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続折々の記 2020③
【心に浮かぶよしなしごと】
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             ・ モーゼの十戒と敬神崇祖  「大和民族はユダヤ人だった」を読んで
           
 03 04 (水) モーゼの十戒と敬神崇祖 「大和民族はユダヤ人だった」を読んで

他人ひと事ではないことが続いている。

平和への道筋を求めていた。 世界中の人が平和を求めているのに、学者にしても評論家にしても、眼前の時間の上では短いスパンで、意見表明はしていいる。 けれども、何の目的で自分の意見を展開しているのか殆どの人がそれについての筋道を話していない。

短期間での道筋で進んで話したにしても、挙句の果てについて語らないのでは、何のための議論なのか一向に私は判断できない。

しっかりした目当てがあってこそ、どんな苦労もいとわず、精進努力できるというものではないのか。

私は20台半ばでは自分の仕事に夢中になっていた。 中学生が相手だったから、運動も思い切ってしていた。 当時は今のように勤務は窮屈ではなかった。 一日終えて家に帰った時には腹はぺこぺこでしたから、ろくなおかずはなくても、腹いっぱいの夕飯だった。 こんなことが一年も続くと、胃酸過多になるとは考えもしなかった。

須坂の職員病院で今でいう人間ドックを受けたときに、糖尿だと診断をしてくれた。 そんなことは気にもかけずに20年は過ぎた。 机に向かって仕事をしていると、夏だというのに足元に涼しい風が吹いているように感じがすることに気づいた。

その後下腹がつるような感じがするので市立病院で診断を受けた。 それは鼠径ヘルニアだという。 手術前の検査で、糖尿病もよくないから直しましょうと勧められたのである。

鼠径ヘルニアが済んでから、糖尿の治療が始まった。 これが曲者で、死ぬまで続くようなことも言われました。

若い時の診断がこれから治療という段階になったと腹を決めたのである。 それから自分の健康について、あれこれと本を読んで筋膜運動もしているうち、今度は医師から詳しい尿検査をしなさいといわれ、MRIの結果を待った。 今度は前立腺ガンだという。

ガン治療の本を見ていると、これがまたなかなか大変なことが判った。 ガン治療は食事療法や何やら多岐にわたっていていたが、前立腺ガンは女性ホルモン関係の注射を月に一回していけば怖いことはないという。 確かにその通り、一回注射しただけで検査数値は普通といえるほどに下がっていた。 それはそれで今も続いている。

ところで、孫は三人しかいない。 大事な大事な孫だ。 

飯田を通るリニア新幹線に乗るまでは生きていたい。 三人の曽孫の顔を見て東京まで乗ってみたい。 それを健康維持の目あてにして健康でいたい。

健康については家内も深い関心を持っていてくれる。 自分でもいろいろと本をあさって読んできた。 「生命の暗号」では1990年ころというから、40年前ころに something great 「何か偉大なもの」という言葉を使って、生物の分子の働きを驚くべき能力を持つものとして名付けています。 この something great はすべての生命体が持つ能力であり、私は神という概念だと確信することになりました。

何年か前に右手の人差し指を粗相で付け根を残して切り落としてしまいました。 医者は関節下で切らないと駄目かもしれないといいましたが、なんとか丸鋸で切られた肉片を縫ってくれました。 それが形はおかしいにしても、小さい爪の人差し指が再生しました。 トカゲのしっぽの再生話は聞いたことがありますが、人のいろいろの手術が成功するのも、小さい切り傷が絆創膏で血止めをした程度でも何年かすると治ったことも忘れています。 蘇生能力はすべての細胞たちが持っており、自分たちで相談して修復していることにも驚かされることなのです。 細胞の力ということには知らずにいれば知らずに済んでいるのです。

「生命の暗号」をみて、命とは何なのか。 すべての土台になるこのことについて、自分なりのまとめ方をするようになりました。

朝起きて、寝床の中で手首足首頭首の筋膜伸ばしをしばらくし、耳擦り顔擦り手擦りをして血流を促します。 すべて細胞の目覚めと筋肉の目覚めのためにと思うからです。 寝たままの自転車こぎは一番呼吸が激しくなる運動だとわかります。

洗面所の手ぬぐいかけは一間ほどあるので、今度は手ぬぐいかけのパイプを両手で握り、つま先歩行をします。 左足つま先歩行を二回「イ―チ」、続いて右足歩行二回「ニ―イ」、この二拍子ずつ、つづいて「サ―ン」「シ―イ」と進めて「ゴジュ―ウ」までやり、今度は普通のつま先歩きで「イチ」から「ジュウ」までゆっくりその場歩きでつま先の関節運動をします。  次に足を肩幅に平行に開き、上体はそのままで膝の屈伸をゆっくり十回、足を揃えて片足腰支え左右10~20回。  続いて手ぬぐいかけのパイプを両手で握ったまま、昔の大便姿勢とし、体重を前横後ろに移動して体重を支えて左右にそれそれれ10回ずつ。 同じ姿勢で上体を右向き左向きにねじる筋膜体操。 これで蹲踞の姿勢をとれるようにする。 立ち上がってパイプをにぎり両脚を大きく開き、片足屈伸をする。 これは無理をしないようできるほどにとどめる。 最後にパイプを背にして両手でパイプを握りできる限り両腕を広げ、腰を落とす。 立ち上がってできるだけ腕を後ろに握りかえ、右肩を前へゆっくり出していく。続いて左肩をゆっくり出していく。 あとは直立姿勢であごをゆっくりひいて猫背の是正をする。

長々書いたがこれは要領だから、自分に適した方法とか本に書いてある方法を取り入れればいいと思う。

これが済んだら夜着をたたんで働く服装に着替え、家の朝を迎える。

居間のカーテンを行儀よく開ける。 茶碗に残ったお茶を飲むか、白湯を一杯飲む。 冷や水は一段と美味いのです。

玄関を開けて家の朝を迎える。

今は暗い時が多いので玄関の電機は明るくし、まず鉢植えたちに「みんなおはようございます」「朝が来たよ元気ですか?」と言いながら鉢植えの花や葉っぱに順に触って挨拶してから、「玄関を開けますよ」と言いながら玄関のトメを外します。 次に真広じいさんが手に入れた小さなお地蔵さんに「お地蔵さん、おはようございます。私もお釈迦様の教えを守って明るく生きていきます」と挨拶するのです。 そして「命を大切にします。命は細胞です。細胞は something great です。 細胞は神様です。 細胞のお陰で家もあり畳もあり文化もあり、すべては細胞のおかげで、感謝します。ありがとうございます」と一人でしゃべって自分の仕事場へ向かうのです。

何でこんなことまでするのか。 こんなことまで書かなくてもいいじゃないか?

何故書いたか。  こんな心の動きがあったからだ。 生きる目的は何なのかという課題に対して、生きる目的は唯一子孫を残すことにあると確信するようになったからだ。

何故かと言えばこんなことを見てまとめたからです。 サケの生涯がそれを見せています。 カマキリやスズムシも同じことだとも言う。 一年生植物は種子を残して枯れる。 多年生になると、一年ごとに種子を残す。 動物にしてみるとサケのように何年もかけて、子孫を残し生涯を閉じるのもあるし、ネズミのように一年に何回も子孫を残すものもある。

命をのこす!!  こんな凄いことをするのに平気でいていいのか!!  人も子孫を残そうとして結婚しようとする人はまずない。 この素晴らしい子孫を残す偉業がスムーズに無意識のうちに行われるのは、細胞に秘められた生きる本能からだからだと思います。  違いますか?  素晴らしい細胞の能力であり、この生きる能力を与えているのは自然の力、自然の能力という言葉で過ごせることではありません。 だからこそこの不可思議な能力を something great(なにか偉大なもの = かみさま) といってもいいと私は確信しているのです。

朝を迎える習慣として自分の言葉をつぶやき、今朝なぜか 「敬神崇祖」 という言葉が頭をよぎりました。 「アレッ!! これはモーゼの教えそのものじゃないか」 と気づいたのです。

ですから、続いて仕事場へきて、パソコンで 「敬神崇祖」 を検索しました。 これはまた驚くことに次ぎ様な解説が最初に載っていたのです。

   千早振る神の生み出す生みの子よ親の心をいたましむるな

その解説はモーゼが一番基本にした考えと全く同じだったと思いました。

一番の基本というのは自分の考え方で言うのだが、もともと 「十戒」 の1~4は、ヘブライ人一族を連れてエジプトの苦役から逃れるために、神について語り統率をかためる狙いだった、だろうと私は理解しました。 もちろん神についての根拠となる考えは、「なぜ親から赤ちゃんは一人の人間としての能力を備えて生まれてくるのだろうかという根源を考え求め、赤ちゃん自身に不可思議な能力( something great )を与えたものを神と表現したに相違ない」と私は推察しました。 だから 「十戒」 の2として、神の偶像は作ってはならない、としているのだと思います。

1.  主が唯一の神であること
2.  偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3.  神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.  安息日を守ること
5.  父母を敬うこと
6.  殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
7.  姦淫をしてはいけないこと
8.  盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
9.  隣人について偽証してはいけないこと
10.  隣人の財産をむさぼってはいけないこと                   
そして、命の実際の伝承者は父母ですから、その父母を敬うことを主とし、十戒の5~10は人が社会集団として心得るべき大事なことを述べていると解釈すると、モーゼの訓戒は一つのまとまりとして胸に収まりやすいのです。 そう考えていいのだろうと思います。

他人ひと事ではないことが続いている」と思うのは、世界の政治や財界のリーダーの人たちが、人の根本になる ‘モーゼの十戒’ や ‘宗教のよりどころの考え’ や ‘黄金律’ を踏み外してのウソがまかり通り、更に競争を基本にした自由や平等、蓄財の制限もなく、また能力によっての所得格差が横行しています。 それにまた、コロナウイルス騒動です。 他人本位の農薬を使って他の生き物を駆除しようとしているその被害に対抗しての菌の反撃だと言ってもいいのです。 余りにもおかしい生活を強いられている結果を見て、他人事ではない、自分たち自身のまき散らした問題だと思うから言うのです。 ことの核心は間違っていないと思います。

今の世界は核の脅威にさらされ、望ましい温かい家庭生活ができなくなっているのです。 所得格差や友達間のいじめにあえぎ、21世紀になっても社会生活に明るさがなくなって悲しみばかり多くなっているのです。 他人のことは知らんぞ、ちゃんとやらないからだ等言ってはおれないのです。

親を敬うこと。 モーゼの言葉は、苦しい生活を体験してこそ言える言葉である。 モーゼはどんな体験から、そんなことを自信もって人様に訓戒として話をしたのか。 「大和民族はユダヤ人だった」 の 36p から 52p に挿入されている地図を照合しながら読んでみると、アフリカ大陸をよくも40年流浪したことがわかる。 ミトコンドリアDNAの解読によって日本人の祖先としてモーゼに率いられたヘブライ人たちこそ、私たちの祖先の人たちだったことを思えば、その辛苦はいかばかりだったかと涙を誘うのです。 親を敬うことという表現は、実は祖先を思いやることとかどんな体験をしてきたのかとか体験した中味を知ることとか、そういう広く深い内容を含む表現だと私は考えているのです。

こう考えてくると、モーゼは凄い人だったと思います。 ヘブライ人とかそうではないとかそんな小さい考えではなく、私たち一人ひとりそっくり受け取るべき言葉を残してくれた人だと思います。 違いますか?

誰しもモーゼの二つの言葉を胸に抱き生活すべきなのです。
   
ほんとうのこと求める (真実を求める)
   
見られても聞かれても真似されてもいい人になる (行動の基本)

この二つは、モーゼの教えを生活の中で実践していくときに、おぼえやすい言葉と私は思うからです。

ほんとうのこと、それは何か?  自分のすべてはパンツが知っている !!!

見られても聞かれても真似されてもいい、それは何か?  自分のスベテです !!!

親が心すべきことの根本はこの二つのことです。 自分が生徒をあずかって教育してきましたが、ウソ-カクシがないこと、親がわが子を育てる最低の大事なことはこのことと信じて大事な子供さんを指導してきました。 間違っていないことなのです。

もう一つの親の心得の大事な心得は、大事な我が子に真似されても恥ずかしくない覚悟だと、長年の教育を通して確信したことです。

この二つは、モーゼの心に即通ずると思っています。 これは私の表現であり、それぞれの親が自分で考えて表現しても構わないと思っています。 親こそ生命いのちいずみなのです。 さらに別の言葉でいえば、親こそ神様なのです。 こんなことを言ってはいけないとモーゼは十戒の二番目に戒めています。

私の表現の解説は以上です。

それでは次に「父母を敬う」ということで、「敬神崇祖」の “千早振る 云々”に移ります。


※ 敬神崇祖の言葉で検索 その一番初めの資料

千早振る神の生み出す生みの子よ
          親の心をいたましむるな


 平成30年・31年の2年間にわたる修行目標は、よりよく生きるための“五つの誠”の第二項の“孝養の誠”を眼目に、「活(い)かし合って取り次ごう!」を合言葉として、「暮らしの基本に“敬神崇祖(けいしんすうそ)”」を、教主様よりお示しいただきました。

 「敬神崇祖」とは、神を敬い先祖を崇めるという意味です。この四文字熟語は、今日(こんにち)国語辞典に掲載されていません。先の大戦までは辞典に記されていたとのことですが、戦後教育において“政教分離”のもとに辞典から消えてしまったのです。古来、この「敬神崇祖」は“神道の基本精神”として大切にされ、わが日本国の、そして日本人の根本精神でした。殊に「崇祖」の精神は、日本におけるほとんどの宗教に共通する概念で、わが国の宗教は神道や仏教を問わず、“先祖教”と言えます。

 御文一九号の今号の御(み)歌は「天照大御神が生み出(い)だす子供よ、親神様の御心を痛めさせてはなりません」という意味です(「千早振(ちはやぶ)る」とは「神」にかかる枕詞(まくらことば)で、特に意味はありません)。この御歌に続く御文は殊に格調高く、私たち人間は大御神様のご分心(ぶんしん、みわけみたま)をいただく、いわば神の子で、一切がご神徳の中の出来事であるから、ご神慮に沿って天命(大御神様のご命)のままに生きていくならば、少しも苦になることはないと強調されています。

 そこのところを赤木忠春高弟は、「親の親その親々をたずぬれば天照(あまてら)します日の大御神」と詠まれています。

 教祖神は「孝に生き、孝に病み、孝に救われ、孝に悟られた」ご一生でした。私たちの信心は、子が親に誠を尽くす“孝心”に外(ほか)なりません。そこには“神や霊(みたま)のたたり”といったものはなく、暗く陰気な心は存在しません

 私たちを“開運の道”へとお導き下さる天照大御神、ご一体の教祖神、また各ご家庭の守護神(まもりのかみ)であるご先祖に“孝養の誠”を捧(ささ)げ尽くすことが、ご分心をいただく神の子としてのつとめといえましょう

 黒住教について

黒住教くろずみきょうは、備前岡山藩の守護神社・今村宮の神官であった黒住宗忠くろずみむねただ(1780~1850)が、江戸時代(文化11年11月11日・西暦1814年)に開いた教派神道です。幕末三大新宗教に数えられ、神道十三派の草分けです。 死を覚悟するほどの病を克服した宗忠が、満34歳の誕生日であった冬至の日に、昇る朝日を拝む「日拝にっぱい」の最中に天啓を得て、天照大御神あまてらすおおみかみと一体になるという「天命直授てんめいじきじゅ」の宗教的体験をして立教しました。その教えは、一切万物すべての親神が天照大御神で、その尊いはたらきの中であらゆるものが存在し、人は天照大御神の「分ぶん心しん」をいただいた神の子であるという世界観です。

 教祖神

黒住教を立教した教祖神・黒住宗忠について知ることができます。文化11年(1814年)11月11日(旧暦)、宗忠が冬至の朝日に祈りを捧げているときに体験した、天照大御神と一体になる「天命直授」が黒住教立教のときです。以来、世の中の苦しむ人や助けを求める人のために祈り、教えを説き伝えて、多くの人々から「生き神」と称えられました。宗忠の遺志は、今もなお受け継がれ、全国へと広がっています。

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教祖神・黒住宗忠は、安永9年(1780年)11月26日の冬至の日の朝、代々今村宮(岡山市北区今)の神職をつとめる家に生まれました。幼少時より孝心があつく、20歳の頃には「生きながら神になる」という志を立てました。宗忠は「心に悪いと思うことを決して行わず、善きことのみを実行する」との厳しい目標を自らに課して“神になる”道を歩みました。しかし数えて33歳の時、かけがえのない両親が流行病によりわずか1週間の内に相次いで亡くなりました。その悲しみがもとで宗忠自身も不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥りました。

死を覚悟した宗忠は、文化11年(1814年)1月の厳寒の朝、幼いころから両親とともに毎朝手を合わせてきた日の出を拝みました。この“最期の日拝”の祈りの最中に、宗忠は知らず知らずのうちに大変な親不孝をしていたことに気づき、せめて心だけでも両親が安心する人間に立ち戻らねばならないと大きく心を入れかえました。この世との別れの日拝だったものが、新たな“生”への祈りに転回しました。この心の大転換により、宗忠の暗く閉ざされた心のなかに陽気な感謝の気持ちがよみがえり、その結果わずか2カ月で不治の病を完全に克服しました。

その年の11月11日。この日は昔から「一陽来復」と称され、物事が新たに始まる時とされてきた冬至の日でした。安永9年(1780年)の冬至の朝に誕生した宗忠が、死の淵を乗り越えて34回目の誕生日をこの日迎えたのです。昇る朝日に格別の思いで祈りを捧げていると、宗忠は全ての命の親神である天照大御神と神人一体になり、悟りの境地に立ちました。黒住教では、このことを「天命直授てんめいじきじゅ」と称して、黒住教立教の時としています。

以来、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために昼夜を問わず祈り、教え導き、多くの人々から生き神と称えられ、すでに神仕えの身であったこともあって自然な姿で教祖神と仰がれました。宗忠がその肉体を離れて天に昇ったのは、嘉永3年(1850年)2月25日のことでした。

宗忠の在世中に、現在の黒住教の基礎が築かれ、当時すでに数万の道づれ(信者)を擁していました。宗忠の昇天後、その生誕地であり住居があった現在の岡山市北区上中野を中心に、日本各地で黒住教の布教が広まっていきました。宗忠の教えが「神道の教えの大元」と称えられたことにより、この地は「大元」と呼ばれてきました。

皇室や公家のなかに宗忠に帰依きえする人が多く、孝明天皇(明治天皇の父君)の信心も得ていました。神位を非常に重んじた江戸時代において、安政3年(1856年)3月8日に「宗忠大明神」の神号が授けられ、文久2年(1862年)2月25日に京都・神楽岡に宗忠を祀った宗忠神社が建立されました。この宗忠神社は、建立からわずか3年後の慶応元年(1865年)4月に、孝明天皇の勅命による唯一の勅願所(天皇が国家国民の平安を祈るために指定した神社・仏閣)に定められ、その翌年の慶応2年(1866年)2月には、従四位下の神階を宣下されました。

昭和49年(1974年)10月27日、都市化が進んだ大元(岡山市北区上中野)の地を離れて、黒住教は神道山(岡山市北区尾上)に、壮大な日の出を求めて遷座しましたが、大元には明治18年(1885年)鎮座の宗忠神社が現在もまつられています。

さて、大事なモーゼの十戒を二つの言葉でまとめて言い換えました。 これだけでいいのだろうか、私はもう一つ大事な親の心得を付け加えたいのです。

それは、子供を育てるときの満三歳まで育児の知識を知っていなければならないことです。 基本的にと言えばこの付け加えたい一つは二番目の 「見られても聞かれてもまれ真似されてもいい人になる」の一部になる一つと言えます。

それが 「満三歳までの育児法」 なのです。

人以外の動物は、生まれてからすべては 「真似」 を主として成長できるのですが、人はそうではありません。 何でか?

長い人間の歴史の中から、人はいろいろと物事をいろいろと考えることが多くなって大脳がそれに準じて大きくなったからです。 鳥でもほかの動物でも、ほとんど生まれてから長い時間をかけずに独り立ちして「真似」て大きくなれます。 人間は母乳を飲む本能は他の動物と同じにしても、親なしでは食事もしゃべることもできません。

赤ちゃんがもっている angel smile (天使の微笑み) だけでなく、昔も今も母親は本能的な愛をもって子育てをします。 眠くても、疲れていても、赤ちゃんの泣き声を聞くと、いろいろと要求にこたえるのです。 この母性本能は鳥にしても動物にしても、自分の命を懸けてわが子を保護するのです。

現代社会生活はねじれた考えが広まって、十分な幼児の子育てが難しくなってきています。

けれども、親はこの 「満三歳までの育児法」 を知っていなければならないのです。

何故なのか?

命を授かった赤ちゃんは、その時から満4年は与えられた環境に善悪良否を問わずすべて取り入れる本性を持っているからです。 このことを、親は知っていなければならないのです。

この原理を知って実践していけば、ものの見事に赤ちゃんはそれにこたえてくれるのです。

どんな犠牲を払っても実践してほしい。 行政サイドはこうした制度を早急には整えることはないでしょう。

ではどうしてたらいいのか?

成人になる前の段階でこのことを学ぶことが必要なのです。 学校で少なくとも9単位時間を確保したいのです。 これも簡単には制度化しないでしょう。

ではどうするか?

実践しやすい手がかりは、市町村単位の自治体で男女を問わず日曜日に2時間確保し、講座を開いて学ぶようにするのです。 この方法は江戸時代の藩校で行った方法に近く、貧乏人財産家も同じように学ぶことができる方法なのです。 学ぶ人たちは近間の人たちの7人前後で年齢にこだわらずグループを構成し、同志として協力し合う方法がいいのです。

この方法の成果を知るために、実際例として次の藩校を調べてみると理解できると思います。

この実践方法は考えるだけでもややこしいものです。 だが、 「三人寄れば・・・」という諺がある。 或いは、相談の話し合いとか議論は七人がいいとも言う。 一人で考えるよりこの方法がいいのです。 ちょうど、東北大震災 3.11 に寄せて、「花は咲く 3/11 再出発の日」 がきます。 このURLを開くと、「若者たち」の詩ものせてあります。

年寄りが嘆いていても始まりません。 「嘆きの壁」 で祈っていてもらちくわけはないのです。

「若者たち」の詩にあるように、若い人たちにやってもらうに越したことはないのです。 気持ちに若さがあり、その若いエネルギーに大事な仕事をしてほしいのです。 どうでしょうか?

おかねに振り回される今の世界から、心に希望をもてる若者さながらの世界をくり広げてほしいのです。

文殊の知恵、一人の知恵ではなく丸い相撲の土俵の円の中で知恵の出しあいにすれば、希望がもてる知恵ができあがります。

私たちの祖先の若者たちは、それぞれの藩校で自分の考えを磨いていたのです。

たとえば日本でよく知られている藩校の様子を見てください。

  ① 会津藩の日新館
  ② 岡山藩の閑谷学校
  ③ 米沢藩の興譲館
  ④ 紀州藩の学習館
  ⑤ 長州藩の明倫館
  ⑥ 熊本藩の時習館
  ⑦ 薩摩藩の造士館
  ⑧ 水戸藩の弘道館

この他の藩校

  ○ 中津藩の進脩館
  ○ 佐賀藩の弘道館
  ○ 鹿児島藩(薩摩藩)の造士館

長野県の藩校

  ○ 飯山藩 長道館(1857年)
  ○ 須坂藩 教倫舎(天明ころ、藩立の心学講舎)→立政館(1804年)、五教館(時期不明・江戸)
  ○ 松代藩 稽古所(1758年〜1806年焼失)、学問所(1806年)、文武学校(1854年)→
         藩学校(1869年)→「松代藩文武学校」(国の史跡)
  ○ 信濃上田藩 明倫堂(1813年)→公立「上田学校」(1872年)→「松平学校」(1873年)→
         上田街学校(1873年)と統合され「上田学校」(1886年)→分離統合改称をくりかえし
         現・上田市立清明小学校、武芸稽古場(時期不明)
  ○ 小諸藩 明倫堂(1805年)
  ○ 岩村田藩 達道館(1864年)
  ○ 田野口藩(龍岡藩) 修業館(1854年)→尚友館
  ○ 松本藩 新町学問所(宝暦ころ)崇教館(1793年)→松本藩学(1870年)→
         旧開智学校(重要文化財)、一部現・長野県松本深志高等学校
  ○ 諏訪藩(高島藩) 稽古所→長善館(1803年) 皇学校(1869年)
  ○ 高遠藩 進徳館(1860年)→進徳館(国の史跡)
  ○ 飯田藩 読書場(1795年)

 岐阜県の岩村藩 文武所(1702年)→知新館(1702年)→流れをくみ、現・岐阜県恵那市立岩邑小学校
 この岩村へは平谷から矢作川沿い418号線を下り岩村城跡や岩村歴史資料館を何回か訪れたことがある。 岩村藩出身でとても優れた人たちが育ったから調べるためであった。 

飯田藩とは比べものにならない。 学問がどれほど大事なことか思い知らされるのです。 しかも私たちの先輩の人たちが明治以前に頑張っていたのです。