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続折々の記 2019⑥
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吾唯知足 その心
心の真実・・聞く耳 心を育てる
【 08 】07/27~
07 27 (土) 吾唯知足 その心
google で調べてみるとこんなことがわかります。
吾唯足るを知る…… この言葉は京都の龍安寺にある「知足の蹲踞(つくばい)」に彫られているものです。 蹲踞は水戸黄門としても知られる徳川光圀公から送られたもので、お釈迦様の「知足の心」を表しているそうです。
「必要なもので満足することを知る」ということだと思います。
私たちの周りには必要以上の物が溢れています。 その中で「足りる」こと「満足」する気持ちが麻痺してしまっているのではないでしょうか。
長井應周(ながいおうしゅう)和尚さんの解説を見ると独特の語りで面白い。
https://blog.goo.ne.jp/osyou16_1965/e/d41958a42520eaf6488f3890e1c9388c
「吾唯足るを知る」という言葉に 隠されたスゴイ真義
人はとかく、いろいろなモノや気持ちに飢えている。 常に情報を欲しがり。モノをひたすら欲求する。
高城剛さんは、日本人は『消費教』の信者だ。と言った。 「確かに!」クリスマス商戦(いくさである!!)バレンタイン商戦(いくさである!!)お正月商戦・・・・(笑)
神道 キリスト教 仏教とかは日本人はホントは堂でもいい人が90%で、消費をすることに取り付かれている。このカルト的な思想は最も恐ろしい!!!
でも、まあ状況によっては欲があることは、そんなに悪いことばかりではないと和尚は考える。 もし それが向上心につながって、意欲の向上に役に立つなら むしろ、大きな欲、つまり大欲を持つことは、佳きことなのであろう。
今日のテーマは、冒頭にもあるが。たった一つの言葉 「吾唯足るを知る」である・・・・
この言葉の意味を、インターネットで調べてみると、いろいろなお考えが紹介されている。
人気質問サイトの ウィキペディアさんでは。
Q吾唯足るを知るってどうゆう意味ですか?どんな由来ですか? という質問に対し。
A
①これは、老子の自勝者強 知足者富から来ております。
例えば
戦場に行って、明日死ぬかもしれないという恐怖の中で過ごしているわけでもなく、 昨日、今日食べることができず、明日も食べ物を得る望みもないというわけでもない。 長い日本の歴史の中で、また現在の世界中の中で、こんな恵まれた60年間に生きている幸せを感じず、いつも不平不満を言っている現代の日本人をどう思いますか? 心が貧しく生きるより、足るを知って、心豊かに生きる方がよいかと思います。たとえ経済的には貧しくとも。 (そういいながらも明日月曜日はまた満員電車に乗って、会社に行くのですが・・・)
追伸 蛇足とは思いますが、龍安寺関連のサイトを見ていたら、このつくばいは、水戸黄門様(川光圀)が寄進したという伝承だそうです。我々が見ているものは、レプリカです。
これを調べますと 方丈(本堂)の東北にある茶室「蔵六庵」に大切に保管されています。 非公開の茶室にあるためレプリカ(模造品)を拝観ルートに置いてあるそうです。
②『人生、望むと不幸が起きるから、どんなことでもありがたく感謝しなさいよ』といって、個人の『幸福追求』を抑圧する考えです。
為政者つまり支配者が、人民を弾圧するときに使うもっともらしい言葉として、日本では使われてきた。
例えば、現在の隣国では『配給があるだけ、ありがたいと思いなさい。牛肉のスープや米の飯を欲しがってはいけません』 という意味で、『手に入ったもの』『与えられたもの』で満足しなさいという『諦めの哲学』を人民に強いるものです。
③吾唯足るを知る (われただたるをしる)
京都、竜安寺方丈の北側にあるつくばいに刻まれている文字で、禅の教えだそうです。 文字通り読めば「私は満ち足りていることだけを知っている」という意味でしょうか。
「満足することを知っている者は貧しくても幸せであり、満足することを知らない者は たとえ金持ちでも不幸である。」ということかと思います。
この満足することを知るということは幸せに生きる為には、とても大切な事だと思います。
④京都の龍安寺の手水鉢に彫られている文字ですね。
私は、吾(個人・人)は、持っている物だけで、実は過不足無く生活できるのだから、欲望や妬みそねみは持つ物ではないと言う戒めであり格言に近い言葉だと思っています。
端的に表わせば、「身一つで十分である」と言う意味でしょうね。
などなど
一般的な解釈はこういうことか、と理解してみたものの 和尚の心にはまだ引っかかるものがある。 なんか違和感がある。
ところで。再度出てきますが・・・・ 老子にこの一文がある。
「知足者富」(たるをしるものはとむ)
これは、やっぱり、老子の考えをまだ、古今の思想家は解釈し切れていないのでは・・・ 和尚はこう解釈しました。(信じない人は信じなくてもOKです!)
真義はコレであろう!!
『今持っているものを最大限に活かせば,富める人になれるよ!!』
『富める人は、あれこれ手を出さずに、持っているもの(能力、物質道具、財産)を充分に活かして栄えてるよ!!』
『あれが無いから欲しい。これが不足しているから手に入れたい、と、いつも不足感ばかり言ってると、持っているものを活かしたり、充分に使って 人生をエンジョイする前に不満感、不足感でいっぱいの人生で終わっちゃうョ!』
皆さんも自分のコトに当てはめて考えてみると、いろいろ考えるところが出てきますかな?
和尚は悪い癖で、本をめちゃめちゃ購入して結局読まずに手放したりすることもあって、すこし足るを知るように気をつけようと思います。
反省反省。 ではでは。 皆様も持っているものを充分に活かして 佳き人生をお過ごしくださいませませ。 拝
ではでは。 毎度おなじみ、長居和尚のホームページです(クリック)
http://osyou16.jimdo.com/
なるほど、開いてみると色々出ている。
長居和尚の動画の数々です。(クリック)
www.youtube.com/results?search_query=長居和尚
URLをコピーして 貼り付けると見れるよ!!
長居和尚のホームページのそれホント? の記事を参考までに、
https://blog.goo.ne.jp/osyou16_1965
魔法の手のひらを獲得する!
貴方の手のひらが奇跡の
癒しの手になる!
こんにちはー 長居和尚です。
夏は、汗をかいて身体の塩分が不足しがちです、天然の塩や 波動法の極楽塩 キ・パワーソルト ヒマラヤ岩塩 などなどの佳き塩を適量、補給されまして、元気に夏を乗り切ってほしいものであります。
一句 人生の 1度の出会いで、幸せに!
刹那の出会いで貴方を最高の幸せにしたい。そんな強欲な長居和尚が、今日お伝えしたいのは。
人生でたった一回 40分行うだけで 貴方が素晴らしい暖かい手のひらの貴公子(気功師)になれるノウハウです!!
このワークは私は20歳の時に知りまして、一人、会社のSHINE!寮にて実行して、 その効果をたしかめたノウハウになります。
その後 私の肩もみをお受けいただいた知人、友人は「おみゃあさん、どえりゃあ揉み方がうまいがね!」と、にゃごや(名古屋)弁で絶賛してくださるようになったのです。
女性の友人は「あー和尚さん。キモチイイー!」と(マジメに)叫ぶんです!
会社の男性先輩の方は、突然前の椅子に座って、御自分の肩を指差し「ん!」というようになるんです。
これをご紹介できて、本当にうれしいです。SHINE!SHINE!輝け!!あなた!!
西勝造先生という方の御著書『西式健康読本』 (健康双書ワイド版―食と健康の古典) [単行本] に、合掌四十分行というワークがあります。
西勝造先生は、独自の健康法を確立された巨人です。
そのほかに
金魚運動(仰向けに寝て体をゆらゆら揺さぶる)
毛管体操(仰向けに寝て腕と脚を天井に向けてゆらゆらと揺さぶる)
合掌合跡法(仰向けで足の平と手のひらをそれぞれ合わせて上下に動かす)
左右揺身法(あぐらになって、へそから上のボディ部分を右左とゆする体操)
詳しくは『西式健康法』で御検索ください。 など 体を健康にするいろいろな方法を紹介されています。
特に私は 温冷浴という 水風呂とお湯に交互につかる方法は私も時々、温泉やスーパー銭湯などで行う方法ですが、ちょっとした体調の不良は、その後一晩寝ればスッキリしてしまいます。
さて。。 合掌四十分行に戻りますと・・・・
「手の5本の指を互いに密着させてその掌を合わせ、中指は少なくとも第2節まで、 その他の指は第1節までを互いに離れぬ様に正しく合掌し、これをなるべく真直に顔面の高さに保ち、 肘は心臓以上に上げ、この姿勢でいること連続四十分間。一生に一度行なう。」
本当に一生に一度でOKです!
40分間の間手を合わせ続けるだけ、これだけで手から溢れ出る魔法の気功ハンドを手に入れられるのです!
結構 キツイですが、顔晴って1回だけやって欲しいのです。
私はその後、本当に、いつも人から 「和尚さんの手のひらは温かくて気持ちいい!」といわれるようになったんです。 本当に!! 冷えていた手がホカホカになりました。(個人差はあるとは思いますが)
ぜひぜひ一回だけですので自分を信じつつ行ってみてください。
この合掌40分行を行ったら、手のひらを目にあてて、眼の疲労や乾き目、視力回復などに 効果がありますし、ご家族や友人の肩に手を当ててゆっくりと癒してあげるのも素晴らしいと思います。
またご両親の腰や肩を長年の感謝をこめて「お父さん。お母さん ありがとうございます、こうしていま、私がここにいるのもお二人のおかげであります」といいながら暖めてあげれば、とても喜んでくださることでしょう。
(ただし照れくさくてなかなかいえないという欠点があります)笑
どうもこのワークは手のひらの真ん中の労宮というツボが開いて活性化するワークのようです。 合掌というのは、お祈りだけでなくこういう風にエネルギーの窓口も覚醒してくれるのですね。
40分のワークで貴方の今後を明るく楽しいものにしてみてもよいのではと思います。
そして一番大切な 和尚の尊敬リスペクト尊敬する藤谷康充先生(引き受け氣功創始者)の お言葉「闇を引き受け光に変えてお返しする」!!!! これを忘れずにね!!
そして偉大なる西勝造先生の遺徳をしのび。乾杯!!(注。また乾杯かい!笑)
原本・西式健康読本 (健康双書ワイド版―食と健康の古典) [単行本] 西 勝造 (著)
07 28 (日) 心の真実・・・聞く耳 心を育てる
誰でも自分では間違ってはいないという思いがあって、すべての言行が展開されていると思う。
二十歳になって「性格を論ず」という随筆らしいものを書き残したことを思い出す。 どこにあるか調べていると、みつかった。
0歳教育 ➡ B 折々の記 ➡ 【1957~】①-⑬ ➡ 【日記と随筆 6】 ➡ 〔4 性格を論ず〕
初めて先生になった二年目、昭和25年といえば12月まではまだ20才だった。
性格を論ず 25年(千代中)
第一次世界大戦が終って後、米大統領ウイルソンは国際連盟を提唱したのですが、それ以前に種々の何々連盟何々協会などの宣伝団体や、諸種の論争が渦をなしていたようです。この際に、H・G・ウエルズ氏はこの渦中にまきこまれ、かかる種々の何会彼会の論議をへて、その回顧している中に、次のような言葉を使っています。
「如何なる政治的・公的活動においても、その人の『過去』なるものに対する解釈の仕方・観念の仕方が何よりも根本第一義のものである。何故ならば結局、ある一人の政治上の活動とは、要するに過去なるものに対するその人が持ちあわせる観念なり思想なりが、行動として発現したものに外ならぬではないか」
何故わざわざこの文例を挙げたかといいますと、農学校を終え、更に師範を終えてみて、常に教育とは何辺に在りやを、心の疑問符として抱き、他日論文とした考え方「現在の自己は、あらゆる過去の経験を主観の篩にかけたところの集積である」と火花を散らして触れあった感じがしたからであります。
我々は今、変転極まりない歴史の爼のうえに在って、如何なる意義を付せられ、如何なる形骸を横たえるか知れざる恐ろしい大手術をうけている状態にあると言ってもよいと判断するのであります。しかし、我々は自分の位置を認識せねばなりません。
私としましては、日時の過ぐるに従いまして所謂「主観の篩」が非常に大きな問題となってきましたので、早速過去のあらゆる経験を受け人れるべき関門・主観の篩について究明したいと考えておりましたところ、最近ある暗示にヒントをえて、一応自分でそれに対する考えをまとめてみました。
それは、現代西欧の知識人は性格の秘密を嗅ぎつけているということであります。ローレンスが1914年6月5日にエドワード・ガーネットに当てた手紙に次のような言葉があるのです。
「私の小説に性格という古臭い安定したエゴを求めてはなりません。そこには別のエゴがあります。その活動によって個人は見分け難いものとなり、いわば同質異体の状態を通過します。この状態を見出すためには、我々は普通以上に深い感覚を必要とします。それは根本的に不遍な同一元素の状態なのです。ちょうど、ダイヤモンドも石炭も、炭素という純粋の同一元素なのと同じようなものです。普通の小説は、ダイヤモンドの歴史をたどるのです。でも私はこういいます。「なにダイヤモンドだって? これは炭素じやないか」私のダイヤモンドも、石炭か煤かもしれません。しかも私の主題は炭素なのです」
私たちの感覚にとらえられる机とか椅子とか水とかは、私たちの常識の世界を構成しているのですが、科学はこれを分析して炭素とか水素とか酸素とかいった元素にしてしまいました。いやそればかりではなく、最近の科学は分析を重ねていって、結局、電子とか陽子とか、まるで常識の世界では想像もつかないまで分析してしまったのです。私の眼の前にいる美しい女性も、傍らにある洗面器と変わりのない電気を帯びた粒子という同質のものから出来ているわけになります。ところが帯電粒子が諸々に結合して、ご覧のとうりの別の物質と肉体とがここに現れるわけです。ローレンスは、これと同じようなことを人間心理にまで立ち入ってやったわけであります。
ところで、常識の世界には所謂「性格」を持った人間がいるわけですが、これを分解して非常識の世界にまで到ると、結局のところ「心理的原子」の集合があるだけになります。このように常識を越えて探究をすすめることが、現代の科学や思想界(殊に精神生活を素材にする文学上)の動向となっていると考えることができます。科学の発達は、精神科学を駆使して、かくまで人間心理を掘りだして我々の眼の前にさらけだしてくれました。個性を否定し、性格を否定し去ったあとには、ただ心理的原子が現れてくるのみと思います。極端にいえば「個性は我々の個人的所有物ではない」とも言いうるのであります。そこで、帯電粒子の電子であり陽子でもある心理的原子は如何なる構成により人間を形成していくのでしょうか。また個性とか性格とかは、人間形成と如何なる関係があるのでしょうか。原子は生まれおちる以前、否、陽と陰の結合せるやいなや、その活動は始まるものと考えられます。しかし、人間という一つの存在は、独立して生活しうるようになると、急速にところ嫌わずいろいろの原子を吸収してしまうと思います。そして吸着し成長してきますと、新しい意味での個性ができるとも言えます。それは削除をうけず選択のされていない、別の言葉でいえば、世界観とか人生観とかいった何か特別の排水溝に流しこまれていない、全人の個性というものであります。そこで、無意識や潜在意識の一切を含む人間の意識の流れを考えて、個性とは、人間のあらゆる体験によって絶えず流動変化するものですが、そこに内面的な判断の作用があって、自らひとつの統一をなしているものと言えましょう。そして、この流動変化する個性にたいして、何らかの規範、主義、原則により抑制を加えて変化をいくつかのジャンルに凝結せしめた結果として「性格」が現れてくるものと考えてよいと私は思います。しかしここでは、年齢の上で問題になる点は課題としておきたいと思い、控えておきます。
批評家を迷路に立たせ、一体如何なる性格を有せるものかと論議され、何も結果を見出しえずにいるハムレットなどは、あの英国の文豪シェクスピアの知恵の実のなかに、人間の性格の本質がきらめいていたのではあるまいか。文学上の問題に、恋愛問題をはじめ、身分、財産のごたごた問題が多くその素材にとられているのは何故であろうか。人間心理の、利害に基ずくエゴの微妙な変化が、その描かれる人間の中に、影のごとくつき纒っているからだと思います。なぜ道徳的品性を固持しつつも、しかも醜い想念を捨てさり得ないのか。原子的心理は、ある個性とか性格とかが許さざるところまで、人の内面に吸着されているのであって、個性とか性格に、厚い壁があると仮定する人のほうが、むしろおかしいと言えましょう。野心あるものが偉くなり、転ずれば悪人となるのも、またこれに帰一するでしょう。現今の我々は、個性とか性格への解剖のメスを許されているのであると思います。
主観の篩が、性格及びその他(このことについては、又いろいろと探究すべき課題が私には課せられている)により構成され、形を保持していると考えられるので、その一面である性格が朧げながら明らかになってきても、決して主観の篩の意昧内容が解明されたとは言えません。
二重人格、経験派、観念派、楽天家、厭世家、喜怒哀楽等々は、もはや人生のべールとして見えるのみで、本体はメスにより明らかにされ得るのです。我々は、世界の科学の進展に盲目でなく、この精神科学を進展せねばならないと思います。
〇
参考として、教育者の立場を薮医かもしれないが、経験は発展の基盤なりの仮定により、直断してみようと思います。
分析総合による発展は学問のたとえ、然らば、ロボットに非らざる人間教育にたちむかう態度いかん、となると、斯くすれば斯くなるとの、如何に厳密なる検討議論の関門を経た方法上の態度を堅持してたちむかっても、一人の子どもでないかぎり、一〇人一〇色の子どもを相手にしては、ロボットの毎き一律でないかぎり予期した方向に教育できないと考えます。教育者の対象は、異彩を放つ生ける人間が対象だからです。一人の人間における性格、個性の心理的原子の吸着は、方法論による方向では、その意図する方向には必ずしも伸長はしません。教育者にしても、人であるかぎり絶対に客観的にはなり得ないからこそ、そう考えざるを得ないのです。流動変化する成長期にある生徒にたいし、せめて教育者の今日までの全見識と、生きる望みにたいする全エネルギーとをぶちまけて、赤裸々な自己の全人格で接し、己を材料とし生徒に成長してもらう以外、道はないだろうと思います。人は、他の人を劇的シーンの存在と考え、その中から汲むベきものは汲みとり食すべきものは食して成長する以外の何ものでもないと言いうるのであります。いわゆるこれが、原子の吸着なのであります。
教育は、読み書きソロバンに非らずして人格の反映にあり、という考えは、自分の人格が立派だとか、生徒の人格よりまだ磨いてあるとか、そういった自惚た意味ではなく自分のすべてを投げだして生徒の心にぶちあたり、よりよき方向へ進もうとする赤裸々な姿で、生徒に立ち向かうことにあると思います。そうした姿の中から、生徒が汲むベきところを汲みとり、捨てるべきところは捨てさり、一人ひとりが成長するところに、人格の反映の意味があるのです。一律教育は、生徒の心を踏みにじる要素がつよく、個々の個性や性格の形成の上から言っても、唾棄すべきものと言ってよいでしょう。
この年になって古い日記を読んでいると、青年時代の旺盛な活動期を懐かしむ思いが深い。 生徒にも勧めた「ヒルテイの幸福論」は今でも心の支えになっている。 そして、生活の中に出てくる言葉と行動の本来の意味、心の在り方、それを支えているのです。 この一寸 した想い出の短い文章とともに、夏休みの終わりまでのまとまりを少し長いが載せておく。
1 29/6/20 ヒルテイ http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.57.html
ヒルテイより有益なる教えをうける。ほんとうに、仕事を進めるための根拠となるものは、内心において確立せなくてはならぬ。形而上の世界、形而下の世界、こうした一切の世情の考えに一矢を得て、始めて心象の世界の基礎は成立する。
余は、余に寛恕の心の欠けていることを愧ずる。同職にあるものに対して言葉に表現せずとも、内心において既に、これを罵倒するごとき、狭き量見をもっていたことを悔いる。今後はできる限り自己の修養に精励したい。また生徒についても、自らは寛大な心の持ち主などと思っていたが、こうした心の狭さにも鞭打たねばならない。余は教育者なり。
教育は、人格の反映にあることは鉄則なり。余は、余の生涯をできるかぎり自己に忠実に生きるべきなり。多言を要することに非ず。余の考えに停滞するときあらば、またヒルテイの教えを受けん。直接にはヒルテイに向かわずとも、生徒一人ひとりが余の教師、即指導者であり、また山川草木悉く生物たるもの、生命あるものすべて、余の指導者であることを忘るではない。
農繁休み明けには、それぞれ今までの「自分」と変わった考えとなって来るべしとは、余が休みに人る前に話した言葉なり。生徒に求むるは余の心胆の愚を表明するのみで、己自身修養を積むことあらば、何をか憂うることぞ!前途広漠たり。無限の世界に通ず。われ自身の心に、厳格な批判を加えつつ、一歩一歩進むことこそ、大切なることなり。
水無月
青簾 浴衣団扇に 唐風鈴 あおすだれゆかたうちわにからふうりん
雷は 生きて入道 梅雨を追い
水無月と いえど来る日も 傘をもち
21日
・7時半近し。夏至になる夏の夕刻、静かな夕立後の空の色、ひっそりとした日暮、梵鐘が響き渡る。感無量なり。
・夕方堀本写真店へフイルム現像を頼みに行く。その帰りに強き印象を受ける。
疲れた50歳前後の母親の姿、物を売りあるく姿なり。背に大きいリックを負い、もっくらをはき、地下たびをはいている姿、飯田方面からの帰りらしい。余はうしろ姿を見、通りすがりにその横顔を見る。その疲れし表情、何をか推察し得ん。年老いて、もの売りあるき、如何ほどの利得があろうことぞ。疲れたあしどり、余の網膜につよき印象を与う。
23日
・世の中を煩雑に考えることは気苦労であるから、その時その時を有効に、苦もなく生きること肝要なり。書して刹那主義という。刹那とは梵語にして、1分の4500分の1をいう。時之極小ヲ刹那トイウ。苦しみは、人間の想像力よりくること多し。死にしても左して苦しきことなけれども、想像力のあまりに強きため、恐怖観念がうまれる故なり。困難、というあらゆることが是と同一結論なり。それ故に刹那を重んじ、束の間の命をたのしく、苦もなく暮らすこと肝要なるべし。されど「安逸」とは相違する概念なり。人生是刹那の解釈に意義をもたせずば、安易なること尠し。よってきたる所は、想像力に克つためなり。
・石田幹之助「史学研究法」をみると、著者が教室に講義せし姿と声を彷彿す。温かき感あり。余もかくなれかしと望む。
・午前中、国史概説二の問題「鎌倉幕府と室町幕府の性格如何」について、原稿用紙5枚に所論を書く。卒論のときより気持ちは楽なれど、終日机にむかうことはやや退屈す。
・神の存在についての意見。神を認めるというのは内的確信、即ち信仰より出発する。難解な理論は米一合にも劣るものなり。
・「自殺論」死にたいものは死ぬがよい、とは余が教える生徒にして記憶するものあらん。但し、罵倒する言辞ではなく、自潮の言辞でなく、それこそ感情をもつ人間界の自然の姿なり。問題はその原因にたいする考え方なり。勿論余も含まれるものなり。しかし聴くものにとっては奇異なる、或いは侮蔑感を惹起するものならん。しかし真理なれば、偽ることは虚言なり。
或いは自殺是非論もあらんかと思うが、こは愚につかぬ言葉・観念の遊戯ならん。問答無用のこと多し。人間は生きる義務があるとか、自殺は悪なりとか主張する類なり。自殺は人間に可能な行為なり。知能の発達は、自殺をも考えしめるものなり。但し、自殺は尊いとか、なにかの主張になるなど、思わせぶりな発言は、自身を益々下人たらしめるものならん。
・人皆異なる性行を有すれども、石ころが同形同質でない道理のごとく、千差満別どころでなく皆差皆別なり。その性質を知るなど、およそ不可能のことにして、行住座臥、起寝食飲を共にする着物に生命ありとせば、この生物にしてその10分の1を知るや否や測り難し。
・余は他人を罵倒する気になること極くすくなし。真実を語ることありても、説得する気になるときも極くすくなし。他の人格を尊ぶが故とは、理屈というものか。身が教職にあれば、苦しみ悶えることおおく、又苦しみ悶えることすくなし。饒舌るほど自らの醜さを意識する。一体新制中学ほど、ばかに仕事がおおく、自己撞着に陥るものすくなからずあらん。生徒など利口なものまで愚人化す。人間を脱して、いまに人間が機械の奴隷、法律の奴隷となりロボットにならん。さて「わが身が機械化している」と悟るときは、既に年をとりてのことならん。
・女の条件 やはり頭がよく、美しく、丈夫であり、ベチャベチャ、ゲラゲラせず、落着いていて移り気でなく、しかも上品であって、読書の好きな者がよい。又は第一印象の良い者。(但しこれはむずかしい)
2 29/8/16 雲は永劫の無常の具象なり
・一学期の多忙なスケジュールが終わり、暫くこの日記にも手をつけず暮らせり。人生は労働にありとは、故人の言なり。マケドニヤの歴史家のいうごとく「生まれ、苦しみ、死んでいく」のが、人の歴史か。
・余は政治活動をせんと野心を有するものに非ず。故にこの日記にも細かきことはあまり関知せず、唯時々耳に人りたることや感想のみ綴るのみ。それ日記は自己の魂の憩いの場所なり。人生は多事多難なれば、時に自らを休める場所を必要とするものなり。
・8月に入りての大要次の如し。1日は学校残務整理なり。2日より6日まで福沢正保の英語指導に当たる。英語は余も好むところなれば、さほどの苦痛を覚えず、黙々と実践せり。生徒個人を余の家に於て指導するは、余の本心に非ず。然るに将来、工科或いは理工科関係の大学を目標とする考えなれば、許されて然るべしと判断す。余の行為、考えを非とする者あらば、正保の将来を考え納得せらるべし。幸い彼は度量ある人物なり。小事に惑わさるること殆ど少なく、大局的に、しかも他人のことは一向頓着せぬ性なり。面白き性分なり。
・7日は部落野排球大会にて、生徒職員出席す。スポーツは良きものならん。されど現下の日本でかほど誇大すべき存在価値ありや否や。中学教育の中にスポーツが占める行事は実に多し。支会野排球、秋の支会陸上、部落の野排球、冬季のピンポン大会、一学期末のクラスマッチとしての野排球、水泳大会など絶大なエネルギーの集中なり。ために彼らの大部分は、こうした行事に影響をうけ、学問の何たるかを弁えず、凡々と中学課程を無為に送ること多し。けだし注意すべきことなり。
・8日は図書館の仕事にて学校。午後北沢先生来訪す。先般千代へ行きし折、青木公使より詳細なる話を伺いおりしため、彼が現在の自己にたいして自棄の気あることを感ず。9日は昨夜2時のため、起床が8時半。バス、みすずに間に合わず、11時の電車て飯田を出発す。富士見高原の赤彦と左千夫の歌碑を尋ねる。拓本はなかなか難しきものなり。碑面の文字は次の如し。
水海之氷者等計而
尚寒志三日月之影
波爾映呂布 赤彦詠茂吉書
この歌碑の拓本は、普通とらせぬとのこと、教育委員会の管理下にあり。左千夫の碑は拓本にとる暇なく写真のみにて北山村へ直行す。左千夫の碑文次の如し。
寂志左之極
爾湛亘天地
丹寄寸留命
乎都久都久止
思布 左千夫詠赤彦書
両碑ともによき歌なり。翌10日は赤彦の家を尋ね、後、諏訪水月園の中塚一碧楼の句碑を訪れる。
夏めくこころあり 水平なれば 家郷のごとし 一碧楼
一碧楼の句碑は三枚拓本に取る。一枚はK先生に贈る。4時20分の快速にて帰宅。11~13日迄特記することなし。14日は日直にて学校勤務。15日は千代。山口みつ子の墓参のため。松島、木下、林、大淵(忠)、北沢(清)、北沢(み)、森山、川手(清)、竹下(由)、川手(政)、10名なり。山口みつ子、9月24日腹部切開、胎児二頭位のできものを摘出。電報にて家人急行とのこと。11月13日第2回目の手術、肝臓とのこと。切開したのみ、見込みなしとて手を下さずとのこと。その後、18日タクシーにて家へ急行せり。然るに20日朝苦悶を訴えつつ息をひき永眠せりという。(みつ子の母の話)みつ子は平素ブツブツ不平をいう面あるも、何の苦もない考えの子なりき。
・我等、みつ子の家に入り挨拶せんと並びてより、母は落涙せり。鳴呼哀れかな、人生の悲しみぞ。みつ子の病状を茶を頂きつつ聞き、その後に墓参す。風通しよい清閑なる地、南に面して墓碑は建つ。人生の悲喜こもごもなり。みつ子は余が教育せる子女の中の最初の永眠者なり。
・家を辞してより写真数枚を撮り、前の下宿、酒屋に寄り雑談す。小学校佐々木先生に閉口している様子。彼は他人を褒めたことなしと言う。それだけに一人天下の気分が強いのか。今の教育で、厳しさが欠けるとのこと話あり。
・余は2学期より、期するところありキビキビした教育者として奮闘する覚悟をますます固める。現今の教育にいろいろ煩悶することあり。やはり今のままの理念では、今後の日本人として立つには不足な面あり。いろいろ考えさせられる所あり。
・16日、夏季休業の最終日、家の墓参を済ます。松商学園甲子園野球にて、中京に7α対6にて敗れる。本日の猛暑まことに忍び難き程なれば、明日からの授業が懸念される。
24日 秋の気配つよし。
・休み中のテスト完了す。向性検査の集計終わる。
・へッセ「郷愁」読書中。「大岡政談」読書中。
3 29/8/26
一度無常の世界に覚醒し、自己の周囲を眺むる者にとっては、それは永遠の苦悩に満ちる航海に出発したと同じである。緑の山、暖かき太陽に恵まれた牧場の羊の姿は、もはや自己の心の世界からだんだんと影をひそめていく。果てしない無常の世界から、何か真実の光明を見出し、縋って生きることのできる人は幸福な人と言わねばならない。今僕は如何なることを信ずべきかを知らないのだ。前途は真に暗闇であり、何か大きいものに衝突し、自分で進むべき道を知らぬものである。ここに一つの課題をとってみよう。僕は何のために勉強するのか、或いは、知識は何故僕にとって必要なんだろう。日没後、黒ずんでいく雲を眺め、じっと胸に手をあて考えてみるとき、現在の考えでは如何に考えても、これに対して満足できる回答が生まれなかった。雲を無心に眺め、永劫の無常の条理と僕の心が握手をした。誰も知るまいだろう、問題は不可解ながら,この無常の神と心を通じたとき、僕の精神的な苦痛は、夕暮れの黒い雲の中に吸い込まれていった。
人間は呪われたる地上の生物なんだろうか? 誰か答えてほしい。無常の世界に足を踏みいれたとしても、今の身で雲水をともにして生きることはできない。誰かこの世界にも先人がいることであろうが。僕は、東洋人の気質がとても強いようだ。僕の魂はあの雲の中に生きるのだろうか。
・月もない暗い飯田の空に、静かに花火が打ち上げられ、そして消滅している。蛍光灯の下には、大小無数の蛾が、無心に飛びかっている。潰したい気もするが、天の命をうけている生物、兄弟であると考えてみると、彼らも哀れなる生涯である。
4 29/8/29
一昨日27日夜行にて東京に向かう。2年間の勉強をして、レポートや卒業論文の提出も終わり、最後の面接試験のためである。28日午前9時半第五請堂に集合し、10時より各部に分かれて個人面談が行われた。史学科は、東部三階の史学研究室にて、石田、龍、杉本の三教授により行われた。豊田先生が見えなかったのて、僕のものは杉本教授が分担してくれた。11時半に終えたので、明朗食堂で食事をとり、至急新宿へ急行し、1時7分発長野行の列車に乗った。ひどく暑くおまけに眠くて困った。道中太閤記を読了した。講談だから途方もなく面白く読むことがてきる。家へ帰ったのは11時半頃であった。飯田駅に下車したとき熊谷さんに出逢いびっくりした。今日は10時半に起床、充分に睡眠を挽回することができた。2年間の通信教育もここに終わることができたのである。
ちぎれ雲こころもとなく軒下に 蜘蛛の巣揺れる秋の夕暮れ
日記と随筆 13へ
今日の表題は「聞く耳をもつこと」でした。
私たちは誰でも自分では間違ってはいないという思いがあって、すべての言行が展開されていると思う。 私自身もそうなんです。
「自分は間違っていない」「間違ったことをしゃべってはいない」「人に悪いことをしているのではない」 誰でも自分がしゃべるときに、そんなことまでは考えてしゃべってはいない。
それは子供でも大人でも、初めての人でも、国籍が違っていたも、自分の言行については間違ったり悪口だったり、そんなことは考えてもいない。
では何で喧嘩口論になったり、何で人をいじめたり、何で人を殺したりするのか?
集団になると、2人でも4~5人でも10数人でも同じなんだが、「自分はたくさん知っている」「社会のことをたくさん知っている」「面白いニュースを知っている」ということなのか、そうでなくて自己主張をして単に‘お山の大将’という少年時代の特質を持ち続けているのか、いずれにしても‘おしゃべり’で優位の立場を保ちたいということなんだろう。 相手の反応を絶えず予期するのか、そうした立場の人がいる。
一つの話をまとまとめ上げようとする場合には、とぎれとぎれの情報発信だけでは言葉のキャッチボールにならない。 地球温暖化によっての夏の暑さは当然のことだが、機構のあいさつはだれしも共通話題として話に上がる。 あるいは事件なり政治情報なり周知の話題も通常の共通話題である。
“聞く耳をもつ”このことは、学びの世界では特に基本になる。 学びというと学校関係とか、成績とか、そういう一部のことにとどまらず、技術を身に着けるとか、趣味娯楽から研究にいたるまで、さらに人柄とか気骨にいたるまで、早い話が人の生涯のすべてにわたる大事な心掛けと理解しなければならないのです。
人との対話の場合、自分勝手の流儀は慎まなければならない。 相手の言うことの中身を理解しなければならない。
通常は、思ったことや考えたことや出会ったことなど気兼ねなく話しあう。 誰しもそうだろう。 それは家族であり、仲良しであり、いつも顔を合わせる仲間だったりする。
その時ですら、“聞く耳をもつ”それは大事な心がけなんだと思う。
高齢になると色々調べたり学ぼうと思ったりしても、聞く人がいなくなっていることが多い。