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  01 げんげ草
  03 羽衣
  05 千曲川旅情の歌
  07 青葉の笛
  09 至誠寮寮歌
  02 月見草
  04 近江八景 
  06 信濃の国
  08 原爆を許すまじ
  10 埴生の宿



[ 1 げんげ草  ]

一  ねんねのお里のげんげ草
   ぽちぽち 仔牛も遊んでる 
   牧場の牧場のげんげ草 
   誰だか遠くで呼んでいる 

二  ねんねのお里はよい田舎 
   ねんねの豆汽車下りたなら 
   野道はひとすじ 田圃道 
   藁屋に緋桃も咲いてます 

三  ねんねのお守はいやせぬか 
   ちょろちょろ小川もながれてる 
   いつだか見たよな橋もある 
   小薮のかげには閻魔堂 

四  ねんねのお里で泣かされて
   お背戸に出て見たげんげ草
   あのあの紅いげんげ草
   誰だか遠くで呼んでいる

 私は小学校三年まで小川分教場だったが、四年になって秋になると音楽会があった。大きなステージに五年生の小さい女の子が一人立った。その子の声はすばらしく雲雀のように、無邪気に声を張り上げて歌ってくれた。高い音程も抜けていくように気持ちよく、脳みその奥深くまで入ってきたんでしょう。一度聞いただけだったのに、その曲のリズムや一番の歌詞があとあとまで記憶されていた。無邪気で、真剣な動き、声の質、それはシェレーの詩を見てから、再び鮮明に脳裏に浮かんだ歌だった。
 ほのぼのとした思い出の歌となったのです。

[ 2 月見草  ]   文部省唱歌

一  夕霧こめし 草やまに
   ほのかに咲きぬ 黄なる花
   都 の友と こぞの夏
   たおり暮らしし 思い出の
   花よ花よその名もゆかし 月見草
二  月かげ白く 風ゆらぎ
   ほのかに咲きぬ 黄なる花
   都 にいます 思い出の
   友におくらん においこめ
   花よ花よその名もいとし 月見草

   風清く たもと軽し
   友よ友よ 来たれ丘に
   静けくも月見草 花咲きぬ

 この歌をいつどこで憶えたのだろうか。どうしてもわからない。自分では天竜川原のあちこちに咲いていた月見草が好きだった。おおきくなってから、何色が好きですかと聞かれると、きまって黄色が好きですと答えてきた。この歌の持つ不思議なやさしさが、私をとりこにしたのかもしれない。
清楚
 楚々として、憂いをこめてひとり咲く花、月見草。 遠く山を望み、夕闇せまる静かな川べりに、月待ちて咲く。 海のエネルギーや、季節を謳歌する牡丹の誇らしさも見せず、静かな川の流れと、夕闇の哀感に調和して咲く月見草。 つつましい慕情を感じさせる花なんです。

[ 3 羽衣  ]

 合唱  三保の松原 うらうらと  
     日は晴れわたる空の上   
     天津少女の舞の袖     
     あざやかにこそ見えにけれ 

 天女  あら かなしや      
     松の枝の羽衣失せて    
     帰るすべなき雲の通路   

 合唱  得たりと拾う 浜の漁師  
     持ち帰りてぞ宝にせんと  

 天女  衣 なくては 如何にして 
     雲居のはてに帰るべき   
     疾く疾く返せ 人間に   
     着る用もなき羽衣を    

 漁師  返せとや さて返せとや  
     いと惜しけれど さらば返さん 
     天人も 心しあらば    
     更に一舞 まいても見せよ 

 合唱  舞うや 麑裳羽衣の曲   
     見る見る 影は遠ざかり  
     あとに残れる富士の山   
     うららかにこそ浮かびけれ 

 昭和二十二年、長野の檀田で佐々木賢明と隣り合わせの下宿となった。彼はこの歌を口誦み、たちまちこの歌の持つ魔力に私は魅せられた。折々にこの歌を口誦んだが、歌詞が今ひとつ判然としなかった。誰に聞いてもわからなかった。平成八年塚田清美さんから楽譜と歌詞を手に入れることができた。やっとわかったのである。
 だが佐々木賢明はもういない。誰かこの歌を天空にいる彼に届くよう歌ってほしい。それがこの歌に寄せる私の願いである。

[ 4 近江八景  ]

一  琵琶の形に似たりとて       
   其の名をおえる湖の        
   鏡の如き水の面          
   あかぬながめは八つの景      

二  まず渡り見ん瀬田の橋   瀬田唐橋 
   かがやく入日美しや        
   粟津の松の色はえて   粟津春松 
   かすまぬ空ののどけさよ      

三  石山寺の秋の月     石山秋月 
   雲おさまりてかげ清し       
   春より先に咲く花は        
   比良の高ねの暮の雪   比良暮雪 

四  滋賀唐崎の一つ松    唐崎老松 
   夜の雨にぞ名を得たる       
   堅田の浦の浮御堂    堅田落雁 
   落来る雁も風情あり        

五  三つ四つ五つうち連れて      
   矢橋をさして歸り行く  矢橋歸帆 
   白帆を送る夕風に         
   聲程近し三井の鐘   三井晩鐘 

 中学校に赴任してから六年目、神稲中学三年生担任のとき、旅行に関する調べをしていたとき、新体詩のメロディーで母から全部聞いたのである。母はそのとき五十歳ころだったし、こんな新体詩を口ずさむことなど全く知らなかった。昔のことで母は小学校六年までしか教育を受けていなかった。その母から近江八景すべて口移しで教えられたのである。忘れ得ない歌である。

[ 5 千曲川旅情の歌  ]

   小諸なる 古城のほとり
   雲白く 遊子悲しむ
   緑なす ハコベは萌えず
   若草も 藉くによしなし

   銀の衾の 岡辺
   陽に溶けて 淡雪流る
   暖かき 光はあれど
   野に満つる 香りも知らず

   浅くのみ 春はかすみて
   麦の色 あずかに青し
   旅人の 群はいくつか
   畑中の 道を急ぎぬ

   暮れゆけば 浅間も見えず
   歌かなし 佐久の草笛

   千曲川 いざよう波の
   岸近き 宿に上りつ
   濁り酒 濁れる飲みて
   草枕 しばし慰む

 藤村の本を何冊か読んでいて、近代以前の旧家のもつ家の重みやしがらみが、維新変革を支えきれずに音をたてて崩れていくのを藤村は実感したことだろうと思う。小諸は悶々とする青年にとっては第二の故郷にちがいない。
 神稲中学校の二階の教室で、みんなでこの歌をうたった。落ち着いたしっとりとした郷愁を感ずる名歌だとおもっている。

[ 6 信濃の国  ]

一  信濃の国は 十州に  境 連ぬる 国にして
   聳ゆる山は いや高く  流るる川は いや遠し
   松本伊那佐久 善光寺  四つの平は 肥沃の地
   海こそなけれ 物沢に  万 足らわぬ事ぞなき

二  四方に聳ゆる 山々は  御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
   浅間は殊に 活火山  いずれも国の 鎮めなり
   流れ淀まず 行く水は  北に犀川 千曲川
   南に木曾川 天竜川  これ又国の 固めなり

三  木曽の谷には 槙繁り  諏訪の湖には魚多し
   民のかせぎも 豊かにて  五穀の実らぬ 郷やある
   しかのみならず 桑取りて  養蚕の業も 打ち開け
   細き縁も 軽からぬ  国の命を つなぐなり

四  たずねま欲しき 園原や  旅の宿りの 寝覚めの床
   木曽の桟橋 かけし世も  心して行け 粂路橋
   来る人多き筑摩の湯  月の名に立つ 姨捨山
   著き名所と 雅男が  詩歌に詠みてぞ 伝えたる

五  旭 将軍 義仲も  仁科の五郎 信盛も
   春台太宰 先生も  象山佐久間 先生も
   皆此国の 人にして  文武の誉 類なく
   山と聳えて 世に仰ぎ  川と流れて名は尽きず

六  吾妻はやとし 日本武  嘆き給いし碓氷山
   穿つトンネル 二十六  夢にも越ゆる 汽車の道
   道一筋に 学びなば  昔の人にや 劣るべき
   古来山河の 秀でたる  国に偉人の あるならい

 最近、各都道府県では県歌づくりに熱がはいっているようだ。長野県では戦前の学校の運動会で「信濃の国」の遊戯を高学年の女の子全員でやっていたせいで、誰でも歌えるようになっていた。

[ 7 青葉の笛  ]

一  一の谷の 軍破れ
   討たれし平家の 公達あわれ
   暁寒き 須磨の嵐に
   聞こえしはこれか 青葉の笛

二  更くる夜半に 門を敲き
   わが師にたくせし 言の葉あわれ
   今わの際まで 持ちし箙に
   残れるは 「花や今宵」の歌

 小学校へあがったころだったろうか。母の在所へ行ったとき、広がる谷あいの景色の中で、哀調をふくんでいるこの歌をきいた。なかば哀調をもつ歌は幼少のこどもの心をとらえると聞いたが、善性の一端と共鳴して脳裏に残るのかもしれない。
 歌っていたのは一つ年上の叔父だった。いい声の持ち主だ。いまは頭も禿げあがってしまった。
 青葉の笛は、平敦盛が愛用していた竹笛で、一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれたときに身に着けていたと伝えられる。この笛は、弘法大師が唐に留学していた時に作ったもので、嵯峨天皇に献上されて「青葉の笛」と名付けられた。その後、平忠盛が鳥羽院から拝領し、経盛(清盛の弟)が敦盛に渡した。敦盛の死後、須磨寺によって守られ続けている。青葉の笛は、1906年に発表された尋常小学唱歌の題材にもなった。
平敦盛は笛の名手で平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。 直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。 このことから、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。
歌の二番に出ている「花や今宵」は清盛の父薩摩守忠度(清盛の異母弟)の和歌である。
  行き暮れて 木の下陰を 宿とせば
          花や今宵の 主ならまし 平忠度(ただのり)
わが師にたくせしとは、師匠である藤原俊成に託した和歌である。
 さざなみや 志賀の都は 荒れにしを
          昔ながらの 山桜かな   詠人知らず(千載和歌集)
一番も二番も、哀歌の風情を今に伝えている。
「青葉の笛」一の谷の戦と言というと、「鹿も四つ足 馬も四つ足 … 」が連想される。 95才過ぎになった今、源義経の一の谷の道がどの経路だったか調べて分かったというテレビの映像があってそれをみました。 それを見て年を取った今、鵯越の歌詞を「青葉の笛」へ追加しようとしたのです。

尋常小學唱歌(三學年)/明治45年
『尋常小学唱歌 第三学年用』)/昭和17年

   鵯越(ひよどり ごえ)

1 鹿も四つ足 馬も四つ足
  鹿の超えゆく この坂道
  馬の超せない 道理はないと
  大将義経 まっさきに

2 つづく勇士も 一騎当千
  鵯越超えに ついて見れば
  平家の陣屋は 真下に見えて
  戦い今や 真っ最中

3 油断大敵 裏の山より
  三千余騎の 逆落としに
  平家の一門 驚き慌て
  屋島を指して 落ちてゆく

歴史学者の前川佳代さんが残された文献を基に一の谷を調査した結果、義経の一の谷逆落としは「鉄拐山」であるとしたのです。

鉄拐山は一の谷の海岸線のすぐ後ろにそびえている山です。
下平付記
地図で調べると鉄拐山(テッカイサン又はテッカイやま)のルートだとわかった。前川佳代さんがNHKでそのルートをたどったのが映像に出てきたのです。「拐」という漢字はPCでは簡単には出てこないし、何と読むのかもわからない。分からないと面白くないのでさらに調べ、漢和大字典を見ると、読み方も意味も出ていた。意味は、カドワカスとあり、また欺騙(ギヘン=あざむきだます)とも、出ていました。なんでこんな漢字を使った山の名前なのか、それは判らない。

山中にある古来峠には国境を示す標識が立てられることが多く、その場所は「ひよ」と呼ばれ、鵯(ひよどり)の「とり」も、尾根道のくぼんだ部分鞍部を意味する言葉である。

この山道は地元では古くから「義経道」と言い伝えられていた。

土質が花崗岩の砂磔層で覆われた場所であり、傾斜40度を超える切り立った断崖、斜面は麓付近まで連なっていて、傾斜や斜面の状態は文献と一致しているのである。
義経は「ひよ」と呼ばれる峠の山道から下った崖から逆落としを敢行し、予期せぬ方向から平氏を攻撃したという。

だが、東国から派遣されたばかりの義経が「なぜ地形を利用した奇襲作戦を立案できたのだろうか?」という疑問が残る。

この疑問を解く鍵となる文書がある。それは義経が合戦前に送った書簡である。

その宛先は畿内に拠点を置く在地の武士たちで、義経は領地争いで平氏に不満を持っていた武士たちに共に一の谷に出陣するように呼びかけていたのだ。
つまり、義経が間道や裏道を知っていたのは、地元の武士たちの協力があったと推測できる。

「鵯越の逆落とし」をする前に義経は軍勢を二隊に分け、主力部隊を侍大将・土肥実平に預けて一の谷の西の攻撃に向かわせた。 そして、高尾山(現在の神戸市北区)辺りで再び軍勢を二手に分けて、多田行綱にその主力を委ね、義経は案内役の地元の武士と精鋭70騎を率いて逆落としを行なったのである。
※多田行綱の部隊が山手の傾斜地から平氏の