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続折々の記 2019⑧
【心に浮かぶよしなしごと】

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        10 09 いじめと家庭内暴力  生きる意味を知ること
            DVで転居、後絶たぬ漏洩 26都道府県、10年で40件超
            若者の凄いエネルギー  若者から学ぶ
            DV逃れた新居、突然夫の姿 自治体、相手弁護士に住民票
        10 10 若者の凄いエネルギー   若者から学ぶ
            囲碁の天才少女、10歳で最年少プロに 名人も手腕評価
            芝野、初の10代名人 囲碁、最年少で七大タイトル
            芝野虎丸さん 史上初めて10代で名人になった囲碁棋士
            涼やか剛腕、最速名人 第5局 囲碁名人戦七番勝負
        10 10 吉野彰氏ノーベル賞   リチウムイオン電池開発
            モバイル時代、呼んだ コバルト酸リチウムと炭素材料、着目
            電池ビジネス、急拡大 日本メーカーが牽引、競争激化
            夢の電池、剛柔の心 壁あっても「なんとかなるわ」
            いじめと家庭内暴力  生きる意味を知ること
            若者の凄いエネルギー  若者から学ぶ


【 02 】10/09~

 10 09 (水) いじめと家庭内暴力     生きる意味を知ること

戦前生まれの私にとって 「いじめと家庭内暴力」 こうした社会現象を見ることは、まるでなかった。 少なくとも子供時代から青年時代になるまでには、耳にしたことはない。

人間生活そのものがおかしくなっている。

貧乏だったといえば、どの人にとっても否定する者はほとんどいなかったのである。

近代化とは何を意味するのか?  日本での戦争がなくなったことは、事実です。 戦争中はどの人も貧しかった。 だが 「いじめとか家庭内暴力」 は、なかった。

何が近代化と言えるのか?  自我自賛の言葉という言葉があるが、平穏無事であるときの昔の時代と比べた自分への慰めではないのか?

貧しくはなくなったけれど心の平穏や家族の絆を見るときに、果たして昔より良くなったと言い切ることができるとは言えまい。

けれどもこの問題はすべての人に共通することではなく、それぞれの家庭によって経済的な面の生活の心構えがテンデバラバラになっただけと言えるのだろう。

「望ましい生活の在り方」 をどの家庭でも築こうとしていると言えないのだ。 「満つれば欠ける世の習い」 月の変化に寄せた諺が、去来する。 経済的な生活面でせわしい思いに駆られたり経済的な余裕が多少できたりしてくると、家族の精神的な気配りが薄れるのだろうか?

  イ 禍福はあざなえる縄のごとし?
  ロ 自業自得?
  ハ 覆水盆に返らず?
  ニ 玉磨かざれば光なし?

こんな諺も去来する。 「望ましい生活の在り方」 を願うとすれば (ニ) の 「玉磨かざれば光なし」 としてとらえることが、正しいといえるのでしょう。 正しいかどうかは別の話になりますが、まずはそう望みたい。

   金剛石も磨かずば 珠(たま)の光はそわざらむ
   人も学びて後にこそ まことの徳はあらわるれ


     時計の針の絶え間なく めぐるが如く時の間(ま)の
     ひかげ惜しみて励みなば 如何なる業(わざ)かならざらむ

   水は器に従ひて その様々になりぬなり
   人は交はる友により 良きに悪しきに映るなり


     己にまさる良き友を 選び求めて諸共に
     心の駒にむちうちて 学びの道に進むべし

これは昭憲皇太后のお歌ですので、戦後生まれの人たちは知らない歌でしょう。 ダイヤモンドも金剛石で炭素Cだけで硬度はすごい。 火災の跡に残る黒いスミも炭素Cだけだが踏めば壊れる弱さである。 ダイアモンドは花崗岩など簡単に切っていく。 石屋へ行って見ればよくわかります。

炭素は誰でもが知っている炭酸ガスも、炭素と酸素の組合わせ、化学式ではCO²だ。 炭素が一つに酸素が二つ付いているだけ。 石油も石炭も石灰もみんな炭素を含んでいる。 金剛石もこれらと親戚関係となっている。

こんなことは関係ない話だ。 金剛石を研磨していくと、美しいダイヤモンドになる。 1カラットは0.2gだというから、10カラットのダイアモンドの指輪など私たちの手の届かない値段となっている。 調べてみるとなんと4億5000万円もするという。

そんな大理石の原石があれば、磨けば凄いことになる。 こんなことは、話が全くべつである。

話はそれたが、人も磨けば立派な仕事ができる人になれると言うのだ。 磨くとは、昭憲皇太后のお歌のように学んだあとのことだ。

ことは簡単だ。 真似をして真似をして、自分のものとなるまで 「繰り返して繰り返して」 いくと、タイヤモンドのように世の中の人たちの役に立てる人になれると言うのである。

まあ、そうでなくても 「望ましい生活の在り方」 を家庭で築こうと励んでいくことが、いじめや家庭内暴力がなくなっていく大筋であろうと私は思う。



では、世の中の実情を新聞を通してみていくことにします。

朝日新聞
DVで転居、後絶たぬ漏洩 自治体内の連携・共有不足 26都道府県、10年で40件超
   2019年10月7日05時00分
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14207916.html?ref=pcviewer

 家庭内暴力(DV)を受けた被害者の転居先を、自治体が過って漏らしてしまう例が相次いでいる。朝日新聞の調べでは、加害者に転居先を知られないようにする「DV等支援措置」=キーワード=が認められたのに住所が漏洩(ろうえい)した件数は、この10年間で40件を超える。総務省は全国の自治体に通知を出し、手続きの徹底を求めているが、漏洩が後を絶たない。▼27面=現場は

 DV被害者らの住所漏洩をめぐる公的な統計はない。朝日新聞がこの10年間に報道された事例(他紙を含む)に基づいて各自治体に取材したところ、少なくとも26都道府県の41自治体で計46件起こっていた。今年だけで8件。昨年の7件をすでに上回っている。

 漏洩の原因は2種類に大別される。目立つのが、自治体部署間の連携や情報の共有不足だ。

 仙台市が2010年8月、DV被害者の女性の転居先を加害者である夫に漏らしたケースは、支援措置の窓口である住民基本台帳の担当課と、子ども手当の部署で情報共有が不足していた。女性は夫からDVを受け避難するために住所変更の準備を進めていたが、その情報が共有されていなかった。子ども手当の担当職員が女性だけ転居するのを疑問に思って夫に問い合わせ、やりとりの中で転居先を教えてしまった。

 もう一つは、部署間で情報共有していたのに職員が生かせなかったケースだ。

 支援措置対象者の住所が記された文書の交付を求められた際、多くの自治体では、パソコン画面に警告表示が出る。茨城県日立市の場合、国民健康保険課の職員は今年4月、警告表示を見ていったん断った。だが、DV加害者の夫から「転居先の役所に連絡をしなければならない」などとせかされ、妻の転居先を伝えた。兵庫県小野市は15年9月、警告が表示されたが、父親によるDVだと思い込み母親に戸籍の付票を交付した。

 相手を十分に確認しないまま、住所を伝えてしまう例もある。直接のDV加害者ではないものの、その家族や代理人の弁護士に渡したケースが多い。

 愛媛県宇和島市の場合、DV被害者の女性の住所が書かれた住民税額の通知書を今年5月、女性の元勤め先の事業所に送った。ところが、元勤め先の代表者はDV加害者の家族だった。市税務課は「送付先が事業所だったので、確認する必要があるとは認識していなかった」と話した。

 個人情報保護に詳しい中央大国際情報学部の石井夏生利(かおり)教授は「DV被害者の情報をあらゆる文書にひもづけするなど、職員全体が把握する仕組みが必要だ」と述べ、法整備の必要性を指摘している。

 (森下裕介)

◆キーワード

 <DV等支援措置> ドメスティックバイオレンス(DV)やストーカー行為、児童虐待などの被害者について、総務省の省令や通知に基づいて支援する措置。2001年に配偶者暴力防止法が施行されたのに伴い、04年に創設された。被害者が自治体に申し出て、認められれば、加害者らに対し、住民票や戸籍の付票の写しなどの交付を制限できる。同省によれば、認定された被害者は18年12月時点で12万6696人。10年前の4倍近くに増えた。

<DVとは>  domestic violence    domestic = 家庭内の   violence = 暴力
日本では「配偶者や恋人など親密な関係にある、又はあった者から振るわれる暴力」という意味で使用されることが多いです。
   内閣府男女共同参画局の解説 http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/dv/index.html

▼27面=現場は
DV逃れた新居、突然夫の姿 自治体、相手弁護士に住民票
   2019年10月7日05時00分
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14207871.html?ref=pcviewer

写真・図版 【図版】 DV等支援措置対象者数

 「DV等支援措置」が認められたのに住所が漏洩(ろうえい)した事案が、この10年、少なくとも41自治体で計46件起きていたことがわかった。DV被害者を支援する一般社団法人「エープラス」(東京都)には、毎年500件ほど、不安や悩みが寄せられる。中には、漏洩した住所に加害者が現れたケースもあるという。▼1面参照

 30代女性のケースはこうだ。数年前、新居アパートのドアを開け、夕食の買い物に出かけようとした時、見覚えのある顔が飛び込んできた。目は合ったが、何も話さない。じっと、顔をにらまれ、「全身の血の気が引いた」。とっさにドアを閉め、鍵をかけた。転居して逃れたはずの夫だった。

 結婚後すぐ、暴力や暴言を受けるようになった。家事の失敗で「おまえはダメだ」とののしられ、殴られた。蹴られたり、首を絞められたりしたことも。布団に寝ることは許されず、並べた椅子の上で仮眠した。

 子どもたちも暴力や暴言を受けていたため、夫から避難すると決意。転居し、役所でDV等支援措置も申し出た。「これでひとまず安心」のはずだった。だが、自治体は、転居先の住所が載った住民票を夫の代理人弁護士から求められた際、「弁護士なら慎重に扱ってくれるはず」と考え、交付してしまったという。

 支援措置対象者の住所が漏れ、殺人事件に発展したケースもある。

 神奈川県逗子市は2012年、元交際相手の男からストーカー被害を受け、支援措置を受けていた女性の住所を男側に漏らした。男側の探偵が夫を名乗り、電話で住所を聞き出した翌日、男は女性宅を訪れて刺殺。遺族が市を訴えた訴訟で、判決は「適切に管理される期待を裏切り、プライバシーを侵害した違法な公権力の行使だ」と断じた。

■総務省、たびたび注意喚起

 住所漏洩を受け、総務省はたびたび注意を呼びかけてきた。14年には、自治体内の情報共有不足や警告表示の見落としなどを指摘。全国の自治体に対し、文書を交付するかどうか決める事務の責任者を置くことや、事務手続きのマニュアルの見直しを求めた。

 その後も、人事異動直後の職員によるミスを防ぐため、わかりやすいマニュアルの整備を提唱。確実に情報を共有するため、本庁と支所の連絡は電話でなく文書で行うよう、通知で求めた。毎年全都道府県を回り、市町村の住民基本台帳の担当者を集めた説明会も開いている。ただ、担当者は「こちらから出来るのはお願いだけ」。通知には拘束力がないためだ。

 事務手続きの見直しも進む。DVの当事者同士は離婚訴訟などを抱える場合が多い。加害者が訴訟を起こそうとしても被害者の住所が分からず、自治体とトラブルになることもあった。

 総務省は最高裁と協議。最高裁は18年、DVの当事者がかかわる訴訟では、裁判所が自治体に住所を聞くよう各裁判所に伝え、住所情報の厳格な取り扱いを求めた。同省もそれを自治体に周知。訴訟のため、弁護士が自治体から住民票などを入手しなくても済むような運用が始まっている。

 それでも漏洩は絶えない。「エープラス」が18年、全国97の政令指定都市や中核市、特別区に実施した調査によると、DV被害者の住民票などを交付する基準が「不統一であり至急改善が求められる」と答えた自治体は4割に上った。

 住民票や所得証明書は総務省、戸籍は法務省、児童手当の現況届は内閣府など、書面ごとに管轄省庁は異なる。吉祥(よしざき)真佐緒代表理事は「各省庁が連携し、統一した制度を作る必要がある」と提案する。(森下裕介)

 10 10 (木) 若者の凄いエネルギー     若者から学ぶ

若者 !!  これはすごい !!   ついこないだのグレタさん、それに続いて日本の芝野虎丸しばのとらまる、名前からして凄い。

なんだもんで、私はこのニュースの虎ちゃんを凄いというのか。

   昨日取り上げたような暗いニュースもあるが、暗いニュースばかりではないと私は感じはじめました。

  ここ10年ばかりの間のスポーツ界を見ていると、ベテランの選手をやすやすと抜き去る若者が増えています。 まず私を驚かしたのは、北海道の高梨沙羅女子スキージャンプの選手でした。 仙台の羽生結弦フィギュアスケート選手、日本の体操界の選手たち、ゴルフでは男子も女子も古豪の選手をしり目にすい星のように現れる。 スポーツ界のみならず、今度は虎ちゃんこと芝野虎丸名人です。

実は今年正月早々、下記のニュースが紹介されました。
朝日デジタル
囲碁の天才少女、10歳で最年少プロに 名人も手腕評価
   2019年1月5日14時38分
   https://digital.asahi.com/articles/ASM143607M14UCVL003.html
私が凄いというのは、子供たちはそれぞれの環境の中で育っていますのに、両親が子どもを授かってから 「望ましい生活の在り方」 に心がけ、その子が成長しいろいろなエネルギーを身に着けた若者として育っていることが実感されるからです。

わかりやすく言えば、望ましい子供を育てようとする親はそれなりの環境を整え指導してきている、ということです。

子供の側からいえば、学ぶものをよく真似をして繰り返し繰り返して学ぶ中身を身につけたということです。 人が成長する基本を親子ともども心掛けた結果だったということです。

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芝野、初の10代名人 囲碁、最年少で七大タイトル
   2019年10月9日05時00分
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14211351.html?ref=pcviewer

【画像】 感想戦に臨む芝野虎丸新名人=8日

 史上初の10代名人が誕生した。静岡県熱海市の「あたみ石亭」で打たれていた第44期囲碁名人戦七番勝負(朝日新聞社主催)第5局は8日、挑戦者の芝野虎丸八段(19)が張栩(ちょうう)名人(39)に252手で白番中押し勝ちを収め、4勝1敗でタイトルを奪取した。▼2面=ひと、30面=ネットで鍛え

 19歳11カ月での名人獲得は、20歳4カ月で名人になった10年前の井山裕太・現四冠(30)の記録を破り、囲碁七大タイトル戦史上最年少となる。規定により九段に昇段する。2014年9月のプロ入りから5年1カ月での九段昇段は、過去最速だった井山の7年6カ月を上回るスピード昇段。

 七大タイトル戦初挑戦で、第2局から一気の4連勝で勝負を決めた。

 神奈川県相模原市出身。一昨年に名人、本因坊の両棋戦で史上最年少でリーグ入りし、昨年は世界最強の中国の柯潔(かけつ)九段(22)を早碁棋戦で破り優勝するなど急速に力をつけていた。

 前期に10期ぶりに名人に返り咲いた張の連覇はならなかった。(大出公二)

 <芝野新名人の話> 10代でのタイトルは厳しいと思っていたが、今回勝ててよかった。今でも自分なんかが名人でいいのかな、という気持ちもある。

▼2面=ひと
芝野虎丸さん 史上初めて10代で名人になった囲碁棋士
   2019年10月9日05時00分
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14211209.html?ref=pcviewer

 名は「虎丸」と雄々しいが、身長165センチ、体重45キロの痩身(そうしん)。その所作は、端正で優雅だ。

 2日がかりの名人戦の対局中、正座を崩さず、ケーキやフルーツをつまむときは、そのまま碁盤から右45度に体の向きを変え、皿を持ち上げ口をすぼませる。そっと皿を盆に戻し、盤に向き直ると音もなく石をつまみ、盤に置く。

 だが、盤上の石から発するオーラは熱い。相手の意図に反発し、ここぞのときは想定を超える踏み込みを見せ、ねじ伏せる。所作と着手の温度差が異彩を放つ史上最年少、10代の名人である。

 幼稚園のとき、ゲームソフトで囲碁を覚えた。ゲームプランナーを仕事とする父は、古本屋で手にした漫画「ヒカルの碁」に夢中になり、家族で碁を始めようと囲碁ソフトを買ってきた。先にはまった兄に引っぱられるように、小学3年でプロ養成の道場に入門し、才能を開花させた。

 繊細で泣き虫だった。師に外食に連れ出され、メニューから注文の品を選べず泣いた。だが、盤上では別人。「ふだん出せない本当の自分を表現できるのでしょう」と師の洪清泉(ほんせいせん)四段(37)は言う。

 最近、盤外の様子も変わってきた。名人挑戦権獲得のとき「勝敗よりもいい碁を打ちたい」と言っていたのが、シリーズ中は「負けたら意味がない」に。いよいよ、隠していた牙を見せ始めた。

 (文・大出公二 写真・迫和義)

     *   しばのとらまる(19歳)

▼30面=ネットで鍛え
涼やか剛腕、最速名人 第5局 囲碁名人戦七番勝負
   2019年10月9日05時00分
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14211366.html?ref=pcviewer

 まだ少年の面影を残す青年が、先達の天才たちもなし得なかった偉業をやってのけた。第44期囲碁名人戦七番勝負は、挑戦者の芝野虎丸八段(19)が張栩(ちょうう)名人(39)に4勝1敗でシリーズを制し、史上初の10代の名人となった。▼1面参照

■ゲームで覚え、ネットで錬磨

 その碁の魅力は、踏み込みの強さだ。リスクを避けて決着を後にずらすか、危険を承知で決定的な戦果を求めて勝負に出るか。二者択一の局面を前にすると、芝野はまず後者を選ぶ。

 「そこで勝負が決まってしまうかもしれないとき、プロはなかなか決断できない。彼はさほど考慮時間を使わずに踏み込んでくる」と、第5局でネット解説を務めた金秀俊九段は言う。

 大向こうをうならせる派手な碁は勝率を稼げないとされる。だが2014年のプロ入りからつまずくことなく、驚異的な早さでこの大舞台まで駆け上がった。

 17年、早碁棋戦「竜星戦」で優勝。一流棋士の証しとされる名人、本因坊戦の両リーグにも最年少で出場。18年の「日中竜星戦」では世界最強の呼び声が高い中国の柯潔(かけつ)九段(22)を破った。

 盤上では相手を潰しにいく「暴力性」(第2局を見た台湾の黒嘉嘉七段)さえ感じさせるのに、対局姿は極めて涼やか。表情を変えず、石音も立てず、そっと石を置く。

 若かりし頃の趙治勲(ちょうちくん)名誉名人(63)の言葉「負けたら明日はない」という悲壮感はかけらもない。「虎丸にとって『碁は命』ではない。ゲームとして楽しんでいる」と、師の洪清泉(ほんせいせん)四段(37)は言う。

 父はゲームプランナーの登志也さん(46)。幼稚園のとき父が買ってきたゲームで碁を覚えた。小学3年で洪四段の道場に入った頃は、繊細で泣き虫だった。

 漠然とした質問は苦手。実戦の検討中に「これはどう?」と聞くと「……」と沈黙。「何かしゃべってよ」と促すと泣いた。「黒の勝ち?」と聞くと「はい」と答えた。「虎丸に主観的な質問はしないこと」。師範たちは申し合わせ、大器の成長を見守った。

 ゲームを卒業しても、いつでも、どこでも、誰とでも国境を越えて対局できるデジタル時代。リアルな対局のほか、自宅でもパソコンで打ち続けた。台湾での第2局、2日間にわたる激闘後でも、中国のトップ棋士と3局打っている。

 相手の気配を感じないデジタル空間での錬磨は、突出した才能と相まって、他の棋士にないユニークな棋士像を形成していった。

 戦いに明け暮れるなか、少年は図太い勝負師に変貌(へんぼう)した。「自分の強みは相手が誰でも動揺しないこと。盤面に集中するだけ」。闘志を前面に出す張名人と目を合わせられず、終始、うつむいていた。その視線の先の盤面では、臆することなく踏み込み、勝った。

 中学3年でプロ入りした5年前。父子は、先の「予定」を字に残した。

 17年 リーグ入り

 19年 三大タイトル

 三大とは名人、棋聖、本因坊。予言のように、現実のものとした。「予定」にはさらにその先も――。

 今月下旬に始まる王座戦は、名人戦に続く七大タイトル挑戦となる。相手は、井山裕太四冠(30)。プロ入り当時、すでに名人の座に就き碁界を席巻していた第一人者に挑む。(大出公二)

■難局に鋭い踏み込み

 序盤に左辺から始まった戦いは右上から右下、下辺と時計回りに移り、目まぐるしく攻守の立場を変えながらも形勢不明が続いた。

 境界線を定める終盤戦に入ったところで挑戦者が放った盤中央の白168が、踏み込みの鋭い一手。名人が中央の黒模様をどれだけまとめられるかが焦点だったが、この手で白の進出が容易に止まらなくなり、白優位が決定的になった。

 新聞解説の河野臨九段は「挑戦者は初の七番勝負とは思えない落ち着きぶりで難局を勝ちきりました」。持ち時間8時間のうち名人は残り6分、挑戦者は8分。

 <張名人の話> それぞれの碁に反省や後悔は少しずつあるが、一生懸命やった結果。実力は出し切った。芝野君が強かった。

 10 10 (木) 吉野彰氏ノーベル賞     リチウムイオン電池開発

今朝の新聞一面記事に、吉野氏ノーベル化学賞受賞が報じられた。 うれしいニュースだ。

まず記事を見ることにする。

朝日新聞
吉野氏ノーベル賞 リチウムイオン電池開発
スマホ・EV活用 化学賞
   2019年10月10日05時00分
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14212817.html?ref=pcviewer

 スウェーデン王立科学アカデミーは9日、今年のノーベル化学賞を、リチウムイオン電池を開発した吉野彰(あきら)・旭化成名誉フェロー(71)と米テキサス大のジョン・グッドイナフ教授(97)、米ニューヨーク州立大のスタンリー・ウィッティンガム特別教授(77)の3氏に贈ると発表した。小型で高性能なリチウムイオン電池はスマートフォンから電気自動車まで使われ、太陽光など再生可能エネルギーを蓄えて化石燃料に頼らない社会の実現に欠かせない技術になっている。
 ▼3面=モバイル時代呼ぶ、7面=日本企業が牽引、26面=福岡伸一さん対談、31面=剛柔の心

 リチウムイオン電池は、繰り返し充電して使える二次電池。ニッケル・カドミウム(ニカド)電池などに代わって、1990年代半ばからポータブルCDプレーヤーやノートパソコンなどへの搭載が広がり、電子機器を持ち運ぶモバイル文化の原動力となった。近年は電気自動車や航空機、国際宇宙ステーションでも使われ、需要はさらに高まっている。

 電池は、プラス(正)とマイナス(負)の電極の間で電気が流れることで電気をためたり、放出したりする。最も軽い金属のリチウムは電気を生み出す反応を起こしやすいうえ、原子の粒が小さく、電極に使うと高出力で小型にできた。

 70年代、ウィッティンガムさんがリチウムを電極に使う二次電池を初めて作ったが、発火や爆発があり、そのままでは使えなかった。英オックスフォード大教授だったグッドイナフさんがリチウムイオンを含んだ酸化化合物を正極にすると、電圧を高くできることを発見したが、爆発の不安は残ったままだった。

 その問題を解決したのが吉野さんだった。吉野さんは負極に炭素材料を使う方式を開発し、85年に基本特許を出願。安全性が大幅に高まり、これが現在のリチウムイオン電池の原型になった。吉野さんはさらに、電池の構造そのものにも爆発しにくくする工夫を施した。旭化成によると、同社は電池に使われる絶縁材料で世界トップシェアという。

 日本のノーベル賞受賞は、昨年に医学生理学賞を受けた本庶佑・京都大特別教授に続き27人目。化学賞は2010年の根岸英一・米パデュー大特別教授と鈴木章・北海道大名誉教授以来8人目となる。ノーベル財団によると、グッドイナフさんの97歳は過去最高齢での受賞決定。授賞式は12月10日にストックホルムである。賞金の900万スウェーデンクローナ(約1億円)は3分の1ずつ3氏で分ける。

■「気候変動深刻、社会に必要だ」

 吉野さんはノーベル財団との電話会見で、「ありがとうございます。気候変動は深刻な人類の問題。電気を蓄えることができるリチウムイオン電池は、持続可能な社会の実現にとって必要だと思う」と話した。

     *

 よしの・あきら 1948年大阪府生まれ。70年に京都大工学部を卒業。72年に旭化成工業(現・旭化成)に入社。2015年から九州大客員教授、17年からは名城大教授、旭化成名誉フェローに就任。04年に紫綬褒章、18年に日本国際賞、19年に欧州特許庁欧州発明家賞を受けている。

■2氏と共同受賞

 ジョン・グッドイナフ氏 1922年、ドイツ生まれ。米シカゴ大で博士号取得。86年からテキサス大オースティン校教授。

     *

 スタンリー・ウィッティンガム氏 1941年、英国生まれ。68年、オックスフォード大で博士号取得。米ニューヨーク州立大ビンガムトン校特別教授。

▼3面=モバイル時代呼ぶ
モバイル時代、呼んだ コバルト酸リチウムと炭素材料、着目

【画像】
①リチウムイオン二次電池のしくみ
②国内のケータイとリチウムイオン電池の普及/幅広い分野に

 だれもが気軽に持ち歩くスマートフォンやパソコンに入っているリチウムイオン電池。高性能で小型の電池がなければ、「モバイル時代」は来なかった。実用化にはノーベル化学賞に決まった旭化成名誉フェローの吉野彰さん(71)をはじめ、多くの日本企業の研究者の貢献があった。▼1面参照

 「全く売れない時期があったが、ある日突然のごとく売れた。IT革命が始まった」。吉野さんは9日夜、記者会見でこう語った。

 1980年代、多くの研究者が新しい充電式電池(二次電池)開発に取り組んでいた。電池はプラス(正)とマイナス(負)の二つの電極を組み合わせて出来上がる。小型化するには高い電圧が出る電極を使う必要がある。電気を生みだす反応を起こしやすいリチウムを電極にすれば、従来型のニッケル・カドミウム(ニカド)電池などを上回れることは分かっていたが、金属の状態のまま使うと、発火する恐れがあった。

 70年代後半、英オックスフォード大にいたジョン・グッドイナフ教授(97)らは、酸化化合物のコバルト酸リチウムが二次電池の正極に使えることを発見。このコバルト酸リチウムを正極に、炭素材料を負極に使う方式を開発、基本特許を取得したのが吉野さんだ。

 吉野さんが当時注目したのは電気を通す「ポリアセチレン」というプラスチック材料。電子を簡単に出し入れでき、放電と充電を繰り返せる。「電極に使えないか」。実験すると負極に使えることはわかったが、研究はそこで暗礁に乗り上げた。正極にする材料が見つからなかった。

 82年の年の瀬、研究室の大掃除を終えてひと息ついた時、机に積み置いてあった資料が目に入った。グッドイナフさんらによる論文で「コバルト酸リチウム」という物質が正極になるとの内容だった。

 これだと電池内部にあるリチウムは金属ではなく「イオン」の状態なので、安全性は格段に高まる。年明け早々に電池を試作すると、充電も放電もスムーズだった。

 ただポリアセチレンがかさばるため、小型化できないのが課題だった。分子の構造が似ていて体積が少ない炭素なら、解決できるはず――。素材メーカーの旭化成にいたことが、吉と出た。社内で別の研究グループが特殊な炭素材料を開発中だと聞きつけ、材料を使わせてもらった。ポリアセチレンの時の3分の1の大きさの電池ができた。

 正極にコバルト酸リチウム、負極に炭素材料。この組み合わせで85年に新型電池の基本的な特許を出願。現在のリチウムイオン電池の原型になった。

■安全性向上、研究者競う

 正極にコバルト酸リチウムを使うことを最初に思いついたのは、グッドイナフさんと、当時その元で研究していた東芝エグゼクティブフェローの水島公一さん(78)だ。

 オイルショック後まもない時期、オックスフォード大に移ったばかりのグッドイナフさんは、燃料や電池などエネルギー関連の研究をテーマに据え、東大助手だった旧知の水島さんに声をかけた。物質の性質を調べる物性物理学の研究者だった水島さんに与えられた課題は、繰り返し使える二次電池の電極の開発。2人とも電池は門外漢だった。

 とりあえず狙いを定めたのは高性能が見込めるリチウム。70年代、今回共同受賞するスタンリー・ウィッティンガムさんが、金属リチウムを使う形の二次電池を考案していた。ただ、金属リチウムのままでは電極上でショートして、発火や爆発する危険があった。

 グッドイナフさんと水島さんは、化合物にすれば、安全性が高いと考えた。当初は硫黄の化合物(硫化物)を使って実験していたが、78年夏、研究室で爆発事故が起きた。硫化物をあきらめ、酸素との化合物(酸化物)で作ることにした。いくつもの材料を試し、その年の秋、コバルト酸リチウムを使うと大きな電流が流れた。リチウムイオン電池の正極としていまも使われている材料だ。80年、論文発表した。

 水島さんは「グッドイナフ先生が受賞されたことについて大変うれしく思います。実用化はさまざまな研究成果の積み上げがあり、一部にかかわることができ、共同研究者の一人として、大変光栄に思います」とのコメントを発表した。

 安全性を高めたグッドイナフさんらの正極、それを使った電池の基本構造を考えた吉野さんのアイデアは、91年、ソニーが「リチウムイオン電池」と名付け、世界で初めて商品化した。西美緒さん(77)らのチームが研究開発を進め、まず携帯電話、次にビデオカメラに搭載した。

■環境問題の解決策、期待 授賞理由「脱化石燃料社会、可能に」

 リチウムイオン電池の特徴は小型で軽量、しかも長持ちなことだ。従来のニッケル・カドミウム(ニカド)電池と比べると同じ容量の電気をためるのに、大きさも重さも3分の1で済み、充電可能な回数は倍以上。そんな長所は、商品化されて間もない携帯電話の普及を後押しした。

 生産も伸び続ける。経済産業省の調査だと、リチウムイオン電池の国内販売個数は2018年は13億3千万個と20年前の5倍以上になった。生産拠点や市場は世界に広がる。

 電気自動車(EV)や蓄電システムへの組み込みなど用途も多様化している。

 地球温暖化対策としても脚光を浴びている。ノーベル賞の授賞理由でも、太陽光や風力の電力をためることで、脱化石燃料社会を可能にする技術だ、と評価した。化学賞に決まった吉野さんは会見で語った。「電池が環境問題に対して一つのソリューション(解決策)になる」

 世界の大手企業などでつくる世界経済フォーラムも国連気候行動サミット直前の9月、「バッテリーの効果的な連携は地球温暖化阻止の主要な手段」とするリポートを公表した。充電式電池は地球温暖化対策の国際ルール・パリ協定を達成するための基盤技術だと強調した。

 一方、携帯電話やパソコンで発火や異常発熱を起こすトラブルも起きている。13年にジェット旅客機の飛行中に、機体に搭載されたリチウムイオン電池から煙が出る事象も起きた。発熱やショートを防ぐために多重の安全対策などが取られてきている。

 正極材料として使うコバルトなどは原料の供給元が限られ、環境破壊や価格高騰の懸念もある。このため、コバルトの代わりにニッケルやマンガンなどを使った電池が実用化され、電極間の電解液を固体に置き換えるなど、新型のリチウムイオン電池の研究も進む。

▼7面=日本企業が牽引
電池ビジネス、急拡大 日本メーカーが牽引、競争激化

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①日産自動車の電気自動車「リーフ」に使われているリチウムイオン電池=2017年9
②リチウムイオン電池の世界市場の推移

 今年のノーベル化学賞に決まった吉野彰・旭化成名誉フェローらが開発したリチウムイオン電池は、用途を広げながら市場拡大を続けている。牽引(けんいん)してきたのは、日本の素材や電機メーカーだ。ただ近年は中国勢が台頭し、競争は激しさを増している。▼1面参照

 リチウムイオン電池は、電気自動車(EV)やスマートフォンなど向けの需要が伸び、市場規模の拡大が見込まれる。調査会社の富士経済の予測では、2022年の世界市場は7・4兆円で、17年の2・3倍に伸びるという。

 旭化成は、電池の正極と負極を隔てる膜の「セパレーター」の生産能力が世界一で、市場シェアの約2割を握る。吉野氏の研究成果と同社独自の技術を組み合わせ、1990年代に量産化に着手。20年度までに生産能力を16年度比で8割増やす方針で、工場の増強を計画する。

 小堀秀毅社長は「リチウムイオン電池が、今後ますます世界の人々の暮らしに役立つものになっていくと期待している」との談話を出した。

 ほかの主要部材でも日本勢は強い。日立化成は、EV用電池の負極材で世界有数のシェアを誇る。宇部興産は、電気の通り道になる電解液で、耐久性を高める独自の技術を持ち、こちらも世界有数のシェアだ。

 電池そのものの生産にも、電機メーカーなどが力を入れてきた。

 東芝は自社のリチウムイオン電池を、スズキの簡易ハイブリッド車や東京メトロの車両の非常用電源向けに納入している。

 パナソニックは自動車向けに注力し、いまや電池事業の年間売上高は数千億円規模と、冷蔵庫や洗濯機を上回るまでに成長。EV大手の米テスラと組み、米国に電池工場も構えている。

 ただ、日本勢の地位は揺らいでいる。中国の新興メーカー、寧徳時代新能源科技が、中国政府の支援を受けて急成長し、EV向けの出荷量ではパナソニックを抜いたとされる。17年には日本法人を設立し、営業攻勢をかけている。

 電気の通り道に液体を使わず、発火のリスクを抑える次世代技術「全固体電池」の開発競争も始まっている。トヨタ自動車はパナソニックと提携し、20年代前半の実用化をめざす。

 一方、激しい競争の中で撤退に追い込まれる動きも相次ぐ。日産自動車とNECは昨年、共同出資する電池メーカーを中国企業に売ると決めた。世界に先駆けてリチウムイオン電池を実用化したソニーも17年に電池事業を村田製作所に売却した。関連技術や市場環境は大きく変化しており、この先も再編含みの競争が続きそうだ。(上地兼太郎、箱谷真司、内藤尚志)

▼26面=福岡伸一さん対談

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①ノーベル賞の受賞が決まった吉野彰さんと電話で話す福岡伸一さん
②ノーベル化学賞の受賞分野と受賞者
③森脇沙帆さん

 ノーベル化学賞の受賞が決まったリチウムイオン電池の開発に関わった吉野彰さん(71)。研究の裏にはどんな秘話があったのか。その研究はどんな意味をもつのか。生物学者で青山学院大学教授の福岡伸一さんが吉野さんと電話で対談し、受賞の背景を解説した。▼1面参照

■ノーベル賞「いろんな人の努力と貢献あった」

 福岡さんと吉野さんの主なやりとりは次の通り。

 福岡 負極に炭素を持ってきた発想のひけつを教えてください。

 吉野 カーボン材料は電子が出たり入ったりしやすい材料でした。炭素はリチウムより比重が大きい。電池の場合それが大事。ちょうどバランスがとれていたんです。

 福岡 具体的にどんな材料だったのですか。

 吉野 炭素素材はつくり方、原料によって千差万別で、リチウムイオン電池の負極として使えるのはごく限られていました。それを見つけるのが大変でした。

 福岡 大学時代、考古学に打ち込みましたね。

 吉野 研究も考古学もある意味宝探し。アプローチの仕方は共通する部分があります。研究に役立っていると思います。

 福岡 発明には多くの日本人がかかわっています。

 吉野 いろんな人の努力があったけれど、その中から3人に絞れ、というのは選考委員会の判断だと思います。確かに日本人では私一人ですが、ほかの人も貢献されています。間違いなくそれは事実です。

 福岡 リチウムイオン電池をめぐる世界的な状況は。

 吉野 スマホのなかの部品はたいがい日本のもの。リチウムイオン電池の生産は日本は衰退ぎみだが、電池の中に入っている部品は間違いなく日本のものが入っています。

 福岡 電池の未来は。

 吉野 環境問題に答えを出さないといけないと思います。大きさを小さくして、もっと電気をためられるようにしないといけないです。

■発見から実用化、つないだ道 福岡さん解説

 ノーベル賞は世界最高の賞で、華やかなのは当然です。歴代受賞者の名前を眺めると、アルプス山脈を見ているようです。あれがマッターホルン、これがモンブランというように、ピーク(山頂)の一つ一つが目立って見えます。

 そのピークをつなげば、教科書的な科学史を語ることはできます。しかし、ピークが高い理由は、それを支える山麓があるからです。受賞者の業績をたたえることも重要ですが、彼らがピークに到達した道のりをたどることも有意義だと思います。

 ではこの山道をたどってみましょう。今回の受賞者は3人います。最初にリチウムを電極に使って二次電池を作り、登山口を見つけたのがウィッティンガムさん(77)。リチウムを酸化化合物にすると電圧を高くできることを発見し、正極に使ったのがグッドイナフさん(97)です。ただ、正極が優秀でも、負極も重要です。

 そこで、適切な負極を選んで実用可能にしたのが、吉野彰さんでした。科学史としては「リチウム山脈」の三つのピークを選ぶと、この3人になるのは妥当だと思います。

 受賞する3人の陰に隠れていますが、ぜひみなさんに知ってもらいたいのは、グッドイナフさんとともに研究に取り組んだ水島公一さん(78)です。1980年にコバルト酸リチウムが正極になるということを示した最初の論文の筆頭著者です。論文は筆頭筆者の寄与が大きい。実験で実際に手を動かした人がなることが多いです。

 しかし、水島さんはノーベル賞には選ばれませんでした。水島さんが受賞者の発表直後に「実用化は様々な研究成果の積み上げがあり、一部にかかわることができ、共同研究者の一人として大変光栄に思います」と淡々とコメントしていたのにはジーンと来ました。

 これと対照的なのが、今年のノーベル物理学賞でした。3人のうち、太陽系の外の惑星を初めて発見したミシェル・マイヨールさん(77)と、ディディエ・ケローさん(53)の2人は、論文の共同筆者です。ケローさんは当時、博士課程の学生でした。

 理化学研究所のスーパーコンピューター「京(けい)」について、旧民主党政権時代に「2位じゃダメなんでしょうか」と蓮舫(れんほう)参院議員が追及したことがありました。この点は、私も蓮舫さんにくみしたい。なぜなら科学は1等賞だけでできているものではないからです。

 ノーベル賞受賞者は「先着3位」までですが、100位や1千位に入る大きな山麓があるから高いピークができるのです。科学史の中に様々な人の尽力や貢献が必ずあり、縁の下の力持ちや並走した人たちがいることを忘れないでほしいと思います。(談)

     *

 ふくおか・しんいち 青山学院大教授、米ロックフェラー大客員教授。専門は分子生物学。1959年生まれ。京都大農学部卒。京都大助教授などを経て現職。著書に「生物と無生物のあいだ」「動的平衡」など。

■リチウムイオン電池って? 軽い、電圧が高い、寿命が長い。でも、暑さ寒さに弱い 日本科学未来館・科学コミュニケーター、森脇沙帆さん

 Q リチウムイオン電池は何がすごいの?

 A 従来と比べて、軽い、電圧が高い、寿命が長い、三拍子がそろっています。でも、暑さ寒さに弱い。冬のスキー場でスマホの電池がすぐに切れるという経験はありませんか。材料に使うリチウムは希少で高価な金属です。

 Q そもそも電池はいつできたの?

 A 1800年、イタリアの物理学者ボルタが作ったボルタ電池が初めてと言われています。材料は金属の亜鉛と銅。この二つの電極を銅線でつないで溶液に浸すと、亜鉛から銅に電子が移動して電気が生まれるというメカニズムです。現在の電池の原型になりました。

 充電できる電池も1859年、フランスのプランテが発明。電話や白熱電球を作った「発明王」エジソンも1900年に充電タイプの電池を発明しています。ただ、溶液がこぼれ、持ち運びに不便でした。そこで、溶液をペースト状にした「乾電池」が1890年ごろに誕生しました。

 Q 使い切りタイプと充電タイプは何が違うの?

 A 電気を流し続け、移動できる電子がなくなると「電池切れ」になります。その時、電子を外部から流す「充電」をすると、逆の反応が起こり、電極が元の姿に戻り、また電子が移動できるようになるのです。使い切りタイプを一次電池、充電タイプを二次電池と呼びます。

 二次電池が生まれて160年。さらに性能のいい電池をめざした研究者たちの挑戦は今も続いています。電池は、どんな目的と場所で使うかで必要な性能が変わります。時と場合によって人類にとって最強の電池は変わっていくでしょう。(聞き手・石倉徹也)

▼31面=剛柔の心
夢の電池、剛柔の心 壁あっても「なんとかなるわ」

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①リチウムイオン電池の模型を手にする吉野彰さん=9日午後8時19分、東京都千代田区、江口和貴撮影
②笑顔で報道陣の質問に答える妻の吉野久美子さん=9日、神奈川県藤沢市
③5歳当時の吉野彰さん=旭化成提供
④京都大の考古学同好会で古墳調査する吉野彰さん=旭化成提供

 スマートフォンなどに使われる「リチウムイオン電池」の基本技術を開発し、ノーベル化学賞の受賞が決まった吉野彰さん(71)。「やわらかさと執着心」を信条に、地道に研究を重ね、環境への貢献につながった。届いた吉報に、多くの関係者が喜び、その偉業をたたえた。▼1面参照

「私自身、興奮しています」

 9日午後7時20分過ぎ。吉野さんが研究に打ち込んだ旭化成の東京本社(東京都千代田区)で始まった記者会見で、縦じまのスーツに緑のネクタイ姿の吉野さんは、満面の笑みで切り出した。

 「(リチウムイオン電池が)受賞対象になったのはうれしく思う。若い研究者に大きな励みになるのかなと思っている」と言葉を継いだ。

 受賞の連絡は、研究室の固定電話にあったという。先方からの第一声は「コングラッチュレーション!」。「来たかな、と思いました」。すぐに妻の久美子さん(71)に電話で報告したという。「腰を抜かすほど驚いていました」と笑いを誘った。

 研究者に必要な姿勢について問われると、「頭のやわらかさと、その真逆の執着心。しつこく最後まであきらめない」とした。そのうえで「剛と柔のバランスをどうとるか。大きな壁にぶちあたったときも、『なんとかなるわ』というやわらかさが必要」と話した。

 リチウムイオン電池は、スマホや電気自動車などに広く使われ、吉野さんは以前からノーベル化学賞の有力候補とされてきた。「フィールドが広く、デバイス系の順番がなかなかまわってこない。もし順番がきたら絶対とりますよ、と申していました」と笑った。

 環境への貢献については、「(電気自動車などが普及していくことで)巨大な『蓄電システム』ができあがる。太陽電池、風力発電など変動の激しい技術が普及しやすくなる」と語った。

 リチウムイオン電池が広く使われている携帯電話について聞かれると、「私自身は携帯電話を持つのに拒否感があった」。従来式の携帯電話(ガラケー)は持ったことがなく、「私が今のスマホを買ったのは5年前。いきなりスマホです。ガラケーは使ったことがない」と明かすと、会場は再び笑いに包まれた。

 発表の瞬間は、旭化成の大勢の社員らが見守った。

 午後6時半ごろから100人ほどが、プロジェクターに映された王立科学アカデミーの発表を待った。

 6時45分過ぎ、共同受賞者のジョン・グッドイナフさん(97)の名が発表されると、吉野さんの受賞を確信したのか、「オー!」という歓声が上がった。

 「アキラ・ヨシノ」。続いて吉野さんの名前が読み上げられると、会場は万雷の拍手に包まれ、社員たちは握手を交わしたり、跳びはねたりした。

■妻久美子さん「うれしいのひと言」

 吉野彰さんの妻、久美子さん(71)は9日夜、神奈川県藤沢市内の自宅に詰めかけた報道陣に「うれしいです。そのひと言です」と笑顔で語った。

 久美子さんのスマートフォンに彰さんから電話が入ったのは、9日午後6時20分ごろ。「バタバタしている」と言って周辺が騒がしかったといい、「決まったの?」と尋ねると、はっきりと答えなかったという。察して「おめでとう」とお祝いを言い、次女(35)と抱き合った。

 「普通のサラリーマンの妻」で、「『研究者の妻』という感覚でいたことはない」という久美子さん。彰さんは自宅では研究や仕事に関することは一切言わず、「外と家の中とのギャップがありすぎる。言っていいのか迷うが、家では寝ていることが多く、ゴロゴロしている」。

 彰さんは30代半ばの頃は夜遅くまで仕事をし、休日も研究に打ち込んだ。電池のサンプルや充電器などを自宅の茶の間にポンと置いていたことから、久美子さんも電池の研究をしていることは知っていたという。

 彰さんは特に日本酒が好きで、近くに住む次女の夫(42)と自宅で酌み交わす。自宅近くの公園で時折テニスをし、ゴルフも好きだという。(秦忠弘)

■研究者から祝福続々

 吉野彰さんの研究を見つめてきた国内の関係者も受賞の知らせを喜んだ。

 大阪大名誉教授で島根県産業技術センター特別顧問の吉野勝美さん(77)は2005年、リチウムイオン電池に関する吉野さんの博士論文を審査した。

 「素晴らしい内容だった。これはきっとノーベル賞につながるなと思っていた。『自分が生きている間にとってくれたらなぁ』と思っていたので本当にうれしい」と喜んだ。

 日産自動車で電気自動車「リーフ」の基本設計に携わった慶応大特任教授の堀江英明さん(62)は「毎年、今年こそはと心待ちにしていた受賞だ。1991年、社内で電気自動車の開発を提案した。吉野さんには25年以上にわたって指導いただいた」。

 吉野さんの開発チームに82年から加わった実近(さねちか)健一・科学技術振興機構技術参事(64)は「当時、社内での開発の位置づけは低く、チームは吉野さんを入れて6人、途中からは4人で続けた。基礎的な科学から世の中に役立つものをつくった成功例だと思う」と振り返った。

■1冊の本、化学に出会う/大学で考古学に夢中

 吉野さんが育ったのは大阪府吹田市。今は万博記念公園や宅地が整備されているが、戦後ほどない幼少期は、竹やぶだらけだった。よくトンボをとって遊んだという。化学に興味を持ったのは、小学生の時だった。

 4年生のとき新任の女性の先生が担任になった。学生時代に化学を専攻していたという先生が1冊の本を薦めてくれた。英国の科学者ファラデーの「ロウソクの科学」だった。

 「ロウソクはなぜ燃えるのか、炎はなぜ黄色いのかといった内容で、子ども心に化学はおもしろそうだなと思った」。9日の会見で、吉野さんは語った。

 「好きこそものの上手なれ、ではないが、子どもが関心を持つとどんどん得意になるんです」。身の回りの素材で「実験」に熱が入った。トイレの洗浄用に置いてある塩酸を、近くで拾った鉄の塊にかけてはボコボコと出る泡を見て、面白がったという。

 好きが高じて、化学が得意科目になった。入学した京都大では、当時、花形だった石油化学を専攻した。

 ただ、最初の2年間に打ち込んだのは考古学だった。教養課程はできるだけ専門以外の知識を身につけよう。そんな風土のなか「石油化学が最先端なら、一番古い歴史、考古学をやってみよう」と考えた。

 同好会に入って京都や奈良の発掘現場に毎日通った。今は史跡公園になっている京都府の樫原(かたぎはら)廃寺の発掘にも携わったという。

 全く異なる分野だが「考古学の研究は、化学とよく似たところがある」という。たとえば文字がない時代、頼りになるのは出土した土器などの物的証拠。言葉の解釈ができない分、物証を積み重ねていくしかない。「事実に対して非常に謙虚。どちらかというと、実験科学なんです。いかに新しいデータを世界に先駆けて提示できるか。そこが共通しています」と吉野さん。「考古学をかじったことが、後々の研究開発に非常に役立ちました」