【目次へ】
  続折々の記へ

続折々の記 2019②
【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】03/25~     【 02 】03/29~     【 03 】04/01~
【 04 】04/04~     【 05 】04/07~     【 06 】陛下退位
【 07 】05/02~     【 08 】05/04~     【 09 】05/06~

【 01 】の内容一覧へ戻る

            陛下退位
                         
【 06 】05/01~

 05 01 (水) 今日の新聞    陛下退位から新天皇即位

「支えてくれた国民に感謝」象徴としての歩みを続けてこられた陛下の言葉を聞いて、すべての感情が胸にこみ上げた。

陛下も美智子妃殿下も、立派な人柄でした。 皇族としての人としての在り方として世界にあまねく称揚したい気持ちです。


<朝日新聞 2019 (令和元年) 5月1日 水曜日> 今日の新聞を残しておくことにする。



【01頁】2019年5月1日05時00分 有料記事
令和 新天皇即位
陛下退位「支えてくれた国民に感謝」
   http://www.asahi.com/shimen/20190501/index_tokyo_list.html

写真・図版 写真・図版 【写真・図版】「退位礼正殿の儀」でおことばを述べる天皇陛下
【写真・図版】「退位礼正殿の儀」に臨む皇太子ご夫妻=いずれも30日午後、皇居・宮殿「松の間」、嶋田達也撮影

 天皇陛下が4月30日に退位し、皇太子さまが1日、新天皇に即位した。退位特例法に基づく代替わりで、元号は平成から令和となった。陛下は退位日の30日に国事行為の「退位礼正殿(せいでん)の儀」に臨み、「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」と述べた。

 陛下は退位して「上皇」に、美智子さまは「上皇后」となり、今後は一切の公務から退く。

 上皇となった陛下(以後、上皇さま)は85歳。2016年8月、高齢に伴い、退位の意向をにじませるビデオメッセージを公表。政府による検討を経て、17年6月、一代限りの退位を認める皇室典範の特例法が成立した。これにより、1817年の光格天皇以来202年ぶりの退位が実現した。

 新天皇陛下は59歳。新皇后の雅子さまは55歳。53歳の秋篠宮さまは皇太子待遇の「皇嗣(こうし)」になり、皇位継承資格者は上位から順に秋篠宮さま、秋篠宮家の長男で12歳の悠仁(ひさひと)さま、83歳の常陸宮さまの3人のみとなった。

 新天皇即位に伴い、皇居・宮殿では1日午前10時半から、皇位のしるしとされる神器などを引き継ぐ「剣璽(けんじ)等承継の儀」、午前11時10分から新天皇が最初のおことばを述べる「即位後朝見の儀」がそれぞれ国事行為として行われる。

 上皇さまは4月30日、宮殿で午後5時から憲政史上初の退位礼正殿の儀に臨んだ。美智子さまや新天皇ご夫妻、秋篠宮ご夫妻のほか、三権の長や閣僚ら294人が参列。安倍晋三首相が国民を代表し「深い敬愛と感謝の念をいま一度新たにする次第であります」と述べたのに続き、上皇さまが「今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました」と在位中最後の「おことば」を述べた。天皇の務めを「国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」と述懐。令和の時代が「平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と結んだ。(島康彦、多田晃子)

 ■新天皇・皇后、両陛下の横顔

 「国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたい」。新天皇陛下は皇太子時代の2月の記者会見で、即位への思いをこう語った。

 治水や利水など「水」問題の研究をライフワークとしてきた。趣味は登山。ビオラ奏者でもある。国際親善の場などでは英語やフランス語でスピーチ。海外では市民との写真撮影に応じるなど気さくな一面も見せる。

 新皇后の雅子さまは英仏独の3カ国語が堪能。米ハーバード大、東京大で学び、父と同じ外交官の道を歩み、1993年に結婚し皇室に入った。2001年に長女愛子さまを出産。その2年後から「適応障害」の長い療養生活に入った。近年体調は上向き、昨年12月、「研鑽(けんさん)を積みながら努めてまいりたい」と新皇后となる決意を文書でつづった。(緒方雄大)


言葉の力を信じ、語って 新天皇即位 編集委員・福島申二

 にわかなブームになった万葉集の「令和」の出典と同じ巻五に、日本を「言霊(ことだま)の幸(さきわ)う国」とうたった山上憶良の詠がある。

 言葉にゆたかな力が宿る国、というほどの意味だ。その意識をきっとお持ちなのだろう、上皇さまと上皇后さまは、言葉を大切に選び抜いて用いていた印象がある。

 3年前に天皇退位の意向をにじませた「おことば」も感銘深かった。その中に「皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ今日に至っています」と述べたくだりがあった。

 それを聞くと、上皇さまは国民とともに在ること、それも形やうわべだけでなく「いきいきとして在る」ことを大切にしてきたとわかる。この言葉は新天皇、皇后両陛下にとっても大事なキーワードになろう。

 天皇は国の象徴であり国民統合の象徴である、と憲法はうたう。この「象徴」「統合」という硬質な抽象語に、新たな生命のぬくもりを吹き込むお二人の旅が、きょうから始まる。大きな求心力をもたらした先代お二人の存在感と「平成流」は、範でもあり、絶えず比較される手ごわいライバルともいえるだろう。

 いま、皇室へ向けられている親しみは、かつてない広がりがあるようだ。しかし平坦(へいたん)が約束された旅路ではあるまい。新天皇も昨年述べているように、顔の見える人間関係が希薄になりつつある時代である。

 今日の日本社会を見れば、多くの人がうつむきがちにスマートフォンを見つめ、関心と無関心、仲間と他者、共感と冷笑といった相反する心情がせめぎあい、渦を巻いている感がある。「考える」のではなく刹那(せつな)的に「感じる」。そこから多くの言葉が生まれては拡散する。人はすぐに集まり、すぐに散っていく。

 世界を覆う分断や格差は、この社会にも及んでいる。人工知能をはじめ物事の変化は速く、自分の価値観やスキルがいつまで通用するのか誰もが不安を隠せない。そのような時代に応じ、平成流のコピーにとどまらぬ新しい象徴像をつくり上げる難しさを、想(おも)わざるをえない。

 昭和から平成、令和へと過ぎてきた歳月にはもう一つの「元号」があるといわれる。「戦後」である。令和元年は戦後74年になる。先の戦争と戦後の歳月への上皇さま、上皇后さまの深い思いを、新天皇と皇后さまは受けつがれるのであろう。

 むろん天皇は政治的な権能をもたない。しかし上皇さまの、簡素に磨かれた平和へのたしかな言葉と、ご夫妻の祈りの姿が、平和憲法を持つ国民の意識の深い部分に作用してきたのは確かなことだろう。

 戦争と平和に限らない。新天皇ご夫妻には言葉の力を信じ、ご自分の言葉を大切にして語っていただきたいと願う。言葉が軽く浮遊し、饒舌(じょうぜつ)がはびこる時代であればこそ。


(天声人語)夢リスト

 「絶景を見る」「泣くほど笑う」「見ず知らずの人に親切にする」――。高齢の二人が夢を語り合って書き出し、一つずつ実現していく。2007年の米映画「最高の人生の見つけ方」である
▼ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが好演した。万里の長城を訪ねたり、スカイダイビングに挑んだり。箇条書きした夢のそれぞれを、達成するたび横線で消していく。満足げな表情が魅力的だ
▼きょうから上皇、上皇后となられたお二人の心のリストには、どんな夢が書かれているのだろう。30年に及んだ公務の一切から退き、肩の荷を下ろして迎えた最初の朝である
▼昨秋の美智子さまの誕生日の回答に夢のヒントがあった。「庭でマクワウリを作りたい」「陛下が関心をお持ちのイヌビワの木を植えたい」。ほかに「ジーヴスも二、三冊待機しています」とも
▼ジーヴスとは英作家ウッドハウス(1975年没)の小説のことだ。頼りない青年貴族に降りかかる難題を、執事ジーヴスが機転と推理で次々に解決していく。初めて手にとってみたが、笑いと皮肉の味付けが絶妙である。「読み出すとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけた」と美智子さまも語っている
▼長い間、重責を果たすため脇に置くほかなかった夢たちを思う。お二人でウリを育て、イヌビワを植え、ジーヴスを心ゆくまで読んだとしても、まだまだほんの序章。ゆっくりと時間をかけてリストに夢を書き足し、充足の横線を引く時が到来した。


【02面】
退位の儀式、憲法に配慮 即位と分離、「譲位色」排す 憲政史上初の退位
 憲政史上初めて天皇陛下が退位した。政府は退位特例法の制定から儀式の実施まで、憲法との整合性に配慮してきた。今回の退位はあくまで一代限り。「終身在位」の原則は変えておらず、今後は退位を恒久制度にするかどうかが課題となる。

 30日午後5時からの退位礼正殿の儀は、約10分間の簡素なものだった。

 「今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました」。天皇陛下は短い「おことば」で、記者会見で繰り返し使ってきた「譲位」という表現を使わなかった。

 天皇が生前に皇位を退くことは歴史的には譲位と呼ばれ、儀式の名称も「譲国(じょうこく)の儀」だった。天皇が国民統合の象徴となった現憲法下では、天皇が自らの意思で皇位を譲ると受け取られれば、天皇の国政関与を禁じた4条に触れる。政府がもっとも気を使った点だ。

 退位礼正殿の儀は、憲法に定められた天皇の国事行為として行われた。内閣の助言と承認の下で行われ、「おことば」も閣議決定を経た。憲法との整合性に配慮して「譲位」という表現を避けた。さらに特例法の施行に伴う退位であることを明確にした。天皇陛下に先立って安倍晋三首相が国民代表の辞を述べ、「特例法の定めるところにより、本日をもちまして御退位されます」と宣言した。

 今回の代替わりをめぐり、神道政治連盟などの保守派は、退位と即位の儀式を同じ日に連続して行い、皇位の証しとされる神器の剣や璽(じ)(まが玉)を直ちに引き継がなければ、皇位に空白が生じる懸念があると主張した。

 しかし、退位と即位の儀式が一体化すれば、「譲位」色を帯びる。このため政府は退位礼正殿の儀を30日夕、新天皇の即位に伴う剣璽等承継の儀などは5月1日午前に行うことで厳格に分離した。

 天皇陛下は4月30日の終わりとともに退位し、皇太子さまは5月1日午前0時に新天皇に即位。皇位継承はあくまで「天皇はこの法律の施行の日限り退位し、皇嗣(こうし)が直ちに即位する」という特例法の規定によって行われた。保守派が懸念した空位は生じていない。

 退位礼正殿の儀で「案」と呼ばれる台上に置かれた神器も儀式によってではなく、皇室経済法の規定によって皇位継承と同時に新天皇のもとに移った。天皇陛下のビデオメッセージに端を発した退位は、あくまで憲法に沿った皇位継承であることが求められた。

 ■恒久制度化、議論は不可避

 天皇陛下の退位を一代限りで実現する特例法について、菅義偉官房長官は30日の記者会見で「この法律の作成に至るプロセスやその中で整理された基本的な考え方は、将来の先例になりうる」と述べた。

 特例法は、1条で退位に至る事情を詳細に書き込む異例の構成をとっている。天皇陛下が高齢で今後活動を続けることが困難になることを深く懸念▽国民が天皇陛下のお気持ちを理解して共感▽皇嗣(こうし)の皇太子さまが長期にわたり公務に精勤――の3点は、将来も特例法で退位を認める場合の条件となる可能性がある。

 皇室典範4条は「天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位する」と定め、いまも原則は終身在位だ。天皇の逝去があった場合に皇位継承を行う。

 歴史的に珍しくなかった退位の道を明治以降とざしたのは、退位が強制されたり上皇が院政を敷いたりした歴史を踏まえたからだ。皇位継承にだれの意思も介在させない現制度は、皇室安定の基盤となってきた。

 2017年の与野党協議で当時の民進党は退位の恒久制度化を主張した。天皇の意思に反した強制的な退位につながる可能性が排除できない一方、天皇の意思で退位できることを明文化すれば国政への関与を禁じた憲法に抵触する可能性がある。強制退位も恣意(しい)的退位も防ぐ要件の設定は容易ではない。

 政府の「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」も論点整理で「将来の全ての天皇を対象とした具体的要件を規定することは困難」と指摘。代わりに抽象的な要件を定めれば「時の政権の恣意的判断」が入り込む恐れがある、と難しさを強調した。

 しかし、天皇陛下がビデオメッセージで投げかけたのは、超高齢化時代の天皇や皇位継承のあり方だ。皇室側は恒久制度化を望んでいるとされる。

 新天皇陛下は59歳、皇位継承順位第1位の秋篠宮さまは53歳、2位の秋篠宮家の長男・悠仁さまは12歳。秋篠宮さまは「兄が80歳のとき私は70代半ば。それからはできない」と周囲に語っており、制度化をめぐる議論は避けては通れない。(二階堂友紀)


【03面】
① 前天皇と新天皇、併存 「二重権威」の回避、課題有料記事
② 退位礼正殿の儀 天皇陛下おことば(全文)有料記事
③ 各国から感謝の意 陛下退位有料記事


① 前天皇と新天皇、併存 「二重権威」の回避、課題有料記事

 天皇陛下は退位後、すべての公務から退く意向を示している。ただ、前天皇と新天皇が併存することで「二重権威」が生じると指摘する識者は少なくない。

 「権威の分裂が生じる」「憲法に規定された『国民統合の象徴』の機能が低下する」。2016年8月の陛下のお気持ち表明後、政府が設けた「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」。専門家の意見を聞くヒアリングではそんな声があがった。

 宮内庁は「象徴の務めから退かれるため権威の二重性は起こりえない」と説明するが、ある幹部は「退位後の過ごし方はお二人の気持ち次第。規定できるものではない」と話す。実際、退位直後から「私的な活動」としての外出に向けた計画が進み、民間から行事や音楽会などへの「お出まし依頼」が宮内庁に続々と寄せられている。

 宮内庁が1月末、代替わり後に前天皇から新天皇に引き継ぐ活動を公表した際、天皇陛下の結婚を記念して設立された「皇太子明仁親王奨学金」と、美智子さまとゆかりが深い「ねむの木賞」の関係者との面会は省かれた。新天皇へ継承されず、お二人が引き続き行う可能性がある。その場合、私的な活動と言い切れるのか疑問が残る。私的な活動が、公務以上に注目を集めることもある。4月7日朝に皇居外周を散策した際、非公表の活動にもかかわらず多数の報道陣が詰めかけて大きく報道された。

 公的な活動は新天皇ご夫妻が引き継ぐが、雅子さまは適応障害の療養中で、先代と同じように二人そろってすべての行事や式典に出席し、国民の前に姿を見せることができるのかは見通せない。

 天皇を国民と国民統合の象徴と定めた現憲法下で、上皇の存在は前例がない。活動や国民とのかかわりをどう整理し、新天皇との二重権威をどう回避するのか。今後の皇室のあり方に関わる課題だとして、宮内庁関係者は「知恵を絞っていきたい」と話す。

 上皇ご夫妻は当面、これまで通り皇居のお住まいで暮らし、東京都港区の仮住まい先へ移る準備を進める。(中田絢子、島康彦)

 ■<考論>社会の統合、皇室頼みに危うさ 原武史・放送大学教授(日本政治思想史)

 代替わりに際し、社会は「奉祝」一色に近いムードになっている。天皇が戦争責任を清算せずに死去したことなど、批判的な意見がテレビでも平然と放送されていた昭和の終わりに比べると、日本人の皇室観は大きく変わった。

 その理由は、平成の天皇と皇后の実績を否定しにくいことにあるだろう。2人は昭和天皇が手をつけなかった慰霊や被災地訪問を通し、償いや弱者に寄り添う姿勢をアピールしてきた。昭和の時代は天皇は高みに立ち、臣民はそれを仰ぎ見るだけだったが、平成皇室は自分たちから国民に近づいた。

 平成を通じて大きな災害が続いたことも、皇室の存在感を増大させた。首相が被災者に立ったまま声をかけていた時代から天皇と皇后は国民の前にひざまずき、一人一人に違う言葉をかけた。

 戦後の民主主義とともに歩んだ天皇・皇后という印象も国民に共有され、知識人や歴史学者の間にも天皇のシンパが増えた。「君主制が民主主義を強化した」という人さえいる。2人の行動にはイデオロギーが希薄で、おおむね称賛をもって迎えられた。ますます分断する社会を統合しようとしてきた感さえある。

 だが一方で、本来政治が果たすべきその役割が、もはや天皇と皇后にしか期待できなくなっているようにも見える。そうであれば、ある意味では、昭和初期に武装蜂起した青年将校が抱いた理想に近い。民主主義にとっては極めて危うい状況なのではないか。

 令和時代の皇室で鍵を握るのは雅子皇后だと考える。体調の回復が難しい場合は、ストレスや障がいに苦しむ人を励ます存在となる一方、天皇と皇后そろっての行動ができにくくなり、天皇の存在感が増す。平成から大きく様変わりし、明治や昭和の時代のような権威化が進むことになる。

 逆に体調が回復して外交官としての経験を生かせば、例えば東アジアでの日本のあるべき姿を追求する姿勢を示すこともできる。良妻賢母を体現したスタイルの美智子皇后とは全く異なる、新しい皇室像を打ち立てる可能性があるだろう。(聞き手 編集委員・宮代栄一)

    *

 1962年生まれ。近著に「平成の終焉(しゅうえん) 退位と天皇・皇后」(岩波新書)。

② 退位礼正殿の儀 天皇陛下おことば(全文)有料記事

 天皇陛下は退位後、すべての公務から退く意向を示している。ただ、前天皇と新天皇が併存することで「二重権威」が生じると指摘する識者は少なくない。

 「権威の分裂が生じる」「憲法に規定された『国民統合の象徴』の機能が低下する」。2016年8月の陛下のお気持ち表明後、政府が設けた「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」。専門家の意見を聞くヒアリングではそんな声があがった。

 宮内庁は「象徴の務めから退かれるため権威の二重性は起こりえない」と説明するが、ある幹部は「退位後の過ごし方はお二人の気持ち次第。規定できるものではない」と話す。実際、退位直後から「私的な活動」としての外出に向けた計画が進み、民間から行事や音楽会などへの「お出まし依頼」が宮内庁に続々と寄せられている。

 宮内庁が1月末、代替わり後に前天皇から新天皇に引き継ぐ活動を公表した際、天皇陛下の結婚を記念して設立された「皇太子明仁親王奨学金」と、美智子さまとゆかりが深い「ねむの木賞」の関係者との面会は省かれた。新天皇へ継承されず、お二人が引き続き行う可能性がある。その場合、私的な活動と言い切れるのか疑問が残る。私的な活動が、公務以上に注目を集めることもある。4月7日朝に皇居外周を散策した際、非公表の活動にもかかわらず多数の報道陣が詰めかけて大きく報道された。

 公的な活動は新天皇ご夫妻が引き継ぐが、雅子さまは適応障害の療養中で、先代と同じように二人そろってすべての行事や式典に出席し、国民の前に姿を見せることができるのかは見通せない。

 天皇を国民と国民統合の象徴と定めた現憲法下で、上皇の存在は前例がない。活動や国民とのかかわりをどう整理し、新天皇との二重権威をどう回避するのか。今後の皇室のあり方に関わる課題だとして、宮内庁関係者は「知恵を絞っていきたい」と話す。

 上皇ご夫妻は当面、これまで通り皇居のお住まいで暮らし、東京都港区の仮住まい先へ移る準備を進める。(中田絢子、島康彦)

 ■<考論>社会の統合、皇室頼みに危うさ 原武史・放送大学教授(日本政治思想史)

 代替わりに際し、社会は「奉祝」一色に近いムードになっている。天皇が戦争責任を清算せずに死去したことなど、批判的な意見がテレビでも平然と放送されていた昭和の終わりに比べると、日本人の皇室観は大きく変わった。

 その理由は、平成の天皇と皇后の実績を否定しにくいことにあるだろう。2人は昭和天皇が手をつけなかった慰霊や被災地訪問を通し、償いや弱者に寄り添う姿勢をアピールしてきた。昭和の時代は天皇は高みに立ち、臣民はそれを仰ぎ見るだけだったが、平成皇室は自分たちから国民に近づいた。

 平成を通じて大きな災害が続いたことも、皇室の存在感を増大させた。首相が被災者に立ったまま声をかけていた時代から天皇と皇后は国民の前にひざまずき、一人一人に違う言葉をかけた。

 戦後の民主主義とともに歩んだ天皇・皇后という印象も国民に共有され、知識人や歴史学者の間にも天皇のシンパが増えた。「君主制が民主主義を強化した」という人さえいる。2人の行動にはイデオロギーが希薄で、おおむね称賛をもって迎えられた。ますます分断する社会を統合しようとしてきた感さえある。

 だが一方で、本来政治が果たすべきその役割が、もはや天皇と皇后にしか期待できなくなっているようにも見える。そうであれば、ある意味では、昭和初期に武装蜂起した青年将校が抱いた理想に近い。民主主義にとっては極めて危うい状況なのではないか。

 令和時代の皇室で鍵を握るのは雅子皇后だと考える。体調の回復が難しい場合は、ストレスや障がいに苦しむ人を励ます存在となる一方、天皇と皇后そろっての行動ができにくくなり、天皇の存在感が増す。平成から大きく様変わりし、明治や昭和の時代のような権威化が進むことになる。

 逆に体調が回復して外交官としての経験を生かせば、例えば東アジアでの日本のあるべき姿を追求する姿勢を示すこともできる。良妻賢母を体現したスタイルの美智子皇后とは全く異なる、新しい皇室像を打ち立てる可能性があるだろう。(聞き手 編集委員・宮代栄一)

    *

 1962年生まれ。近著に「平成の終焉(しゅうえん) 退位と天皇・皇后」(岩波新書)。

③ 各国から感謝の意 陛下退位有料記事

 ■米国

 トランプ米大統領は29日夜(日本時間30日午前)、声明を出し、「米国民を代表して大統領夫人と私は、明仁(あきひと)天皇と美智子皇后に心からの感謝の意をささげる。平成時代の終わりが近づき、新しい世代が即位の準備をするにあたり、米国が日本と親密な関係で結びつくことの大きな重要性を認識したいと思う」と述べた。

 トランプ氏は2017年11月、来日して天皇陛下と会見。声明では「明仁天皇は5人の米大統領を日本に迎えてくれ、冷戦時代の終わりから今まで天皇の地位にあられた。我々の二国間関係は、これらの時代に、世界的な課題を切り抜けるのに不可欠なものだった」と振り返った。

 また日米の将来については、「我々は新しい時代においても、偉大なる同盟国、日本との連携・協力の伝統を続けることを楽しみにしている」と強調した。(ワシントン)

 ■韓国

 韓国外交省の報道官は30日、文在寅(ムンジェイン)大統領が同日、天皇陛下に書簡を送ったことを明らかにした。報道官によると、文氏は「在位期間中、平和を守っていく重要さを強調し、韓日関係の発展に大きな寄与をしたことに謝意を表する」としたうえで、「退位後も両国関係の発展のため尽力することを期待する」と記したという。(ソウル)

 ■ロシア

 ロシア大統領府は30日、プーチン大統領が同日、天皇陛下に電報を送ったことを明らかにした。プーチン氏は電報で「天皇陛下は在位中、日ロ関係に大きな関心を払われ、両国関係は明らかな発展を遂げた」として「心からの謝意」を表明。「両国に有益な関係が今後も続き、あらゆる分野で強化されると期待している」と記した。(モスクワ)


【04面】
令和経済、期待と課題 技術革新主導、浮沈のカギ

 令和の日本経済はどこへ向かうのか。成長のエンジン役として人工知能(AI)や自動運転といった新技術の開発に期待が集まる一方で、発展を阻みかねない重い課題が平成から引き継がれた。

 AIが人間を超えるまでに技術が進む「シンギュラリティー(技術的特異点)」は2045年、令和27年とされる。国内総生産(GDP)の2割程度を占める国内製造業が他国に先んじて技術革新を主導し、商機を取り込めるかが日本経済の浮沈のカギを握る。

 通信速度がいまの数十倍の次世代移動通信方式「5G」は来年春、本格的にサービスを開始する見通しだ。5Gはあらゆるモノがインターネットにつながる「IoT」の基礎になる。遠隔操作で冷蔵庫やエアコンを操作できるだけでなく、人間の動きに合わせてロボットを動かせる。

 5Gは自動運転にも活用される。政府は来年をめどに高速道路など一定条件のもとで自動運転が可能な「レベル3」や、地域を限定した「レベル4」を実用化する青写真を描く。

 製造業以外に目を転じれば、現金を使わないキャッシュレスの決済が普及し、小売りのスタイルも大きく変わりそうだ。コンビニなどではあと6年ほどで無人レジの導入が加速すると業界はみている。個人間でモノやサービスを売買する「シェアリングエコノミー」の市場もさらに拡大が見込まれる。(大宮司聡)

 ■深刻な人手不足、働きやすさ求めて 急速な人口減

 経済成長に立ちはだかる大きな課題は、急速な人口減だ。現在7500万人の生産年齢人口(15~64歳)は減少の一途をたどり、40(令和22)年には6千万人割れする見通しだ。53(令和35)年には日本の人口が1億人を割り込む。

 今後、労働人口の49%がAIやロボットに置き換わるとの研究もあるが、人手不足は厳しくなるとの見方が一般的だ。企業は先端技術の開発などに携わる人材の確保にいま以上に頭を痛めることになりそうだ。

 政府は働く高齢者や女性を増やす方針で、こうした人たちがより働きやすい環境、雇用の仕組みにすることが課題となる。

 外国人労働者の受け入れも進む。今年4月から新しい在留資格「特定技能」をスタートさせており、今後5年間で最大34万5千人の外国人が特定技能の資格で働くとしている。

 日本総研は、いまのペースが続けば、現在146万人の外国人労働者が30(令和12)年に280万~390万人に増えると予想する。山田久・主席研究員は「長期滞在や定住の可能性も視野に入れながら、地域住民との共生などを丁寧に考える必要が出てくる」とみる。(志村亮)

 ■増える国債発行、市場混乱の恐れも 借金漬け財政

 借金漬けの財政も、経済を制約する要因になりうる。成長を見込める分野に大胆に予算を投じにくくなるだけでなく、金融市場に混乱を引き起こすリスクをはらむ。

 19年度の国の一般会計当初予算は、史上初めて100兆円を超え、その3分の1を借金にあたる国債で賄う。国と地方の借金(長期債務残高)は1105兆円と、平成の30年間で約4倍に増え、GDPの2倍に達した。国際通貨基金(IMF)が公表する188カ国の中で、最悪の水準だ。

 社会保障費は高齢化によって年数千億円規模で増え続け、納税の担い手は減る一方だ。このままだと、借金の残高が10年ほどで約1200兆円に達する。

 これだけ国債を発行していると、国債の価格が暴落(長期金利が上昇)しかねない。いまは国債の大半を日本銀行が買い取っているため、金融市場は落ち着いているが、日本国債の格下げといった外的要因をきっかけに、金融市場が混乱する可能性もゼロではない。

 「日本国債の暴落は、市場でだれかが疑い始めたらいつでも起こりうる」。かつて財務省幹部が口にした危機が来ないとも言い切れない。(斎藤徳彦)

 ■日銀の大量買い、積み上がるリスク 異次元緩和策

 「2%の物価上昇」を目標に日銀が進める異次元の金融緩和は7年目に入った。金融機関が持つ国債やETF(上場投資信託)などを今後も大量に買い続けるとみられ、リスクが積み上がっている。

 ニッセイ基礎研究所の井出真吾氏の試算によると、日銀はETFを通じ、3月末時点で大手企業の株式約28兆9千億円分を間接保有する。東証1部企業の株式時価総額の約4・8%にあたる規模だ。今のペースで買い続けると、2~3年のうちに日銀が「日本企業の株式の最大の保有者」になる可能性があるという。

 いまや国債の発行残高の4割以上を日銀が抱えている。「日銀が財政規律を緩め、将来世代につけを回すのを手伝っている」(東短リサーチの加藤出チーフエコノミスト)状態だ。

 日銀の資産規模は約560兆円に膨らみ、日本のGDPを上回る。金融市場でひとたび株価が急落すれば日銀も損失を抱える。通貨の信認が揺らぎ、為替の急変動につながりかねない。金融政策を正常に戻すために日銀が国債を手放す場合も、国債価格の急落を招くおそれがある。そうなれば政府も借金をするのが難しくなり、財政不安が高まる。(寺西和男)


【08面】社説 即位の日に
等身大で探る明日の皇室

 皇太子さまが天皇に即位し、きょう、三権の長を始めとする国民の代表に「おことば」を述べる儀式などが行われる。

 日本国および日本国民統合の象徴としての務めを、上皇となった前天皇からどう受け継ぎ、自分のものにしていけば良いのか。胸に去来するのは、そんな思いではないだろうか。

 この春、朝日新聞の世論調査で新天皇に期待する役割を複数回答で聞いたところ、「被災地を訪問するなどして国民を励ます」66%、「戦没者への慰霊などで平和を願う」52%が上位に並んだ。いずれも、上皇ご夫妻がとりわけ力を入れて取り組んできた活動だ。

 新天皇陛下も、これまで幾度となく被災地に足を運んで人々に心を寄せ、また4年前の会見では戦後生まれの一人として、「戦争を体験した世代から知らない世代に、体験や歴史が正しく伝えられていくことが大事」と平和の尊さを語っている。

 多くの国民の願いと陛下の考えとが重なることは喜ばしい。平成のときに培われた、国民主権や平和主義など憲法の理念・原則に即した象徴像を、新天皇とともに、さらに確かで磨かれたものにしていきたい。

 ■国民とともに考える

 一方で、時代の要請に応じた「新たな公務」への意欲も、陛下は繰り返し示してきた。

 環境や災害、交通など多彩な角度から水問題を研究し、国際会議や大学での講演をまとめた書籍が出版されたばかりだ。海外への発信力も備えている。

 また、外務官僚出身の皇后雅子さまについて、陛下は2月の会見で「グローバル化の時代にあって、本人だからできるような取り組みが、今後出てくると思う」と期待を寄せた。

 皇室は国際親善にも大切な役割を果たしてきた。外国訪問や要人との面会はもちろん、外国人労働者の受け入れにかじを切り「多民社会」に移行しようとしているこの国の象徴として、内なる国際化にもご夫妻で向き合うことになるだろう。

 かつて上皇さまは「新たな公務も、そこに個人の希望や関心がなくては本当の意義を持ち得ないし、また、同時に、与えられた公務を真摯(しんし)に果たしていく中から、新たに生まれてくる公務もある」と語った。

 自らの関心も大切にしつつ、自然体で日々の活動を重ねるうちに、新天皇の持ち味が醸し出されてゆくに違いない。

 国民の側も、皇室にいかなる活動を、どこまで求めるのかを考え続け、憲法からの逸脱や無理がないか、不断に検証する必要がある。過度な要請や筋違いの望みを排し、皇室と国民の双方向で、あるべき調和点を見いだしていくことが大切だ。

 ■身構えず自然体で

 天皇ご一家には常に人々の目が注がれ、「幸せ家族」であることを期待される。平成のご夫妻も例外ではなく、天皇家として初めて3人の子を自らの手で育てる姿は、高度成長期の理想の家庭像と受け止められた。同時に国民は、その裏にある苦悩、とりわけ民間から皇室に入った美智子さまが、慣れない環境下で苦労を重ねる姿も垣間見てきた。

 新天皇ご一家も同様に、いまの時代に生きる家族らしい喜怒哀楽を体現している。

 結婚により女性が仕事に打ち込めなくなる無念。「跡取り」の誕生を期待される重苦しさ。心身の不調をかかえる家族に寄り添い、快復を見守る気遣い。子どもへの変わらぬ愛情――。

 こうした人間的な悩みや苦しみに、自らを取りまく境遇や家庭を重ね合わせ、親しみと共感を抱く人は少なくないはずだ。家族のありように正解も不正解もない。身構えず日々のくらしの哀歓をありのままに示すことが、さまざまな葛藤を抱える国民の「等身大の象徴」になる。

 ■先送りできない課題

 代替わりを受け、いよいよ検討が迫られるのが、皇室活動をどう維持し、皇位を引き継いでいくかという年来の課題だ。

 30代以下の皇族は7人しかおらず、うち6人が女性だ。結婚すると皇籍を離れる決まりのため、野田内閣は7年前に「女性宮家」構想を打ち出したが、直後の政権交代で登場した安倍内閣は検討を棚上げした。

 さらに深刻なのは皇位継承者の先細りだ。今のままでは、秋篠宮家の長男悠仁さまが伴侶選びを含めて、皇室の存続を一身に背負わされることになる。その重圧はあまりに大きい。

 男系男子だけで皇位をつないでいくことの難しさは、かねて指摘されてきた。しかし、その堅持を唱える右派を支持基盤とする首相は、この問題についても議論することを避けている。日ごろ皇室の繁栄を口にしながら、実際の行動はその逆をゆくと言わざるを得ない。

 国会は退位特例法の付帯決議で、政府に対し、法施行後、この問題について速やかに検討を行い、報告するよう求めた。

 新天皇即位でお祝い気分が社会を覆う。その陰で、天皇制は重大な岐路に立たされている。


【11面】耕論
令和、私たちの期待私たちの期待

 令和が始まる。平成の時代は、戦争こそなかったものの、格差や差別など様々な問題が表に出た。でも、もっといい世の中にできるはず。平成生まれの3人が、次の時代への期待を語った。

 ■他人との違い、生かす時代 宮本エリアナさん(タレント)

 私の両親は、母が日本人で父がアフリカ系アメリカ人です。見た目が違うせいか、保育園や学校生活を送る中でいじめを受けました。「手をつないだら色が移る」など心無いことを言われたり、大人から「くろんぼ」「アメちゃんの子」などと言われたりすることもありました。

 いじめがつらくて、母に相談したことがあります。すると「見た目が違うのは、父親が黒人なんだから当たり前じゃない?」ときっぱりと言われました。以来、悩むことをやめ、ありのままの自分を受け入れることにしました。

 でも、差別や偏見に耐えられない人もいます。日本人と白人系の親を持つ友人は自分の居場所を見つけられず、自ら命を絶ちました。「差別をなくすために発信力を持ちたい」。それが、ミス・ユニバース出場を決めた1番の理由でした。

 スポーツ界ではテニスの大坂なおみさんなど、黒人にルーツがある選手たちがたくさん活躍しています。ですが、芸能界では、まだ少ないのが現状です。芸能活動をする中で、「モデルとしては需要があまりない」「その肌に合う服が少ない」と言われたこともあります。

 私はこれからも、講演会など人前に立つ仕事を続けて、グローバルな世の中になるよう、発信していきたいと思っています。

 平成は変化が速く、それまでとは違う経験や意見に接する機会が格段に増えた時代だったと思います。ただそのスピードに追いつけず、変化に抵抗を感じた人もいたのではないでしょうか。

 私がミス・ユニバース日本代表に選ばれた時、批判的な声が多くありました。一方で「ハーフは既に日本にたくさんいるし、今っぽくていい」という意見も寄せられました。若い世代を中心に、今の日本人は変化に柔軟になっていると感じます。これからは、変化を楽しむ時代ではないかと思います。

 オープンにものが言える雰囲気を作ることが、その一歩だと思います。そのためには、政治に多様性が必要です。これまで強い立場だった年配の男性議員に、若者や外国出身者、女性の議員らが意見をぶつける姿が普通になれば、弱い立場にある人が主張するのをたたく現象も減るのではないかと思います。

 日本には今後、外国人労働者の力がさらに必要となります。色々な習慣を持つ人が身近になることは、もっと寛容な社会になる好機です。個々の事情により、今までと違う働き方で成果を出す人も増えるでしょう。

 みんなと違うことを責めるのではなく、違うことを生かしていく。令和は、そんな時代になって欲しいと思います。

 (聞き手・後藤太輔)

    *

 みやもとエリアナ 1994年、長崎県佐世保市出身。2015年、ミス・ユニバース日本代表に選出。17年に結婚し昨年、長男を出産。

 ■しょぼくても日々丁寧に えらいてんちょうさん(経営コンサルタント、ユーチューバー)

 平成は生きづらい時代でした。SMAPの「世界に一つだけの花」に「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」というフレーズがありますけど、僕たち平成に生まれ育った人間は、「特別なオンリーワン」にならなきゃいけないというプレッシャーをずっと感じてきたと思うんです。

 ナンバーワンを目指す明白な競争ではないけれど、語学やプログラミングを身につけたり、資格をとったり、オンリーワンを目指す漠然とした競争を求められた。そのしんどさや苦しさがありました。

 でも、語学もプログラミングも、もっとできる人がいれば代替されてしまう。ロボットやAIの進歩で、「匠(たくみ)の技」は要らなくなりました。ほとんどの人は「特別なオンリーワン」になれず、それで心を病んでしまうのです。

 僕は、社会の中でオンリーワンになる必要はないと思います。そうではなく、家族や友人、地域の人など、ごく近しい人にとってのオンリーワンであればいいんです。

 本で書いた「しょぼい起業」も、そういうオンリーワンになるための手段です。たとえば自宅で家族のために野菜をつくりつつ、余った分を売る。生活の一部をビジネスにするわけです。「すごい起業」ではないけれど、自分の生活の一部だからロボットやAIには代替されません。

 「しょぼい起業」の秘訣(ひけつ)のひとつとして、「とにかく毎日店を開ける」ことを挙げています。「あそこに行けばいつもいる」という人は、地域におけるオンリーワンになりやすいからです。平成には、様々な場所に移動しながら仕事をする「ノマド」という生き方が流行しました。でもこれからは、地域に定着して仕事をする方が、むしろ可能性が開けると思っています。

 平成はブラック労働の時代でもありました。ブラック労働対策というと「時給を上げろ」といわれますが、時給が1500円になれば、仕事も責任も重くなります。時給が低くても、責任が少ない方が気楽に働ける。しょぼい起業だと、最初は時給1000円も稼げませんが、どこも意外につぶれていないし、楽しそうにやっています。

 生活保護の受給支援の活動をしていたことがあるのですが、そのとき感じたのは、日本はまだまだ豊かな社会で、社会をうまく使えば生きていけるということです。生きるために、つらいことを我慢してやる必要はないんです。

 平成の時代のように派手な起業も目指さない代わり、ブラック労働もやらない。しょぼくてもいいからできること、やりたいことをやって、丁寧に毎日を送っていく。それが令和に合った生き方じゃないかと思っています。

 (聞き手 シニアエディター・尾沢智史)

    *

 1990年生まれ。本名は矢内東紀。大学卒業後、リサイクルショップなどを起業。著書に「しょぼい起業で生きていく」。

 ■下からの力で社会変える 山本和奈さん(Voice Up Japan代表)

 新しい元号の発表は、昨年立ち上げたNGOの拠点がある、ペルーで知りました。元号の意味を自分なりに受け止めていいならば、私は「令」を、上から命じられるのでなく、何かをやり抜くと「自分自身に命じる」という意味にとらえたいと思います。

 昨年12月、「週刊SPA!」が、「ヤレる女子大学生ランキング」と題した記事を載せました。ネット上で署名を集めるサイトで、女性差別や軽視につながる発言の中止や記事の撤回と謝罪を求めたところ、5万人以上の署名が集まりました。編集部との面会が実現し、なぜ企画が社内を通り出版されたのか、何が間違っていたと思うかについて、聞くことができました。

 平成は、テクノロジーが進化した時代でした。こうした署名やNGOの活動ができるのは、ネットとSNSで、情報と問題意識が素早く広げられるからです。ネットは、今まで弱い立場に置かれ、学びや発信ができなかった人たちの「不可能」を「可能」にしました。

 私自身は英語で教育を受けるなど恵まれた環境で育ち、その恩恵を自分のためだけに使うなと教育されました。そこでSPA!の件をきっかけに、仲間と立ち上げたのが「Voice Up Japan」という団体です。さまざまな問題で声を上げている人たちとつながり、一緒に声を上げたり、多言語に翻訳して世界に発信しています。

 政治や大企業は、上にいくほど多様性がなく、決定権を持つのは昭和生まれの男性ばかりです。たとえば性犯罪被害者など、法制度が古いため余計につらい思いをしている人がいる時に、政治家になって上から仕組みを変えるのは時間がかかります。下からの働きかけでも影響力がある時代なので、今はすぐにできることを中心に動いています。

 さまざまな働きかけをしていく中で、女性や性的マイノリティーに対し偏見がある人に「なんでわからないの?」と押すだけでは、考えは変わらないことに気づきました。

 50年間、「1+1=2」と習ってきたのに、急に「1+1=3」だと言われて、理解できないのはその人のせいではありません。けれども、上の世代が闘ってくれたお陰で得られた権利が、今は当たり前になっているように、社会や文化は変わっていきます。

 英語に「相手の靴をはく」という表現があります。互いになぜそう考えるのかを理解しようとするところまでもって行ければ、対話はいい方向に向かいます。

 改元がいろいろな人にとって、いい意味で変わるきっかけになってほしい。平成では格差を生み出す側にいたかもしれない人が、「ちょっと切り替えてみよう」と思う時代になればと願っています。

 (聞き手・高重治香)

    *

 やまもとかずな 1997年生まれ。国際基督教大学4年生。教育格差をなくすための国際NGO「Educate For」代表。


【18~19面】新天皇即位
もっとも身近な天皇・皇后に、自然体で
   http://www.asahi.com/shimen/20190501/index_tokyo_list.html

 令和の時代が幕を開けた。国民の中に入り、国民に少しでも寄り添う――。新天皇陛下は、皇太子として最後となった2月の記者会見で目指すべき皇室像を明かした。どのような皇室を築いていくのか。新皇后の雅子さまを長く取材してきた記者や、新天皇陛下とゆかりのある人らがお二人の歩みを振り返り、次代へ期待を寄せた。

 ■斎藤智子・社会部皇室担当記者

 昨年11月の園遊会。

 雅子さまは、東京・元赤坂の赤坂御苑で開かれた平成最後の園遊会に最後までとどまり、人々をもてなした。終了まで出席したのは15年ぶりのことだ。

 おめしものは、クリーム色の地に、鮮やかな紅葉がちりばめられた着物。かつて美智子さまから贈られた反物で作られたものという。おそらくは、初めて袖を通したのだろう。

 私には、この着物を選んだことが、美智子さまのあとを継ぐという決意表明のように感じられた。

     *

 <よく笑ってユーモアも> 雅子さまに初めてお目にかかったのは1987年暮れ。国家公務員試験に合格する女性が増え、霞が関に女だけの「同期会」ができたというニュースの取材だった。当時24歳。東大法学部を中退し、外務省経済局に配属されていた。

 取材をきっかけに昼食にお誘いし、食事や映画にご一緒するようになった。

 外交官の父のもと、旧ソ連や米国でも育ち、ハーバード大学を卒業した才媛(さいえん)なのに、知識をひけらかすような気配はみじんもなかった。会話にはユーモアがあふれ、よく笑った。勤務は未明まで続いた。「午前2時に帰宅したら今日は早いわねと母に言われたの」とおかしそうに言っていた。私と夕飯の後、再び霞が関に戻ることも。同僚にアイスクリームを差し入れる気遣いもあった。

 すでに当時、新天皇陛下(当時は浩宮さま)に誘われて御所や関係者宅でともに過ごし、マスコミに「おきさき候補」と騒がれ始めていた。陛下に好意は抱いていたようだが、「やりたいことがあって外務省に入ったのだから」と結婚に消極的な姿勢は一貫していた。

 この時は結局プロポーズにまで発展しなかった。祖父が水俣病公害を出したチッソの社長・会長を歴任した人物だったことで、反対する声があったとされている。

     *

 <二人の記者会見に納得> 雅子さまは88年夏に外務省の研修で英国にわたり、オックスフォード大学に留学した。様子を知りたくて89年11月、海外出張の帰りに足を延ばした。

 1年数カ月ぶりに食事をし、英国での学生生活を聞いた。日本のマスコミの取材攻勢は英国でも続き、疲れ果てた様子だった。「こんなに騒がれるのでは女性とおつきあいもできなくて、(新天皇陛下は)なかなかご結婚できないのではないかしら」。そんな趣旨のことを言葉を選びながら話してくれたのを覚えている。

 それから数年。私は92年暮れに雅子さまが求婚を受け入れたと聞いて驚いた。

 思い切ってご自宅に電話した。「お話しできません」と切られてしまったが、その後、新天皇陛下との記者会見をテレビで見て、私は納得した。会見では、陛下から心を打つ言葉をいくつかいただいたと披露し、「私にできることでしたら、殿下のことをお幸せにしてさしあげたいと思いました」と語っていた。新天皇陛下のことを好きになり、自身の意思でプリンセスの道を選んだのだ。

 新天皇陛下は結婚後、ご自分の世界に雅子さまをいざなった。学習院幼稚園の同窓会に雅子さまと出席し、旧友の間で笑う楽しそうなお二人の写真も残っている。

 結婚の約1年後には、東京・奥多摩の山に一緒に登った。那須の山などあちこちにお連れしたようで、山岳雑誌に載る新天皇陛下の自筆の記事に、雅子さま撮影の山の花の写真が載るようになった。「これからも妻とこのような登山の楽しみを見出せたらと思う」という一文にびっくりした。皇族ではめったに見ない「妻」という言葉。私は、陛下の幸福を感じた。

     *

 <「妻」のため「防波堤」に> だがやがて、雅子さまは病んでしまう。2001年暮れには待望の愛子さまが生まれたのに、記者会見中に突然ぽろぽろ涙をこぼした。体調はしだいに悪化し公務もできなくなった。

 皇室は異質な世界だった。伝統や古いしきたり、監視の目。当時皇太子妃として求められたのは「男の子」を産むこと。結婚8年でやっと子を授かったのに、女の子ゆえに素直に喜んでもらえない体験もして、深く傷ついた。

 同じく民間から皇室に入った美智子さまも苦労されたと言われる。私の脳裏に浮かぶのは、たまたまテレビが映した光景だ。羽田空港のタラップの下で並んで米国に向かう昭和天皇ご夫妻を見送っていた若き美智子さまの前を、香淳皇后が素通りした場面である。

 「雅子さまにも同じような出来事があった」と複数の人が話してくれた。国賓接遇の場で、皇族一同の中で一人だけ相手方に紹介されなかったと受け止められるようなことがあったとして、「雅子さまご自身は深く傷ついたようだ」と当時を知る関係者は明かす。

 1カ月半後には帯状疱疹(ほうしん)で入院。退院後は長い療養に入った。

 「それまでの雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」――。

 新天皇陛下が記者会見の場で述べた04年5月のいわゆる「人格否定発言」は、そんな「出来事」から約半年後、雅子さまの体調が最も悪かった時期のことだ。

 発言は批判を浴びたが、目の前で壊れていく「妻」のために、覚悟をもって「防波堤」になったのだと私は思った。どんなに強い風にあおられても、柳の枝のように受け流し、決して折れなかった。そして以後、ひとりだけの公務、ひとりだけの海外訪問を、黙々と積み重ねた。

     *

 <これからも助け合って> 長い時間がかかったが、雅子さまは回復へと向かっている。

 東日本大震災では、上皇ご夫妻と同じように被災地や避難所を訪れ、人々に寄り添った。埼玉県三郷市、宮城県岩沼市、福島県郡山市、岩手県大船渡市……。どこへ行っても、励ますと同時に励まされた。苦労を重ねてきたお二人に、自分たちのつらい体験や弱さを重ねて、共感する人々が、全国にいる。「まだご病気から回復されないのに、わざわざ来てくださって。私も頑張らなくちゃと、元気がでました」と。

 時代は平成から「令和」へと変わった。

 どんな時も、これまでと同じように自然体で、お二人で助け合いながら、進んでいって欲しい。私たち国民に最も身近な天皇、皇后になられることを、心から願っている。

 ■41カ国訪問、飾らない素顔や気さくな人柄も度々

 新天皇陛下は皇太子となる前を含めこれまで51回にわたり、41カ国を訪問した。上皇ご夫妻が築いてきた各国王室との絆を土台に、オランダのウィレム・アレキサンダー国王やデンマークのフレデリック皇太子ら同世代の王族と親交を深めてきた。海外の王室に詳しい君塚直隆・関東学院大教授は「戴冠(たいかん)式では最上位の席を用意されることもあり、『日本の顔』として認知されている」と語る。

 昨年9月、皇太子として最後の海外訪問国となったフランスでは「次期天皇」と報道され、注目を集めた。パリ近郊のベルサイユ宮殿で開かれたマクロン大統領夫妻主催の絢爛(けんらん)な晩餐(ばんさん)会では英語で「両国民の絆がますます深まることを期待しております」とスピーチ。下院副議長主催の昼食会では約8分間のあいさつを全てフランス語で行った。マレーシア訪問(2017年)やアフリカ訪問(10年)などこれまでも度々現地の言葉を交え、相手国への敬愛の念を示してきた。英仏のほかにスペイン語も学んでいるという。

 初めての海外体験は学習院中等科3年生のとき。夏休みにオーストラリアを訪問、約2週間滞在し、銀行家の家庭にホームステイした。現地ではレセプションにも出席し、母、美智子さまはこの年の会見で「将来の公的なものの一端を学んできたと思います」と述べた。美智子さまは「一般の家庭でも、そんな完全な自由はない。今回の旅行で、自由というものの一端に触れ、それがわかったのでは」と語った。

 学習院大学大学院に進学後の1983年に英国に留学。オックスフォード大学マートンカレッジで2年間学び、18世紀のテムズ川の水上交通、物資流通について研究した。留学経験がある天皇は新陛下が初めてだ。留学中も各地を旅し、英エリザベス女王から夏の静養先に招かれたり、ルクセンブルクの王族とスキーを楽しんだりと、各国王室から温かく迎えられた。留学後は「日本の警察は英国に比べて警備が過剰」と述べたり、おきさき選びに関連して「ニューヨークのティファニーであれやこれや物を買う人ではちょっと困る」と発言したりして話題になった。当時の朝日新聞は、留学後に「ご自分の意見をはっきり表明されるようになった」と伝えている。

 皇族として初めての公式な外国訪問は、82年10月、約2週間ブラジルに滞在し、日系人らと交流した。87年には、ネパール、ブータン、インドを訪問。ネパールで女性や子どもが水くみに苦労する様子を目の当たりにしたことが、「新しい公務」として力を入れる水問題に関心を寄せるきっかけとなった。皇太子として過ごした平成の30年間では、43回にわたり38カ国を訪問。93年に結婚した新皇后雅子さまとの初めての訪問先は、94、95年の中東7カ国。95年の訪問時は、直前に阪神・淡路大震災が発生したため「国民が見ていただきたいのは被災者」と非難され、後の会見で犠牲者や被災者のことが「頭を離れることはありませんでした」と語った。

 各国王室の即位式や結婚式、葬式など「冠婚葬祭」にも出席。2013年12月、南アフリカ共和国の故ネルソン・マンデラ元大統領の追悼式の際は、0泊3日の強行日程をこなした。13年4月のオランダ国王の即位式出席の際は、事前にマキシマ王妃から雅子さまに電話で直接招待の言葉があった。雅子さまにとって11年ぶりの海外公務となり、その後の復調のきっかけにもなった。

 新天皇陛下は海外で度々飾らない素顔と気さくな人柄を見せる。17年のデンマーク訪問では、市街地を散策中に市民と気軽に「セルフィー(自分撮り)」に応じ、「新しい皇室の形」と話題になった。今年は外国訪問の予定はないが、秋の即位礼正殿の儀のために来日する多数の賓客をホストとして迎える。(中田絢子)

 ■新天皇、新皇后両陛下の歩み

写真・図版 写真・図版 写真・図版


【21面】
私がふれた陛下の姿 新時代、願いを寄せて

 ■癒やす力でずっと「戦後」に 漫画家・ちばてつやさん

 中国・旧満州で終戦を迎え、6歳の時に約1年かけて家族と日本に引き揚げてきました。中国の八路軍や国民党軍などに見つからないよう夜に行動し、ジャガイモやコーリャン(モロコシ)で空腹をしのいでね。移動中にパラパラと銃声が聞こえてその場で伏せたこともありました。

 死も多く目にしました。人って簡単に死んでしまうと幼心に感じたものです。仲の良かった友人も引き揚げ船の中で亡くなり、海に投げ込まれた遺体に向かって名前を叫びました。

 福岡県の博多港に到着し、香淳皇后から下賜(かし)された真っ白なおにぎりを食べたことが忘れられません。母は「日本のお母さまである皇后さまが我々の労をねぎらっておにぎりをくれたんだよ」って。

 2013年秋、天皇、皇后両陛下(上皇ご夫妻)とお話ししましたが、私の引き揚げのことをご存じで、「引き揚げの体験はご苦労されたんですね」と言われました。私は普段、できるだけ引き揚げのことや友人や周囲の人を亡くしたことは思い出さないようにしていますが、この時はびっくりしたと同時に胸が熱くなりました。

 皇太子さま(新天皇陛下)とも園遊会でお会いし、「私も漫画を読んでいました。日本の漫画やアニメーションが世界中で認められて、すごくいい文化に育てて下さいましたね」と声をかけて下さり、うれしかった。

 そうそう、招かれたお茶会で、近くに座った美智子さまがアニメ「巨人の星」の歌を口ずさんで「子どもたちは歌いながら漫画を読んでいましたよ」と教えて下さりました。皇室のみなさんも漫画を読んでいらっしゃるのかと驚きました。

 慰霊の旅を通じて平和をとても大切にされてきた先代の思いを、新天皇陛下と雅子さまは引き継いでおられるでしょう。心配していません。人を癒やすお力をお持ちのお二人のやり方で、色々な方々を癒やしていかれると思います。

 平成は戦争がなく、総じて平和で良い時代でした。私は、平和だからこそ、漫画家は多くの作品を描けるし、たくさんの読者に作品を読んでもらえると思っています。新しい時代でも、ずっと「戦後」であってほしいと願っています。(聞き手・緒方雄大)

     *

 1939年、東京都生まれ。56年に漫画家デビューし、「あしたのジョー」「紫電改のタカ」などヒット作多数。4月から宇都宮市の文星芸術大学の学長を務める。

 ■難民問題、解決・理解に熱心 第11代国連難民高等弁務官、フィリッポ・グランディさん

 新天皇陛下が、昨年2月の記者会見で「不幸にして安住の地を離れざるを得なくなった難民・国内避難民等の数は、第2次世界大戦後最大となる約6560万人に上っていると聞き、大変心が痛みます」と懸念を表明されたと聞き、この課題に寄り添ってくださるお気持ちをうれしく思いました。

 国連難民高等弁務官に就任した2016年初め以降、4度の来日の度、当時の東宮御所でお会いし、難民問題について話し合う機会をいただいてきました。昨年10月にお会いした際は、東京五輪・パラリンピックで、地元の国・地域から出場できない選手による「難民選手団」が、リオデジャネイロ五輪に続き結成され、参加できることになったことを喜ばれていました。

 新天皇、新皇后ご夫妻は、人道問題に関する幅広い知識と関心をお持ちで、世界の難民が置かれている窮状に非常にお心を痛めておられます。難民を支援し、他国への第三国定住や、条件付きでの帰国などの解決策を模索する私ども国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の活動を、度々励ましてくださいました。

 紛争や迫害のために避難した難民やその他の避難民が世界中で増えていることも話し合いました。彼らの生活再建はますます困難になっています。懇談の内容は、シリア、ベネズエラ、ミャンマーの危機、そして長年危機が続いているアフガニスタンやソマリアの問題まで、広範囲にわたりました。日本の役割や、難民と受け入れ国の双方に利益をもたらす長期的な支援についても話し合いました。

 ご夫妻は、紛争と追放が人々に与える影響を懸念し、現在の難民問題の動向について、その理由や対処方法を理解しようと熱心でおられた。

 日本は、難民問題の現場のほとんどが遠く離れているにもかかわらず、長年にわたり積極的に国際機関の活動を財政面から支援してくれました。日本のリーダーシップと支援に深く感謝しています。

 新たな時代「令和」に寄せて、日本の安定と平和を願い、新陛下の精神的なリーダーシップのもと、難民受け入れ国への支援と住まいを追われた人々への深い理解が受け継がれていくと信じています。象徴としての崇高なお務めが成功することをお祈りしています。(聞き手・中田絢子)

     *

 Filippo Grandi 1957年イタリア・ミラノ生まれ。30年以上国際協力の職務に携わり、NGOを経てUNHCRへ。第8代の緒方貞子氏の特別補佐官も務めた。

 ■水研究、にじみ出る積極性 水研究の相談役・尾田栄章さん

 ある時、殿下(新天皇陛下。以下、殿下)から一枚の写真を見せられました。1987年3月、公式訪問していたネパールのポカラで、甕(かめ)を持った女性や子どもが水くみ場前で列をつくっている光景です。身近に水が手に入らず、はるばる遠くから足を運んできた姿に胸打たれ、殿下自らカメラを向けたそうです。

 殿下は「水」問題の研究をライフワークにされています。水問題というと、水不足、水汚染を思い浮かべる方が多いでしょうが、洪水や津波などの水害対策は世界規模で必要だし、限られた水をどう分配するかは国際紛争や貧困問題にもつながっていく。様々な課題の根源に、水問題があると殿下はお考えなんです。

 東アフリカで誕生した人類の中の一握りの人々が「グレートヒューマンジャーニー」(人類の壮大な旅)に出発し、人類は世界全体に広まった。これは日々の「水と食料」を求める旅でもあった――。殿下は2013年、米ニューヨークの国連での講演でこの学説を紹介しました。

 人と水との関係を考えなければ人類がどう文明を作ってきたか、どんな問題に困ってきたのかが分からない。言葉にするとふわふわした話に聞こえるかもしれませんが、殿下はそれぞれの地域に足を運び、事例に即した研究を続けている。だから大勢の人に響くんです。

 でも、殿下は非常に自然体な方で、自分を表に出そうとはされない。だけど、殿下がおられることで、周りにいる研究者らが活性化していく。同じく水問題に取り組んできたオランダのウィレム・アレキサンダー国王は「この日に予定を入れよう」と自分でスケジュールを決めていたが、日本の皇室ではそうはいかないでしょう。殿下は多忙さが増す中でどう水問題に関わっていくのか、今後考えていくのでしょう。

 昨年3月、殿下はブラジルの世界水フォーラムで基調講演をし、今後は「私も強い関心を持って見守っていきたいと思います」と述べられました。「見守っていきたい」という表現に一歩引いた印象を持つ人もいるようですが、私は逆にものすごい積極的な発言だと思いました。どんな立場になろうと、関わり方はともかく関わっていく。そんな強い意思表示だと受けとめました。(聞き手・島康彦)

     *

 おだ・ひであき 1941年生まれ。67年に旧建設省に入省し、河川局長などを務めた。退官後、第3回世界水フォーラム事務局長などを歴任。新天皇陛下の水研究の相談役。


「令和」別刷り特集
   https://digital.asahi.com/article_search/list.html?keyword=%E5%88%A5%E5%88%B7%E3%82%8A&FormRadioSelect=&from=&to=&searchcategory=2&inf=&sup=&page=1&MN=default&HS%5B%5D=&SR%5B%5D=&searchsort=&kijiid=A3041120190501M001-B1-001&version=2019050106%22

【01面】「令和」別刷り特集
新時代、認め合う多様な価値観 即位・改元5月1日 

 「平成」が終わり、「令和」が始まりました。江戸時代後期の光格天皇以来、約200年ぶりとなる天皇退位による改元で、様々な代替わりの儀式や行事が予定されています。新しい皇室の姿とともに、紹介します。

 ■新時代、認め合う多様な価値観 林真理子(作家)

 新天皇陛下とは皇太子時代に昨春の園遊会でお会いし、「(NHK大河ドラマ)西郷(せご)どん、毎週見てますよ」と声をかけて頂きました。歴史がお好きなんでしょうね。ドラマに登場する薩摩藩の島津久光は香淳皇后の先祖にあたりますから、関心をお持ちなのだと思います。知的で穏やかな印象を受けました。

 新皇后の雅子さまは、やはり魅力的で、笑顔が自然でいいなと感じました。

 平成という時代は、びっくりするくらい災害が多かった。不景気も経験し、若い世代は明るい未来がイメージ出来なかったかもしれません。

 私たち作家にとっても革命的な時代でした。インターネットが台頭し、本が売れなくなり、人々から読書の習慣を奪ってしまった。知性がかなりそがれたのではないでしょうか。ネットでは予想だにしないようなことでたたかれたり炎上したり。面白いことや毒のあることを書けなくなった。表現者としては嫌な時代です。

 一方で、女性はものすごく変化を遂げましたね。性被害やセクハラを告発する「#MeToo」運動がおきるなど、自分を主張する強い女性が出てきて頼もしいなと思います。

 選択肢の広がりや価値観の多様化も影響していると思います。私たちが若い頃、女性は結婚したら家庭に入るのが当たり前で、昭和から平成の中ごろまではそういう流れを引きずっていました。でも今は女性が働くのは当たり前。雅子さまも体調が心配ですが、外務省でのキャリアを生かし、大使館のパーティーに積極的に出席されるなど国際親善をなさるのもいいでしょう。ご病気から回復され、その体験や経緯を語って頂ければ、同じような境遇の人々の励みになり、国民からの共感も一層得られると思います。

 新しい皇室像を描くべく、どんどん海外に出て、水問題や自然保護など、お好きな分野で活動して頂きたい。歌舞伎や能楽などにもどんどん出かけ、日本の芸術にも目を向けて頂けたらと思います。

 新しい時代「令和」が幕を開けました。多様な価値観や個性を認め合う社会になることを期待します。お二人には大いに模索して頂きたい。そのプロセスを見せて頂くのも、皇室と国民との絆と思っています。

     *

 はやし・まりこ 1954年、山梨県出身。コピーライターを経て、82年出版のエッセー集「ルンルンを買っておうちに帰ろう」がベストセラーに。86年に「最終便に間に合えば」「京都まで」で直木賞を受賞。2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」の原作者。政府が元号の原案を示して意見を聴く「元号に関する懇談会」のメンバーの一人。

【「令和」別刷り特集のURLを開いて『該当するタイトル』を見つけ、右側の「新聞切り抜き」を見るかスクラップを選んでクリックするとよい】


【02面】「令和」別刷り特集
歩み出す令和の皇室

 5月1日、新天皇陛下が即位した。当日は皇位のしるしとされる神器などを引き継ぐ「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」、新天皇陛下から国民に向けた最初の「おことば」がある「即位後朝見の儀」が開かれる。

 4日にはさっそく、皇居で即位を祝う一般参賀が開催され、新皇后の雅子さまや皇族方と宮殿・長和殿のベランダに立ち、集まった人々の祝意に応える。上皇さま、上皇后さまは出席しない。新天皇陛下のおことばも検討され、何が語られるかが注目される。

 25〜28日にはトランプ米大統領が来日する。新天皇の即位後、最初に迎える国賓となり、歓迎行事や新天皇陛下との会見、宮中晩餐(ばんさん)会が開かれる。

 天皇の定例地方訪問「三大行幸啓」は、代替わり後は国民文化祭が加わって「四大行幸啓」となる。6月の全国植樹祭(愛知県)を皮切りに、9月に全国豊かな海づくり大会(秋田県)と国民体育大会(茨城県)、秋に国民文化祭(新潟県)が予定されている。

 皇嗣(こうし)となった秋篠宮さまは、皇嗣妃・紀子さまと5月18日に鳥取市で開かれる第30回全国「みどりの愛護」のつどいに出席する。新天皇ご夫妻から引き継いだ行事のひとつだ。

 また、秋篠宮ご夫妻は6月下旬〜7月上旬、ポーランドとフィンランドを公式訪問する。外交関係樹立100周年の記念行事に出席する予定で、5月の代替わり後、皇室として最初の海外訪問となる。

 秋篠宮家の長女眞子さまは7月中旬、日本人移住120周年を迎える南米のペルーとボリビアを訪問する。国際基督教大学を卒業した次女佳子さまも本格的に公務に取り組む予定で、姉妹で両親を支えていく。

 9月にはラグビーワールドカップ日本大会が開幕する。秋篠宮さまが名誉総裁として各国代表を出迎える。

 10月22日には天皇即位を宣言する「即位礼正殿の儀」が開かれ、新天皇、新皇后両陛下が各国要人と対面する。この日には両陛下がパレードする「祝賀御列(おんれつ)の儀」も予定され、両陛下を乗せたトヨタの最高級車「センチュリー」のオープンカーが公道を走る。

 11月14日から15日にかけては、新天皇が新穀を神々に供え五穀豊穣(ごこくほうじょう)などを祈る儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」の中核行事「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」がある。

 2020年も大きな行事が続く。4月には秋篠宮さまが、皇太子と同様の立場であることを内外に示す「立皇嗣(りっこうし)宣明の儀」が行われる。7月に開幕する東京五輪、続く東京パラリンピックには新天皇陛下が大会の名誉総裁に就任する見通し。皇族方も各競技の観戦に訪れる予定だ。

【「令和」別刷り特集のURLを開いて『該当するタイトル』を見つけ、右側の「新聞切り抜き」を見るかスクラップを選んでクリックするとよい】


【03面】「令和」別刷り特集
受け継ぐ、天皇の務め 執務・面会・地方訪問…完全な休日わずか

 天皇はどんな毎日を過ごしているのか。あまり知られていないが、先々まで予定がぎっしり埋まり、完全な休日がほとんどない。

 側近によると、4月30日に退位した上皇さまは在位中、午前6時ごろに起床し、皇居・御所周辺を散策するのが日課だった。その後に朝食をとり、新聞に目を通す。すでにリタイアしている多くの同年代の人たちと違い、陛下の多忙な一日はここから始まる。

 例えば昨年11月8日のスケジュールを見てみよう。お住まいの御所で国際生物学賞の関係者から説明を受けた後、宮殿に移動して秋の勲章親授式へ。昼食後、皇居内で清掃ボランティアに従事した勤労奉仕団からあいさつを受け、夕方には東京都内で明治維新150年記念特別展などを鑑賞。帰宅したのは午後7時過ぎだった。

 天皇の仕事として大きな比重を占めるのが、内閣から届く書類を決裁する「執務」だ。例年1千件以上あるが、上皇さまは一つ一つ内容を読み込み、納得したうえで署名・押印してきたという。

 日本と諸外国との交流が広がるのに伴って、外国からのゲストとの面会も増えた。宮内庁が上皇さまの74歳当時の1年間の公務と、昭和天皇の同じ年齢時を比較したところ、外国賓客や駐日大使らとの会見は1・6倍、海外に赴任する大使らとの面会は4・6倍に膨れあがっていた。

 さらに、上皇さまは定例の地方訪問をはじめ、災害の被災地に足を運んだ。宮内庁によると、昨年は3月に日本最西端に位置する沖縄県の与那国島へ。9月に西日本豪雨の被災地である岡山、愛媛、広島3県を、11月に北海道地震の被災地・厚真町を見舞うなど各地を訪れた。

 こうした多忙さが即位以来30年以上続いた。宮内庁が集計したところ、2015年の年間活動日は7割前後の261日間。特段予定がない日でも、上皇さまは先々の行事の資料に目を通したり、側近らが相談にあがったりすることがあり、「完全にお休みいただける日はごくわずか」(宮内庁幹部)だったという。

 新天皇陛下は、上皇さまの活動をほぼ全て継承する。上皇さまの高齢化に伴って軽減されていた宮中祭祀(さいし)も元の形に戻って担うほか、ライフワークの水の研究も可能な限り続けたい意向で、代替わり直後から忙しい日々となる。

 皇嗣の秋篠宮さまは、これまでも皇室いち多忙とされてきたが、従来の活動に加え、新天皇陛下が皇太子時代に担ってきた地方訪問の大半を引き継ぐ。様々な団体の名誉総裁・総裁職に就いており、負担が増しそうだ。

【「令和」別刷り特集のURLを開いて『該当するタイトル』を見つけ、右側の「新聞切り抜き」を見るかスクラップを選んでクリックするとよい】


【04~05面】「令和」別刷り特集
代替わり、ゆかりの地 新天皇ご一家・上皇ご夫妻、住まい改修後に引っ越し

 東京のビル群の中心に広がる皇居の森。旧江戸城の内堀に囲まれた緑豊かな一帯は、天皇の住まいであるとともに、国内外の要人を迎えて様々な行事が行われる場所でもある。広さは東京ドーム25個分、面積は約115万平方メートルに及ぶ。天皇誕生日や新年の一般参賀には数万から十数万人の人々が集う。

 かつては、皇居前広場で、第2次世界大戦敗戦に伴う集団自決(1945年)が起きたり、血のメーデー事件(52年)でデモ隊と警察が衝突したりするなど、政治的色彩の濃い空間だった。近年は観光スポットとなり、宮殿や宮内庁庁舎が点在する西地区、東御苑など多くの場所が一般公開され、春秋には南北を走る乾通りの「通り抜け」も実施されるようになった。

 皇室の土地としては、東京・元赤坂に約50万8千平方メートルの赤坂御用地がある。上皇さまや新天皇陛下が皇太子時代の長い期間過ごした住まい、赤坂御所(旧東宮御所)がある。元は紀州徳川家の屋敷があった場所で、明治維新後に皇室が使うようになった。御用地内には、秋篠宮邸、三笠宮邸、三笠宮東邸、高円宮邸があり、皇族方が暮らしている。

 新天皇陛下の即位に伴い、皇居の吹上仙洞(せんとう)御所(元の御所)と、赤坂御所、皇嗣となった秋篠宮さまの宮邸も改修される。改修後は皇居に新天皇ご一家が移り住む予定だが、それまでは赤坂御用地のお住まいから車で皇居に通うことになる。

 上皇ご夫妻はしばらく皇居の吹上仙洞御所にとどまり、転居の準備を進める。仮住まい先は東京都港区の仙洞仮御所。元は高輪皇族邸と呼ばれており、昭和天皇の弟の故・高松宮さまの宮邸だった。妻の喜久子さまが2004年12月に逝去した後は無人となっていた。引っ越しの時期は未定だが、夏の静養後になる案が浮上している。赤坂御用地の赤坂御所の改修が終わり、新天皇ご一家が皇居に移り次第、上皇ご夫妻が仙洞仮御所から再び移る。

【「令和」別刷り特集のURLを開いて『該当するタイトル』を見つけ、右側の「新聞切り抜き」を見るかスクラップを選んでクリックするとよい】


【07面】「令和」別刷り特集
世界との縁、深めた交流

 「国際親善とそれに伴う交流活動も皇室の重要な公務の一つ」。即位前最後となった2月の会見。新天皇陛下は新たな時代に臨む決意を問われ、諸外国とのつながりを大切にする考えを改めて示した。皇室の方々はかねて、世界各地を訪れ、王室や現地の人たちとの交流を続けてきた。

 ◆イギリス 初訪問・留学が機

 皇室と特に親交が深いのが英王室だ。上皇ご夫妻が繰り返し訪れたほか、お子さまの新天皇陛下や秋篠宮さまは大学卒業後に留学し、英王室から家族のように温かく迎えられた。

 上皇さまにとっては、皇太子時代の1953年、エリザベス女王戴冠(たいかん)式に参列するための欧米歴訪が最初の外国訪問だった。英国には約1カ月間滞在。戦争の記憶が残る時期に、かつての敵国からのプリンスに冷ややかな見方もあったが、英国王室のサポートもあって次第に好意的な世論が広がっていった。「私に世界の中における日本を考えさせる契機となりました」と93年の会見で振り返っている。

 新天皇陛下は皇太子になる前の浩宮時代の83年から2年間、オックスフォード大に留学した。パブでビールを楽しむなど自由な生活を送りながら、休みには欧州各国にも足を運んで各王室と親交を広げた。秋篠宮さまもオックスフォード大大学院動物学科で学び、現在も続く生物学研究への関心を深めた。

 上皇ご夫妻の最後の英国訪問は天皇在位中の2012年。エリザベス女王の即位60年を祝う行事に出席した。その後も、15年に来日したウィリアム王子がご夫妻と昼食をともにするなど相互の交流が続いている。

 ◆ベルギー 終生の友、葬儀も

 ベルギー王室とも縁が深い。特に、上皇さまと3歳年上だった故・ボードワン元国王は仲の良さで知られ、「陛下にとっては終生の友だった」(宮内庁元幹部)という。

 上皇さまは19歳だった1953年、英国でのエリザベス女王戴冠式の後、立ち寄ったベルギー・ブリュッセルで元国王と出会った。その2年前に20歳の若さで即位していた元国王とはすぐに打ち解けたといい、その後、家族ぐるみでの親交が続いた。

 実は、この出会いの頃に上皇さまが撮影した元国王の写真がある。53年7月に撮影されたもので、2014年に上皇さまの傘寿を記念した特別展「天皇陛下 昭和28年欧米14か国の旅〜新たな感動と出会い〜」で展示された。

 93年に元国王が急死すると、上皇ご夫妻は現地での葬儀に参列。海外王室や元首の葬儀に天皇と皇后が出席するのは初めてだった。2014年のファビオラ元王妃国葬には皇后だった美智子さまが1泊3日の日程で参列。いずれもご夫妻のたっての希望だった。

 新天皇陛下とフィリップ国王は同年齢で、会うたびに話が弾むという。02年のサッカーW杯では、日本対ベルギー戦を雅子さまとともに、当時皇太子だったフィリップ国王夫妻と並んで観戦。その後もお住まいの東宮御所に国王夫妻を招くなどしてきた。

 ◆タイ 魚も結ぶ「親戚」

 「親しい2組の親戚」。タイ王室と皇室との関係について、約10年半にわたり上皇ご夫妻に仕えた渡辺允元侍従長はそう評する。

 ご夫妻のタイ初訪問は、皇太子ご夫妻だった1964年で、昭和天皇の名代だった。当時のプミポン国王はチェンマイにある離宮に招待。現地に向かう機中では、国王が愛用のクラリネットでベニー・グッドマンの「メモリーズ・オブ・ユー」を披露した。国王は自ら車のハンドルを握ってモン族の集落まで案内するなどしてもてなした。

 実は、この時の上皇さまと国王との交流がきっかけで、タイ国民の食卓におなじみの食材が生まれた。

 この頃、タイには動物性たんぱく質の食材が不足しており、国王はタイの気候にあう養殖魚を探していた。魚類学者の上皇さまはティラピアの存在を伝え、日本に帰国後、東宮御所で養殖したティラピアの稚魚50匹を送った。国王は宮殿の池などで養殖させ、その後タイ国内に食用として広まっていった。

 皇室の方々でも特にゆかりが深いのが秋篠宮さまだ。ナマズなどの研究で現地を繰り返し訪問。昨年12月にはタイ東北部のマハーサーラカーム大学で、長年にわたる淡水魚類の調査研究などが評価され、生物学の名誉博士号を贈られた。

 2016年10月にプミポン国王が死去。上皇ご夫妻は17年3月、ベトナム訪問の帰路にタイに立ち寄り、プミポン前国王の弔問をした。宿舎到着時にはシリントン王女が出迎え、ご夫妻の移動に前国王が使っていたロールスロイスを提供するなどタイ側の歓待ぶりが目立った。

 ■身の回りの目印、名前の代わり

 皇室から国賓へ贈られるプレゼントには、天皇陛下や天皇家の「家紋」ともいえる「菊花紋章」があしらわれることがある。こうした菊花紋章とは別に、皇室の方々には、身の回りの品々を区別する目印として、幼少時から「お印」を用いるしきたりがある。

 近代以前からの慣習とされ、特別な立場にある人の名前を書くことがはばかられたため、と言われている。成年や結婚など慶事の際につくられる引き出物、ボンボニエールのデザインなどに取り入れられる。

 お印に選ばれるのは、樹木や花の名前などが多く、新天皇陛下は「梓(あずさ)」。結婚により民間から皇室入りした女性も結婚後はお印を定めており、新皇后雅子さまは「ハマナス」だ。上皇さまは「榮(えい)」。草花が盛んに茂る様子を表すという。植物以外の例としては、高円宮妃久子さまの「扇」、大正天皇のひ孫に当たる三笠宮家の彬子さまの「雪」、瑶子さまの「星」がある。

 お子さま誕生時には、そのご両親が、結婚時には夫婦お二人で相談して決めるケースが多いという。

【「令和」別刷り特集のURLを開いて『該当するタイトル』を見つけ、右側の「新聞切り抜き」を見るかスクラップを選んでクリックするとよい】