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続折々の記 2019②
【心に浮かぶよしなしごと】

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                新元号発表
                新元号発表記事
                天声人語  令和に関して・他

【 03 】04/01~

 04 01 (月) 新元号発表    明るい時代を願う

今朝は5時に起床した。 周囲はもう薄明るい。

つい三日前に「春はあけぼの」と題して日記を書いた。 こよみを調べてると (東京)日の出 05時33分 だった。 今朝は (東京)日の出 05時28分 で、分表示で 5分 早くなっている。 お彼岸からは 16分 早くなっている。 この16分の違いは非常に早い変化なのです。 遅い変化の時期は夏至と冬至あたりの変化なのですが、夏至と冬至ともに三日間で 1分 になっている。

平安時代に日本文化は開花すると思っていたが、これははやトチリだった。 記紀や万葉集を見ると、すでに文化は開花していたと考えないといけない。

平安文化と考えやすいのは言葉が漢字使用の文化であり、しかも漢字の導入から万葉仮名を使えるまでの努力を見逃してはいけない。 平安文化以前は万葉仮名使用の文化が既にあった。

それはともかく、夜明けは春らしく早くなってきている。

平成は30年間でこの4月に終わる。 新しい元号の時代になってから、戦争を目指す政治をかえて戦争空気を一新してもらいたい。

戦争の卒業という旗の旗手となってほしい。 後は11:00の新元号発表を待つ。



時間は少し遅れたが、菅官房長官が発表。 その額には 『令和』 という元号が書かれていた。

昼食後PC朝日デジタルで調べその概要をつかんだ。


新元号は「令和」 万葉集典拠、国書由来は初
   2019年4月1日11時58分
   https://digital.asahi.com/articles/ASM3Z4V6QM3ZUTFK007.html

【写真】新元号を発表する菅義偉官房長官 2019/04/01 AM 11:42 首相官邸

 菅義偉官房長官は1日午前11時40分ごろ、首相官邸で記者会見し、新しい元号は「令和(れいわ)」と発表した。典拠は奈良時代に完成した日本に現存する最古の歌集「万葉集」。日本で記された国書に由来する元号は確認できる限り初めてとなる。元号を改める政令は即日公布され、皇太子さまが新天皇に即位する5月1日に施行される。

  ➡ 「令和」どう思う?「堅すぎますね」「災害ない時代に」
  ➡ 【特集】新元号は「令和」
  ➡ 【速報中】新元号、きょうの動きをタイムラインで

 天皇退位に伴う改元は憲政史上初めて。1989年1月に始まった「平成」は、残り1カ月で幕を閉じる。

 万葉集にある歌の序文「初春(ショシュン)の月(レイゲツ)にして、気淑(キヨ)く風(カゼヤワラ)ぎ、梅は鏡前(キョウゼン)の粉を披(ヒラ)き、蘭は珮後(ハイゴ)の香(コウ)を薫(カオ)らす」(書き下し文)から二文字をとった。

 新元号は645年の「大化」から数えて、248番目。「大化」から「平成」までは、確認されている限り中国の儒教の経典「四書五経」など漢籍を典拠としており、安倍政権の支持基盤である保守派の間には国書由来の元号を期待する声があった。安倍晋三首相は記者会見して典拠を万葉集とした理由について「我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書だ」と説明した。

 元号の選定手続きは1日午前9時ごろから始まった。政府の要領に沿って、菅氏は横畠裕介・内閣法制局長官の意見を聴いたうえで、元号の原案として数案を選定した。午前9時半すぎから、ノーベル賞受賞者の山中伸弥京大教授ら、各界の有識者9人による「元号に関する懇談会」に原案を提示。元号候補とその典拠、意味などについて説明し、メンバーそれぞれから意見を聴いた。

 菅氏は午前10時20分ごろから衆院議長公邸で、大島理森衆院議長ら衆参両院の正副議長の意見を聴取。その後、全閣僚会議を開き、新元号を記した元号を改める政令を臨時閣議で決定した。元号を改める政令は天皇陛下の署名・押印、官報掲載を経て、1日中に公布される。憲法は政令の公布について、天皇が内閣の助言と承認の下で行う国事行為の一つと定めている。

 新元号の公表に先立ち首相官邸は、宮内庁を通じて天皇陛下と皇太子さまに閣議決定後に新元号を伝達した。政府は前回の改元でも、即位直後の天皇に「平成」を事前伝達している。

 新しい元号をめぐって政府は、「平成」が始まって間もない時期から、国文、漢文、日本史、東洋史などの学者に元号の考案を水面下で依頼。今年3月14日付で正式な委嘱手続きをとった。政府は「元号に関する懇談会」に示した原案すべてについて、考案者を記した記録を公文書として残すが、当面は明らかにしない方針だ。

 政府は元号について、国民の理想としてふさわしいようなよい意味▽漢字2字▽書きやすい▽読みやすい▽これまでに元号またはおくり名として用いられたものでない▽俗用されているものでない(広く一般に使われていない)――の六つの要件を定めている。

 天皇陛下は4月30日に退位。5月1日に皇太子さまが即位し、新元号が始まる。天皇退位に伴う改元は、光格天皇の退位で「文化」から「文政」に改元された1818年以来、約200年ぶり。


すぐ万葉集歌の序文の調べをする
万葉集入門
   http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu5_815jyo.html

日本最古の和歌集「万葉集」の解説サイトです。
分かりやすい口語訳の解説に歌枕や歌碑などの写真なども添えて、初心者の方はもちろん多くの万葉集愛好家の方に楽しんでいただきたく思います。
(解説:黒路よしひろ)

梅花の歌三十二首 序を并せたり(旺文社の対訳古典シリーズの写真)

天平二年正月十三日に、 そちおきないへあつまりて、宴会を ひらきき。
時に、 初春しよしゆん令月れいげつにして、気 く風 やはらぎ、梅は 鏡前きやうぜんふんひらき、 らん珮後はいごかうかをらす。 加之しかのみにあらずあけぼのの嶺に雲移り、松は うすものを掛けて きぬがさを傾け、 ゆふべくきに霧結び、鳥はうすものに めらえて林に まよふ。庭には 新蝶しんてふ舞ひ、空には 故雁こがん帰る。
ここに、天を きぬがさとし、地を しきゐとし、膝を ちかづさかづきを飛ばす。 ことを一室の うちに忘れ、 ころものくび煙霞えんかの外に開く。 淡然たんぜんみづかほしきままにし、 快然くわいぜんみづから足る。若し 翰苑かんゑんにあらずは、何を以てか こころを [※1]べむ。詩に落梅の篇を しるす。 いにしへと今とそれ何ぞ異ならむ。宜しく園の梅を して いささかに短詠を成すべし。
  ※1:「述」は原文では「手」遍+「慮」


【現代文意訳】
天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。

【ブログでの説明】
この漢詩風の一文は、梅花の歌三十二首の前につけられた序で、書き手は不明ですがおそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)の作かと思われます。
その内容によると、天平二年正月十三日に大宰府の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたとあります。
このころ梅は大陸からもたらされたものとして非常に珍しい植物だったようですね。 当時、大宰府は外国との交流の窓口でもあったのでこのような国内に無い植物や新しい文化がいち早く持ち込まれる場所でもありました。
この序では、前半でそんな外来の梅を愛でる宴での梅の華やかな様子を記し、ついで梅を取り巻く周囲の景色を描写し、一座の人々の和やかな様を伝えています。
そして、中国にも多くの落梅の詩があるように、「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいます。 我々からすると昔の人である旅人たちが、中国の古詩を念頭にして「いにしへと現在と何の違いがあろう」と記しているのも面白いところですよね。
この後つづく三十二首の歌は、座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっています。
後の世の連歌の原型とも取れる(連歌と違いここでは一人が一首を詠んでいますが)ような共同作業的雰囲気も感じられ、当時の筑紫歌壇の華やかさが最もよく感じられる一群の歌と言えるでしょう。


 04 02 (火) 新元号発表記事    明るい時代を願う

テレビでは引用文が白文で出ており、これを記録しておきたかった。 2日の新聞に出るだろうと思っていた通り、それが載っていた。 コピーは出来なかったが、書き留めることができ嬉しかった。

総理がうまいこと言っていたので、これも記録しておきたかった。 この方は記事としてコピーできた。 言行一致でないかぎり、国民を欺くことになる。 総理の言葉は、国民ほとんどが履いていたと思うから、口にした通りのことへ進んでいってほしい。

それができれば、心の底からもろ手を上げて喜べる。


令和 新元号、万葉集から
   2019年4月2日
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S13960933.html?ref=pcviewer

 平成に代わる新しい元号は「令和(れいわ)」に決まった。菅義偉官房長官が1日、首相官邸で記者会見して発表した。奈良時代に完成した日本に現存する最古の歌集「万葉集」を典拠とした。日本で記された国書を典拠とする元号は、確認できる限り初めてとなる。元号を改める政令は即日公布。皇太子さまが新天皇に即位する5月1日に施行される。

 令和は248番目となる元号。「令」の字が使われるのは初めてで、「和」は20回目。アルファベットの頭文字での表記は「R」とする。

 典拠となった万葉集は20巻から成り、約350年間にわたって詠まれた約4500首を集めている。天皇から防人(さきもり)、無名の農民まで幅広い歌人が含まれ、地方の歌も多くある。引用したのは梅の花の歌の序文「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」(書き下し文)。歌人・大伴旅人(おおとものたびと)が大宰府長官時代に宴会を開いた時につくった。

 安倍晋三首相は記者会見で「厳しい寒さの後に見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたいとの願いを込めた」と述べた。

 元号の選定手続きは1日午前9時ごろから始まり、菅氏は横畠裕介・内閣法制局長官の意見を聴いたうえで、元号の原案として6案を選定。有識者9人による「元号に関する懇談会」、大島理森衆院議長ら衆参両院の正副議長、全閣僚会議で意見を聴いた。元号を「令和」に改める政令を臨時閣議で決めたうえで、午前11時41分に菅氏が発表した。

「令和」の典拠

  ■出典
    「万葉集」巻五、梅花の歌三十二首併せて序
  ■引用文
    初春令月、気淑風和、
    梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香
  ■書き下し文
    初春の令月にして、気淑く風和ぎ、
    梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす
  ■現代語訳(中西進著「万葉集」から)
    時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらか
    に、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、
    蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている。

「英弘」「広至」「万和」「万保」など候補 新元号「令和」

 政府が「元号に関する懇談会」などに提示した六つの原案は、「令和」のほか、「英弘(えいこう)」「広至(こうじ)」「万和(ばんな)」「万保(ばんほ)」などだったことが、複数の政府関係者への取材でわかった。


(平成から令和へ 退位改元:1)
初の国書、首相のこだわり

 日本の歴史上で初めてとなる国書を典拠とした元号となった「令和」。国書へのこだわりは、安倍晋三首相の1日の記者会見に表れていた。「我が国の悠久の歴史、薫り高き文化、そして四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいくべきだ」

 首相は2006~07年の1次政権時代から「元号の典拠は国書の方がいいよね」と周囲に語っていた。今年2月下旬の財界人との会合で新元号が話題になると、自ら「国書」という言葉を2回繰り返したという。昨年10月に中国を訪問した際には、日中の企業関係者を集めたフォーラムで、こんなあいさつをしていた。

 「5世紀、日本に漢字がもたらされた。漢文の奥深さは日本語を豊かにした。19世紀になると、日本人は漢字を使って西洋の思想を翻訳した。新しい単語は中国に逆輸入され、今でも中国語として使われている」

 中国の伝統文化に敬意を表しつつも、日本の独自性を強調する発言は「そろそろ国書から元号を」という思いがにじんでいた。

 今年1月、これに呼応するようにある論考が発表された。「中国古典にとらわれず新元号を」。筆者は山梨県鳴沢村にある別荘で毎夏、首相と懇談を重ねる日本財団の笹川陽平会長だ。

 「日本には優れた造語の歴史があり、特に明治以降は約1千語もの和製漢語が中国に導入され、現在も広く使用されている」と指摘。「新元号は中国の古典からの引用をやめ、わが国独自の自由な発想で定めてほしい」とも提言した。

 元号を決める4月1日当日。政府の原案は、A4判の1枚の紙に六つ、縦書きで記された。典拠は国書と漢籍が三つずつ。50音順に並び、左端が「令和」だった。

 首相官邸での全閣僚会議で、杉田和博官房副長官は6案の出典や意味を、順番に説明。最後の「令和」については、こう付け加えた。「『令』という字が元号に使われたことはありません」。有識者による懇談会でも「令和」への支持が多かったことを報告した。

 「私も日本のものから取るのがいいと思います」。河野太郎外相が口火を切ると、他の閣僚からも賛同する意見が相次いだ。

 安倍首相は会議をこうまとめた。「今までずっと漢籍だった。国書も立派な歴史を積み重ねてきたから、国書からの出典でもいいのでは。みなさんの意見を踏まえて令和にしたい」
 (2面に続く)

(平成から令和へ 退位改元:1)
六つの原案、半数は国書

 (1面から続く)
 日本で記された国書を典拠とする元号を――。有識者9人による「元号に関する懇談会」や全閣僚会議で多数を占めた意見だったが、安倍晋三首相も望むこの日の結論に向けた動きは、着々と進んでいた。

 新元号の決定が迫った3月。政府が考案を依頼した学者のもとには14日付で、改元の実務を担う古谷一之・内閣官房副長官補から委嘱の知らせが届いた。暗に保秘の徹底を求める一文も添えられていた。「政府から先生のお名前を公表することは決してございませんので、引き続きご協力を賜りますよう、よろしくお願いいたします」

 中国文学や東洋史だけでなく、日本文学などの学者も複数選んだ。そのうちの一人と目される国文学者の中西進氏(89)は万葉集研究の第一人者だ。万葉集は、音を漢字に当てはめた表音文字の万葉仮名で記されており、意味を重視する元号には向かないと言われるなか、昨年10月の朝日新聞の取材にこう語っていた。「万葉集にも少しは漢文があるから、そのなかで良いものがあればとれる」。漢文で記された序文からとった「令和」を予言するような発言だった。

 漢詩研究の第一人者として知られる石川忠久・元二松学舎大学長(86)も国書を典拠とする案を考案。十七条憲法の「以和為貴」(和をもって貴しとなす)からとった「和貴(わき)」を含む13案を政府に出した。

 寄せられた元号案の整理は菅義偉官房長官のもとで進められ、安倍首相も3月に確認した。4月1日のテレビ朝日の番組で首相は「どれも本当に甲乙をつけがたい、すばらしい案ばかりだったが、その中に令和もあった」と明かした。

 1日の「元号に関する懇談会」などに政府が提示した原案六つのうち半数の典拠は国書。万葉集と日本書紀、古事記だった。石川氏が提出し、6世紀に中国で成立した全30巻の詩文集「文選(もんぜん)」を典拠とする「万和(ばんな)」など漢籍由来もあったが、最終的に万葉集が典拠になった。保守系の閣僚経験者は「支持層にも喜ばれると思う」と歓迎した。

 しかし、国書の漢文は漢籍を引きながら記されている例が多い。元号の典拠とすれば、漢籍の「孫引き」になるという指摘はつきまとう。国文学や中国文学の専門家からは、「令和」の典拠とした万葉集の梅の花の歌の序文について、漢籍にルーツがあるとの声が早くもあがっている。

 衆参両院の正副議長への意見聴取でも、「令和」が梅の花の季節に詠まれた歌の序文であることから、郡司彰・参院副議長が「元号が特定の季節を指すのはどうか」と異論を述べた。

 首相はこうした点も意識したのか、夕方からNHKや民放各局への出演を続け新しい元号のアピールを重ねた。「SMAPの『世界に一つだけの花』という歌がある。それぞれの人々が花を咲かしていく。次の時代もですね、若い皆さんも含めて夢や希望が花開いていく時代にしていきたい」

 ツイッターやインスタグラムへ首相談話を投稿。首相がこだわる国書を選び、談話も自ら発表した。そんな姿勢に元政府関係者は眉をひそめる。「時の首相の思いが強調される形になるのは避けた方がいい。元号は時の政権のものじゃなくて国民のものなんだから」

 ■極秘任務30年、改元前に去った黒衣

 新たな元号に向けた準備は、1989年1月に「平成」が始まって間もなく、水面下で動き始めた。

 極秘の任務を背負ってきたのは、内政担当の内閣官房副長官補(旧内閣内政審議室長)。国文学、漢文学、日本史、東洋史の碩学(せきがく)に考案を依頼した。学者が亡くなると新たに追加し、常に3~5人に頼んでおくという作業を続けてきた。

 提出を受けた元号候補は、案ごとに出典や意味が1枚の紙にまとめられ、学者別に束ねて整理された。この30年間に積みあげられてきた案は、およそ100。副長官補室の金庫に収められ、歴代の担当者らが定期的に学者と面会して「在庫管理」(政府関係者)を継承してきた。

 現在の古谷副長官補は2013年4月に就任。天皇陛下が16年8月に退位の意向をにじませるビデオメッセージを公表すると、準備作業を本格化させた。考案者たちと都内で極秘に面会を重ね、「お考えに変わりありませんか」「追加はありませんか」と最終的な意向を確認し、下準備を整えた。

 政府内には副長官補を支える「黒衣(くろご)」が存在していた。国立公文書館の2人の職員だ。同館所蔵の漢籍を研究しながら、特別に「内閣事務官」の肩書を与えられて、元号や皇族の名前の考案を補佐してきた。

 「そのうち1人は平成改元の時から関わっている。学者ですら薄っぺらく感じるような専門家だ」。政府関係者は打ち明ける。

 この男性は中国地方の戦国大名の一族の末裔(まつえい)で、専修大から二松学舎大院に進み、当時同大教授だった宇野精一・東大名誉教授(中国哲学)に師事した。

 宇野氏は平成改元時の考案者の一人で、「正化」などの案を提出した。「その考案作業を宇野氏のもとで手伝っていたのが、大学院生だった男性だ」と宇野氏を知る学者は明かす。

 複数の元政府関係者によると、男性は平成の初めごろ、公文書館の研究職に。学者とのやり取りや元号案の整理、過去の元号やおくり名(天皇などの没後の呼称)との重複がないかのチェックなどを担っていた。今回、考案の委嘱を受けた学者のもとにも、男性はたびたび訪れていた。副長官補らの求めに応じ、男性が元号や出典、考案者の候補について助言をすることもあったという。

 こうした任務は極秘で、「保秘」のため内閣官房の一室が専用の作業部屋に当てられた。公文書館の同僚も何をしているか知らされておらず、「あまりに出張が多いと不審がられていた」(同館関係者)。

 男性は中国文学や東洋史などの主要学会にも入会。学会関係者は「仕事をお願いする学者に目星をつけたり、人物評を収集したりしていたようだ」と言う。

 男性は高齢で病弱だったため、10年ほど前に後を継ぐ若手が追加され、「黒衣」役は2人となった。そして昨年、男性は新たな元号を見届けることなく、ひっそりと亡くなった。

 改元準備に携わった元政府関係者の一人は「副長官補らは長くても数年で代わってしまう。男性の存在が、脈々と続く元号の準備作業を支えてきた」としのんだ。

     ◇

 平成から「令和」への改元をめぐる舞台裏を4回にわたって追います。


皇太子さま・陛下へ、閣議決定後に伝達 新元号「令和」

 新元号とともに天皇に即位する皇太子さまや、現在の天皇陛下に新元号が伝えられたのは菅官房長官が発表する直前の1日午前11時半過ぎ。新元号は臨時閣議で決定後、宮内庁の山本信一郎長官に電話で伝えられ、山本長官が東宮御所で待機していた西村泰彦次長に電話。西村氏はメモを取り、皇太子さまに見せた。万葉集からの出典とも伝えた。皇太子さまはにこやかな表情で「わかりました」とこたえたという。天皇陛下にも同じ頃、皇居・御所で山本長官から伝えられた。「いつものような表情でお聞きいただいた」という。陛下はその後、新元号に関する政令に署名・押印した。安倍首相はこの日、陛下や皇太子さまに面会しなかった。


連載:天声人語
奈良時代から来た元号

▼〈なかなかに人とあらずは酒 つぼに成りにてしかも酒に染みなむ〉。いっそ人間をやめ、ずっと酒に浸れる酒壺になりたい。突拍子もない願望を歌にした人がいたものである。大伴旅人(おおとものたびと)。奈良の昔、公卿にして一流の教養人だった
▼旅人は天平2(730)年春、九州・大宰府の公邸で宴を催している。招かれたのは九州一円の役人や医師、 陰陽師おんみょうじら31人。庭に咲く梅を詠み比べる歌宴だった。「初春の 令月れいげつにして、気淑(きよ)く風 やわらぎ」。旅人の書き残したとされる開宴の辞から採られたのが、新元号「令和」である
▼辞には続きがある。「天空を覆いとし、大地を敷物として、くつろぎ、ひざ寄せ合って酒杯を飛ばす。さあ園梅を歌に詠もうではないか」。枝を手折り、雪にたとえ、酒杯に浮かべる公卿らの姿が浮かぶ
▼「令和」にどのような感想をお持ちになっただろう。令や和の字を名に持つ方は、これからしばらく話題に事欠くまい。ここを商機と万葉集コーナーを設けた書店もある。お祭り騒ぎはしばらく続きそうだ
▼さて、万葉の昔に戻れば、60余年の大伴旅人の生涯に、元号は驚くほど頻繁に代わっている。やれ吉兆の亀が発見されたと言って「神亀」。奇跡の水が見つかったと「養老」。ほかに「朱鳥」「大宝」「慶雲」「和銅」「霊亀」「天平」。まるで改元のインフレ期のようである
▼そんな時代を知る旅人だが、酒席で述べた 挨拶あいさつが1300年後の元号になってしまうとは。二日酔いの夢にも想像しなかったことだろう。


「令」「和」、次代への思い映す
 序文、「中国の文章ふまえた」定説 新元号「令和」

   https://digital.asahi.com/articles/DA3S13960896.html?ref=pcviewer

 元号の典拠として初めて使われた国書は「万葉集」だった。一般によく知られる日本最古の歌集だが、専門家はどうみるか――。

 万葉集に関する著書が多い歌人の佐佐木幸綱さんは「万葉集は明治から昭和前期まで『国民歌集』で、日本人の心の原点として読まれた。戦後、そうした読み方が色あせ、現在は大学の卒論などでも人気はそれほどではない」と解説。そのうえで「山や川、海の描写の細密さ、多彩さなど、現代人が忘れ去った自然への興味と好奇心がうたわれている。この機会に万葉集の新しい魅力が発掘されるのでは」と期待する。

 ただ、「令和」の二文字がとられた序文は中国の有名な文章をふまえて書かれたというのが、研究者の間では定説になっている。

 小島毅・東大教授(中国思想史)によると、730(天平2)年正月に今の福岡県にあった大宰府長官を務める大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で宴会があった。そこで「落ちる梅」をテーマに詠まれた32の歌の序文にある「初春の令月」「風和(やわら)(ぐ)」が新元号の典拠だ。この序文が中国・東晋の政治家・書家である王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」を下敷きにしているとし、心地よい風が吹き、穏やかでなごやかな気分になることを意味する「恵風和暢(けいふうわちょう)」という一節と重なるという。

 さらに「梅は中国の国花の一つで中国原産ともされ、日本に伝わった。今回の元号選びは、ふたを開けてみれば、日本の伝統が中国文化によって作られたことを実証したといえる」とも指摘する。

 また、村田右富実(みぎふみ)・関西大教授(日本上代文学)は「6世紀の中国南朝の梁(りょう)でつくられた全30巻の詩文集『文選(もんぜん)』にある後漢の張衡(ちょうこう)の『帰田賦(きでんのふ)』に典拠がある」とみる。「文選」は中国では文人の必読書となり、日本でも飛鳥、奈良時代以降、役人らに盛んに読まれた。「今回の元号は万葉集を典拠にしたのは間違いないが、その元になるものがあったという背景を踏まえ、万葉集に興味を持ってもらえれば」

 日本文学研究者のロバート・キャンベルさんも「中国で伝統的に歌われる情景」として「帰田賦」説を唱えつつ、「国書か漢籍かということはどうでもよく、国を超えて共有される言葉の力、イメージを喚起する元号だ」と評価する。

 漢字の成り立ちに詳しい加納喜光・茨城大名誉教授は、「令」には上から下へ指図する命令の令と、命令を聞く民がきちんと並ぶ様から「姿、形がよい」の二つがあると解説する。令和には「自然・環境がよく、気候が穏やかで、国民はなごやかである」という意味を読み解いた。

 乾善彦・関西大学教授(国語国文学)は、常用漢字表の前書きで「筆写の楷書では、いろいろな書き方があるもの」の一つとして「令」も挙げられていることに着目。「発表の際に掲げられた『令』の字は最終画が左にはねているが、書き方が自由なので、自由な時代になるんじゃないでしょうか」と話す。

 ■<考論>時代の空気、くみ取った 元号の歴史に詳しい、所功・京都産業大名誉教授

 初の国書由来の元号になるなら、来年、編纂(へんさん)1300年を迎える日本書紀かと思っていた。日本の和歌集で最古の万葉集を典拠としたのは、意外だったが、「英断」だと思う。日本の文化と言えば、やっぱり倭歌(やまとうた)とも称される和歌。和歌の会の漢文で書かれた「序文」からとったことは、より妥当だったと思う。

 元号に「令」が使われるのは初めてだが、平成の「成」も昭和の「昭」も初めてだった。「令嬢」や「令夫人」というように良い美しい意味があり、いい文字だと思う。

 (初の国書由来は安倍晋三首相の思いが反映されたとの指摘に)それはあんまり意識しすぎない方がいい。グローバル化が進む中で、日本人全体に単なるナショナリズムと異なるアイデンティティーを求める流れがある。自分たちのよって立つ根っこを持っていたいという思いは、ごく自然に今の若い人にもある。そういう時代の空気をくみ取ったと言っていい。

 ■<考論>歴史への理解、遠ざける 元号を避けて叙述する、保立道久・東京大名誉教授

 私は元号を歴史用語として使うことは避けている。歴史の本質を注視する文化が必要だと考えているからだ。

 日本史の事件名には元号が付くことが多いが、普通の人が数多くの元号を覚えるのは大変で、理解から遠ざかってしまう。例えば「承和(じょうわ)の変」(842年)、「貞観(じょうがん)津波」(869年)と言われても何のことかわからないのではないか。

 承和の変は皇太子の座を追われた恒貞(つねさだ)親王が怨霊化し、後に火雷天神になったとも言われた事件で、私は「恒貞廃太子事件」と言っている。また、貞観津波は「9世紀日本海溝大津波」。東日本大震災と同じ形の津波で、約600年で繰り返すと地震学は早くから警告していた。これらは9世紀の話だが、現代も同じことだ。

 元号法は、元号を政令で定めると規定しているだけ。行政が元号の使用を強制している実態はおかしい。元号法は、撤廃してほしいと考えている。


【下平】

梅について

   東風吹かば匂い起こせよ梅の花
      主なしとて春な忘れそ   菅原道真


子供ころから天神様としてお宮で合掌してきた。 大宰府でも、北野天満宮でも手を合わせてお参りしてきた。 日本人にとってはあまりにも知られていた菅原道真公で、学びの神様として、あるいは君侯への忠節臣として頭に直ぐうかぶ。

初春の花として誰しも愛でる花である。 中国でなくとも長い寒い冬が過ぎて咲く素敵なかぐわしい花だ。


初春令月 春の花として令嬢にも似る梅の和やかな白い花 …… 元号として大歓迎である。

和について

日本書紀に記載されている憲法十七條の冒頭の条文が中核と思う。

【原文】
   一曰、以和爲貴、無忤爲宗。

【書下し文】
   一に曰く、を以て貴しと為し、さからうこと無きを宗とせよ。

【典拠】
   孔子の『論語』第1卷 学而第12「有子曰 禮之用和爲貴」の和爲貴 わをたっとしとなす


和はなごやかとも読み、手を取りあって仲よく暮らすことを意味する言葉である。 相互信頼を含み相互の愛、助けあってこそなごむといえる。

これはもともと親子の絆に発している。 そしてそれはまた、家族の在り方の根底になっている。 誰しもそういうことを普段話の中では口に出さないが、人としての一番大事な心構えに違いない。 私はそんなように考えている。



【 03 】04/01~

 04 03 (水) 天声人語    令和に関して

元号の理解は万葉集にかかわり、古代人の心の郷愁への想いをひきおこす。 その一つとして天声人語が万葉の歌を披露している。


天声人語

2019/04/02 奈良時代から来た元号

  なかなかに人とあらずは酒つぼに成りにてしかも酒に染みなむ

いっそ人間をやめ、ずっと酒に浸れる酒壺になりたい。突拍子もない願望を歌にした人がいたものである。大伴旅人(おおとものたびと)。奈良の昔、公卿にして一流の教養人だった

▼旅人は天平2(730)年春、九州・大宰府の公邸で宴を催している。招かれたのは九州一円の役人や医師、陰陽師(おんみょうじ)ら31人。庭に咲く梅を詠み比べる歌宴だった。「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ」。旅人の書き残したとされる開宴の辞から採られたのが、新元号「令和」である

▼辞には続きがある。「天空を覆いとし、大地を敷物として、くつろぎ、ひざ寄せ合って酒杯を飛ばす。さあ園梅を歌に詠もうではないか」。枝を手折り、雪にたとえ、酒杯に浮かべる公卿らの姿が浮かぶ

▼「令和」にどのような感想をお持ちになっただろう。令や和の字を名に持つ方は、これからしばらく話題に事欠くまい。ここを商機と万葉集コーナーを設けた書店もある。お祭り騒ぎはしばらく続きそうだ

▼さて、万葉の昔に戻れば、60余年の大伴旅人の生涯に、元号は驚くほど頻繁に代わっている。やれ吉兆の亀が発見されたと言って「神亀」。奇跡の水が見つかったと「養老」。ほかに「朱鳥」「大宝」「慶雲」「和銅」「霊亀」「天平」。まるで改元のインフレ期のようである

▼そんな時代を知る旅人だが、酒席で述べた挨拶(あいさつ)が1300年後の元号になってしまうとは。二日酔いの夢にも想像しなかったことだろう。


2019/04/03 万葉人の心

 二つなき 恋をしすれば 常の帯を 三みえ結ぶべく わが身はなりぬ

万葉集研究者の中西進さん(89)は子ども向けにこう解説する。「恋の病でウエストが三分の一になる」。万葉人を身近に感じてもらう工夫である

▼2年前、富山市の「高志(こし)の国(くに)文学館」に中西館長を訪ねた。週末の夕方だったが、取材は予定時間を大幅に超えた。文学に疎い記者に何とか万葉の魅力を伝えたいという熱意を感じた

▼中西さんはまず音読を勧める。「声に出して。リズムを楽しんで」。読み進むにつれ輪郭が浮かぶのは、かなわぬ恋、単身赴任のつらさ、中間管理職の悩み、老いのさびしさ、有名人のゴシップ……。貴族も漁師も防人も喜怒哀楽はいまを生きる私たちと変わらない。そう教えられた

▼万葉集が中国文学から受けた影響を研究してきた。各地の小中学校を回って授業し、ファン層の拡大にも労を惜しまない。万葉研究ではまぎれもない第一人者だろう

▼そんな中西さんが新元号「令和」の考案者ではないかと報じられている。政府が明らかにしない限り、ご当人からは、そうとも違うとも言い出しにくいはずである。万葉集が脚光を浴びるいま、その普及に尽くしてきた中西さんが、窮屈な立場に追い込まれてはいないか

▼安倍晋三首相はテレビ局をはしごして新しい元号に込めた思いを説いた。だが、ほんとうに聞きたいのは碩学(せきがく)による奥行きのある解説だ。考案者であろうとなかろうと、いまこそ「中西万葉学」の出番だろう。


令和になった時代から昭和平成に逆行する

安保法で初の事例
監視軍に派遣、閣議決定
   自衛官2人、シナイ半島の司令部に


安全保障関連法に基づき、自衛隊の活動が広がり始めている。政府は2日の閣議で、エジプト・シナイ半島にある多国籍監視軍(MFO)の司令部要員として自衛官2人の派遣を決めた。安保法で可能になった「国際連携平和安全活動」として、初めてのケースになる。▼オピニオン面=社説

閣議決定した実施計画によると、イスラエル、エジプト両軍の活動を監視しているMFOの司令部に今月19日~11月30日に自衛官2人を派遣。両軍とMFOとの連絡調整に当たる。

安保法に基づく国際連携平和安全活動は、国連以外の国際機関が行う活動でも平和維持活動(PKO)に類する任務であれば自衛隊を派遣できる。政府は薗浦健太郎首相補佐官らを現地に派遣し、事前に視察させた結果、紛争当事者間の停戦合意などを定めた「PKO参加5原則」を満たすと判断した。

2017年5月に撤収した南スーダンPKO以降、自衛隊の部隊派遣は途絶えている。一方、安保法が16年3月に施行されてから、自衛隊の活動は幅を広げつつある。新たな任務に基づく海外派遣の実績をつくりたいという政府の思惑が背景にある。

南スーダンPKOで派遣された自衛官には、安保法で可能となった「駆け付け警護」と宿営地など共同防護の任務が同年11月に付与された。

自衛隊が平時から米軍の艦船や航空機を守る「武器等防護」は、18年に16件実施。17年の2件から急増した。防衛省によると、海上自衛隊から米海軍艦艇への燃料補給は18年に3件(約1082キロリットル)。北朝鮮が弾道ミサイルを発射していた17年は4~12月だけで17件(約5536・5キロリットル)に上った。

岩屋毅防衛相は2日の閣議後会見で「国連が統括するPKOでなくても参加できることになり、国際貢献の幅が広がった」と述べ、安保法によるMFO派遣の意義を強調した。(藤原慎一)

■増える任務、限られた予算

佐道明広・中京大教授(日本政治外交史)の話 PKOは住民保護のため武器使用を避けられないものに変質した。今回の要員派遣は、PKOへ部隊を派遣できなくなっていることの裏返しだ。日本のプレゼンスを示す意義はあるが、要員派遣だけを続ければ、湾岸戦争と同様、「日本は現場で汗をかかない」と信頼を失う可能性もある。自衛隊の任務は増え続ける一方、予算は限られ、少子高齢化で隊員確保も難しい。憲法前文と9条に照らして、自衛隊に何を求めるのか、国民全体で議論するべきだ。

【下平追記】安全保障関連法に基づいて行われた主な自衛隊の活動が新聞紙上に出ていた。 この言葉の検索サイトには色々出ているが、冒頭の「平和安全法制 - Wikipedia」は正規サイトではないにしても、知っておくべき内容と思う。

    【参考のために】日ロ政府が「戦略対話」
日ロ両政府が二国間関係や国際情勢について話し合う「日ロ戦略対話」が2日、東京都内で行われた。外務省の秋葉剛男事務次官、ロシアのチトフ第1外務次官らが出席。6月に大阪で開かれる主要20カ国・地域(G20)首脳会議の際に予定されている日ロ首脳会談に向け、日ロ平和条約締結交渉や北朝鮮情勢などを議論した。
日ロ戦略対話は2007年に始まり、今回で15回目。


▼オピニオン面=社説
シナイに自衛官 国際協力の議論深めよ

 政府はきのう、エジプトのシナイ半島でイスラエル、エジプト両軍の停戦を監視する多国籍監視軍(MFO)の司令部に、陸上自衛隊の幹部自衛官2人を派遣する計画を閣議決定した。

 3年前に施行された安全保障関連法で新たに認められた「国際連携平和安全活動」の初めてのケースになる。国連平和維持活動(PKO)でなくても、国際的な枠組みで行われる類似の活動に自衛隊も参加できるようにしたものだ。

 国連のお墨付きのない活動に自衛隊の海外派遣を拡大するというのに、これまで国会などで、十分な検討が加えられてきたとは言いがたい。

 政府は、司令部のある半島南部は「おおむね平穏」で、PKO参加5原則も満たすとしているが、今回の派遣を機に、日本の強みをいかし、真に現地の役に立つ国際平和協力のあり方について議論を深めるべきだ。

 そのためには、カンボジアに始まって、ゴラン高原やハイチなど各地で展開したPKO活動のみならず、特別措置法をつくって自衛隊を派遣したイラクでの復興支援活動なども含め、実績を整理し、課題と教訓を引き出す必要がある。

 特に点検が欠かせないのが、大規模な武力衝突が起こるなど、不安定な治安の下で行われた南スーダンPKOだ。政府は安保法に基づく新任務「駆けつけ警護」を付与したが、実施されることなく、数カ月後に部隊は撤収した。「日報」問題の混乱もあり、活動の検証はおろそかなままだ。

 いま、日本のPKO参加は、南スーダンに残してきた司令部要員4人だけで、積極的平和主義を掲げる安倍政権は新たな派遣先を探していた。シナイ派遣には、安保法の新任務や自衛隊の海外活動の実績づくりという狙いもあろう。

 今回、司令部への要員派遣となった背景には、大規模な部隊を送りにくくなった現状がある。近年、PKOの多くが、紛争下での住民保護のため、積極的に実力を行使する活動へと変質しているためだ。

 そんななかでも、日本にできる支援策として、復興に必要な油圧ショベルなど重機の使い方について他国軍の教育訓練にあたる能力構築支援や、自衛官や警察官、法務官僚らが紛争後の国の軍隊、警察、司法制度づくりに協力する治安部門改革(SSR)などが、有力な選択肢となりうるだろう。

 派遣実績の積み上げや、対米配慮のために自衛隊を出すという発想から、もはや脱すべき時だ。現地の実情を知るNGOの意見も聞きながら、支援の質の向上を図らねばならない。