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折々の記 2016 ⑧
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】11/16~     【 02 】12/26~     【 03 】12/30~
【 04 】01/04~     【 05 】01/05~     【 06 】01/06~
【 07 】01/09~     【 08 】トランプ     【 09 】言論npo


【 04 】01/04

  01 04 我々はどこから来て、どこへ向かうのか:2   日本人って何だろう  DNA、多様なルーツ
       11面オピニオン  政治に臨む
  01 04 我々はどこから来て、どこへ向かうのか:3   「経済成長」永遠なのか  GDP、語られぬ限界
  01 04 敗戦翌月の昭和天皇勅語文案、修正重ね「平和国家」に  国立公文書館資料
       憲法を考える  「平和国家」国内外へ訴え

 01 04(水) 我々はどこから来て、どこへ向かうのか:2)     日本人って何だろう:DNA、多様なルーツ

DNA解析ができるようになって、日本人のルーツを求める著書がずいぶん出てきた。 新聞でこの種の解説をするのは大事なことである。 なんとなれば人としての祖先のルーツについて自覚が深まるからである。 この日本人としてのルーツを集団帰属本能として利用し、日本の進むべき方向を鼓舞した政治がいた。 そしてその結果、ひどい目に出会ってきた。

今の世界にしても、世襲意識は昔のままで、ハクスブルク家にしても中華思想にしても民衆の集団帰属意識を土台にして成り立っているではないか。 ハクスブルク家や中華思想のみならず、一軒の家の祖先にしても世襲意識は昔のままであり、その世襲意識のためにある種の権威意識による自惚れと如何ともしがたい劣等意識の社会が現前しているではないか。

こうしてみると、国家にしても個人の社会生活にしても、国家としての集団意識や個人生活としての優劣意識のために、ひどい目に出会ってきたし、これからもひどい目に出会うに違いない。

どうしたらいいのでしょうか?

このことは個人の独自性(originality)または独創性(identity)を活かすうえでは、ジャマになると思う。

    独自性  オリジナリティ ・ 独創 ・ 創意 ・ 創見 ・ オリジナリティー ・ オリジナル性 ・ 独創性
    (originality)  1 本物[原物]であること;本物
              2 独創の才,創造力
              3 (考え・方法・演奏などの)新しさ,新鮮味;新奇さ,奇抜さ,風変わり;新機軸;独創性,創意
    独創性  (他のものから得られたのではなく)新しくて、創意に富んだ性質
    (identity)   2 (他のものではなく)本人[その物]であること;(人・物の)身元,素性,正体;個性,独自性,本質


現在手元にある本
  「イヴの七人の娘たち」
  「日本民族秘史」
  「日本人になった祖先たち」
  「人類20万年 遥かなる旅路」
  「日本・ユダヤ封印の古代史」
  「古代日本ユダヤ人渡来伝説」
  「日本人のルーツはユダヤ人だ」
  「日本書紀と日本語のユダヤ起源」
  「『古事記』『日本書紀』の謎」
  「大和民族はユダヤ人だった」
  「大和民族 ユダヤ人説を追う」
  「諏訪神社 謎の古代史」
  「ユダヤ人の頭 日本人の頭」
  「ユダヤの格言」




朝日新聞 2017年1月3日05時00分
我々はどこから来て、どこへ向かうのか:2)日本人って何だろう
    http://digital.asahi.com/articles/DA3S12730504.html

【写真・図版】住民の半分が外国籍の保見団地(後方)でソアレス・マルコさんは暮らす=愛知県豊田市、林敏行撮影

日本人って何だろう

 ■vol.2 日本人

 様々なルーツを持つ日本人の活躍が、珍しくなくなった。「同質」を自分たちの特徴と考えてきた日本人。その自画像は、変わっていくのだろうか。(浅倉拓也)

 純粋な日本人。

 昨年は、そんな言葉について考えさせられた。

 8月、台湾にルーツがある蓮舫氏の国籍が、民進党代表選を前に問題視された一方、リオデジャネイロ五輪では、陸上のケンブリッジ飛鳥選手ら、外国にルーツがある日本代表に多くの人が喝采を送っていた。

 愛知県豊田市の保見ケ丘(ほみがおか)。住民約7千人の半分が外国籍というこの町で、高校3年のソアレス・マルコさん(18)も、テレビにかじりついた一人だ。日系4世のブラジル国籍。高校で本格的に陸上を始め、県の大会で入賞したこともある。将来は日本籍をとって、五輪をめざすという。

 浅黒い肌に、ひときわ澄んだ目。だが、まっすぐ座り、時々はにかむように話す姿は、日本のどこにでもいる男子高校生だ。

 やっぱり、外国ルーツの日本人選手が出ると、応援にも力が入る?

 「いや、それはないっす」。即答だった。「僕は自分のこと、ただの日本人と思ってるんで」

 生まれ育った保見団地の幼なじみは、多くがブラジル人だ。ただ、日本語で苦労する両親を通訳で助けたくて、日本人の子どもともつき合うよう努めた。

 日本国籍を取ろうと思うのは、五輪と関係ないという。「ずっと日本に住みたいんで。日本で生まれ育ったし、日本人の血もちょっと入ってるし。日本人でいいんじゃないですか」

     *

 日本人らしい容姿、という固定観念をくつがえそうとする人もいる。

 一昨年、ミス・ユニバース日本代表に選ばれた宮本エリアナさん(22)は、父親がアフリカ系米国人だ。長崎県佐世保市で日本人の母や祖母に育てられた。子どもの時は、肌の色の濃さから、いじめにもあった。

 日本での生きづらさを感じ、高校時代は米国で、父方の家族と暮らした。それでも、日本に帰るとほっとする自分がいた。

 「日本人じゃない」。日本代表に選ばれると、インターネットには、称賛と並んで、異議や差別的なコメントがあふれた。だが、そんな攻撃は「想定内でした」。むしろ、議論になるのを期待していた。

 コンテストに応募したのには、理由があった。同じく外国人の親を持つ友人が、自殺したのだ。「ハーフなのに英語が話せない」とからかわれるなど、祖国・日本の居心地の悪さをこぼしていた。

 「見た目が違う日本人がいるのを知ってほしい」。日本代表に選ばれた後、1年間で取材依頼は約400件にも上った。とりわけ海外メディアが反応した。

 別のコンテスト、ミス・ワールドでも昨年、インド系の吉川プリアンカさんが日本代表に選ばれた。

日本人とは何なのか。

DNA、多様なルーツ

(1面から続く)

 ミス・ユニバース日本代表の宮本エリアナさんの記事で、米誌ニューズウィークはこう書いた。

 「日本人は選択を迫られている。これまで通りの道を歩み、経済を縮小させ続け、国際舞台のプレーヤーから外れることを覚悟するか、『出る杭』に慣れ、(移民に)ドアを開くか」

 海外の記者はなぜ、褐色の肌の日本代表に目を引かれたのか。ニューズウィークの記事を書いたテイラー・ウォフォード記者は「日本人は同質だという感覚が、国際的にある。宮本さんの選出を、変化の兆しと受けとめたメディアもあるだろう」と答えた。

 そもそも日本人は同質なのか。  国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長によると、世界中の人の、母親から伝わるDNA系統をざっと100種類ほどに分類すれば、うち20種類以上が、日本人から見つかる。これは周辺の韓国や中国東北部と比べて多く、篠田氏は「日本人は、非常に大きな多様性を保ち続けている集団と言える」と語った。

 世界中の人は、20万年ほど前にアフリカで誕生して約6万年前から世界に散らばったホモ・サピエンスの子孫。日本列島では、縄文人と呼ばれる人々が暮らすようになり、その後、大陸から農耕や金属器を携えて来た渡来系弥生人と混ざりあった。これが、DNA研究が進んだ現在の定説だ。

 縄文人は骨の形などから南方系の均一な集団という考えが主流だった。だが、篠田氏は、現在のサハリンや朝鮮半島から来た人々など、縄文人も地域によって多様だったと考える。

 縄文人特有のDNAは、いまの日本人にも高い頻度で見られる。篠田氏は縄文人と渡来系弥生人が平和的に共存した証拠だとみる。「新しく来る者を受け入れ、うまく融合する。この寛容性こそ日本人の特長と言えるのではないか」

     *

 列島の大部分はその後、ヤマト王権に統治され、日本という国がかたちづくられていく。その過程は分かっていないことも多いが、古事記と日本書紀(記紀)は、九州の熊襲(くまそ)、山陰の出雲、東北の蝦夷(えみし)などが抵抗したと伝える。これらを王権側からみた先住民族ととらえる学者もいる。

 江戸時代の鎖国下でも、長崎では異民族との接触が続いた。

 長崎中国交流史協会専務理事で、唐人貿易を研究してきた陳東華氏(71)によると、最盛期は人口約6万の長崎に、年間のべ1万人の中国人が訪れたという。なかには、名家の日本人女性を妻にする中国人もいたという。「中国人との結婚は名誉なことだったのでしょう」と陳氏。貿易事務に携わる役人の「唐通事」は、こうしたカップルの2世が主に担ったという。

 ■「単一」「混合」変遷する民族意識

 だが、日本が近代化を遂げ、西洋の列強に肩を並べると、先進地だった中国や朝鮮の人々を蔑視する風潮が広まった。一方で、日本人のルーツは多様だ、という言説がさかんに広まったのもまた、台湾や朝鮮に領土を広げた大日本帝国時代だったようだ。

 歴史社会学者の小熊英二氏は、1995年の著書「単一民族神話の起源」で、明治から昭和の時代、日本人の自画像がどう移り変わったか、当時の言説をつぶさに分析した。

 戦前は、人類学の見地から、日本人は太古からアジアの様々な民族が混じり合った、という学説が主流だったという。学校では、神話が教えられ、熊襲や蝦夷を、「大和民族」に同化された異民族として紹介する教科書もあった。

 1910年の日韓併合で、朝日新聞の天声人語は「日本民種が世界の雑種なることは人種学者の一致する処(ところ)だ」と説いた。こうした「混合民族論」は、日本人がアジアの諸民族を統治するにふさわしい、という根拠に利用された。

 敗戦で一転、朝鮮人や台湾人は、日本国籍を失った。日本は昔から、基本的に一つの民族が島国で平和に暮らしてきた、という「単一民族論」が現れる。小熊氏は「国際関係への自信の喪失や、戦争疲れの心理に合致した」と指摘する。

 「同質」は高度経済成長期の会社を中心とした社会にマッチした。経済大国としての地位を確立すると、政治家は「単一民族」を、日本の強みや特殊性として語るようになった。

     *

 国連統計によると、先進諸国は人口に占める移民の割合が軒並み10%を超える。単純比較はできないが、日本の在留外国人はいまだ総人口の2%未満だ。

 日本の人口減少は深刻だ。移民を毎年20万人受け入れ、かつ出生率を2・07(15年は1・45)に上げたら、将来も人口1億人超を維持できる――。政府はそんな試算もしている。

 現政権は、「50年後に人口1億人程度」という目標を掲げ、出産・子育て支援策を打ち出した。

 人手不足の職場を支える外国人技能実習生や、専門能力をもった外国人材の受け入れ拡大にも積極的だ。こうした人材は、事実上の「移民」との見方もあるが、安倍首相は国会で、「移民政策はとらない」と、繰り返し明言している。

 日本社会に根強い「移民」という言葉への抵抗には、「単一民族」へのこだわりがのぞく。

 「同質という幻想につかり、自分自身の個性を大事にできない人は、他者の異なる個性も肯定できない」。こう語るのは、福岡県立大学の岡本雅享・准教授。出雲の出身だ。

 在日韓国人らの権利擁護に関わり、海外のマイノリティー政策を研究した。政治家の「単一民族」発言を調べるうちに、それが何民族を指すのか、示されていないのを奇妙に感じた。

 「もしそれが『大和民族』というなら、出雲の自分は違う」。戦前に広まった「出雲民族」の言説をたどり、国や日本人を見つめ直している。「戦後の『単一民族』もそうだが、『民族』の意識は、思いのほか短期間でつくられる」

 江戸時代の出雲の地図を、岡本氏が見せてくれた。現代のものとは上下逆で、「裏日本」と呼ばれた地域は、日本海を通じて、新しい文化をもたらす大陸に開かれているように見えた。出雲には、朝鮮半島の新羅や北陸の越(こし)から土地を引っぱってきたという、記紀にない創世神話がある。

 いま、街頭やメディアでさかんに「日本人」という言葉が唱えられ、一部で外国人排斥さえ露骨に叫ばれる。郷土や企業といった、かつてのよりどころを失った人々が、「日本人」の誇りにしがみつくことで安心感を得ようとしている、と岡本氏はみる。

 日本列島に住む人々の4万年の歴史を1年に例えると、明治時代以降は、大みそかの1日だけにあたる。世界で人の移動が加速するなか、「日本人」がよりどころとして、守っていくものは何だろう。(浅倉拓也)



11面オピニオン
  声欄が目につく。  (政治に臨む:上)とあるから四日の記事も併せて掲載する。

  (社説)資本主義の未来 不信をぬぐうためには
  (WEBRONZA)メディアが発信すべき情報とは有料記事
  (THE HUFFINGTON POST)芸大生は奇人変人ではない有料記事
  (声)政治に望む:上 平和や環境分野で世界に貢献を有料記事
  (声)政治に望む:上 戦争せず国を守れる方法考えて有料記事
  (声)政治に望む:上 核廃絶で日本が先頭に立て有料記事
  (声)政治に望む:上 米軍脅威から国民の命守れ有料記事
  (声)政治に望む:上 財政考え南スーダン撤退せよ有料記事
  (声)政治に望む:上 釘付けになる国会質疑を求む有料記事
  (声)政治に望む:上 沖縄についてもっと議論しよう有料記事

  (社説)分断される世界 民主社会の価値観守ろう
  (声 どう思いますか)2016年11月19日付掲載の投稿『丸腰になって米国から「独立」を』有料記事
  (声)政治に望む:下 自民党議員よ国民のために動け有料記事
  (声)政治に望む:下 実効性ある子どもの貧困対策を有料記事
  (声)政治に望む:下 龍馬のような政治家いないの?有料記事
  (声)政治に望む:下 原発全廃への道筋示してほしい有料記事
  (声)政治に望む:下 身近な市政への関心が基本有料記事


 01 04(水) 我々はどこから来て、どこへ向かうのか:3     「経済成長」永遠なのか;GDP、語られぬ限界

朝日新聞 2017年1月4日05時00分
(我々はどこから来て、どこへ向かうのか:3)「経済成長」永遠なのか
    http://digital.asahi.com/articles/DA3S12732279.html

【写真・図版】「成長」はいつまで、どこまで輝きを放つのか。東京都心(中央)から光が広がる=1万3700メートル上空、本社機から、林敏行撮影

「経済成長」永遠なのか

 ■vol.3 成長信仰

 いつしか「経済成長」は私たちにとって当たり前のものになっていた。だが、それは永遠のものなのだろうか。

 (編集委員・原真人)

 アベノミクスの大黒柱である日本銀行の異次元緩和はお札をどんどん刷って国債を買い支えるという、かなり危うい政策である。にもかかわらず世論の支持が高いことが不思議だった。

 思えば「成長よ再び」という威勢のいい掛け声と、「必ず物価は上がって経済は好循環になる」と自信満々の公約に、人々は希望を託したのかもしれない。

 希望をくじいたのはくしくも日銀が放った新たな切り札「マイナス金利政策」だった。昨年1月に日銀が打ち出すや世論調査で6割超の人が「評価できない」と答えた。いわばお金を預けたら利息をとられる異常な政策によって、人々がお金を使うようせかす狙いだった。これには、そこまでする必要があるのか、と疑問を抱いた人が多かったのだろう。

 政府も国民も高度成長やバブル経済を経て税収や給料が増えることに慣れ、それを前提に制度や人生を設計してきた。

 だがこの25年間の名目成長率はほぼゼロ。ならばもう一度右肩上がり経済を取り戻そう、と政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国である。

      *

 そこで疑問が浮かぶ。ゼロ成長はそれほど「悪」なのか。失われた20年と言われたその間も、私たちの豊かさへの歩みが止まっていたわけではない。

 その間、日本のミシュラン三つ星店は世界最多になったし、宅配便のおかげで遠方の特産生鮮品が手軽に手に入るようになった。温水洗浄便座の急普及でトイレは格段に快適になった。

 若者たちが当たり前に使う1台8万円の最新スマホが、25年前ならいくらの価値があったか想像してほしい。ずっと性能が劣るパソコンは30万円、テレビ20万円、固定電話7万円、カメラ3万円、世界大百科事典は全35巻で20万円超……。控えめに見積もったとしても、軽く80万円を超える。

 スマホに備わるテレビ電話や会話する人工知能の機能となると、25年前ならSF映画の世界の話だった。

 ただ、この便益の飛躍的な向上は国内総生産(GDP)というモノサシで測ったとたんに見えなくなる。80万円超の大型消費が、統計上はスマホの8万円だけに減ることさえあるのだ。

 そこで見えなくなってしまう豊かさの向上を考慮せず、「どんな政策手段を使ってでもとにかくGDPを膨らませよ」というのがアベノミクスの思想である。

 人間はそうまでして成長を追い求めるべきなのか。

 実は、いまのような経済成長の歴史が始まったのは200年前にすぎない。長い人類史のなかでは、ほんの最近だ。GDP統計が初めて作られたのは、さらにずっとあとのこと。1930年代の大恐慌、第2次世界大戦がきっかけだった。

 (2面に続く)

GDP、語られぬ限界

 (1面から続く)

 昨年夏、GDP統計をめぐるちょっとした論争があった。所管官庁の内閣府に日本銀行が「実態より過小評価されているのではないか」と問題提起したのだ。

 きっかけは日銀の若手職員が発表した個人論文。ただ論争には日銀上層部の意向も働いていた。アベノミクスの主軸として史上空前の超金融緩和をしながらインフレ目標を実現できず、成長にも結びつかない。現実へのいらだちがあった。

 数字ひとつで財政や金融政策を動かし、人々の景況感にも影響するGDP。その歴史は、長い人類史のなかでは意外と短い。

 世界で初めて国の経済全体の大きさを測ろうとしたのは英国。17世紀の英蘭戦争のためにどれくらい戦費が調達できるか知ろうとしたのだ。そこから現在のようなGDPになったのは、さらにあと。1930年代に英国、米国で大恐慌の対策を探り、第2次世界大戦に向けた生産力の分析を進めるためだった。(『GDP』ダイアン・コイル)

 一般的には1760年代の英国産業革命が成長の起点とされる。だが西暦1年~2000年代の世界の成長を人口や歴史資料から推定した経済学者アンガス・マディソンによると、1人当たりGDPがはっきり伸び始めた起点は60年ほど後の1820年ごろだった。

 その理由を投資理論家で歴史研究家のウィリアム・バーンスタインが『「豊かさ」の誕生』で分析している。1820年ごろになると、ようやく私有財産制度や資本市場が整い、迅速で効率的な通信や輸送手段が発達。技術進歩や新しいアイデアを評価する文化や制度ができて、成長を後押しする基盤が整ったという。

      *

 社会思想家の佐伯啓思・京都大名誉教授によると、国家が成長を必要としたのはもともと冷戦期に資本主義陣営が社会主義陣営に勝つためだった。「それだけのことにすぎない。なぜ成長が必要なのかという根源的な問いに、経済理論には実は答えがないのです」

 冷戦が終わったあとも成長への渇望だけが残った。むしろ成長の限界や弊害について、以前より語られなくなったのかもしれない。

 1970年代初頭、世界の科学者や経済学者たちが集まる民間組織ローマクラブがまとめた報告書『成長の限界』は、経済成長を謳歌(おうか)する人類への警告だった。人口が増え、先進国経済が膨張しすぎると、資源の使いすぎや環境悪化などからいずれ限界が生じる、という問題提起だった。

 いつしかその問題意識は薄れ、成長信仰だけがひとり歩きしはじめた。

 佐伯氏は「ローマクラブが指摘した問題の重要性は今も変わらない。これから無理やり市場を膨張させ、成長させようとする試みは競争や格差を激しくして、人間にとってますます生きにくい社会にしてしまうのではないか」と話す。

 ■低成長容認、社会に変化の兆し

 紙幣を発行し、金融政策をつかさどる中央銀行。その「元祖」は英国のイングランド銀行とされる。もともと民間銀行の一つだったが1844年の制度改正で中央銀行に進化した。

 つまり1820年ごろに始まる「成長」とともに誕生した機能だった。

 いま世界経済の成長スピードが落ちている。2008年のリーマン・ショックでマイナス成長に陥った先進諸国は、危機から回復した後も以前のような成長軌道に戻れていない。

 サマーズ元米財務長官は3年前、物質的に満たされた先進国は簡単に低成長から脱せないという「長期停滞論」を唱えた。

 日米欧の中央銀行はまるで自分の存在意義を確かめるように、ゼロ金利政策、量的金融緩和、マイナス金利政策……と成長を取り戻すための異例の緩和策を次々と繰り出した。

 「これは長い目でみれば中央銀行の終わりの始まりだ」と言うのは日銀出身で金融史にも詳しい岩村充・早稲田大大学院教授だ。

 中央銀行が政府から独立する必要があるのは、たとえ政権が代わっても、お金の価値が変わらない金融政策を続けることが経済の安定には大事だからだ。岩村氏は「政府といっしょになって成長のために異常な金融緩和を進める。そんな今の中央銀行に独立性はない。存在意義がなくなってしまった」と指摘する。

      *

 経済史の泰斗である猪木武徳・大阪大名誉教授は、成長を謳歌したこの200年間を「経済史のなかではむしろ例外的な時期」と言う。そのうえで無理やり成長率を引き上げようとする最近の政策に異を唱える。

 「低成長を受け入れる成熟こそ、いまの私たちに求められているのではないでしょうか」

 成長の意義も認めてきた猪木氏が最近そう考えるのは、成長そのものの役割が変質してきたからだ。

 「かつて経済成長には個人を豊かにし、格差を縮める大きなパワーがあった。最近は国家間の経済格差は縮まったものの、上っ面の成長ばかり追い求める風潮が広がり、各国の国内格差が広がってしまった」

 主要国の成長戦略、金融政策は往々にして強く富めるものを、さらに強くさらに富ませる傾向がある。それがトリクルダウン(滴がしたたり落ちること)で中間層、低所得層に広がるという想定だ。現実にはそうなっていない。

 19世紀の経済思想家ジョン・スチュアート・ミルはゼロ成長の「定常社会」を構想した。だが近代経済学は事実上、成長ぬきには語られなくなった。いつしかあらゆる経済理論が成長の持続を前提に組み立てられるようになったからだ。

 むしろ現実社会に変化の兆しが出てきた。たとえば最近広がりつつある、買わずにモノを共有するシェアリングエコノミー。大量消費と一線を画す動きだ。

 四半世紀にわたるゼロ成長期を過ごした日本人の意識に変化もうかがえる。

 博報堂生活総合研究所の定点観測調査によると、「日本の現状はこの先も、とくに変化はない」と見る人は昨年54%で、9年前より22ポイントも増えた。さらに身の回りで「楽しいことが多い」人が増え、「いやなことが多い」人は減った。

 同総研の石寺修三所長は「人々の意識が定常社会を前向きに受け止めつつある変化がはっきり示されている。いわば『常温』を楽しむ社会です」と話す。

 いま世界が直面する低成長が「成長の限界」を示すものかどうかは、はっきりしない。ただマディソンの2千年の成長率推計を見れば、この200年の2~3%成長が、まるでバブルを示す急騰曲線のようだとわかる。

 成長の鈍化はむしろ経済活動の「正常化」を意味しているのかもしれない。少なくとも成長は「永遠」だと思わないほうがいい。

 (編集委員・原真人)

 01 04(水) 敗戦翌月の昭和天皇勅語文案、修正重ね「平和国家」に       国立公文書館資料

 敗戦後初の帝国議会開院式で昭和天皇が述べた勅語の起草過程が、国立公文書館に保存されている資料から明らかになった。当時の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)首相らが検討を重ねた結果、第1案にはなかった「平和国家ヲ確立」という新たな目標が掲げられることになった。▼3面=「平和国家」打ち出した狙いは

 勅語が読み上げられたのは、日本が降伏文書に調印した2日後の1945年9月4日に開会した第88回帝国議会。同年8月15日の「終戦の詔書」(玉音放送)に続く天皇による直接のメッセージで、戦後日本の進む道を示した「平和国家」という言葉はその後、日本社会に広く浸透していった。

 国立公文書館に保管されている資料は「第八十八回帝国議会開院式勅語案」で、第1案から第4案まである。赤字で修正が加えられ、修正した人物の名も記されており、45年9月1日に閣議決定されるまでの流れがわかる。同館のデジタルアーカイブで公開されている資料の中から朝日新聞記者が見つけた。

 資料によると、第1案には「光輝アル国体ノ護持ト国威ノ発揚トニ邁進(まいしん)」との文言があり、「平和国家」はなかった。「川田嘱託原案」を内閣書記官が訂正したという記載があり、「終戦の詔書」作成にも関わった漢学者の川田瑞穂内閣嘱託が第1案の元となる案を書いたとみられる。

 第2案では「光輝アル……発揚トニ邁進」に削除を示す赤線が引かれている。「赤字ハ緒方書記官長」とあることから、緒方竹虎内閣書記官長が削ったと考えられる。そして第3案で、「平和的新日本ヲ建設シテ人類ノ文化ニ貢献セムコトヲ欲シ」という国家目標が掲げられる。「首相宮御訂正」とあり、東久邇宮首相自らが書き込んだようだ。

 「平和国家」に決まるのは第4案。「平和的新日本ヲ建設」が「平和国家ヲ確立」に直され、「赤字川田嘱託訂正」とある。

 当時は、ポツダム宣言受諾に伴い、連合国による日本の戦争指導者の責任追及が始まろうとしていた時期で、戦犯問題などへの厳しい国際世論を意識して修正が重ねられた可能性を指摘する専門家もいる。

 (編集委員・豊秀一)



2017年1月4日05時00分
(憲法を考える)「平和国家」国内外へ訴え (3面)
    http://digital.asahi.com/articles/DA3S12732248.html
    3面=「平和国家」打ち出した狙い

【写真・図版】第88回帝国議会開院式勅語案(4案)=国立公文書館所蔵

 安倍晋三首相が昨年12月、真珠湾訪問時の演説で言及した「平和国家」。その源流をたどると、1945年9月4日の昭和天皇の勅語に行き着く。敗戦から3週間、占領や戦犯追及が始まろうとする中、「平和国家確立」というメッセージを打ち出した狙いは何だったのか。▼1面参照

 ■戦争責任を意識か

 勅語の第1案は国民の一致団結が強調されるばかりで、「平和的新日本を建設」という積極的な国家目標が示されるのは第3案から。この修正を主導したのは、東久邇宮稔彦首相や緒方竹虎内閣書記官長ら政権中枢だったとみられる。

 日本は45年9月2日に降伏文書に調印し、連合国に無条件降伏した。戦争を終結させたポツダム宣言は戦争責任の追及や戦争犯罪人の処罰を掲げており、戦争責任者に昭和天皇が含まれるか否かは、政府関係者の重大な関心事だった。

 「天皇の戦争責任を回避するためにも、平和国家として生まれ変わることでポツダム宣言を履行する決意を、国際社会に向けて示したかったのではないか」と吉田裕・一橋大教授(日本近現代史)はみる。

 自分の言葉が海外にどう受け止められるのか、天皇も意識していたようだ。

 「昭和天皇実録」の45年8月23日の記載によると、天皇は重光葵外相と面会した際、終戦の詔書が「敵国側において印象悪しき理由及びその事情」を質問。「日本語による表現の趣旨を外国人が理解し得るよう説明することが一層肝要である」と述べたという。

 一方、国内では、8月15日以降も「徹底抗戦」を叫んで一部将校の反乱などが起きており、ポツダム宣言を履行していくうえで、軍隊の解体と武装解除を円滑に進めることが課題だった。吉田氏は「勅語は、軍人はじめ国民に、降伏したことを納得させるための、国内向けのメッセージでもある」と話す。

 ■理念浸透、9条への「土壌」

 米国の歴史学者ジョン・ダワー氏の著書「敗北を抱きしめて」によると、「平和国家建設」は「敗戦直後にもっとも流布した標語」の一つとなる。明仁皇太子(現天皇)の46年元旦の書き初めは「平和国家建設」だった。

 戦後の憲法学の権威となる宮沢俊義・東大教授(当時)も勅語にすぐに反応した。45年9月から「戦争終結と憲法」をテーマに特別講義をしているが、講義案の項目の一つが「平和国家の確立」だった。勅語を掲載した新聞記事の切り抜きが貼られ、「わが国は(ポツダム宣言受諾)以後の根本的国策として特に平和主義の確立を約束したわけである」とある。

 もちろん、「平和国家」を歓迎する意見ばかりではなかった。

 「これ迄(まで)の日本は、平和国家でなかったか。平和国家でないとすれば侵略国家であったか」(「徳富蘇峰終戦後日記」)

 和田春樹・東大名誉教授は、言論界の重鎮が残したこの言葉に着目し、天皇の勅語は、戦後70年が過ぎても解けない歴史認識の対立の原点だと指摘する。

 そしてそれは、日本国憲法が占領軍による「押しつけ」かどうかをめぐる論争にも直結する、と和田氏は言う。「昭和天皇の勅語は『戦争国家』から『平和国家』へ転換するという国民に対する提案だった。人々は広くそれを受け入れ、憲法9条の平和主義を歓迎する土壌となった。国民の多くにとって憲法は押しつけではなかった」

 46年11月3日。日本国憲法の公布の日、昭和天皇は詔書を発している。

 「朕は、この憲法によつて、民主主義に徹した平和国家を建設する基礎が定まるに至つたことを深くよろこぶ」

 (編集委員・豊秀一)

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 <開院式と勅語> 瀬畑源・長野県短大助教によると、帝国議会の開院式は帝国議会が天皇の協賛機関であることを示す儀式。勅語の朗読で開会が宣言された。勅語の内容は、内閣書記官長を中心として草案を作成し、閣議で内定を出してから、内大臣と協議して確定。閣議決定、上奏、裁可の手続きを経る。日本国憲法の下では、国会開会式で天皇は「おことば」を述べる慣例になっている。

 ■勅語原文と現代語訳

 (前略)朕(ちん)は終戦に伴ふ幾多の艱苦(かんく)を克服し国体の精華を発揮して信義を世界に布(し)き平和国家を確立して人類の文化に寄与せむことを冀(こいねが)ひ日夜軫念(しんねん)措(お)かす此(こ)の大業を成就せむと欲せは(後略)

 (現代語訳)

 私は、終戦に伴う多くの苦しみを克服し、わが国の真価を発揮し、信頼を守り道義を果たす努めを世界に知らしめ、平和国家を確立して、人類の文化に貢献することを希求し、ひとときも忘れることなくこの大業を成し遂げようと思っている。

 (寺島恒世・国文学研究資料館副館長監修)

【下平記】
年末から今日まで、穏やかな日差しが続いている。 若い人たちのようにお勤めはない。 高齢者になっても若い人たちに迷惑にならないように、衰えてきた体の健康には気をつけなくてはならないことが多い。

テレビでもいろいろと参考になることを放映してくれ、また書店からも健康に関する雑誌が引き続いて出されています。 見たり読んだりするだけではなく、よく飲みよく食べよく笑えるように、野菜をつくり飲食膳の作り方を身につけ必要な運動やウォーキングをして、元気に生きていきたいと思います。

また、長年に見聞してきたことを頭におき、バトンタッチをする側のものとして恥ずかしくないように振舞いたいと考えております。

四日までのマスコミからのデータによると、憲法成立七十年にあたるので、陛下が志してきた想い(私は平和国家の確立を中核としていると思います)と現総理の集団統帥で志向する将来像(私は命を大事にした政策とは思えない)に対して、私は一抹の不安を感じています。 そんな一般民衆の気持ちをヨォーク察してその内容をマスコミの方々がテレビや新聞、雑誌で代行して表現してくれることを望みます。

朝日新聞の方向はそうした意味合いで、独自性をもって国民の代表として恥ずかしくない方向を志向してほしい。