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折々の記 2016 ⑥
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 07 】07/18~     【 08 】07/18~     【 09 】08/21~

【 03 】06/08

  06 08 社説 見過ごせぬ国会軽視   国民軽視の潮流
       舛添都知事理態度は厚顔無恥   会社員中村孝太郎
  06 14 政治家の汚れた金銭感覚   東京都知事は日本の恥でもある
       舛添知事、辞職不可避   自公、不信任案提出も 本人は「時期猶予を」
       参院選控え自民も辞職論   「舛添知事をかばいきれない」 公明も都議会で明言
       「知事しがみつかぬ」   舛添氏、審議の最後に
  06 14 憲法を考える   『超自我』と9条の根源
       9条の根源   哲学者・柄谷行人さん
       超自我 フロイトの心的装置理論   (エス・自我・超自我)

 06 08 (水) 社説 見過ごせぬ国会軽視     国民軽視の潮流

舛添都知事の不祥事、国会議員の不祥事の責任の取り方が自分本位であって、国民の感情を無視した潮流は日本の首都の責任者も同じように政治家の品格がない。
日本にとって戦後最大の危機に直面している。



2016年6月8日 ▼14面(社説)
甘利氏の復帰 見過ごせぬ国会軽視
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12398302.html

 自民党の甘利明・前経済再生担当相が政治活動を再開した。

 現金授受問題で1月に閣僚を辞任してから、「睡眠障害」を理由にすべての国会審議を欠席してきたが、ようやく体調が回復しつつあるという。

 甘利氏はおととい、約4カ月ぶりに記者らに囲まれ、「これからは政務活動をして、やりがいを持つことが回復の後押しをするのではないか」と、主治医から活動再開を認める診断が出たことを説明した。

 回復に向かって良かった。早く完治して、盟友の安倍首相のためにも、参院選の勝利をめざして全力で働いてほしい。そう期待する人は多いだろう。

 一方で、それ以上にたくさんの人が、あらあら、何ともタイミングのよい回復ぶりだなと、あきれているのではないか。

 先週、甘利氏らが千葉県の建設会社から600万円を受け取っていた問題が不起訴処分になった。翌日、国会が閉じた。その5日後の復帰宣言である。

 忘れてもらっては困る。甘利氏はまだ説明責任を果たしていない。

 疑惑があれば、捜査当局の解明を待つまでもなく、みずから国民に説明する。それが、国民の代表である国会議員の務めのはずだ。

 甘利氏自身、大臣辞任の記者会見で「弁護士による調査を続け、しかるべきタイミングで公表する」と約束していた。あのときは、政治家としての「美学」「生き様」「矜持(きょうじ)」といった言葉も連ねていた。

 それなのに、会期中は国会審議を休んで野党の追及をかわし、会期が終わればすぐに政務に復帰する――。これではあまりに国会軽視が過ぎる。

 自民党や、安倍首相の責任も重い。

 自民党は野党が求める甘利氏の参考人招致や証人喚問を拒み続けた。安倍首相も任命責任を認めはしたが結局、「甘利氏が説明責任を果たしてくれる」と言うだけだった。

 活動再開の前に、甘利氏にはなすべきことがある。速やかに国民に説明することだ。

 600万円というお金を、どんな思いで受けとったのか。甘利氏本人や秘書が交渉にどうかかわったのか。弁護士の調査結果とともに、丁寧に語る責任がある。

 野党が求める国会の閉会中審査に応じる。みずから記者会見を開く。すぐにでもできることはある。

 検察審査会の動きがあるから説明できない。そんな先延ばしは、もはや許されない。


2016年6月8日 ▼14面(声)
舛添都知事理態度は厚顔無恥
      会社員中村孝太郎 北海道63
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12398305.html

 東京都の舛添要一知事が、政治資金の「公私混同」疑惑について記者会見した。自分が雇った弁護士による「不適切な支出」の指摘に対して「恥ずかしい」「汗顔の至り」と恐縮しながらも、一方で「違法な点はないとの結果を聞いた」「新たに都政に尽くせるよう説明責任を果たす」と続投の意向を示した。

 違法ではない。つまり犯罪ではない。だから辞任する必要はない。そう言いたいのだろう。だが選挙で選ばれた公人として、道徳的、倫理的には最悪だ。違法ではないから問題なしとする態度は、「汗顔の至り」というより「厚顔無恥の至り」というしかない。

 公私のけじめをつけられない、金銭的欲望を抑えられない弱い人間であることを満天下にさらした以上、知事自身および東京都政について都民の不信感が満々となるのは間違いなかろう。

 都民にそっぽを向かれて世界有数の大都市を治めるのは困難だ。法的に可能でも、都民に嫌な思いをさせながら任期を全うしようなどとは、恥の上塗りと断じざるを得ない。「違法でないからOK」などという振る舞いは、人の上に立つ者がするものではない。

 06 14 (火) 政治家の汚れた金銭感覚     東京都知事は日本の恥でもある

テレビを見ていて、舛添さんの厚顔無恥は日本の政治家の品格そのものと感ずる。 もう結構です。 みんなで辞めさせよう。

きのうのNHK世論調査を見て、安倍政権の支持者の多いのに驚く。 日本の政治意識はこんな程度だったのか。 汚れた政治家の品格のなさ! 国民に劣悪な生活を強い、裕福な階層の利益を図り、政治家は自己貪欲をむき出しにしても、まだ舌先に操られた世論調査の結末を見せている。

フランスの上層階級の人たちのわがままによって貧困のどん底を強いられたウソかくしのない市井の凡人は、集団の力によってフランス革命によって意見を表明し、権利を獲得した。

市井の中から出てきた代表者チュルゴー(上層階級への課税によって生活向上を考えた人)の考えを、時の権力者は辞めさせた。 上層階級への反感者は牢獄へ入れられた。

フランスは市民の権利を血を流して獲得した。 日本の平凡な市井人の為政者への反抗者をアナキストという汚名をつけて牢獄へ入れた。 今でも共産党の名前で彼らは抵抗し、為政者はプロパガンダの手法でその勢力を封じ込めようとしている。

目覚めよ、市井のウソかくしのない人たちよ、舛添さんや甘利さんの報道を見聞していて私はフランス革命の血の流れを感ずる。


2016年6月14日05時00分 朝日▼1面
舛添知事、辞職不可避
      自公、不信任案提出も 本人は「時期猶予を」
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12407209.html

 東京都の舛添要一知事をめぐる政治資金などの公私混同疑惑で13日、都議会総務委員会は集中審議を開いた。だが疑惑は晴れないままだったとして舛添氏を支えてきた与党の自民党内でも見放す声が強まっており、舛添氏の辞職は不可避の情勢だ。▼3面=参院選控え辞職論、37面=「しがみつかぬ」

 都議会最大与党の自民党はこれまで、集中審議を見て判断するとの考えだった。審議を終えた13日夜、同党幹部は「党内でも、舛添氏を守ろうと思っている人は誰もいない」と発言し、将来的に辞職は避けられないとの認識を示した。

 自民は2014年の知事選で舛添氏を支援してきた経緯や、次の候補者探しも難しいことから、早期の進退追及には慎重な立場をとってきた。だが、集中審議を経ても舛添氏への世論の反発は高まるばかり。今議会中に野党が出す不信任案を否決すると批判の矛先が与党に向かい、参院選への影響も避けられないとする見方が強まった。

 舛添氏は集中審議の締めくくりに、「知事の座にしがみつくということではないが、選挙とリオ五輪が重なり、混乱することは公益にそぐわない。時期を猶予していただきたい」と発言し、都議会に不信任決議案提出の先送りを求めた。

 都議会の野党は、舛添氏の発言に「不信任可決なら解散するという脅し」「不信感が増大した」などと反発。共産党や民進党などは、14日の議会運営委員会理事会に不信任決議案を提出する構え。自民と公明党は、野党の不信任案には同調せず、今定例会も含めて自ら不信任案を提出することも準備している。

 不信任案は、理事会で提出が合意されれば、会期末となる15日の本会議で審議される見通しだ。現在123人の在籍議員の3分の2以上が出席し、4分の3の賛成で可決される。6割を占める自民(56人)と公明(23人)の動向が、舛添氏の進退に直結する。

 この日の集中審議では、都議会の6会派が4時間半にわたって、政治資金の公私混同疑惑や公用車の使い方などを追及。公明党は「知事は辞職すべきだ」と明言。質問した6会派のうち、自民以外は審議の場で「辞職」を突きつけた。

 舛添氏は、自身の不信任案が可決された場合、知事が10日以内に議会を解散するか、しなければ10日後に失職するため、いずれも「選挙ということになる」と指摘。リオ五輪・パラリンピックに選挙が重なることは「2020年東京大会にとって極めてマイナス」と説明した。自身の給料を全額返上する意向も示したうえで、不信任案の提出は「(五輪後に)私が知事としてふさわしくないと議会が判断するなら出していただければ」とも述べた。

 総務委の加藤雅之委員長(公明)は委員会終了後、報道陣に対して「具体的なことは出てこなかった。集中審議は十分でなかった」と話した。総務委の集中審議は20日にも開かれる予定。


2016年6月14日05時00分 朝日▼3面
参院選控え自民も辞職論
      「舛添知事をかばいきれない」 公明も都議会で明言
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12407317.html

 舛添要一東京都知事をめぐる問題で、知事の不信任決議案提出を決めた共産や民進など野党に続き、与党の公明党も辞職を求める姿勢を明確にした。舛添氏を支えてきた自民党内でも「辞職は避けられない」と早期決着を望む声が強まっており、進退問題はヤマ場を迎えている。▼1面参照

 「知事は辞職すべきです」。公明党の松葉多美子都議は13日の都議会総務委の集中審議でこう明言した。傍聴席からは拍手があがった。

 公明は2年前の知事選で自民とともに舛添氏を支援したが、同党幹部は「(拘束力のない)辞職勧告決議のような中途半端な案を言う人はいない。もう、与党で不信任案を出すか、出さないか。それだけだ」と突き放す。

 ■5会派「辞職を」

 野党会派は攻勢を強める。共産党は「都民の怒りは続投を許さないところまで沸騰している」として、ただちに辞職するよう要求。民進党も続いた。この日質問に立った6会派のうち、自民以外の5会派が「辞職」で足並みをそろえた。

 舛添知事はこの日の集中審議の最後、野党が提出を検討する不信任決議案について「どうか時期を猶予していただきたい」と述べ、リオ五輪・パラリンピックが終わるまで提出を先送りするよう求めた。しかし、その願いを聞き入れる空気はなくなりつつある。

 共産や都議会民進党(旧民主系)、民進党都議団(旧維新系)は14日に不信任案を提出する方針で、閉会日の15日に採決される見通しだ。不信任案は、都議123人のうち、3分の2以上が出席し、4分の3以上の賛成で可決される。自民、公明内からも不信任案提出論が浮上するなか、両党の対応が焦点となる。

 自民はこれまで、舛添氏の早期辞職には否定的な姿勢を示していた。知事選となれば、4年後の知事選が東京五輪の開催と重なるうえ、有力な「ポスト舛添」の候補も見当たらない悩みもある。このため、今議会後に辞職させることもにらんで、時間稼ぎの策を探っていた。

 都議会の川井重勇議長(自民)は9日夜、主要会派の幹事長らと会談。不信任決議案が出された場合、各党がどう対応するかを確認した。強制力のない辞職勧告決議案を出し、野党提出の不信任案は否決するという案も検討されていた。

 ■野党は自公批判

 しかし、参院選が迫るなか、自民内では「もう、かばいきれない」と辞職を求める声が急速に広がっている。下村博文総裁特別補佐は12日のテレビ番組で「不信任案が出た場合、自民は否決するほどの状況証拠を持っていない」と語り、早期辞職は避けられないとの見方を示した。知事をかばっていると見られれば、世論の矛先が一気に自民に向かうと懸念するからだ。

 官邸幹部の一人は13日、「共産党の出した不信任には賛成できない。参院選に影響が出ないようにするには、自民が不信任案を出すしかないだろう」と語った。東京選出の自民国会議員は「舛添氏はもう持たない」とし、舛添氏辞職後の知事選を想定して「(野党候補は)相当てごわい相手になる。それに勝てる(与党)候補を用意しないといけない」と述べた。

 これに対し野党は、自民・公明が2年前の知事選で舛添氏を支援したことを踏まえ、参院選の新たな攻撃材料として批判を強めた。民進の岡田克也代表は13日夕、都内で記者団に「舛添知事は安倍首相が主導して選んだ。責任を持って知事を辞任させるべきだ」と批判。共産の小池晃書記局長も会見で「舛添氏は、自民党都連、公明党都本部の推薦を得ており、自公の『製造者責任』は明確だ」と指摘した。

 ■首長に対する議会の追及の手段

【不信任決議】
 <条件> 在籍議員の3分の2以上が出席し、4分の3の賛成で可決
 <効力> 首長は10日以内に議会を解散させることができ、させない場合は10日後に失職
【辞職勧告決議】
 <条件> 在籍議員の半数以上が出席し、過半数の賛成で可決
 <効力> 一般に、辞職を勧める議会としての意思を表明する決議で、原則として法的拘束力はなし 【問責決議】
 <条件> 在籍議員の半数以上が出席し、過半数の賛成で可決
 <効力> 首長を辞職させるまでの意思はなく、責任を問う決議で拘束力なし


2016年6月14日05時00分 朝日▼37面
「知事しがみつかぬ」
      舛添氏、審議の最後に
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12407320.html

 東京都議会の各会派が一問一答形式で舛添要一知事に迫った13日の集中審議。舛添氏は不信任案の猶予を求めたが、傍聴した市民からは反発の声が上がった。議会では与党にも辞任論が広がっており、舛添氏は進退をめぐり瀬戸際に立たされた。▼1面参照

 4時間にも及んだ都議会の総務委員会。自らの政治資金をめぐる疑惑で、追及を受け続けた舛添氏は最後に、「一言申し上げたい」と切り出した。

 「伏して都民、都議会の皆様にお願いしたいことがございます」

 舛添知事は疲れた表情を見せながら、議会側から不信任決議案の提出が検討されていることに自ら言及。同案が可決されると、知事は議会を解散するか、失職するかしかなくなる。

 「そうすると、いずれにしても選挙になります。選挙がリオ五輪と重なり、2020年東京大会にとっても極めてマイナス」

 そのうえで「もちろん発端は私の不徳の致すところ」としつつ、「どうか(不信任決議案提出に)少しの猶予をいただきたい」と訴えた。

 「それは私が知事の座にしがみつくということではありません」とも口にし、「すべての給与を辞退し、全身全霊を捧げて都民のために働きたい」とした。

 傍聴席はほぼ満席だった。東京都新宿区でベンチャー企業の支援業を営む遠藤哲さん(64)は「知事の最後の言葉なんて極めてあいまい。自分がリオに行きたいからもうちょっと時間をくれと。こんな馬鹿な話はない」と憤った。

 三鷹市の石井利光さん(70)は「一問一答の形で少しでも詳しい説明があるかと期待したが、裏切られた。税務署の書類だって、あんな収支報告書のようなものでは通らない。都民の恥だよ」と話した。

 自民党支持者の港区の自営業小園力さん(77)は「自民が『辞任』という言葉を言わなかったのは違和感があり、情けない。参院選で票が減るだろう」と語った。

 ■「会議相手」出さず/「資産隠し」新疑惑

 「政治の機微にかかわる」「私の信義として外には出せない」

 一連の疑惑の一つの焦点になっている「会議の相手」について、舛添氏は集中審議でもかたくなに名前を明かさなかった。正月に家族と泊まっていた千葉県のホテルを訪問した、と説明する人物名だ。

 最初に質問した与党・自民の都議が「誰なのか」と追及。野党・共産の都議も、どうホテルへの来訪を依頼したのか、交通費は払ったのかなど、細かく質問。しかし、舛添氏は「記憶にございません」「細かく覚えていない」とした。

 知事の公用車の運用についても質問が相次いだ。

 舛添氏が家族とNHKホールでのコンサートや東京ドームでのプロ野球・巨人の試合観戦の際に公用車を利用した問題。舛添氏は事実関係は認め、「都知事として家族同伴で来てくれ、と招待を受けたとの認識のもとで使った」とした。

 また「都がどういう音楽政策をやっていくのか。野球は20年東京五輪で追加種目として加わる可能性がある。そんな懇談をし、都政に大きく寄与していると思っている」とも主張した。

 野球観戦などがどの団体からの招待だったかとも問われたが、団体名については明らかにしなかった。

 新たな疑惑も出た。

 公明の都議は、政治資金300万円で購入した美術品93点を、解散した政治団体から現在の政治団体に引き継ぐ際、政治資金収支報告書に寄付として記載していないのは「資産隠しではないか」と指摘した。

 舛添氏は「『資料代』として支出したので資産という感覚がなく、そのまま引き継いだ。認識が間違っているなら、是正を考えたい」と述べた。

 また舛添氏が12、13年に、当時代表だった新党改革から「組織対策費」(組対費)として計1050万円を受け取っていたことも問題視された。現行制度では、政治家個人への組対費は使途を開示する必要がないが、質問した都議は「領収書を出すべきだ」と求めた。舛添氏は「保存の必要がないので、領収書は保存していない。自分で着服したことは一切ない」と主張した。

 ■延命としか…

 元三重県知事の北川正恭さんの話 リオ五輪に選挙日程が重なるから、不信任を猶予してくれなんて、延命を図っているとしか思えない。信頼が失われ、都政が停滞しているのが問題であって、全く関係ない。給与返上も含め、政治家が言ってはいけない禁句だ。

 今回の集中審議は物足りなかった。舛添氏は「反省します」「慎重にします」と繰り返し、知事としての説明責任を果たさぬまま。一方で、都議会側は具体的な事実を引き出せず、追及不足が目立った。ただ、舛添氏の疑惑は問題だが、都議会も「都民が怒っているから」という感情論で不信任を突きつけて良いのか、疑問は残る。

 06 14 (火) 憲法を考える     『超自我』と9条の根源

他国に振り回されない国の方向を持ちたい。 国際連盟も国際連合も、その目指す機能にかけている部分がある。 何かというと、平和のとらえ方に中核的理念がないことでした。

平和とは何でしょうか?

小学生でもこたえられるし、大学者も大政治家でも答えられる。 応える言葉は千差万別であってもいい。

私は、「へその緒のつながりこそ平和を規定する意味をもっている」と考える。 自分の命が伝わってきた根源だから、平和の根源もへその緒のつながりを尋ねることが直結すると思う。

愛も愛おしさも安心も、喜怒哀楽すべての根源になっていると解釈できる。 理性も犯罪も戦争も平和もすべて、その根源になっているからである。

おいしいナスを食べたいとしたら、まず茄子の作り方を熟知しなくてはならない。 それと等しく、戦争のない平和な社会に住みたいとしたら、まず平和に至る方法を熟知しなくてはならない。 当然と言えば当然であり、間違いなくそれに近づく手法である。

平和な社会を想定して、それ専門の人たちによって平和に至る方法を創りだしていただきたい。


2016年6月14日 (憲法を考える)
9条の根源
      哲学者・柄谷行人さん
      http://digital.asahi.com/articles/DA3S12407144.html

 憲法改正論の本丸が「戦争放棄」をうたった憲法9条にあることは明らかだ。自衛隊が米軍と合同演習をするような今日、この条文は非現実的という指摘もある。だが、日本人はこの理念を手放すだろうか。9条には別の可能性があるのではないか。9条の存在意義を探り、その実行を提言する柄谷行人さんに話を聞いた。

 ――安倍晋三首相は歴代首相と違い、憲法改正の発議に必要な議席数の獲得をめざす意向を公にしています。改憲に慎重な国民は参院選の行方を懸念していますが、柄谷さんは講演などで「心配には及ばない」といっています。

 「昔から保守派は改憲を唱えていましたが、いざ選挙となるとそれについて沈黙しました。改憲を争点にして選挙をやれば、負けるに決まっているからです。保守派はこれを60年以上くりかえしているのです。しかし、なぜ9条を争点にすると負けてしまうのかを考えず、この状態はそのうち変わると考えてきたのです。それでも、変わらない。事実、改憲を唱えていた安倍首相が、選挙が近づくと黙ってしまう」

 「実は、そのようなごまかしで選挙に勝っても、そして万一、3分の2の議席をとったとしても、改憲はできません。なぜなら、その後に国民投票があるからです。その争点は明確で、投票率が高くなる。だから負けてしまう。改憲はどだい無理なのです」

    ■     ■

 ――安倍政権は今のところ憲法を変えられないので、解釈改憲して安全保障関連法を整え「海外派兵」できる体制を作った。そうなると9条は形だけになりますね。

 「しかし、この『形』はあくまで残ります。それを残したままでは、軍事活動はできない。訴訟だらけになるでしょう。だから、どうしても改憲する必要がある。だけど、それはできないのです」

 ――なぜ9条は変えられないといえるのですか。

 「9条は日本人の意識の問題ではなく、無意識の問題だからです。無意識というと通常は潜在意識のようなものと混同されます。潜在意識はたんに意識されないものであり、宣伝その他の操作によって変えることができます」

 「それに対して、私がいう無意識はフロイトが『超自我』と呼ぶものですが、それは状況の変化によって変わることはないし、宣伝や教育その他の意識的な操作によって変えることもできません。フロイトは超自我について、外に向けられた攻撃性が内に向けられたときに生じるといっています」

 「超自我は、内にある死の欲動が、外に向けられて攻撃欲動に転じたあと、さらに内に向けられたときに生じる。つまり、外から来たように見えるけれども、内から来るのです。その意味で、日本人の超自我は、戦争の後、憲法9条として形成されたといえます」

 ――9条は占領軍が敗戦国日本にもたらしましたが、日本人が戦争体験の反省から作ったと考える人もいます。そうではないと。

 「9条は確かに、占領軍によって押しつけられたものです。しかし、その後すぐ米国が再軍備を迫ったとき、日本人はそれを退けた。そのときすでに、9条は自発的なものとなっていたのです」

 「おそらく占領軍の強制がなければ、9条のようなものはできなかったでしょう。しかし、この9条がその後も保持されたのは、日本人の反省からではなく、それが内部に根ざすものであったからです。この過程は精神分析をもってこないと理解できません」

 「たとえば、戦後の日本のことは、ドイツと比較するとわかります。ドイツは第2次大戦に対する反省が深いということで称賛されます。が、ドイツには9条のようなものはなく徴兵制もあった。意識的な反省にもとづくと、たぶんそのような形をとるのでしょう」

 「一方、日本人には倫理性や反省が欠けているといわれますが、そうではない。それは9条という形をとって存在するのです。いいかえれば、無意識において存在する。フロイトは、超自我は個人の心理よりも『文化』において顕著に示される、といっています。この場合、文化は茶の湯や生け花のようなものを意味するのではない。むしろ、9条こそが日本の『文化』であるといえます」

    ■     ■

 ――近著では、戦後憲法の先行形態は明治憲法ではなく「徳川の国制」と指摘していますね。

 「徳川時代には、成文法ではないけれども、憲法(国制)がありました。その一つは、軍事力の放棄です。それによって、後醍醐天皇が『王政復古』をとなえた14世紀以後つづいた戦乱の時代を終わらせた。それが『徳川の平和(パクストクガワーナ)』と呼ばれるものです。それは、ある意味で9条の先行形態です」

 「もう一つ、徳川は天皇を丁重にまつりあげて、政治から分離してしまった。これは憲法1条、象徴天皇制の先行形態です。徳川体制を否定した明治維新以後、70年あまり、日本人は経済的・軍事的に猛進してきたのですが、戦後、徳川の『国制』が回帰した。9条が日本に根深く定着した理由もそこにあります。その意味では、日本の伝統的な『文化』ですね」

 ――9条と1条の関係にも考えさせられます。現在の天皇、皇后は率先して9条を支持しているように見えます。

 「憲法の制定過程を見ると、次のことがわかります。マッカーサーは次期大統領に立候補する気でいたので、何をおいても日本統治を成功させたかった。そのために天皇制を存続させることが必要だったのです。彼がとったのは、歴代の日本の統治者がとってきたやり方です。ただ当時、ソ連や連合軍諸国だけでなく米国の世論でも、天皇の戦争責任を問う意見が強かった。その中であえて天皇制を存続させようとすれば、戦争放棄の条項が国際世論を説得する切り札として必要だったのです」

 「だから、最初に重要なのは憲法1条で、9条は副次的なものにすぎなかった。今はその地位が逆転しています。9条のほうが重要になった。しかし、1条と9条のつながりは消えていません。たとえば、1条で規定されている天皇と皇后が9条を支援している。それは、9条を守ることが1条を守ることになるからです」

    ■     ■

 ――憲法9条はカントの「永遠平和のために」、またアウグスティヌスの「神の国」にさかのぼる理念にもとづくとされます。それが他ならぬ戦後日本の憲法で実現されたのは興味深いですね。

 「私は、9条が日本に深く定着した謎を解明できたと思っています。それでも、なぜそれが日本に、という謎が残ります。日本人が9条を作ったのではなく、9条のほうが日本に来たのですから。それは、困難と感謝の二重の意味で『有(あ)り難(がた)い』と思います」

 ――日本は国連安全保障理事会の常任理事国入りに熱心ですが、それは9条とどう関係しますか。

 「今の国連で常任理事国になる意味はありません。しかし、国連で日本が憲法9条を実行すると宣言すれば、すぐ常任理事国になれます。9条はたんに武力の放棄ではなく、日本から世界に向けられた贈与なのです。贈与には強い力があります。日本に賛同する国が続出し、それがこれまで第2次大戦の戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになるでしょう。それによって国連はカントの理念に近づくことになる。それはある意味で、9条をもった日本だけにできる平和の世界同時革命です」

 ――現状では、非現実的という指摘が出そうです。

 「カントもヘーゲルから現実的ではないと批判されました。諸国家連邦は、規約に違反した国を処罰する実力をもった国家がなければ成り立たない。カントの考えは甘い、というのです」

 「しかし、カントの考える諸国家連邦は、人間の善意や反省によってできるのではない。それは、人間の本性にある攻撃欲動が発露され、戦争となった後にできるというのです。実際に国際連盟、国際連合、そして日本の憲法9条も、そのようにして生まれました。どうして、それが非現実的な考えでしょうか」

 「非武装など現実的ではないという人が多い。しかし、集団的自衛権もそうですが、軍事同盟がある限り、ささいな地域紛争から世界規模の戦争に広がる可能性がある。第1次大戦がそうでした」

 ――無意識が日本人を動かすとすれば、国民はどう政治にかかわっていくのでしょう。

 「日本では、ここ数年の間に、デモについての考え方が変わったと思います。これまでは、デモと議会は別々のものだと思われてきた。しかし、どちらも本来、アセンブリー(集会)なのです。デモがないような民主主義はありえない。デモは議会政治に従属すべきではないが、議会政治を退ける必要もない。デモの続きとして、議会選挙をやればいいのです」

 「現在はだいたい、そういう感じになっています。野党統一候補などは、デモによって実現されたようなものです。このような変化はやはり、憲法、とりわけ9条の問題が焦点になってきたことと関連していると思います」

 (聞き手・依田彰)

    *

 からたにこうじん 1941年兵庫県生まれ。69年、文芸批評家としてデビュー。著書に新刊「憲法の無意識」のほか、「世界共和国へ」「世界史の構造」など。



超自我

フロイトの心的装置理論(エス・自我・超自我)
      http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/line4.html

精神分析学では、人間の精神構造を『意識・前意識・無意識』という三つの層に分けて考えました。これは、自らが意識できる事と意識できない事、思い出せる事と思い出せない事といった日常的に経験される事柄を機軸に、様々な心理現象を決定論的に説明する為の理論モデルとしてフロイトにより提唱されたものです。フロイトは精神の構造に注目して提唱した無意識の三層構造モデルとは別に、臨床経験と精神分析学的思索を積み重ねる中でもう一つの精神に関する理論モデルに到達しました。

それは、精神の機能(心的機能)に着目して、人間の精神機能を『エス(イド)』『自我』『超自我』という三つの機能の相互作用として捉えようとするものです。私は、構造に対する機能として、また、心の内容の置かれる場所に対する心の作用を生み出す装置としてエス・自我・超自我を認識していますので、心的機能に関するフロイトのこの理論を一言で表す為に心的装置理論と呼びたいと思います。

もちろん、心的構造理論と心的装置理論の間には論理的連続性がないわけではなく、心の構造(場所)と機能(作用)は密接に関係していて、相互に対応している部分(エスは無意識領域で働くなど)もあります。そして、フロイトの精神分析学が古典的で非科学的という非難を受けながらも、なお現代でも有用である理論的部分として、『エス・自我・超自我の相互作用(欲望を充足しようとするエス・欲望を抑圧しようとする超自我・両者を調停しようとする自我のせめぎ合い)』があるのです。

それは、精神分析学が『力動的心理学』という名前で呼ばれる理由でもあります。精神分析でいう力動とは、意識に上り、思いのままに欲望を実現しようとする力と現実の状況や社会的道徳に合わせて欲望を抑圧する力、他者の欲望や社会規範との衝突を回避し、制裁を加えられない為に欲望の質や量を調整する力との相互的な葛藤(対立する諸力のぶつかり合い)の事を意味します。

『我々は無意識の概念を抑圧理論から得ている。抑圧されたものは、我々にとって無意識的なものの原型である。そこで我々は二種の無意識を持っている事を知っている。一つは、潜在的ではあるが、意識しようとすれば意識され得るものと、もう一つは抑圧されて、そのままでは意識され得ない無意識の二つである。』
参考文献 『精神分析概説 フロイト著』

ここで語られている事は、心的構造理論における無意識の心理内容が『抑圧』によって、通常の想起方法では思い出す事が出来ないという今まで述べてきた事です。フロイトは、周知の通り、抑圧という力動的な(欲望を他の力で抑えこむ)防衛機制を『神経症の主要原因』として最も重視していました。

抑圧とは、自我を守る為に、不安・恐怖・苦痛・悲哀・怒り・攻撃心といった不快感を生み出すマイナスの感情や欲望を無意識領域に抑えこむ防衛機制と呼ばれる精神の防衛方略の一つで社会環境に適応する為にある程度の抑圧は必要不可欠なものですが、それが過剰に働いたり、あまりに強い感情や苦痛である場合には、神経症(現代の精神医学では全般性不安障害・強迫性障害・パニック障害・PTSDなどの疾患名となりますが、フロイト時代には心理的原因による症状群を総称して神経症と呼んでいたのでそれに倣います)の原因となります。

自我防衛機制にはその他にも様々な種類があるので、それはまた別枠で説明したいと思います。まず、心的装置理論の各機能(エス・自我・超自我)の簡単な定義から始めて、その後でフロイト自身の伝記的足跡を辿りながら、彼がどのようにそれらの機能を考案し、理論化していったのかを見ていきましょう。

『エス(イド)』とは、激しく渦巻く心のエネルギーの原子炉のような領域で、全面的に無意識領域に属します。ありとあらゆる種類の『~したい』『~が欲しい』という本能的な欲望、生理的な衝動が湧き上がっている部分で、快楽を求め、不快を避けるという快感原則に従う動物的な生きる力の源泉そのものとも言えます。人間は心に欲求や衝動を感じると筋肉が緊張し、神経が興奮して、その欲求が満たされるまで苦痛や不快感を感じます。その欲求や衝動を即時的に満たして、不快や苦痛を避けて、快感や満足を得ようとするエスの力動傾向を快楽原則といいます。

エスの特徴として、善悪判断がない事と時間感覚や論理性がない事が挙げられます。エスを科学的に考えれば、生存する為に必要な生物学的本能とも言え、その基本的な機能はDNAによって祖先から子孫へと継承されているものです。具体的には、『腹が空いたから何か食べたい』という食欲、『気に入った好きな異性と性的関係を持ちたい(人間は、性愛に付随する恋愛観念を持ちますが、生物学的には子孫存続という生殖を目的とする動物的本能)』という性欲、『疲れたから休みたい、眠りたい』という睡眠欲といった三大基本欲求がエスの基盤としてあります。更には、『自分の楽しみを妨げる者や自分を不快にする者を攻撃したい』という攻撃欲求や『お金が欲しい。新しい商品が欲しい。』といった文明圏における金銭欲物欲も極めてエスに近い欲望と言えるでしょう。

こう書くと、エスは人間が普段あからさまに出す事が低俗で浅ましいと思っている欲望ばかりの感じがしますが、『~したい』『~が欲しい』という本能的な欲望や衝動は人間が生きていく為に絶対に必要なものであり、文化的な生活を送る現代人も労働の対価として報酬を得たり、きちんとお金を払って、欲しい商品を手に入れたり、恋愛・結婚関係を結んでから性的行為をしたりと、社会的に認知された正当とされる手段を用いて、若干の回り道をしながらも、最終的には『~したい』『~が欲しい』『~になりたい』といった本能的欲望を充足させる事を目的にしているのですから、エスは人間のあらゆる活動や意欲の原資となるエネルギーの貯蔵庫なのです。

ここまで、エスの定義を見てきて、皆さんはふと思い当たった事がありませんか。そうです、エスは赤ちゃんや小さな幼児の行動原理でもあるのです。そして、精神的・身体的に未熟な赤ちゃんや小さな幼児だけが、我がままで自己中心的なエスの欲望を周囲の親や大人たちの世話や配慮によって比較的よく満たす事が出来るのです。

また、キレやすい少年(大人)たちや他者に迷惑や被害を与えて何の反省もない人、犯罪行為を行って金銭を得て罪悪感のない人、邪魔な人間を殺して問題解決を図る人たちも、ある意味でエスの行動原理である快楽原則に従っているのですが、赤ちゃんや幼稚園生くらいの幼児なら大目に見られる事でも、大人や青年・少年たちの我がままや周囲に迷惑や被害を及ぼす自己中心的な行動、快楽獲得の為の凶悪犯罪等は当然に許される訳はなく、文化的な社会生活を営めるように自我や超自我の機能を高めて、精神的に成熟していかなければならないでしょう。

上記の様に、人間はいつも自らの本能的欲求を即座に満たせる訳ではなく、多くの場合には、その場で生じた欲求や衝動を我慢して諦めるか、その欲求を実現する為の手順や方法を考えて、ある程度の時間をかけて欲求充足を果たしていきます。余談ですが、エス(es)とはドイツ語で『それ』という意味であり、その語源は『神の死』を『ツァラトゥストラはかく語りき』で宣告した哲学者ニーチェの用語だとされています。ニーチェは、エスを人間を人間たらしめている基盤というような内面的本質として用いたようです。彼は精神性よりも身体性をより本質的なものとして重視していたので、フロイトの言う身体的な快を求める本能のエスとも確かに一脈通じるものがあります。

『自我(エゴ)』とは、自己中心的に快楽を追い求めるエスを現実状況や対人関係といった条件に合わせてコントロールする機能で、エス(本能的欲望)と超自我(禁止命令・倫理的判断・良心)の間の力動の調整の働きもします。

生活環境に適応した極めて現実的な判断を行うのが自我の役割であり、その結果として私達は現実的な利益や幸福を獲得したり、円滑な対人関係を維持したりする事が出来ます。エスを現実の状況や人間関係に合わせてコントロールする事が出来ないと、結局、争いや揉め事を生んだり、社会や集団に適応できなかったりする事で利益や幸福を取り逃してしまう事になってしまいますから、自我による欲望の制御はとても大切な心的機能なのです。言い換えれば、自我は、エスの欲望による無思慮で無謀な短期的利益を諦めさせて(あるいは、欲望実現を延期させて)、法律による処罰や倫理による制裁を回避して確実性のある長期的利益を獲得しようとする現実感覚であり、現実的調整能力でもあります。

自我は、エスの衝動や欲望が生起すると、まず一般社会の法規範や倫理規範、他者との良好な人間関係にそれが抵触しないかを確認して、その欲望の実現可能性を様々な角度(時・場所・状況・人間関係・法的善悪・倫理的善悪などを参照)から検討します。こういった現実状況や制限条件の吟味や検討をする自我の働きは、『快感原則』と対極の『現実原則』に従っています。

現実原則に従う自我(エゴ)は、生後約6ヶ月の頃から生物学的本能(エス)から分化して発達してくるとされています。それは、自らの食欲と睡眠欲をただひたすらに満足させるだけだった赤ちゃんが自分と外の世界の区別を漠然と感じ始める時期でもあります。しかし、こうした現実原則に従った自我の働きがいつも万全に問題なく機能するとは限りません。時にはエスの強烈な衝動の圧力に押し切られて我慢できなかったり、反対にエスを抑圧し過ぎて衝動や欲求がうまく処理されずに不安やフラストレーションが生じて心身の調子を壊す事もあります。

自我は、『~したい』『~が欲しい』の衝動的なエスと『~してはいけない』『~すべし』の倫理的な超自我の調停役で、精神構造全体のバランスを取る中心的機能です。また、現実状況を参照して判断を下すので、エスと超自我の対立や葛藤に直接巻き込まれる事がなく、健康な心理状態の場合には自律性を持って機能しています。

自我の機能を更に細かく見ると、以下の4つの機能があるとされます。

 • 現実機能
(自己と外界を区別して、外界を現実的に認知する働き。周囲の現実状況や環境
 における自己の立場、周囲の人の自己への評価などを的確に把握します。)
 • 適応機能
(現実の社会環境に適応しようとする機能です。周囲の状況に合わせたり、他者
 から受容される行動を取ったりします。自ら環境や他者を変える為に働きかける
 事もあります。)
 • 防衛機能
(エスと超自我をコントロールして、不快感につながる不安・恐怖・苦痛・罪悪感
 落胆などの心理状態が起こらない様に防衛する機能です。エスの無謀で無思慮な衝
 動を抑え込んだり、欲望の実現を状況に合わせて延長したり、欲望の向かう方向を
 変えたりしてある程度の満足を得ます。)
 • 統合機能
(エス・自我・超自我が協調して調和的に機能する様にバランスを取り、一人の個
 人として人格をとりまとめる統合の機能です。)

『超自我(スーパーエゴ)』とは、エスや自我よりも後の時期(約4~5歳の時期)に形成され発達してくる心的機能です。超自我の機能を簡単にまとめると、『善悪を判断して、善い行為を取るように勧め、悪い行為を取らないように禁止する良心あるいは道徳心』のようなものです。

誰でもが守る・守らないは別として、社会生活をスムーズに営む為に、自分自身に科する最低限のルールを内面化して持っています。『人の物を盗んではいけない』『人に暴力を振るってはいけない』『人を傷つけたり、殺したりしてはいけない』『朝、人と会った時には、必ず挨拶をしなければならない』『嘘をついてはいけない』『外では礼儀正しい振る舞いをしなければいけない』『乱暴な言葉遣いや下品な仕種をしてはいけない』『人間は平等な権利を持つ』等々、私達は個人差はあれ、社会や他者に適応する為の内面化されたルールを持っていて、それを無意識的に守っています。

法律がなければ、人を殺して金品を強奪するのは悪い事ではなく、何の良心の咎も自分は感じないだろうという人は、一般的な成長過程を辿り、親や友人との関係の中で他者との交流の喜びや信頼を経験したことのある人には通常いないでしょう。人間は、法律による処罰の有無とは関係なく、自分自身に対して感じる善い行いをした時の誇らしさや悪い行いをした時の罪悪感を持っているものです。こういった善悪に対する良心や判断の機能を司るのが、超自我であり、超自我は、親の褒め言葉や叱声・処罰といった躾(しつけ)や教師の生活面での教育的指導、そして、友人をはじめとする様々な社会的人間関係の中で次第に学習されて、自らの心の中へと内面化されていきます。

フロイトは、超自我の起源として、親のしつけを最も重視していて、自分に向けられる親の愛情や好意を失わないようにする為に、親が禁止したり、要請したりする生活規範や社会的なルールを内面化していくという説明しています。一旦、内面化されたルールは、その人の価値観の基底を形成する為、親があまりに偏った考え方や間違った意見を元にしつけをすると、性格の歪みや偏りにつながる危険性があるため、親は自分の感情やストレスの捌け口にするような怒り方をしないようにする事が大切です。そして、厳しく怒った後には『あなたを嫌いだから、叱ったわけではない』という安心感を与え、怒った理由の説明を優しくして、抱き締めてあげるなどのフォローが必要でしょう。

超自我は人間が悪い行為をしないようにする心の親であり監視役ですが、超自我の働きが過度に強すぎると、エスの欲求を全く満たす事が出来ずに、欲求不満の状態となり心のバランスを崩してしまう可能性もあります。超自我に反する事を無理矢理に行うと、通常、自我に不安や恐怖、罪悪感といったマイナスの感情が生じるのです。だから、余りに杓子定規な固い道徳観念を持っている場合には、強すぎる超自我を少し緩めるような方向に持っていく必要があるかもしれません。

また、超自我は、『~するな』という禁止だけではなく、『~すべし』という善い行為を勧める働きもするので、『自分は優れた~になりたい』『将来~ができるようになりたい』といった建設的な自我理想を作り上げる役割も果たします。超自我の『良い自分を目指す働き』によって、自我理想が適正に発達すると、自らの理想や目標に向けて継続して頑張り続ける原動力となります。

超自我は、弱すぎると善悪の分別がつかない反社会的な人間や他人の迷惑を省みない人間になる危険があり、強すぎると絶えず自分の内面にある良心を意識する事で、萎縮して自信を喪失してしまい、無気力や罪悪感に悩まされるといった危険があるため、適度な強度をもつ超自我が形成されることが望ましいのです。

フロイトは、ヨーロッパが第一次世界大戦の戦火に燃え、人類が暴力性や残虐性を露(あらわ)にしている様子を見て、深い悲嘆と絶望を味わい『自我とイド(エス)』という書物の中で、イドを野蛮で原始的な本能の領域として説明しています。フロイトは、イドを精神内界の暗い未開のジャングルであり、そこには、無軌道な欲望と憎悪や怒りの感情が蠢いていると述べています。進化論的なアナロジーを使用している部分では、人類は理性的思考能力を獲得する以前には、イドに支配されて動物的本能のままに『欲しいものを得る闘争』を常態として生きていたと考えていたようです。

このフロイトの人類史観は、文化人類学的な観点からは正しいものであるとは断言できませんが、戦争とは、正に人間の精神の奥深くに潜む原始的な破壊衝動と憎悪・憤怒の激しい解放なのかもしれません。野蛮で動物的だった人類も、時代が下るにつれて、安全な生活を維持する為に他者と協力して集団生活をするようになり、集団生活の秩序を守る為にある程度イドの欲望を抑制しなければならなくなりました。その結果、原始的な欲望のジャングルに新たな『自我(エゴ)』という開拓地が切り開かれていき、文明化された精神の黎明を迎えます。

自然世界のジャングルが開拓地を再び密林で覆い尽くそうとする関係と類似して、人間精神の本能(イド)は絶えず自我の領域を圧倒して、欲望をあからさまに満たさせようとします。現代でも、人間は耐え難い侮辱や攻撃を受けた時には、猛烈に激怒した瞬間には『相手を殺したい』というイドの動物的憎悪を抱く事がありますが、自我は、この凶悪な本能を抑止して、原始的手段とは異なった方法、例えば『話し合いや議論で解決する』『嫌な相手の事は忘れて、気晴らしをしたり、二度と会わないようにする』『相手の言い分をもっと良く聞いて理解するように努力する』といった方法で解決を図るようにイドのエネルギーの方向を変えます。

原始的本能のエネルギーを異なる方向に向けて、新たな建設的な目的や社会的に容認される行為に転換していく事を精神分析学では、『昇華』と呼びます。昇華は、非常に重要な心的防衛機制であり、生きる力の原動力であるエスの旺盛な人が、昇華を上手く利用する事が出来れば、政治・芸術・思想・学問・経済といった分野で創造的な仕事を成し遂げる事が出来るでしょう。反対にエスの強烈な衝動を抑制する自我があまりに弱いと、反社会的な犯罪行為に耽溺して自らの身を滅ぼしてしまったり、精神分析的病理学の観点からは統合失調症(精神分裂病)の契機となる可能性もあります。

そして、本能的欲望と自我の理性的思考の絶え間なき闘争こそが『葛藤や苦悩』を生み出す原因となっていきます。私達の心の中には猛々しい衝動とそれを統御する司令塔としての自我が存在するのです。