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続折々の記 2020②
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 07 】02/14~ 【 08 】02/18~ 【 09 】02/27~
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【 04 】02/03~
叔父の宮井武彦死亡
人を差別してはならない
・ 時には母のない子のように(黒人霊歌)
近代化とは何か
アメリカの若者の動向
02 03 (月) 今日は節分 明日は立春 春となる
早春賦の歌
春は名のみの風の寒さや
谷の鴬歌は思えど
時にあらずと声も立てず
時にあらずと声も立てず
氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと思うあやにく
今日もきのうも雪の空
今日もきのうも雪の空
春と聞かねば知らでありしを
聞けば急(せ)かるる胸の思いを
いかにせよとのこの頃か
いかにせよとのこの頃か
《蛇足》 作詞の吉丸一昌は、明治6年(1873)に大分県臼杵(うすき)で生まれ、東京帝国大学を卒業したのち、明治41年(1908)に東京音楽学校(現在の東京芸大音楽学部)教授になりました。
『尋常小学校唱歌』の編纂委員として、芳賀矢一、上田万年、高野辰之、佐佐木信綱らとともに日本の唱歌成立に重要な役割を果たしました。 『早春賦』のほか、『故郷を離るる歌』『木の葉』『四つ葉のクローバー』『お玉じゃくし』『浦のあけくれ』『蜜蜂』『蛍狩り』などを作詞したほか、『日の丸』『桃太郎』『池の鯉』『かたつむり』も吉丸の作品ではないかといわれています。
大正5年(1916)に43歳の若さで没。臼杵市に吉丸一昌記念館「早春賦の館」が建っています。
吉丸は、大正の初期に何度か安曇野を訪れ、穂高町(現在あずみの市穂高)あたりの雪解け風景に感動してこの歌を作ったと伝えられています。 穂高町にある大王わさび農場の近くを流れる穂高川の土手には、『早春賦』の歌碑が建っており、毎年4月に「早春賦音楽祭」が開かれます。 安曇野の住人たちは、この歌が安曇野を歌ったものであることに喜びと誇りを感じています。
私が生まれ育った村では、彼の子息が歯医者を開業しており、子どものころ(昭和20年代)、何度か診てもらった記憶があります。東京育ちのはずの子息が安曇野に居を構えたのは、やはり父君の影響だったのかもしれません。
作曲を担当した中田章は、『夏の思い出』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』などを作曲した中田喜直の父。 ある人が中田喜直に、「あなたは夏・秋・冬の定番曲は作っているのに、なぜ春の曲を作らないのですか」と訊いたところ、「春の定番曲には『早春賦』があり、父を尊敬している私としては、あえて作ろうとは思いません」と答えたという話が伝わっています。
2番の「角ぐむ」は、葦、荻、薄、真菰などの芽が角のように出始めること。「あやにく」はあいにくと同じで、折悪しくの意。(二木紘三)
春がきた(歌詞と楽譜)
春が来た 春が来た どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た
花がさく 花がさく どこにさく
山にさく 里にさく 野にもさく
鳥がなく 鳥がなく どこでなく
山でなく 里でなく 野でもなく
1910年(明治43年)発行の『尋常小学読本唱歌』にて発表。1912年(明治45年)3月発行の『尋常小学唱歌 第三学年用』[1]、1932年(昭和7年)発行の『新訂尋常小学唱歌 第三学年用』、1941年(昭和16年)発行の『うたのほん(下)』にも掲載されている。
1番では「~来た」、2番では「~咲く」、3番では「~鳴く」という短いフレーズを繰り返し重ねることにより、リズミカルな効果を生んでいる。
春よ来い 歌入り
春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている
春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている
『春よ来い(はるよこい)』は、大正時代後期に作曲された童謡。歌詞に登場する「みいちゃん」とは、作詞者・相馬御風(そうま ぎょふう/1883-1950)の長女「文子(ふみこ)」がモデルとされている。
歌詞では、「じょじょ(草履)」、「おんも(表・外)」などの幼稚語をうまく取り入れつつ、「あるきはじめた」ばかりのみぃちゃんの視点を通して、雪に閉ざされた越後の冬で静かに春を待ち望む人々の強い思いが伝わってくる。
作曲は、『鯉のぼり』、『浜千鳥』、『雀の学校』などで知られる弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう/1892-1952)。
相馬御風の故郷 新潟県糸魚川市の雪
相馬御風の故郷である新潟県糸魚川市は、日本海に面した新潟県の最も西端の市で、フォッサマグナの西端が通る東西の境界線上に位置している。
累積降雪量は4メートルを超える年もあり、糸魚川シーサイドバレーなどのスキー場には毎年大勢のスキー客が訪れる。世界的にも珍しいヒスイの産地であり、景勝地親不知でも有名。
新潟の深い雪に閉ざされた冬の間は、もちろん外では遊べない。童謡『春よ来い』の歌詞には、早く春になって雪が解けるのを待ち遠しく思う「みいちゃん」の思いが込められている。
ちなみに、合唱曲『親しらず子しらず』(山本和夫作詞、岩河三郎作曲)は、同じく糸魚川市の地方に伝わる伝承が元になっているとのこと。
今朝は4日です。 春の歌が口をついてでましたから昨日は歌詞などひろいました。
小さい子供を見ているとその目の輝きや動きは、純真なほほえましい柔(やわ)らかさ安らぎを、私に伝えてくれるのです。 私は嬉しくなっていつも微笑みます。 テレビでは映像を撮影する人の気持ちまで察して嬉しくなるのです。
特別連絡 叔父の武彦死す
実母の末弟宮井武彦3日ご逝去、いま4日午後5:45だが悲しい知らせを5:00頃知久一彦から電話で受けた。 この一月見舞いに行ってきた。 大事な叔父だった。 年齢は一つ上だから今年生まれ月で93才になる。
彼は父親の宮井英太の弟宮井慶次に後継ぎがなく幼少のころ養子として叔父の家へ行った。 飯田中学から昭和20年海軍兵学校へ進んだ。 戦後上級学校へは進まず職業安定所へ就職した。 気の毒に思った。
小学生4年ころ母と在所へいった時、「青葉の笛」を聞いた。 それは独特の柔らかな温かみのあるまろやかな声であった。 素晴らしい声だったので、それは今でも忘れることができない。 懐かしい大事な人であった。 叔父は私の頭の中に実兄と共になっている。 やがてはすべて消え去る。 冥福を祈る。
葬儀は6日の午後1:00からアイホール上郷だという。南信州新聞記事にでている。
アイホール(飯田市 下伊那の葬儀・家族葬・お通夜はアイホールいとう)
https://www.i-hall.co.jp/
アイホール上郷 神葬祭にて
住所:〒395-0004 長野県飯田市上郷黒田2072-1 TEL 0265-56-4187
https://www.i-hall.co.jp/hall/kamisato/ 施設概要
駐車場100台完備
宿泊施設完備/冷暖房完備/バスルーム/パウダールーム完備/
身障者用トイレ完備(バリアフリー)/記帳室/ビデオプロジェクター/
年中無休24時間営業
出棺 2月6日 アイホール上郷 7;35
自宅前挨拶 7;45
告別式 13:00~14:00
喪主 宮井光広
02 06 (木) 叔父の宮井武彦死亡 私には大事な人だった
叔父宮井武彦の葬儀、告別式から参加
誰でも学びによって自分を築き上げた考え方を大事にしており、人の考え意見に対して批判的になって学びとることがだんだん少なくなってくる。 これも人はそれぞれの基本であって、死んでしまう時までその性分は変わらない。
業 とは、時分で自分を作り上げてきた知徳体である。 自意識によらず環境から知徳体すべてを真似る時期を過ぎ、自分の意識によって自分を作り上げる時期、それらをふくめて業 という。
この自分で自分を作ることができない業は、自意識になってから自分ではどうすることもできない。 自意識による自分づくりの業を自業自得という。 無意識のうちにできる業は、親や家族と自然を含めるすべての環境に適応し善悪すべて対人対応に至るまで、人は業により自分を作っている。
若くて死ぬ人も高齢で死ぬ人もある。 死ぬというのは、自分が生きてきた生涯の締めくくりであり、それは天寿と考えなければならない。 明日の宮井武彦の死に際し、満幅の感謝と御礼、冥福をささげる。
人を差別してはならない
The Spirituals (黒人霊歌)
http://www.hushharbor.net/history/spirituals/s.html
Spirituals /黒人霊歌は(slave songs, plantation songs, jubilee songsとも呼ばれる)、African-Americans/アフリカ系アメリカ人にとって苦痛に満ちた時代に生まれた唄です。それは、彼らが故郷であるアフリカ大陸から何千マイルも離れた見も知らぬ地まで奴隷船*で運ばれ、そこで奴隷として生きなければならなかったという極めて切迫した現実の中で生まれました。
アメリカ合衆国に連れてこられた彼らは奴隷主である白人に教会に連れていかれ、教会の礼拝を経験しましたが、彼らが真の意味で魂の解放を得たのは、一日の苦役を終えた夜遅くに仲間と秘密に集まりあって、白人達の家から離れた場所で自分達だけの礼拝を持って、神に祈り、歌い、踊った時間であったと伝えられています。それが彼ら自身のキリスト信仰の形でした。
彼らが集まった場所はHush Harborと呼ばれ、白人達の教会を「目に見える教会*1」としたならば、Hush Harborは社会的に「見えない教会/隠れた教会」と言えました。奴隷主達*2は奴隷達が集団を形成することを非常に警戒していたため(もちろん奴隷蜂起、叛乱などをおそれていたわけです)、Hush Harborが発見されれば刑罰が加えられるのは明白でしたが、その危険の中で彼らは集まりました。
Spirituals /黒人霊歌の歌詞と音楽は、逆にそうしたテンションによって強められたともいえるでしょう。そうした切迫した日常からの解放、人間としての真の自由を求める魂、彼らがアフリカ人として継承してきた文化/伝統/習慣の発現、イエス・キリストを信じる新しい信仰の中で彼らの求める自由が実現されるという希望の確信、そのすべてによってSpirituals /黒人霊歌は生み出されました。こうして、Spirituals /黒人霊歌はHush Harborのような場所を中心に長い時間をかけて形成されていったと言われています。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E4%BA%BA%E9%9C%8A%E6%AD%8C-64065
この解説もとても参考になる。
黒人霊歌
Sometimes I Feel like A Motherless Child
時には母のない子のように
世界の民謡・童謡には次のように Spirituals がでている。
時々 自分が母のない子のように感じられる 二度と戻れない故郷
『時には母のない子のように Sometimes I Feel like A Motherless Child』は、19世紀アメリカで生まれた伝統的な黒人霊歌。
親元から引き離されてアフリカからアメリカへ連れて来られ、もう二度と生きて母親には会えないという過酷な運命を改めて顧みながら、その境遇が時々「母のない子のように」感じられると嘆き悲しむ黒人労働者たち。
歌詞には「A long ways from home」、すなわち「故郷アフリカから遠く離れて」とあるが、この「home」が意味する所は決して現実世界の生まれ故郷の意味だけではなく、彼らにとって唯一の心の支えでもある主イエスの御許、人間界での苦役を終えて魂が帰る安息の地を意味しているようにも思われる。
過酷な労働と劣悪な生活環境に晒され、黒人労働者たちは幾度も生死の境をさまよいながら、栄養状態も悪く痩せこけた体に鞭打ってひたすら労働を続ける。ついに「くたばる直前(I feel like I'm almos' gone)」までに至れば、死ぬほど苦しんだ過酷な運命も「もうすぐ終わりだ Soon-Ah Will Be Done」となるのだろうか。
Sometimes I Feel Like a Motherless Child -Paul Robeson
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
A long way from home
A long way from home
Sometimes I feel like I'm almost gone
Sometimes I feel like I'm almost gone
Sometimes I feel like I'm almost gone
Way up in the heavenly land
Way up in the heavenly land
母なし子のように (訳詞: ゆうこ)
時々 私は 母なし子のような気分になる
時々 私は 母なし子のような気分になる
時々 私は 母なし子のような気分になる
ふるさとを 遠く離れて
ふるさとを 遠く離れて
時々 私は もうだめだと思うことがある
時々 私は もうだめだと思うことがある
時々 私は もうだめだと思うことがある
天国が 間近に感じられて
天国が 間近に感じられて
ニュースを見ていると、下院で民主党員多数によってトランプ大統領の弾劾裁判が可決され上院では共和党員の多数によって無罪判決となった。 トランプはアメリカファーストを主唱して覇権主義からの脱出に拍車をかけ国内企業の充実を図り、いわゆる貿易収支の均衡を図った。
実情を見ていると、黒人や移民の人々への差別は、人種という意味ばかりではなく白人労働者の漸減ゆえだったことがはっきりして来たことが原因だった。
この傾向は、日本でも共通の課題なのである。 アメリカは黒人の労働力によって企業の発展を伸ばした。 そして劣悪な黒人の労働環境ゆえに黒人霊歌がうまれ、キング牧師はそうした奴隷制度廃止後の劣悪差別に対する黒人統合のりーだーだった。
あれこれ総合してみると、差別社会は日本の社会構造になかにも人知れず浸透している。 近代化とは何を意味してきたのか?
私たちはこの課題から根底から考え直す必要があると私は思うようになった。
近代化とは何か
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
近代化とは、産業化を中心として、それに関連した政治的・社会的・心理的その他、さまざまな変化の総体を指す。産業化は、ニュートンの科学革命以来の科学技術の成果を系統的・累積的に活用して、生産力はじめ環境をコントロールする能力を高めていく過程でもあり、その本格化は18世紀後半のイギリスに始まった。いわゆる産業革命である。やがて、その動きはヨーロッパ大陸や北アメリカに伝わり、19世紀後半から20世紀初頭にかけてはロシアや東欧、日本もその動きに加わって、20世紀後半には全世界を覆うこととなった。
同資料によると、「日本の近代化」を次のように解説している。
明治維新以降、日本は欧米先進国の文物や制度を導入し、独立を保ちながらも条約改正の努力を行い、国際的地位の上昇を図りつつ不平等条約を改正していくことを目指した。
開国直後の江戸時代末期に幕府や雄藩が近代化の取り組みを始め、明治政府の主導により「上からの近代化」が推し進められた。官営工場を建設し、江戸時代から継続する三井・三菱・住友などの商業資本を土台にしつつ、日清戦争期に軽工業を、日露戦争期に重化学工業を発達させた。
非ヨーロッパ国として憲法を制定し、日露戦争に勝利したことで、当時の先進国にあたる列強の1つ(五大国)と呼ばれるようになった。しかし、原料の補給と商品の販売は植民地に依存せざるを得ず、第二次世界大戦終結までアジアへの領土拡大が行なわれた。
第二次世界大戦によりいったんは日本の工業は壊滅状態に陥ったが、敗戦後の1946年から1951年の間に、アメリカの「占領地域救済政府資金」 (GARIOA) と「占領地域経済復興資金」 (EROA) から約50億ドルのODAが援助された。このときはカナダ、メキシコ、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどからも生活物資や食料などが援助されている。朝鮮戦争の軍需により復興の糸口を掴み、1953年には、世界銀行から多国間援助である有償資金を使用して東海道新幹線、東名高速道路などを建設開始し、高度経済成長を実現した。1968年にはアメリカに次ぐ経済大国となり、再び先進国入りを果たした。
大掴 みな解説であるが、流れを理解するにはこれでいいとします。
ここの解説を見ていると、主として経済構造の筋を追っているようです。 社会生活での人々の生活では近代化によってどんな意識の変化があったのかには、ほとんど触れていない。
具体的に言えば、①として企業雇用の近代化は行われたのか、②として収益配分の近代化は行われたのか、③として雇用主と労働者の意識関係の近代化は行われたのか、④として教育の近代化は行われたのか、以上に分けてみる時いわゆる⑤人権(自由や権利)の近代化は行われたのかという視点からの考察批判をしなければならないと思うのです。
⑤にかかわったことだが、 年を取ってみて見ていると、無制限な競争社会が大手を振って横行しているように見えるのです。 その競争が抱える問題は、能力の優劣による格差が生み出す意識の弊害が毎日のように新聞紙上のニュースとして表れているのです。 殺人、強盗や窃盗、親子間のきしみ、上司と部下の軋轢、そして自殺。 幼少期や青春期の子供たちは毎日夢を持って生きるようにできているのに、………
02 09 (日) アメリカの若者の動向
今朝 5:45 頃、郵便箱から新聞を取り出した。 街灯では見出しもはっきり読めない。 懐中電気で見ると、「若者が支える、78歳革新派 広がる貧富の差、怒り」が読み取れた。
書斎に入ってインターネットで見ると、若者とはアメリカで日本の若者ではなかった。 実は ‘若者の革新気風がどうも見えてこない’ と内心不満の気持ちがあった。
記事はアトランタ州の担当記者のものでした。 その情報を読んでいくと、今更ながらアメリカの歴史は日本と違うという思いに打たれた。 それは別として、直接大統領選挙に結び付くという感覚は日本の議員選挙とはまるで程度が違う、と思った。 政治意識をじかに一人一人が受け止めている。 どうせ同じような結果だ、という日本の選挙感覚とは雲泥の差がある。
そのことに驚くとともに、日本の幕末・明治にかけての若者の意識とくらべても雲泥の差があると思います。 もちろん維新前後の事情とは全く違いますが、ただ日本の行方 については戦後の危機にあるという認識が感じられない。
今日の新聞の 「広がる貧富の差」 は日本としても明白なはずなのに………、と思います。 それにもまして、日本が再び戦前のように軍事力について歯止めが利かなくなる状況だというのに、である。 平和憲法を踏みにじるような考えでは、平和への願いは遠のくばかりではありませんか。
日本の若者に目を覚ましてほしい。 時代認識には歴史を大事に考え直さなくてはなりません。 温故知新の心からの理解を欲しいと願っているのです。
という意味で、今日の新聞を大事にそして深く読み取る必要があるのです。
2020米大統領選 分極社会
2020年2月9日 5時00分
若者が支える、78歳革新派 広がる貧富の差、怒り
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14359647.html?ref=pcviewer
1月31日、米アイオワ州デモインのイベント会場。若者を中心に約2千人が集まるなか、声が響いた。
「収入にかかわらず、すべての米国民が高等教育を受けられるようにすべきだ。公立大学の無償化と学生ローンの免除をともに実現しよう」
話していたのは、民主党の大統領候補を目指すバーニー・サンダース上院議員(78)。音声のみの参加だったが、支持者からは大きな歓声が上がった。
大統領候補選びの第一歩となる、今月3日の同州党員集会でも、手厚い福祉政策などを訴える「革新派」のサンダース氏が代議員の26・1%を獲得。26・2%でトップの「穏健派」のピート・ブダジェッジ前サウスベンド市長(38)と並んで接戦を展開している。
サンダース氏の主張は、米社会では「極端」と受け止められがちだったが、ここに来て勢いを増す。支えるのは、若者だ。米メディアが党員集会参加者に行った調査では、17~29歳の48%がサンダース氏支持と答えた。この世代でブダジェッジ氏の支持率は19%、同じく穏健派のバイデン前副大統領(77)はわずか3%。逆に、65歳以上では33%がバイデン氏を支持し、サンダース氏は4%。世代間で大きな違いが出た。
他州でも、若い世代はサンダース氏に期待を寄せる。ニューヨークのバーテンダー、カイル・デランシーさん(32)は「富裕層に高い税金を課す税制政策を最も評価している。ほかの候補は口だけ。ちゃんと実行できるのはバーニーだけだ」と語る。金融危機直後の2009年、ペンシルベニア州の私立大学を卒業した。学費などをまかなうため、卒業時に背負った学生ローンは総額で7万3千ドル(約800万円)あった。
卒業後に初めて就いた仕事は年収3万ドル。ローンの返済が滞り、利息が加わって10万ドルにまでふくれあがった。現在も利息だけで年間の支払額が6千ドルにのぼり、元本が返済できる見通しはたたない。「今の米国社会には、持続不可能なことがたくさんありすぎる。貧富の差は広がるばかり」と憤る。
貧富の格差の拡大や多額の学生ローン。米国の若い世代には「将来に希望が持てない」との思いが広がる。こうした閉塞感(へいそくかん)が、大統領選の行方を左右する可能性がある。(デモイン=鵜飼啓)
(2面に続く)
(1面から続く)
【図版】米国の主な世代とその特徴
昨年後半に、米国で流行した言葉がある。
「OK、ブーマー」
若者に小言を言う年配者に対し、「はいはい」と聞き流すような意味合いだ。言外に「もういい加減にして」という響きがある。
批判の対象とするのは、1946~64年に生まれた、ベビーブーマーたち。米国社会を形作るのに大きな役割を果たし、経済成長などのメリットも最大限に受けてきた。それだけに、同じような恩恵が受けられず、閉塞(へいそく)感が強まる若い世代からの突き上げも強い。
「気楽に生きてきた上の世代は富を独占し、気ままに生き続けられるシステムを作り上げた。犠牲になるのは若い世代」
米ウィスコンシン州マディソンの疫学者メーガン・レイジャーさん(31)はこう話す。父は電気技師、母は会計士。中流階級で不自由のない子ども時代を送った。だが、両親は娘の大学進学に備えた教育資金を用意していなかった。
高校卒業の翌日から入学までの夏の間、自動車部品メーカーの工場で夜勤に入り、週40時間働いた。それでも稼ぎは1年分の学費にもならず、在学中は寮の掃除係などとして働いた。疫学士になるという夢をかなえるため、働きながら大学院へ進んだが、卒業までに背負った学生ローンは8万ドル(約871万円)に達する。
現在、州政府衛生局で働くレイジャーさんの年収は6万ドルほど。学生ローン返済に月約500ドル、2年前に買った住宅のローン返済に月1200ドル、昨年7月に生まれた息子の託児所費用に週305ドルかかる。学生ローンをこのまま返済するには、30年かかる。
「完済する前に息子が大学生になり、自分の学生ローンを抱える。将来に向けた貯金や子どもの教育費積み立てをする余裕は全くない」
大学の学費は、年々高騰している。年間費用は85年度に平均約4900ドルだったが、16年度は約2万3千ドル。一般家庭では負担しにくく学生ローンに頼る人が多い。世論調査機関ピュー・リサーチ・センターによると、19年には約4500万人が総額1兆5600億ドルのローンを抱えていた。
こうした経済的状況を受け、若い世代は「大きな政府」による社会保障の充実などを掲げる民主党を支持する傾向が強い。同センターの18年の報告では、ミレニアル世代(81~96年生まれ)の59%が民主党支持で、32%の共和党を圧倒。民主48%、共和46%で拮抗(きっこう)するベビーブーマーなどと大きく違った。
■年配者、自ら切り開いた自負
移民の影響で、米国のミレニアルは現在も増えている。同センターの推計によると、19年中に7300万人となった。一方、ベビーブーマーは7200万人に減り、初めて逆転した。
ブーマー世代は、突き上げをどう受け止めているのだろうか。
「我々の世代が子育てに失敗した。若い世代は自分から何かを勝ち取ろうとせず、なんでもただで与えられると思っている」。ジョージア州アトランタ郊外で木材内装業を営んでいたカール・ストークスさん(67)は嘆く。学生ローンに苦しむ人たちについても「自分で選んだ道だ。ほかにも選択肢があったはずだ」と突き放す。
その気持ちを支えるのは、「自分はそうしてきた」という自負だ。
幼いときに父を事故で亡くし、屋根を補修する会社で働きながら、学費を自分で稼いだ。ジョージア工科大で設計を学んだが、講師の設計士よりも自分の稼ぎが良いことに気づき、学位を取らずに中退し、建設業に身を投じた。数年して独立、一時は18人を雇い、年商300万ドルをあげた。
政府や公的資金に頼る風潮に抵抗を感じるストークスさんはトランプ大統領を熱心に支持し、16年の大統領選では選挙運動にも加わった。「ツイートの書きぶりは評価しないが、失業率の低さなど、実績は素晴らしい。この路線を続けてほしい」と語る。
30年前から今の家に住むが、当時から近所に残るのはほかに1世帯だけで、幼い子どもを持つ若い家族が増えてきた。以前は多かった共和党支持者が減り、居心地の悪さを感じる。
民主党のシンボルカラーの青を引き合いに、ストークスさんは「ここは自分にとっては青くなりすぎた」と語る。数年以内に、もっと落ち着いた場所に引っ越そうと考えている。(マディソン、アトランタ=鵜飼啓)
■異なる人種構成、考え方に違い
米国では、同じころに生まれた人たちを、考え方や生活スタイルの特徴が似ている「世代」としてとらえることが多い。
大恐慌から第2次世界大戦にかけての1928~45年に生まれたのは、幼いころから苦難に直面した「沈黙の世代」。続くベビーブーマーは戦争が終わり、安心して家庭を築けるようになった時期に生まれ、出生率が低下する64年で区切られる。その後に「X世代」(65~80年生まれ)が続き、再び出生率が上昇してミレニアルとなる。
ミレニアルの多くは、ベビーブーマーの子どもたちだ。ただ、ブルッキングス研究所のウィリアム・フレイ上席研究員(人口統計学)は、この2世代の人種構成の違いに注目する。14年時点でベビーブーマーは72%が白人だったが、ミレニアルは57%。「ベビーブーマーの白人は、黒人との交流がほとんどないまま育った。ミレニアルは背景の異なる人たちと交わる経験が豊富で、多様性の受容度が高い」と指摘する。
実際、考え方の違いも目立つ。ピュー・リサーチ・センターの調査では、ミレニアルの79%は「移民の受け入れは国を強くする」と答えたが、ベビーブーマーは56%。同性婚への支持なども、ミレニアルの方が高い。
見出しを見て抵抗感があったのだが、読んでみると親の教育資金の準備ができていないことや、ローンで教育費を賄った場合の異様な学費の高額なことや、卒業後の賃金が少ないことなどという、客観的データという感じがしないでもなかった。
けれども 「若者 ……… 貧富の差、怒り」がアメリカの若者の情報だとわかって、逆に日本の若者について若者だけではなくて大人までと言っていいが、憤懣の思いがわいた。