは凡人の伺い知るところではないでしょう。それは、それとして・・
 貪名愛利の葛藤となっていた伝統集団の対立する勢力は好むと好まざるとにかかわらず大きかったと思われます。それは、いわれなき天台衆徒の弾圧という形を招くことになります。そして、深草の興聖寺を去り、錫を越前の山中に移すことになったときに、正法を何としても残さなければならないと思われたときに、先の船頭徳誠の話を惹かれたのではないでしょうか。

   道元禅師は他の禅僧のような天衣無縫とか、人を人とも思わないような反骨禅、あるいは勇猛禅というような禅ではありません。それに、著書「正法眼蔵」はあまりに難解でありますから、凡愚の私どもの理解がなかなか及ばぬ境界ではあります。けれども、その「正法眼蔵」にちょっとだけ触れた感じを率直に語れば、道元禅師は大智の人であり、大慈悲の宗教者であると私は受けとめています。

 「おろかなる吾は仏にならずとも 衆生を渡す 僧の身なれば」

 私にとっては、この一首を見るだけでも「澱がある」とは思いもしません。禅師は常に、菩提心を起こすべきことを示されています。この「発菩提心」というのは「自未得度先度他のこころ」、つまり、「自ら未だ渡るを得ざるに他を先に渡す」、そうすることによって自らも救われると述べられているのです。 又、『正法眼蔵』観音の巻には「不留朕跡」(朕跡を留めず)という言葉があります。この意味を俗的に解釈すれば、「泥棒であれば足跡を残さないように苦心し、人間は自分の足跡を見せびらかして、自分を偉く見せようとする。それに対して、ほとけは大悲をもって社会に奉仕するが、それを人に知られようとはしないものだ」というような意味です。又、仏道をそれて利欲にはしり、おごりふける者に対しては「たとい権実(ごんじつ)の妙典を読むことあり、顕密の教籍(きょうじゃく)を伝うることあるも、いまだ名利をなげうたざれば、未だ発心と称せず」(用心集)と示されるのです。禅師は発心がそのまま得道であり、捨てきることが得ることである主旨を語られています。

   時の執権北条時頼から、京都建仁寺と対になるような大寺を建立してその開山としてあげようなどといわれれば、金襴のお袈裟が好きな和尚なれば目尻がさがろうというものでしょう。さらに北条時頼より道元禅師に越前六条の地を寄進しようと言う申し出も、道元禅師はその厚意も丁重に辞退して受けられなかったのです。翻って見れば、凡なる人の「人間の澱」の噴出はマスコミを年中賑わしています。
 「随聞記」には「世間に自体財宝に豊かに福分もある人は、眷属も囲繞し人もゆるす。それを是としおごるゆえに、傍らの賤しき人はこれを見てうらやみいたむべし」 「亦心にきょう心(きょうの字はりっしんべんに橋の右側を書く、意はおごる心)はなけれども、ありのままにふるまえば、傍らの賤しき人はうらやみいたむべきなり。是をよくつつしむをきょう奢をつつしむとは云うなり。我が身の富は果報にまかせて、貧賤の人見てうらやむをはばからざるを、きょう心と云うなり。」 《略訳「お金や福徳ある人の処には、蜜に蟻がたかるように人が集まる。その集まった人達は、腹の中ではどのように思うとも逆らうということはない。そこに我が儘勝手が生まれ増長する。しかし、当人は是としているから、我が儘であることには気づかない。」「亦、奢る気持ちは少しも無いのだけれども、勝手気ままに振る舞えば、かたわらにいる貧しい人たちは羨み迷惑に思うであろう。このところに十分配慮することを奢りの心をつつしむというのである。自分が富んでいることに無責任に、貧しい人が見てうらやましがる心に無神経だったり、これを無視するような心を、思い上がりの心というのである。」》と教示され、「学道の人はまず須く貧なるべし、財おほければ必ず其の志を失う」と道を学ぶ者へ説示されるのです。学道 の人であっても捨てるということや放棄することの実行はたいへん難しいことです。であればこそ道元禅師は「学道の人はまず須く貧なるべし」と繰り返し繰り返し倦むことなく説き続けられるのでしょう。

 ここのところは、自説に自信のある評論家には理解の難しいところでしょう。「道元の清貧に対する絶対的な要求の厳しさには従うことはできない」などと勝手な注釈をつけられるが、これは在俗の評論家に対しての示しではない。まして、「法然に念仏の時、眠気に襲われ念仏を怠ってしまうことがありますが、いかがしてこの障害を止められましょうか」と、ある人が聞いたところ、「目が醒めたら、また念仏すればよいのです」と答えたという。これこそ本当の名僧の言葉という気がする」などと自分の好き嫌いで解釈をされている。どちらが好きとか合理的かなどと比較しないことです。理が違うのですから家風ととらえるべきではないでしょうか。
 豪雪地の雪の苦労は雪国に住む者でなければ理解できないでしょうが、同じ越前でも日本海に面するところは雪も少なく冬でも水仙の花が咲くのです。何故に道元禅師はよりによって雪深い山奥を選ばれたのでしょうか。・・・ 道元禅師の心底には、純粋に只管打坐の仏法を修行し、真の道人を育てる為には、国王大臣(権力・財物)に近づくことなく、都からは離れてもっと山奥に入らなければいけないという本願があったのではないかとも思うのです。昔も今も一個半個の真の道人とは限られることのように思いますが、道元禅師は本当の道人だけを相手に修行したかったのでしょう。人間の名利心を深く洞察されていたからこそ、「その床下の土を掘り捨てること七尺」ということを以て、「人間の因縁生の性(さが)としての澱(世人の情)に気を付けよ」と厳罰に処されたのでしょう。名利を求める心によって、法がゆがみ、すさんでゆくことを心配されたからではないでしょうか。玄明個人に対しては道元禅師はきっと熱い涙を流されたことでありましょうが、真実の仏法を伝える為には止むを得ず、法孫がけっして忘れることのないようにと強く示唆されたものと私は受けとめます。

   一杯の飲みたる水の味わいを 問う人あらば何とこたえん  (唯証相応)

 宝治2年(1248)3月14日、鎌倉行化から帰山された翌日の上堂語にて「・・・ 山僧出で去る半年余、猶孤輪の太虚に処するが若し、今日山に帰れば雲喜ぶ気あり、山を愛するの愛初めより甚だし」と示されます。道元禅師の鎌倉行化は禅師の本意であろうはずでなかったことは、この上堂語の全体にもあらわれているところですし、この時期『正法眼蔵』の撰述は、寛元四年(1246)の「出家」の巻以後、建長五年(1253)最後の「八大人覚」の巻まで七年間も撰述されていないのです。この時以降、道元禅師の姿勢は古風を慕っての弁道と清貧なる家風づくりにいっそう力をそそがれたのでしょう。 当時のご心境を歌われたという句に「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」 という和歌があります。そこには禅師の澄みきった境涯が漂うばかりで、クレイジ-(狂的)な俗的あつくるしさなどは微塵も感じられません。

 明治35年(1902)、高祖大師650回忌に明治天皇より「承陽」の勅額が下賜され、その際、大遠忌法要に随喜していた十名が発願して、時の貫首森田悟由禅師に玄明首座の恩赦を誓願しました。悟由禅師は玄明首座に代わり高祖大師の真前で大展懺謝をされ、六百五十年ぶりに赦免されることになったといわれています。


国王大臣に近づくなかれ
夏目漱石のバックボーン
   則天去私・私の個人主義・凡欲拒否

道元が宋の如淨禅師から学び取った「国王大臣に近づくなかれ」の精神的バックボーンは、漱石の作品を読んでそのバックとなっていたもの考えていたことと、同じような世界であったと思う。

漱石が愛嬢ひな子を亡くした悲しみは耐えようもなかったであろう。 「吾輩は猫である」の小説は夏目家へ迷い込んだ子猫をだいじに飼っていたのに、5才くらいに死んでしまった。 猫ですら死亡通知を書いてもらい、月毎の命日に供養していたという。

ましてひな子を亡くしたショックは計り知れない。 彼は「彼岸過迄」のなかの‘雨の降る日’はひな子の死を想って書いた章だと言われている。

こうした心の内を秘めた彼が「則天去私」の言葉を対外的には使っていたのを思うと、彼の読書から自己形成をしてきたことを痛切に感ずるようになった。

学習院で行なった「私の個人主義」で吐露した一句一句は、イギリスで求めた文明の正体と自己内部の精神的葛藤の結果、表出された言葉あった。 漱石は己のバックボーンを披露していたのだと思います。

漱石が亡くなったのが49歳という、最も人の内部活動のエネルギーが溢れている年代に生を閉じてしまったのは悲しい極みです。 自分の過去を自分の判断の篩で精選し、金と女と名誉を遠ざけるという自己規範を築き上げていた。

「虞美人草」は使われている漢字を見ていると、一般の漢学者の素養というより幅と深さにおいては驚くほどの学識を身につけていたことが分かる。 幕末明治の学問への集中は見習わなくてはならない凄さがある。 それに加えて、漱石の

 03 15 (火) 赤ちゃんのヒミツ ~驚くべき生命力~     0歳教育理解のために

SECRET LIFE OF BABIES(イギリス 2014年) 午後すべて視聴しました。 0歳教育の資料としてオンデマンド利用によりDVDに取り込むつもりです。

検索「赤ちゃんの秘密」のコピーを載せておく。


地球ドラマチック NHK総合1
赤ちゃんのヒミツ ~驚くべき生命力~

   3月15日(火) 午後2時05分
   http://www4.nhk.or.jp/dramatic/x/2016-03-15/21/22792/2340369/

NHK・Eテレの「地球ドラマチック」で赤ちゃんのヒミツ~驚くべき生命力~が放送されました。近年、赤ちゃんの研究が進み小さな体の中で起きていることが徐々に解明され始めています。赤ちゃんには大人にはない特別な能力があります。順応性にも優れています。赤ちゃんは生まれてから2歳までの間に他のどの時期よりも成長し学びます。一生のうちで最も大切な期間なのです。しかし、多くの人はその頃のことを覚えていません。私たちみんなが体験し記憶にはない赤ちゃんの世界をのぞいてみましょう。

生きるための本能

母親のお腹の中で守られてきた赤ちゃんは生まれた途端に全てが変わります。産声と共に始まる赤ちゃんの初めて呼吸。酸素を取り込む場所が胎盤から肺へと移行する瞬間です。小さな体に起こる目に見えない変化を経て赤ちゃんは成長していきます。生まれたばかりの赤ちゃんはか弱く見えますが、小さな手足はかなり強い力で握ることができます。これは本能的な反応で把握反射と呼ばれています。人間がサルだった頃の名残かもしれません。赤ちゃんは本能的に人の顔を探します。生まれてから20分もすると相手の表情を真似るようになります。おっぱいを探すのも生きるために欠かせない本能です。ほんの少し頬に触れただけで唇をすぼめ、おっぱいを探します。

泣き声を使い分ける

赤ちゃんは泣くことで自分の意思を伝えることもできます。赤ちゃんの泣き声は声色も高さも周りの注意を引くように完璧に調整されています。どのように泣き始めるかで何を求めているかが分かる場合もあります。疲れてむずかっている時は口を大きく開けるため「あー」という音で泣き始めます。一方、おっぱいが欲しい時は舌が口の上の方にくっつくため「ねぇ」という音から始まります。

特別な呼吸の仕組み

赤ちゃんはおっぱいを飲みながら同時に呼吸をすることも出来ます。気道の一部が大人よりも高い位置にあるからです。空気は鼻から肺へ、ミルクは口から胃へ混ざり合うことなく届けられます。この仕組みのおかげで赤ちゃんは泳ぐ能力を手にしました。赤ちゃんは練習をすれば泳ぐことが出来ます。これは赤ちゃんに備わった能力の一つです。水の中に入ると赤ちゃんは反射的に鼻での呼吸を止めます。口を大きく開けても胃や肺に水が入ることはありません。這ったり歩き始めるずっと前から赤ちゃんは本能的に手足で水を蹴ります。母親のお腹の中と似ているからかもしれません。ただし、空気を吸えるよう大人が水から出してあげる必要があります。この能力が赤ちゃんの命を救うこともあります。

ケイト・クーパーの息子サムは生後6ヶ月の時に海に落ちました。6分間も水の中にいたサムは助けられたものの瀕死状態でした。しかし無事に回復。事故から1年、サムは1歳半になりましたが、身体的にも精神的にも事故の後遺症は見られません。これが大人だったら助からなかったでしょう。肺に水が入らない仕組みになっている赤ちゃんだったことがサムが生き延びた理由の一つです。また極端な寒さもサムの復活を支えた理由でした。水中では酸素を取り入れられないため脳細胞が死に始めます。しかし厳しい寒さではそのスピードが遅くなります。赤ちゃんの場合、大人よりもさらに遅くなるのです。この特性は新生児の集中治療の技術に応用されています。赤ちゃんの体温を下げて脳の損傷を防ぐのです。

かわいさも戦略!?

赤ちゃんには常に世話をしてくれる大人が必要です。大人は赤ちゃんのかわいさの虜になります。可愛らしさは赤ちゃんにとって生き延びるための最大の武器です。大きな瞳に愛らしい口と鼻、広いおでこ。その姿を見ただけで心が和みます。ペットは赤ちゃんのこうした特徴に似るように進化したと言われています。人間がペットを無条件に受け入れ世話をしようと思うのは赤ちゃんに似ているからなのです。

焦点は20cm先

赤ちゃんは周りの世界をどう思っているのでしょうか?生まれてから2ヶ月間は赤ちゃんは周りの状況を理解するのに必死です。赤ちゃんの視界は二重になってぼやけていると研究者たちは考えています。まだ両目でとらえた情報を脳で一つにまとめることが出来ないからです。目の筋肉が強くなるまで赤ちゃんの目の焦点が合うのは顔から約20cmのところだと考えられています。これは赤ちゃんが母乳を飲む時にちょうど母親の胸がある場所です。大人が赤ちゃんに話しかける時に前かがみになったり、おかしな顔をすることで赤ちゃんの視界のズレは解消されているのかもしれません。

原色だけを認識

赤ちゃんは明るくてハッキリした色のおもちゃを好みます。中には大人の目には刺激が強すぎるようなものも。これは赤ちゃんの目がコントラストのハッキリしたものによく反応するからです。赤ちゃんは色彩感覚が十分ではありません。そのため最初は鮮やかな原色だけを認識します。微妙な色の違いを認識できるようになるまでには数年かかります。

音にはエコーが

一方、赤ちゃんの聴覚はかなり発達しています。生まれた時には内耳はすでに完全な状態です。お腹の中で聞いていた音も分かり母親の声も認識できると考える研究者もいます。しかし、両耳から入ってくる音のわずかなズレを脳が処理できるようになるまでは、どんな音も小さなエコーがかかったように聞こえます。大人が高い声で同じ言葉をゆっくりと繰り返しながら話しかけると赤ちゃんが聞きやすくなると考えられています。

車のエンジン音が好き

赤ちゃんはかなり大きな音も平気です。お腹の中では母親の心臓の音が約90デシベル、スポーツカーのエンジン音と同じくらいの音量で響いていたからです。

脳は眠らない

生まれてから3ヶ月の間、赤ちゃんは1日に約16時間寝ます。しかし、脳は眠っていません。赤ちゃんは大人の2倍近く夢を見ることが分かっています。夢を見ることでその日体験したことを脳が分析しているのです。また赤ちゃんの眠りは大人ほど深くないことも明らかになりました。眠っていても音を聞き、周りにいる人の気配を感じ取っています。赤ちゃんが眠るのは夜とは限りません。しかも眠りは長くは続きません。赤ちゃんにはそもそも暗くなったら寝て朝になったら起きるという感覚がないのです。しかし絶えず押し寄せる新しい情報を脳が処理するには睡眠が欠かせません。

未完成な脳

赤ちゃんの時に経験したことは全て脳の形成に影響を与えます。脳が発達していく過程で赤ちゃんが不思議な反応を示すことがあります。赤ちゃんの脳の一部が異常な動きをするためです。大きなサイレン音を聞いた赤ちゃんはそれを指先で感じているのかもしれません。電光掲示板の明るい光を見て鼻で感じ取ったかもしれません。こうした反応は脳の各部分の役割がまだ定まっていないことが原因で起こります。一見、弱点のように思われますが実は赤ちゃんの脳がどんな状況にも適応できることを意味しています。

順応性の高い脳

脳の順応性が大きな困難を乗り越えさせたケースもあります。トーマスは生後3ヶ月の時に重いてんかんと診断されました。1日に100回もの発作を起こすため両親は片時も目を離せませんでした。検査の結果、トーマスの脳は腫れ上がり片方が歪んでいることが分かりました。薬では発作を抑えられなかったため手術で脳の一部を切除することになりました。赤ちゃんの脳は生まれて間もないほど順応性があります。脳の一部を切除したあと、残った部分をうまく機能させるには一刻も早く手術する必要がありました。トーマスはすぐに手術を受けました。トーマスは脳の半分を失い後遺症が少し残りました。しかし、もし大人の患者がトーマスのように脳の一部を失ったとしたらずっと深刻な結果になっていたはずです。手術以来、トーマスの発作はおさまり一家の生活は大きく変わりました。今、トーマスは同じくらいの年代の子供と変わらない発達を見せています。これからは穏やかな生活を送れるでしょう。

大人より多い骨

柔軟な脳で周りの世界を理解し始めると赤ちゃんは次のステップに踏み出します。周りのものを探り始めるのです。この頃から赤ちゃんは様々な動きをし始めます。触る、食べる、這う、歩く、こうした動きを可能にするのが骨です。赤ちゃんの骨は大人よりも柔らかく、数も0歳では約100個、2歳でも約70個多くあります。例えば頭の骨は狭い産道を通れるように5枚にわかれ変形できるようになっていますが、成長と共につながります。手首や足首などの骨は生まれた後に現れてきます。新生児には膝小僧もありません。膝の軟骨が骨になるのは数年後。転んだり歩く練習などの刺激を受けることで形成されます。

はやい成長

赤ちゃんは驚くほど速く成長します。体重は1年で約3倍に。身長は約1.5倍になります。急激な成長には莫大なエネルギーが必要です。それを支えるのが母乳です。母乳に含まれる脂肪は赤ちゃんの脳の成長に欠かせません。電線を覆うゴムのように新たに結合した脳細胞を包み守ります。しかし、次第に母乳で得られるカロリーだけでは足りなくなります。生後6ヶ月の赤ちゃんは大きさは大人の10分の1ですが、必要とするカロリーは大人の3分の1です。離乳食を食べ始める時期、赤ちゃんはカロリーの高い甘いものを好みます。苦いものは生まれつき苦手です。母親が妊娠中に食べていたものは赤ちゃんも好きなようです。間もなく赤ちゃんは何でも口に入れるようになります。赤ちゃんの手の届かない所にモノを移動する必要がある時期です。食べ物で遊ぶのは親にとって悩みの種かもしれません。しかし、最近の研究から赤ちゃんは汚く食べ散らかすほど学ぶのが速いことが分かってきました。固体か液体か、あるいはその中間か、区別する訓練になるためです。

学習する危機

周囲を探索する時期は危険と隣合わせです。触っても安全かどうかは試行錯誤しながら学んでいきます。しかし、中には本能的に避けるものもあります。多くの赤ちゃんは植物を嫌います。毒やトゲのある植物から身を守るための進化の結果だと考えられています。子供に葉物野菜を食べさせるのが大変なのもこれで説明がつくかもしれません。しかし生まれたばかりの赤ちゃんは動物を恐れません。何を恐れるべきかは経験や大人から学んでいくのです。

好奇心と行動力

旺盛な好奇心によって赤ちゃんは生後9ヶ月くらいになるとさらなるステージに踏み出します。這うことを始めるのです。赤ちゃんは大人を真似ることで多くのことを学びます。しかし這うことは別です。大人が這う姿は滅多に目にしないため、どう這うかは自分で考えなくてはいけません。そのため初めて這う時には様々なスタイルが見られます。多くの赤ちゃんは1歳をむかえるまでに標準的な這い方を覚えます。そして2歳になる頃には移動距離はのべ100km以上にも達します。自由に動けるようになった赤ちゃんは危険なことをしかねません。落ちたら死んでしまうような高い場所にも這っていきます。しばらくすると慎重になることを覚えます。理由は分からなくても安全と思えないものは避けるようになるのです。赤ちゃんはそれぞれのペースで座り、這い、歩きます。筋肉が増え、骨が硬くなってくるといよいよ足で立つ時がやってきます。そして一歩あるき始めるともう後戻りすることはありません。初めはうまく歩けず転ぶことが多くても足で動きたいという欲求は止まりません。それはどんな状況でも変わりません。

欲求が引き出す能力

ジョージーは11週早く生まれたため、しばらくの間病院に入院していました。そして1歳になる頃、脳性麻痺と診断されました。それが原因で足が硬くなり、体が硬直して動きづらくなっています。両足で立ちたいという生まれながらの欲求は簡単に抑えられるものではありません。母親のクレアは水の力を借りればジョージーの歩きたいという欲求を叶えられるかもしれないと助言を受けました。水の中だと普段は硬い筋肉も柔らかくなり動こうという気持ちに体が素直に応じます。そしてプールに通い始めて2ヶ月、ジョージーは立てるようになりました。

歩くメカニズム

イギリスのオックスフォード大学の研究施設では赤ちゃんの歩き方について研究しています。赤ちゃんの動きを細かくデータ化することで赤ちゃんがどのように歩いているか調べています。研究から赤ちゃんがよちよち歩きをするのは体のバランスをとるためだと分かりました。酒に酔った時のちどり足と少し似ています。やがて赤ちゃんは歩くことに慣れ、行動範囲を広げていきます。

自我の目覚め

将来、大人の世界で生きていくにはもう一つ身につけなければいけない大切な能力があります。コミュニケーション能力です。最新の研究から赤ちゃんは大人が思う以上にコミュニケーション能力を持っていることが明らかになってきました。2歳頃までは体の動かし方を覚えるのに精一杯のように見える赤ちゃんですが話すための準備も着々と進めています。赤ちゃんは母親のお腹の中にいる時から声を聞いていて、生まれてすぐに母親や家族の声を聞き分けられると考える研究者もいます。赤ちゃんのコミュニケーションは泣くことから始まります。やがて、より疲れない方法でコミュニケーションを取るようになります。笑顔です。赤ちゃんがニッコリ笑顔を見せるのは本能によるものです。じきにクスクス笑ったり声を出して笑ったりするようになります。赤ちゃんは1日に約300回微笑みます。しかし人生は楽しいことばかりではありません。1歳半頃になると赤ちゃんは人生最大の発見をします。自分です。鏡に写る自分の姿を認め自我に目覚めると、やがて難しい局面が訪れます。癇癪です。世界が自分を中心に回っていると信じてきた赤ちゃんは次第に他人の気持ちをおしはかることを覚えます。人生において大切な能力です。

まだオムツをしている赤ちゃんでも大人のようなふるまいをすることがあります。赤ちゃんは生後3ヶ月ですでにいろいろなタイプの人間がいることを認識します。自分の助けになってくれる人には報いようとし、もう少し成長すると助けてくれない人を懲らしめようとすることもあります。人の気持ちを理解し慰め、苦しみを分かち合おうとします。

あらゆる言語を習得可能

言葉を話せるようになる前の赤ちゃんでも周りの状況をかなり理解していることが最近の研究から分かってきました。子供が言葉を覚えるのが速いことは分かっていますが、どうやって覚えるのでしょうか?大人は母国語を構成する音しか認識できませんが、生後半年の赤ちゃんは世界中の言語を構成するあらゆる音の違いを聞き分けると言われています。赤ちゃんはどんな言葉でも覚えられるように生まれてくるのです。言葉の習得は音ではなく形から始まります。赤ちゃんは言葉を覚える時に大人の口を見て、それをゆっくりと自分の口で真似します。一つの単語を話すだけでも70以上の筋肉を正確に動かすことが必要です。初めはきちんとした言葉にはなりませんが、抑揚をつけて大人の会話を真似ます。赤ちゃんの発する声が実は意味をなしているかもしれないことが研究によって分かってきました。

話せなくても周囲を理解

2歳になったばかりの双子のフィンとエラはよく2人でコミュニケーションをとっています。声ではなく手話を使っています。2人の両親は耳がほとんど聞こえません。そのため2人も自然に手話を使うことを覚えました。赤ちゃんは実際に話せる3倍もの言葉を理解しているという研究結果もあります。話すことを覚える子供と同じように2人は手話を見て真似、徐々にそれを繋ぎ合わせていきました。2人は今、言葉を声に出してコミュニケーションをとることも学んでいます。2人は多くの赤ちゃんが話せるようになる前にコミュニケーションをとる方法を覚えました。話せるようになる前でも赤ちゃんは多くのことを理解しています。大人は言葉には注意した方が良いかもしれません。

単語だけだったのが文章を話せるようになると赤ちゃんの生活は一変します。感じていることを言葉で直接伝えられるようになるからです。個性があらわれて視野も広がり本当の意味での人生が始まります。

SECRET LIFE OF BABIES(イギリス 2014年)



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