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【 08 】12/26~
・北風磯吉…朴訥を貫いたアイヌの偉人
拝金族の因果応報
・中国企業側「賄賂の金必要」 秋元司氏への現金の狙いか
12 26 (木) アイヌとGHQ~マッカーサーの神棚の謎~ 神への祈り
今日の午後NHKテレビをみていて、下記の番組に幸運にも出会いました。
北海道スペシャル >
「アイヌとGHQ~マッカーサーの神棚の謎~」
https://www.nhk.or.jp/sapporo/program/b33/7e37ffdd2/
むかし、神稲中学に奉職していた時にアイヌの人たちを招いて風習を学んだことがあった。 学校日誌に記録してあるはずである。
それとは別に、戦時中今でいえば高校二年の年代になるが、釧路の鶴居村で岡田国男さんの家へ四カ月近く勤労奉仕でいったことがあり、お盆を兼ねて雌阿寒岳、阿寒湖へ行ったことがありました。 阿寒湖畔で宿泊し、アイヌのお店で小さい熊の彫りものをお土産に買ったこともあった。 今考えれば、初めてアイヌ人に出会ったことになる。 今でも写真で見ても男性はみんな頬から顎かけて濃い髭があるが、これは大きな印象になっていた。
退職後妻と日産のキャラバン車で北海道一周の旅に出かけた。 白老も行程に入れていて立ち寄ったけれど観光以外のことは学ぶことはなかった。
こんなわけで、テレビの北風磯吉が昔長野図書館で見たアメリカの歴史書に掲載されていた東郷平八郎元帥の面影をしのばせた重厚な気品を感じた。 だから 「アイヌとGHQ~マッカーサーの神棚の謎~」 で見た 「北風磯吉」 が何故~マッカーサーの神棚の謎~と関係があるのか、好奇心を引き起こしたのである。 とどのつまりは、GHQKの文書の中に彼に関した記事があって、それがアメリカの公文書館にあることが最近知らされることになり、それを歴史家は見逃すことなく調べたことが分かったのである。
歴史学雌雄は温故知新のための学びが目的だとすれば、歴史の真実を知ることは私たちにとっては大事な学びになるのです。 ですから、特別に「折々の記」の一ページにしたわけです。
まずNHKを調べたが手がかりはない。 次に「北風磯吉」をみると、出てきたのです。 NHKWでは、出演者として
・ 北風磯吉研究者…佐藤幸夫
・ 北海学園大学名誉教授…藤村久和
・ 一橋大学名誉教授…森武麿
の三人を紹介しているから、「北風磯吉」に続いて調べる予定でいます。
上川郡下川町上名寄 しもかわ観光協会 2019-05-09
北風磯吉
下川町 北風磯吉生誕の地 | 北海道応援のブログ
https://ameblo.jp/nomaru1256/entry-12460068020.html
上川の由来は、アイヌ語の「ペニ・ウングル・コタン」(川上の人々の集落)を訳したものである。
下川町の由来は、アイヌ語で名寄川支流パンケ川の沿岸を「パンケ・ヌカナン」(川下の・ヌカナン川)と称していたことから、意訳して「下川」とする。
上名寄の由来は、アイヌ語の「ナイ・オロ・プト」(渓流に注ぐ口)。名寄川が天塩川に注ぐ様子から。名寄川の上流に位置することから付いた。大正末期から下川村(現下川町)の行政字である。
下川町市街地の国道239号線と道道101号下川愛別線の交差点から名寄方向に約3.9kmの交差点を右折し、約1.2km矢文橋(名寄川)を渡って、左折し約350mほど右手。
北風磯吉氏は、名寄地方のアイヌの伝承者でもあり、地元に貢献した功労者でもある。
天塩国上川郡上名寄村15線キトウシヌプリ付近(現・上川郡下川町上名寄)で生まれる。その後1898(明治31)年5月名寄町内淵(現・名寄市内淵)に移り住み農業に従事する。
1900(明治33)年12月には札幌月寒歩兵第廿五聯隊第二大隊第五中隊に入隊。
1903(明治36)年には満期となり除隊する。
1904(明治37)年8月旭川第七師団に豫備役として入隊し、日露戦争に従軍。11月には敵陣に前進中に左腕に敵弾を受ける。白襷決死隊に参加する。
1905(明治38)年4月には北海タイムス(現・北海道新聞社)に、北風磯吉翁の武功を讃える記事が掲載される。6月満州から帰還し、その後功七級金鵄勲章、年金百円、白色桐葉章、従軍記章を受章する。帰還してから、名寄の小学校に学用品を寄贈する。除隊してからは農業に従事し、冬は造材夫として働いた。
他にも、名寄尋常高等小学校所属内淵特別教授場を設置するに対して、敷地を寄付する。校舎建設費として50円を寄付するなど地元に貢献した。
1941(昭和16)年名寄町日進10線にて、坂本忠夫氏に雇われて炭焼きをする。冬には造材夫として1950(昭和25)年まで働く。この頃名寄地方のアイヌ伝承者として認められ、多くの研究者の調査などに協力する。
1953(昭和28)年、6月身寄りのなかった磯吉氏は旭川清和園に入園する。身の回りの物以外は郷土史家の神山元氏に託す。
1969(昭和44)年、2月肺結核の為逝去する。
この標柱は、佐藤正克越冬之地碑を探していて、たまたま見つけたものでラッキーだったとしか言えない。ちなみに磯吉氏が所有していた遺品・民俗資料は名寄市に寄贈され、北国博物館で一部展示されている。
住所 名寄市字緑丘222
TEL 01654-3-2575
開館時間 9時~17時・入館は16時30分まで
休館日 毎週月曜日、年末年始
入館料 大人220円、高校生以下無料
上名寄地区は、1888(明治21)年名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画が設定される。1897(明治30)年6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる(現・下川町は上名寄村に属す)。
1899(明治32)年5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。下川地区区画測量行われる。
1900(明治33)年上名寄村に山形団体が入植。越中・相馬団体入植する。
1901(明治34)年岐阜県郡上郡高鷲村・北濃村(現・岐阜県郡上市)から25戸が、上名寄原野16線~19線に集団移住し、開拓元年となる。
1902(明治35)年4月剣淵戸長役場より分離し、上名寄村他二ヶ村(多寄、下名寄)戸長役場を設置する。上名寄に岐阜団体第二陣が到着する。八丈団体が11線~15線に入植する。10月名寄~下川間に仮道路ができる。
1904(明治37)年北見街道の名寄~紋別間が完工する。6月上名寄19線に簡易教育所設置する。児童数は30名。上名寄19線に小祠を建立し天照皇大神を奉斉。17線に布教所(東本願寺派)ができる。
1907(明治40)年上名寄23線に下川簡易教育所を設置する。
1908(明治41)年8月下川簡易教育所を下川尋常小学校に改称する。
1909(明治42)年二級町村制が施行。上名寄村が誕生する。
1915(大正4)年11月一級町村制が施行され、上名寄村が名寄町となり属する。
1919(大正8)年10月名寄線として名寄~下川間の鉄道が開通し、上名寄、下川の各駅を新設する。上名寄と下川の駅周辺に市街が出来る。駅前には運送店・倉庫・待合所・旅館・商店などが立ち並ぶ。この頃冬には造材人夫として働くことで農家にとって大事な収入源となった。
1924(大正13)年1月名寄町から分村、二級町村制が施行され上川郡下川村となる。
1926(大正15)年11月上名寄にサケ・マス孵化場設置する。
1928(昭和3)年上名寄に電灯点く。
1930(昭和5)年上名寄に貯水池出来る。
1949(昭和24)年3月町制施行し下川町となる(下川町上名寄となる)。
1979(昭和54)年9月上名寄地区用水施設工事着工する。
1984(昭和59)年、4月字名、地番の改正が行われる。
下川町史第1巻~第4巻より
(下川町史第1巻~第4巻参考)
西暦 日本歴 主 な 社 会 変 化 1798 寛政10 幕府の属僚、武藤勘蔵らが天塩川を遡り上川に来る。(蝦夷日記) 1800 寛政12 間宮林蔵が、松前蝦夷地図作成のため天塩川を遡る。 1807 文化4 近藤重蔵らがオホーツク沿岸から名寄川上流に出る。 1859 安政4 松浦武四郎が天塩川流域を踏査し、名寄川およびサンル川まで至り、のちに天塩日誌を著す。 1869 明治2 蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定める。手塩国に6郡が設けられる(増毛、留萌、手塩、上川、中川、苫前)。8月天塩地方は水戸藩領となる。 1871 明治4 天塩一帯の支配は水戸藩から開拓使に移る。 1872 明治5 宗谷支庁の管轄化になる。開拓使宗谷支庁中主典の佐藤正克が名寄川を拠点に翌年まで越冬、名寄付近の実情調査を行い、闢幽日記を著す。 1882 明治15 開拓使廃止され、札幌県に属す。 1886 明治19 4月北海道庁を設置する。 1888 明治21 名寄川沿原野(名寄原野)に殖民区画が設定される。 1897 明治30 5月天塩道路(現・国道40号)旭川から着工する。6月増毛支庁管内の天塩国上川郡に剣淵、士別、多寄、上名寄の各四ヶ村が置かれ、天塩戸長役場管轄になる。(現・下川町は上名寄村に属す) 1899 明治32 5月天塩国上川郡を上川支庁に編入し、剣淵、士別、多寄、上名寄を管轄し剣淵戸長役場を設置する。下川地区区画測量行われる。 1900 明治33 上名寄村に山形団体が入植。越中・相馬団体入植する。 1901 明治34 岐阜県郡上郡高鷲村・北濃村(現・岐阜県郡上市)から25戸が、上名寄原野16線~19線に集団移住し、開拓元年となる。 1902 明治35 4月剣淵戸長役場より分離し、上名寄村他二ヶ村(多寄、下名寄)戸長役場を設置する。上名寄に岐阜団体第二陣が到着する。八丈団体が入植する。5月ニの橋に新潟県人、谷庄三郎が入地する。10月名寄~下川間に仮道路ができる。 1903 明治36 9月天塩線(現・宗谷本線)の士別~名寄間が延伸開業し、多寄駅、風連駅、名寄駅を新設する。 上名寄~興部間の道路開通する。藤原次郎左衛門が水稲の試作に成功する。パンケヌカナン駅逓、シカリベツ駅逓が開設され付近に商店が出来る。下パンケ地区の開拓が始まる。 1904 明治37 北見街道の名寄~紋別間が完工する。6月上名寄19線に簡易教育所設置する。上名寄19線に小祠を建立し天照皇大神を奉斉。 1905 明治38 2月パンケヌカナン駅逓を下川駅逓に、シカリベツ駅逓を一の橋駅逓に改称する。4月天塩線が官設鉄道に移管となる。 1906 明治39 下名寄(現・美深町)が上名寄戸長役場から分離する。3月下川郵便局が開設される。この頃から下川の木材流送が始まる。 1907 明治40 4月下名寄・中川のニ村を割き、上名寄他一ヶ村戸長役場を設置する。23線に下川簡易教育所を設置する。一の橋に村上貞次郎入植する。山火事が起こり上興部の境まで延焼する。砂金ブームとなり下川の各沢で採取・発掘される。澱粉工場が稼働する。 1908 明治41 8月下川簡易教育所を下川尋常小学校に改称する。珊瑠・二の橋特別教育所開設される。然別(一の橋)特別教授場開設する。 1909 明治42 4月戸長役場制が廃止となり多寄村が離れ、二級町村制が施行。上名寄村が誕生する。上名寄村風連別が多寄村に編入される。10月旭川~名寄間が天塩線と改称される。 下川医院が開業する。 1911 明治44 4月上名寄~羽幌間の鉄道建設運動がおこる。11月天塩線の名寄~恩根内間が延伸開業し、智恵文駅、美深駅、紋穂内駅、恩根内駅を新設する。一の橋からの造材が本格化し、夏季に名寄へ流送する。 1912 大正元 9月天塩線が宗谷線に改称となる。上パンケ八号以南の開拓が始まる。 1913 大正2 上パンケ神社建立する。 1915 大正4 11月一級町村制が施行され、上名寄村が名寄町となり属する。ペンケ地区に小作人が入地する。 1916 大正5 6月名寄電力発電株式会社設立する。谷井農場でパンケ御料地を借受ける。 1917 大正6 サンルにて寺島庄次郎が金の転石発見する。 1918 大正7 下川尋常小学校に高等科を設置する。合資会社下川木工場を設立する。名寄線の鉄道工事着工する。 1919 大正8 3月下川木工場を株式会社とし、ハネ材を利用して火力発電を行う。余剰電気を市街地にも供給する。9月名羽線(名雨線)の敷設運動始まる。10月名寄線として名寄~下川間の鉄道が開通し、上名寄、下川の各駅を新設する。宗谷線が宗谷本線に改称となる。上名寄と下川の駅周辺に市街が出来る。 1920 大正9 6月下名寄村から智恵文が分村し二級町村制施行する。10月名寄線、下川~上興部間の鉄道が開通し、一ノ橋・上興部の各駅を新設する。名寄女子職業学校(現・名寄市立大学短期大学部)が創設される。 1921 大正10 3月中湧別~興部間が名寄東線として開業する。名寄~上興部間を名寄西線に改称する。下川で米の試作が行われる。10月上興部~興部間が延伸開業し全通し、線路全通に伴い線路名を名寄線に改称する。一の橋も駅周辺に市街が形成される。 1922 大正11 下川分村運動が広まる。 1923 大正12 11月名寄線を名寄本線と改称。 1924 大正13< 1月名寄町から分村、二級町村制が施行され上川郡下川村となる。 1926 大正15 11月上名寄にサケ・マス孵化場設置する。12月珊瑠鉱山が三井鉱山株式会社による操業を開始する。 1928 昭和3 5月北海道バター工場(雪印乳業株式会社)開設する。一の橋に村上経木工場開設する。サンルに林木工場開設する。上名寄に電灯点く。 1930 昭和5 3月4月天塩線が宗谷本線に編入され、旭川~幌延~稚内港間が宗谷本線となる。それと同時に、音威子府~浜頓別~稚内間を分離、北見線(後の天北線)に改称する。8月下川診療所開設する。上名寄に貯水池出来る。 1932 昭和7 10月湧別線の遠軽~下湧別間を名寄本線に編入し、名寄本線(名寄~遠軽~中湧別~下湧別)とする。パンケ・21線・22線・新興地区の開拓始まる。 1933 昭和8 ペンケ落合沢にて浅沼関市氏が鉱石を発見し、今堀喜三郎が採鉱に着手する。三井珊瑠鉱業所に精錬所を建設する。桑の沢の開拓が始まる。御車沢に開拓者が入植する。一の橋に電灯が灯る。 1934 昭和9 名羽線(名雨線)の着工にかかる。山本貞二がサンル12線に木工場を建設する。 1936 昭和11 サンル軌道敷設する。 1937 昭和12 11月名寄~初茶志内間を名雨線として新規開業する。 1939 昭和14 森林軌道パンケ線開通する。 1941 昭和16 三菱鉱業株式会社(下川鉱山)による操業を開始する。 1942 昭和17 パンケ森林軌道を新設する。下川集乳所設置する。 1944 昭和19 三井珊瑠鉱業所金山廃鉱になる。 1945 昭和20 新下川鉱山に選鉱場完成する。開拓移民緊急入植。東京・横浜方面から開拓者が入植し、数年間続いた。 1946 昭和21 11月新下川鉱山選鉱場が全焼する。 1947 昭和22 パンケ地区が電化となる。 1948 昭和23 パンケ村の有地解放により11戸が入植する。 1949 昭和24 3月町制施行し下川町となる。 1950 昭和25 下川~風連間の開拓道路開削する。サンルに自家発電施設設置。新下川鉱山索道輸送に切り替える。ペンケ軌道を撤去する。 1951 昭和26 6月下川~雄武間の開発道路を開削する。12月下川町役場新築落成する。磯部鉱業所サンル金山の事業開始。 1952 昭和27 8月陸上保安隊名寄駐屯部隊キャンプ地工事着工する(現・自衛隊名寄駐屯地)。 1954 昭和29 8月智恵文村と合併、新名寄町が発足する。一の橋までバスが運行される。上名寄中学校校舎竣工する。翌年独立する。 1956 昭和31 4月市制施行し名寄市となる。5月一の橋市街で大火が起こる。サンル森林軌道を廃止し、トラックに切り替える。 1957 昭和32 5月下川市街地にて大火。王子製紙山林から火災が起き、下川風連境まで延焼する。12月桑の沢、21線が電化となる。 1959 昭和34 8月毘沙門天像を町有形文化財に指定する。パンケ森林軌道を撤去する。 1962 昭和37 4月奥サンル、幸成地区が開拓パイロット事業に指定される。 1963 昭和38 1月町立下川病院新館新築落成する。9月二の橋が電化となる。12月下川病院旧病棟の改築完成する。 1964 昭和39 6月下川~朝日間の道路着工する。10月下川小学校ハルニレを有形文化財に、上名寄郷土芸能をを無形文化財に指定する。 1968 昭和43 5月名寄川頭首工通水式挙行。6月奥サンルにて大火。 1970 昭和45 1月下川シャンツェ完成する。 1971 昭和46 開成・渓和・二の橋・珊瑠・下川の小学校が統合となる。 1972 昭和47 3月渓和・珊瑠・二の橋・開成小学校の閉校式を挙行。珊瑠中学校を下川中学校に統合する。8月第一回矢文湖「鮭まつり」第一回商工祭開催する。11月道道下川~朝日線開通する。統合した下川小学校校舎落成する。 1974 昭和49 9月下川町独立五十周年記念式典挙行。役場庁舎新築落成。11月一の橋簡易水道通水。12月町民保養センター「五味温泉」オープン。 1976 昭和51 3月町営サンル牧場計画が策定される。三菱金属下川鉱業所が分離「下川鉱業株式会社」となる。 1977 昭和52 12月50m級のシャンツェ完成する。 1979 昭和54 9月上名寄地区用水施設工事着工する。10月モサンル遺跡発見する。 1981 昭和56 6月サンル牧場開設される。12月林業従事者管理休養施設(五味温泉の前身)オープンする。 1982 昭和57 4月ふるさと開発振興公社(五味温泉)の発足。12月「下川鳴る石」を文化財に指定。 1983 昭和58 2月下川鉱山が休山する。 1984 昭和59 4月字名、地番の改正が行われる。 1985 昭和60 5月下川木工場が全焼する。6月桜ヶ丘遺跡の発掘始まる。 1986 昭和61 3月国有林の「象の鼻」の払下げを受ける。道開発局のサンルダム建設計画が具体化する。4月珊瑠鉱山が休山する。 1987 昭和62 4月国鉄分割民営化に伴い北海道旅客鉄道が承継する。7月町営スキー場ロッジ建設工事着工し12月に完成する。サンルダムの工事が決定する。 1988 昭和63 2月「しもかわ冬まつり」に代わって「アイスキャンドルフェスティバル」開催する。5月「桜まつり」に代わって「万里の長城祭」を開催。 1989 平成元 4月名寄本線が廃止される。5月バス転換となる。 1991 平成3 7月「ふるさと交流館」オープンする。 1993 平成5 サンルダム建設事業開始する。8月林業等休養施設増設工事着工する。 1995 平成7 5月桜ヶ丘公園、万里の長城メモリアルゲートのオープン式挙行。 1998 平成10 10月「サンル神社」を下川神社に合祀する。12月五味温泉交流促進施設を整備してオープンする。 2000 平成12 万里の長城全長2000mが完成する。10月開拓100年記念式典が挙行。 2017 平成29 11月サンルダム本体コンクリート打設完了する。 2018 平成30 6月試験湛水開始する。 2019 平成31 3月竣工式挙行。4月ダム管理開始する。
2012-03-15 | アイヌ民族関連
アイヌ民族儀礼時のござ「イナウソ」づくり 無償で指導へ
(北海道新聞 03/05 16:00)
https://blog.goo.ne.jp/ivelove/e/4d8538380a71fe27b09133afd2444cc8
名寄のアイヌ文化伝承者北風磯吉について約40年間研究してきた、函館市桔梗町在住の会社員佐藤幸夫さん(60)が、自身がアイヌ民族の女性から習った、儀礼時に使うイナウソ(模様つきのござ)の作り方を指導することにした。「後の世代に技術を残すため、興味のある人に教えたい」といい、希望者を募っている。
佐藤さんがアイヌ文化の研究に取り組んだのは19歳の時。国鉄名寄機関区に勤務していた佐藤さんが、旭川の川村カ子トアイヌ記念館を訪れた際、上川アイヌの長、川村さんに「名寄で北風磯吉の足跡を調べて後世に書き残してほしい。今ならまだ、関係者が生きている」と言われたのがきっかけだった。
当時、佐藤さんは、アイヌ文化にさほど関心はなかったが、川村エカシ(長老)の切実な訴えに「自分がやらなくては」と決意。仕事の合間に北風さんの知人を訪ね歩き、足跡を追った。私財を投じてアイヌ民族の子弟のために学校を造るなどした北風さんの生き方にひかれ、研究にのめり込み、1985年に北風磯吉資料集を著した。
調査を通じ、佐藤さんは、北風さんが民族のルーツの解明を願い、死後、札幌医大に献体したことを知った。「アイヌ民族の間では、献体をしたら、魂は天国に行けず、下界をさまようとされている。タブーを押して献体した北風さんの霊を慰めよう」と、81年から、名寄や、38歳の時に移り住んだ函館で慰霊祭を行うようになった。
慰霊祭で使うござも「アイヌ文化を理解するために、自分で作ろう」と約30年前、旭川のアイヌ民族の女性に織り方や糸の染め方を習って製作。近隣の湿地に生えるガマを刈り、乾燥させてから、木の皮をよって作った糸とともに織り込むという手間のかかる作業を重ね、これまでに5枚を作った。「糸の工程も含めると秋から翌年の初夏までかかります」
織り方を指導することを決めた理由について、佐藤さんは「多くのアイヌ民族に研究に協力してもらった。無償で習った織りの技術を次世代の人に教えるのが私の務め」と話す。指導は雪解けから数カ月の予定。希望者は佐藤さん(電)0138・86・7010(午前9時から午後5時まで)へ。(稲塚寛子)
◇ 北風磯吉 1880年(明治13年)ごろ名寄村(現・名寄市)で生まれる。天塩川流域のアイヌ語を伝承し、知里真志保「分類アイヌ語辞典」などの作製に協力した。1969年死去。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki2/355318.html
物質文化への執着…拝金族の因果応報https://digital.asahi.com/articles/ASMDX4WW7MDXUTIL014.html?iref=comtop_8_01
中国企業側「賄賂の金必要」 秋元司氏への現金の狙いか
有料記事 IR汚職事件
2019年12月29日05時30
【画像】事件の構図
カジノを含む統合型リゾート(IR)事業をめぐる汚職事件で、衆院議員の秋元司容疑者(48)に賄賂を渡したとして逮捕された中国企業「500ドットコム」の副社長を名乗る鄭希容疑者(37)が、本社に対して「賄賂のための金が必要だ」と伝えていたことが関係者への取材でわかった。東京地検特捜部はこのやりとりが記録された電子データを押収。秋元議員に渡ったとされる現金が賄賂だったことを示す重要な証拠とみて調べている。
秋元議員は2017年9月28日、IR事業で有利な取り計らいを受けたいとの趣旨を知りながら、衆院議員会館の事務所で「500」社顧問の紺野昌彦容疑者(48)らから現金300万円を受け取ったほか、翌年2月の北海道への家族旅行の旅費計約70万円を負担してもらった疑いがある。
オンラインカジノなどを手がけてきた同社は17年7月に日本法人を設立。8月に那覇市で開いたIR関連のシンポジウムで秋元議員に講演してもらい、同議員と接点を持った。秋元議員はシンポから3日後にIR担当の内閣府副大臣に就任。現金300万円が渡されたのは翌月だった。
贈賄容疑で逮捕された3人のうち、鄭容疑者が広東省・深圳の本社との連絡役を担当。日本でのIR参入に向けた活動について本社側に相談していた。秋元議員に働きかける方策などを話し合う中で、「賄賂のための金が必要だ」などと説明していたという。
紺野容疑者と元沖縄県浦添市議の仲里勝憲容疑者(47)は「500」社顧問との肩書だったが、本社とやりとりすることは少なく、日本国内での活動に注力。秋元議員の執務室や議員会館への訪問のほか、IR事業への参入をめざして北海道留寿都(るすつ)村への訪問を重ねていた。
「500」社は昨年1月、留寿都村でのIR計画への出資を表明。翌2月には秋元議員が家族旅行で村を訪問するなど、しだいに関係を深めていった。
秋元議員は特捜部の調べに「一切身に覚えがない。金銭は受け取っていない」と容疑を否認。旅行費用についても「秘書に任せていたが、支払っていると認識していた」と否認し、賄賂の受け取りや「500」社への便宜供与を否定している。
※ 秋元議員と中国企業、南へ北へ 広がり深まるIR人脈
https://digital.asahi.com/articles/ASMDV3RG6MDVUTIL01C.html?iref=pc_rellink_02
2019年12月27日07時20分
【写真】2017年12月に中国・深圳の500ドットコム本社を訪問した秋元司議員(右から3人目)、白須賀貴樹衆院議員(左から2人目)、勝沼栄明前衆院議員(左から3人目)。一番右は同社の鄭希容疑者=関係者提供(一部の人の顔にモザイクを入れています)
「統合型リゾート(IR)ができれば、アジア全域から何百万人もの観光客を引き寄せる」
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2017年8月、那覇市中心部のホテルで開かれたシンポジウム。中国のIT企業「500ドットコム」の最高経営責任者(CEO)が県政界の関係者など200人以上を前に、IRと沖縄観光の相乗効果について熱弁を振るった。
基調講演を任されたのが、東京地検特捜部に収賄容疑で逮捕された自民党の秋元司衆院議員(48)=25日に離党。シンポが「500」社との最初の接点だった。
参加者によると、秋元議員は直前に政府の「IR推進会議」がとりまとめた方針に触れつつ、観光振興の重要性を説いたという。
シンポを契機に、秋元議員と「500」社は足並みをそろえるようになる。
シンポの3日後、担当副大臣に
広東省・深圳を拠点にインターネットカジノ事業を手がける「500」社は、直前の7月に東京都内に日本法人を設立。日本でのIR事業への参入に向けて動きだしたばかりの時期だ。
関係者によると、シンポ開催に向けて奔走したのが、同社顧問として贈賄容疑で逮捕された紺野昌彦(48)と沖縄県浦添市の元市議の仲里勝憲(47)の両容疑者だった。中国、タイ、日本と幅広くビジネスに関わる紺野容疑者は、沖縄でも地元のゼネコン幹部の懐に入るなど広い人脈を持っていた。
シンポの3日後、秋元議員はIRを担当する内閣府や国交省の副大臣に就任。折しも政府がIR実施法案の国会提出を見据え、各地で公聴会を始める時期だった。秋元議員は同年9月のブログに「夜は街に出て食事や遊びを楽しみ、街全体で観光客を吸収するスタイルに変えていく」と外国人観光客を呼び込むリゾート構想をつづった。
4カ月後の17年12月、秋元議員は自民党の白須賀貴樹衆院議員や勝沼栄明・前衆院議員らを伴って深圳の「500」社を視察。同行者によると、再会したCEOは「(同社が展開する)インターネットカジノの会員がインバウンドで日本に行ったらすごい」と、改めて日本のIR参入への意欲をのぞかせたという。
村と秋元議員を結んだ男
「500」社が次に関心を寄せたのは、スキーリゾートとして知られる北海道留寿都(るすつ)村だった。
18年1月、地元でIR誘致の旗を振るリゾート企業が、「500」社などから1500億円超の出資を受ける計画を発表。北海道は21年までのIR誘致を断念したが、同社にとって参入の足がかりになる動きだった。
翌2月。秋元議員が妻子を連れてリゾート会社が経営するスキー場に姿を見せた。スキーを楽しんだ後、この会社幹部の紹介で村長らと会った秋元議員は杯を共にした。鹿児島育ちだと自己紹介し、「スキーは慣れないから、足をくじいちゃって」と照れたという。
秋元議員は逮捕前の取材に、この際のやりとりについて「『がんばってください』とは言ったが、それだけの話だ」と説明。便宜を図るような発言はなかったと否定した。だが、特捜部はこの旅行の費用を「500」社が負担したとみている。
留寿都村議会の松井幸雄議長は、リゾート会社と秋元議員を仲介したのが、この会社の幹部と旧知の仲だった紺野容疑者だったとみる。「頭の切れる男。彼がシナリオを書いた」
松井議長は昨年4月、紺野容疑者から誘いを受けて国交省の副大臣室に秋元議員を訪ねた。紺野容疑者はインフルエンザを理由に欠席したが、秋元議員は初対面の松井議長を好意的に迎え入れてくれたという。
秋元議員と紺野容疑者の逮捕が伝えられた25日、2人の関係を問われた松井議長は淡々と語った。
「非常に信頼関係があった。(紺野容疑者の紹介がなければ)こんな小さな村の議長が副大臣室なんて入れませんよ」
※ 統合型リゾート( IR = Integrated Resort )とは (2015年06月20日 朝刊)
カジノや会議場、劇場や映画館に加え、ホテルなどが一体となった施設。横浜市の調査報告書によると、シンガポールなど諸外国のIRではカジノの面積は全体の数%にもかかわらず、売り上げ全体の4〜9割を占める。IRでカジノを解禁する法案は、4月に自民、維新、次世代の3党が国会に再提出した。懸念される日本人のギャンブル依存防止策として「入場に関し必要な措置を講じる」と規定が加わった。
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