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続折々の記 2020①
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 07 】01/12~
                真実は何故正しいか   心のよりどころ

 2020 01 12 (日)  真実は何故正しいか    心のよりどころ

このホームページを始めたのは、ホームページのはしがきに書いた通りです。


 高校でも大学でも、親子の絆がどう結ばれるのか、知徳体ことに知的発達は
どのように仕組まれているのか、全く教育されていません。 この事実に直面
し「このままではいけない」という思いを痛烈に感じ0歳教育を立ち上げること
にした。


 物質文化はますます高度化して夢はひろがるのに、精神文化は影をおとし続け、絆の希薄さもてつだって心の孤立化はますます進みました。 このような世情の移り変わりを見てきて、わたしたちは知性を豊かにし、人柄をみがき、健康に気をつけて、 『真理(合理的なほんとうのこと)』 を求めなくてはならないと思います。
 日常の生活は、そのためのエネルギー燃焼にしたいものです。 今更、漱石を引き合いにだすまでもなく、金と名誉と異性を求めず、まっとうな 『真理』 を求めたい。

いまも変わりはありません。

『真理(合理的なほんとうのこと)』 を求めなくてはならないのに、国際間の問題にしてもウソやプロパガンダが飛び交ったり、日本へのIR導入にかかわって国会議員がウソを言って平然としています。 私たちを(ないがしろ)(=ブベツの蔑)にしれています。 とんでもない時代になっております。

次のことをどう思いますか。

なぜウソをついちゃいけないの?

「いまやった方がいいの?」「これでいいの?」「しなくてもいいの」

 なにが正しいのか、はっきりわからないってこと、ありますよね。 でも世の中には、ちゃんとわかっている人もいるみたいです。 「そんなことしちゃいけない!」 ―― 「こうしなさい!」 ―― 「それは道徳に反することだ」。 道徳だとかなんだとかって、つまり、「これもダメ、 あれもダメ」 ってことでしょう。 そんなことを言われると、毎日がつまらなくなって、楽しいこともなくなってしまうような気になります。

 だけど、いいこともあるのです。 たとえば、ぜったいにウソをつかない人がいれば、その人を信頼することができます。 それに、必要なときには必ず助けてくれる人がいれば、その人をあてにあてにすることもできるわけです。
―― 「なぜウソをついちゃいけないの?」 という本から引用 ――
この本はライナー・エアリンガーというドイツのマスコミで大人気のコラムニストだといいます。 医学・法学博士で「倫理ドクター」のニックネイムでしたしまれている方だといいます。 確かにわかりやすい言葉で語りかけています。 ウソにはいろいろと理由があったり、自分でも困ったりすることがあります。 けれども考えなければならないのです。 その場合に個人のいろいろのことを取り上げたり親とか友達とかに意見を聞いたりとか、自分で決めなくてはならないことがヒントとしてたくさん取り上げられています。

ただ、真実とその反対語の虚偽はすべてを解決できないことも多いので、私たちは自分で決めなくてはならないのです。

マスコミが報道するニュースには国内国外を問わず明らかに真実のものもあれば、ものがあるのです。 だから事は簡単に信じたり疑ったりできないのです。 個人間でもそれはないとは決まりません。 一番大事なことは、一人の人の意見なり報告なりその判断なりの中に、真実と虚偽がありうることなのです。


令和二年 新年を迎えて現状の諸問題をどうしたらいいのか考えるとき、改めて古代人の訓戒としたモーゼの十戒など心のよりどころを再認識したいと思いました。

問題の一つは、19号被害に象徴される温暖化対策の急務ということです。 これはグレタ少女が言うように、国益などというレベルの問題ではない。 地球そのものが直面している緊急で大変な問題なのです。

二つ目の問題は、これも世界中の母親が直面している戦争拒否の問題であり、別の言葉としてなら戦争時代を卒業して平和時代にするには何をすればよいかという、これまた重要な問題です。

国という意識を取り払い、一国の指導者や大臣また評論家やマスコミの意見をすぐに取り入れず、ひとり一人が自分でいろいろのニュースを参考としながらでも、自分の考えや理想を求めて自分の意見を持つことが大事なことだと思うのです。

人に頼らず自分の考えを求めその意思を明らかにしていくことなのです。 精神文化の夢をおし進める覚悟をしていかないと、煩雑な凡欲に満ちた人たちの意見に巻き込まれてしまいます。 「異常気象」と「戦争拒否」それとか「弱い者いじめ・見捨て」、「大事な心の教育」など、平凡なひとり一人の思いが見捨てられてしまいます。

みんなでその方法を話し合って実現する問題です。 短く言えば、世界平和はどうすればよいかの問題です。 世界中の人たちが仲良しになる問題です。

これらの問題解決には、国益などと言う言葉は問題解決には逆行する考えであり、互恵互助の立場こそ共通する言葉の方が適切なのではありませんか。

三つ目に私たち自身にもかかわることです。 そして昔からついも取り上げられてきた関心事です。 それはお金の問題です。

具体的なこととして考えると、例えば岡倉古志郎著の「死の商人」を読んでみなさい。 「これ、ほんと?」と言いたくなります。 本を買うことなく調べるとすれば検索で「死の商人」を開いていけばいろいろと出てまいります。

私は土浦の予科練生として戦争体験者です。 1945/06/10、土浦爆撃で同じ班員が直撃弾で木っ端みじんいくら探しても何も出てこなかった。 ただズボンの左内側に誰も記名していた第42分隊第6班白川義雄だけ布一つだけみつかっただけでした。 この爆撃で他の班、並木某が左手首と左大腿部裏がべっとり垂れ下がった怪我を負った。 右腕で肩組をして15mほど助け歩いただけ。 米軍機再々飛来の命によりその場を離れてしまった。

並木君はどうなったか分からなかった。 悔恨だけが残った。 そしてまた死者に口なしを実感してまいりました。 白川君や並木君の親のことを思うと、胸が詰まるのです。 敗戦後長野での勉強により、歴史への疑念と、戦争拒否はいまも変わりようがありません。

「死の商人」を読み歴史の盛衰を学んできて、人の陥りやすい妄執の一つだと理解するようになったのです。

人の利益追求が気象異常の源であることや、歴史上の大きな変化がお金に始まるいろいろの勝手な考え方が戦争の原因になっていたことや、自分の体験などを通して生活そのものへの心がけに大きな落ち度があると考えるようになったのです。 物質文化の進歩は世界を風靡し、精神文化の進歩はそのままにしてきたととらえてもいいのではないか。

結論として、人は何を求めて生きていったらいいか。 そのことを考え直さなくてはならないと、みんなが考えるようになっている。 そのように私はとらえているのです。

この問いかけにどう答えたらいいか、それについて一つの考えを提案したいのです。


14日の朝日の社説を見て思います。


(社説)動きだすパリ協定 「気候危機」克服の設計図を

 パリ協定の最初の年が始まった。この新たな国際ルールのもと、世界は気候変動に立ち向かうことになる。

 いま、二酸化炭素(CO2)の排出量や濃度は過去最悪のレベルで、異常気象や自然災害も相次いでいる。もはや「気候危機」といっていい。

 産業革命前からの気温上昇はすでに1度に達している。これを2度未満、できれば1・5度に抑えるというパリ協定の目標を達成するには、CO2排出をできるだけ早く実質ゼロにしなければならない。

 大胆な変革に踏み出す、という決意を新たにしよう。

 ■自治体と企業の試み

 環境省の大臣室に、大きな日本地図が掲げてある。東北から九州まで、赤いシールが33カ所。「2050年までにCO2の排出を実質ゼロにする」と宣言した自治体だ

 それぞれの自治体では、具体策が動き出している。

 横浜市は昨年、東北の12市町村で発電される再生可能エネルギーによる電気を、市内の企業や住宅に供給する連携協定を結んだ。すでに一部で運用を始めている。市内だけでは太陽光や風力による発電量が限られるため、再エネ資源の豊富な東北に目を向けた。

 30年までに乗用車の新車販売の半数を排出ゼロ車にする(東京都)、公共交通や自転車の利用を広げて「歩くまち」をつくる(京都市)など、地域ごとに取り組みはさまざまだ。

 33自治体の人口は計4900万人、域内総生産は250兆円にものぼる。日本の脱炭素化に向けて、大きな力となるのは間違いない

 一方、脱炭素を旗印に掲げる企業も増えている。

 再エネだけですべての事業をまかなおうという国際的な企業連合「RE100」には、日本から30社が参加する。パリ協定に沿った科学的な削減目標「SBT」をもっていると国際的に認定された321社のうち59社は日本企業だ

 ■脱炭素へ遠い道のり

 対応を急がねば、消費者にも投資家にも見放される。そんな危機感が企業を動かしている

 大和ハウス工業は昨年夏、千葉県船橋市で再エネ100%のまちづくりを始めた。分譲マンションや戸建て住宅、商業施設など地区内の電気すべてを、自社でもつ水力発電などでまかなう。建設の段階から再エネ以外は使わない徹底ぶりだ。

 輸送時のCO2排出を抑えるため容器包装を軽量化する(食品)▽全国の店舗の屋上に太陽光パネルを設置する(流通)▽製造過程で出るバイオガスを燃料にする(飲料)……。業種ごとに知恵を絞っている。

 脱炭素に力を入れる企業の取引先が対応を迫られる例も少なくない。変革が変革を呼ぶ好循環が広がり始めている

 18年度の日本の温室効果ガス排出量は前年度比3・6%減だった。直近5年連続の排出減は、G20では日本と英国だけだ。自治体や企業による「脱炭素の芽」が大きく育てば、減少傾向は今後も続くだろう。

 だが、それでもまだ実質排出ゼロにはほど遠い。政治のリーダーシップで脱炭素化を広げ、加速させないといけない

 たとえば欧州連合(EU)は先月、「50年までの実質排出ゼロ」という目標に合意した(ポーランドを除く)。各国の事情の違いを超え、首脳らが気候危機の深刻さを共有したのだ。

 ■「芽」を大きく育てる

 残念ながら、安倍政権にそこまでの危機感はない


 政府が昨年まとめた地球温暖化対策の長期戦略は「実質排出ゼロをめざす」とうたうが、時期は「今世紀の後半できるだけ早期」とあいまいだ。CO2の排出が多い石炭火力についても「依存度を可能な限り引き下げる」としながら、今後も使い続ける方針を変えていない。

 明確に軸を動かせないのは、排出量の多い一部の業界が対策の強化に反対しており、官邸や経済産業省などがそうした声に重きを置いているからだ。


 このままでは、社会と経済を大胆に変革することは難しい。政府が気候危機に本気で立ち向かう姿勢を示し、自治体や企業に思い切った投資を促す。そうしてこそ、「脱炭素の芽」を大きく育てることができる

 各国は今年、パリ協定に基づいて国別の削減目標を再提出する。その際、目標を引き上げるようグテーレス国連事務総長は求めている。日本が「50年ゼロ」や「脱石炭」などの対策強化を打ち出す好機だ。

 折しも政府は間もなく、エネルギー基本計画の改定に向けて議論を始める。対策強化に踏み出すには、想定する電源構成の大胆な見直しが前提となる。

 石炭全廃の時期を決め、石炭火力の割合を段階的に減らしていく。古い原発を引退させ、太陽光や風力などに置き換えていく。そのために再エネの目標を大きく引き上げる――。

 パリ協定の時代、日本に必要なのは、そんな設計図である


これを読んで、自治体や企業が気象危機に対して一般国民の思いを考慮したり企業の今後の成り行きを考えて、政府で言わなくても率先して地球気象危機に対処しています。 そんな風に理解できるのに反し、まだ人ごとの意識の人もいます。

市町村の議会でもこの社説の姿を見て、自分たちで地球気象危機を進めるよう直訴、直訴は昔の言葉だから今流にいえばどこの議会でも請願書、要求書を政治家へ出すようにしてほしい。 日本の一般の様子をこの社説から読み取ると、静かにしているように見えていたが実際には各自治体や議会、企業は進んで自分たちの希望を実現する方向にあると私は感じました。

この方向、動きはうれしいので、日本国中の人たちがみんなで自分の意見を政治に反映するようにしたいと思うのです。

国連事務総長も地球の気象異変の現状改善を即刻取りかかりたいと提案をしています。 日本は早く地球温暖化解消へ面舵いっぱいに切換えなければならない。 それは世界中の人たちの願いなのです !!

いま軌道修正したにしても、すぐには19号台風のような大水害以上の大水害が世界中に荒れ狂うのです。 狂乱瓦解は続くのです。いま軌道修正したにしても、すぐには19号台風のような大水害以上の大水害が世界中に荒れ狂うのです。 狂乱瓦解は続くのです。

さてそれはそうとして、新聞での国民の希望を察し、さらにひとりひとりが何を心のよりどころとして大事にしていけばいいかをみんなで考えていきたいと思います。


私は90才を過ぎた

なぜそんなに急ぐことを言うのか? 世界のあちらこちで戦争による殺戮が続いており、国益と言いながら戦争を想定した政治が今も続いているのです。 違いますか。 今は平和ではありません。 それで急ぎたい。

平和とは何か? 戦争による殺戮や破壊がなくなって世界の国々が仲良くなることです。 そんなことはわかっていても、世界をリードしようとしている人たちは、そうしない。  世界平和のために活躍しようと意見を言えば、具体的な現状はそんなに甘いものではない、と一笑に付して相手にしないではありませんか。 

国益をいうことを放棄し、みんなで世界中の人たちが手を取りあうこと何より大事な時に、評論家や軍事専門家は平和について考えようとはしません。!!

国という集団で物事を考える人がとにかく多いのです。

過去の国家間の政治のかけひきや結果を思考材料として自分の考えを組み立てています。 たしかにそうした歴史を調べて自分の国の方針を立てるのは当然でしょう。 だが、そうした考えの中に平和へ近づく政策を強く持っているだろうかというと、答えはそうではないのです。

第一次世界大戦のあと悲惨な戦争結果の上に立って不戦条約を作って平和への誓いをしたはずです。 だがそれは守られなかった。 何でしょうか。

その後第二次世界大戦もやりました。 どれほど戦死者を出し破壊されたのでしょうか。 それでもなお、今でも戦争を繰り返してやっています。

指導者の頭の中はどうなっているのでしょうか。 戦争拒否、世界平和の実現意識はないと言わざるを得ません …………… 。

国ということにこだわって、人と人が仲良しになる意識が欠落しているのです。 しかもそれが頭もいい人たちによって戦争が行われ、仲良くする考えを持っていません。

例えば日本でも、藤井厳喜という人の意見を読んでいると、平和へかじを取る考えは全くないと思います。 過去の理解をもとにしてさらに過去以上の方針を振りまいています。 次の資料をいろいろ見ればそのことがわかります。
「台湾を知ると世界が見える」藤井厳喜著
<https://in.fujii-worldforecast.jp/futata_control?cap=GDN2&gclid=EAIaIQobChMI2_7Wl8eG5wIVSXuLCh3g5QEyEAEYASAAEgK5CvD_BwE>
ここを開いて「過去を生かす」考えで静かに自分の考えを作り上げてほしいのです。  ここには多くの著書も紹介しておりますが、「不戦条約の意識」や平和へ軌道修正をしようという意識が見当たりません。
こんなことではなく、まっとうに人としてもつべき良心と人と仲良くする平和を求めるにはどうしたらいいか、考えるべきことなのです。

それには、よくよく考えてみると親子の絆に心をそそぎ、生きる意味を自分で考えることにあるのだと、私は考えるのです !!

いきる意味とは何か、真剣に考えなくてはならないのです。 自分が生きるとは、実は体中の細胞が元気に活動することなんです。

細胞が生きようとしているのは、言い現わす言葉がないほどの神秘に満ちた力が組み込まれているからに違いありません。 私は考えた末にそう考えざるを得なくなりました。

このインプットを校正していると、今日(17日)のTVで絵本作家の浜田桂子という方が 「へいわってどんなこと?」 の話を聞いた子供たちは目を輝かしながら、 「戦争はしたくない」 と感想をどの子もみんな話していました。  このように、日常生活を考えているなかで、戦争をしてはならないことを誰でも基本にしていなければならない、と感じました。

では、自分とは何でしょうか?  90過ぎになっても、健康のことを考えたり子供や孫の幸せを考えたりする自分とは何でしょうか?
それは、いろいろ考えるその自分とは、細胞が自分で生きていくために、細胞の生命いのちとして仕組まれているその細胞たちが連絡しあって一つの体全体の意思決定を、私たちひとり一人の「じぶん」とか「おれ」とか「わたし」というものに任せている、と私は考えるようになりました。
それは考えた末に辿たどりついた考えです。  分子生物学者は細胞にそなわったそのエネルギーを Something great と名付けていました。 私はその考えは正しいと思います。

私はその細胞にそなわったエネルギーを、神様と名づけていいと考えています。 これまで神という言葉をただ単にすべての創造者としての表現だと理解してきました。 だがそれは概念上の表現であり神が意味している本義は、細胞それ自体がもつ能力そのものだという理解でなくてはならないと思います。
Something great の名付け親は筑波大学名誉教授村上和夫が1990年ころから使い始めた、と著書 「生命いのちの暗号」 のまえがきに書かれています。
前にも書いたように、モーゼの十戒第一戒の神という考え方は、どの宗教でもそのモーゼの考え方を受けていると教わってきました。 それは間違いないと思います。

だがその実態を見ると、教祖の考えを伝えているうちにこれまたいろいろの考えが起きてきて変わってきております。 一つの例をとれば、キリスト教はクルスをシンボルとしているのにイスラム教は神としてのシンボルを持たない。 クルスは十字架のはりつけであり、イスラムはシンボルなしとして地域内に偶像ががあれば破壊いています。 仏教ではいろいろの仏像を信仰対象シンボルとしてきています。 釈迦の涅槃図もその一種であると思います。

私は釈迦の教えを遵奉しています。 信教は自由だからです。 そして社会生活上では神道に属しています。 けれども心の奥深くでは生命を最大に尊いものとしています。

今ではその生命は不可思議なエネルギーを仕組まれている細胞により成り立ち、それを備えているものを Somthing great と表現し、またそれを神と言ってもいいと思っているのです。


私の考えはモーゼの十戒に反したものではないと考えるし、モーゼはとことん生きるとは何なのかを合理的に理解し極め続けた人だと尊敬しています。 次のデータを見ると十戒は神から授かったとあるから、それ以前にいろいろと人の心得なり訓戒なりあったのだろうと言えます。 モーゼの第二の訓戒では、 「偶像を作るな」 としています。 これをみて 「ハッ!」 と思ったのです。 モーゼが授かった表現としての真意は、言葉の通りに理解していいのだ、と。 モーゼの十戒の第二の訓戒は、生命の根源は細胞のエネルギーでありそれが神として表現してある限り、偶像をつくれないのは当然のことだったのだ、と。

   モーゼの十戒

モーセの十戒(十誡、じっかい、ヘブライ語: עשרת הדיברות‎、英: Ten Commandments)とは、モーセが神から授けられたとされる10の戒律のこと。

旧約聖書の出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節に書かれており、エジプト出発の後にモーセがシナイ山にて、神より授かったと記されている。

十戒の内容は神の意思が記されたものであり、モーセが十戒そのものを考え出し、自らもしくは他者に記させたものではない、とされている。出エジプト記本文では神が民全体に語りかけたがそれが民をあまりにも脅かしたためモーセが代表者として神につかわされた、とされる。シナイ契約、または単に十戒とも呼ばれる。二枚の石板からなり、二度神から渡されている。最初にモーセが受け取ったものはモーセ自身が叩き割っている。

正教会・聖公会・プロテスタント(ルーテル教会以外)の場合

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
  4. 安息日を守ること
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
  7. 姦淫をしてはいけないこと
  8. 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
  9. 隣人について偽証してはいけないこと
  10 隣人の財産をむさぼってはいけないこと


何故こんなことまで言うのか?  ほんとうのこと、ということの理解はうっかり見逃してしまうことがあるのです。 ダブりが多くなりますが、こんなようにも言えるのです。

「それでも地球が回る」と言ったガリレオを間違っていると言う人は今ではありません。 ピタゴラスの定理を間違っていると言う人もありません。 本当のことは何かという学問の成果が、積もり積もって多くの知識ができてきたのだと理解するからなのです。

この知識はすべて自分で考えたことではなく、学習 …… 学んで真似をし何回も繰り返してマネをして自分の知識として自分を築いてきたのです。 これは当たり前のことだとえばそう言えます。 けれども、この当たり前のことをしてきたのか、どれだけ当たり前のことをして自分の知識として取り入れたのか、胸に手をあてて考えてみると、十分ではなかったと思えるのです。

真似ることによって自分ができてきているのです。

   マネルブシダヨ、青春は
   何でもかんでも、まねがいい
   生まれた時から、すべてまね

   悪い真似だきゃ、せぬがいい
   日産ゴーンは、育ちそこね

   真似はいいけど、悪(ワル)までまねた
   ずるい男の、代名詞
   ゴーンだけは、まねするな

なんで日本語をしゃべれるようになったのか?  生きものはすべて環境に適応して生きるように本来細胞に仕組まれているからでしょう。 高山植物は体は小さくても自分応じた花を他のものと違った色や形で美しく咲くのでしょうか?  答えは一つ、生きるために環境に合うように変化してきたからです。 そして自分の子孫を残すようにしているのです。 間違っていますか。  すべては細胞に仕組まれた命・エネルギーによっているのです。

考えてみれば、そうではなく考えなくても、環境次第で知識を身につけるのです。  細胞はそのように仕組まれているのです。 人に限らず小鳥も猫も蜘蛛でもモグラでも、野菜のネギも油をとるヒマワリも、植物の紫陽花にしても柿にしても、生物すべて細胞でできているものは、環境に左右されながらも自分で都合良くなるように工夫して生きているのです。

しかも、小鳥もネギも紫陽花もみんな卵や親や種から生まれ育ち、マネをし環境に適応して生き延び進化してきたのです。 そんなことを言われなくても誰もわかっているのです。 でも、こうした本当のことを整理しはっきり理解していくことは、いろいろ整理して考えを進めるためには必要なことです。

先に書いたピタゴラスの定理などは、生きているもののことではなく、算数・数学・幾何などりことでありその他物理学とか化学とか歴史とか、人工衛星を打ち上げるにも健康になるため何を食べたりしたらよいのか調べたり研究したりするには、それぞれの積み重ねられてきた知識を学ばなくてはならないのです。 そんなことも誰でもわかっています。

問題はただ一つ。  それを学んで身に着けることなのです。

   マネルブシダヨ、青春は
   何でもかんでも、まねがいい
   生まれた時から、すべてまね

   悪い真似だきゃ、せぬがいい


私がモーゼの十戒を作ったわけではなく、ただ単に調べて取り入れただけのことなんです。 すべてはマネ(真似)によって取り入れただけです。

細胞は something great であり、神様です。 モーゼの十戒の一番初めの訓戒には、いろいろの表現が出ています。

見ていくと次のような表現が出ているのです。  クリックしてみてください。

   主が唯一の神であること
   わたしのほかに神があってはならない
     開いてみると参考になる。
   あなたは、わたしのほかに、何ものをも神としてはならない。
   わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
   あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
     ユダヤ教とキリスト教の区別を把握できる。

二番目には、偶像を作るなとしております。

確かにシンボルとしては作っているが、これが神様だというものは作られてはいない。

この第一と第二の訓戒は何なのか考えてみても、わかる人はないのです。 架空の神として見ることもできない作ることもできない神とはどう理解したらいいのか?  抽象的には理解できるし、シンボルとしてはあるのだが、具体的なものとしては提示されていないのです。

“ 『真理(合理的なほんとうのこと)』 を求める ” この基本的理解がはつきりしなかったのです。

それでは細胞の不思議な能力を神とした考えを当てはめて理解できるのか?  そう考えていくと、まったく不具合がないのです。 これが神は細胞であるとか、神は something great であるとか、証明ができるのか? 

それは結論としてできる、と言えます。

だが、細胞は神様であるとは言ってはならない表現なのです。  何故なのか?

それは、細胞のもつ生命力や能力は現在の分子生物学でさえ計りしれない不思議な能力を持っているからです。  では何と応(コタ)えればいいのか?

モーゼに伝わる神とは、結論としてはその通りすべてを創造する神としたほうがいいのです。

実態に近い言葉とすれば、それは 神とは something great であるという表現しかない。

私たちの日常生活を見ていくと、それらはすべて証明できます。  そのことをひとり一人が、しっかり理解していくことが非常に大事な合理的な本当のことを求める基盤になる、私はそう考えてその具体的なことを見つめていきたい。


静かに自分自身のことを集中して理解しますと次のように言えます。

  01 身体的な活動をしていると、つかれて眠くなる。 そして眠る。
  02 身体的な活動をしていると、腹がへってなにか食べたくなる。 そして食べる。
  03 寝ていて小便がしたくなると、目がさめる。  そして用をたす。
  04 怪我をすると、痛い。  しばらくすると治(ナオ)ってしまう。
  05 病気になると、治そうとする。  全力を尽くしても治らないと死んでしまう。

挙げてゆけばかぎりがないが、 01~03 のように寝たり食べたり用をたしたりするのは、自分の自発的な思いで決定している。 自分の意志でこうした行動をしています。

けれども、どうしてそうしたのかといえば、体が疲れたからであり、腹がへったからであり、夜中に目がさめたから、である。 なぜ、体が疲れたと感ずるのか、食べたくなるのか、小便をしたくなるのか?  そう感ずるからである。  そんなことは当たり前のことです。

さらになぜかと考えれば、体がそう要求するからであり、細胞がそう要求するからである。 これも当たり前のことである。

私たちが、自分の意志で或いは自分の考えでそうしていると思っているのだが、実は細胞が生きていくうえで新陳代謝をする必要から休まないといけないし、必要な栄養補給をしなければならない、用を足さなければ困ってしまうからだ、と言われればその通りだと納得できます。

体中の細胞が常時連絡しあっていて、必要なことを私たちの意識へ連絡してくれているのです。  そう考えていいのでしょう。  そう考えるのが合理的な理解であり、合理的な判断でしょう。

私とか俺とかいう意識は、実は細胞が生きていくために細胞に仕組まれている不可思議な能力によるものだといえるのです。

この考えは、どうですか、間違いではないと思いますし、そう考えて自分を築き上げていくのが生物の細胞に仕組まれていると私は考えるのです。

これは合理的であり、セーゼの言う第一と第二の訓戒に寸分も違いはないと、私は考えたのです。  これが良いとすれば、モーゼの十戒のうちの四つは神についてであるから、神は細胞に仕組まれている something great であり、偶像にはできないのにも当てはまるのです。


では第五番以降はどう証明するのかということに移ります。

基本は五番目の 「父母を敬うこと」 に最大の基本を託していると思います。  なんで最大の基本なのか?

一つの生命の創造は父母があってこそ始まるからです。 生命の本旨、それは私は悦楽だと言っていいと考えております。  それは何故か。

人の生涯は男女の特殊細胞の合体に始まります。  特殊というのは各遺伝子の半分ずつを持った細胞の合体だからです。

この生命のスタートは、皆さんご存知のように両親が 「さあ、新しい命を授かりましょう」 と考えてスタートする人は一人もおりません。  生命のスタートを切るには、 「こんな素晴らしい感動はこの世にはない」 という歓喜の喜びに他ならないからです。  生命(イノチ)は歓喜によって始まっているのです。 この祝福すべき一瞬を仕組んでくれたのはほかならぬ神様が仕組んでくれた細胞によってできあがっていることを知って、驚きを隠せませんでした。

「いのちは歓喜によって創られた」 のですから、歓喜を求めて、その生涯を送ることが生命(イノチ)に応える最善の方法であり、それが合理的な思考だと私は考えるようにしました。 間違っているでしょうか?
鮭は生まれ故郷を記憶していて、けなげにも苦しみもがきながらも急流を川上へ戻り子孫を残すではありませんか。  子孫を残した後のあの歓喜は、生命(イノチ)の生涯にふさわしい壮烈な死と理解しなければならないと私は思っております。  秋の夜半に涼しい声で私たちを優雅な気持ちにさせてくれる鈴虫の最期を知った時、壮烈な覚悟と私は感心していた。
人は壮烈な死と感じたとしても、
鮭にしても鈴虫にしても、彼らはどう思っていたのか誰もわかりません。 ただ、善意に察していえば、神の唯一の願うところ、子孫を残すことができた、という大満足の死だったと言えないこともないのです。 そのように細胞自身が目指すように仕組まれているのではないのかと私は思うのです。 歓喜の死だと言えなくもないと私は考えてやりたいのです。
いくら something great の細胞が数多くまとまりあって生きていくとしても、千年も万年も生きていくとすれば全体はギシカタするだろうし増殖や進化もしない。 考えてみれば当然ではないのか。

新陳代謝があってこそ、増殖も進化も種の発展もありうるのです。 やっぱり神 something great の深遠な知恵や配慮に感謝しなければならないと思うのです。 違っていますか?

生命の歓喜とは別のことに移ります。  親子の絆という言葉があります。  生の糸を半分ずつ持っていること、私は漢字からそう理解したい。  とりもなおさずそれは生綱であり臍の緒を意味していると思っています。

この絆ゆえ、親は子どもが病めば寝ずに看病をするし、眠くてもおっぱいをやり、おむつを取りかえて健やかな成長を願うのです。  子に対する愛情は母親には理屈抜きに仕組まれていると思います。 赤ちゃんもまた 「エンジェル・スマイル」 天使の微笑(ホホエミ)で周囲の人たちに応じています。 この親子関係は鳥を見ていても、野生動物を見ていても、子育ては本能的なもののようです。  これは子育て本能といえます。  キタキツネの話も、一人前だと親が認識したときは、親子関係を断ち切って一人で生きていくことを頑強に求め、かみついて子供を近づけず追い払うといいます。  人の社会ではそんなことを聞いたことがありませんが、野生で生きていく親心は私たちでは理解しかねるようなことを実行に移しています。

ジョセフ・チルトン・ピアスの 「マジカル・チャイルド」 には絆については勿論、マトリックスについても次のように指摘しています。
 マトリックス(母胎=womb)とは、ラテン語で子宮という意味である。 この言葉から、物質(matter)、原材料(material)、おふくろ(mama,mum,mummy)、母親(mother)等の言葉が生まれている。 これらの言葉は、そこから生命が生まれる基本要素、ないし物質的実体に関連している。

 子宮は新しく形成される生命に、次の三つのものを提供する。 可能性の源泉、その可能性を探索するエネルギーの源泉、その探索を可能にする安全な場所、である。 この三つが揃えば、それはマトリックスとなる。 そして、マトリックスから与えられた安全な場所に立ちながら、マトリックスから与えられたエネルギーを活用し、マトリックスから与えられた可能性を探索することによって知能が発達するのである。(中略)

 子宮から生れ出た赤ん坊にとっては、母親がエネルギーと可能性の源泉、そしてよって立つべき安全な場所となる。 だから母親はすなわちマトリックスを意味するのである。 より発達した段階では地球そのものがマトリックスにならなければならない。 われわれは地球を母なる大地と呼び習わしてきた。 自然は常に地球の生命全体の魂(スピリット)と考えられ、母なる大地とかマトリックスとか呼ばれてきたのである。
ピアスは母親は生まれてきた赤ちゃんが自分で自分の世界を築いていく援助者であり、安全な場所であり、エネルギーの提供者である、と言い切っています。

さらに加えて、研究者は大脳の発達の仕組みとその能力の驚くべき性能を明らかにしてきており、20世紀初頭からの研究成果を子育てに役立てたほうがいいと私は考えています。

それは何か?

答えは一つ、才能逓減の法則です。 私が幼児教育へのめりこんだ最初のきっかけは、「塾なんかもういらない」という七田真の本でした。 その中でことに目を惹(ヒ)いたのは才能逓減の法則でした。

             才能逓減ていげんの法則
一生の7%の期間で脳の80%がつくられる。 動物には、基本的な知恵を習得するために、脳が働く時期があります。 この期間を「臨界期」と言いますが、人間の場合は、0歳から6歳です。

子供はみんな、無限の可能性を秘めて生まれてきますが、この時期に手をかけないで放っておくと、生来の素質を失ってしまいます。

子供の素質や才能が育つのに、「才能逓減の法則」というものがあります。 子供の脳には、驚異の可能性と吸収性があり、その能力は小さい時期ほど大きい、つまり、早ければ早いほど才能が花開く可能性をたくさん持っているという法則です。

年齢が上がるにつれて、その可能性はだんだん失われていくので、早く働きかけを始めるほど、その子供の才能も大きく伸ばしてあげられるというわけです。

その天才的能力、無限の可能性を引き出すカギ。それが「右脳」です。 そして、その右脳の能力を引き出すために必要なのが、「愛情」です。  右脳教育は、「愛情」を伝え、「徳」を育てる、「心の教育」をベースにしています。

こんな風に解説しています。

七田真さんには出身地の島根県の江津へ訪ねて「ドッツの効果的教え方」を頂いたことがありました。 それは尊い資料でした。 その資料は<http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.100.html>を開けば利用できます。

さらに 「七田式幼児教育」 の塾の開く講座にも参加したこともありました。 先生は私と同じくらいの年配だったのですが、何年か前にご逝去され今はその教えのままをご子息さんが引き継いで指導為されています。

幼児期養育がいかに大事なことかは、私の仕事上痛烈に感じていたことであり、五十歳ころから関係書物は片っ端から手に入れて学んできました。 それらについては、このHPの目次の

  0歳教育関係のもの:……… 【見られてもいい聞かれてもいい、それが基本】
     <http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.02.html>
  続0歳教育関係のもの:… 【是非とも理解しておきたい、それが基本】
     <http://park6.wakwak.com/~y_shimo/momo.10012.html>

で見ることができます。 なお、

  山路を登りきて
     <http://park6.wakwak.com/~y_shimo/momo.470.html>

も参考になります。 さらに、

  月見草出版
     <http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.204.html>
  の三つ目の枠 【生命のとらえ<存在の原点>①】 以下も私の一貫した考えです。