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続折々の記 2020①
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】12/30~     【 02 】01/01~     【 03 】01/03~
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【 07 】01/12~     【 08 】01/19~     【 09 】01/20~
――――――――――――――――――――――――――――――
【 05 】01/07~
                狂乱に直面する世相   慎むべき心得の乱れ
                     ・カナリアの歌:2
                     ・カナリアの歌:関係資料 1~4
                     ・カナリアの歌:7
                     ・

 01 07 (火) カナリアの歌      世相狂乱瓦解再編時代に向かう

カナリアの歌は12/29プロローグに始まり継続されている。 取り上げた項目は赤文字で月日を張り付けていきます。

ルポ2020 カナリアの歌:プロローグ~連続数
https://sitesearch.asahi.com/.cgi/sitesearch/sitesearch.pl?Keywords=%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%8C&Searchsubmit2=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&Searchsubmit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&iref=com_gmenu_search


◇時代の分岐点を描く「ルポ2020 カナリアの歌」は終わります。とりあげたテーマについて語り合う会を開きます。まず2月に、「2020年代の生き方」を学生たちと考えます。詳細は朝日新聞デジタル「カナリアの歌」ページで後日お伝えします。

(カナリアの歌)プロローグ 関係資料 1~4 01/08
http://park6.wakwak.com/~y_shimo/momo.952.html(ここに1~4が出ている)
(カナリアの歌:7)理由なきルール、型どおりの授業、学校がつらい 01/06
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14319172.html?ref=pcviewer

(カナリアの歌:6)入会金150万円、高級人間ドック、働く医師の危惧 01/06
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14316488.html?ref=pcviewer
(カナリアの歌:6)お金じゃない、健康長寿支える近所づきあい 01/06
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14316454.html?ref=pcviewer

(カナリアの歌:5)「おかしい」と声上げた高校生、政治は変わった 01/06
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14316316.html?ref=pcviewer
(カナリアの歌:5)対話を諦めず運命を委ねない、それが民主主義 01/06
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14316276.html?ref=pcviewer

(カナリアの歌:4)中東の小さな町、難民にテント、支援つなげたい 01/05
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14315157.html?ref=pcviewer
(カナリアの歌:4)越境攻撃を逃れ、産んだわが子、母乳は止まった 01/05
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14315125.html?ref=pcviewer
(カナリアの歌:4)クルド人は、私たちの隣人 安田菜津紀さんに聞く 01/05
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14315140.html?ref=pcviewer

(カナリアの歌:3)NZ生まれ、日本代表の誇り、五輪への思い 01/03
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14314054.html?iref=pc_ss_date
(カナリアの歌:3)多様なルーツ、垣根越える選手、社会はどうだ 01/03
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14314033.html?iref=pc_ss_date
(カナリアの歌:3)それぞれの強み、相乗効果 レメキ・ロマノラバ選手に聞く 01/03
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14314047.html?iref=pc_ss_date

(カナリアの歌:2)持て余す文書の山、山、山 消えゆく歴史 01/07
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14313579.html?iref=pc_ss_date
(カナリアの歌:2)戦争や暮らし、朽ちる紙の資料、いまなら救える 01/07
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14313570.html?iref=pc_ss_date
(カナリアの歌:2)世界の片隅にある、たくさんの記録 片渕須直監督に聞く 01/07
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14313554.html?iref=pc_ss_date

(カナリアの歌:1)吹き飛ぶ屋根、「数十年に一度」何かがおかしい 12/29
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14312158.html?iref=pc_ss_date
(カナリアの歌:1)元に戻れない、地球の分かれ道、若者は動く 12/29
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14312134.html?iref=pc_ss_date
(カナリアの歌:1)これからの10年、極めて重要だ アル・ゴアさんに聞く 12/29
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14312147.html?iref=pc_ss_date

(カナリアの歌)プロローグ 就活で急に個性問われても「脅し」みたい 12/29
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14311998.html?iref=pc_ss_date
(カナリアの歌)プロローグ 自由に選んだ道、大人を気にせず自分の「正解に 12/29
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14311967.html?iref=pc_ss_date


カナリアの歌:2

持て余す文書の山、山、山 消えゆく歴史

     https://digital.asahi.com/articles/DA3S14313579.html?iref=pc_ss_date
     2019年12月31日05時00分

 積み上がった本や書類は、天井にまで届きそうだった。12列の移動式書架にも入りきらない資料の山は、大蔵省の報告書や自民党の封筒に洋書、半世紀前の新聞の束も。俳優の司葉子さんは「もう、途方に暮れているんです」という。

 自宅の地下室を埋めるのは、4月に99歳で亡くなった夫の相沢英之さんが集めた資料だ。戦後に大蔵事務次官や衆院議員を務めたが、戦中に大蔵省に入り、陸軍主計少尉として従軍や抑留も経験した。

 「集めてきた本人の思いを無駄にしたくないのですけど、何が重要なのか、私にはわからないし、整理をしようにも、くたびれてしまって」。行く当ては、決まっていない。

 この中に、なにか大事なことが書かれた資料があるのではないか。司さんの話を聞きながらそう思ったのは、実際に「宝」が埋もれていた話を知ったからだ。

    *

 「資料が残っていたおかげです」と経済思想史が専門の牧野邦昭・摂南大准教授(42)はいった。大阪の自宅でパソコンに向かっていた2014年夏の夜、思わず「えーっ!」と大声を出した。古書サイトで売られていたのは「英米合作経済抗戦力調査(其〈その〉二)」。1万8千円だった。

 開戦前に陸軍の通称「秋丸機関」で経済学者の有沢広巳(ありさわひろみ)らが、欧米列強の経済抗戦力を調べた記録のうちの一部。表紙には「極秘」の文字があった。日米開戦をめざす国策に反する内容だったため、焼かれたとされていた。だが入手して読んでみると、開戦した場合の見通しの厳しさを示しつつ、好機があるとも述べた内容で、定説と違った。

 牧野さんはこれをふまえ、開戦に至った理由を分析した「経済学者たちの日米開戦」を刊行。「新資料を丁寧に読み込み、国家の政策決定の実情を明晰(めいせき)に語った」として今年度の読売・吉野作造賞に選ばれた。

 報告書を売った東京の古書店によると、ある大学教授の遺族に依頼され、ワゴン車で5往復して蔵書を運び出した。報告書はそこにあったという。その教授が購入した店なのか、いまはもう存在しない別の古書店のシールが貼ってあった。

 桜を見る会や森友・加計問題で、公文書のあり方に注目が集まっている。一方で民間にも膨大な文書が存在し、一体となって歴史の解明を支えてきた。まもなく戦後75年。いま戦争の記録の散逸が、代替わりなどで加速しているという。牧野さんのケースは特別に幸運だったのかもしれない。

 遺品整理などを手がける都内の買い取り業・くまねこ堂の渡辺隆之さん(48)はこう話す。「戦争を知る世代が残したものも、孫の代になると関心が薄れ、執着しないことが多い。燃えるごみで出せる古い紙の資料の類いは、引き取りに行くと、すでに捨てられていることが増えたと感じています」(上田真由美)

 (2面に続く)

戦争や暮らし、朽ちる紙の資料、いまなら救える
     https://digital.asahi.com/articles/DA3S14313570.html?ref=pcviewer

写真・図版 戦争を知る人が減り、当時を伝える資料も失われていく。歴史が消えている。わたしにもできることはあるのか。(上田真由美)

    ◇

 「破れそうで怖い」「戦中・戦後は紙が悪いから。気をつけて」

 台風19号で千曲川の堤防が決壊し大きな被害が出た長野市。信州大で現代史を学ぶボランティアの学生らが11月、市立博物館で古い文書の修復作業をしていた。浸水した赤沼地区の集会所から「救出」されたものだという。

 水浸しになったページを竹ひごを使って慎重にはがす。カビがあればエタノールで消毒し、1枚ごとにキッチンペーパーを挟んで水分を吸い取る。これを完全に乾くまで、何度も繰り返す。途方もない作業だ。

 学生の手元をのぞくと、表紙には「建艦献金名簿」の文字。1943年に軍艦建造のため寄付をした住民の名前と「壱円」「拾円」など寄付した金額が墨書されている。ほかにも「大東亜戦争出征軍人慰問品寄附金帳」などがあった。特別に希少な記録ではないかもしれないが、暮らしの中に入り込んだ戦争を見せつけられた気がした。

 だがこうした資料はこのところ多発する災害で散逸しやすくなっている。東日本大震災や西日本豪雨でも同じようなことが起きた。

 市立博物館は今回、民家や寺13カ所から数千点の資料を救出。引き取りや修復はいまも続く。学芸員の原田和彦さん(56)は「被災した人にとってはまず生活の再建が最優先。災害ごみは引き取り期限もあるため、泥や水をかぶった資料は捨てられてしまう。救出は待ったなしなんです」と話す。

    *

 古い資料が集積する国内有数の本の街、東京・神保町でも変化を感じ取っている人がいた。

 11月に開かれた古書即売展に、海軍史研究で知られる戸高一成(かずしげ)・大和ミュージアム館長(71)の姿があった。見たことのない資料が出ていないか、すべての棚に目をこらしながら会場を一回りする。

 この街に通って半世紀あまり。毎週のように続けてきた習慣だが、「最近はここで新たな資料が手に入ることはめったになくなりました」という。そもそもどんな資料が存在していたのか。なにがまだ見つかっていないのか。その全容もよくわからない。

 この日も、海軍雑誌や陸軍の教材などが並んでいたが、めぼしいものは見つからなかった。見ると、今にも壊れそうな本も売られている。「戦時中の紙は、質の悪い酸性紙なので、いまとなってはもう、触れただけでポロポロと割れてしまう。どんどん崩壊しているんです。救出するなら、いまが最後のチャンスです」

 戸高さんは、元軍人のインタビューや資料収集にあたってきた。戦艦大和の建造に携わった人が亡くなったと知って自宅へ行くと、遺族が資料を処分済みだったことがある。かつて軍艦を製造していた造船所を訪れた際には、戦前の図面などがトラックに積まれて廃棄に出された直後だったという苦い経験もした。

 「戦争の経験者が減って、冷静な研究が可能になった面もあるが、肝心の一次資料が一段と捨てられやすくなっている」と危機感を強める。

    *

 近年はたくさんの一次資料を使って市井の人の体験を描いた映画「この世界の片隅に」や新書「日本軍兵士」がヒットした。同書の著者、吉田裕・一橋大特任教授(65)の研究室を訪ねると、陸軍将校や軍医向けの雑誌、兵士の画集があふれていた。古書店などで買い集めたが、最近は売られていることも減った。「資料を必要として探す人がいなければ、資料はますます処分されやすくなります」という。

 歴史研究のすそ野がやせ細っていることが資料の散逸を加速させていることを懸念している。歴史学者らが加盟する「日本史研究会」の会員は、20年前から3割減って今年は2394人。最近は年100人単位で減っている。学校の先生が多忙になり、郷土史研究の担い手も少なくなった。

 吉田さんは「戦友会や遺族会の解散も増え、靖国神社など民間の保管に頼るのにも限界がある。次の世代に引き継ぐため、社会として本格的に集める態勢を考え始める時期ではないでしょうか」という。

 そもそも、なぜ資料を大切にしなければならないのか。戦争が題材のNHKスペシャルなどを長く手がけてきたプロデューサーの塩田純さん(59)は、こう表現してくれた。「取材をすればするほど、歴史はまだ分かっていないことが多いと痛感します。新たな証言や資料が見つかるたびに、更新していくしかないんです」

 ■時代映すチラシ

 歴史資料は私たちの暮らしの周りにもあふれている。

 東京都の小平市立中央図書館。地下の書庫には7万枚余りの折り込みチラシが保管されていた。1979年のものが最も古い。「奥様パート募集 物価高に挑戦!!」「ビクターステレオラジカセ 39800円」。時代の空気や暮らしの移り変わりを示す資料として、いまも収集を続ける。国立国会図書館には、国内のウェブサイトを保存して公開する試みもあるという。

 過去を知るには、資料は多いほどいい。だが、携帯で撮った写真やレシートも、すべてが歴史資料だ。なにをどこまでとっておくのか、判断は難しい。わたしたちの家やデジタル空間など至るところでゆるやかに、それぞれの基準で面白がって多様なものを持っておく。そんなふうに、いまよりも少し気にかけてみることで、社会全体が歴史を支えるゆりかごになるといい。

    ◇

 文化くらし報道部 上田真由美 1979年生まれ。文化庁担当。一つ一つはささいな記録でも、たくさん集めることで見えてくる姿がある。資料は歴史の「証拠」だと知った。自宅の押し入れに陣取る取材ノートは292冊。断捨離ブームにはのりきれない。

    ◇

 映像報道部 恵原弘太郎 1971年生まれ。今回の取材で自分の幼少期に発行された映画雑誌などに触れた。表紙を飾るスターが持つ小物や車、町並みを見ると、当時の思い出が頭に浮かぶ。古書は「心のタイムマシン」のようだと感じた。

 ◇岐路にある私たちの社会。かつて炭鉱でいち早く異変を知らせたカナリアのように、危機や転換点に直面する人たちがいます。記者がいま一番伝えたい現場をルポします。次回は日本中を熱狂させたあのチームの選手が登場します。

 (3面に続く)

世界の片隅にある、たくさんの記録 片渕須直監督に聞く
     https://digital.asahi.com/articles/DA3S14313554.html?ref=pcviewer

 《今月公開のアニメ映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は前作に新映像を加えた作品だ。片渕須直監督は膨大な資料を使った綿密な描写で知られる。映画の冒頭、主人公が戦前の広島市の繁華街を歩く場面。前作で古い木製だった「大津屋商店」の看板は、新作で昭和モダン風に変わった。》

 その店はピントのあった写真がなく、苦労しました。ところが前作公開後に広島平和記念資料館が、同じ写真で少しはっきり写ったものがあったと教えてくれました。見ると、きちんとデザインされた看板だった。この店のご遺族からは包み紙も提供していただいたんです。当時を生きた人たちが残してくれた、ささやかなたくさんの記録が、映画を支えてくれました。

    *

 すべての場面を、何月何日の出来事か特定しています。1944年4月、段々畑から戦艦大和が呉の港に入ってくるのを見るシーン。入港記録が残る4月17日の天気は、気温や空気の澄み具合まで確認しました。のどかな日で、気温は15度に届いていなかった。それなら、ツクシが生えたりモンシロチョウが飛んだりする前。そうやって風景を描いていきました。

 主人公が空襲にあう場面は、その日に飛行機雲が出ていたとの記録があるのを後で知り、前作の公開後に描き足したんですよ。

 リアルな再現というより、手ざわりというか、肌触りがあるところまでいきたい。大まかなイメージではなく、小さなことをたくさんたくさん集めた上で、戦争中ってどういう時代だったのか見直す必要があるんじゃないかと思います。

 《映画では、資料に基づいて確認できたことだけを描いた。戦争中のすべてを表現したとは思わない。》

 描いたのは、主人公の周りにあった小さな世界です。その外側には、まだ見つかっていないものがたくさんあるのではないか。なぜあんな時代になったのかを求めていくのは、みなさんに委ねたい。歴史資料は、僕らのものじゃないんじゃないか。僕らはただ次の世代につなぐだけなんじゃないか。そう責任を感じています。(聞き手・上田真由美)

    *

 かたぶち・すなお 1960年生まれ。監督作に「マイマイ新子と千年の魔法」「この世界の片隅に」など。



資料 その1 心に響く聖書の言葉

    唄を忘れたカナリア
     http://www2.plala.or.jp/Arakawa/kokoro312.htm

    ごらん、冬は去り、雨の季節は終った

    花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た
                                    旧約聖書『雅歌』2章 11-12節

■ 童謡「かなりあ」

   歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
   いえいえ それはかわいそう

   歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
   いえいえ それはなりませぬ

   歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
   いえいえ それはかわいそう

   歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
   月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す

 今はあまり歌われる事もありませんが、童謡「かなりあ」(詩・西条八十)です。 童謡というのは唱歌とは違います。唱歌は明治時代に教育のために国が主導して作られた歌であり、童謡というのは大正時代に、鈴木三重吉、北原白秋など唱歌に飽きたらぬ文学者や詩人たちが、「子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むような歌と曲」を与えようと立ち上がって作られた子供のための文学なのです。

■ 子供の心にも暗い悩みがある

 私は小学生による同級生殺害事件のニュースを聞きながら、その被害者、加害者の子供の不幸を考えながら、この「かなりあ」を思い起こしました。

 西条八十は幼い日、教会のクリスマスに行った夜のことを思い出しながら、この唄を作詞しました。会堂内に華やかに灯されていた電灯の中で、彼の頭上の電灯が一つだけポツンと消えていたのだそうです。その時、幼き心に「百禽(ももり)がそろって楽しげに囀っている中に、ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥であるような感じがしみじみとしてきた」と言います。

 子供は子供なりに孤独や悩みを一人で抱えているものです。それは昔も今も変わりません。身を以てそのような子供の心を知る西条は、そのように傷つきやすい子供らの心に希望を与えようとして、この「かなりあ」を作詞したのでした。唄を忘れたカナリアも、自分の居場所を見つけることができれば再び美しい声で歌い出す・・・現代の子供にも、ぜひ「かなりあ」を歌って欲しいものです。

資料 その2 

童謡「唄を忘れた〈金糸雀〉は」には厳しい試練が!

     https://blog.goo.ne.jp/shoufuu/e/b0d79724b251b89a79aeebbf7e8340ba

 童謡と云っても・・・ナント過酷で厳しい歌詞なのでしょう。  子供向きとは、とても・とても思えない、西條八十の厳しさ。

この歌をご存じない方に、まずは・・・歌詞をご覧ください。

  唄を忘れたカナリヤ〈金糸雀〉は

   唄を忘れたカナリヤは
   後ろの山に捨てましょか
   いえいえ それはなりませぬ

   唄を忘れたカナリヤは
   背戸の小藪に埋〈い〉けましょか
   いえいえ それはなりませぬ

   唄を忘れたカナリヤは
   柳の鞭でぶちましょか
   いえいえ それはかわいそう

   唄を忘れたカナリヤは
   象牙の船に銀の櫂〈かい〉
   月夜の海に浮べれば
   忘れた唄をおもいだす

どうですか、唄を忘れてしまったカナリアには何の価値もないのでしょうか。

  ①では、後ろの山へ捨てられるのですか ?
  ②では、背戸〈裏の戸〉の小藪に埋められるのですか ?
  ③では、柳で作って鞭でぶたれるのですか ?

でも、救いはいえいえそれは成りませぬと否定しています !!

人生も同じではないでしょうか、そんなに甘くないのが世間でしょう。  幼い子供たちに、西條八十が現実の厳しさを教えているのでしょうか ?

美しい声で歌っているカナリアですら唄を忘れたら、こんな目に合う・・と ?

しかし、何事も諦めてはいけない、きっと又美しい声で・・歌声が !!

今、調べてこの歌の裏話が見つかったので・・・、

西條ハ十の辛い苦しい生活苦から生まれた唄らしい。  西條は詩を作る仕事に就きたいと願いながら日々の生活に追われ、 株の取引に明け暮れる自分を責めて、 作った歌だったのだ。

いえいえ、それはかわいそう・・とは妻の口癖だったとか。

西條は、カナリヤを自分に映して詩を作っていたのだ。  大正7年〈1918〉に作詞、 これに成田為三が作曲、 レコード化されたのが大正9年〈1920〉タイトルは「かなりや」。

昭和27年になって小学唱歌として取り上げられ、 その時に 「唄を忘れたカナリヤ」 になっている。  曲も、3番まで同じメロディーで、 3番の最後だけが、 4番に繋げるように、メロディーが下がっている・・・

そして4番のメロディーが高らかに、と云うか決めの曲になっている。

私も久しぶりに聞いて、 あれこんな曲になっていたのかと、 改めて・・・この歌詞とのコンビネーションの素晴らしさを知った。

資料 その3

歌を忘れたカナリヤ ってどういう意味ですか???

     https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1460266449

  《 歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
      いえいえ それはかわいそう

   歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
      いえいえ それはなりませぬ

   歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
      いえいえ それはかわいそう

   歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
      月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す》

童謡「かなりあ」(詩・西条八十)です。童謡は大正時代に、鈴木三重吉、北原白秋など唱歌に飽きたらぬ文学者や詩人たちが、「子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むような歌と曲」を与えようと立ち上がって作られた子供のための歌なのです。

西条八十は幼い日、教会のクリスマスに行った夜のことを思い出しながら、この唄を作詞しました。教会内に華やかにともされていた電灯の中で、彼の頭上の電灯が一つだけポツンと消えていました。

幼き心に「百禽(ももり)がそろって楽しげにさえずっている中に、ただ一羽だけ鳴くのを忘れた小鳥であるような感じがしみじみとしてきた」のです。

子供の心を知る西条は、そのように傷つきやすい子供らの心に希望を与えようとして、この「かなりあ」を作詞したのです。唄を忘れたカナリアも、自分の居場所を見つけることができれば再び美しい声で歌い出すのです。

このカナリアは、作者の西条八十自身であり、創作活動に行き詰まりを感じていた当時の心境を歌詞にしたとも言われています。

「唄を忘れたカナリア」になった彼は、詩を捨てたほうがいいのだろうか、それとも無理にでも詩を作ったほうがいいのだろうかと悩みます。

世界には、まだまだ詩となるべき美しいものが満ちているはずであり、自分はそれに気が付いていないだけだ。それを見つけることができたなら、忘れていた詩を作れるようになるという思いを込めて、この童謡を作ったのです。

資料 その4

戦後の教科書歌詞と曲

     http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/s_sengo/se6_uta_kanariya.htm

上のURLをクリックすると、戦後の昭和22年の小学校六年生の音楽の教科書に載った歌詞と曲を見ることができます。

【下平】 西条八十の作詞では平仮名柄で 「かなりあ」 となっていたのに、そのかなりあがカナリアとなったり歌詞も 「かわいそう」 と 「なりませぬ」 が混用されています。 私は昭和生まれで聞いていた。 だから、教科書に準じて言葉も節まわしも使います。

それから、童謡についてはいろいろと考え方があることがわかりました。 してみると、気軽に唄っていた童謡も作った人の思いを込めて歌ったほうがいいのかと思うようになりました。 ちょうどそれは、自分が二度ボコの年齢になっていることもあって、この 「歌をわすれたカナリヤ」 に身をつまされるからです。



カナリアの歌:7

理由なきルール、型どおりの授業、学校がつらい

     https://digital.asahi.com/articles/DA3S14319172.html?ref=pcviewer

 東京都内に住む岡崎英之介君(13)は、親の転勤のため、ドイツのデュッセルドルフで2歳から8歳まで過ごした。通っていた日本人学校では、日本の本がたくさん並んだ図書室がお気に入りだった。

 ところが小学2年で帰国して地元の公立小学校に転入すると、学校に行くのがつらくなった。

 納得できないルールが多すぎたからだ。

 例えば、休み時間。低学年の子は全員、屋外の運動場で遊ばなければならなかった。英之介君は図書室で本を読みたかった。

 母親(44)は学校を訪ねて「なぜ休み時間に、図書室に行ったらダメなのですか」と聞いた。「学年の決まりですから」という答えだった。「なぜ、筆箱は袋のタイプはダメで、箱型でないといけないのでしょう」と聞いたときも同じ「学年の決まり」だった。

 5年生の夏休み明け、クラスメートにからかわれたことがきっかけで、学校に全く行けなくなった。

 兄の淳之介君(15)も帰国後、学校生活が苦痛だった。不登校にはならなかったものの、自宅から目と鼻の先の学校を遠く感じた。

 小学校は「空気を読まず、乗り切った」が、受験して進学した私立中学校にもなじめなかった。

 彼が昨春から通うのが、通信制の「N高等学校」だ。

 N高は2016年に開校した。「ネットによる映像授業と個別指導」を掲げ、1万2千人が在籍する。「ネットコース」だけでなく、全国13カ所の校舎への「通学コース」もある。淳之介君は週5回の通学コースを選択した。

 厳しい校則も制服を着る義務もない。先生が特性にあわせた授業をしてくれるところが良いという。

 英之介君も昨春、開校したばかりの「N中等部」に入学した。週3回楽しく通う。今は、読書よりプログラミングに夢中だ。

     *

 兄弟は決して特別な存在ではない。文部科学省の調査で、日本の小中学校で不登校になっている児童・生徒は2018年度、16万人を超えた。前年度比で2万人も増え、過去最多だ。

 兄弟の話を聞きながら、大分県別府市の立命館アジア太平洋大学(APU)に出口治明学長を訪ねたときの会話を思い出した。

 約90カ国の留学生が学ぶなど、多様性を重視する大学だ。学長室には、全国から中高生の保護者が相談にやってくる。一番多いのが不登校の相談だという。

 「子どもがおかしいんではないんです。偏差値教育や、型にはまった教育になじめない子どもが悲鳴を上げている。感受性が強い、カナリアのような子どもたちです。無理に通わなくていい。検定試験もあるし、通信制の高校もある」

 出口さんがそう伝えると、少し安心した顔をして帰路につくという。

 出口さんは、文科省が「主体的・対話的で深い学び」を推進する一方、多くの学校現場で理由がよくわからない校則が存在することに怒りを覚える。

 「生徒から『この校則の根拠は何ですか』と聞かれて先生が答えられなかったら、それは『パワハラ』だと思うべきです。そんな現場で、『主体的・対話的で深い学び』ができるのでしょうか」(山脇岳志)

 (2面に続く)

生きる力を育む、学校も家も「緩めて」変わる
     https://digital.asahi.com/articles/DA3S14319169.html?ref=pcviewer

 AIの進化で、学びも変わっていく。どうすれば、画一的な学校がもっと楽しい場所になり、学び方が多様になるのだろう。(山脇岳志)

     ◇

 「一時は子どもと一緒に自殺しようかと考えた」

 「子どもと外出の約束を取り付けても、直前に出たくないとキャンセル。つい子どもに当たってしまった」

 昨年12月、神奈川県藤沢市の社会福祉協議会の会議室に母親や子どもたち20人ほどが集まっていた。不登校に悩んできた人の集まり「朝カフェ」だ。

 自分の経験を少しずつ口にする。「うちもそうだったのよ」。涙ぐんだり、うなずきあったり。時に笑いあい、励ましあう。

 主催の小沼(おぬま)陽子さん(44)も、かつて子どもの不登校に悩み抜いた。

 長男(15)は小学3年ごろ、長女(12)は小学2年から不登校になった。近所から、日中に子どもが家にいると児童相談所に通報されたこともあった。

 何とかして学校に行かせなければ。嫌がる息子を学校に連れて行こうとするが息子は逃げ回る。

 ある日、自宅のあるマンションの13階で、争ったはずみに息子が階段から落ちそうになった。

 「私は何をやっているのか」。我に返った。自分は本当に子どもの幸せを願っているのか。世間体を気にしているだけではないか。

 「子どもは家にいていい」と決め、向き合う時間を作るために会社も辞めた。学校に行かなくていいと分かると、子どもたちが元気になってきた。

 どん底だった陽子さんの心も晴れてきた。市内で畑を借りて、一人で野菜作りも始めた。土をいじっていると活力がわいてくる。子どもたちも、畑についてくるようになった。

 2年前からは、夫の健児さん(45)も野菜作りに加わっている。会社員の健児さんは、陽子さんが変わったあとも、やり場のない怒りや葛藤を抱え続けていた。「頭では、子どもは家にいていいと理解していても、将来への不安や世間の目を意識して、自分の中で消化しきれなかった」

 それでも、陽子さんが「ホームスクーリングで輝く みらいタウンプロジェクト」という団体を立ち上げ、母親たちをつなぎ、行政にも働きかけるのをみて、考えが変わってきた。

 米国では様々な理由でホームスクーリングが珍しくなく、200万人程度にのぼるとの推計も知り、励まされた。

 不登校は恥ずかしいことでも、そう特別なことでもない――。健児さんが前向きになったことで、家の中はさらに明るくなった。息子は今、通信制高校の通学コースに通う。

 「朝カフェ」では、運動会などの行事をきっかけに不登校になる例が紹介されていた。まじめすぎて、行事でクラスに迷惑をかけてしまうのではと感じて不登校になる子もいるのだ。

 「朝カフェ」を見学した藤沢市教育委員会の金枝直子さんは「自分自身も、現場の教師のときは、不登校の生徒に学校に来てもらいたいと思っていた。ただ、すべての子どもにとって、それが正解とは限らない」と話した。

 藤沢市は、陽子さんらの活動を地域に貢献していると評価し、補助金の支給など、支援の姿勢を示し始めている。

 ■一方的に教えない、先生が一緒に学ぶ

 これからの教育は、どうあるべきなのか。

 小沼陽子さんは1年余り前、あるドキュメンタリー映画を見て、引き込まれた。不登校の子どもの教育に生かせるのではないか、と思ったからだ。

 タイトルは「most likely to succeed(成功に一番近い教育とは)」。米カリフォルニア州サンディエゴの高校「high tech high」(ハイテク・ハイ)が舞台だ。2000年にできた比較的新しい公立校で、低所得層の生徒が半分を占める。

 同校には教科別の時間割や決まった教科書、定期試験がない。どんな授業をするかは教師に任され、課題解決型の学習が中心だ。

 生徒たちはチームを作り、保護者などが見学に来る学期末の展示会に向けて作品を制作する。

 同校に密着して映画を制作したのは、ベンチャー投資家から転じて教育改革に力を注ぐテッド・ディンタースミス氏だ。米国の教育で近年、主要科目の「テスト偏重」の傾向が強まっていることに危機感を持つ。「先がみえない人工知能(AI)時代の社会を生き抜くには、暗記型ではなく、課題解決型に切り替えるべきだ」と言う。

 同校にはテスト準備の授業はないのに、州の標準テストの成績は平均を上回り、大学進学率も98%だと紹介されている。ディンタースミス氏が来日した際に、そうなる理由を聞いてみた。

 答えは明快だった。

 「やっていることが面白いから、生徒は早いスピードで学ぶ。教師にたくさんの質問を投げかけ、学びも深くなり、得た知識も保てる。試験のための勉強をしなくても、テストの点数が上がるんだ」

 日本の文部科学省も「主体的・対話的で深い学び」の必要性を打ち出している。導入され始めたのが、教師が一方的に教えるのではなく、生徒同士が話し合い、考えながら課題解決をめざす手法だ。だが学校現場ではとまどいもある。そもそも教師の大半が、生徒の頃に「主体的・対話的な授業」を経験していないのに、それをうまく教えられるだろうか。

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 そんな問題意識から、ハイテク・ハイの取り組みを日本に紹介している2人の女性がいる。

 イベントアプリ「peatix」の共同創業者で「future edu」代表の竹村詠美さんと、「こたえのない学校」代表の藤原さとさん。日本の教師をハイテク・ハイに連れていったり、同校の教師を日本に呼んで教師対象の研修をしたりと活動は精力的だ。

 映画の上映会の支援は、竹村さんが中心だ。上映は、すでに42都道府県で計400回を超えた。竹村さんは、映画を見たり研修を受けたりした教育関係者の熱意に手応えを感じている。

 藤原さんは、ソニー勤務などを経て、米テキサス州で子育てをしながら、公立短大で教職課程を取り、現地の公立校を見て回った。日本でも学校の教師などを対象に研修をしている。

 「答えがわからない問いって多いと思うのです。だから、先生が一方的に『教える』のではなく、生徒と一緒に学ぶ姿を見せたほうがよい」

 ただ、「主体的・対話的」といっても、教師の側に探究的な学びを推進するスキルがないと、生徒間の学力格差が開き、従来型の授業よりもかえって悪くなる可能性もある。まだ教師が十分に自信を持てない場合は、基礎学習も大事にしつつ、ハイテク・ハイのような体系的な手法を試していくよう勧めている。

 藤原さんは「もう少し学校が『緩める』だけで、不登校もかなり減ると思う」とも話す。

 「緩め方」はいろいろある。根拠の乏しい校則はやめる。運動会などの行事で学年やクラスの「一体感」を強調しない。教師が生徒と一緒に学ぶ姿勢も、「緩める」ことにつながる。

 先生の意識が変われば、生徒も変わっていく。藤原さんはそう信じている。

 ■不登校の人数、過去最多

写真・図版  不登校の小中学生の人数は、2013年度から6年連続で増加。子どもの数が減る中、18年度には過去最多を記録した。不登校の原因は、家庭の状況(38%)、友人関係(28%)、学業不振(22%)、学校のきまり(3%)、教職員との関係(3%)などが挙げられている。

 増加の一因には、社会の意識の変化や国の方針変更もあるとみられる。16年に成立した「教育機会確保法」では、学校以外の場で行う「多様で適切な学習活動の重要性」が認められ、不登校の小中学生の「休養の必要性」も明記された。また文部科学省は19年秋、フリースクールなど学外の施設で学ぶ不登校生を「出席」扱いにすることを明確化した通知を、全国の教育委員会に出した。

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 編集委員 山脇岳志 1964年生まれ。GLOBE編集長、アメリカ総局長などを経て現職。経済や国際関係の取材が長いが、今、最も関心があるテーマは教育。なぜ日本では、「同調圧力」が強いのだろうか。多様で寛容な社会へのカギは、教育にある気がしている。

 ◇時代の分岐点を描く「ルポ2020 カナリアの歌」は終わります。とりあげたテーマについて語り合う会を開きます。まず2月に、「2020年代の生き方」を学生たちと考えます。詳細は朝日新聞デジタル「カナリアの歌」ページで後日お伝えします。