辺境とは? それはミステリを一つの大きな流れとして捉え、その源流を辿るなかで生まれてきたイメージらしい。ミステリはどこから来たのか。どうやって発展し、今のような形態になったのか。ミステリファンなら一度は思いを馳せてみるのも愉しいかもしれない。
この本のいいところは、ミステリという本流に肩肘張って挑むのではなく、そこからこぼれだした一見非ミステリとも思える小説に目を向けながらの“そぞろ歩き”という点だ。実になんというか、リラックスしてあれこれと考えを巡らすことができる。それでいて、その視線の遥か先には、やっぱりミステリという大河がある。そんな本だ。
「仮にミステリの表現形態を大きな湖にたとえるなら、どんな川から水が流れ込み、やがてどこへこぼれだしていったのかとの問いかけに、一応の回答を用意する作業だといえようか。」
<中略>
「すなわちミステリの周縁地域を掘り返せば、いつか中枢部分につながる細い道筋を見つけ出す幸運に遭遇する可能性だって否定できないのである。とりあえずこの周縁地域を個人的に辺境と名づけ、さだめし砂漠をゆく往時の旅人あたりを想像しつつ、トボトボと歩き回ってみるのも悪くないと考えるようになった。」
辺境とは具体的に、ミステリに影響を与えた作品のことなのか、ミステリから影響を受けた作品なのか、あるいはただ単にミステリというものの裾野を広げただけのことなのか。疑問を覚えたものの、まずは読んでみた。
(要約)「オースティンが執筆活動を行った18世紀末から19世紀初頭というのは、ゴシック小説が世に出回りもてはやされていた時代だった。オースティンは良家の子女でありながらこのゴシック小説を読むことを許されていた珍しい女性で、こうしてゴシック小説を読むことでそれに対する批判を自分の中に培い、『ノーサンガー・アベイ』を書いたと思われる。ゴシック小説はミステリに大きな影響を与えたと思われるが、あまりにも感情的で理性を欠いたところがあり、ミステリとはまったく非なるものだった。しかし文壇にオースティンのような理性的な作家が現れたことで、小説の形態は感情的なものから理性的なものへ、つまりミステリというものに通じる流れを形成していったのだ。」
かなり乱暴な要略で申し訳ないが、大体こういったところだと思う。オースティンが流れを作った、という説は、言われてみると確かにそうかもしれない。
この本の中でもあまり詳しくは書かれていないことなので、少し説明しておくと、イギリスでかつてもてはやされた古典ゴシック小説とは、主に教育を受けながらそれを発揮する場を与えられなかった婦女子などによって書かれた、サスペンス・スリラー、ホラー、ロマンスといった類いの小説だ。こういった小説は世の中には低俗と受け止められ、本来、女性は書くことはおろか読むことさえ認められていなかった。(だからもちろん、こっそり読んだり書いたりしていたのだ。)ゴシック小説などを書いていることが表沙汰になると、評判が地に落ちて世間の笑い者になったりなどもしたらしい。作者は無論ほとんどが匿名で、執筆作業は極秘で行われていた。しかし、それほどの扱いを受けた本の中にも、稀なことに著者名ともども後世まで名を残しているものがある。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』がそれだ。奇しくもこの作品は、『ノーサンガー・アベイ』と同じ、1818年に出版された。
ホラー、サスペンス、ロマンス、そのどれもをミステリは少しずつついばみながら成長してきた、といっては過言だろうか。
ゴシック小説がミステリに及ぼした影響のほどはさておき、そこにオースティンが担った”緩衝材”のような役割があることは正しいと思う。(それにしても、あまり理性的になって低俗性が失われても面白くないような気がするのはわたしだけだろうか。)
(要約)「”1955年にジョイタ号という船が出帆の直後に消息を絶ち、37日後に発見された。船内はもぬけの殻で、乗船していた25人の姿はあとかたもなかった。”現実に起きたこの事件は、マリー・セレスト号の事件の再来と言われ、一時期世間の注目を浴びた。中でも多大な関心を寄せたのが、サマセット・モームの甥、ロビン・モームである。彼は事件を調査し、やがて背後に政治的な力が介在しているとの答えに辿り着く。そこで、モームはこの『十一月の珊瑚礁』を書き上げ、暗黙のうちに事件の真相を世に知らせた。モームの説は判事から評価されたが、真実と認められるには至らなかった。」
ロビン・モームの探究心は、ミステリ作家のそれというより、ミステリ作家が空想する探偵のそれだ。しかし作品自体も、探偵小説の興趣が発揮されたものなのだそうだ。
スパイ小説に言及した”ジョセフ・コンラッドの『西欧の眼の下に』”、倒叙形式との類似”オファラティの『男の敵』”、『若草物語』の著者の側面”オルコットの『愛の果ての物語』”、ミステリとウェスタン小説の接点”ルイス・ラムーアの『賭博師ファロン』”、フランス犯罪小説の原点”バルザックの『ゴリオ爺さん』”、暗号解読が鍵”ジュール・ヴェルヌの『ジャンガタ』”……などなど。30以上の作品を各章ごとに取り上げている。作品の種類も19世紀文学からポルノグラフィー、児童文学、オカルトと幅広く、国籍も英米のみならず、なんとオーストラリアや、ドイツ、オーストリア、フランス、ロシアにまで及んでいて、しかも、国ごとに章を分け、それぞれなるべく均一な量になるよう配分されているのだ。このあたりは、著者自身が「偏りがちだ」と冒頭で述べた日本の翻訳業界に対する暗黙の姿勢かもしれない。
個人的には、”W.N.ウィリスの『血の汚れ』”、”ラムーアの『賭博師ファロン』”、”ラアヘル・ザンザラの『子を殺す』”などの章が面白かった。また、各章で作品の内容紹介が細かくなされているが、物語の根幹に関わるネタバレは一切ないので安心できる。この本において紹介されている中で、わたし自身がミステリと関係が深いという見方があることを知っていたのは、『ゴリオ爺さん』と『騎士の陥穽』くらいな上、読んでいないものがほとんどだったので、大変ためになった。
あくまで、ミステリというものが既にかなりのところまで研究され尽くしたものである、ということを”前提”とした上で、ミステリならぬ”ミステリの辺境”を探索した本なので、ミステリそのものを知りたいと考えて読んだ方は「おやっ」と思うかもしれない。この本を、日本の翻訳物の偏りを批判した内容だととらえるのも自由だろう。が、こうして読むと”ミステリの辺境”というのは案外広々としたものだったんだなあ、と自由な視点をただ満喫するのも楽しいものではないだろうか。