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続折々の記 2019②
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 05 02 (木) 05/02 新聞記事    令和元号について

昭和の初めに生まれ平成、令和に至る90年間、歴史の変化は大きかった。 家族、地域社会、大きい集団としての国家、これらの人々の生活は今では地球規模での殺し合いと破壊の現実となってしまいました。 歴史は繰り返す、人々はこうした歴史の繰り返しの中で生きてきた。 そう言わざるを得ないのです。

私のひたすらな願いは、人殺しと破壊の武器を作らないことと、いろいろな花や木が仲良く命を全うできるようにすること、この一点に集中しなければならないという思いです。

令和の時代になって、日本は世界の先頭に立って戦争の放棄を志向したい、私のひたすらな願いは、こうした一転に集中しています。


2019年5月2日05時00分
令和、幕開け 陛下「国民に寄り添い、象徴の責務果たす」
   即位後朝見の儀

   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000200.html?ref=pcviewer

 「令和」元年の初日となった1日、新天皇陛下が126代(神話も含む)天皇として即位し、皇居で諸行事に臨んだ。首相らと会う「即位後朝見の儀」には、新皇后の雅子さまも出席した。陛下は最初の「おことば」で、「憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望いたします」と述べた。

 陛下は59歳で、記録が残る8世紀以降の天皇では、2番目に高齢での即位となった。皇后さまは55歳。

 陛下は1日午前10時半から、皇位のしるしとされる「三種の神器」のうち、剣と璽(じ)(まが玉)などを受け継ぐ「剣璽(けんじ)等承継の儀」に臨んだ。皇位継承権のない女性皇族の出席は認められず、成年の男性皇族だけが出席。皇位継承順位第1位で「皇嗣(こうし)」となった秋篠宮さま、同3位で上皇さまの弟・常陸宮さまが見守った。宗教色のある神器を国事行為に使うことは憲法に抵触するとの指摘もある。

 安倍晋三首相をはじめ各閣僚も参列した。

 その後、即位後朝見の儀があり、陛下は首相や閣僚、地方自治体の首長ら約300人を前に皇位継承を宣言した。「この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします」と語った。続いて安倍首相が「国民を挙げて心からお慶(よろこ)び申し上げます」と述べた。

 昭和天皇逝去で喪に服しながら実施された前回と違い、今回は202年ぶりに退位に伴う代替わりで、祝賀ムードとなった。前回、当時の天皇陛下(上皇さま)はモーニングコートで喪章を付け、女性皇族方も黒いロングドレス姿だったが、今回陛下は燕尾(えんび)服に、天皇という特別な地位に基づき「大勲位菊花章頸飾(けいしょく)」などの勲章を身につけて臨んだ。皇后さまも歴代皇后に受け継がれたティアラを頭につけ、ローブ・デコルテと呼ばれる華やかな白いロングドレス姿だった。

 皇后さまは適応障害の療養が続くが、体調は回復傾向にあるという。皇嗣妃となった紀子さま、長女眞子さま、次女佳子さまもこの日、秋篠宮さまとともに様々な行事に出席した。

 4日には皇居で即位を祝う一般参賀がある。両陛下は皇族方と予定では6回、宮殿のベランダに立つ。上皇ご夫妻は出席しない。(中田絢子、島康彦)

 ■天皇陛下のおことば(全文)

 日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。

 この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。

 顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心(みこころ)を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯(しんし)に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。

 ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽(けんさん)に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望いたします。

 <天皇陛下> 名は徳仁(なるひと)。1960年2月23日、上皇ご夫妻の長男として誕生。幼少時の称号は浩宮(ひろのみや)。学習院大学文学部卒。英オックスフォード大学で学び、留学経験のある初の天皇に。長女愛子さま。趣味は登山、ビオラ演奏。水問題を研究する。

 <皇后陛下> 名は雅子(まさこ)。1963年12月9日生まれ。父は元外務事務次官の小和田恒(ひさし)氏。幼少期を旧ソ連や米国で過ごし、米ハーバード大学経済学部卒。87年外務省入省。93年に結婚して皇室へ。趣味はスキー、テニス。

 ■「ナルちゃんをよろしく」 続く勉強会

 「梓(あずさ)会」というグループがある。

 天皇陛下が皇太子になって間もない頃、将来に備えて必要な教養を身につけるため、美術や歴史、経済や音楽などに精通する各界の専門家ら約15人が集まってできた勉強会だ。「梓」は陛下のお印(しるし)(皇室の方々が身の回りの品などにつける目印)からとった。

 不定期に都内の美術館などで陛下を囲んだ。毎回4~5時間ほどに及び、陛下がライフワークとして研究を続ける「水」問題関連の専門家ものちに加わった。

 メンバーの一人によると、発足のきっかけは上皇さまの一言だった。

 「ナルちゃん(陛下の愛称)をよろしく」。1973年、あるメンバーは皇太子時代の上皇さまからそう言われ、後に進講をするようになった。それがやがて梓会へと発展した。陛下について「自ら現地を訪れ、感じたことを大切にされる方。今後も自身の考えを深めていかれるでしょう」。

 実際、陛下は水問題の研究にあたり、国内外の関連施設を足しげく巡った。

 昨年6月には徳島県を日帰りで訪問。地震津波碑で国内最古級とされる「康暦(こうりゃく)の碑」(美波町)を視察した。同町文化財保護審議会の酒井勝利副会長(74)が「次の世代に教訓として伝えていきたい」と話すと、陛下は「それは良いことですね。ここへ来られて良かった」と応じたという。

 津波災害などを研究している村上仁士(ひとし)・徳島大名誉教授は「過去の歴史を教訓として伝えるのは大切なこと。今後も発信を続けていただければ、国民の防災意識も高まると思う」と期待を寄せる。(多田晃子)


(1条 憲法を考える:2)
「皇室に親しみ」、ふわっとした国民統合
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000114.html?ref=pcviewer

 憲法1条は天皇について、「日本国の象徴」であるとともに「国民統合の象徴」とも定める。平成の30年間、全国を駆け回り、被災者らに寄り添って平和の大切さを伝えてきた上皇ご夫妻の姿を通じて、国民の間には好感が広がった。これは、象徴天皇制や「国民統合」の理想モデルなのか。(藤田さつき)

 1日昼過ぎ、東京・新宿駅前。「新天皇即位」を伝える号外が配られると、多くの人が集まった。友人と買い物に来た女性(22)は「記念として机に飾ります」。「天皇制も元号も日本だけですから」と話し、駅で記念切符も買ったという男性(45)もいた。

 ちょうどひと月前、同じ新宿で大型ビジョンを前に人だかりができた。「令和」の文字が映し出されると、ざわついていた人々が無言になり、一斉にスマートフォンを掲げて撮影を始めた。通りかかった写真家の咲塚せりずさん(34)は、思わずカメラを向けた。

 「令和に対する感想やその場にいる動機、それぞれが持つ価値観もバラバラのはずなのに、全員が一点を見る姿に目を奪われた」

 混沌(こんとん)とした空気の中に、高揚感と冷静さが同居するように見えたという。

 令和カウントダウンイベントや記念グッズ販売、代替わりの2日間に続いたテレビ特番――。奉祝ムードの中で、国民の間に天皇による「ふわっとした統合」が広がっているかのようだ。そんな社会の空気は、朝日新聞の世論調査の結果にも表れている。

 今年4月の郵送調査で、「皇室に親しみを持っている」と答えた人は過去最高の76%に上った。1980年前後には40%台まで落ち込んだが、平成に入ると上昇していった。

 仙台市の下山正夫さん(74)と栄子さん(75)夫妻は、2011年3月の東日本大震災を機に親しみを深めた。震災で父親(当時92)と自宅を失った。約1カ月後、避難生活を送っていた体育館に上皇ご夫妻が訪れた。美智子さまは、正座する栄子さんの前にひざをつき、「お体はいかがですか」と話しかけて手を握ったという。「温かくて包まれるようで。涙が出てきて言葉になりませんでした」と栄子さん。正夫さんも「我々もがんばらなきゃと、心の支えになった」と振り返る。

 終戦の前年に生まれた下山さん夫妻は、昭和と平成の天皇の印象の違いをこう話す。「昭和天皇はお姿を見る機会が少なかったせいか、戦争のきついイメージが残っていた。でも、平成のお二人には実際にお会いして、『偉い方』というイメージだった天皇陛下が、国民に寄り添ってくれる穏やかな方という印象に変わりました」

 一段高い所で国民を見守る存在から、国民に直接会いに行き、寄り添う存在へ。こんな天皇の姿勢に国民からの支持は集まり、象徴天皇制の「理想型」と考える人も多い。4月の世論調査では、新天皇に期待する役割として最も多くの人が挙げたのが「被災地を訪問するなどして国民を励ます」(66%)ことだった。

 ■変わる社会、私たちも考える時

 大災害が起きるたびに被災地を訪れ、慰霊の旅や障害者らとの面会を重ね、国民の中へと懸命に分け入っていく天皇像は「平成流」と称された。

 ただ、高見勝利・上智大学名誉教授(74)=憲法学=は「平成の天皇は憲法1条の『国民統合』の意味するところを変えた」とし、こう解説する。

 「憲法制定当時、統合とは天皇を中心として国民がまとまっている『状態』が想定されていた。ところが平成の天皇は、多様化する国民を自ら統合する『行為』と捉えていたように思われる」

 天皇の役割として憲法が定めるのは国会召集などの「国事行為」のみ。被災地訪問や慰霊の旅などの「公的行為」は憲法に明記されていない。そのため膨大な公的行為を伴う「平成流」は時に、憲法からの「逸脱」とも指摘される。

 近現代の皇室史を研究する成城大学講師の瀬畑源(はじめ)さん(43)は、こんな疑問を投げかける。「継承者が先細りしている皇室が、ずっとこんな負担を背負い続けられるだろうか。さらに言えば、平成の天皇には国民の支持が集まったが、天皇制自体に対する支持や理解につながっていただろうか」

 瀬畑さんは最近、「皇族がどれくらい自分たちのためになるのか、という国民の期待感」を強く感じるという。憲法1条は、天皇の地位を「主権の存する日本国民の総意に基く」とも定める。瀬畑さんは「憲法は、国民統合も天皇制のあり方も国民が決めるものとしている。しかし、私たちはこれまで、天皇に何でも期待しすぎだったのではないか」と問題提起する。

 平成の間に価値観やライフスタイル、家族の形は多様化した。半面、経済状況の悪化や人口減少で、社会制度のひずみが露呈。格差は広がって、社会に分断も生じている。

 東京大学の佐藤俊樹教授(56)=社会学=は「経済成長が続くことを前提として社会を統合するという戦後政治の想定は崩れ、憲法によって保たれる社会秩序に『空白』が生じた。それを埋めたのが平成の天皇だった」とみる。被災者ら、より厳しい状況に置かれている人々に対し、天皇が光を当て、国民が苦境を分かち合うというメッセージを発したことで、社会の統合に寄与したという見方だ。

 「裏返せば、国民は不満をある程度解消され、議論や思考を深めてぶつけ合わずに済んだ。天皇のおかげで良い意味でも悪い意味でも、ぬるくて快適な日本の社会機構を続けられたとも言える」

 価値観やルーツの多様化が加速していく令和の時代に、このまま天皇に頼る「統合」のモデルは今後も通用するのだろうか。私たち国民も考えなければならない時を迎えている。

 <憲法1条> 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く



皇族減少、対策不可避 皇位継承権、男系男子3人のみに
   女性・女系議論、先送り続く

   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000210.html?ref=pcviewer

 新しい天皇陛下の即位に伴い、皇位継承資格者はわずか3人となった。皇室典範は父方に天皇の血を引く「男系男子」による継承を定めており、皇位継承資格者は1989年の平成への代替わり時から半減。安定的な皇位継承策の検討は先送りできない課題だ。

 1日午前の「剣璽(けんじ)等承継の儀」。皇位のしるしとされる神器などを引き継ぐ儀式には皇位継承資格のある成人しか立ち会えないため、陪席は53歳の秋篠宮さま、83歳の常陸宮さまの2人だった。皇統を担えるのは、12歳の悠仁さまを加えた3人しかいない。

 皇位継承を安定させるには女性・女系天皇の議論は不可避だが、安倍晋三首相は否定的とされる。小泉純一郎首相は2006年の通常国会に女性・女系天皇を認める皇室典範改正案を提出する方針だったが、同年2月に秋篠宮妃・紀子さまの懐妊が判明。官房長官だった安倍氏は小泉氏を説得し、改正案提出の断念を主導した経緯がある。

 菅義偉官房長官は1日の記者会見で「安定的な皇位の継承を維持することは国家の基本に関わる極めて重要な問題だ」としつつ、「男系継承が古来例外なく維持されたことの重みなどを踏まえ、慎重かつ丁寧に検討を行う必要がある」と消極姿勢をにじませた。安倍政権の支持基盤である日本会議などの反対も強い。

 皇族の減少対策も急務だ。30代以下の皇族7人のうち、6人は女性。皇室典範には女性皇族は結婚したら皇籍を離れるとの定めがあり、将来、悠仁さまの他に皇族がいなくなる可能性もある。

 野田政権は12年、女性皇族が結婚した後も宮家を立てて皇室に残れるようにする「女性宮家」の創設を検討したが実現しなかった。女性宮家に生まれた子どもの皇位継承権に議論が及べば、女系天皇の容認論につながる可能性があり、女性・女系天皇をめぐる議論と同じ難しさをはらむ。政権幹部は「ちょっとでもはみ出すと、右からも左からも批判される」と漏らす。

 退位特例法の付帯決議は「安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等」を速やかに検討し、国会に報告するよう政府に求めた。

 特例法の国会のとりまとめを主導した大島理森衆院議長は4月15日の講演で「結論を出すという大きな政治課題が課せられている」と強調した。政府は皇位継承儀式が一段落する今秋以降に具体的な検討に入る。(大久保貴裕)



海外メディア、「女性皇族の低い地位」指摘
   上皇さまの慰霊訪問を紹介 天皇陛下即位

   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000215.html?ref=pcviewer

 新天皇陛下即位のニュースは、海外の主要メディアでも大きく報じられた。退位した上皇さまの足跡や新天皇陛下の紹介だけでなく、女性皇族の立場に対する疑問なども指摘した。

 米ニューヨーク・タイムズ紙は4月30日付の紙面で5本の特集記事を見開きで掲載。陛下が皇太子時代、スペインの王女歓迎茶会で新皇后・雅子さまと知り合ったことなどを報じた。4月29日付電子版の記事では、神器などを引き継ぐ「剣璽等承継の儀」に雅子さまが立ち会えないことを紹介。「女性皇族の低い地位、ひいては日本社会において女性が直面している困難の一例」と疑問視した。

 米ワシントン・ポスト紙も29日付電子版で、皇室で13人を占める女性が「誰一人、天皇になる道はない」と、女性皇族の立場に注目する記事を掲載した。

 英BBCは30日のニュース番組で「退位礼正殿の儀」を中継し、天皇陛下(上皇さま)の退位時の言葉を同時通訳で伝えた。ウェブサイトのコラムでは、上皇さまがかつての敵国や戦争被害者を訪ねて戦争の「傷」を癒やそうとしたことを「すぐれた功績」と紹介する一方、「日本政治が劇的に右傾化し、『謝罪外交』は不人気になった」と指摘した。

 独誌シュピーゲルは、4月20日号で4ページにわたって代替わりを特集。安倍晋三首相による改憲の動きや靖国神社参拝を例に挙げ、日本でもナショナリズムの動きが強まっていると指摘。政治家が隣国への謝罪に消極的であるとした上で、上皇さまが旧敵国の犠牲者に対しても慰霊を続けてきたエピソードを掲載した。(ニューヨーク、ロンドン、ベルリン)


朝見の儀の「おことば」
30年前「憲法を守り」→今回「憲法にのっとり」
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000211.html?ref=pcviewer

 天皇陛下が1日に即位後朝見の儀で述べた「おことば」は、約30年前の平成の代替わり時と内容は似ているが、異なる点もあった。

 一つは、憲法に関する言及だ。前回、当時の天皇陛下(現上皇さま)は「皆さんとともに日本国憲法を守り」と述べたが、今回陛下は「憲法にのっとり」と、異なる表現を使った。

 この違いについて、古川隆久・日本大教授(日本近現代史)は「憲法を『守り』は、改憲しないとの意図が感じられる。『のっとり』にはそのニュアンスはなく、改憲もありうるという内閣の考え方が反映されたようにみえる」と話す。

 この儀式での天皇のおことばは、閣議決定を経ることになっており、今回も1日朝の閣議で決まったものだった。

 ただ、笠原英彦・慶応大教授(日本政治史)は「これだけをもって政権側の意向が強く反映されたとは言い切れない」と話す。ある政府関係者は「天皇は憲法上、政治的権能のない象徴。その務めを果たすと言うのが過不足ない表現だ」と指摘。「皆さんとともに憲法を守るというのは、国民に憲法を守れと言っているようなもので、その方が立場上おかしい」と話す。

 陛下らしい表現もあった。父である先代が「強い御(み)心」で国民と苦楽を共にしてきたと言及し、「心からの敬意と感謝を申し上げます」と述べた。

 所功(ところいさお)・京都産業大名誉教授(日本法制文化史)は、「ご自身も能動的な天皇でありたいという理想と、そうしようという決意を表されている」と指摘した。(多田晃子)

 ■安倍晋三首相の国民代表の辞(全文)

 謹んで申し上げます。

 天皇陛下におかれましては、本日、皇位を継承されました。国民を挙げて心からお慶(よろこ)び申し上げます。

 ここに、英邁(えいまい)なる天皇陛下から、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、日本国憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たされるとともに、国民の幸せと国の一層の発展、世界の平和を切に希望するとのおことばを賜りました。

 私たちは、天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ、激動する国際情勢の中で、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を、創り上げていく決意であります。

 ここに、令和の御代(みよ)の平安と、皇室の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げます。

 ■天皇陛下の初日の主な行事(★は皇后さまも同席)

 <午前>

 執務(宮殿)
 剣璽等承継の儀(同)
 即位後朝見の儀(同)★

 <午後>

 新侍従長らの認証官任命式(同)
 上皇ご夫妻にあいさつ(吹上仙洞御所)★
 皇族方の祝賀(宮殿)★
 未成年皇族の祝賀(同)★
 人事異動者との面会(赤坂御所)★
 新侍従長らの祝賀(同)★


(憲法を考える)
敗戦が生んだ条文はいま 日本・ドイツ・イタリア、根幹の理念に
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000109.html?ref=pcviewer

写真・図版 【写真・図版】日独伊の憲法比較

 ■憲法を考える 視点・論点・注目点

 第2次世界大戦に敗れ、新しい体制のもとで国際社会への復帰を果たした日本、ドイツ、イタリアの憲法には、それぞれの歴史を背負った特徴的な条文がある。象徴天皇制と戦争放棄、人間の尊厳、社会権。それらは戦後の国づくりや外交の中で根幹的な理念となった。戦後70年あまりを経たいま、日本の1条と9条をとりまく環境を改めて考える。(編集委員・国分高史、同・松下秀雄)

 ■1条・象徴天皇制/9条・戦争放棄 不可分の一対、受け入れ

 1947年5月3日に施行された日本国憲法の最大の特徴は、1条の象徴天皇制と9条の戦争放棄だ。二つの条項は不可分の一対として生まれた。天皇制を残しても、「天皇の軍隊」による軍国主義の復活にはつながらないと、国際社会を納得させる必要があったからだ。

 45年8月の敗戦後、日本に進駐してきた連合国軍総司令部(GHQ)の意向を受け、政府は憲法問題調査委員会をつくって明治憲法改正の検討に着手。ポツダム宣言の受諾によって日本軍は武装解除されたが、委員会は軍に関する規定を憲法から削るべきか、将来の再軍備に備えて残すべきかで論争を続けていた。

 一方、日本政府から明治憲法の微修正程度の案しか出てこないとみた最高司令官マッカーサーは46年2月3日、マッカーサー・ノートと呼ばれる改憲の原則を部下に示した。天皇制の維持▽戦争放棄▽封建制の廃止の3項目で、GHQはこれに沿って改正案づくりに着手した。

 連合国の中には、昭和天皇を東京裁判にかけて戦争責任を追及すべきだとの声があった。だがマッカーサーは、天皇なしでの円滑な占領統治はあり得ないと判断。日本が二度と戦争を起こさないことを明確にするため戦争放棄を盛り込んだ。

 2月13日にGHQ案を示された日本政府内には当初、天皇が統治権の総攬(そうらん)者から「象徴」となることへの強い抵抗があった。だが、マッカーサーは21日の幣原喜重郎首相(当時)との会談で「これにより天皇の地位も確保できるし、主権在民と戦争放棄は交付案(GHQ案)の眼目であり、特に戦争放棄は日本が将来世界における道徳的指導者となる規定である」と発言。政府は象徴天皇制と戦争放棄は拒否できないとみて、GHQ案の受け入れを決めた。

 憲法制定過程に詳しい憲政史家の古関彰一さんは、昭和天皇が終戦直後の9月4日の帝国議会開院式で「平和国家を確立して人類の文化に寄与せむ」との勅語を出したことなどから、「天皇制の維持と平和の推進が一対であることに最も早く気づいていたのは実は昭和天皇だと思う。マッカーサーの狙いと昭和天皇の考えは一致していた」と語る。「1条と9条は、天皇制を維持するかしないのかという非常に深刻な選択の末に生まれてきた。そのことが日本人の間であまり知られなくなったのは残念だ」

 ■自衛隊の役割拡大、欠ける国民合意

 天皇制を維持しつつ、かつての「天皇の軍隊」が復活することはないと宣言した憲法1条と9条。しかしその後、自衛隊が発足し、その任務は広がっていく。

 特に第2次安倍内閣発足後の流れは速く、2014年に憲法解釈を変更して集団的自衛権の一部行使に道を開き、15年に安全保障法制を制定。17年には安倍晋三首相が自衛隊を明記する9条改憲論を打ち出した。

 防衛研究所戦史部長を務めた林吉永・元空将補は、ふるさとを守るのは当然の権利と考えている。だが専守防衛を超えて自衛隊の役割を大きく広げるのであれば、国民の合意形成が必要だという。「国民全体の命がかかる問題は、政治が勝手に決めてはいけない」からだ。

 林さんは実例として、第2次大戦後の米国の経験を挙げる。「あの米国でさえ、集団的自衛権行使を認め、NATO(北大西洋条約機構)に加盟する時は時間をかけて国民と対話し、世論調査で3分の2が賛同する状況のもとで踏み出した」

 大戦前の米国は、欧州の戦争に巻き込まれないよう孤立主義をとっていた。その方針を改めるか否か。野党議員が対話の仕切り役となり、政争化を避けながら合意形成を図ったことを指す。これに対し、日本では国民の合意を欠くと疑義を呈する。

 青井未帆・学習院大教授(憲法学)も、「平和国家」の旗を掲げてきた日本をどんな国にするのかを巡る議論が必要との立場だ。それだけに9条に自衛隊を記しても任務や権限は変わらないという首相の説明に不信を抱く。「何も変わらないわけがない。説明しないのは国民を客のように扱い、『考えなくていい。お任せください』という発想でいるからではないか」

 ■「国民主権」考えるとき

 文民統制のあり方も論ずべきことの一つだ。自衛隊を動かしやすくするなら、ますます統制が重要になるからだ。

 旧日本軍は、天皇に統帥権があることを盾に政治の関与を免れ戦争にひた走った。その経験を踏まえて、戦後の文民統制の仕組みがつくられた。背広組と呼ばれる防衛官僚らによる統制も組み込まれたが、主権者である国民が代表を通じて統制するのが基本的な考え方だ。

 だが林さんは、文民の政治家が統制しても、かつてと似たことは起こりうると懸念を抱く。自衛隊が行動する時には国会の承認が必要と定めても、国会の多数派が政権と一体化し、異論も唱えなくなれば歯止めは利かない。文民の決定でも独断のようなものであれば、国民の意思とはみなしがたい。

 青井さんも、憲法に自衛隊を書くなら、国会と裁判所の権限強化が欠かせないという。統制に必要な特定秘密に国会議員がアクセスするのを認め、具体的な事件が起きなくても裁判所が合憲・違憲の判断をできるようにする。そんなことも必要ではないかと考えている。

 だが、いまの改憲論では、自衛隊の役割や文民統制の議論より、国民の情緒に訴える話があふれる。首相がよく紹介する、自衛官の子どもが涙を浮かべて「お父さん、違憲なの?」と聞いたという話が典型だ。

 情緒に訴える言葉は、天皇の代替わりでも目立った。首相は「令和」の発表の際、初めて国書を典拠にしたとし、「皇室の長い伝統」「我が国の悠久の歴史」「日本の国柄」などと繰り返した。青井さんは「『天皇とともに綿々と続いてきた、誇るべき歴史や伝統のもとで一つになろう』というメッセージを強く打ち出している。政治利用がはなはだしい」と指摘する。

 戦後の天皇が自衛隊を統帥することはない。けれども天皇や、元号のような天皇にまつわるシンボルを、政治が利用することはできる。青井さんはそれを危惧する。

 9条とセットで生まれた1条は、天皇を象徴と位置づけているだけではない。その天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」と、国民主権を定めてもいる。国民主権はどこまで根づいているか。象徴とは何か。9条が揺れるいま、1条に込められた意味も見つめ直す必要がある。

 ■ドイツ「人間の尊厳」 イタリア「社会権」 虐殺・ファシズム、反省

 日本と同じように全体主義的な国家体制で敗戦を迎えたドイツとイタリアは戦後、どんな条項を新憲法の根幹としたのか。

 「戦後憲法を作った人々」など日独伊の憲法制定過程に関する著書がある石田憲・千葉大教授は、ドイツでは人間の尊厳、イタリアでは社会的連帯に基礎をおく社会権だと説明する。

 ドイツではナチスが、対抗する政治勢力や異なる思想信条の持ち主を徹底的に弾圧し、ユダヤ人虐殺へと進んでいった。その反省から、憲法にあたる基本法の1条は「人間の尊厳は不可侵である」と規定。ドイツ国民は「世界のすべての人間共同体」の基礎としての人権を信奉するとうたった。石田教授によると、ドイツ憲法で「人権」が詳細かつ網羅的に示されたのは初めてだった。

 ナチスによる数々の人権蹂躙(じゅうりん)の大半は法に基づき、国の行政機構によって実行された。このため、国内での立法で人権侵害が起きないようにする狙いから、25条では国際法の一般原則はドイツの国内法に優位すると明記した。

 イタリアでは、20年以上続いたムソリーニによるファシズム体制と戦った左派を中心とするレジスタンスが戦後の制憲議会を主導した。

 46年6月の国民投票によって君主制から共和制に移行。その後の制憲議会によって、ファシズム体制下で抑圧されてきた人たちが人間らしい生活を維持したり、働いたりするための社会権を重視する憲法が制定された。これが国民の社会・政治的参加を進める原動力になったという。

 石田教授は「戦後ドイツは、人権にどう向き合うかを明確にしなければ欧州に受け入れられないと考えた。平和主義を前面に出さなければアジアとの共生は難しかった日本と共通している」と話す。

 ■日独伊の憲法の特徴的な条文

 【日本】

 <1条> 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 <9条> 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 <2> 略

 【ドイツ】

 <1条> 人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し保護することが、すべての国家権力に義務づけられている。

 <25条> 国際法の一般的諸原則は連邦法の構成部分である。それらは、法律に優位し、連邦領域の住民に対して直接に権利・義務を生ぜしめる。

 【イタリア】

 <1条> イタリアは勤労に基礎をおく民主的共和国である。

 <2条> 共和国は個人としての、またその人格が発展する場としての社会組織においての人間の不可侵の権利を承認し保障するとともに、政治的、経済的および社会的連帯の背くことのできない義務の遂行を要請する。

 ※独伊の条文は「新解説世界憲法集」(三省堂)から

 ■予告

 次回は今月28日に掲載する予定です


企業統治、東西で隔たり
経団連、政府指針に同調/関経連「制約行き過ぎ」
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000142.html?ref=pcviewer

 企業統治をめぐり、経団連と関西経済連合会の意見の隔たりがはっきりしてきた。金融庁が手がけたコーポレートガバナンス・コード(企業行動指針)などを重視する経団連に対し、関経連は指針への反発を隠さない。

 企業行動指針は、金融庁と東京証券取引所が2015年6月から、上場企業を対象に導入した。株主や社外取締役による経営の監視を強めて「攻めの経営」を促そうと、社外取締役の2人以上の導入など78の行動原則を掲げる。沿わない場合は理由の説明を企業に求めている。

 社外取締役の義務づけなどに反対したこともあった経団連だが、今は、この指針で日本企業の統治は改善された、との立場だ。

 東証1部上場企業で社外取を2人以上導入した企業の割合は、18年までの4年間で22%から91%に増えた。今春、企業統治についての使節団を米国に送り投資家にそう説明すると、高い評価を受けたという。

 一方の関経連は、企業行動指針について「行き過ぎた制約は必ずしも実質的な企業価値の向上につながらない」との意見書を今春、金融庁などに出した。

 社外取についても「取締役の構成は各社の裁量に委ねるべきだ」としている。日本の経営者はかねて投資家、従業員、地域のことを考えて事業を続けてきた、との自負がある。

 指針は18年6月に改正され、株式の持ち合いを中心とした政策保有株を減らす方針も盛り込まれた。国内外の投資家から「日本企業は資金を有効に使っていない」などと批判されたためだ。

 経団連の中西宏明会長は「資金の有効活用の点で説明が難しい。減らさざるを得ない」。対する関経連は政策保有株には戦略的な提携という意味がある、と意見書で強調。「縮減の方向性まで示されるべきではない」とした。

 ■四半期決算でも差

 意見の違いは、上場企業に3カ月ごとの決算発表を義務づけている四半期決算の仕組みにも及ぶ。

 経団連は「公表をためらってはならない」(中西会長)とするのに対し、関経連は義務づけの廃止を求めている。関経連の松本正義会長(住友電気工業会長)は「投資家は本当に利用しているのか。廃止すれば働き方改革にも有効」という。会員企業の経理部門が疲弊しておりアンケートでも見直しを求める意見が大半だった、という。

 四半期決算の開示は日本では金融商品取引法で08年から義務化された。海外では義務づけを取りやめる動きが欧州にあり、米国は検討中。日本の金融庁は米国の動向を注視している。

 関経連の幹部は「経団連は、政府に近くてモノが言いにくい」と指摘。とりわけ四半期決算の義務づけ廃止については「言わないだけで、みんなそう思っている。何とか廃止に持っていきたい」と話す。(加藤裕則)


(社説)
阪神支局事件 危うい「反日」の氾濫
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000170.html?ref=pcviewer

 兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った男に襲われ、記者2人が殺傷された事件から、あすで32年になる。

 命を奪われた小尻知博記者(当時29)がよく訪れていた喫茶店が、隣の尼崎市にあった。在日コリアン2世の金成日(キムソンイル)さん(67)が事件の6年前、29歳の時に開き、差別への抗議や環境問題などに取り組む地域の市民が集っていた。

 金さんは、当時の外国人登録制度で義務づけられていた指紋押捺(おうなつ)を「植民地支配のあとも続く民族差別政策」として拒み続け、1986年11月、逮捕される。警察署内で警官に体を押さえられ、腕と指を固定する器具で強引に指紋をとられた。

 「反日」「不逞(ふてい)鮮人」。金さんの自宅や店に匿名の電話が相次ぎ、偽名の手紙も届いた。釈放された金さんに取材し、指紋押捺について問題提起する記事を書いたのが小尻記者だった。

 「反日」は、その半年後に起きた阪神支局襲撃をはじめ、一連の警察庁指定116号事件で繰り返し登場する。「赤報隊」を名乗る犯行声明文には「反日分子には極刑あるのみ」(阪神支局襲撃)「反日朝日は 五十年前にかえれ」(名古屋本社寮襲撃)などと記されていた。

 その言葉はいま、インターネットやマスメディアに氾濫(はんらん)している。政治家から一般の人々までが、名前や顔も公開しながら発し、テーマも隣国との外交問題から身の回りの生活課題にまで及ぶ。3年前、待機児童対策の遅れを「保育園落ちた日本死ね」と批判したネットへの投稿が「反日」非難を浴びたことは記憶に新しい。

 「反日」とは何か。「日」は社会か、時の政権か。「反」するとはどんな言動を指すのか。

 そうした点があいまいなまま、安易にレッテルを貼り、発言自体を封じ込め、排除しようとする危うさを「反日」ははらむ。「日本死ね」には一方で「表現が乱暴」といった批判が出たが、そうした意見のやりとりとは異質の「攻撃」がもつ危うさとも言える。

 「赤報隊がのぞむ方向へと世の中が変わってきた気がする」と金さんは話す。「非国民」という言葉のもとで、言論の自由が失われていった戦前の歴史を思えば、金さんの危惧もあながち杞憂(きゆう)とは言い切れまい。

 金さんは昨秋に店を閉じたが、今年もあす、地元で小尻記者の追悼行事を開く。

 国籍やルーツ、思想・信条などの違いを超えて、一人ひとりが互いに相手の考えを尊重しつつ、意見を交わす。日本国憲法が目指すそうした社会を、市民とともに作っていく。報道機関としての決意を新たにする。


(社説)
南北会談1年 韓国の役割を粘り強く
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000173.html?ref=pcviewer

 同じ民族同士を隔てる軍事境界線を、2人が手を結んでまたいだのは1年前だった。

 板門店での会談でうたいあげた南北朝鮮の共同宣言は、新たな共存の時代を思わせた。その後も両首脳は2回会談した。

 しかし、完全な非核化と朝鮮半島の和平という宣言の目標は今なお、実現の道が見えない。米国と北朝鮮との交渉の滞りが厚い壁になっている。

 韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領は米朝間の「仲裁者」を自認している。この1年間でみれば、米朝首脳会談の実現など確かな成果をあげてきたが、いまは難しい局面に立たされている。

 2回目の米朝会談が不調に終わり、双方が韓国の介入に距離を置き始めた。互いの不満が韓国にも向けられ、文氏は板挟みになっている。

 文氏自身、南北関係を最重視しており、停滞が続くのは苦しい思いだろう。だが今は辛抱の時と心得てほしい。

 打開を焦って単独行動に走れば、せっかく醸成してきた各国の対話機運はしぼむ恐れがある。朝鮮半島政策では、米国・韓国・日本が常に緊密に連携する態勢を崩してはならない。

 韓国への風当たりはとくに平壌で強い。金正恩(キムジョンウン)・朝鮮労働党委員長は「さしでがましい仲裁者ではなく、民族の利益を守る当事者たれ」と批判した。

 トランプ米大統領も、文氏がめざす南北協力事業の再開に難色を示している。先月の会談では、北朝鮮の核放棄と制裁の完全解除の一括合意を提案した。

 日米首脳も先日、この方針を続ける必要性を確認した。

 文氏はいまは対北支援を急ぐのではなく、北朝鮮への説得を粘り強く続けてもらいたい。

 核やミサイル開発から手を引けば国際社会からの支援の道が開かれる――。選択肢はこれ以外ないと諭すことが、仲裁者としての責務である。

 韓国の足元は揺らいでいる。文政権の下で経済成長率が低迷している。

 庶民救済をねらった最低賃金の引き上げは結果として中小零細業者を苦しめ、失業率の上昇を招いた。当初8割近くあった支持率は4割台に落ちた。

 北朝鮮の軍事挑発を止めさせたことへの評価はなおも高いだけに、南北関係の進展をめざしたいところだろう。

 しかし、北朝鮮はそんな事情に乗じて韓国を米国から離反させようと、もくろみかねない。韓国が米国と疎遠になれば、逆に北朝鮮はもはや韓国を相手にしなくなるだろう。

 厳しい状況は続きそうだが、だからこそ文政権は国際社会と歩調を合わせ、北朝鮮の変化を促す努力を強めてほしい。


(耕論)
新時代・令和 これからの天皇像
   森暢平さん、観世清和さん、辛酸なめ子さん
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000118.html?ref=pcviewer

 「令和」の時代が始まった。平和を願い、国民と共に歩んだ上皇さま、上皇后さまの後を受け、50代後半で即位した天皇、皇后両陛下。どのような天皇像をつくっていくのか。

 ■本当に発信したいことを 森暢平さん(成城大学教授)

 被災地訪問や戦争犠牲者への慰霊、平和祈念といった平成の時代の天皇・皇后が取り組んできたことを引き継いで欲しいという論調が多いですね。しかし、私は、そうは思わない。時代は確実に変わっている。前の世代と同じことを続けても、効果的ではないことは明らかです。

 平成の天皇・皇后は、昭和の代とはまったく違う姿をみせ、衝撃を与えました。例えば、被災者の前でひざまずくという姿勢です。しかし、同じことを引き継いでもインパクトはないし共感は得られない。時代に即した新しい姿勢を見せなくては、人々の心に届きません。

 美智子妃(当時)は、洋風キッチンに立つ姿をみせ、公団住宅を訪問し、マイカーでドライブした。豊かな生活への憧れと2人の姿がシンクロしました。国民の憧憬(しょうけい)の対象としての天皇制は、ラジオや新聞を通じて、大正時代から存在していましたが、2人はそんな時代にいました。

 平成がスタートしたころは「日本国民」という共同体がまだ堅固でしたが、現代は国民というフィクションが崩れ、島宇宙的な共同体が分立しているようにみえます。日本国民という「全体」に向かって祈ることが、以前と同じリアリティーをもっては受けとめられなくなっています。

 国民全員に好かれようと「理想的」な天皇を演じることは現代の象徴天皇制にとってもプラスではない。ネットの時代には「アンチ」の人が必ず出現します。自分たちの体験に基づいた、本当に言いたいことを発信しないと、共感が得られません。

 即位後も、上皇夫妻の存在感は大きいでしょう。公務はしないとしても、私的には、外国要人など多くの人に会うはずです。メディアが2人を追い続けるのは間違いない。現実問題として、「権威の二重性」は生じてしまう。

 新しい天皇と皇后は真面目な人なので、独自色を出そう、発信をしようとの意思を持っているようにみえます。でも、気負わなくても良いのではないでしょうか。ありのままの姿であれば十分です。

 平成の間に、公的行為といわれる、憲法に明記されていない仕事が増え、象徴としての天皇の仕事が肥大化した。しかし、「何事も為(な)さない」、何もしないというあり方こそ本来的です。国政に関する権能を持たない天皇に、国民が多くを期待しすぎるのは健全ではありません。

 国家システムとして求めているのは、あくまで記号としての天皇です。ある意味ハンコを押すだけでいいとしか憲法には書かれていません。しかし実際には記号ではなく、人間です。天皇・皇族にとっても、自己実現とは何か、何を為して生きるべきかは、最大の難問だと思います。(聞き手・池田伸壹)

     *

 もりようへい 1964年生まれ。毎日新聞の皇室担当記者などを務める。著書「天皇家の財布」、編著「皇后四代の歴史」など。

 ■伝統を継ぐ者同士として 観世清和さん(能楽観世流二十六世宗家)

 学習院初等科のころ、新天皇陛下には同じ「伝統文化」の世界に身を置く者として、ある種の励ましをいただいたことがあります。

 小さいころから父のつける厳しい稽古がありましたから、「放課後遊び、今日どう」と陛下に誘われても「父のお能のお稽古があるので」とお断りすることがよくありました。そんなある時、陛下に「わかった。お能のお稽古、大事だよね」とお声をかけられたことがありまして。

 その瞬間、陛下も日本の伝統文化という、自分と同じ世界に身を置いておられるんだ、という共通の感覚のようなものを感じました。子ども心に、僕も頑張らなくちゃ、と。それが今も私の能楽人生の宝となっております。

 伝統は、先代が私に乗り移り、私が息子に乗り移り、そのようにしてつないでいくものなんです。我が家は観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)から700年近く、父から子へと血縁で受け継いできた家なのですが、文字どおり、子は親の生き様をよく見ておくことが求められます。あの日、あの時、父はこうやっていたな、と。

 それも、父や祖父のやっていたことをただまねするだけではだめなんです。なぜそうしたのかと疑問をもたないと。そこから自分ならではのものが生まれてくる。上皇さまと新天皇陛下の関係も、これと同じではないかと推察いたします。

 伝統の重みは陛下も日々感じてこられたでしょう。私の場合、父の急死で31歳で家元を継承しましたから当時は無我夢中です。少し経てじわじわとプレッシャーが追いかけてきました。まだ教わっていないこともありましたから。父の残した書き置きを、穴のあくほど読み返しました。

 「そこは先代はこうやっていた」と、長老方にも色々言われました。父親と比べられては、息子はたまったものではないですよ。でも、そうやって先代と比べてもらえることは、徳を積む一種の手段と考えれば、ありがたいことと、考え方を改めました。

 59歳といえば世間ではそろそろ定年退職し、ペースダウンさせた第二の人生を踏み出す時期です。陛下はそのお年で、これから、今より重い天皇のおつとめを始められる。

 でも、伝統文化の世界では実は年齢は関係ないのです。50、60は鼻たれ小僧、80歳くらいにならないと一人前ではありません。しかも家名を襲名すると、重い名前を継ぐことで責任が増し、舞台も磨かれてゆく。「皇太子殿下」から「天皇陛下」に変わられ、いわば家名襲名、これからが、本番でございます。

 そのために欠かせないのは健康です。昨年お会いした時、どうぞ、お体に気をつけてと申し上げましたらね、陛下に「あなたもね」と。(聞き手・斎藤智子)

     *

 かんぜきよかず 1959年生まれ。学習院初等科から高等科まで新天皇陛下の学友。2017年に東京・銀座に観世能楽堂を開場。

 ■雅子さま、生き生きと外へ 辛酸なめ子さん(コラムニスト)

 雅子さまが婚約時代、街でお見かけして「雅子さま~」とお声がけしたら、笑顔で手を振ってくださったんです。華々しい学歴とキャリアの持ち主で、国連会議の出席者にいそうな雰囲気。「あこがれのお姉様」でした。

 雅子さまには、皇室でのキャリアに対する理想があったのだと思います。それがお世継ぎ問題もあり、難しくなってしまったのでしょう。

 美智子さまは、翻訳本を出版されたり、養蚕に力を入れたりと、ご自身の道を見つけられました。声が出なくなりながらもご公務を続け、週刊誌の報道に苦言を呈されることもありました。

 でも雅子さまはある意味、不器用な方なのではないでしょうか。だから「抜け道」を見つけられなかったのではと思います。体調を崩されても、一見するとお元気そうに見えるので、「なぜスキーには行っても、一般参賀には出られないのかしら」となってしまったのです。

 皇后になられたことで、雅子さまらしさが出ることを期待しています。代替わりの儀式を経て、「何かが降りてきて覚醒する」というイメージでしょうか。頂点に立たれることで使命感が高まり、以前のように、生き生きとされるのではと思います。

 雅子さまなら、ヨーロッパの迫力のあるお妃(きさき)さまと並んでもひけを取らない美しさと存在感があります。海外の王室雑誌にはなかなか日本の皇族は出なくて、アジアではブータンの国王夫妻が取り上げられるぐらいです。ぜひ日本の皇室にも、こんなに頭がよくてすてきな皇后さまがいると、知らしめてほしいです。

 徳仁天皇陛下のキーワードは「水と山」です。水問題にお詳しく、修験道などで信仰の対象になっている山を中心に170以上を登り、そこでいいエネルギーを吸収しているはずです。雅子さまは、移動すると元気になられるタイプだと思います。座ったままの儀式やご観覧だけでなく、日本や世界の山に、ご一緒に出かけてはいかがでしょう。

 陛下が、雅子さまにプロポーズした際の「一生、全力でお守りします」という言葉を守っていらっしゃるのも、女性としては感動します。これから一般参賀や会見でご自身の言葉で話す機会も増えるので、お人柄がだんだん伝わってくるのではと思います。上皇さまも、天皇に即位されたときの印象は強くありませんでしたが、徐々にそのお姿が浸透していきました。

 令和という元号は「空気は美しく風はやわらかに……」という春の訪れを告げる内容で、雅子さまの体調と重ね合わせると、いい方向に向かっていく兆しを感じます。私はAI時代も愛が重要ということで「永愛(えいあい)」がいいかなと思っていたのですが。(聞き手・岡崎明子)

     *

 しんさんなめこ 1974年生まれ。皇室ウォッチャーとして一般参賀に通う。著書に「魂活道場」「天皇愛」など。


(新天皇と新皇后)
令和、笑顔晴れやか 皇后さま、東北の若者にエール
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14000192.html?ref=pcviewer

 1日、新天皇陛下とともに、雅子さまも新皇后として皇居での即位の儀式に臨んだ。テレビや報道を通じ、晴れやかな様子を目にした友人らは今後の活動に期待を寄せた。(中田絢子、緒方雄大)

 福島県出身の釣巻(つりまき)洋子さん(22)はテレビを通じ、ティアラとローブ・デコルテを身につけて儀式に臨む皇后さまに見入った。「皇太子妃の時にお会いした際、感じた優しさはそのままに、更に気品が増した印象を受けます」と話した。

 皇后さまと知り合ったのは、一通の手紙を送ったことがきっかけだ。

 震災発生から約2年後の2013年冬。当時、高校1年生で、福島県いわき市の中学時代に被災したことから、東北の中高生が震災の経験を世界に伝える教育プロジェクト「OECD(経済協力開発機構)東北スクール」に参加していた。皇后さまに「中高生の真剣な姿をぜひご覧頂きたい」と思い、活動内容を知らせる手紙をしたためた。

 その年の8月、東京で開かれた発表会に、陛下と皇后さまが来てくれた。生徒ら一人ひとりに「みんなの思いがすごく伝わります」「応援しているのでお体に気をつけて」などと声をかけた。案内役を務めた釣巻さんは「まさか本当に来ていただけるとは思わなかった」と振り返る。将来の夢も熱心に尋ねられ、「若者を応援したい、というお気持ちが伝わってきた」。

 15年2月には両陛下から、このプロジェクトに参加した生徒と指導教員が東京・元赤坂のお住まいに招かれた。両陛下はお茶とケーキを勧めて生徒の緊張をほぐし、50分間ほど活動体験に耳を傾けた。

 釣巻さんは「これまでの陛下のおことばの『国民の中に』に象徴されるように、令和の両陛下は今までよりさらに国民に近い存在になると思う。ぜひ今後も皇后さまの優しさや、若者への思いを前面に出して頂けたら心強い」と語った。

 ■勉強熱心、友に辞書頼む

 穏やかな笑みを浮かべる新天皇、皇后両陛下と、愛犬・由莉(ゆり)を抱きかかえる長女・愛子さま。2014年、お住まいで撮影された写真だ。

 ご一家と一緒に写るのがフランス人のオリビエ・メレリオさん(73)。家族ぐるみでご一家と交流があり、来日のたびにお住まいに招かれてきた。

 メレリオさんは日仏経済交流委員会の元幹部。皇后さまの父・小和田恒さんがOECD(本部・パリ)代表部大使だった際、共に交流促進に取り組んだ縁で親しくなった。

 皇后さまは療養中も明るく振る舞い勉強熱心だという。「日本語で引けるラテン語の辞書が見つからないので仏語のものを持ってきて欲しい」と頼まれ、娘の辞書をプレゼントしたこともあった。

 「世界情勢は複雑さを増し、大変な時代だと思いますが、象徴として日本が一つにまとまるようなご活躍を心から願う」

 ■ヘビもイモリも、きちんとお世話

 蚕を育て、繭をつくる「養蚕(ようさん)」。文化継承などのため歴代皇后が担ってきた伝統を、新皇后の雅子さまも引き継ぐ。実は、幼少時から小さい生物に関心があったという。

 皇后さまは田園調布雙葉学園小学校(東京)時代、生物クラブに所属していた。顧問だった日本蛾類学会の岸田泰則会長(69)は「小さなヘビやイモリ、ハムスター、メダカなどを可愛がっていたのをよく覚えています。触れることも嫌がらず、きちんとお世話をしていました」。

 結婚後、お住まいの敷地内に迷い込んだ犬を保護して世話をしたり、ノコギリクワガタのメスを拾って育て、繁殖させたりした話も皇后さまから聞いた。愛子さまも生物に興味があるという。

 「上皇ご夫妻が大切にされてきた生物や自然を大切にする気持ちは、両陛下にもしっかり引き継がれるでしょう」


令和の意味と由来、歌や作者の解説をわかりやすく簡単に説明
新元号令和と万葉集の関係は?
   https://avangers19999.com/archives/9998

これまで元号は中国の歴史書が出典となっていましたが、新元号である「令和」は現存する日本最古の和歌集「万葉集」が出典となっています。

今回は
  •「令和」と万葉集の関係性
  •「令和」の意味や由来
  •「万葉集」の有名な歌や編者
  •明治から平成までの元号の由来
について解説いたします。

「令和」と万葉集の関係性

4月1日に発表された新元号「令和」は現存する日本最古の和歌集「万葉集」からとられたものです。
これまで、10世紀以降の日本の元号においては中国の書物から引用されてきました。
例にあげられるのは
  •五経
  •書経
  •易経
などです。
中国の書物から引用され考えられた元号は原則2文字とされていますが、中には天平感宝や神護景雲など4文字の元号が存在しています。

「令和」の意味や由来

今回、現存する日本最古の和歌集「万葉集」から引用された「令和」には

“人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ”といった意味が込められたとされています。 この新元号「令和」は「万葉集」の「梅花の歌」三十二首の序文が出典とされています。

“天平二年正月十三日 師の老の宅に萃まりて宴会を申く。時に初春の令月にして気淑く風和ぎ梅は鏡前の粉を披き蘭は珮後の香を薫す。”

この序文を考えた人物は大伴旅人とされ、大伴旅人とは「万葉集」の編者とされている大伴家持の父にあたる人物です。

「万葉集」とは奈良時代末期に編纂されたとされる和歌集です。今では現存する日本最古の和歌集とされています。 全20巻の中で4500首以上の和歌が収録され、その中には
  •相聞歌:恋の和歌が集められたもの
  •挽歌:死者を弔うための和歌
  •雑歌:相聞歌、挽歌以外で自然や宮廷のことなどについて詠んだ和歌
この3つに分類されました。
しかし、14巻だけは東歌(東国各地の和歌)が収録されています。

様々な身分の人の和歌が収録されている「万葉集」に収録されている和歌は
  •天皇
  •貴族
  •下級歌人
  •防人
など様々な身分の人の和歌が収録されました。

一般的に大伴家持が編者

編纂された人物は判明していませんが、「万葉集」の全体の1割である合計473首が収録されている大伴家持が編者として一般的に考えられています。

しかし、「万葉集」をすべて編纂したというわけではありません。
「万葉集」の編纂には

  •持統天皇や柿本人麻呂(巻1の前半部分)
  •元明天皇や太安万侶(巻1の後半から巻2)
  •元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女(巻3から巻15、巻16の一部)

など巻ごとに編者は異なると考えられ、最終的に大伴家持が全20巻をまとめたとされています。

「万葉集」とは日本に現存する最古の和歌集で、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂され、天皇や貴族、また下級官人、防人など様々な身分の和...

有名な和歌

  「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」額田王
  「香具山は 畝傍雄雄しと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし
     古も 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」中大兄皇子
  「紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻故に我恋ひめやも」大海人皇子
  「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのに古思ほゆ」柿本人麻呂

明治から平成までの元号の由来について

明治の元号の由来
  明治の元号は『易経』の
  「聖人南面して天下を聴き、明に嚮いて治む」
  意味:聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るく治まる
から引用されました。

大正の元号の由来
  大正の元号は『易経』の
  「大亨は以って正天の道なり」
  意味:天が民の声を受け入れ、政が正しく行われる
から引用されました。

昭和の元号の由来
  昭和の元号は『書経』の
  「百姓昭明、協和万邦」
  意味:国民の平和と世界の共存繁栄を願う
から引用されました。

平成の元号の由来
  平成の元号は『史記』の
  「内平かに外成る」
  また『書経』の
  「地平かに天成る」
が由来とされています。

どちらも内外、天地ともに平和が達成されるといった意味を持っています。

まとめ:「令和」と万葉集の関係は?意味と由来、歌や作者の解説をわかりやすく簡単に説明

  •新元号「令和」は中国の書物から引用されたのではなく、
   現存する日本最古の和歌集「万葉集」の「梅花の歌」三十二首の序文から引用された
  •「梅花の歌」三十二首の序文の作者は大伴家持の父・大伴旅人
  •「万葉集」の編者は一般的に大伴家持とされる

「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」このような意味が込められた新元号「令和」。