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続折々の記 2019⑧
【心に浮かぶよしなしごと】

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           Something greatの願い<2>  命のすべて
               ① 食べ物に関すること
               ② 健康保持の方法
               ③ 希望をもち知識を身につけること
           モーゼの十戒
           夢や知識の習得の方法
               1 求める夢とか希望は何か
               2 技術や文化を修得する力をつける
               3 歩みの歴史を知ること
               4 知識、人柄、健康など学びの力

【 04 】10/16~

 10 16 (水) Something greatの願い<2>     命のすべて

10 11 (金) Something great の願い<1>     命のすべて

  命とは何か = Something great
  環境から積極的に取り入れるようにプログラムされている
  種(いのち)を残す、ことの理解
  いのちを支えるため

<1>の続き

<1>に続いて、

私たち人は自分の一生をどのように支えて生きたらいいのか考えることにします。

生涯を支えるものとして、体それ自体を支える食事の摂り方が一つ、それに続いて健康保持の方法が一つ、そしてどんな夢・希望を持ちその関連知識を身につけるかが一つ、

   ① 食べ物に関すること
   ② 健康保持の方法
   ③ 希望をもち知識を身につけること

この三つに分けて考えたらいいと思います。

※ 第一の健康保持の食事

何を食べてもいいという生き方でもいい。 あまりかたよると、健康を損ねて病弱になる。 かと言って過食はデブちゃんになる。 やっぱり健康指針のバランスよい食事にした方がいい。 それには適当な本によるとか、テレビや新聞や人に聞いたりして必要なことをメモったりし、自分で見つけなければならないだろう。

物事に集中しすぎると、食事への関心にうとくなるかもしれない。 今年19才の青年が囲碁名人になったニュースが出ていた。 彼の体重は軽く華奢きゃしゃな感じだから、将来健康が気づかわれる。 これに引き換え、同じ囲碁で10才の女の子が女子プロになったが、ぽっちゃりした愛らしい素顔で健康で楽しそうな将来のように見えた。 とにかく、食事は美味うまくて楽しく食べたいものです。

これはまず、年齢に即して考えなければならない。 いろいろ知恵を出し合うとよい。

甘いということと美味いという違いはどこから生まれるのか?
甘いものを 「おいしい」 と言い、 味の中味や加減でうまいものも 「美味おいしい」 と言う。 今はだれしも砂糖類で甘いものは健康にはよくないと知っている。 ただ、なんでも悪いのかと言うとそうでもなく、大脳の働きには糖類はいいと言うし筋肉労働にも糖類はいいと言う。 やみくも沢山と、考えてはならない。

タンパク質は大事だという。 その通りだと思います。 人間以外の動物はもともと植物を食べて生きてきた。 それが原型です。 人間もそれが原型だと言って菜食主義を通そうという言葉も聞きます。 だが、高年齢の人にとっては食事分量を多くとることが負担となって体調が悪くなるから、少しでも自分に必要なタンパク質をとるのには動物タンパクがいいというようになってきた。 いいからと言って肉や魚ばかり食べる方法はこれもよくないという。 ほどほどにすることが一番いいのだろう。 これは人それぞれで決めなくてはならない。

植物タンパクからとるとすると、大豆がいいという。 これにもいろいろと製品があって個人で決めなくてはならない。 こうしたことを考えて食事内容を決めていくことは、一つは楽しみでもある。

甘酒はうまい。 糖類はよくないとしても、甘酒は糖類ではなく発酵食品だ質が違うと言われ、いいとされている。 同じように発酵食品はいいというと、最近になって野草酵素が宣伝的に誇示して報道される。 作って売る方は儲けようと蜘蛛の巣のように網の目を張る。 野草酵素にしても、梅肉酵素にして手軽に安く自家製造できるし梅肉エキスでもできるのです。 ニンニクがいいという。とすると発酵食品化したニンニクが高い値段で宣伝され、販売する人が増えている。 黒ニンニクにしても手軽に簡単にしかも安く自家製造できる。

健康食というと、いろいろあるからこうしたことに取り組んでみるのも、高齢者には面白し遊びのようになる。 まもなく柿剥きが始まるから、熟柿から柿酢を作ることもできるし、柿の皮の利用もできるようになる。

健康保持の食事というものはバランスが大事になるから、各自でどう決めるかがむずかしい。 心構え次第では面白い課題であるし、文殊の知恵というように人に聞いたり 「話し合ったり」 をとるとよい。

食事といえば日本人が昔から食べてきた お米 を大事にしたい。 西欧の文化としてのパンもいい。 でも、汗水流して先祖から作り伝わっている お米 を利用できないものか?

お餅は大好きだ。 毎日食べても飽(ア)きない。  米のご飯の代わりに粉にしてパンを自家製造できないものか?  共同製粉分工場を作れないものか?  米粉の製パン方法を開発できないものか?  できれば、自家製パンするようにしたいもの出す。

また、戦時中はサツマイモを作って、ごはん代わりに食べたものです。 当時カロリー計算から見ると、コメの代用になったと思います。 農地が余ってきました。  サツマイモを粉にして利用する方法はないものか。 澱粉をつくったり、芋飴を作ってご飯の代用を図ったりした体験もある。

みんなで話し合うことは、文化の創造そのものなのです。

※ 第二の健康保持の方法

第一では、一つ一つの細胞が元気溌剌の充実したエネルギーを持つことを願ってのことでした。

続いて問題になるのは、元気な細胞が手を取り合って相談し体をどう作り上げ活動するには、何をしていけばいいのかを問題にします。

食事をしたり歩いたり自分の仕事をしたりすために、すへての筋肉が収縮と伸長により各部分がスムーズに動けるようにすることです。

筋肉が元気か弱くなったかわかることに出会いました。 40才半ばころ、勤務地の運動会があって住宅地区の選手でリレーに出た。 その競技でバトンタッチをしてさあ走ろうとし途端に左アキレス筋をきってしまった。 筋をつないで20日ほどして歩く練習をしてみると、驚くなかれ簡単には歩けなかった。

筋肉を使わなくておると、忽ち痩せてしまうのだと、医者に教えられた。 高齢になると、畑仕事も息が切れる。 そう長く仕事は続かない。 そこで、家の中でごろごろしていると、足が弱くなる。 弱くなると、歩いたり働いたりが億劫になる。 足はますます弱くなる。 やがては寝込むようになる。

これがお定まりの老齢者の健康状態だ。 だから、高齢者になると普通ではない覚悟と、筋肉を鍛える工夫をしないとだめなのだ。

そこで、筋肉を丈夫にしなくてはならない。 もともと運動とは、新陳代謝をすることだと考えてはいた。 今度は運動という切り込み方ではなく、老齢を迎えての健康維持ということだ。 それは筋肉を使って若返ることだと分かってきた。普通のラジオ体操でもいいが、やっぱり足の衰えの若返りをすることだ。

月刊誌の 「健康365」 や 「わかさ」 などを見ていると、いろいろと学者の意見や体験者の記事が出ている。 こうした知識や人から話を聞いたりはなしたりして、自分のやり方を決めださなくてはならない。

公共施設に 「筋トレ」 器具があれば、わいわいしながら利用できる。 だが筋トレ器具や筋トレ機械がなくても、ちょこっとした器具や棒切れを使って、個人で筋トレをすることができる。

こうした直接の筋トレではなく、生活の中の継続運動として、平坦の道のウォーキングゃ石段の上り下りを利用したり坂道を行ったり来たりするとか、現実にはいろいろと工夫できる。 この方法は継続しやすいからお勧(スス)めしたい方法である。

こうした方法の中で、足の裏を要らない金槌などの柄をきってその棒でどこでも押して刺激する寳保はとても効(キ)きそうです。 足裏のツボは「足裏のつぼの画像検索結果」としてをクリックすると(パソコンに)出てきます。  とんな図でもプリントアウトできます。

※ 第三の希望をもち知識を身につけること

「命とは何か」 という問いに対して、「種(いのち)を残したい」 と願うから ……
モーゼの十戒や黄金律があると書いた。

どうしてそう書いたのか?  次の三つのデータを読んでください。

(1)  モーゼの十戒

   1.主が唯一の神であること
   2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
   3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
   4.安息日を守ること
     (1~4までは神について)
   5.父母を敬うこと
   6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
   7.姦淫をしてはいけないこと
   8.盗んではいけないこと
   9.隣人について偽証してはいけないこと
   10.隣人の財産をむさぼってはいけないこと
     (5~10までは家族について)



(2)  パリサイ人たちとの論争で、イエスの答え

バイブルにはイエス・キリストとパリサイ人たちとの論争が頻繁に出てきます。争点は、「モーセの律法」をいかに解釈するかという点にありました。ある時、イエスを試すために一人の律法の専門家がこう質問します。 「先生。律法の中で、大切な戒めはどれですか」 パリサイ人たちは、バイブルの中には613の戒めがあると教えていました。その質問にどう答えるかによって、イエスの律法理解の程度が分かります。場合によっては、激しい論争に発展する場面でした。 その時、イエスはバイブルの教えを二つの戒めに要約し、敵の口を封じました。 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」 これが第一の戒めです。これは、ユダヤ人たちが「シェマ(聞け)」と呼んで、日々朗詠する有名な箇所です。 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 これが第二の戒めです。


(3)  聖書にある実際の言葉

いわゆる〝黄金律”とはマタイ7:12の「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」のことです。イエスは人間の心とそれがいかに利己的かご存知でした。 事実その前の節で、イエスは人間が〝悪い者であっても”と言われました。 このことを把握するのは重要です。なぜなら、イエスは続けて、16節で、人間は生まれつき悪くて 、利己的ではあっても、自分の子供に良い物を与えることを知っていると言われました。この16節から、私たちがすべてにおいてほかの人に扱ってほしいように、他の人を取り扱うことを積極的に求めなさいという黄金律に導入していくのです


(1) モーゼの十戒

見た通り、青い文字のところが二つある。 この二つが十戒の中核になっていると私は受けとめる。

古代イスラエルの指導者モーゼは聡明な人だ。 「主が唯一の神であること」凄い言葉だと感心する。

何故か ……… ?

主が唯一の神という理解の仕方だ !!  大昔も今でも神という言葉は何を意味するかは変わっていないと私は思う。 神とは天地創造したものであり、自分をはじめすべては神あってこそここに自分やすべてが存在しているという意識である、と私は理解している。

これがキリスト教徒やイスラム教徒の人たちの、神の存在ということに対する意識だと私は理解している。 この理解の仕方がよいか悪いかはわかりません。

もしこれでいいとすると、主が唯一の神 の表現と 偶像を作ってはならない という表現は、私が借用している Something great の意味内容は論理的にもまったく一致している。
Something great の意味するところは、まさに命が始まってきたその源泉をふくめた いのち そのものと理解しているのです。

だから私はモーゼという人が、偶像を作るなと言い、みだりに唱えるなと言っている、のだと思う。

続いて 「父母を敬うこと」 となる。  これは 「主が唯一の神」 という考え方を、現実の世界として言葉で表した表現であり、それこそ最大中核であると私は思います。 そしてそれは間違いのない事実だと理解しています。 何故だ ……… ?

私は馬齢をかさねて高齢者となった。 そしてこんなことは言いたくないにしても、自分自身で深く思うのは 「ご先祖さまをうやまい愛する」 という父母や先祖様の恩義を痛切に感ずるからです。 今では恩義に報いることはできないのです。 深い悔恨の思いをかえて、子孝行・孫孝行で報いるほかないとわかりました。

こんなわけで、モーゼという人は大昔の指導者だけれど立派な方だったに違いないと思うのです。

(2)の パリサイ人たちとの論争で、イエスの答え

ここの 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」 というのと 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 という表現は、「モーゼの十戒」の青文字表現そのままとみてもよい。

旧約聖書と新約聖書での違いやいろいろといきさつはあるにせよ、間違いなく年代が新しくなっても、中核になるバックボーンの論理は通っていたとみるべきだ。

要するに Something great の根本義が通っていた。 その証拠を私は取り上げたかったのである。

(3)  聖書にある実際の言葉

では、(3)はどうなのか ……… ?

黄金律について調べてみると、(3)の内容が出ているのです。

見ていくと、16説では 「いろいろのことはあるけれど、親は自分の子供には全力を傾ける」という心があることを指摘しています。

続いて17説で、「社会は複数の人たちで成り立っていることをわきまえていれば」(表現には出ていないが、それをわきまえていればこそ、他人の子供でも他人の親でも同じなんだということをわきまえていればこそ) 「誰を区別することではなく、子供の意図することを察知して親はそれにこたえるように」 という考えによって黄金律を導入したと言っているのです。

ですから親子の情愛そのものを、親の立場に立ち子供の立場に立って、どんなことも考えることが大事だというのです。 この考え方は、神を大事にし、父母を敬うことに直通する考えを違う言葉で言ったのです。

以上、私はこの世の生きているものすべての命は、 Something great によっていると考えているのです。

Something greatという表現は、いつどこで出会ったか覚えていない。 調べてみると、筑波大学の村上和雄先生が紹介されていた。

直訳すると「偉大なる何者か」だが、日本の分子生物学者の村上和雄は生物の進化に影響を与えた人智を超えた存在のことをこのように呼んでいる。標準的な自然科学の世界から逸脱する主張だと言われている。

私はやっぱり筑波大の村上さんが使った意味のものによると思っています。 それは次のような言葉で説明しています。

   村上和雄  筑波大学名誉教授

サムシング・グレートに教えられたこと

 2018年で研究人生満60年を迎えた、筑波大学名誉教授の村上和雄氏。その研究一筋の歩みは、サムシング・グレートの呼称にも表れているように、生命の神秘さと真摯に向き合った半生でもあった。新連載では、60年にわたる科学者人生を振り返っていただくとともに、他の追随を許さないユニークな研究結果から見えてきた世界を紐解いていただく。

懸命な努力自分や仲間を信じる心そして絶対にやり遂げるという強い志という三つがあれば、必ず天や運は見方をしてくれる

 サムシング・グレートがどんな存在なのか、具体的なことは私にも分かりません。 しかしそういった存在や働きを想定しなければ、小さな細胞の中に膨大な生命の設計図を持ち、これだけ精妙な働きをする生命の世界を当然のこととして受け入れることは、私には到底できないことでした。

 それだけに、私は生命科学の現場で研究を続ければ続けるほど、生命の本質は人間の理性や知性だけでは説明できるものではないと感じるようになりました。

 進化生物学者の木村資生氏によれば、この宇宙に1個の生命細胞が生まれる確率は、1億円の宝くじが100万回連続で当たるくらいの、とんでもなく希少な確率だそうです。 となれば、私たちの存在はとんでもなく 「有り難い」 ものだと言うことができるでしょう。

 さらに言えば、世界の富をすべて集めても、ノーベル賞学者が束になってかかっても、ごく単純な大腸菌1つ、元から創(ツク)れないのが現実なのです。 にもかかわらず、私たちの身体には、約37兆個の細胞(最近の研究で明らかになった数字)が存在し、お互いに助け合いながら、喧嘩することなく調和を保って生きている。 これは本当に不思議なことです。

 それだけに、我われは大自然の不思議な力で生かされているという側面を決して忘れてはならないと思うのです。




さて、元の課題 「命とは何か」 の話の流れは

一つのいのちを授かった(そのものの)自分が 「種(いのち)を残したい」 という いのちに刻印されている不思議な力に導かれて 「生き残りたい」 と願うから ……
モーゼの十戒や黄金律を大事にしたのでしょう。

ということで、

  命とは何か = Something great
  環境から積極的に取り入れるようにプログラムされている
  種(いのち)を残す、ことの理解
  いのちを支えるため
(に続いて)
   ① 食べ物に関すること
   ② 健康保持の方法
   ③ 希望をもち知識を身につけること

まで進めました。

③希望をもち知識を身につけること では、知識を身につけるためにモーゼの十戒から黄金律の流れを見てその心構えというか足場を固めた。 いよいよ 「種(いのち)を残したい」 という知識の修得や実践へ進むことになりました。

ここで、そのことの順序あらましなどを決めて進めたい。 その中身は

夢や知識の習得の方法

   1 求める夢とか希望は何か
   2 技術や文化を修得する力をつける
   3 歩みの歴史を知ること
   4 知識、人柄、健康など学びの力
   5 種(=命)の残し方;赤ちゃんの育て方
   6 修身と宗教とSomething greatの学び
   7 平和、平安な生活の求め方


などを想定したい。



1 求める夢とか希望は何か

私は朝起きて足腰の筋力づくりをし、居間のカーテンを開け、玄関の錠をまず外します。 そして、下駄箱の上の小さなお地蔵様に合掌をし、植物などに手を触れて「元気かい?」と声をかけます。
そして合掌をしながら、生きているものはすべて生命いのちを持っており、そして生きてしていること自体が技術であり、その個体の文化であり、足跡(歴史)となって残っていくのだと自分に言い聞かせる。

お地蔵様はそれを斎戒沐浴した気持ちで刻んだその人の尊い文化だし、下駄箱も作った人の文化だし、鉢植えの花もそれぞれ寒い中で生きている努力であり文化であると思うし、柱も、壁に掛けられている額も、絵も、作った人や書いた人の意志と努力の結果であり文化である。

だから私はみんなの文化遺産の中で、生きる営みをしているわけである。 そんなふうに思い、自分に言い聞かせるのです。

読んでいると長いかもしれないが、頭の中でしゃべりながら目を向けている時間は、ちょっとだけなんです。

そして、思うのです。 どんな仕事をしていても、そのことは人に役立つ文化なんだと。

文化で知られる人たちが文化を作り上げたのだと思っているのも、それも間違いありませんが、名もない人でも人の役に立つ仕事をしていることは素晴らしい文化なんです。 文化に差別をしてはいけません、といつも思っているのです。

なぜこんなことを書いたのかといえば、夢とか希望とか、こうしたいと思う方向を決めるのは、それぞれ各自が決めることなのです。 ですからどんな夢でも希望でもそれは、その人が決めて実際に仕事として努力していることであり、立派な自分の意思決定であり遺されていく文化なんです。 その仕事でできたものは素晴らしい文化だと、自らを自負してもいいはずです。

小さなころ母からよく聞かされたものです。 「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」 と言って、いろいろ人の仕事は違うんだよ、自分の仕事を一生懸命にする人が偉いんだよ、と。

戦後になって10年ほど過ぎてから経済活動が盛んになり、給料で働く人がほとんどになりました。 ここで問題なるのは、人の心の在り方です。 給料が多ければいいなぁと思うし、少ないとつまらないなぁと思う。 人の感情としてはそれは、当たり前なことだと思います。

これは今始まったことではないし、どうしようもない面があります。

だが、福沢諭吉ですら、「学問のすすめ」では 「学問をすればお金はたくさんもらえるから学問をしなさい」 こんな書き方ではないけれど、中身はこういうことが書かれています。

お金を動かしてとんでもなく儲ける、義理も人情もないやり方は、とんでもない心得違いであり、これからは改善することになるでしょう。

金融とか経済の主義主張は、人間社会をおかしくしてしまうからです。

では元に戻しましょう。

働けど働けど楽にならざりじっと手を見る、これは石川啄木の思いです。 だが、トルストイの「イワンのばか」を読んでいくと、頭が下がる思いがするのです。 ばかとは言葉がきつ過ぎますが。

ヒルテイの「幸福論」は、働くこと労働こそ幸福の道に通ずる、というしめくくりだったと理解していました。

これからは心の世界をちょっと格調高く言うとすれば、物質文化に毒されずに精神文化の世界を大切にして生きていくことが大事なのです。 世界の平和のためにも。

自分で選び決めた道の仕事に誇りをもち、自分で努力し技術を高めて自分の文化を築くことに、自負心を持つようにしたいものです。 よりよく生き抜くためにです。



2 技術や文化を修得する力をつける

夢や希望は自分の技術や文化を作っていくものです。 ただ漫然と仕事をしていくだけでは夢をかなえることは出来ません。 技術は見て盗め、という。 もちろん悪い意味ではない。

昔から技術者といわれる人は、簡単になれるものではなかった。 例えば、家の周りへ垣根をつくったり、竹やぶなどに竹をまげて垣根をつくるとき、きちんと縛るために垣根結びをしたものです。 この垣根結びは、人によってはなかなか固く結べないのです。

垣根結びも一つの大事な技術です。 手指の形をしっかり目で見て、そっくり真似をしなければできない。 この真似ることが技術を身につける基本の第一歩になります。 大工のカンナ研ぎにしても、砥石と鉋(カンナ)の刃の角度、体の姿勢、角度保持での研ぎ方など、一度や二度では全く真似ができません。

そっくり真似る、これが難しい。 難しいから適当に、これが続いてカンナ研ぎができないと、柱一つきれいには仕上げができないことになる。 何でも自分ですることが技術だと前の節で書いた。 技術に違いないが、自分が満足できるかどうか、それと人が喜んでくれるかどうかが問題なのです。 人が喜んでくれない、これでは自分勝手の技術としか言えないのです。

技術を身につける力 !!  石の上にも三年という。

絵を描くにしても、筆字を書くにしても、まして組み細工の工芸品を作るにしても、刀鍛冶になるにしても、小説家になるにしても、どんな職業に携わる人にしても、一朝一夕ではできないのです。

そんなことは聞かなくても分かっておる、と言いたくなる。 どんなこともできる人はいないのです。 自分の本職とすると自分で決めた人は、根気よく努力してその道の技を自分で築き上げることが大事なのです。 そうした苦節をのり越えて一人前になるのです。

一二年で嫌になり転職してもいい。 けれども、その繰り替えてはしていてはならない。 一つの家族が生活できるようにするにも、一人前の仕事を身につけなくてはならない。 大きい工場の従業員になったとしても、役員になったとしても、人が喜んでくれないような仕事ができないと、一番大事な 「いのちをのこす」 ことができないのです。



3 歩みの歴史を知ること

私は「折々の記」で書き残したことがある。 それは温故知新という命題です。

私は予科練に身を投じたことがあり、戦後復学して青年師範学校へ入学し故郷を三年間離れて勉強していました。 心の中では 「どうして戦争に負けたのか」 ということが棘(トゲ)になっていました。 時間があれば、図書館へ行って借りてきた歴史の本を、読むことにしました。

そうした本の中で、大類伸の本のはしがきで 「歴史の勉強の目的は将来の方向を決めることに役立いること」 という内容に出会い、それが脳裏にずっと大事なこととして残ってきたのです。

著者の願いが私をそうさせたのだろう。 のちになって大類伸(ノブル)という人を調べてみました。 東北帝国大学の名誉教授(退官後、日本女子大学、明治大学の教授)にまでした経歴の歴史学者で、戦前出版は9冊だった。 どの本で歴史の勉強の目的に出会ったのかは記憶にない。

そんな思いがあってからか、昭和43年ころ毎日新聞のインタビューが載っていたアーノルド・トインビーの日本の将来予想を語っていた記事を読んだ。 話の内容は頭に焼き付いている。 大類伸の言葉があるので興味津々だった。 イギリス人の彼はいい顔をしていた。

これらのことが、温故知新という言葉でくくられているのです。 どんなことでも、その歴史は大事なものだと。

一つの興味を調べていくと、それらは長い歴史に支えられていることがわかるのです。 その歴史というのは、一人一人の努力によって残された文化の集積であり、夢の追及による成果なのです。

成果が大きいか小さいかは、生きていく個人の努力から見ればそうした判断はその人の考えとはまるで関係はないのです。 それでも、私たちは先人のそうした個人個人の生きざまの成果に支えられて、生きているのです。 文化遺産に支えられて、今日も生きているのです。

私がこうしてパソコンに言葉をインプットしているのも、これらを開発してきた人々の文化遺産に支えられているからこそ、できるのです。

こうした歴史の中に秘められた人々の生きざまの集積があって私たちの生活の一部さえ可能になっているのです。 ですから、一つ一つの歩みを知ることは、自分が生きていくうえでも大事なことの一つなのです。 世の中は感謝しかありませんという言い方も、正しい表現なのです。



4 知識、人柄、健康など学びの力

まず第一に学ぶというのはどんなことで、どんな効果があるのか?  それを明らかにしておくことは大事なことです。

真似るというのも、学ぶというのも、勉強するのも、習うというのも、憶えておくこととか、それら一切に共通する基本があります。

孔子はいろいろ勉強した人ですが、そのすべての基本になるものとしてお弟子さんたちがまとめあげた論語という本の一番初めにあるのは 「学而第一」 ということでした。 まずそれを理解ておきます。

論語の学而第一

   子曰。學而時習之。不亦説乎。

昔教わったことです。 学ぶということは、真似することに始まるといいます。 確かに真似て覚えることに違いない。

小学校四年生の時の先生は、漢字を覚えさせるためにテストをよくしました。 わら紙四分の一へ1回に10の漢字を書かせました。 できると100の下に赤線2本引いてくれ、出来ると嬉しかったものです。 出来ないと悲しかったことを憶えています。

出来るまで何回も同じ漢字を書いて憶えたのです。 この方法は記憶する基本の典型的なことでした。

学ぶということは、記憶してこそ意味があります。 そんなことは当たり前のことです。

そして真剣になって理解し真似をしていくと、実はそのままが大脳にインプットされ記憶につながり、さらにその記憶の助けによって、次の学びや真似を容易にしていっているのことがずっと後になって分かってきました。

それで、今でいえば中学三年の歳(トシ)に、論語を教わったのですが、学はまねて憶えることであり、習は昔は羽の下に自を書いた字で、鳥が自分で羽をバタバタさせて飛べるようになるまで練習したそういう意味なんだ、と教えられたのです。 聞いておれば、「うン、その通りだ」と納得できたのです。

読み方は
   わく。  まなびてときこれならう。  よろこばしからずや。

子は師につながり先生のこと、 いわくはおっしゃるのに。  学んであるいは勉強してからは、暇をみつけてそれを練習しなさい。  これはとても楽しいことに違いないのですよ。  と解釈してくれました。

記憶するということはなかなか簡単なことではなく、何回も真似て練習しないと、大脳にインプットすることはできない。 その代わりひとたび記憶が確かなものになると、そう簡単には忘れることはなくなるのも事実です。

近代の生命科学の進捗は、調べているとものすごい奥深いところまで進んでいると感じます。 大脳での記憶過程はこうなっていると分かってきております。
その一つは、髄鞘化ずいしょうかということです。 これは40年ほど前に読んだことがあります。 例えば悦楽という漢字を憶えておこうとします。

えつという漢字は、へん心立偏りっしんべんつくりえつなんだな、神がかった喜びの意味か、フ~ン ! 、 らくはたのしいという字か、これは憶えている ! 」

こんなふうに内語(頭の中でしゃべること)で、心立偏と兌を鉛筆で書き、楽は音楽の楽だなと口で発音して、「こう書くんだ、ナ ! 」としゃべりながら練習するんです。

すると、大脳の海馬かいばをとおして今まで憶えてきた細胞に直通連絡が入り、いくつかの関連細胞と連携して憶えておこうとして関連細胞に格納されるといいます。 これが何回か続いていると、関連細胞自身に格納されていて、細胞どうしの神経の枝が太くなって記憶が確実になるというのです。 これを記憶細胞の髄鞘化というのです。

ですから、繰り返して練習することが記憶を確定していくのです。

繰り返し繰り返して練習すれば、記憶は間違いなく達成されるのです。 大脳の記憶細胞は凄いです。  あの小さい細胞は凄いのです。

人柄も五感すべてからインプットされる

これも昔に教えられた内容です。 一度はそうしたこと、環境によって人は変わる、という意味のことに出会っていると思う。

 与善人居 如入芝蘭之室 久而不聞其香 即與之化矣
  ゼンジントヲルコトシランノシツニイルガゴトシ
  ヒサシクシテソノコウヲキカズ スナワチコレトカス

この白文は片仮名を読んだとおりの内容でした。 このことを

芝蘭之化(しらんのか)という言葉として、生活に生かしている人がある。 索引にも出てくる言葉でした。

「芝蘭之化」・・・良い友人と交流することにより、受ける良い刺激
          月刊まるやまVoice Vol.22 2012年6月号より抜粋

出展は、「孔子家語」の一節で「善人と居る芝蘭の室に入るが如。久しくしてその香を聞かざるは、すなわちこれを化すればなり」からです。

「芝」は霊芝(れいし=キノコですが腐らないので縁起物)とか、瑞草(ずいそう=めでたい草)だそうで、「蘭」は藤袴(芳香がある)ということで、良い場所、良い空間という意味でしょうか!

さて、「芝蘭之化」、以前よく冗談で「芝蘭之化」を知らんのか? なんて言っていました。 失礼!

同じような意味でも、「類は友を呼ぶ」となると、なぜかあまり良い意味で使われることが少ないので、私はこちら「芝蘭之化」を使っています。

ご存知の通り、人間は環境によって左右されるものです。 だからこそなるべく良い環境にいるべきですし、良い環境を自ら作る必要がありますよね。 その人を知るにはその人の友人を見ると良く分かる、とも言われます。 全くその通りです。 そうであれば、友人を選ぶのも、人生の中で重要な位置を占めると思います。

4月から6月というのは、新入社員が入社する時期でもありますので、研修や講演を依頼されるケースが多いのですが、そんな時最後に必ず以下のことをお伝えします。 それは、

  1.尊敬できる後輩を持ちましょう 
  2.高めあう友人を持ちましょう 
  3.叱ってくれる先輩を持ちましょう

ということ。 上司や親を大切にするのはもちろんですが、上司や親は選べません。 しかし、その他の先輩・後輩を含めて友人・知人は、自分で見つけることができます。 社内はもちろん、社外でも見つけるように行動することで縁ができますし、そうした仲間に囲まれることこそが重要だと思うからです。

もちろん個人として「芝蘭之化」を求めるだけではなく、職場が良い環境を提供する「芝蘭之化」になれば、それは個人の成長につながり、結果として良い会社になっていくと思います。 我々経営者とすれば、企業価値を上げるために、意識を変える工夫をしていきましょう。

弊社のお客様でも、朝礼に力を入れて、情報の共有と、モチベーションを上げる、「GOOD&NEW」を取り入れたり、誕生日のイベントを企画したりという、明るさや楽しさを前面に出すというケースもあれば、ミーティングの質を高める、アイディアを出すために、上手にOJTや研修を取り入れている会社様もあります。

  ※ OJT OJT(On-the-Job Training、オン・ザ・ジョブ・トレーニング)または現任訓練
     (げんにんくんれん)とは、職場で実務をさせることで行う従業員の職業教育のこと。
     企業内で行われるトレーニング手法、企業内教育手法の一種である。
     Googleより Job=仕事


人間働く際の一番のやりがいは、なんといっても評価されることと、仕事に責任を持たせてもらえる(任せてもらえる)ことです。 そのことが結果として責任感がでて、アイディアも湧いてくるわけです。

ブラジルの経営者で、その経営理論を説いた、「Maverick」(100万部を超えるベストセラー)の著者である、リカルド・セムラー氏が、自分の会社であるセムコ社の具体的な内容を紹介した「奇跡の経営」をご存知なければ、ぜひ読んでみてください。 この本では、理想の会社経営を実践した内容が満載です。

帯に書いてある「Fortune500でなはく、Fortunate500を目指せ!」「企業の成長のカゲで社員が犠牲になる時代は終わった!」このタイトルが目を引きますがなるほどの内容です。  「仕事は本来社員がウキウキするようなものでないといけない」と言い切れるセムラー氏の会社経営は、社員にすべてを決めさせる(勤務時間、勤務体系、勤務場所、そして給与まで)ことです。

これが成り立つというのは、一見無理だろうと思いますが、でも読み進むにつれ、 もしかしたら、自社でもできるかも! と思わせる内容です。 GDPではなく GDHと言い切るブータン国王のように、人間本来の価値観を持ち、活き活きと、そして尊敬できる仲間と仕事をできるようにしたいと思います。

  ※ GDH Gross Domestic happy とは国民総生産(GDP)という豊かさを金額であらわすのに対し、
     国民総幸福量(GDh)豊かさを幸福量であらわす言葉である。
     ブータンの国民総幸福量(GDh)をみるには、国民総幸福量をプッシュすれば分かります。


「人は、利己的ではあっても、自分の子供に良い物を与える」とある。 子育ての中核はお母さんである。 英語では mother という。 「母こそは 命の いずみ」 優しい日本の歌があるように、だれしもどこの国の人でも 「へその緒」 で結ばれて育ち、親子の絆という言葉の通り、力を入れれば切れてしまう糸の両端を母と子が半分ずつしっかり掴んでいるのが生綱、生きている綱で結ばれているのです。 将に 「母こそは命のきずな」 なのです。

mother の発音はマザーであり、ママは母であり、matrix(マトリックスは母胎であり、ラテン語では子宮)であり、この言葉から物質matter、原材料material(s)、おふくろmater、母親motherの言葉が生まれているという。 ちなみにドイツ語では muter ムッテルで、音楽魔王の主たる場面で [ マイン ムッテル!! マイン ムッテル!! ] がホルテで歌われている。 マムは世界の共通語のように思う。

話はそれたが、母とは何ごとにも代えがたい愛を我が子にそそぐのは世界共通の子育ての原点であります。  それは今も昔も変わらない宗教でも原点になっています。