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続折々の記 2019⑥
【心に浮かぶよしなしごと】
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歎異抄
【 09 】07/17~
この年になっても頭の中はいろいろと考える。 7月9日朝日新聞3面記事下広告に「歎異抄をひらく」が載っていて、
※ 「人は、なぜ生きる」 「この孤独、どこから」 「死んだら、どうなる?」
八百年前も今も、人の心は変わりません。 日本人に生きる力を与えてきた古典
「歎異抄」の魅力を、分かりやすい意訳と解説で引き出します。
※ 悪人こそが救われる
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」 (歎異抄)
※ 一切の書物を焼失しても、「歎異抄」が残れば我慢できる (西田幾多郎)
※ 私が死んだら、川に捨てて魚に与えよ (親鸞聖人)
※ 世界のどこに、こんな大胆な表現があるか。
ニーチェでも、トルストイでも、ボードレールでも、これ(歎異抄)を読んだら驚くだろう
(倉田百三)
※ 無人島に一冊だけ本を持っていくなら「歎異抄」だ (司馬遼太郎)
日本の哲学者として名を残している西田幾多郎とか、長野にいた青年時代、本もろくにない当時友達から借りて読んだ「出家とその弟子」の倉田百三の言葉や、大正生まれ五つ年上の司馬遼太郎は戦後歴史に関するものを多数書いている。 こうした思い出の多い人がみんな推奨していた。
何でこうも歎異抄にひかれたのか? 年を重ねてみると、だんだんと生きることと死ぬことが大きな柱に感じられてきていた。
今の生活感情をだれでもこの年になると考えるようになると思うから、それぞれの人の考えの材料となるだろうと思って記録するだけの話である。
朝起きていつも何をするかといえば、こんな風である。
この頃はことに自分で感じるのは、足腰の筋力が急に萎えてきたことだ。 大股に歩くこと、確かにその通りだと思ってもどうしてもそれができにくい。 歩く歩幅が小さくなるし、前こごみになってきている。