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折々の記 2016 ④
【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/17~     【 02 】04/25~     【 03 】04/27~
【 04 】05/01~     【 05 】05/02~     【 06 】05/04~
【 07 】05/05~     【 08 】05/05~     【 09 】05/07~

【 05 】05/02

  05 02 多数で決めて何が悪い   立憲 対 非立憲
       小選挙区制、憲政の岐路多数で決めて何が悪い   立憲 対 非立憲 : 上
       グローバル企業、法と衝突   立憲 対 非立憲 : 中
  05 02 公共放送としてのNHKの使命   籾井会長の逸脱
  05 02 裁かれた日本の戦争犯罪   (戦後の原点)東京裁判:上

 05 01 (日) 立憲対非立憲 多数で決めて何が悪い?     憲法を考える

憲法記念日と参院選があり、18才からの選挙権もかかわって安倍政権への批判がどう表われるか大事な時期になっている。

国民の政治に対する関心度に世界が注目することだろう。 頽廃的な空気や投げやりな気持ちに流れる人が多くなっています。

なんとか戦後のルネッサンスにしたいものです。



2016年5月2日 ▼1面 憲法を考える
立憲対非立憲 多数で決めて何が悪い?
      論説委員・坪井ゆづ       http://digital.asahi.com/articles/DA3S12338549.html

 「立憲主義って何だ?」

 「これだ!」

 4月29日夜。安全保障関連法の廃止を求める高校生ら約500人のコールが、国会前に響いた。

 これまでの護憲派とは異なるリズム、新しい言葉。

 いま問われているのは護憲か改憲かではない。そんな議論のはるか手前に前提としてあるはずの立憲主義、政府は憲法に従って政治を行わなければならないという「当たり前」が当たり前でなくなっている――立憲に非(あら)ず。こんな現状を許していいのか? そう訴えたくて集まった。

 安倍晋三首相は国会で、憲法解釈の「最高責任者は私」と言い切った。「立憲主義にのっとって政治を行うことは当然だ」と繰り返しているが、本当にそうしているだろうか。

 2014年7月、首相は集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。それまでの内閣が重ねてきた憲法解釈を、ひっくり返した。

 その前年、内閣法制局長官に集団的自衛権の行使容認に前向きな外交官を起用したところから、この流れは想定された。権力者が「法の番人」を自分色に変える。日銀総裁。NHK人事。みずからの力をこれほどためらいなく行使する首相はかつてない。

 権力を分散させて相互間の「均衡と抑制」を図る憲法の考え方からは遠い。

 昨年6月の衆院憲法審査会。参考人の憲法学者3人がそろって安保関連法案を「違憲だ」と指摘した。だが耳を傾けることなく採決を強行した。説得して納得を広げるより、結論ありきで走る政治手法が目立つ。

 数の力がすべてだ。○か×か、多数で決めて何が悪いのか――。ぎすぎすとした政治が広がっている。

 だが、これは安倍政権で突然、始まったわけではない。1990年代から少しずつ、私たち主権者の同意を得て準備されてきた。

     ◇

 これまで憲法は「護憲VS.改憲」で論議されることが多かった。でも、それでは見えないことも出てきている。今回は「立憲VS.非立憲」という新しい「レンズ」で、日本の現在に目をこらしてみる。▼2面=岐路


2016年5月2日 ▼2面 憲法を考える
立憲対非立憲:上 小選挙区制、憲政の岐路多数で決めて何が悪い?
      論説委員・坪井ゆづ、藤原慎一       http://digital.asahi.com/articles/DA3S12338578.html

【図表】小選挙区制導入後の政治の20年
西 暦
内 閣
 政治の動向
1994
細川
 政治改革法成立で小選挙区制導入
96
橋本
 第41回衆院選(初めて小選挙区比例代表並立制で実施)
99
小渕
 周辺事態法など日米・新ガイドライン関連法成立 ⇒それぞれ下記の青丸に対応
 国旗・国歌法成立
 通信傍受法(盗聴法)成立
 改正住民基本台帳法成立
 自公連立政権八足
2000
 第42回衆院選
03
小泉
 第43回衆院選
05
小泉
 第44回衆院選(郵政解散)
06
安倍
 教育基本法改正
09
麻生
 第45回衆院選(民主党政権誕生)
12
野田
 第46回衆院選(自民党政権復帰)
13
安倍
 日銀総裁に黒田東彦氏起用
 マイナンバー法成立
 内閣法制局長官に小松一郎氏起用
 特定秘密保護法成立
14
安倍
 内閣人事局創設
 第47回衆院選
15
安倍
 安全保障関連法成立

 憲法学の樋口陽一東北大名誉教授は4月、東京都内での記者会見で言った。

 「これほど卑しい政治を我々が選び出してきたことを、我々自身が恥じなければいけない」

 熊本地震を受けて、非常時に政府の権限を強める緊急事態条項が、憲法に必要だと主張する改憲派を批判した発言だった。

 いつからこんな政治になったのか。20年前に始まった衆院小選挙区比例代表並立制がひとつの岐路だった。1989年のベルリンの壁崩壊や91年の湾岸戦争への対応で冷戦後の日本の針路が問われた。自民党の金権体質が問われ、二大政党による政権交代可能な政治が求められた。そんな時代の分かれ目に、政治改革論議の結果として導入された制度だった。

 あれから選挙も、国会論戦も劇的に変わった。▼1面参照

 ◆党と党激突、数の力で重要法成立

 小選挙区制で、選挙は政党同士の激突になった。同じ党から複数の候補者が立ち、「個性」も競い合う中選挙区制と違い、党の看板を背負っての決戦だ。勢い、敵か味方かをはっきりさせて、○か×かの選択を迫る展開が増えた。

 同時に複数の当選者があった中選挙区制に比べて、党公認の重みが増した。公認権を持つ党本部に異を唱えづらい体質が強まり、党首の権限が強大化する一方で、党内が単色化した。

 選ばれ方の変化は、国会審議も対決型に変えた。足して2で割る合意形成型の決着が減り、法案の欠陥を指摘されても「数の力」で決着を図るようになった。

 いまの自民・公明連立政権は、政権維持のための「数合わせ」でもあるので、数の力で決することへのためらいは希薄だ。

 この傾向を決定的にしたのが、自公両党が自由党をはさんで連立した99年だ。憲法の理念にかかわる重要法を、3党で次々に成立させた。最大野党の民主党内で賛否が割れるテーマが多く、国の行く末を占う展開に緊張感がみなぎった。

 安保外交面では、周辺事態法を含めた新ガイドライン関連法を通した。日米安保体制が日本や極東の安全を守る仕組みから、米国の世界戦略を支えるものへと変質した。この変質が16年後、集団的自衛権の行使容認へと結びつく。

 内政面では、第1が通信傍受(盗聴)法。当時、小沢一郎自由党党首は「国家的な危機管理という考えが根底にあって成り立つ」と語っていた。その発想の先に特定秘密保護法(13年成立)がある。

 第2は国旗・国歌法。政府は「学校現場への強制はしない」と繰り返したが、実態は違った。いまや「国費も投入されている」との理由で、文部科学相が国立大に国旗掲揚や国歌斉唱をさらりと促している。

 第3は全国民に番号をつけた改正住民基本台帳法。マイナンバー制度導入への足場を固めた。

 少しずつ、社会を管理する仕組みが築かれ、それを多くの人々が受容している。街頭の監視カメラの増え方が、プライバシー保護より街の安全を重視するようになった人々の意識の変化を映し出す。

 ◆小泉劇場、首相権力強まる

 ○か×か。「数の力」の政治を最大限に演出したのが、小泉純一郎首相だ。05年の衆院選で、郵政民営化に反対する議員を「抵抗勢力」に見立てて、「刺客候補」をぶつけた。解散権を握る首相が、小選挙区制とともに導入された政党交付金を手に、公認権も差配すれば「鬼に金棒」。首相の権力を見せつけた。

 小泉劇場に人々が熱狂したのはなぜか。二つの要因がある。一つは強いリーダー待望論。「党首の顔」で戦う小選挙区制には欠かせない。毎年のように代わった首相より、「自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉氏に期待が膨らんだ。

 二つめは官邸の機能が強化されていたこと。90年代から、首相補佐官制度や予算編成の基本方針を決める経済財政諮問会議などを設けて、首相に権限を集めてきた。それを小泉首相は初めてフル活用した。

 そしていま、安倍官邸は内閣人事局をつくって霞が関の人事を掌握し、民間企業の賃上げにも口を出す。

 かつて菅直人首相(当時)は「議会制民主主義は期限を切った独裁を認めること」と言い、大阪市の橋下徹市長(同)も選挙を「ある種の白紙委任」と明言した。託された者の強引さが増してきている。

 「権力は抑制的に使うべし」という穏健な保守思想が揺らいでいる。(論説委員・坪井ゆづる、藤原慎一)

 ◆<視点>立憲主義、私たちの行動しだい

 小選挙区制になってからの投票率は05年の郵政選挙の67・51%と、09年の民主党政権誕生の69・28%が高い。その後の12年は戦後最低の59・32%。自民党は、下野した09年より比例代表の得票を200万票減らしながら政権を奪回した。

 09年と12年の落差が、小選挙区制導入の目的だった「政権選択」への期待感が冷めた実情を物語る。

 14年衆院選での自民党の絶対得票率(棄権者も含む全有権者に占める割合)を見ると、小選挙区は24・49%、比例代表は16・99%だ。明確な支持は5人に1人ほどしかない。

 それでも自民党はいま衆院の6割余を占める。一票の格差問題で最高裁から「違憲状態」と指摘され続ける国会で改憲が語られる不条理とともに、憲法を論じる舞台が民意を反映しきれていない現状に驚く。

 権力の暴走にブレーキをかける立憲主義の精神に背く「非立憲」への流れが加速している。

 「決められる政治」を求めたこの20年、権力に抑制を求める憲法は後景に追いやられた。私たち有権者の多くも、それを問題にはしなかった。そして今、政権は「憲法のくびき」を解こうとしている。

 現行憲法の是非を論じる以前に、「立憲か非立憲か」が問われる事態に立ち至っていることに気づかされ、立ちすくむ。

 立憲主義のもと、憲法が守る個人の尊厳、自由や権利は普遍的なものだ。多数決や時の権力者の都合では変えられない。そもそも憲法は権力を縛るものだ。

 だが、権力者が立憲主義を打ち壊して「非立憲」にしても罰則はない。私たちが黙認すれば、そのまま行く。そのことに気づいたからこそ、人々は街頭に出て声を上げ始めた。立憲主義を守るのも、手放すのも、私たちの行動しだいだ。(藤原慎一)


2016年5月3日 (憲法を考える)
グローバル企業、法と衝突
      立憲 対 非立憲 : 中
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12339783.html

【図表】この四半世紀、グローバル化と格差拡大が進んだ 1991 バブル経済崩壊 93 円高、「1㌦=100円時代」に。 工場の海外移転も進む 99 人材派遣の対象業務が原則自由化 2001 小泉政権発足、「構造改革路線」始まる  ■突然のリストラ、無効判決

 かつて駐車場だった敷地は、縦横に走る白いフェンスで分断されていた。

 滋賀県にあるJR琵琶湖線の野洲(やす)駅から徒歩2分ほど。東京ドーム五つ分の敷地に「京セラ」「オムロン」の工場群が広がる。

 ひと昔前まで、ここは大型コンピューターを一貫生産する日本IBMの野洲事業所だった。米IBMは2000年代、製造業からサービス業にかじを切り、日本でのものづくりから撤退した。一時は約2千人の従業員がいた野洲も、複数の会社に切り売りされた。

 国境を越え活動するグローバル企業は、拠点とする国を選ぶ時代になった。円高の定着で日本でのものづくりは、最先端の製品が中心となった。野洲からの撤退は、米IBMが中国など新興国向け市場を強化しようと、世界の運営体制を見直した時期と重なる。

 「IBMの逃げ足は早かった」。同社との液晶の合弁会社を野洲などに置いていた東芝の元幹部は、振り返る。「終身雇用を日本で捨てるとは思わなかった」。日本IBMはその後、大規模なリストラに踏み切る。

 「明後日の金曜の夕方、面談したい」。東京本社で働いていた男性(60)に、所属長からメールが届いたのは、13年6月のことだ。すぐに「危ない」と感じた。金曜に解雇予告されるケースが多かったからだ。

 男性は技術者として野洲事業所に入ったが、営業をサポートする部門に配置転換され、上司から「こんなこともわからないのか」と言われていた。金曜は面談に出ず退社すると、翌日には自宅に速達が届いた。「12日後に解雇する。ただし、自主退職するなら撤回する」「出社を禁じる」。理由には「業績が低い」とあった。

 男性は同僚らと無効を求めて会社を提訴した。東京地裁は今年3月、「本人の適性にあった職種転換をしなかった」などと、男性ら5人の解雇無効を認める判決を出した。控訴審はこれからだ。約50人が会社の解雇予告を受けたとされるが、訴えたのは12人にとどまる。

 安倍政権では、解雇不当とされた働き手に対し、会社がお金を払えば退職させられる「金銭解決制度」の導入が検討されている。導入を要望している経済同友会の冨山和彦・副代表幹事(56)は「金銭解決制度は欧州の主要国にあるし、米国でも認められている。日本の労働法制は独特で、ガラパゴス化している」と語る。

 多国籍展開するグローバル企業にとって、国ごとに異なる法制度は障壁になりやすい。経済界からは「面倒な国なら海外に出ていけばいい」という声も聞こえてくる。企業から国が選ばれる時代となり、日本は労働法制を緩和し、法人税率を下げ、金融緩和による通貨安競争で、産業の競争力を高めようとしている。

 そこには、国民の権利を守る立憲主義とは無縁の世界が広がる。個人の人権のよりどころは憲法しかない。だが経済合理性は、それをも飛び越えていく。

 自民党の憲法改正草案前文には、こう記される。

 「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」

 安倍政権は「世界で一番企業が活動しやすい国」を掲げる。憲法改正もまた、その延長線上にあるようにみえる。

 ■原発は「公」? 人権と折り合いは

 経済同友会の「憲法問題調査会」が03年に出した意見書がある。

 「『自由』『権利』の名の下に、『公』の概念を否定的にとらえる風潮への懸念がある」。人権を制限できる条件として現行憲法が掲げる「公共の福祉」の概念を明確にするため、「どのような条件で権利が制限されうるのか明記する」と提案している。

 自民党憲法改正草案も「公共の福祉」は意味が曖昧(あいまい)だとして、「公益及び公の秩序」に置き換えている。

 経済界にとって、人権と折り合いをつける「公」とは何だったのだろう。

 同友会の調査会委員長を務めた高坂節三・元伊藤忠商事常務(79)によると、70年代の石油危機で原油価格が高騰した教訓から、輸入に頼るエネルギー源を多様化する必要性が叫ばれていた。最も期待されたのが、原子力だった。

 だが、原発立地への地元住民からの風当たりは厳しく、「どこの電力会社も地元対策で大変だった」と高坂氏は振り返る。「原発をつくろうとすると激しい反対運動が起きた。原発のエネルギーは日本の国を守るために必要だった。エネルギー政策は、いわば『公』でしょう」

 東日本大震災による東京電力福島第一原発事故から5年。原発の再稼働に対する司法判断は分かれる。

 「なぜ一地裁の裁判官によって、国のエネルギー政策に支障をきたすことが起こるのか」。関西経済連合会の角和夫副会長(阪急電鉄会長)は今年3月の会見で、「憤りを超えて怒りを覚えます」と語った。

 この直前、大津地裁は関西電力高浜原発3、4号機の運転差し止めを命じた。「三権分立」を忘れたかのような発言の真意をたずねるため、角氏に取材を申し込むと、文書で回答があった。「発言は三権分立に言及したものではないが、司法判断が分かれることによる社会への影響は大きい」

 再稼働による電気料金の値下げで、阪急電鉄だけで年間5億円の鉄道事業のコスト減を見込んでいた。関西にはパナソニックやシャープ、中小企業の集積地がある。「関西全体ではかなり大きな影響になる」

 2年前、関電大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じた福井地裁の判決には、こうある。「多数の人の生存に関する権利と、電気代の高い低いの問題などを並べて論じること自体、法的には許されないことである」

 公共の福祉には、国民の幸福や健康といった概念も含まれ、「社会全体の利益」と言い換えられることもある。守るべきは「公」だけではない。経済が優先されるあまり、憲法が保障する国民の権利は忘れ去られてはいないだろうか。

 ■最低賃金、先進国でも下位

 「♪最低賃金 1500円 上げろ」。ラップ調のリズムに乗り、都留文科大2年の小林俊一郎さん(19)が、集まった約700人の聴衆に語りかける。

 今年3月、学生や労働者でつくる「エキタス」の街頭宣伝が、東京・新宿のアルタ前であった。安倍政権が掲げる時給「1千円」を上回る最低賃金引き上げを求め、昨秋から都内でデモや街宣活動をしている。

 「最低限度の生活を保障する憲法25条は守られていると思いますか」。生活困窮者を支援するNPO「もやい」の大西連理事長(29)も問いかけた。

 25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

 小林さんが格差の問題に関心をもったのは、中学3年のとき。リーマン・ショック後の米国で、失業問題に抗議する「ウォール街を占拠せよ」という運動が広がっている様子を、雑誌でみてからだ。

 大学に入り、安保法制に反対する学生団体「SEALDs(シールズ)」などのデモに参加しながら、仲間たちとラテン語で「正義」を意味するエキタスをつくった。

 日本の最低賃金は先進国でも最低水準だ。長引くデフレや円高による国際競争の激化、人件費の安い海外から安価な製品が流入し、企業が人件費を抑えたことが背景にある。日本では、企業側の支払い能力を優先して決められている、との指摘もある。

 最低賃金が時給907円と最も高い東京でも、月収は約14万5千円。最低の沖縄や鳥取など4県の693円だと、月約11万1千円にしかならない。大西さんは「フルタイムで一生懸命働いても、給料だけでは生活できない」と話す。

 小泉政権による構造改革が進んだ約10年前は、「年収300万円時代」といわれた。派遣社員が増え、格差問題に光があたり始めたころだ。国税庁の調査によると、年収200万円以下の給与所得者は、14年には約1100万人に達した。安倍政権が掲げる時給1千円でも、年収200万円にはわずかに届かない。

 エキタスの小林さんはいう。「時給1500円でも年収は約290万円に過ぎないが、生活は少し楽になる。経済成長して分配するのではなく、まずは分配しないと成長できない」

 米国でも最低賃金引き上げを求めるデモが起こり、大統領選では民主党の候補者指名を争うサンダース上院議員が最低賃金15ドル(約1600円)を掲げる。グローバル化がもたらす格差に対抗する動きも、世界の潮流になりつつある。

 リストラや格差は日常的な光景となり、私たちの意識の底に沈みがちだ。憲法にある「公共の福祉」「最低限度の生活」の意味を問い直す。当たり前の権利を取りもどすためにも、もう一度、そこから始めるしかない。

 ■<視点>憲法の力借り、政治動かす覚悟

 経済のグローバル化は、それぞれの国を市場を通して結ぶが、国のかたちをつくる憲法は越えていく。

 国境を行き交うお金や人を呼び込むには、同じルールで結ばれた市場が必要だ。魅力ある市場にしようと、国は他の国より有利なルールをつくろうとする。その過程で、国民の権利を守る立憲主義と時に衝突する。

 日本より早く金融市場の開放などを進めた英国では1990年代、保守党政権下で最低賃金制度を廃止した。最賃制度という規制があると、企業の自由な競争を妨げるという考え方からだ。しかし、賃金の低下を招き、労働党政権によって復活している。

 日本ではどうか。昨年改正された労働者派遣法はこれまで、国際競争にさらされる企業に都合のいいように変えられてきた。中国など低賃金の国に対抗するあまり、日常で格差を感じる水準にまで、賃金は低く据え置かれてきた。

 一国の枠組みを決める憲法は、国境にとらわれない市場の前では「無力」なのだろうか?

 行き過ぎたグローバル化から、国民を守るのは政治の役割だ。憲法にはすでに、働き手の権利や最低限度の生活を保障する規定がある。私たちが憲法の力を借り、政治を動かす覚悟を持ちたい。(編集委員・堀篭俊材)


 05 02 (月) 公共放送としてのNHKの使命     

最近ことにゲラ番(組)


2016年5月2日 社説
NHKの使命 政府の広報ではない
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12338479.html

 NHKは、政府の広報機関ではない。当局の発表をただ伝えるだけでは、報道機関の使命は果たせない。

 それは放送人としての「イロハのイ」だ。しかし、籾井勝人会長は就任から2年3カ月になるが、今もその使命を理解していないとしか思えない。

 籾井氏は、先月の熊本地震に関する局内会議で、原発に関する報道は「公式発表をベースに」と発言した。「当局の発表の公式見解を伝えるべきだ。いろいろある専門家の見解を伝えても、いたずらに不安をかき立てる」などとも指示した。

 26日の衆院総務委員会で籾井氏は、こう答弁している。

 「公式発表」とは「気象庁、原子力規制委員会、九州電力」の情報のこと。鹿児島県にある川内(せんだい)原発については「(放射線量を監視する)モニタリングポストの数値などをコメントを加味せず伝える。規制委が、安全である、(稼働を)続けていいといえば、それを伝えていく」と考えているという。

 災害の時、正確な情報を速く丁寧に伝えるよう努めるのは、報道機関として当然だ。自治体や政府、企業などの発表は言うまでもなく、ニュースの大事な要素である。

 同時に、発表内容を必要に応じて点検し、専門知識に裏付けられた多様な見方や、市民の受け止めなどを併せて伝えるのも報道機関の不可欠な役割だ。

 しかし籾井氏の指示は「公式発表」のみを事実として扱うことを求めているように受け取れる。ものごとを様々な角度から見つめ、事実を多面的に伝えるという報道の基本を放棄せよと言っているに等しい。

 「住民に安心感を与える」ためというのが籾井氏の言い分のようだ。だが、それは視聴者の理解する力を見くびっている。

 NHK放送文化研究所の昨年の調査では、85%が「必要な情報は自分で選びたい」とし、61%が「多くの情報の中から信頼できるものをより分けることができるほうだ」と回答した。

 多くの視聴者は、政府や企業などが公式に与える情報だけでなく、多角的な報道を自分で吟味したいと考えているのだ。

 籾井氏は一昨年の就任会見で「政府が右ということを左というわけにはいかない」と発言。昨年は戦後70年で「慰安婦問題」を扱うか問われ、「政府の方針がポイント」と語った。

 政府に寄り添うような発言はその都度批判されてきたが、一向に改まらない。このままでは、NHKの報道全体への信頼が下がりかねない。


 05 03 (火) 裁かれた日本の戦争犯罪     (戦後の原点)東京裁判:上

この東京裁判の一部を当時鉱石ラジオで聞きました。 長野の檀田にある弥勒庵という下宿である。 当時は今のように携帯用のラジオなどなかった。 お手製の鉱石ラジオで一個のイヤホーンで聞いていた。

全体の様子を掌握するなど不可能であった。 ですから東京裁判についてはその後あれこれと知って、かいつまんで理解していた程度でした。

今回、戦後70年という企画で新聞を読むことができた。



2016年5月2日 (戦後の原点)
東京裁判:上 裁かれた日本の戦争犯罪
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12338496.html


【図表】何が争われたのか

【裁判】  開廷 1946/05/03

検察側   キーナン;米国,主席検事

判事団   オーストラリア;ウェッブ裁判長  インド;パル  オランダ;レーリンク
(11ケ国)  その他(米国:英国:フランス:ソ連:中国(中華民国):カナダ:
          ニュージーランド:フィリピン)

弁護側   清瀬一郎;弁護副団長  ブレークニー;米国弁護人

被 告   東条英機;陸軍大将,首相  板垣征四郎;陸軍大将,支那派遣軍総参謀長
      土肥原賢二;陸軍大将,奉天特務機関長  松井石根;陸軍大将,中支方面軍司令官
      木村兵太郎;陸軍大将,ビルマ方面軍司令官  武藤章;陸軍中将,陸軍省軍務局長
      広田弘毅;首相,外相,駐ソ大使

侵略をさばけるのか

 弁護   (清瀬一郎;弁護副団長)
      (侵略戦争の計画や開始の責任を問う)「平和に対する罪」は1945年7月当時の
      文明国共通の観念ではない
 告訴   (キーナン;米国,主席検事)
      久しきにわたり、世界の人々の理性と良心において最も重大な犯罪行為と認
      められてきた
 判決   侵略戦争はポツダム宣言の当時よりずっと前から国際法上の犯罪だった

自衛戦争だったのか

 告発   (キーナン;米国,主席検事)
      被告らはアジアひいては世界の支配と統制を目的に、民主主義諸国に侵
      略的戦争を開始した。 文明に対し宣戦を布告した
 被告   (東条英機)
      (太平洋戦争は)自衛戦として回避できなかった。 正しいことをしたと思う
 判決   侵略戦争を準備、遂行することで、日本による支配を確保しようとした

原爆投下の責任

 弁護   (ブレークニー;米国弁護人)
      真珠湾攻撃が殺人罪になるならば、我々は原爆を投下したものの名をあげる
      ことができる
 告発   (コミンズ・カー;英国検事)
      連合国においてどんな武器が使用されたかは本審理に何の関連性もない
 裁判長  (裁判長;ウェッブの判断)
      彼らも泥棒したということは、お前が泥棒したことの言い訳にならない。連
      合国を裁く法廷ではない


       南京事件

 告発   (キーナン;米国,主席検事)
      (中国の)南京で捕虜や一般人、婦女子数万への組織的かつ残忍な虐殺や暴行、
      拷問などがあった
 被告   (松井石根)
      一部青年将校で忌むべき暴行を行った者がいたと南京入場後に聞いた
 判決   後日の見積もりで、日本軍の占領から6週間で殺害された一般人と捕虜は20万
      以上(松井被告への判決部分では「10万以上」と記載)

      敬称略。以上の告発、被告、弁護、判決など「極東国際軍事裁判速記録」などを参考にした

【判決】  48年11月12日

 A級   侵略戦争の計画や開始など「平和に対する罪」
      絞首刑 7人(48年12月23日執行)  終身刑 16人  禁錮20年 1人
      禁錮7年 1人  判決前に病死 2人  「精神障害」とされ免訴 1人


 B級   捕虜の虐待など「通例の戦争犯罪」
 C級   一般市民の殺害など「人道に対する罪」



 日本の戦争指導者を裁いた東京裁判(正式名・極東国際軍事裁判)の開廷から3日で70年。戦後日本の歩みを方向付けた裁判を2回にわたって特集します。初回は「A級戦犯」とされた指導者がどんな罪に問われて法廷で何が争われたのか、戦争に敗れた日本人が判決をどう受け止めたのかをたどります。


 対象 東条らA級戦犯に

 東京・市谷の防衛省にある「市ケ谷記念館」は、省内の見学コースの目玉の一つだ。東京裁判で法廷として使われた旧陸軍士官学校大講堂が移設・復元された。2015年度は約2万5千人が訪れた。

 東京裁判は、1946年5月3日に開廷し、48年11月12日に判決が言い渡された。審理の対象期間は、日本が侵略政策を始めたとされた28年1月から、降伏文書に調印した45年9月までの約18年にわたった。どんな罪を裁くかは、日本と戦った連合国の米英仏ソが45年8月に結んだロンドン協定に基づいた。

 捕虜や人質の殺害といった以前からある「通例の戦争犯罪(B級)」に、侵略戦争を計画したり始めたりする「平和に対する罪(A級)」と一般市民の虐殺など「人道に対する罪(C級)」が加えられた。A~C級は悪質さの程度ではなく、罪の種類を指した。

 弁護側は、国際法で定着していない罪を裁くことは「事後法」にあたり不当だと批判した。しかし、判決はこれらの罪は当時から国際法にあったと判断した。

 太平洋戦争の開戦時に首相だった東条英機ら、28人のA級戦犯容疑者が被告になった。病死や免訴となった3人を除く25人が全員有罪となり、7人は絞首刑になった。この7人はBC級にも問われ、A級だけで死刑になった被告はいなかった。

 広島と長崎への原爆投下など、連合国の戦争行為は対象外だった。占領統治を円滑に進めるためという米国の判断で、昭和天皇を罪に問わなかった。


 審理 戦場の実態明かす

 即決処刑か、裁判か。戦争犯罪人の処罰のありかたをめぐって、当初、連合国側は揺れた。ソ連の指導者スターリンや英国首相チャーチルは「即決処刑」派だった。

 というのも、第1次世界大戦では、戦勝国の英国やフランスが敗戦国のドイツに戦争犯罪人の引き渡しを求めたが、ドイツ側が応じず、自らの手で開いた戦犯裁判で無罪判決を連発させた。

 即決処刑なら証拠を集めて裁判を開く手間はかからないが、勝者による「報復」の色が濃い。これに対して、裁判を開けば法にもとづく処罰として正当性を主張することができる。

 連合国側が選んだのが、国際軍事裁判所の設置だった。日本が1945年8月に受諾を決めたポツダム宣言でも降伏条件の一つとして、「一切の戦争犯罪人に対する処罰」が盛り込まれた。ドイツに対するニュルンベルク国際軍事裁判(45年11月~46年10月)と同様に東京裁判を開いた。

 裁判の証人は12カ国の419人におよんだ。法廷での様々な証拠や証言により、国民に戦争の実態が明らかにされた。中国・南京であった日本軍による一般人虐殺について、被告席で生々しい証言を聞いた元外相、重光葵(まもる)は「醜態耳を蔽(おお)はしむ。日本魂腐れるか」と心境を日記に記している。

 サンフランシスコ講和条約の調印・発効によって、52年4月に連合国による日本占領が終わり、日本は独立を回復した。条約には、日本が東京裁判を受諾することと刑を引き続き執行することが盛り込まれた。


 反応 国民に不公平感も

 安保法制を審議する衆院特別委員会で昨年6月、東京裁判の評価が議論になった。「勝者の判断で断罪がなされた」と、かつて裁判に批判的な発言をした安倍晋三首相に野党が認識を問うと、「我が国は判決を受諾しており異議を唱える立場にない」との見解をくり返した。

 受け入れと反発が同居する感情は、日本社会に広く見られる。戦後10年、1955年に政府が行った世論調査では、指導者の処罰を19%が「当然だ」、66%が「仕方がない」と考えると同時に、63%が「ひどすぎた」と答えた。悲惨な戦禍を招いた指導者への裁判は国民にとって受け入れやすかった半面、勝者である連合国による原爆投下や空襲が裁かれなかったことへの不公平感も募っていた。

 講和が成立して占領が終わると、「侵略の定義は困難」として被告全員の無罪を主張したインドの判事、パルの反対意見が「日本無罪論」として出版され、歴史修正主義的な主張の源流となった。裁判に対する評価は、日本の戦争が侵略だったかという論争と結びつき、政治の左右対立のなかで語られるようになった。

 78年には靖国神社がA級戦犯を合祀(ごうし)。85年、中曽根康弘首相が同神社を公式参拝すると、中国や韓国などが批判。それが更に国内の右派の反発を呼んだ。戦後50年の95年に、村山富市首相が「植民地支配と侵略に対するおわび」を談話で表明すると、右派が「東京裁判史観」「自虐史観」と批判した。

 2000年以降も小泉純一郎首相が靖国を参拝。安倍首相も第2次政権の13年に参拝した。


 アジア・植民地の被害軽視 吉田裕・一橋大教授(日本近現代史)

 東京裁判は米英の被害に比べ、戦場や植民地となったアジアの被害を軽視した。軍部を罰したが、昭和天皇は起訴されなかった。戦争責任の問題は国民に深く受け止められず先送りされた。

 それでも戦争を知る世代は、政治家も国民も中国や朝鮮半島への後ろめたさを共有していた。今は直接の当事者でない戦後世代が未解決の問題と向き合うことになり、国内に戸惑いや反発が生じている。

 世論調査などで、先の大戦を「やむを得ない戦争」と考える人が増え、昨年の「安倍談話」では「次世代に謝罪を背負わせない」という訴えが歓迎された。背景には歴史の忘却がある。

 海外に対しては一定の反省の姿勢を示すが、国内では反発を繰り返す歴史観のダブルスタンダードが拡大している。現天皇が戦地を何度も訪れ、相手国の戦没者も含めて追悼を続けるのと対照的だ。


 功と罪、両方受け止め必要 日暮吉延・帝京大教授(日本政治外交史)

 東京裁判は第2次世界大戦の評価をめぐって、戦後の右派・左派の思想的分断の原点となり、いまだに冷静な議論は難しい。現在は中国の台頭や靖国問題でアジアの反発が強まるなか、むしろ裁判を全否定する「勝者の裁き」論が目立つようになっている。

 確かに裁判は欠陥だらけだった。だが、否定論一点張りだと、判決を受諾して国際社会に復帰したサンフランシスコ講和条約の否認につながり、非現実的だ。

 東京裁判でも、膨大な歴史資料を集めた点、戦争責任のけじめをつけたことで対米協調への転換を容易にした点などはプラス面として評価できる。

 敗戦国として責任追及は不可避だったし、占領下という特殊な環境で行われたことを考えると、「冷厳な国際政治の結果」と割り切ることも一案だ。まずは裁判の功と罪を両方とも受けとめることが必要だろう。


 東郷隆、藤井裕介、西本秀、藤原秀人、三浦俊章が担当しました。次回は6月に掲載します。