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折々の記 2016 ④
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 04 】05/01
05 01 スーチー氏がなった国家顧問ってなに? (いちからわかる!)
05 01 若宮啓文・朝日新聞元主筆死去 アジア共生、挑んだ「闘い」
若宮さん死去、中韓関係者も惜しむ 友好交流に尽力
05 02 武器輸出、禁輸緩和2年 大手尻込み、政府と温度差
脱原発の哲学 (書評)
05 01 (日) スーチー氏がなった国家顧問ってなに? (いちからわかる!)
昔観た「ビルマの竪琴」や母から聞いたインパール作戦の結末、傷病兵看護のお手伝いをしてくれたカレン族の優しい女性たち。
ビルマと聞けば昨日のようにこうしたことが目に浮かぶのです。 そのビルマがミャンマーとして軍政の国家となってからは、いい印象はありません。
民主化の波を受けて、スーチーさんがニュースに表れ始めてから、ビルマの国民が救われると感じ始めていました。 そして、ついに国民の力によって軍政が倒れました。 だが、まだまだ改革していかなければならない多くのことがあるようです。 一歩ずつでもいいから軍政前の国になってほしいと願っています。
2016年4月30日 (いちからわかる!)
スーチー氏がなった国家顧問ってなに?
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12335920.html
【図表】ミャンマー新政権でのスーチー氏の役割
アウンサンスーチー国家顧問、国民民主連盟(NLD)党首、外相など兼任
助言 助言 ▲
▼ ▼ 抵抗?
ティンチョー大統領 ミンスエ副大統領
スーチー氏側近 旧軍政トップの腹心
・ヘンリーパンティーユ ・国防閣僚
副大統領 ・国境閣僚
・NLD系閣僚 ・内務閣僚
民主化勢力 旧軍政勢力
▲ ▲
支持 その他、欠員 支持
NLD議席議席 381 78議席 39議席 軍人議席 166
- 選挙あり 選挙なし -
◆ 憲法(けんぽう)規定(きてい)で大統領になれず新設(しんせつ)した。政権の実権を握る
アウルさん ミャンマーで、与党(よとう)・国民民主連盟(NLD)のアウンサンスーチー党首が「国家顧問(こもん)」になったそうね。
A 役職の任期(にんき)は、新しくできた政権と同じ5年間で、正副大統領や閣僚(かくりょう)、省庁など国の機関に助言し、連携(れんけい)しながら仕事をする権限(けんげん)を持つ。昨年11月の総選挙で大勝し、国会の過半数を握(にぎ)ったNLDが政権発足早々、国家顧問を置く法案を可決したんだ。
ア 設(もう)けた理由は?
A 軍事政権下の2008年に制定された今の憲法(けんぽう)では、スーチー氏は大統領になれないからだ。「外国籍(せき)の家族がいる人物は大統領になれない」という定めがあり、亡夫や息子が英国籍の彼女(かのじょ)に当てはまる。
ア スーチー氏は総選挙のとき、政権の座に就いたら、自ら実権を握ると話していたね。
A そう。「大統領より上に立つ」と言っていた。選挙で勝利後、半世紀あまり政治の実権を握ってきた軍と水面下で交渉(こうしょう)。自身が大統領になれる方法はないか探っていたが、うまくいかなかった。だから、側近(そっきん)のティンチョー氏を大統領にしつつも、法的に大統領にも指図(さしず)できる力を自らに持たせたんだ。国家顧問とは別に、外相と大統領府相も兼務(けんむ)しているよ。
ア 軍はどう思っているのかしら?
A 法案の審議(しんぎ)では、選挙なしで国会の議席の4分の1を割り当てられている軍人議員団が、「大統領顧問」と修正(しゅうせい)するよう求めた。権限を制限しようとしたようだが、NLDは原案のまま可決した。軍人議員は強く反発している。
ア 軍に気配りしなくて大丈夫なの?
A NLDはスーチー氏が絶大な力を持ち、国会運営もその意向(いこう)に基づくと考えられる。「数の力」で軍の意見を無視するようなことが続けば、対立が高まりかねない。(五十嵐誠)
05 01 (日) 若宮啓文・朝日新聞元主筆死去 アジア共生、挑んだ「闘い」
報道関係で活躍している方々にとって、できる限りの最高の目標を心の中に確立しなければならない。 多くの国民にとって新聞が持つ一つひとつのニュースや解説の中に、読む人の各自が自分の中に間違いのないニュースとして判断していくことが多いからです。 明治の初めに見られた日本の将来を築こうとして活躍した若者が貫いた性根の剛直さを、今でも大事にしたいと私は願うからです。 この剛直さの精神は、日本人の多くの人たちに深く受け継がれているものとおもいます。 表面は穏やかで優しくもてなしの心に見受けられようが、心の奥深くに道義を重んじた先人の剛直さを私たちも堅持していたいのです。 世界や国がどのように変化していこうが、個人の願いを曲げてはならない。
2016年4月30日 ▼3面
若宮啓文・朝日新聞元主筆死去
アジア共生、挑んだ「闘い」
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12335910.html
日中韓3カ国のシンポジウムに出席するため滞在中の北京で死去していたことが28日わかった若宮啓文(よしぶみ)・朝日新聞元主筆(68)は、過去四半世紀、日本の言論を牽引(けんいん)してきた論客の一人だった。
特に、小泉内閣から第1次安倍内閣の時期を含む5年7カ月の論説主幹時代(2002年9月~08年3月)は、本人が回想録「闘う社説」で振り返ったように、「闘い」の名にふさわしい論陣を張った。
小泉首相の靖国参拝には、歴史をめぐって東アジアに悪循環を助長しているとして批判。米主導のイラク戦争には正当性のない「予防戦争」だと異議を唱え、自衛隊派遣にも反対した。ナショナリズムが高まり、言論界が日米同盟強化に大きく振れていた。今に通じる時代状況だが、あのとき言論の多様性を重視し、東アジア共生の道を模索しようとした若宮さんの役割は大きかった。
その「闘い」は決して硬直した言論戦ではない。
立場の異なる論客と対話し、新たな視点で「解」を模索した。政治部長時代、改憲論の中曽根、護憲論の宮沢両元首相の対談を実現させ、保守内部で様々なニュアンスに富む憲法論があることを浮かび上がらせた。
憲法論では対極にある渡辺恒雄・読売新聞主筆と、首相の靖国参拝反対で共同歩調をとったこともある。
若宮さんは、憲法9条の堅持を唱えながらも、新たな法制で自衛隊を法的に位置づける必要性も認めた。安全保障における日米同盟の意義を評価する点では、自民党ハト派の論調に近かった。
「やわらか頭でとんがろう」が口癖だった。思考は常に柔軟に、しかし、もの申すときは、ひるまずに正面から挑んだ。
その果敢なスタイルが、論争や反発を生んだこともある。例えば、日韓ワールドカップ共催論を打ち出したとき、日韓が領土問題でぶつかる竹島について、「夢想」と断った上で韓国への譲渡という案を論じたとき、がそうだった。
若宮さんは、ジャーナリストとして二つの優れた資質を持ってきた。ひとつは鋭敏な人権感覚だ。長野支局時代に被差別部落問題に出会った。結婚、就職など生活のあらゆる面に根を張る差別に苦しむ人々の姿は、20代の若宮さんの心を揺さぶった。地域面に9カ月間160回のルポを連載した。生涯を貫く原点だ。
もうひとつは、テーマを掘り続ける根気だ。80年代初頭、軍事政権下のソウルに語学留学した。植民地支配に対する恨みや反日感情に戸惑いながらも、領土や歴史が絡み合うナショナリズムを超える道を考えた。なぜ日本の保守は、過去と向き合うことがむつかしいのか。関心は中国を含むアジアへと広がっていく。
主筆引退後、さらにこのテーマに没頭する。再度の留学で韓国語を学び直し、保守のアジア観に関する著書を改訂した。だが東アジアの和解は一向に進まず、対立はやまない。若宮さんの「闘い」は続いていた。その途上の悲報だった。(編集委員・三浦俊章)
■親友として敬愛していた
渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長・主筆の話 突然のことで驚いた。シンポジウム出席のために訪れた北京のホテルで亡くなったとは、言論人としての壮絶な戦死だ。
シャープで、雄弁で、筆が立った。親友として敬愛していた。突然の死に、がっかりしている。
我々はともに政治記者を経験し、主筆という同じポストにいた。彼は私より22歳若いが、年の差を感じたことはない。よく論争もしたが、それもいいことだと認めあっていた。
安全保障では立場が違ったが、お互い本質はリベラリスト。論争では半分一致し、半分一致しないぐらいだった。私はA級戦犯をありがたくまつる靖国神社への首相参拝には反対だ。その点、彼と同じだった。
もう少し長生きしてほしかった。というのも、直接聞きたかった話があるからだ。彼はロシアのプーチン首相との記者会見(2012年)で、北方領土問題で「引き分け」との発言を引き出した。そのいきさつを聞ければ、これから安倍晋三首相とプーチン大統領がどういう会話をすればいいのかという教訓にできた。日韓関係についても、もっと話を聞ければよかった。
■現実に根ざしたリベラル
ジェラルド・カーティス米コロンビア大名誉教授の話 あまりにも突然で信じられない。日韓、日中の関係改善のため、東京、ソウル、北京を走り回り、必死に努力していた。
20年来の大切な友人だ。彼は筋が通っていた。考え方に一貫性があって、ぶれない。客観的にモノを見ていたから、意見が合わなくても話ができる。
良いところは認め、悪いところは批判した。まじめな人だったと思う。
米国からはわかりにくい日本の保守のアジア観についても、単純な右翼の見方と切り捨てず、その矛盾した、複雑な実像を正確にとらえようとしていた。
現実に根ざしたリベラルだったのだろう。憲法改正には反対だったが、自衛隊の存在を決して否定しなかったし、国連の活動に参加するのは当然だと。ただ、それは憲法の枠内でできるという考えだった。
■日韓の懸け橋として活躍
河野洋平・元衆院議長の話 自分の主張を誠実に伝え、はぐらかしたり、変に妥協したりしなかった。
特に日韓関係についてはそうで、日韓の懸け橋として活躍された人が亡くなるのは両国のためにも本当に残念だ。中国からも非常に信頼されていた。
私はサッカーの2002年日韓ワールドカップを決めるころに外相だったが、若宮さんから色々とヒントをもらった。最後まで(主催国を)争っていた中で、一緒に主催したらいいという話をした。若宮さんとは双方の父親の代から2代にわたる非常に古い付き合いで、昵懇(じっこん)の仲だったから。リベラルな立場を貫く姿勢に、いつも共感し、色々と啓発された。心の友を失った気持ちだ。信じられない。
日本の政治状況がこれまでと違った方向に行きそうだと心配して、評論活動を進められていた。もっと活躍してもらわないといけない人だった。▼国際面=中韓からも哀悼
◇ 鄭求宗(チョングジョン)・韓国東西大学客員教授(韓日文化交流会議委員長)の話 若宮啓文氏の急逝は、韓国社会に大きな衝撃を与えた。日韓関係を大切にした日本の知識人の逝去は信じられないし、今も信じたくない。
若宮氏はコラムや論評を通じ、いつも円満な日韓関係のために尽力してきた。2002年のサッカー・ワールドカップ日韓共催を提案した朝日新聞の社説は、その実現に大きく寄与した。05年3月のコラム「風考計」で独島(竹島)について「いっそのこと島を譲ってしまったら、と夢想する」と書いたことも少なくないインパクトを与えた。
若宮氏は、日本の政府や政治家だけを厳しく批判していたわけではない。韓国有力紙の東亜日報に連載したコラム「東京小考」では、韓国の朴裕河(パクユハ)・世宗大学教授の著書「帝国の慰安婦」をめぐる裁判を取り上げ、(起訴を批判して)韓国に対して言論の自由と著者の立場に理解を求めた。
私は若宮氏が1981年に語学研修でソウルに来て以来、兄弟のような友情で結ばれてきた。若宮氏は勇気と所信に徹した言論人として愛されただけでなく、日韓関係の長い歴史の中でいかに生きていくべきかを教えてくれた。
若宮氏は韓国の文化をも愛し、歌手・趙容弼(チョヨンピル)氏の歌「恨(ハン)500年」を覚えて、しばしば愛唱した。正確な発音による熱唱は、韓国の友人を感動させた。
今のような長寿の時代に若宮氏は早世したが、残した足跡は大きい。日韓の新しい未来は、彼が抱いた夢を見るように前に進んでいくと信じる。私たちは、そのために努力していくべきではないかと思う。
若宮兄。安らかにおやすみなさい…。
2016年4月30日 ▼国際面
若宮さん死去、中韓関係者も惜しむ
友好交流に尽力 権力監視、他国へも
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12335992.html
訪問先の北京で死去した朝日新聞元主筆、若宮啓文さん(68)がゲストとして出席予定だった「日中韓公共外交フォーラム」が29日、北京で開かれ、北東アジア3カ国の関係強化や人的交流に貢献してきた若宮さんの突然の死を惜しむ声が相次いだ。▼3面参照
主催した中国公共外交協会会長の李肇星・元中国外相が冒頭、「若宮氏は一貫して中日の友好交流と中日韓の協力に尽力してきた」と、功績をたたえた。基調講演した二階俊博・自民党総務会長は「中韓の皆様が若宮氏の生前の活躍ぶりを高く評価し、深い哀悼を示してくださったことを日本に伝えたい」と述べた。
フォーラムは日中韓の対話促進を目指して開かれた。出席者で、若宮さんと交流の厚かった趙啓正・元中国国務院新聞弁公室主任(閣僚級)は朝日新聞に「中日関係についてインタビューを受けた時、両国関係への的確で深い理解と関係改善を望む強い気持ちが印象に残った」と振り返った。
若宮さんと親交が深い鄭求宗・韓国東西大学客員教授(韓日文化交流会議委員長)は、北京入りする前にソウルで会っていた。若宮さんが「日本の政府や政治家だけを厳しく批判していたわけではない」として、韓国の朴裕河・世宗大学教授の著書「帝国の慰安婦」をめぐる裁判を取り上げ、韓国に対して言論の自由に理解を求めたことを挙げた。 (北京=林望、ソウル=牧野愛博)
05 02 (月) 武器輸出、禁輸緩和2年 大手尻込み、政府と温度差
戦争放棄を謳っている日本国憲法に照らし合わせてみれば、武器の購入はもちろんのこと、武器の製造、輸出を許してはならないことは当然のことです。
私は教壇に立ってから、軍隊じしんすら認めてはいなかった。
ことに安倍政権になってからというものは、公然と戦争のにおいを打ち払って臨戦態勢をとるような動きを見せ始め、何とも言いようのない腹立たしさを感じています。
殊に安倍晋三自身の兄弟が「死の商人」そのままの大企業に籍を置いていることを思うと、日本人としての道義を踏み外し戦前の軍事態勢復帰を思わせます。
決して許していいはずはありません。
2016年5月1日 4面
(変わる安全保障)武器輸出、大手尻込み 禁輸緩和2年、政府と温度差
(変わる安全保障)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12337295.html
【図表】「ユーロサトリ」と主な日本企業の出展
企 業 武器など戦争装備の製品 2014年出展 2016年出展 三菱重工業 戦闘機、戦車、潜水艦、護衛艦など 〇 × 川崎重工業 潜水艦、ヘリコプター、ミサイルなど 〇 × 日立製作所 情報処理システム、ソナーなど 〇 × 東芝 ミサイル、レーダーなど 〇 × 富士通 情報通信システムなど 〇 × NEC レーダー、情報通信システムなど 〇 〇 池上通信機 監視カメラなど 〇 × 藤倉航装 パラシュートなど 〇 〇
安倍政権が、長く続いた日本の武器禁輸政策を緩和して丸2年がたつ。オーストラリアの次期潜水艦をめぐる国際受注競争の敗北は、意気込む政府や企業の出ばなをくじいた。海外で武器を売ることがいかに難しいか。政府の勇ましい掛け声とは裏腹に、業界には消極ムードさえ漂っている。
◆ ブランド力皆無、商機なし
パリ郊外の広大な会場に装甲車や砲弾などがひしめき、最新装備を身につけた迷彩服の兵士が模擬戦闘を披露してみせる――。
隔年に開かれる世界最大級の兵器見本市「ユーロサトリ」。2014年、世界58の国・地域から出展した約1500社にまじり、日本が初めて専用ブースを設け欧州勢の関心を引いた。
防衛・経済産業両省の呼びかけで三菱重工業や川崎重工業、NECなど防衛産業大手8社と中小4社が参加。開発中の装甲車の模型や高感度監視カメラ、無線機などが展示された。
しかし今回は、6月の開催を前に大手6社が参加を見送った。出展料は1千万円近く、「費用対効果が悪い」。14年に自衛隊向けの地雷処理装置を展示した日立製作所は「興味はもたれたが、商機につながらなかった」と話す。
企業側からはこんな声も漏れる。「積極的にやれば『武器商人』と揶揄(やゆ)される」「官の指導もなく勝手に防衛機密にからむ売り込みはできない」
安倍政権は約2年前、武器輸出三原則に代わる防衛装備移転三原則を閣議決定した。旧三原則での原則輸出禁止を撤廃し、一定の条件に沿う輸出を認めるもので、武器輸出の要件を大幅に緩和した。経団連は昨年、武器輸出を「国家戦略として進めるべき」だと提言した。政府や経済団体の旗振りとは裏腹に、大手に退潮ムードが漂うことに、防衛・経産両省の幹部らは動揺を隠せない。
なぜ尻込みするのか。海外の軍需産業に詳しい軍事ジャーナリストの清谷信一氏は「自衛隊だけを顧客に長くぬるま湯的な環境にいた国内企業には、まだ海外の強豪と競争する覚悟ができていない」と見る。
ストックホルム国際平和研究所がまとめた世界の軍需産業の売上高トップ100(14年)に入る日本勢は、三菱重工業(21位)、川崎重工業(50位)、IHI(70位)など5社。
しかし実戦経験のない自衛隊向けが中心で、日本の大型兵器のブランド力は、自動車や家電と違って、まだ皆無に近い。
オーストラリアの次期潜水艦の受注競争をめぐっては、日本が提案した潜水艦は、フランスに敗れた。
武器貿易に詳しい佐藤丙午拓殖大教授は「兵器の取引では、相手の政治経済や社会の事情も十分把握したうえで商談を進めることが重要。メイド・イン・ジャパン神話への過信があったのではないか」と話す。
◆ 中小は積極姿勢
防衛省は今回、出展方針を大きく転換させる。スローガンは「下町ロケット」。中小企業の奮闘を描いた人気テレビドラマにあやかり、日本の「匠(たくみ)」が蓄えた強力な技術力を売り込む戦略へと期待をつなぐ。
防衛装備庁の幹部は「背水の陣で中小にかける」と話す。軍民両用技術や加工技術に優れた5社を選定し、日本政府のブースに出展させる予定だ。
精密ガラス加工「ジャパンセル」(東京都町田市)は前回に続き、1・5キロ先でも新聞が読める強力な携帯型サーチライトを売り込む。防災用に開発したが、空中や海上での夜間捜索など軍用にも使える。「継続することでさらに市場開拓を広げたい」と担当者は意気込む。
軍用双眼鏡を扱う「勝間光学機械」(同板橋区)は、砲弾の着地点をはかれる製品など年間6千~7千個を販売する。防衛省からの受注は10年に1回ほど。双眼鏡には輸出規制がないといい、年商約8千万円の9割以上をサウジアラビアやイスラエルなどへの輸出で稼ぐ。今回の見本市には出ないが、経営する勝間修司さん(78)は「武器輸出の解禁は当然の流れ。市場が国内に限られれば価格は上がる。量産効果で単価が下がれば自衛隊にもいいものを安く提供できる」と話す。
利益につながる中小企業は海外進出に積極的だが、商機に乏しいとみる大手は尻込みしているのが、日本の武器輸出の現状だ。
防衛省の調達部門の元幹部で現在は大手防衛産業に天下ったOBは言う。「政府が優先するのは国の安全保障。民間企業が重視するのは『もうけ』。それぞれの発想の温度差がまだ大きすぎる」(谷田邦一、小林豪)
2016年5月1日 (書評)
脱原発の哲学
佐藤嘉幸・田口卓臣〈著〉
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12337168.html
◆構造的差別の連鎖に終止符を
熊本地震で改めて、原発と地震の関係が注目されている。私たちが活断層から免れられない以上、「地震大国日本と原発は共存できるか」という根源的な問いは避けられない。原発を根底から問い直す本書を貫く大きな主題は、「否認」と「差別性」だ。実際、原発推進の歴史は、原発事故の否認の歴史でもある。石橋克彦による「原発震災」の問題提起に対し、原発の専門家たちは、科学的論拠を示さないまま「起こりえない」と否認し続けてきた。しかし現実には、石橋の警告通りのことが福島で起きてしまったのだ。
事故後も、否認は繰り返される。「プルトニウムは飲んでも問題ない」(大橋弘忠)、「放射能の影響はニコニコ笑っている人には来ない」(山下俊一)といった発言はもはや戯画的だが、いずれも専門家とされる人たちの発言だ。同様に、福島県内で小児甲状腺ガンの発症件数が増加しているが、科学論争を避け、問題を否認しようとする空気が支配的だ。「科学」とはいったい何なのか。著者らはアドルノとホルクハイマーに拠(よ)りながら、科学が健全な批判精神を失い、中立性の名の下に現状肯定と既得権益の擁護に走る様を痛烈に批判する。
こうした科学による否認は、公害問題で繰り返し起きてきた。そして、「構造的差別」もまた、公害問題に通底する大きな論点だ。原発はその存続上、不可避的に幾重もの差別性を帯びざるをえない。つまり、(1)原発立地地域への差別性、(2)原発の下請け作業員に対する差別性、そして、(3)被害地域への差別性である。原発最大の難問である放射性廃棄物の最終処分問題も、最終処分施設の立地地域だけでなく、将来世代に大きな影響を与える。なぜなら、私たちが利便性や経済利益を追求する結果として、危険な放射性廃棄物を10万年もの長期にわたって管理する必要を生み出し、それを将来世代に委ねざるをえないからだ。著者らは、ハンス・ヨナスの「未来世代への責任」概念を媒介にしてこれを、将来世代への構造的差別と規定する。もんじゅという座礁しつつある核燃サイクル技術の延命策もまた、巨額の税金の浪費を生み続ける点で、将来世代への新たな構造的差別に他ならない。
こうした問題を解決するには、国民投票に基づいて、一刻も早く脱原発に舵(かじ)を切るべきだと著者らは結論づける。それは、集権的な官僚統制社会から脱却し、再生可能エネルギー生産に市民が参画する、より分権的で民主的な経済社会への途(みち)でもある。脱原発だけでなく、来たるべき新しい経済社会への展望を切り開いた点に、本書の真骨頂があるといえよう。
評・諸富徹(京都大学教授・経済学)
*
『脱原発の哲学』 佐藤嘉幸・田口卓臣〈著〉 人文書院 4212円
*
さとう・よしゆき 71年京都府生まれ。筑波大人文社会系准教授。フーコーに関する著書、訳書など/たぐち・たくみ 73年神奈川県生まれ。宇都宮大国際学部准教授。ディドロに関する著書、訳書など。