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続折々の記 2019⑪
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 02 】12/01~

               時事NEWS    
                 中曽根元首相死去  11月29日
                 「風見鶏」風を起こした 公社民営化「小さな政府」
                 生涯政治家、断行と反発 ロン・ヤス舞台、自ら草刈り
                 戦後保守の巨星堕つ  その功と罪
                 中曽根康弘元首相-その功と罪

 12 01 (日) 中曽根元首相死去     

30日、このニュースをマスコミは一斉に報道した。 私より10歳年長だったことと、東京帝大卒だったことが分かった。 ロン・ヤスが報道されたとき、彼は終戦のとき軍籍では海軍の艦長
中曽根元首相死去(101歳)
   「戦後政治の総決算」 
   2019年11月30日05時00分
   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14276908.html?ref=pcviewer

 「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄の分割・民営化を実現し、原発政策や憲法改正論議にも大きな影響を与えた中曽根康弘(なかそね・やすひろ)元首相が29日朝、東京都内の病院で死去した。101歳だった。▼3面=評伝など、39面=悼む声

 1918年、群馬県生まれ。東大卒。旧内務省に入り、海軍主計少佐を経て、47年の衆院選で旧群馬3区から28歳で初当選。その後、戦後最多となる当選20回を重ねた。54年、日本初の原子力予算成立に中心的役割を果たし、戦後日本の原発政策に深く関わった。科学技術、運輸、防衛、通産、行政管理各省庁の大臣・長官、自民党幹事長、総務会長を歴任。82年に鈴木善幸首相が退陣した後、田中角栄元首相が率いた最大派閥・田中派の支援を受けて第71代の首相に就いた。

 土光敏夫氏が会長だった臨時行政調査会(臨調)を使って改革案をつくらせ、党や官僚の頭越しに実行するトップダウンの手法を多用。行政改革に注力し、民間活力を重視する「小さな政府」路線で電電、専売、国鉄の3公社を民営化した。外交では、レーガン米大統領と「ロン・ヤス」の友情関係を築いて、日米関係の強化に努めた。一方、85年に戦後の首相で初めて靖国神社を公式参拝したが、中国などから強い反発を浴び翌年から見送った。

 86年には衆参同日選に踏み切り、300議席を超す圧勝で総裁任期延長を勝ち取り、戦後5番目に長い政権となった。小選挙区制導入後は党の比例ブロック終身1位として当選を重ねたが2003年に小泉純一郎首相から引退勧告され政界を退いた。その後も、持論の憲法改正で発信を続けた。

 ■官邸主導の源流

 中曽根康弘氏は、吉田茂元首相以来の「軽武装、経済優先」の保守本流路線とは一線を画すタカ派的姿勢が、野党や近隣諸国から警戒感をもって迎えられた。日米同盟強化や行政改革などの課題を掲げ、自ら前面に立つ「大統領型」を意識したスタイルは、平成の政治改革をへて官邸主導を強めた小泉純一郎元首相や安倍晋三首相の政治手法の源流になったと言える。

 ブレーンを集めた審議会を多用したトップダウンは、その後の経済財政諮問会議などを通じた首相官邸発の政策決定として、すっかり定着した。

 米国との関係を最優先にレーガン大統領と親密な関係を築き、これを足がかりに冷戦下の西側で発言力を確保したアプローチは、小泉、安倍両氏にそのまま引き継がれた。

 強烈な「国家」意識や「戦後体制」に対する思いも安倍氏らと共通する。中曽根氏は靖国神社への公式参拝に執念を燃やし、靖国懇談会をつくって憲法に触れない方策を探った。

 そして、米軍占領下で制定された憲法を改正したいという強い思いである。

 ただ、公式参拝に中国が猛反発すると、中曽根氏は「ロン・ヤス」並みの関係だった胡耀邦共産党総書記にも配慮して、一度限りで取りやめた。悲願の憲法改正も終生唱え続けたが、在任中は「現内閣では政治日程に載せることはしない」と封印。9条に対する国民感情も踏まえ、数の力で進めようとはしなかった。

 政権維持を優先させた「風見鶏」ならではの現実路線と言えるが、御厨貴・東大名誉教授(日本政治史)は「中曽根氏はやはりあの戦争をよく知っていた。それを踏まえたブレーキ役として後藤田正晴官房長官をそばにも置いた。こうした配慮のあったところが、安倍政権とは異なる点だ」と指摘する。(編集委員・国分高史)

3面=評伝など
「風見鶏」風を起こした 公社民営化「小さな政府」

【図版】中曽根康弘元首相の歩み/中曽根元首相の語録
中曽根康弘元首相の歩みは次の通り。(肩書は当時)
1918年5月27日 群馬県高崎市で生まれる。東京帝国大(現東大)法学部。内務省、海軍に勤務
47年4月 衆院旧群馬3区で保守系の民主党から初当選。その後、保守合同で自民党へ
59年6月 岸内閣の科学技術庁長官で初入閣
66年12月 中曽根派を旗揚げ
82年11月 第71代首相に就任
83年1月 日本の首相として初の韓国公式訪問。数日後に訪米。レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係確認。「不沈空母」発言が問題化
12月 衆院選で自民党過半数割れ
85年1月 施政方針演説で「戦後政治の総決算」を強調
8月 終戦の日に戦後首相として初の靖国神社公式参拝
86年7月 「寝たふり解散」の衆参同日選で自民圧勝
12月 防衛費の国民総生産(GNP)比1%枠の撤廃を閣議決定
87年4月 国鉄の分割・民営化でJR発足。売上税導入に失敗
87年11月 首相退任
89年5月 リクルート事件で衆院予算委員会証人喚問。政治的責任を取り離党。91年4月復党
97年4月 大勲位菊花大綬章を受章
2003年10月 小泉純一郎首相からの引退要請を受け、衆院議員引退
【図版】中曽根元首相の語録
 「日本の国際的地位は戦争に負けて以来、非常に低い。原子力によって水準を上げ、正当な地位を得るよう努力する」(1955年12月、衆院科学技術振興対策特別委員会)
 「大衆は皆いい人ばかりだ。上に立つ者ほど悪い人が多い。特に政治家はいけない。そう思った私は政治を正すため政治家になった」(68年9月発行の著書「わが心の風土」)
 「よく私は政界の風見鶏と言われる。しかし風見鶏ぐらい必要なものはない。足はちゃんと固定し、体は自由。風の方向が分からないで船を進めることはできない」(78年4月、札幌市で講演)
 「行革ざんまいで他のことは考えず、それに徹して進んでいきたい」(82年4月、国会答弁)
 「風に向かって走ろうという気持ちだ。とにかく業績を残したい」(82年11月、第1次中曽根内閣発足後)
 「日本列島を不沈空母のように強力に防衛し、ソ連のバックファイアー爆撃機が侵入できないようにする」(83年1月、訪米時のワシントン・ポスト紙幹部との懇談)
 「対中経済協力は戦争により大きな迷惑を掛けた反省の表れであり当然」(84年3月、胡耀邦中国共産党総書記と会談)
 「サッチャー英首相らのように大統領的首相になって力強く政策を推進したい」(85年4月、旧制静岡高校同窓会)
 「公式参拝は憲法に反しない範囲と判断した。国民の大多数は圧倒的に支持してくれると信じている」(85年8月、戦後の首相として初めて靖国神社を公式参拝した後)  「『戦後政治の総決算』は戦後40年間の成果を評価すると同時に、これまでの制度のひずみや欠陥を是正し、21世紀に備えるものだ」(86年1月、施政方針演説)
 戦後日本に多くの足跡を残した中曽根康弘元首相が29日、死去した。国鉄民営化などの「小さな政府」路線や日米関係の強化、憲法改正論議など、その取り組みは現在の政治や社会にも大きな影響を与えている。▼1面参照

 中曽根氏は、事実上の政界引退を表明した2003年10月の記者会見で、議員生活で最大の決断は「国鉄、電電公社、専売公社の民営化だ」と振り返った。1980年代半ば、改革のメスが入った3組織はJRグループ、NTT、JTという企業に生まれ変わり、今も人々の暮らしや経済活動を支える。

 国鉄の「改革三人組」の一人だったJR東海の葛西敬之名誉会長は29日、「国鉄の分割民営化は中曽根元総理のリーダーシップがあったからこそ実現できた。その結果が鉄道の今日の発展につながっており、大変大きな功績を残された」とのコメントを出した。

 民営化は、水膨れした官業を見直し、効率的な「小さな政府」をめざす行政改革の看板政策だった。赤字体質に陥った「親方日の丸」の独占事業に競争原理を導入し、サービスの向上や料金の引き下げを図るねらいがあった。

 「小さな政府」路線は、自民党政権が戦後、産業保護に力点を置いてきた経済政策を転換し、民間の活力を重視することも意味していた。「盟友」と言われたレーガン米大統領や、サッチャー英首相と足並みをそろえ、西側社会で新自由主義的な潮流をつくった。

 一方で、中曽根政権の政策が、その後のバブル経済を生む要因になったとの批判もある。日米の貿易摩擦を受けて、円高ドル安に誘導するプラザ合意を受け入れた。その後の「円高不況」への対応が地価高騰を招き、やがてその暴落、日本経済の長い停滞へつながったという指摘だ。中曽根氏自身も、96年の朝日新聞のインタビューに、後代の金利政策の責任を指摘しながら「そういう芽を作ったことは否定できない」と語っていた。(木村和規、初見翔)

 ■日米関係「ベース築いた」

 「戦後政治の総決算」を掲げ長期政権を率いた中曽根氏について、政界からは内政・外交ともに大きな政治課題に向き合ったと評価する声が上がった。

 中曽根氏は若手議員のころから憲法改正を掲げ、議員を引退した後も唱え続けた。こうした姿勢を評価する安倍晋三首相は29日、「中曽根先生は一貫して憲法改正の必要性を強く訴えてこられた」と語った。また、国民民主党の玉木雄一郎代表は「中曽根氏が言っている憲法改正の議論からすると、自民党内の憲法改正議論は非常に薄っぺらなものになっている」と、現在の自民党の改憲論議と比較した。

 政治家としての実績としては、政界でも国鉄民営化などの行革を挙げる声が多かった。

 自民党の二階俊博幹事長は「国鉄民営化をはじめ行政改革など国の方向性を決める大きな政治課題に取り組み、日米同盟の強化についても我が国の発展に尽くされた」と語った。

 中曽根内閣で官房副長官を務めた山崎拓元副総裁も「最大の実績は内政では国鉄民営化、外交では冷戦構造の解消だろう。日本列島改造論の田中角栄元首相と自主憲法制定・日本の真の独立を唱えた中曽根さんは、戦後復興の車の両輪でした」と述べた。

 外交政策では、冷戦構造の中で日米関係重視の姿勢に一層かじを切ったのが、中曽根外交の特徴の一つだった。一方で、「日本列島を不沈空母のようにする」といった発言が物議を醸したこともあった。

 中曽根氏が衆参同日選に打って出た1986年衆院選で初当選した石破茂・元幹事長は、今の日米関係について「ベースとなったのは(レーガン米大統領との)ロン・ヤス関係だった」と指摘。「日米同盟の基本は軍事同盟で協商関係ではない。その本質を見極め、米国が世界戦略を展開するにあたって日本の存在はなくてはならないことを明確に認識した関係がその後も続いた」と述べた。

 野党の政治家も相次いでコメントをした。共産党の不破哲三前議長は「政治的に対立する立場にあったが、率直な討論のできる政治家だった」との談話を出した。立憲民主党の枝野幸男代表は、「私の立場からは良かった点悪かった点色々ありますが、日本の歴史に大きな足跡を残された」と語った。

 ■<評伝>「国家」「改憲」ロマンの政治

 中曽根康弘氏の101年の生涯の夢は「憲法改正」だった。自民党が結党50年で「新憲法草案」をつくったとき「よくぞここまできた」と感慨深げだった。

 彼の世代の原体験は、戦前の旧制高校のロマンと戦争の悲惨さである。放歌高吟、高下駄(たかげた)の青春に読んだカントの「天上の星、内なる道徳律」を年を重ねても折々語る青臭さ。だが、時代は「大東亜戦争」に突き進んで東大から海軍エリートとなって南方の戦場で部下の亡骸(なきがら)を焼く。

 「敗戦は民族の恥」と感じた27歳の中曽根氏が矛先を向けたのは国家指導者のだらしなさである。「赤旗と戦う」ため内務省の退職金で買った「白い」自転車に乗って衆院選挙に打って出る。56年7カ月の衆院議員、5年の首相を務めた稀有(けう)の戦後政治家の脳裏にあったのは、常に「国家」であり「国家再建」だった。

   平和民主の名の下に
   占領憲法強制し
   祖国の解体計りたり

 若き中曽根氏は「憲法改正の歌」を作詞したほどだったけれども、戦後の「平和民主」はことのほか民衆に定着した。「そこには戦前の官憲の圧力に懲りた民衆の悲哀がある」と気づかされた中曽根氏は、憲法改正は長期戦略として考えるようになる。
   参考のため
   憲法改正の歌 (中曽根康弘 作詞)
   <https://blogs.yahoo.co.jp/kdqdp468/44132793.html>

 自民党戦国史といわれた派閥抗争はなやかな時代、「風見鶏」とあだ名された世渡りのうまさを発揮し、ロッキード事件で児玉誉士夫との関係をとりざたされて傷を負いながらも、「闇将軍」田中角栄に支えられながらついに首相となる。青年のころから俳句をたしなんだ中曽根氏のそのときの心境の句。

 はるけくも来つるものかな萩の原

 レーガン米大統領との蜜月、米軍事戦略との協力、国鉄民営化。「大統領的首相」をめざした中曽根政権は、後の小泉純一郎「改革」政権の先駆的時代だったといえるだろう。ただ、靖国神社参拝では中曽根氏は中国の反発に配慮して公式参拝を1度で取りやめた。「国益」重視か、個人の「情念」か、やはり中曽根氏の視座には常に「国家」がある。

 首相を退いた後も中曽根氏は日本政治で存在感を失わなかった。リクルート事件への関与でも世間を騒がせ、「汚職とか腐敗は民主主義の風邪のようなもの」という政治倫理観を語っている。小泉首相から議員引退を迫られて「政治テロだ」と怒ったりもした。靖国神社についてはA級戦犯の分祀(ぶんし)を主張して、晩年は単に回帰派ではない意外な開明性もみせた。

 毎年5月27日の中曽根氏の誕生日には日本の右派人脈を集める求心力を持ち続けた。中曽根氏にとって政治はロマンだった。「国家」こそロマンの核だった。彼の政治人生は「改憲」ロマンの物語だった。

 暮れてなほ命の限り蝉(せみ)しぐれ

 中曽根氏自身のこの句は、彼の人生を描いて不足がない。(元本社コラムニスト・早野透)

 ■中韓でも功績評価

 中曽根氏の死去は海外でも大きく伝えられた。韓国の聯合ニュースは「日本の右派勢力の『筆頭』」との記事を配信。「日本の政治家が靖国神社に参拝する道を開いた」とした。保守系の朝鮮日報は「日本政界で最高の『韓国通』」と報道。1983年に戦後の首相として初めて訪韓した際、全斗煥(チョンドゥファン)大統領との懇親会で歌謡曲「黄色いシャツ」を韓国語で歌ったエピソードを紹介した。

 中央日報も83年の訪韓の際、夕食会のあいさつの3分の1ほどを韓国語で行ったことを紹介。中曽根氏が「お風呂に入る時も韓国語学習のためテープを回し、スーツの内ポケットにしのばせた単語カードを取り出しては韓国語の勉強に熱中していた話は有名だ」とした。

 中国外務省の耿爽副報道局長は会見で「対中友好協力に熱心で中日関係の発展に重要な貢献を果たした」と評価した。80年代は靖国神社参拝や歴史教科書の問題はあったが、中曽根氏と胡耀邦共産党総書記の個人的信頼関係が強く、関係は全体として良好だった。

 米国でもニューヨーク・タイムズは「世界の舞台で評価された数少ない日本の首相の一人」とし、レーガン元米大統領との交友などを報道した。(ソウル=神谷毅、北京=冨名腰隆)

39面=悼む声
生涯政治家、断行と反発 ロン・ヤス舞台、自ら草刈り

 半世紀以上にわたって戦後政治に携わってきた中曽根康弘元首相が101歳で死去した。憲法改正を悲願に掲げ、靖国神社の公式参拝や国鉄民営化では強い反発も受けた。一方で「庶民派」と評される一面も。その足跡に触れた人は、どう受け止めたのか。▼1面参照

 「絶対に偉ぶらない。汗をかいて庭を整備したり、お孫さんとプールで遊んだり、普通の方でした」

 中曽根氏がレーガン米大統領と会談した日の出山荘(東京都日の出町)の管理人、原清さん(80)は振り返る。1962年、中曽根氏が空き家だった農家を購入。ツツジやサルスベリを植えたり鎌で草刈りをしたりして、自ら整備したという。「茶室に座り、じっと庭の風景を眺める姿が印象的だった」

 レーガン大統領は83年に山荘を訪れた。中曽根氏は「大統領に本当の日本の姿を見せたい」と語ったという。茶室で茶をたて、おそろいのちゃんちゃんこ姿で、大統領と「ロン」「ヤス」と呼び合った。原さんには「2人の絆」と映った。

 議員を退いた後、月1回程度訪ねてきていた。2006年に町に寄贈してからも、日帰りで来訪。最後は一昨年、東京都あきる野市にある妻蔦子さんの墓参りの帰りに寄り、懐かしそうに周囲を見渡していたという。

 「暮れてなほ 命の限り 蝉(せみ)しぐれ」。茶室「天心亭」には、生涯現役を掲げた中曽根氏の句が掲げられている。町は30日から1週間、山荘を無料で開放し、献花台を設ける予定だ。

 群馬県高崎市の材木商の家に生まれ、47年の衆院選で初当選。中選挙区制の旧群馬3区で、故福田赳夫元首相、故小渕恵三元首相らと「上州戦争」と呼ばれる激しい選挙を戦い、20回の当選を重ねた。

 市内にある拠点「青雲塾」には元秘書や知人らが弔問に訪れた。秘書を約20年務めた元高崎市議の田中英彰さん(72)は「先生はタカ派と言われるが、むしろ『二度とあんな戦争をしちゃいけない』と外交の脆弱(ぜいじゃく)さを憂えていた」と話した。

 ■靖国初参拝・「国労つぶし」

 悲願だったのが憲法改正だ。70年代前半に秘書を務めた柳本卓治・元参院議員(75)は、中曽根氏から国家観や歴史観を持つことの大切さを教えられ、参院憲法審査会長として憲法改正の後押しをしたという。

 取材を通じ親交を深めたという渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆(93)は追悼のコメントを出し、「私にとっては親の死と同様のショックです。毎週土曜日に読書会をして、良書を読みあさった。夜2人で酒を飲むときも、話題は読書の話、政治の話ばかりだった。あのような勉強家、読書家は他に知らない」とつづった。

 戦後の首相としては85年に初めて靖国神社を公式参拝した。

 首相の靖国参拝に反対する「政教分離の侵害を監視する全国会議」で常任幹事を務める小池健治弁護士(86)は、参拝する中曽根氏の厳しい表情が目に焼き付いている。「信教の自由や政教分離をないがしろにした歴史上最も遺憾な出来事の一つ」。参拝は中国や韓国の反発を招き、翌年以降は参拝を見送った。

 一方、見送ったことを逆に「裏切り」として、朝日新聞阪神支局襲撃事件を起こした「赤報隊」を名乗る脅迫状が送りつけられたこともあった。

 肝いりの政策だった国鉄の分割民営化で切り捨てられた人もいた。

 国鉄労働組合(国労)の組合員らは87年のJR発足の際に不採用とされ、90年に国鉄清算事業団も解雇された。約20年にわたり職場復帰を訴え続けた神宮義秋・元国労闘争団全国連絡会議議長(71)は、国鉄改革が「国の形」を変える壮大な仕掛けの原点だったと映る。労使関係も変わり、労使協調が社会の主流になった。その端緒も国鉄改革だったと考える。「その後の郵政改革、省庁再編などで官公労はおしなべて沈黙。国労つぶしの見せしめ効果は絶大だった」と振り返った。



 12 02 (月) 戦後保守の巨星堕つ     その功と罪

2日、私より10歳年長だったことと、東京帝大卒だったことが分かった。 ロン・ヤスが報道されたとき、彼は終戦のとき軍籍では海軍の駆逐艦の艦長だったように思っていた。 けれどそれは事実なのか調べようとして、中曽根康弘の軍籍を検索してみた。 軍籍については、見つけることができなかった。

けれども、最初のデータを開いてみて驚いた。 朝日新聞で読んだ内容とは内容の質、格が違う。 この内容を知らなくては話にならないと思った。 それを載せる。

Yahoo!Japanニュース  11/30(土) 6:34
 中曽根康弘元首相-その功と罪
   古谷経衡・文筆家/著述家
   https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20191130-00153016/

【画像】中曽根元首相(2005年)(写真:ロイター/アフロ)

 2019年11月29日、戦後7位の長期政権を運営した中曽根康弘元首相が逝去した。享年101歳。中曽根政権といえば、「三公社民営化(国鉄→JR、電電公社→NTT、専売公社→JT)」と、日米同盟の強化、とりわけ「ロン・ヤス」関係、さらに「戦後政治の総決算」スローガン、「不沈空母」発言を真っ先に思い浮かばれる方も多かろうと思う。

 また、タカ派で保守政治家としてのゆるぎない政治信条から、現在でもその評価は、評価者の立ち位置によって激しく分れている。

 ここでは、中曽根氏の政治家としての一貫した姿勢である「保守」の立ち位置に特にスポットを当て、その「功と罪」を振り返りたい。

【1】「保守・タカ派・改憲論者」の政治家として

 中曽根氏は1918年、群馬県高崎市の材木商の息子として生まれる。幼少時から秀才として知られ、静岡高校(現静岡大学)を経て東大法卒で内務省に入り、海軍主計中尉として任官され、現役時代は南方作戦に従事し、フィリピン、蘭印(現インドネシア)の作戦に従軍する。この時、乗船中の艦艇にオランダ・イギリス両軍からの直撃弾を受けるが、本人は無事であった。

 よく中曽根氏は内務省→海軍主計という経歴の持ち主だから戦場経験は無い、と誤解されがちだがそれは事実ではなく、一歩間違えれば戦死の修羅場を生還している。事実、中曽根氏には弟が居たが戦死しており、これが後年、中曽根氏をして靖国神社参拝の動機のひとつに至らしめたという。

 戦後、内務省を辞し、1947年の第23回衆議院選挙で立候補して初当選。ここから連続20回当選をして内閣総理大臣に登り詰める政治家・中曽根康弘が誕生するが、中曽根氏は当初から「改憲・再軍備・日米安保条約反対」のタカ派論者として知られた。

 政治家・中曽根康弘氏を理解するうえで教科書的決定版だと筆者が考える『中曽根康弘-「大統領的首相」の軌跡』(服部龍二著、中公新書)より以下引用する。
一国の防衛の基本は、自らの意思で、自らの汗でやるべきです。いずれアメリカと同盟するにしても、日本は相応な再軍備をして、できるだけアメリカ軍を撤退させ、アメリカ軍基地を縮小しなければならない。さもないと日本は、永久に外国軍隊の進駐下にあり、従属国の地位に甘んじなければならない

出典:『中曽根康弘-「大統領的首相」の軌跡』服部龍二著、中公新書

中曽根は民主党総務会で「このような屈辱的条約(日米安保条約)に、われわれは責任を分担できない。アメリカは無差別爆撃で日本国民にたいへんな損害を与えた。われわれは、アメリカに賠償を要求すべきだ」と語気を強めた

出典:前掲書、括弧内筆者

中曽根は自派の会合などで「自主防衛」を説いた。「終局的には米国の核と第七艦隊以外は自主防衛にすべきで、そうでなければ安保条約は一九七五年ごろには情勢次第でやめるなど弾力的に考えるべきだ」

出典:前掲書、強調筆者

 このように当選当初から中曽根氏は、強硬な対米自立論をぶつ姿勢であり、この姿勢は中曽根氏が当選1回目から生涯、貫き続けた思想信条でもある。

 おりしも、時局は日本の講和と国際社会への復帰(サンフランシスコ講和条約)が実現され、同時に片務的な日米安全保障条約が締結された時代である。時の吉田茂内閣は、「軽武装、経済重視」の吉田ドクトリンを採用し、それが長らく日本では「保守本流」としての立ち位置として受け入れらたが、中曽根氏は当初から反吉田の旗色を鮮明にして、「憲法改正、自衛軍(国軍)の保持、自主防衛(対米自立)」をぶった。

 この世界観は、戦後日本の保守政治家の基軸である「親米保守」の流れからすると非主流であり、実際に中曽根氏は自民党の派閥的にも非主流であり続けたのだが、やがてこういった「改憲・対米自立・自主防衛」は、概ね1970年代になると「新右翼」と呼ばれる既存保守(親米保守)への対抗軸として本格的に登場し、「YP(ヤルタ・ポツダム)体制打破」の気勢へと繋がっていく。

 このような「保守本流」への対抗軸として、対米自立・憲法改正を中心とする「新右翼」の発想は、代表的なところでは石原慎太郎氏の『NOと言える日本』(1989年、ソニー会長・盛田昭夫との共著)に接続していき、やがて日本に於ける「新右翼・対米自立論者」の立ち位置の中核的存在と言えるまでなった。中曽根氏は明らかにこの「非主流派としての保守(当人は反吉田を意識して、”革新保守”と自称した)」の中心にいたことは間違いはない。

【2】日米同盟深化と対米自立の矛盾

 しかしながら、中曽根氏のこうした「改憲・対米自立・自主防衛」の強力でゆるぎない世界観は、中曽根氏が歴代内閣で科学技術庁長官、防衛庁長官などの要職を歴任して1982年に総理総裁の座を射止めると、筆者が冒頭で記したように、日米同盟の強化、とりわけ「ロン・ヤス」関係など、アメリカとの関係強化に腐心した事実と大きく矛盾するのではないか、という疑問が生じる。

 要するに、日本の防衛力を高めようとアメリカに接近すればするほど、自衛隊はアメリカ軍と一体となり、対米自立・自主防衛の理想からは遠ざかる、という矛盾にぶち当たるのだ。とりわけ現代の電子戦においては、兵器をコントロールするソフトウェア等のコア部分をアメリカの技術が握っており、日米安保がある限り、幾ら自衛隊の装備を拡充してもアメリカの傘下から脱却するどころか、むしろ依存の度合いが高まる―という理屈もある。

 果たして1982年に総理大臣になった中曽根氏は、自らの持論である「対米自立・自主防衛」と日米同盟強化にどう折り合いをつけたのであろうか。結論から言えば、この矛盾を放置したまま、中曽根氏は政権を竹下登に禅譲した。というより、中曽根政権にはそれ以外に選択肢は無かったとも言える。1982年はソ連がアフガニスタンを侵攻している真っ最中であり、1980年には西側諸国によってモスクワ五輪がボイコットされたばかりであった。

 当時の国際情勢からすると、土台日本が米国の庇護を外れて自主防衛をするなどという選択肢はあり得なかったのである。そして、改憲-憲法改正をして自衛軍を創る、という機運も、国民世論としてはまったく盛り上がっていなかった(―現在でも、盛り上がっているかどうかは疑わしいが)。

 そこで、中曽根氏を含め当時の新右翼は、「二段階自立論」ともいうべき対米自立構想をぶった。それは、

1)まずアメリカの庇護の元、自衛隊戦力の増強に努める

2)自衛隊戦力の増強が十分にかなったところで、一挙に憲法を改正して自衛隊を自衛軍に移行し、自主独立を達成する

 という二階建ての構想である。事実、中曽根氏は政権担当時代、1)の課題に専心した。それまでの内閣(三木武夫以降)、防衛費をGNPの1%枠に抑えるという政策を撤回し、政権担当時代に防衛費は1%をわずかにだが突破した。が、それはあくまで政治的なパフォーマンスであり、飛躍的に自衛隊の戦力を高める、という中曽根氏の世界観の達成には程遠かった。

 また2)の将来の自主独立に備えて、中曽根氏は防衛庁長官時代(佐藤栄作内閣)に核武装の研究を指示していた。
中曽根は、表向きに「非核中級国家」を標榜しつつも、防衛庁内では別の行動をとる。核武装の可能性について、防衛庁の技官らに研究を指示したのである。その結論は、二〇〇〇億円で五年以内に成算ありというものだった。難点は国内に核実験場がないことである。中曽根は、「広島・長崎の惨害を受けて、非核志向を提示すること自体は悪くないが、国際的には日本にも核武装能力があるが持たないという方針を示すほうが得」と判断していた

出典:前掲書

 これが偽らざる中曽根氏の本心であった。が、こういった日本独自の核武装は今でこそ、与党野党を問わず国会議員が「議論の余地あり」と言うに憚らないが、中曽根時代には全くのタブーであった。よって中曽根氏が総理総裁になってから、日本の核武装に言及したことは一度もない。

 が、このようなタカ派的な世界観を、中曽根氏は一貫して持ち続けた。そしてそれは全く達成できなかったにせよ、日本の新右翼に大きな影響を与えた。中曽根氏が科学技術庁長官として、原子力発電(核の平和利用)の推進に腐心したことは、この潜在的核武装論ともいうべき世界観と密接に関係している。

 日本国内に商業発電用であれ濃縮ウランを保有することは、将来の日本の自主独立の為に有効であるという世界観は、新右翼の中ではほぼ共通の諒解事項となっている。であるから、「3.11」以降、所謂「保守派」が原発推進に拘ったのは、この潜在的核武装論が影響している。

 しかしながら、商業用の濃縮ウラン(プルトニウム)は、核兵器向けのプルトニウムとはその純度が異なることから、商業原発を幾ら建設しても核兵器製造とは無関係、という見解もある。いずれにせよ、中曽根氏は日本の核武装を防衛庁長官として研究させていた潜在的核武装論者だったが、それは総理総裁時代にも達成できずに終わっている。

 この構想が、「非核三原則を踏みにじる危険な発想」か、はたまた「日本の自主独立にとっての下準備」(―そもそも自主独立の前提が核保有という発想で正しいのかという議論はさておき)と見做すかは、後世の歴史家の評価が分かれるところであろう。

【3】中国、韓国との友好関係構築の功績

 中曽根氏には、戦前のアジア主義者的世界観が色濃く見える。それは中曽根政権の周辺国との外交関係の構築実績に顕著に証明されている。中曽根氏は日米の1国対1国の安保関係よりも、アジア全体での集団安保体制を構想した。勿論、その構想は実現しなかったのだが、特に中曽根政権発足後、中曽根氏が重視したのは韓国との関係である。

 当時、日本の首相で韓国を公式訪問した人間はおらず、中曽根氏は政権発足後、初めての訪問国として韓国を選んだ。ここで中曽根氏はまだ軍事政権であった韓国の全斗煥大統領と会談。前掲書から当時のエピソードを引用する。
 晩餐会では、全(斗煥)が中曽根の訪韓を「文字通り記念碑的なこと」と挨拶している。中曽根は「(日本が韓国に対して)不幸な歴史があったことは事実であり、われわれはこれを厳粛に受け止めなければならない」と述べ、今後は「互いに頼りがいのある隣人となることを切に希望する」と表明した。このスピーチで中曽根は、韓国語を多く交えた。中曽根が韓国語で話し始めると、韓国要人は驚いて耳を傾け、涙ぐむ者も多かった。

 中曽根は晩餐会後も深夜まで、全と青瓦台、つまり大統領官邸の一室で懇談した。首相秘書官だった長谷川和年によると、全は「ナカソネさん、オレ、アンタニホレタヨ」と日本語で述べたという。

出典:前掲書、括弧内筆者

 また、第三次内閣では蜜月の対韓関係に配慮して、日韓併合に関して不適切な発言を行った藤尾文部大臣を即座に罷免している。
藤尾発言とは九月一〇日発売の『文藝春秋』一〇月号で、韓国併合については韓国側にも責任はあったと述べたものである。中曽根は校正刷りの段階で原稿を入手し、発売日前の九月八日に藤尾を罷免した。

出典:前掲書

 「日韓併合は合法で日本は朝鮮半島を植民地支配していない」などのトンデモ言説が与党国会議員のレベルでまかり通る現在では考えられないかもしれないが、当時の中曽根氏は本当にこういう事を躊躇なくやった。

 一方中国との関係では、中曽根氏は一貫して日中友好論者であった。それは所謂戦前(殖産時代)のアジア主義が、中国を盟主とするアジア人の共同体的世界観であったからである以上に、当時の国際情勢が影響していた。中曽根氏は強烈な反ソ・反共主義者で、当時「中ソ対立」で同じ共産国のソビエトと対立する中国を「敵の敵は味方」と考えていた節が濃密にある。だが、外交的利害が一致したにせよ、中曽根氏が中国を単なる利害関係を超えた親しみを以て捉えていたことは事実である。

 こちらも前掲書からの中曽根氏の訪中時のエピソードを引用する。
 第二次内閣で中曽根は、最初の訪問先に中国を選んだ。胡耀邦総書記が一九八三年一一月に来日したとき、中曽根は訪中を要請されていたのである。(中略)

 円借款については、注目すべき発言があった。中曽根は二四日、「対中経済協力につき謝意表明があったが、かえって恐縮しており、対中協力は戦争によりにより大きなめいわくをかけた反省の表れであり、当然のことである」と胡に述べたのである。円借款は中国の賠償請求放棄と公的には無関係なだけに、「反省の表れ」という発言は大胆といえる。胡は中曽根夫妻、長男の弘文夫妻らを中南海の自宅に招いて会食した。テーブルには、中曽根の好物である卵焼きと栗きんとんが並べられていた。李昭夫人、二男の劉湖や孫なども加わり、中曽根と胡は家族ぐるみで親交を深めていく。(略)

 秋には胡が日本の若者三〇〇〇人を招待するなど、一九八四年は数千年に及ぶ日中関係史で最良の年といわれた。中国の存在がまだ巨大でなかったにせよ、日中提携と対米協調を両立できた指導者は、日本外交史をたどっても多くない。

出典:前掲書

 このように、中曽根政権下、自らの靖国神社参拝(1985年)で中韓から抗議を受けたにせよ、中曽根政権下では中国・韓国との関係が蜜月であったことは特筆に値する。

 中曽根以降、ゼロ年代以降の「保守」が、急速に「嫌韓・反中」一色になり、或いは「嫌韓・反中」さえ言っていれば「保守である」と自称するに憚らない昨今の「保守」と、中曽根時代の「保守」は、隣国に対する目線はこれほど違うのである。このことは、後世の歴史家が中曽根氏の歴史的功績として高く評価してもよいのではないか。

【4】中曽根流「新自由主義」をどう見るか

 最後に、中曽根政権での内政での実績について。最も大きなものは冒頭で記した通り「三公社民営化(国鉄→JR、電電公社→NTT、専売公社→JT)」の是非についてである。これは中曽根政権下ですべて達成されたことであるが、これを以て現在でも、中曽根政権の評価は真っ二つに分かれている。

 つまり、中曽根政権での民営化路線は、小さな政府を志向した当時のレーガン(米)、サッチャー(英)に習う「新自由主義」の嚆矢として、現在でも賛否を含め様々な評価がある。だが、中曽根氏自身は「市場経済に任せておけばすべてうまくいく」という自由放任的経済観の持ち主ではなく、修正資本主義論者であった。修正資本主義とは、政府の介入・保護を前提とした資本主義体制を維持していくことであり、市場絶対主義とはまったく異なる。

 事実、中曽根政権は修正資本主義を前提に、福祉国家の理想を掲げた。ただし、この福祉国家への流れは田中角栄内閣で1973年に提唱された「福祉元年」の潮流を受け継ぐものであり、日本が高度成長を1970年代初頭に終え、以後安定成長に向かっていた日本社会では、誰が政権を担当しても「日本の掲げるべき目標」として違和感なく歓迎されていた事であり、中曽根政権特有の発想とか世界観では無い。

 さてこうした事実から、中曽根政権が取った民営化方針が果たして本当に「新自由主義」か否かには論争の余地があると筆者はみる。特に国鉄民営化について、当時、巨額の赤字を抱えていた国鉄が、中曽根以前から分割化の議論の対象になっていたことは事実である。

 また、国鉄民営化の真の狙いは、強大な権力を誇った国鉄労組の解体と、その支持母体である社会党の弱体化を狙ったものであると中曽根氏自身が語っており、真に「新自由主義的理念」に基づいてこれらの民営化がなされたのかどうかは、議論の余地があるだろう。むしろ今となっては政治的な目的が強かったと言える。

 こうした政治家・中曽根氏の実績を、「功」とみるか「罪」とみるかの分析は、一概に答えが出るものでは無い。しかし少なくとも筆者は、中曽根氏は「対米自立」という、反吉田の保守非主流から出発した「戦後保守」の典型的な巨星として、よく言えば国家観、悪く言えば民族主義的野心を内在した存在として、現実世界との矛盾に懊悩しながら良く時代を乗り切った宰相とみる。なぜなら現在の政治家には、少なくともこの「日米同盟深化と対米自立の矛盾」という懊悩すら、存在しないように思えてならないからだ。

【5】矛盾を内包した「戦後保守」、中曽根康弘

 「戦後保守」とはこのように、自己矛盾を内包しながら常にあるべき国家観と現実との落差の中で右往左往している存在であった。だからこそ、中曽根氏が当時「風見鶏」と揶揄されたのは、肯定的にとらえれば何ら違和感はない。このような懊悩すらない保守の政治家が繁茂している情勢こそ、保守にとっては痛打の筈だが、現在では迷わず、一直線にアメリカに追従することが国益と、ストレートに開陳することを憚らない政治家が多くなったように思う。戦争体験者の不在と戦争の記憶の風化が、政治家をして(―政治家ばかりではなく保守と名乗る言論人や学者が)直情的な対米追従に向かわせしめているのではないか。

 中曽根氏はその個人的な対米自立という世界観を、政権担当中実現させることは出来無かった。それは冷戦時代という国際情勢がそうさせたのであり、中曽根氏がいかに一国の宰相とはいえ、どの道に転んでも実現は不可能であった。事実、中曽根氏があれほどこだわった憲法改正は今日に至るまで全く実行されていないし、実行する世論の沸騰もない。

 「中曽根時代(1982~1987)」は、日本が世界に冠たる第二位の経済大国として、世界各国に瞠目するべき影響を与えた、まさに「日本文明の黄金時代」であった。その後、日本はバブル景気の絶頂を迎え、そして1997年を境に急速に経済は沈んでいく。それ以降の時局は、まさに語るべくもない。世界の成長とアジア各国の進展を横目に、日本は一方的に沈んでいく。

 中曽根氏が想ったその「保守」の形が、現在とは全く異なるものであったことは歴史的事実として刻み付けるべきだと筆者は思っている。中曽根的な保守の宰相が、この国に再び現れるかどうかと問われれば、個人的にはNOだ。故人の御霊に合掌したい。(了)

・古谷経衡 文筆家/著述家

1982年北海道札幌市生まれ。文筆家。日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』(コアマガジン)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『戦後イデオロギーは日本人を幸せにしたか』(イースト・プレス)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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