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折々の記 2016 ⑤
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 07 】05/19

  05 20 啄木、うそと矛盾に現代性   ウソかくしのない生きざま
       高揚する東京の街 東北もう忘れたか   ドナルドキーンさんへのインタビュー
       古今の日記読み、心知った   ドナルドキーンさんに聞く
       キーンさんの見た玉砕   日本人を知る旅・インタビュー(5回)
  05 21 日本での黄金律   孔子の教えと日本人

 05 19 (木) 啄木、うそと矛盾に現代性     

2016年5月20日
啄木、うそと矛盾に現代性
      ドナルド・キーン(2012年日本国籍を取得)
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12366163.html

 現代人は、石川啄木を読むといい。日本文学研究者のドナルド・キーンさんはそう話す。「啄木は、私たち現代人と似ているのです」。明治期に生きた早世の歌人の、何がキーンさんにそう言わせるのか。

 ■買春、ローマ字で日記に

 「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹(かに)とたはむる」。歌集『一握(いちあく)の砂』が有名だが、「啄木の最高傑作は日記だ」とキーンさんは言う。

 啄木は長年にわたって、詳細な日記をつけていた。キーンさんが特に「傑作」とみなすのは、1909年4月から6月にかけて啄木がつづった、いわゆる「ローマ字日記」。

 「なぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予は妻を愛してる。愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ」。啄木はローマ字でそう記し、買春を繰り返す日々を赤裸々につづっていく。

 「妻を愛してる」と言いながら売春宿に通い、それを克明に日記に書きながら「読ませたくない」とローマ字を使う。この矛盾こそが、啄木の現代性なのだとキーンさんは言う。

 「読まれたくない、読まれるかもしれない。自分に対するうそがあり、矛盾がある。現代人の特徴の一つです」

 「ローマ字日記」の3年ほど後に亡くなった啄木は、自分が死んだら日記は焼いてしまうように知人に頼んでいたとされる。そこにも啄木の「矛盾」があるとキーンさんはみる。

 「日記にはとてもいい紙が使われている。字もとてもきれい。心のどこかに、これはいつか読まれるべきものだという気持ちがあったのではないでしょうか」

 同じく明治期に活躍した俳人、正岡子規の評伝の著書があるキーンさんは、子規と啄木の違いについて、繰り返し思いをめぐらせたという。今年出した新刊『石川啄木』(角地幸男訳、新潮社)の冒頭で、キーンさんはあえて、「蟹とたはむる」でも「ぢつと手を見る」でもない一首を紹介した。

 「我に似し友の二人よ/一人は死に/一人は牢を出でて今病む」。とても現代的な歌だ、とキーンさん。「子規は泥棒や病気の人のことはうたわなかった。啄木の作品には醜さや恥ずかしさがある。新しい文学なのです」

 けれど今、啄木が多くの人に読まれているとは言いにくい。「理由の一つは、文語体で書かれていることでしょう。でも、苦労して読んだ後に得るものは、とても大きいはずなのです」

 啄木が読まれなくなったのは、より安易で簡単な娯楽が本に取って代わったから、とキーンさんはみる。

 「20年前、東京の電車ではみな本を読んでいた。誇らしい光景でした。今はみなゲームをしています。簡単には面白さがわからないものにこそ、本当は価値があるのですが」(柏崎歓)

     *

 1922年生まれ。コロンビア大名誉教授。古典から現代文学まで幅広く研究し、日本文学の国際的評価を高めた。読売文学賞、朝日賞など受賞多数。2012年に日本国籍を取得。


インタビュー
「高揚する東京の街 東北もう忘れたか」
      ドナルド・キーンさん
      http://blog.goo.ne.jp/yukarin_004/e/c3f46b17166ad87ee58c0c9d2821e5bf より

朝日新聞に載っていました。ドナルド・キーンさんといえば、ジュリーがUncle Donaldで歌い、先日は東京新聞で、キーンさんがそれについて述べたということで、ファンの間で話題になりました。

今回の記事は、ジュリーのことは、まったく載っていません。でも、読んでみて、なんだかジュリーがどこかのMCで言ってたことのような気がしてしまいました。

タイトルは「高揚する東京の街 東北もう忘れたか」というちょっとドキッとするもの。

日本文化のことなど書いてありますが、わたしが目をひかれたのは、 東京オリンピックについてのところです。東京がオリンピックを勝ち取ると、国内は一気にわいたが、キーンさんいわく「本来のオリンピック精神からかけ離れ、極端に多額のお金を使って人々をびっくりさせるイペントになっています。どうしても日本でやりたいなら、東北でやればいい。それなら意味があるでしょう」

さらに「景気が良くなっていく裏側で、憲法を変えよう、原発を進めようという動きがあります」

キーンさんが、実際に目撃したという太平洋戦争の時の、玉砕の場面。 「あの光景は今もことばにできない。それなのに憲法を変えるという。世界で最もすばらしい憲法を日本は捨てるのでしょうか」

わたしはここで、憲法や原発の賛否を語るつもりはありません。ただ、このインタビューを読んでみて、ジュリーの、あの曲への想いが、よりいっそう伝わってくる気がしました。キーンさんのインタビューは、随時掲載されるそうです。


インタビュー
古今の日記読み、心知った
      ドナルド・キーンさんに聞く
      [文]中村真理子  [掲載]2012年10月22日
      http://book.asahi.com/booknews/interview/2012102300005.html

 日本文学者のドナルド・キーンさんが日本永住を決めて東京に戻ってから1年が過ぎた。3月に日本国籍を取得。取材や講演などに引っ張りだこで、90歳とは思えない慌ただしい日々を過ごしてきた。少し落ち着いてきたところで、震災後の世の中について、文学について、著作を振り返りながら語ってもらった。

 「震災で日本に暮らす外国人が次々と出国するなか、私の決断は珍しく映ったのでしょう。あちこちからありがとうと感謝されましたが、自由な時間はなく、帰国後の5カ月は本を読む時間が全くありませんでした」

 戸惑いながら始まった日本での生活は、震災なしでは語ることができない。東北で静かに耐えている人々の姿を見て、キーンさんは高見順が戦争末期に書いた日記を思い出した。 「母を疎開させようと訪れた上野駅は罹災民(りさいみん)でいっぱいだったそうです。しかし、人々はおとなしく我慢強く謙虚でした。前年に高見順が見た中国人たちの騒がしい光景とは大きく違った。彼は『私はこうした人々と共に生き、共に死にたい』と書きます。私も同じです。今こそ、日本人とともに生きたいという気持ちです」

 この夏出た「ドナルド・キーン著作集」第5巻は、戦中に日本の作家がつづった日記を研究した『日本人の戦争』を収めている。高見順をはじめ、伊藤整、永井荷風ら、様々な作家の日記を読み込んでいく。 「読んだ本によって、人間は形成されると私は思っていました。しかし、戦時中に山田風太郎が書いていた日記を読み、私の考えは違うとわかりました」

 後に人気作家となる山田風太郎が医学生時代に書いた『戦中派不戦日記』には彼が読んだ本の題や作家名が数多く記されている。 「私は山田風太郎と同じ年の生まれです。彼は超満員の列車でバルザックを読んでいたそうで、日記からヨーロッパ文学と日本文学を数多く読んでいたことがわかる。私もフランス文学が好きです。同じ時期に同じような本を読んでいたのに、彼はいつまでも戦争を続けるべきだと書いていました。『断じて屈するなかれ』と。しかし私は戦争が嫌いでした。終わったときはうれしかった」

 戦時中の考えを後世の価値観で見ることは作家には不本意かもしれない。しかし「あの時代」を理解するため、そのまま伝えようという思いがあったという。 「忘れられないのは、フランス文学者の渡辺一夫です。彼はこう書いていました。『もし竹槍(たけやり)を取ることを強要されたら、行けという所にどこにでも行く。しかし決してアメリカ人は殺さぬ。進んで捕虜になろう』。こういう発言をした人はほかにいません。同じ出来事にどう反応したのか。彼らの日記は実に興味深いものでした」

 日記は、日本人の心を教えてくれる、大切な研究対象の一つとなる。「日本では『土佐日記』から始まり、『和泉式部日記』などの宮廷の女性たちの日記、そしてあらゆる戦争の間も人々は日記を書いていました。ほかの国では、日記はあくまでも資料という扱いですが、日本では『日記文学』というジャンルがあります。これは日本文学だけだと思います」  「日本の軍人は平気で命を捨てると聞いて、日本人は何を考えているのかわかりませんでした。米軍の日本語通訳となって、日本の軍人の日記を読みましたら、彼らは日記の中で家族のことを考えたり、戦争が終わったらこんなことがしたいと書いたりしていた。日記を読むことで私は日本人を知った、という感じがしたのを覚えています」

     ◇  1922年ニューヨーク生まれ。日本文学者、コロンビア大名誉教授。近刊に評伝『正岡子規』がある。

     ◇  キーンさんのインタビューは随時掲載します


日本人を知る旅・インタビュー(5回)
キーンさんの見た玉砕
      「週刊報道LIFE」まとめの記事
      https://www.1101.com/watch/2015-05-01.html

ご無沙汰しています。 4月から「週刊報道LIFE」 (BS-TBS毎週日曜9時から9時54分まで)という番組のキャスターを始めました。タイトルのように人間の息遣いが聞こえるような番組に できればいいなあと思っています。

きょうのコラムは、 番組初回の放送用におこなった ロングインタビューをもとに書いたものです。 日本文学研究者で、3年前に日本に帰化した92歳のドナルド・キーンさん。 彼が生涯をかけて日本人を知ろうとした その深き旅の一端でも描ければと思います。 5回連続と、少々長いですが もしよろしかったらおつきあいください。

キーンさんの見た玉砕[1]

インタビューが始まって間もなく ドナルド・キーンさんが発した言葉に いきなり惹きつけられた。 「日本は恐(コワ)い国、そして一方では 非常に美しい国という矛盾が 私のなかにありました」

キーンさんはやや疲れた表情で言葉を選びながら言った。インタビューしたのは2月の終わり、 東京は北区にあるキーンさんの自宅だった。 92歳にして執筆意欲は衰えず、 話を聞くことができたのも石川啄木の評伝を書いている合間をぬって なんとか時間をつくってもらった結果だった。

インタビューの目的は戦後70年となるタイミングで戦争体験を語ってもらうこと。 「日本は恐(コワ)い国、そして美しい国」という言葉は若いころの日本のイメージを聞いたときに キーンさんが思わず口にした言葉だった。

「まったくの偶然でしたが 源氏物語の英訳を買ったんです。  買った理由は、2冊で非常に安かったからです。  お買い得だと思って。  源氏物語があるということすら まったく知らなかったのですが」

日本は美しい国。 キーンさんがそう思ったきっかけは源氏物語との出会いだった。 真珠湾攻撃まで1年半と迫っていた1940年の夏のことだ。 当時、ヨーロッパでは、ナチス・ドイツの軍隊が進行し、じきにアメリカも巻き込まれるのだろうと キーン青年は暗い予感を抱いていた。

「私は反戦主義者です。 だから 戦争を伝える新聞は読まないことにしました。  その代わりに源氏物語を読んでいたのです。  源氏物語には戦争がひとつもないんです。  それから死ぬ者もいないです。  登場人物が何のために生きているかというと それはお金を集めるためではなく 有名になるためでもなく、  美のために生きていたという感じでした」

もし初めて会った日本文学が「平家物語」だったとしたら、キーンさんの人生は まったく違うものになっていただろう。 生涯を日本文学の研究にささげることも、 90歳を迎える前に日本国籍を取得することもなかったかもしれない。そう考えると、「源氏物語」との出会いは奇跡のようにすら感じられる。

ところが、当時の日本のふるまいは美しい、とはほど遠いものだった。 「怖(コワ)い国でした。要するに、  中国を占領して、いろいろな街で悪いことを、  爆弾を落として‥‥」

そして1941年12月8日 日本が真珠湾を攻撃、キーンさんにとっては母国アメリカと日本との戦争がはじまる。 当時コロンビア大学で日本語を学び始めていた キーンさんは、考えたすえ、アメリカ海軍の日本語学校への入学を決めた。

戦争を否定していたキーンさんが なぜ自ら軍に志願したのか。 疑問をぶつけると キーンさんは記憶をたどるように口を開いた。 「戦争が始まったとき、19歳でした。  私は反戦主義者でしたから、  どんなことがあっても、鉄砲を持って 敵を殺したくないと思いました」

当時は徴兵制が敷かれていて召集されれば戦地に行かなければならない。それならばと、武器をもつ兵士ではなく 日本軍の文書を読み取ったり、 捕虜を尋問したりする日本語将校の道を選んだ。 暗号を解読したりすることで、少しでも早く戦争を終わらせることができるかもしれない。キーンさんはそう考えたという。

ところが戦場に赴いたキーンさんは「恐(コワ)い国、美しい国」という日本人への思いを さらに複雑にする出来事と遭遇することになる。

キーンさんの見た玉砕[2]

キーンさんが初めて訪れた戦場。 それはアリューシャン列島のアッツ島だった。アメリカの侵攻を阻止するという目的で日本が占領した島だ。 地図で見ると、カムチャッカ半島のさらに東、こんなところまで、手が回るわけがない(なにしろすでに中国を侵略し、南方の島々も占領しているのだ)と思ってしまうほど北にある小さな島だ。

1943年5月、アメリカ軍が この島を奪還する軍事作戦を始める。 2週間余りの激しい戦闘のあと、キーンさんは島に上陸、そこで信じがたい光景を目の当たりにする。

「日本人が手榴弾を自分の胸にあてて 爆発して死んでいた。  私が死体を初めて見たのはアッツ島でした」

「死体を見てどうでしたか?」と私は尋ねた。「まあ不思議な気持ちでした。  見たことのないものでしたから、  死んだ人がどんなものか」「これまで日本に対して いろいろな思いを抱いていらっしゃった。  そんななかで、日本人が手榴弾で 自決しているのを見てどう思いましたか?」

「大変驚きました。 私の常識では、 手りゅう弾がひとつしかない時は、敵に投げる。  しかし日本の兵隊は、恥のことを考えて、  あるいは愛国主義か何かがあって、  最後の手りゅう弾を自分の胸で爆発させました」

中国に侵略し、アメリカを攻撃する日本に抱いた「恐(コワ)い国」という思い。さらに敵を攻撃するための武器で自らの命を絶つという日本人の行動は キーンさんの理解を超えたものだった。  どうして日本人は捕虜になろうとせずに死を選ぼうとするのか。  日露戦争のころが書かれた本を読んで その疑問はますます深まったという。

「明治時代、日露戦争のとき、  日本人は捕虜になったんです。  そして戦争が終わったら日本に帰ったんです」キーンさんは不思議そうに言った。

「堂々と帰ったんですね?」

「そうです」

日本人は日露戦争のあと変わってしまったのか。 捕虜の歴史を研究している専門家に聞くと、こんな説明をしてくれた。

日露戦争に行ったのは職業軍人だったが太平洋戦争へと続く日中戦争のころには ほとんど訓練しない若者まで赤紙一枚で戦場に送りこまれた。 そのためすぐに白旗をあげて みずから捕虜になる兵士が続出する。 放っておくと、戦力が失われるうえ、 軍事機密が漏れてしまう。そのため捕虜になることを禁じたのだという。

1941年、東条英機が陸軍大臣だったときに定めた『戦陣訓』。 軍人が守るべきルールブックのようなものだが  このなかに有名な一文がある。

「生きて虜囚の辱めを受けず」つまり、捕虜になってはならないと明文化もされていたのだ。


アッツ島血戦勇士顕彰国民歌
      http://homepage3.nifty.com/meiyo47/s11-gunka/s151-Attutou-kessen.htm
      作詞:東巽 久信  作曲:山田 耕作  昭和18年 朝日新聞選定歌

  一 刃も凍る北海の         二 時これ五月十二日
    御楯と立ちて二千余士        暁こむる霧深く
    精鋭挙るアッツ島          突如と襲う敵二万
    山崎大佐指揮をとる         南に邀え北に撃つ
    山崎大佐指揮をとる
    (以下終行繰り返し)

  三 陸海空の猛攻に        四 邀血戦死斗十八夜
    我が反撃は日を吐けど       烈々の士気天を衝き
    巨弾落ちて地を抉り         敵六千は屠れども
    山容ために改まる          我また多く喪えり

  五 火砲はすべて摧け飛び    六 一兵の援一弾の
    僅かに銃剣手榴弾         補給を乞わず敵情を
    寄せ来敵と相撃ちて        電波に託す二千粁
    血潮は花と雪を染むる       波濤に映る星寒し

  七 折柄拝す大御言        八 他に策なきにあらねども
    生死問わぬ益良雄が        武名はやわか穢すべき
    ただ感激の涙呑む          傷病兵は自決して
    降りしく敵の弾丸の中        魂魄ともに戦えり

  九 残れる勇士百有余       十 ああ皇軍の神髄に
    遥かに皇居伏し拝み         久遠の大義生かしたる
    完全鬨と諸共に            忠魂のあとうけ継ぎて
    敵主力へと玉砕す          撃ちてし止まん醜の敵

昭和維新の歌
      https://www.youtube.com/watch?v=xtQNFqmGucM
      作詞・作曲:三上 卓
      http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/seinen.html

  一 汨羅(ベキラ)の渕に波騒ぎ    二 権門(ケンモン)上(カミ)に傲(オゴ)れども
    巫山(フザン)の雲は乱れ飛ぶ     国を憂うる誠なし
    混濁(コンダク)の世に我れ立てば   財閥富を誇れども
    義憤に燃えて血潮湧く         社稷(シャショク)を思う心なし

  三 ああ人栄え国亡ぶ         四 昭和維新の春の空
    盲(メシイ)たる民世に踊る        正義に結ぶ丈夫(マスラオ)が
    治乱興亡夢に似て           胸裡(キョウリ)百万兵足りて
    世は一局の碁なりけり          散るや万朶(バンダ)の桜花

  五 古びし死骸(ムクロ)乗り越えて  六 天の怒りか地の声か
    雲漂揺(ヒョウヨウ)の身は一つ      そもただならぬ響あり
    国を憂いて立つからは         民永劫(エイゴウ)の眠りより
    丈夫の歌なからめや          醒めよ日本の朝ぼらけ

  七 見よ九天の雲は垂れ       八 ああうらぶれし天地(アメツチ)の
    四海の水は雄叫(オタケ)びて      迷いの道を人はゆく
    革新の機(トキ)到りぬと         栄華を誇る塵の世に
    吹くや日本の夕嵐            誰(タ)が高楼の眺めぞや

  九 功名何ぞ夢の跡          十 やめよ離騒(リソウ)の一悲曲
    消えざるものはただ誠          悲歌慷慨(コウガイ)の日は去りぬ
    人生意気に感じては           われらが剣(ツルギ)今こそは
    成否を誰かあげつらう          廓清(カクセイ)の血に躍るかな

昭和五年

 ……作詞者の三上卓は海軍少尉で、昭和5年5月24才の時佐世保でこの歌を発表した。以来、昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いだ。
 紀元前3~4世紀頃、中国は戦国時代にあった。当時揚子江流域一体を領土としていた楚に、屈原という人物がいた。
詩人であり政治家でもあった屈原は、王への進言をことごとく側近に邪魔され、遂には失脚させられて追放される。しかし屈原は他の国に仕えることをせず、祖国の滅亡の危機を憂いながら洞庭湖畔汨羅の川に身を投げた。楚はやがて秦に滅ぼされ、以来屈原は「不運の愛国者」の代名詞となった。
 この歌はこの故事を冒頭に引いている。ちなみに、端午の節句の「ちまき」は彼に由来する。


キーンさんが上陸したアッツ島は そんな日本軍にとって その後の戦いのありようを決定づける大きな転機になる島となる。キーンさんが上陸したころ何が日本軍のなかで起きていたのだろうか。

アッツ島の戦いにのぞんだアメリカ兵が1万人を超えたのに対し、日本兵は2600人、 最初から兵力の差は歴然としていた。 このためアッツ島にいる日本軍から「急速なる補給を必要とするもの、  歩兵一大隊半、およそ1500人」との応援要請が東京に届いたにもかかわらず大本営は、 結局これを無視し、 最後まで戦うよう命じる。 捕虜になることは許されていないため事実上、全滅せよという命令だった。

キーンさんが見た 日本兵が手りゅう弾を自分の胸で爆発させる光景は まさにこの命令を受けたものだった。それにもかかわらず、 大本営は国民には嘘の情報を流す。

「(アッツ島の)山崎部隊長はただの一度でも、  一兵の増援も要求したことがない。  また一発の弾薬の補給をも願ってまいりません。  その烈々の意気、必死の覚悟には 誰しも感佩(かんぱい=心から感謝すること) していたのであります」

そしてアッツ島の日本軍はほぼ全滅、 大本営はこう発表した。 「アッツ島守備隊のわが部隊は、  ついにことごとく玉砕しました」

大本営が初めて国民に向けて“玉砕”という言葉を使った瞬間だった。 辞書で玉砕をひいてみると、 「玉が美しく砕けるように 名誉や忠義を重んじて潔く死ぬこと」と書かれている。

つまりこういうことだ。 戦線を広げすぎたため、 劣勢でも応援の部隊を送り込む余裕がない。だから現場が全滅しても、見捨てるしかない。そのことを覆い隠すために“玉砕”という言葉を使って美化したのだ。 国に見離され、極寒の地で死ねと命じられた兵士たちが この言葉を聞いたらどんな思いを抱いただろう。

玉砕の思想は、アッツ島を皮切りに その後、サイパン、グアムなどにも広がり戦死者の急増を招くことになる。キーンさんは自伝のなかでこう振り返っている。

「私はアッツ島で自決した 多くの日本軍人が抱いていたらしい 死の誘惑に共感することは到底できなかった。そして日本人を理解しようという 私の試みの最初のつまづきとなったのは、  おそらくこの気持ちだった」

日本人への割りきれない思いを抱いたまま キーンさんはその後、ハワイの捕虜収容所で日本人たちへの尋問を担当する。ケガをするなどして やむなく捕虜になった日本人たちだ。そこでキーンさんは震えるような瞬間を体験することになる。

キーンさんの見た玉砕[3]

キーンさんが、 初めて本当の日本人に触れた、と感じたのは日記だった。ガダルカナル島で押収され、ハワイに持ってこられたものだ。ガダルカナル島は、 真珠湾攻撃以来、勝ち進んでいた日本軍が アメリカの逆襲にあい初めて大敗を喫した場所として知られる。 戦場には2万人を超える日本兵の遺体とともに それぞれの日記が残されていた。

その多くは血に染まり、異臭を放っていた。それでも無味乾燥な文書を翻訳する仕事に うんざりしていたキーンさんは日本兵の日記を次々と手にとる。おそらくどこかのジャングルで、あるいは塹壕のなかで殴り書きされた文章は ひどく読みにくかったが、その内容はキーンさんを夢中にさせるに余りあるものだった。

6カ月にわたって激しい戦闘が続いた ガダルカナル島で、 日本兵はアメリカ軍だけでなく マラリアや飢餓とも戦っていた。そうした過酷な状況のなかでの心情が めんめんと綴られた文章に キーンさんは感動さえ覚えたという。

日本人へのその共感は アッツ島で“玉砕”を目撃したことで ふたたび揺らいでしまう。 日本人とは何者なのか。アッツ島から帰ったキーンさんは ハワイの捕虜収容所で今度は訊問官として日本人と向き合う。

「一応、決められた質問をしました。  そしてそれが終わってから、  『どういう音楽が好きですか』とか 『最近、日本に面白い小説はありましたか』とか そういう話をしたんです。  みんな友達になったんですよ」

キーンさんはそう振り返る。

それは訊問官の仕事を逸脱していたに違いない。それでもキーンさんは、 日本人を理解しようとする試みを続けたのだ。そんなある日、キーンさんは捕虜収容所に蓄音機を持っていく。 親しくなった捕虜のひとりから音楽が聴きけなくなってさみしいと打ち明けられたためだった。

キーンさんは、音の響きがいい シャワールームを会場に選び、 日本人捕虜30人ほどを集めて レコードをかけた。 まずはホノルルのレコード店で見つけた日本の歌謡曲。そして日本人捕虜からリクエストのあった ベートーベンの交響曲第3番『英雄』だ。

「もちろん前からよく知っている曲でした。  でもあの時ほど素晴らしく聞こえたことない。  蓄音機、シャワールームのなかで、  あれはすごかったです」

ベートーベンの『英雄』を聴いて あんなに感動したことはなかったという。

「どうしてその時、  そんなに感動したんだと思いますか?」
「もう戦争はなかったです。  友達と一緒にいるというような感じでした。  同じベートーベンを聴いて、  同じように素晴らしい音楽を聴いて、  もう戦争がない、みな友達だったです」

長いインタビューを通して この話をしたときほど キーンさんの瞳が輝いた瞬間はない。その時、キーンさんは70年前のシャワールームに タイムトラベルしていた。 目を細め、 遠くから聴こえてくるメロディーに耳をすませていた。

捕虜収容所で開いた音楽会の帰り、バスがなくなったキーンさんは ヒッチハイクを試みて、アメリカ人将校の車に乗せてもらう。そして蓄音機を抱えている理由を聞かれ キーンさんは正直に答えてしまう。するとその将校は怒りをあらわにしたという。

「日本人が、わが国の捕虜に音楽会をしてくれると 貴様は思っているのか?」キーンさんは黙り込むしかなかった。

その後、キーンさんは沖縄戦に派遣され、 同じ学生でありながら戦争に駆り出された日本人兵と出会うことになる。

キーンさんの見た玉砕[4]

持ってきた地図を広げると、キーンさんは沖縄の海岸線を目で追い、 読谷(よみたん)という地名を口にした。このあたりですね、と私が指さすと キーンさんは大きく肯いてみせた。

1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄に上陸する。 地形が変わるほどの艦砲射撃を沖縄にふらせたあとの上陸だった。 沖縄の土を踏んだキーンさんは予期しない出来事に遭遇する。 目に飛び込んできたのは日本兵ではなく、女性だったのだ。 30歳くらいの女性が子どもを連れて浜辺をうろついている。

キーンさんは走っていき「こんなところにいたら危ない。  安全なところに連れていってあげるから 逃げなさい」と言った。ところがその女性は訳のわからないことを口にするばかり。それもそのはず、沖縄の言葉は日本語を学んだキーンさんといえども理解不能だったのだ。そのためキーンさんは沖縄の少年を通訳にし、ガマという呼ばれる天然の洞窟を見つけては隠れている沖縄の人々に出てくるよう呼びかけた。

上陸した初日、2人の日本人が捕虜となる。そのうちのひとり、海軍士官は捕虜となったことを恥じ、 罪悪感にさいなまれている。 見かねたキーンさんは数日して彼に会いに行き、会話を交わす。 海軍士官はこうキーンさんにこう言ったという。

「敵軍の兵士ではなく、  どうかひとりの同じ学徒兵として 自分と話をしてくれないか」と。

学徒兵とは学生でありながら戦争に駆り出された兵士のこと。キーンさんはもちろん同意する。すると彼は言った。

「自分は生きるべきだろうか、死ぬべきだろうか」

この海軍士官は自殺してしまうのではないか。アッツ島で見た日本兵の“玉砕”が キーンさんの脳裏に焼きついてた。 何があっても生き続けるよう、キーンさんは説得を続けたという。

その話を聞いて、私は複雑な思いを抱くことになった。 日本軍は“玉砕”を奨励し、 神風特攻隊で、自らの命を捨てることを若い兵士に強要したといってもいい。 早い段階で負けるとわかっていた戦争なのだ。 戦後の日本の復興を考えて若い人材を確保しておこうといった重層的な考えをしていた人はいなかったのだろうか。 一億総“玉砕”の一歩手前まで行きかけた状況を考えると少なくとも意思決定をできる立場にいる人の中には いなかったのだろう。

キーンさんも自分の乗った船めがけて特攻の戦闘機が飛んできたという体験をしている。 結局、船のマストにぶつかったことで、そのまま海に落ちていったが キーンさんにとって死に最も近い瞬間となった。そんなキーンさんが海軍士官に死なないように説得したのだ。 日本軍は自国民に死ねと命じ、ひとりのアメリカ人が生きろと説く。 私はキーンさんの穏やかな瞳を見つめた。

沖縄戦のあと、キーンさんはハワイに戻り、そのあと派遣されたグアムで日本が降伏したことを知る。

「戦争が終わるということは まったく信じられなかった。  でも夜、隣の船の灯りを見て、  戦争中は灯りをつけていないから見えない、  でも光が見えたことで やっぱり戦争は終わったんだと初めて感じました。  とてもほっとしました。  もう殺し合いはないのだと」

戦争が終わって、ようやく抱いた安堵の思い。それでもキーンさんのなかで日本人の謎は残ったままだった。“玉砕”とは何だったのか。そしてそんな思いも薄れかけたころ キーンさんはふたたび“玉砕”と向きあうことになる戦争が終わってすでに50年がたっていた。

キーンさんの見た玉砕[5]

戦後、キーンさんは ニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとり日本文学の研究に没頭していた。そんなある日、1冊の本が届く。 戦争が終わってすでに50年が過ぎていた。

作家・小田実が書いた小説『玉砕』。 舞台は、太平洋戦争の激戦地、ペリリュー島。この4月に天皇皇后両陛下が慰霊に訪れたことで その名前を耳にした人も少なくないだろう。この島は「忘れられた島」とも呼ばれる。 戦いの壮絶さの割には あまり取りあげられることがなかったためだ。

1944年9月に始まったペリリュー島の戦いは およそ2か月半におよび、 日本軍はほぼ全滅、死者は1万人にのぼった。 一方のアメリカ軍が受けた ダメージもすさまじい。 死者は1800人ほど、負傷は8000人、 何より、精神に異常をきたした兵士が数千人いたとされるほど日本軍のゲリラ戦は米兵にとって恐怖だったのだ。

キーンさんはこの小説を読み自分から英訳したいと申し出る。

「なぜわざわざ英訳をしようと思ったのですか?」

「不思議なことでした」とキーンさんは言った。

「『玉砕』という本が送られてきました。  あとで小田さんに聞いたら、彼は 私がアッツ島にいたということを知らなかったのです。  何かの偶然だったんです。  しかし『玉砕』と題名を見たら、私と関係がある。  私は最初の玉砕の場にいたんですから」

「それはあのアッツ島でご覧になった 日本人の玉砕が頭に残っていたのでしょうか?」

「そうでした」キーンさんは大きく肯いた。

小説『玉砕』の中には、たとえばこんな描写がある。

 おれはほんとうにここでまさに、  塵(ちり)アクタの死をとげる。  塵アクタ(=ゴミ)のように殺され、 この世から抹殺される。  これが『玉砕』だと唐突に中村は思った。

 これらの負傷兵の必死の叫びやうめきとともに 洞窟のなかでひそかに始まり、 やがて大声で平気で重症の負傷兵が 断末魔の息とともに言い出したのは、  上官、戦友に対する 『おれをこんな目にあわせたのはおまえだ』  のたぐいの悪口、呪詛(じゅそ)だ。

キーンさんはこの小説を読んだ感想をこう語る。
「玉砕はどんなものだったか、小田さんは 大変公平に書いていたと、私は思いました」
「どういう風に公平だと思ったんですか?」と私は尋ねた。
「もっときれいな書き方があったでしょう。  みんな友達のために、友達を助けるために 自分が犠牲者になったとか、  なるべく美しく書くでしょう。  でも彼は本当に正直に書いたと思いました」

自ら命を絶つ、日本兵。 玉砕とはいったいなんだったのか。アッツ島以来、頭を悩ませ続けてきた疑問が初めて解消したと、キーンさんは感じたという。 玉砕という名のもとに死を強要された日本兵の無念の思いを戦後50年目に偶然届いた小説によって知ることになったのだ。

それから16年たった2011年3月11日、 東日本大震災が発生、その翌月の4月に、キーンさんは突然、日本国籍をとることを発表して、 周囲を驚かせる。

震災の被災者のふるまいを目にして キーンさんは作家の高見順が残した日記を思い出したという。 高見順は、太平洋戦争のさなか東京大空襲直後の上野駅で全てを失った戦災者が、それでも秩序正しく、健気(けなげ)に疎開列車を待っている様子を見たときの気持ちをこう記している。

「私の目にいつか涙が沸いていた。  いとしさ、愛情で胸がいっぱいになった。  私はこうした人々と共に生き、  共に死にたいと思った」

想像を絶する津波の被害をうけながら必死で耐え忍ぶ被災者たち。そんな姿を見て、キーンさんは自分も同じ気持ちになっているのを感じる。そしてそれが、残りの人生を日本人として生きる決意につながったという。

インタビューは2時間におよんだ。 一度も休まず語り続けたキーンさんの深い、それでいて少年のような瞳を見ながら思った。キーンさんのこれまでの人生は、 日本人を理解しようとする長き旅だったのかもしれないと。 「日本は恐い国、美しい国」。そんな思いを抱いた若き日には まさか自分自身が日本人になるなんて想像もしなかったに違いない。

それにしても、どうしてここまで キーンさんは日本人に興味を抱いてくれたのだろう。 最後にそれを尋ねると、キーンさんは「それはしてはいけない質問です」と言って いたずらっ子のような目をした。

「もし人に会って、  どうしてあんな女性と結婚したか、  もっときれいな女性がいると、  それは聞けないですよ」
「好きになるのに理由はないと?」そう私が続けると キーンさんは何も言わず、ただ微笑んだ。

(終わり)2015-05-15-FRI


ドナルド・キーンさんを揺り動かしたもの
【日本での黄金律】
      孔子の教えと日本人

黄金律(=Golden Rule)は、多くの宗教、道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明である。現代の欧米において「黄金律」という時、一般にイエス・キリストの「為せ」という能動的なルールを指している。

◆イエス・キリスト
   「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
   (『マタイによる福音書』7章12節,『ルカによる福音書』6章31節)

◆孔子
   「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」
   (『論語』①顔淵2、②衛霊公23)

◆ユダヤ教
   「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」
   (ダビデの末裔を称したファリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉)、
   「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」
   (『トビト記』4章15節)

◆ヒンドゥー教
   「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」
   (『マハーバーラタ』5:15:17)

◆イスラム教
   「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである」
   (ムハンマドの遺言)

無意識下に宿る日本文化の黄金律

その一《故事百選》
      己の欲せざる所は、人に施す勿れ
      http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/vo07.htm

自分がいやだと思うようなことを人にしてはいけない。人間にとって最高の徳は、この教えから始まるのです。つまり、善行を積むまえに、まず自分の行動を慎み、全体のルールに従うということが大切です。

  孔子の弟子のなかで、もっとも徳行の秀れた弟子といわれた顔淵との会話をまとめた章にこの有名な言葉は出てきます。当たり前のことで誰にでも分かりやすく述べてあり、参考になります。
孔子の教えのなかの「仁」という徳目がよく挙げられます。これが「最高の徳」という意味に使われているということは知られていますが、実生活上の応用はなかなか難しく、孔子もいろいろの言い回しで具体例を示して説明しています。

 まず、孔子は顔淵に向かって、「仁とは克己心を身につけて、秩序によく従うことだよ」(おのれに克ちて、礼に従う、これ仁となす。)と答えました。自己をおさえて、自然にルールに従うようになれば最高の共同生活ができるのだ、と教えたのでした。顔淵は重ねて、一生守らなくてははらないのは何かを尋ねたところ、「それは恕か。おのれの欲せざるところ、人に施すことなかれ」と返事をしたのでした。「恕」は許すということです。

 孔子の考えていた最高の徳を、なにか深遠の教えで、一つの哲学の理論のように説く学者もいますが、この会話の原文をそのまま辿ってみると、たいへん世俗的に「仁」のことを説いています。顔淵に説いたこの格言は、一般レベルの人にも分かる言葉で表現されています。

 家族、友人関係、同郷の人、そして会社の同僚、国を構成している人びとはどうしたら共同生活を円満に営むことができるかという共通の命題を持っています。
 孔子は、「まず許し合うことだ、そして自分のいやだと思うことは、人に対してもやらないことだ」と平易な言葉で教えたのでした。

 現代社会にこの教訓をあてはめてみても、利害関係が鋭く対立しているため、実行するのはなかなか難しいものです。
 たとえば、国際関係では国益が厳しく対立していますし、国内でも、団体や企業がそれぞれの利益のために、しのぎを削っています。
したがって、相手のいやがることを、手投を選ばずに実力行使することはままあるようです。当然、共通の利益のために働く人びとは調和して、力を合わせて働かなければならない筈ですが、相互に中傷しあったり、足のひっぱり合いをしたりして、相手のいやがることばかりやっているようにさえみえます。

 家族のなかにさえ利害関係を持ち込んで、いやな仕事を人に押しつけ、なるべく良い思いを自分で一人占めにしようとしたりします。
 このような考え方を排し、他人に嫌な思いをさせないように心掛ければ、きっと自分にとっても暮らしやすい世の中になるでしょう。

その二《論語》  己の欲せざる所は人に施すこと勿れ
      《論語》①
            顔淵第十二 2
            http://kanbun.info/keibu/rongo1202.html

仲弓問仁。子曰。出門如見大賓。使民如承大祭。己所不欲。勿施於人。在邦無怨。在家無怨。仲弓曰。雍雖不敏。請事斯語矣。

仲弓(キュウチュウ)、仁を問う。 子曰く、門を出でては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭を承くるが如くす。 己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。 邦に在ても怨み無く、家に在りても怨み無し、と。 仲弓曰く、雍(ヨウ)、不敏なりと雖も、請う斯の語を事とせん、と。

◦仲弓 … 孔子の弟子、冉雍ぜんようの字あざな。姓は冉、名は雍。孔門十哲のひとり。
◦大賓 … 君主のところへ来た隣国の賓客。
◦大祭 … 君主の宮廷で行われる大きな祭祀。
◦己所不欲。勿施於人 … 故事成語「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」参照。「勿施於人」は「ひとにほどこすなかれ」と読んでも良い。
◦在邦 … 諸侯の国に仕えて大夫の身分にあること。
◦無怨 … 他人からうらまれない。
◦在家 … 仕官していない。普通の庶民である。
◦在邦無怨。在家無怨 … 「邦くにに在ありて怨うらみ無なく、家いえに在ありて怨うらみ無なし」と読んでも良い。
◦雍 … 仲弓の名。「私は」と訳す。
◦不敏 … 賢くない。愚か者。自分の能力・才能などを謙遜していうときに用いる。
◦請 … 「こう~せん」と読み、「どうか~させてほしい」と訳す。
◦斯語 … 「このご」と読み、「この言葉」と訳す。

◦下村湖人(1884~1955)は「仲弓が仁についてたずねた。先師はこたえられた。門を出て社会の人と交わる時には、地位の高下を問わず、貴賓にまみえるように敬虔であるがいい。人民に義務を課する場合には、天地宗廟の神々を祭る時のように、恐懼するがいい。自分が人にされたくないことを、人に対して行なってはならない。もしそれだけのことができたら、国に仕えても、家にあっても、平和を楽しむことができるだろう。仲弓がいった。まことにいたらぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りにいたしたいと存じます」と訳している(現代訳論語)。

*顔淵(顏回)の生涯
魯の人。孔門十哲の一人で、随一の秀才。孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って没した。顏回は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。その暮らしぶりは極めて質素であったという。このことから老荘思想発生の一源流とみなす説もある。
『論語』には顔回への賛辞がいくつか見られる。たとえば孔子が「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」(雍也第六、先進第十一)や同門の秀才子貢が、「私は一を聞いて二を知る者、顔回は一を聞きて十を知る者」(公冶長第五)、と述べたことが記載されている。顔回は孔子から後継者として見なされていた。それだけに早世した時の孔子の落胆は激しく、孔子は「ああ、天われをほろぼせり」(先進第十一)と慨嘆した。
*『論語 顔淵篇』の書き下し文と現代語訳  1~3 に分かれている、とても参考になる内容
  http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/rongo012.html

      《論語》 ②
            衛霊公第十五 23
            http://kanbun.info/keibu/rongo1523.html

子貢問曰。有一言而可以終身行之者乎。子曰。其恕乎。己所不欲。勿施於人。

子貢、問いて曰く、一言にして以て終身之を行う可き者有りや。 子曰く、其恕か。 己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。

◦子貢 … 孔子の門人。姓は端木たんぼく、名は賜し。子貢は字あざな。雄弁で知られた。ウィキペディア【子貢】参照。
◦一言 … ひとこと。
◦可以 … ~する値打ちがある。
◦終身 … 一生。
◦之 … 直接指すものはない。皇侃おうがん本等にはこの字なし。
◦者 … ことば。
◦乎 … 疑問(質問)の意を表す。「有りや」または「有るか」とよむ。皇侃おうがん本では「乎也」に作る。
◦其恕乎 … 「其~乎」は感嘆を伴った強い推断の言い方。「まあ~だろうよ」と訳す。「恕」は思いやり。
◦己所不欲 … 自分がいやだと思うこと。
◦勿施於人 … 他人に対してしてはならない。「勿れ」は禁止の意を表す。「…してはいけない」「…するな」の意。四部叢刊初篇所収正平本・縮臨本では「勿施於人也」に作る。

◦下村湖人(1884~1955)は「子貢がたずねた。ただ一言で生涯の行為を律すべき言葉がございましょうか。先師がこたえられた。それは恕じょだろうかな。自分にされたくないことを人に対して行なわない、というのがそれだ」と訳している(現代訳論語)。

*子貢(しこう、紀元前520年 - 紀元前446年 )は孔子の弟子にして、孔門十哲の一人。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて活躍した。本名は端木賜(たんぼくし)。姓が端木、名は賜、字が子貢。衛の人。弁舌に優れ衛、魯でその外交手腕を発揮する。また、司馬遷の『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。孔子死後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。

子貢の弁舌
あるとき子貢が斉の景公に「あなたは誰を師となさっているのか」と聞かれたとき、子貢は「仲尼(孔子)が私の師です」と答えた。 しかし子貢は景公に「仲尼は賢いですか」と問われると即座に「賢いです」と答えたものの、「どのように賢いのですか」と問われると「存じません」と答えた。景公はいぶかしんで「貴方は仲尼は賢いと言いながら、その賢さがどのようなものであるのかは知らないという。それでよろしいのですか」と聞いた。

すると子貢は「人は誰でも皆天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは仲尼の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」(説苑)と孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えた。

またあるとき、叔孫武叔が「子貢は孔子より優れている。」と話したことを子服景伯が子貢に伝えた。子貢は「屋敷の塀に例えるなら、私の家の塀の高さは肩の高さぐらいでしょう。ですから、屋敷の中の小奇麗な様子が窺えます。しかしながら、夫子の家の塀の高さは高すぎて、ちゃんと門から見ないと中の素晴らしい建物や召使の様子は知ることはできないでしょう。ですから、叔孫武叔がそういったのは無理ないことかもしれません。」(論語)と見事な例を引き、孔子が優れていることを表現した。この子貢の言葉は今でも中国のことわざとして残っている。

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