12 01 (日) 中曽根元首相死去 |
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中曽根康弘元首相の歩みは次の通り。(肩書は当時)【図版】中曽根元首相の語録
1918年5月27日 群馬県高崎市で生まれる。東京帝国大(現東大)法学部。内務省、海軍に勤務
47年4月 衆院旧群馬3区で保守系の民主党から初当選。その後、保守合同で自民党へ
59年6月 岸内閣の科学技術庁長官で初入閣
66年12月 中曽根派を旗揚げ
82年11月 第71代首相に就任
83年1月 日本の首相として初の韓国公式訪問。数日後に訪米。レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係確認。「不沈空母」発言が問題化
12月 衆院選で自民党過半数割れ
85年1月 施政方針演説で「戦後政治の総決算」を強調
8月 終戦の日に戦後首相として初の靖国神社公式参拝
86年7月 「寝たふり解散」の衆参同日選で自民圧勝
12月 防衛費の国民総生産(GNP)比1%枠の撤廃を閣議決定
87年4月 国鉄の分割・民営化でJR発足。売上税導入に失敗
87年11月 首相退任
89年5月 リクルート事件で衆院予算委員会証人喚問。政治的責任を取り離党。91年4月復党
97年4月 大勲位菊花大綬章を受章
2003年10月 小泉純一郎首相からの引退要請を受け、衆院議員引退
「日本の国際的地位は戦争に負けて以来、非常に低い。原子力によって水準を上げ、正当な地位を得るよう努力する」(1955年12月、衆院科学技術振興対策特別委員会)戦後日本に多くの足跡を残した中曽根康弘元首相が29日、死去した。国鉄民営化などの「小さな政府」路線や日米関係の強化、憲法改正論議など、その取り組みは現在の政治や社会にも大きな影響を与えている。▼1面参照
「大衆は皆いい人ばかりだ。上に立つ者ほど悪い人が多い。特に政治家はいけない。そう思った私は政治を正すため政治家になった」(68年9月発行の著書「わが心の風土」)
「よく私は政界の風見鶏と言われる。しかし風見鶏ぐらい必要なものはない。足はちゃんと固定し、体は自由。風の方向が分からないで船を進めることはできない」(78年4月、札幌市で講演)
「行革ざんまいで他のことは考えず、それに徹して進んでいきたい」(82年4月、国会答弁)
「風に向かって走ろうという気持ちだ。とにかく業績を残したい」(82年11月、第1次中曽根内閣発足後)
「日本列島を不沈空母のように強力に防衛し、ソ連のバックファイアー爆撃機が侵入できないようにする」(83年1月、訪米時のワシントン・ポスト紙幹部との懇談)
「対中経済協力は戦争により大きな迷惑を掛けた反省の表れであり当然」(84年3月、胡耀邦中国共産党総書記と会談)
「サッチャー英首相らのように大統領的首相になって力強く政策を推進したい」(85年4月、旧制静岡高校同窓会)
「公式参拝は憲法に反しない範囲と判断した。国民の大多数は圧倒的に支持してくれると信じている」(85年8月、戦後の首相として初めて靖国神社を公式参拝した後) 「『戦後政治の総決算』は戦後40年間の成果を評価すると同時に、これまでの制度のひずみや欠陥を是正し、21世紀に備えるものだ」(86年1月、施政方針演説)
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12 02 (月) 戦後保守の巨星堕つ その功と罪 |
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一国の防衛の基本は、自らの意思で、自らの汗でやるべきです。いずれアメリカと同盟するにしても、日本は相応な再軍備をして、できるだけアメリカ軍を撤退させ、アメリカ軍基地を縮小しなければならない。さもないと日本は、永久に外国軍隊の進駐下にあり、従属国の地位に甘んじなければならない
出典:『中曽根康弘-「大統領的首相」の軌跡』服部龍二著、中公新書
中曽根は民主党総務会で「このような屈辱的条約(日米安保条約)に、われわれは責任を分担できない。アメリカは無差別爆撃で日本国民にたいへんな損害を与えた。われわれは、アメリカに賠償を要求すべきだ」と語気を強めた
出典:前掲書、括弧内筆者
中曽根は自派の会合などで「自主防衛」を説いた。「終局的には米国の核と第七艦隊以外は自主防衛にすべきで、そうでなければ安保条約は一九七五年ごろには情勢次第でやめるなど弾力的に考えるべきだ」
出典:前掲書、強調筆者
中曽根は、表向きに「非核中級国家」を標榜しつつも、防衛庁内では別の行動をとる。核武装の可能性について、防衛庁の技官らに研究を指示したのである。その結論は、二〇〇〇億円で五年以内に成算ありというものだった。難点は国内に核実験場がないことである。中曽根は、「広島・長崎の惨害を受けて、非核志向を提示すること自体は悪くないが、国際的には日本にも核武装能力があるが持たないという方針を示すほうが得」と判断していた
出典:前掲書
晩餐会では、全(斗煥)が中曽根の訪韓を「文字通り記念碑的なこと」と挨拶している。中曽根は「(日本が韓国に対して)不幸な歴史があったことは事実であり、われわれはこれを厳粛に受け止めなければならない」と述べ、今後は「互いに頼りがいのある隣人となることを切に希望する」と表明した。このスピーチで中曽根は、韓国語を多く交えた。中曽根が韓国語で話し始めると、韓国要人は驚いて耳を傾け、涙ぐむ者も多かった。
中曽根は晩餐会後も深夜まで、全と青瓦台、つまり大統領官邸の一室で懇談した。首相秘書官だった長谷川和年によると、全は「ナカソネさん、オレ、アンタニホレタヨ」と日本語で述べたという。
出典:前掲書、括弧内筆者
藤尾発言とは九月一〇日発売の『文藝春秋』一〇月号で、韓国併合については韓国側にも責任はあったと述べたものである。中曽根は校正刷りの段階で原稿を入手し、発売日前の九月八日に藤尾を罷免した。
出典:前掲書
第二次内閣で中曽根は、最初の訪問先に中国を選んだ。胡耀邦総書記が一九八三年一一月に来日したとき、中曽根は訪中を要請されていたのである。(中略)
円借款については、注目すべき発言があった。中曽根は二四日、「対中経済協力につき謝意表明があったが、かえって恐縮しており、対中協力は戦争によりにより大きなめいわくをかけた反省の表れであり、当然のことである」と胡に述べたのである。円借款は中国の賠償請求放棄と公的には無関係なだけに、「反省の表れ」という発言は大胆といえる。胡は中曽根夫妻、長男の弘文夫妻らを中南海の自宅に招いて会食した。テーブルには、中曽根の好物である卵焼きと栗きんとんが並べられていた。李昭夫人、二男の劉湖や孫なども加わり、中曽根と胡は家族ぐるみで親交を深めていく。(略)
秋には胡が日本の若者三〇〇〇人を招待するなど、一九八四年は数千年に及ぶ日中関係史で最良の年といわれた。中国の存在がまだ巨大でなかったにせよ、日中提携と対米協調を両立できた指導者は、日本外交史をたどっても多くない。
出典:前掲書