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  01  あざみの歌
  02  川は流れる
  03  北上夜曲
  04  今日の日はさようなら
  05  心の窓に灯を
  06  古城
  07  さくら貝の歌
  08  惜別の歌
  09  月見草の花
  10  平城山(ならやま)
  11  人を恋ふる歌
  12  冬景色
  13  冬の夜
  14  故郷
  15  紅葉(もみじ)
  16  宵待草
  17  喜びも悲しみも幾歳月
  18  冬の星座
  19  霰三題
  20  仰げば尊し


ここに取り上げた 18 曲は二木紘三のサイトから、また後の 2 曲は別のサイトから、好きな歌を拾ったものです。

[ 1 あざみの歌  ] 作詞:横井 弘 作曲:八洲秀章 唄:伊藤久男

1 山には山の 愁いあり
  海には海の かなしみや
  ましてこころの 花園に
  咲きしあざみの 花ならば

2 高嶺(たかね)の百合の  それよりも
  秘めたる夢を ひとすじに
  くれない燃ゆる その姿
  あざみに深き わが想い

3 いとしき花よ 汝(な)はあざみ
  こころの花よ 汝はあざみ
  さだめの径(みち)は 果てなくも
  香れよせめて わが胸に
  あーあーあー

〔蛇足〕詞は、昭和20年(1945)に復員してきた当時18歳の横井弘が、疎開先の下諏訪・霧ヶ峰八島高原で、アザミの花に自分の理想の女性像をだぶらせて綴ったものといわれます。八洲が作曲した歌がNHKのラジオ歌謡に採用され、昭和25年8月8日から放送されました。八島高原には、この歌の歌碑が建っています。

[ 2 川は流れる  ] 作詞:横井 弘 作曲:桜田誠一 唄:仲宗根美樹

1 病葉(わくらば)を 今日も浮かべて
  街の谷 川は流れる
  ささやかな 望み破れて
  哀しみに 染まる瞳に
  黄昏(たそがれ)の 水のまぶしさ

2 思い出の 橋のたもとに
  錆びついた 夢のかずかず
  ある人は 心つめたく
  ある人は 好きで別れて
  吹き抜ける 風に泣いてる

3 ともし灯も 薄い谷間を
  ひとすじに 川は流れる
  人の世の 塵にまみれて
  なお生きる 水をみつめて
  嘆くまい 明日は明るく

〔蛇足〕昭和36年(1961)。この年は、私が田舎から出てきて大学に入った年です。東京で始まった生活は、その後初めて外国に行ったときより、もっと強いカルチャーショックがありました。
 横井弘の作詞では、『あざみの歌』と並ぶ傑作だと思います。御茶ノ水橋や聖橋(ひじりばし)から神田川の水面をじっと見つめている若い女性を見かけると、この歌を思い出します。

[ 3 北上夜曲(うたごえ喫茶)  ] 作詞:菊地規 作曲:安藤睦夫

1 匂い優(やさ)しい 白百合の
  濡れているよな あの瞳
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の 月の夜

2 宵の灯(ともしび) 点(とも)すころ
  心ほのかな 初恋を
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の せせらぎよ

3 銀河の流れ 仰ぎつつ
  星を数えた 君と僕
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の 星の夜

4 雪のちらちら 降る夜に
  君は召されて 天国へ
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の 雪の夜

5 僕は生きるぞ 生きるんだ
  君の面影 胸に秘め
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の 初恋よ

〔蛇足〕この歌は、昭和20年代の初めごろから、岩手県盛岡、宮城県仙台あたりから自然発生的に歌われ始めました。盛岡や仙台の大学・専門学校に各地から遊学していた学生たちが帰省の際に持ち帰って、後輩などに教えたことから、しだいに全国に広まり、昭和30年代初めには歌声喫茶の定番曲の1つとなりました。これに着目したレコード各社はレコード化を企画、作者を捜したところ、作詞者は岩手県江刺市出身の菊地規(のりみ)、作曲者はその友人の岩手県種市町出身の安藤睦夫と判明しました。菊地が詞を作ったのは昭和15年(1940)12月、安藤が作曲したのは翌16年(1941)2月のことで、菊地は水沢農学校、安藤は旧制八戸中学の生徒で、2人ともまだ十代でした。

 昭和36年(1961年)、各社競作が行われ、和田弘とマヒナスターズ+多摩幸子、ダークダックス、菅原都々子などが歌い、いずれもヒットしました。松竹・日活・東宝などの各社も映画化し、一大ブームとなりました。私は日活作品を見ましたが、どうしようもない愚作でした。

 長い間、作者がわからないまま歌われてきたため、ヴァリアントが非常に多いのが特徴です。たとえば、1番の最初の1行を、私は「香りゆかしき白百合の」と歌っていました。「見目うるわしき白百合の」としている歌集もあります。4番の最初の2行を「雪のちらちら降る宵に/君は楽しい天国へ」としている歌集もあります。また、3番のあとに次のような連が入っているヴァージョンもあります。

 「たそがれ河原に秋たけて/白いすすきの波の果て/想い出すのは想い出すのは/北上河原の秋の夜」

 「春のそよ風吹く頃に/楽しい夜の接吻(くちづけ)を/想い出すのは思い出すのは/北上河原の愛の歌」

 調べればどれがオリジナルかわかるでしょうが、あまりこだわる必要はないと思います。自分の好きな歌詞で歌うのがいいのではないでしょうか。なお、北上は「きたがみ」ではなく、「きたかみ」と読んでください。それが正しい地名だということもありますが、「きたかみやきょく」と読んだほうが、澄んだ感じがするからです。

別のデータ
 作詞:菊地規     作曲:安藤睦夫     編曲・MIDI制作:滝野細道
 歌唱:和田弘&マヒナスターズ/多摩幸子     「北上夜曲」旧版

 (一)【男】
 匂い優しい 白百合の
 濡れているよな あの瞳
 思い出すのは 思い出すのは
 北上河原の 月の夜

 (二)【女】
 宵の灯(ともしび) 点(とも)すころ
 心ほのかな 初恋を
 思い出すのは 思い出すのは
 北上河原の せせらぎよ

 (三)【男】
 銀河の流れ 仰ぎつつ
 星を数えた 君と僕
 思い出すのは 思い出すのは
 北上河原の 星の夜

 (四)【女】
 春のそよ風 吹くころに
 楽しい夜の くちづけを
 思い出すのは 思い出すのは
 北上河原の 愛の歌

 (五)【男】
 雪のチラチラ 降る宵に
 君は楽しい 天国へ
 思い出すのは 思い出すのは
 北上河原の 雪の夜

 (六)前半【男】後半【男女】
 僕は生きるぞ 生きるんだ
 君の面影 胸に秘め
 思い出すのは 思い出すのは
 北上河原の 初恋よ

若い頃の浅川近くの田んぼ道を思い出す懐かしい歌です。

[ 4 今日の日はさようなら  ] 作詞・作曲:金子詔一 唄:森山良子

1 いつまでも絶えることなく
  友だちでいよう
  明日の日を夢見て
  希望の道を

2 空を飛ぶ鳥のように
  自由に生きる
  今日の日はさようなら
  また会う日まで

3 信じあうよろこびを
  大切にしよう
  今日の日はさようなら
  また会う日まで
  また会う日まで

〔蛇足〕昭和41年(1966)に作曲されて以来、合唱曲として盛んに歌われてきています。

[ 5 心の窓に灯を  ] 作詞:横井 弘 作曲:中田喜直 唄:ザ・ピーナッツ

1 いじわる木枯し 吹きつける
  古いセーター ぼろシューズ
  泣けてくるよな 夜だけど
  ほっぺをよせて ともしましょう
  心の窓に ともしびを
  ホラ
  えくぼが浮かんで くるでしょう

2 真珠にかがやく 飾り窓
  うつる貧しい シンデレラ
  ポッケにゃなんにも ないけれど
  かじかむ指で ともしましょう
  心の窓に ともしびを
  ホラ
  口笛ふきたく なるでしょう

3 暖炉をかこんだ 歌声を
  遠くきいてる 細い路地
  ちっちゃなたき火は 消えたけど
  お空をみつめ ともしましょう
  心の窓に ともしびを
  ホラ
  希望がほのぼの わくでしょう

〔蛇足〕昭和34年(1959)発表。大学に入ったばかりのころ(昭和36年)、大学の西側の戸塚通りに面したところにあった映画館に毎週のように行っていました。映写技師がよほど好きだったらしく、休憩時間中はいつもこの歌を流していました。この映画館の近くにあった眼科の女医さんがきれいでした。

[ 6 古城  ] 作詞:高橋掬太郎 作曲:細川潤一 唄:三橋美智也

1 松風さわぐ 丘の上
  古城よ独り 何偲ぶ
  栄華の夢を 胸に追い
  ああ 仰げば侘(わ)びし 天守閣

2 崩れしままの 石垣に
  哀れをさそう 病葉(わくらば)や
  矢弾(やだま)のあとの ここかしこ
  ああ 往古(むかし)を語る 大手門

3 甍(いらか)は青く 苔(こけ)むして
  古城よ独り 何偲ぶ
  たたずみおれば 身にしみて
  ああ 空行く雁(かり)の 声悲し

〔蛇足〕昭和34年(1959)リリース。私にとって「古城」といえば、まず松本城です。人生の玄冬(げんとう)期(き)に入った今日に至るまで、何度この天守閣に登ったことでしょう。ここに登れば、高校時代、授業をさぼって彷徨(さまよ)い歩いた城山(じょうやま)がよく見えます。

[ 7 さくら貝の歌  ] 作詞:土屋花情 作曲:八洲秀章

1 美わしき さくら貝ひとつ
  去りゆける きみに捧げん
  この貝は 去年(こぞ)の浜辺に
  われひとり ひろいし貝よ

2 ほのぼのと うす紅染むるは
  わが燃ゆる さみし血潮よ
  はろばろと 通う香りは
  きみ恋うる 胸のさざなみ

  ああ なれど
  わが思いは はかなく
  うつし世の渚に 果てぬ

〔蛇足〕この歌が作られたのは、昭和14年(1939)秋のことです。鎌倉・由比ヶ浜の近くに住む鈴木義光(北海道虻田郡真狩村出身)という青年が、18歳で亡くなった恋人・八重子を偲んで、「わが恋のごとく悲しやさくら貝 片ひらのみのさみしくありて」という短歌を作りました。この歌をモチーフにして、彼の友人・土屋花情(当時逗子町役場職員)が作ったのが上の歌詞です。作曲家を目指していた鈴木がこれにメロディーをつけ、名曲『さくら貝の歌』ができあがりました。この歌は、その後ほとんど知られませんでしたが、山田耕筰が気に入って、自ら編曲して、昭和24年にNHK「ラジオ歌謡」として放送したところ、一躍多くの人たちに親しまれるようになりました。
 鈴木はその後、八洲(やしま)秀章(ひであき)という筆名で、『山のけむり』『あざみの歌』『チャペルの鐘』など、端正な抒情歌を数多く作りました。八洲秀章という名前は、八重子の八とその戒名「誓願院釈秀満大姉」の秀を採ってつけたものだそうです。人名としてはそれほど珍しいものではありませんが、私は、この名前を目にしただけで、リリカルな感情がわき上がってきます。

〔下平・記〕この歌は私が若いころ、倍賞千恵子が歌っていた。彼女がもっていた高い声は青空に溶け込むような魅力があった。それでいて情感は溢れるばかりのウットリする魅力もあった。彼女の歌った歌はどれをきいてもその声を想いだす。

八洲秀章伝(さくら貝の唄誕生秘話)

八洲秀章は独学の作曲家で、音楽学校のいわゆる正式な教育を受けたり、有名作曲家に師事したりすることなく、自らの持つ感性で音楽の道を切り開いてきた。教わったのは、故郷北海道真狩村の尋常高等小学校の音楽の先生のみと。いわば、秋田から突然出現した天才バッター落合博満のようなものである。昭和15年にすでに「さくら貝の唄」を作曲していたが、これが世に出たのは戦後の昭和24年「さくら貝の歌」としてのことで、山田耕筰に見出されたのがキッカケである。ここで八洲秀章は山田耕筰に作曲の手ほどきを受けて、初めて師と言えるものを持ったのであった。「あざみの歌」がNHKの<ラジオ歌謡>でリリースされたのが、翌年の昭和25年8月8日のことであるから、山田耕筰流の薫陶が入っているかも知れない。
 作曲家としての曲が最初に世に出ることとなったのが、また作曲家としてやっていけると決心したのが、昭和12年東海林太郎の歌った「漂白の歌」だった。昭和11年に作曲家を目指して上京した翌年のことだから、素人としてはかなり早く発芽したといえよう。以後、作曲活動を続けるうち、「さくら貝の唄」は時節柄日の目を見ることがなかったが、完全に花開いたのが同年伊藤久雄をスターダムに送り出した「高原の旅愁」のヒットである。この曲は後年の八洲秀章の曲と比べるとかなり異質である。わたしは、八洲としてはこの作曲は不本意でなかったか、と思っている。純情な令嬢が面影の君を追い求めるという、「影を慕いて」「君恋し」「湖畔の宿」「並木の雨」「旅の夜風」などが相前後して全盛で、関沢潤一郎のゴテゴテの歌詞もあって、無視するわけにもいかなかったのだろう。
 鈴木義光(八洲秀章の本名)は、大正3年北海道真狩村(歌手細川たかしと同村)の開拓農家のニ男として生まれた。昭和7年17歳の時農作業で事故に遭い、当時若者の憧れであった軍人にもなれず、農業を継ぐこともできず悶々とするうち、小さい頃から夢想していた音楽家になろうと決心する。小学校の先生に作曲の基礎を習い、独学で勉強して、4年後の昭和11年、一人の乙女に想いを残しながら上京するのである。乙女の名前は横山八重子。義光は完全に片思いと信じて旅立った。「漂白の歌」がヒットした翌年昭和13年のこと。作曲に疲れた義光が夢とうつつの中をさまよっていると、故郷に居るはずの乙女が枕元に立っているではないか。片思いのはずなのに、一通の恋文も出さなかったのに、打ち明けたこともなかったのに・・・乙女の想いこそが自分のところへ来たのではなかろうか? そう思った瞬間、義光は乙女が亡くなったことを確信したのである。逗子海岸で桜貝の一片を見たとき次のような歌を残して、<わが恋の如くかなしやさくら貝かたひらのみの寂しくありて>と死別して取り残されたものの悲しみを詠っている。後になって、乙女が枕元に立った時間が、ちょうど亡くなった時間だったと知った鈴木義光は、乙女の本名<横山八重子>から<八>を、戒名<誓願院釈秀満大師>から<秀>の一字を借りて【八洲秀章】と名乗ることにしたのである。
 昭和14年、鈴木義光は、亡くなった横山八重子を偲んで歌を作ろうと思い立ち、時に同じ湘南に公務員として勤めながら作詩活動をしていた土屋花情のもとに赴き、先の句 ♪わが恋の 如くかなしや さくら貝・・・♪ を示して作詞を依頼した。土屋花情も何度も逗子海岸を散策して想を練り、義光の短歌の中にあった<さくら貝>をモチーフとして「さくら貝の唄」を作り上げたのだった。歌詞をよく見ると、死別した人への思い、というよりは失恋の歌の趣も濃い。これは、土屋花情自身の失恋の思いが強く反映されていると言われている。かくして昭和15年「さくら貝の唄」はレコーディングされ完成をみた。しかし時節柄、レコード会社の判断でこのレコードはお蔵入りとなり、陽の目を見ることはなかったのである。このレコードに鈴木義光が<八洲秀章>を名乗ったかどうかは定かではない。
 奇妙なことに、同じ昭和15年レコーディングの「高原の旅愁」原盤の作曲者は鈴木義光でも八洲秀章でもなく【鈴木義章】となっている。時間的に「高原の旅愁」が作られたのは【八洲秀章】を名乗ると決めた後のようだから、その名前は「さくら貝の唄」のためのもので、「高原の旅愁」には使用しない―――使用するのは不本意だ、即ち「高原の旅愁」は八洲秀章にとって不本意だった、と私が推察する根拠の一つである。「港に赤い灯がともる」や「流れの三人旅」「赤色エレジー」のノリの悪さもその根拠となっているが・・・
 戦後、NHKの<ラジオ歌謡>が一世を風靡するにつれ、八洲秀章の「さくら貝の歌」「あざみの歌」「山の煙」「毬藻の歌」「チャペルの鐘」などの抒情歌謡は、戦争に疲れた人々の心に染み込んで行った。かくして、鎌倉に住んで作曲を続けた八洲秀章は、生涯に校歌、童謡などを含め3,000曲以上を作曲したと言われている。21歳の時から作曲を開始して、昭和60年に70歳で亡くなるまで続けたとして、一年に60曲、月5曲以上のハイペースで作曲したとは驚きである。

「 8 惜別の歌 」 原詩:島崎藤村 作曲:藤江英輔

1 遠き別れに たえかねて
  この高殿(たかどの)に 登るかな
  悲しむなかれ 我が友よ
  旅の衣を ととのえよ

2 別れといえば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
  夢はずかしき 涙かな

3 君がさやけき 目のいろも
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ

〔蛇足〕昭和18年(1943)、中央大学生藤江英輔(昭和25年法学部卒)によって作曲され、以後、同大の学徒出陣兵を送る歌となりました。昭和19年(1944)春、中央大学の学生たちは長野県・諏訪湖の近くに配属されました。たまたま同じ時期、近くに東京の女子学生たちが勤労奉仕のために滞在していました。ある中央大生がそのうちの一人と恋に陥りました。二人の恋は仲間に祝福されて続きました。ところが、枯れ葉の舞い散るころ、二人の仲を妬んだ見習士官が上官に告げ口し、その中央大生は、千葉県習志野に転属を命じられてしまったのです。悲しみに打ちひしがれた二人は、彼が出発する前日、ある高殿に登り、この歌を口ずさんで別れを惜しんだと伝えられています。二人が登ったのが高島城だと地理的にはぴったりなのですが、違うようです。高島城は明治時代に取り壊され、再建されたのは昭和45年ですから。もしかしたら、城跡の高台だったかもしれません。
 中央大生の恋の相手は、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の学生だったと伝えられています。そんないきさつから、昭和40年代ぐらいまで、お茶の水女子大学の学生たちの間でも、この歌が「別れの歌」としてよく歌われたようです。この間の経緯がよくわかりません。正確な資料をお持ちの方はお知らせください。
 原詩は、島崎藤村の処女詩集『若菜集』に収録されている『高楼』で、嫁いでいく姉を妹が送る8連の長詩です。『惜別の歌』は、この第1連、第2連、第5連を採り、第1連のうちの「かなしむなかれ わがあねよ」を「我が友よ」に変えたもので、そのため、友を送る歌のような感じがします。しかし、歌詞、とくに3番の歌詞は、友人や、原詩のような姉との別れより、恋人との別れの場面によりふさわしいと感じられれますが、どうでしょうか。

「 9 月見草の花 」 作詞:山川清 作曲:山本雅之

1 はるかに海の 見える丘
  月のしずくを すって咲く
  夢のお花の 月見草
  花咲く丘よ なつかしの

2 ほんのり月が 出た宵は
  こがねの波が ゆれる海
  ボーと汽笛を ならしてく
  お船はどこへ 行くのでしょ

3 思い出の丘 花の丘
  きょうも一人で 月の海
  じっとながめる 足もとに
  ほのかに匂う 月見草

〔蛇足〕昭和24年(1949)。山川清・山本雅之のコンビで作られた童謡には、ほかに『森の小人』があります。山本雅之は、これらのほかにも『一寸法師』『いなばの白うさぎ』『かに床屋』『かもめの船長さん』など、多くの童謡を作曲しています。
 月見草はメキシコ原産のアカバナ科二年草で、日本には嘉永年間に渡来したといわれますが、現在ではほとんど見られません。一般に月見草と呼ばれているのは、この種ではなく、同属の帰化植物で広く分布するマツヨイグサやオオマツヨイグサです。

「 10 平城山(ならやま) 」 作詞:北見志保子 作曲:平井康三郎

1 人恋ふは
  悲しきものと
  平城山(ならやま)に
  もとほり来つつ
  たえ難(がた)かりき

2 古(いにし)へも
  夫(つま)に恋ひつつ
  越へしとふ
  平城山の路に
  涙おとしぬ

〔蛇足〕北見志保子は、明治18年(1885)、高知県宿毛(すくも)村(現在は市)に生まれました。本名川島朝野。釈迢空(しゃくちょうくう)などに師事し、昭和24年(1949)、歌風や結社を超越した「女人短歌会」を結成しました。昭和30年(1955)、70歳で病没。
 志保子は歌人・橋田東声と結婚しましたが、のちに浜忠次郎と恋に落ちます。志保子から引き離すために、浜は、親族によって強制的にフランスに留学させられました。上の2首は、浜が留学中の昭和10年(1935)、奈良の磐之媛(いわのひめ)陵周辺をさまよったときに作ったもので、浜への思いを、磐之媛が離れて住む夫・仁徳天皇に寄せた思いにダブらせて詠んだといわれます。彼女はその後、橋田東声との離婚が成立し、浜忠次郎と再婚しました。
 この2首に、志保子と同郷の平井康三郎が曲をつけ、この名曲が生まれました。1番の「もとほる(もとおる)」は「まわる、めぐる、さまよう」という意味。
 2番の2行目を、「妻に恋ひつつ」としている歌集が多いのに驚きました。上の由来からもわかるように、これは女性が男性を恋うる歌ですから、「夫(つま)に恋ひつつ」でなくてはなりません。男性がご自分の「妻」を恋いながら歌うのは、それはそれで大変けっこうだとは思いますが。

[ 11 人を恋ふる歌(三高寮歌) ] 作詞:与謝野鉄幹  作曲:不詳

1 妻をめとらば 才たけて
  みめ美わしく 情けある
  友を選ばば 書を読みて
  六分(りくぶ)の侠気(きょうき) 四分(しぶ)の熱

2 恋の命を たずぬれば
  名を惜しむかな 男(おのこ)ゆえ
  友の情けを たずぬれば
  義のあるところ 火をも踏む

3 汲めや美酒(うまざけ) うたひめに
  乙女の知らぬ 意気地(いきじ)あり
  簿記の筆とる 若者に
  まことの男 君を見る

4 ああわれダンテの 奇才なく
  バイロン、ハイネの 熱なきも
  石を抱( いだ)きて 野にうたう
  芭蕉のさびを よろこばず

5 人やわらわん 業平(なりひら)が
  小野の山ざと 雪をわけ
  夢かと泣きて 歯がみせし
  むかしを慕う むら心

6 見よ西北に バルカンの
  それにも似たる 国のさま
  あやうからずや 雲裂けて
  天火(てんか )一度 降らんとき

7 妻子を忘れ 家を捨て
  義のため恥を 忍ぶとや
  遠くのがれて 腕を摩(ま)す
  ガリバルディや 今いかに

8 玉をかざれる 大官(たいかん)は
  みな 北道(ほくどう)の 訛音(なまり)あり
  慷慨(こうがい)よく飲む 三南(さんなん)の
  健児は散じて 影もなし

9 四度(よたび)玄海(げんかい)の 波を越え
  韓(から) の都に 来てみれば
  秋の日かなし 王城や
  昔に変る 雲の色

10 ああわれ如何(いか)に ふところの
  剣(つるぎ)は鳴りを ひそむとも
  咽(むせ)ぶ涙を 手に受けて
  かなしき歌の 無からめや

11 わが歌声の 高ければ
  酒に狂うと 人のいう
  われに過ぎたる のぞみをば
  君ならではた 誰か知る

12 あやまらずやは 真ごころを
  Nが詩いたく あらわなる
  無念なるかな 燃ゆる血の
  価(あたい)少なき 末の世や

13 おのずからなる 天地(あめつち)を
  恋うる情けは 洩らすとも
  人をののしり 世をいかる
  はげしき歌を ひめよかし

14 口をひらけば 嫉(ねた)みあり
  筆を握れば 譏(そし)りあり
  友を諌(いさ)めて 泣かせても
  猶(なお)ゆくべきや 絞首台

15 おなじ憂いの 世に住めば
  千里のそらも 一つ家(いえ )
  己(おの)が袂( たもと)と いうなかれ
  やがて二人の 涙ぞや

16 はるばる寄せし ますらおの
  うれしき文(ふみ)を 袖にして
  きょう北漢(ほくかん)の 山のうえ
  駒立て見る日の 出(い)づる方(かた)

〔蛇足〕与謝野鉄幹(てっかん)(本名は寛)は、明治6年(1877)、京都の寺の4男として生まれました。落合直文に師事し、歌人・詩人として活躍。「君死にたまふことなかれ」の詩で有名な与謝野晶子は、3度目の妻。明治28年(1895)、招かれて漢城(現在ソウル)の日本語学校に教師として赴任。この歌は在韓中の明治31年(1898)に作られたといわれます。

1番=「侠気」は、苦しんでいる弱い者を見過ごせないような気持、おとこぎのこと。
2・7番=「義」は、他人に対して守るべき正しい道、人としてなすべき事柄、大義。
3番=「簿記の筆とる若者」は、鉄幹が韓国で知り合った志士的な人物を指すと思われる。

4番=「ダンテ」はルネサンスの先駆となったイタリアの詩人(1265〜1321)。代表作は『神曲』『新生』。ダンテを「コレッジ」としているヴァージョンもある。どちらが先だったかは不明。「コレッジ」はイギリスの詩人コールリッジ(1772〜1834)のこと。幻想的な作風でロマン主義の先駆となった。「バイロン」はイギリスロマン派の代表的詩人。反俗の青年貴族としてヨーロッパ大陸を遍歴し、ギリシア独立戦争に加わり、客死した(1788〜1524)。「ハイネ」はドイツロマン派の詩人。代表作は『歌の本』など(1797〜1856)。
「芭蕉のさびをよろこばず」の「ず」は、打ち消しの助動詞ではなく、意志・推量の助動詞。「むず」が中世以後「うず」に変化し、さらに「う」がとれて「ず」だけになった。ここでは意志を表す。したがって、「芭蕉のさびをよろこばない」ではなくて、「芭蕉のさびをよろこぼう」という意味になる。「さび」は、一般的には「古びて枯れた味わい」のことだが、芭蕉の俳諧用語としては、句中における「深くかすかな趣、閑寂な情趣」をいう。

5番=「業平」は平安初期の歌人・在原業平(ありわらのなりひら)。六歌仙、三十六歌仙の一人。業平が比叡山麓・小野の山ざとに訪ねたのは、臣従していた惟喬(これたか)親王。文徳天皇の第一皇子で、剃髪して小野に隠棲していた。俗説では、藤原氏が推す異母弟との立太子争いに敗れたため、剃髪・隠棲したということになっている。韓国内の政治的不遇者に対する同情を惟喬親王の運命に重ね合わせて詠ったと見ることができる。

6番=「バルカン」はバルカン半島のこと。民族大移動の昔から民族紛争が繰り返され、第一次世界大戦の発火点となった。最近も、旧ユーゴスラビアで、凄惨な民族紛争が続いた。日本とロシアとの勢力争いの標的となって乱れていた韓半島の政治状況がバルカンの歴史に重ね合わされている。なお、鉄幹については、韓国滞在中、日本帝国主義の立場に立って壮士的活動をしたという噂がある。

7番=「ガリバルディ」はイタリアの軍人で、小国に分裂していたイタリアを統一に導いた(1807〜1882)。ガリバルディにたとえられるような人物が当時の韓国にいたのかもしれない。
8番=「北道」は韓国(朝鮮)北部の黄海道・平安道・咸鏡道をいい、三南は南部の忠清道・慶尚道・全羅道を指す。「訛音」はなまり、方言のこと。「慷慨」は世の中のことや自分の運命を憤り嘆くこと。
9番=「韓の都」は韓国の首都ソウルのこと。李朝時代は「漢城」、1910年の日韓併合後は「京城」と呼称され、1945年の解放後ソウルとなった。

16番=「北漢」は、ソウルの北辺にある北漢山を指す。ソウル市を取り巻く山では最も高く目立つ山。昔の城壁が残っており、北漢山城と呼ばれている。北漢山は非常に険しく、頂上まで馬で登るのはとうてい無理なので、「北漢」は城趾を指していると思われる。

[ 12 冬景色  ] 作詞・作曲:不詳

1 さ霧(ぎり)消ゆる 湊江(みなとえ)の
  舟に白し 朝の霜
  ただ水鳥の 声はして
  いまだ覚めず 岸の家

2 烏啼(な)きて 木に高く
  人は畑(はた)に 麦を踏む
  げに小春日の のどけしや
  かえり咲きの 花も見ゆ

3 嵐吹きて 雲は落ち
  時雨(しぐれ)降りて 日は暮れぬ
  若(も)し燈火(ともしび)の 漏れ来ずば
  それと分かじ 野辺の里

〔蛇足〕大正2年(1913)に小学校の音楽教科書『尋常小学唱歌(五)』に掲載されました。初冬の田園風景を簡潔に歌った叙景歌の傑作です。近年は、この歌や『おぼろ月夜』『紅葉』のようなすばらしい叙景歌が作られることはほとんどなくなったようです。叙景歌というジャンル自体が好まれなくなったのでしょうか。

[ 13 冬の夜  ] 文部省唱歌

1 ともしび近く 衣(きぬ)縫う母は
  春の遊びの 楽しさ語る
  居並ぶ子供は 指を折りつつ
  日数かぞえて 喜び勇む
   囲炉裏火(いろりび)はとろとろ 外は吹雪

2 囲炉裏のはたに 縄なう父は
  過ぎしいくさの 手柄を語る
  居並ぶ子供は ねむさ忘れて
  耳を傾け こぶしを握る
  囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪

〔蛇足〕明治45年(1912)発表の文部省唱歌。作詞者・作曲者は不明。2番の「いくさ」は、日清戦争(1894〜1895)か日露戦争(1904〜1905)でしょう。今の感覚では、子どもに戦場の血なまぐさい話を聞かせるのはどうかと思いますが、この時代には、昔話か講談でもするような感覚で話題にしたようです。メロディからも歌詞からも、一家団欒のほかほかした暖かさが伝わってきます。それが、この歌が今でも好まれている理由でしょう。
 上の絵は、2002年の年賀状用にPhotoshopで描いたものです。

[ 14 故郷  ] 作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一

1 兎(うさぎ)追いし かの山
  小鮒(こぶな)釣りし かの川
  夢は今も めぐりて
  忘れがたき 故郷(ふるさと)

2 如何(いか)に在(い)ます 父母(ちちはは)
  恙(つつが)なしや 友がき
  雨に風に つけても
  思い出(い)ずる 故郷

3 志(こころざし)を はたして
  いつの日にか 帰らん
  山は青き 故郷
  水は清き 故郷

〔蛇足〕大正5年(1914)、小学校6年生用の音楽教科書『尋常小学唱歌(六)』に掲載されました。「あなたの好きな童謡」というアンケートを取ると、『赤とんぼ』などとともに、常に最上位にくる歌です。この歌や作詞者・作曲者については、ネット上に膨大な量の情報があるので、詳しいことはそれらをご覧ください。

〔下平・記〕白髪の孤老となった今では、すでに故人となっている両親が生まれ育った家は一つは廃墟となり、一つは改築・新築・焼墟となっている。 既にそこには思い出に残る片鱗すらありません。 元気だった姉も兄も、将に孤老の生活に耐えています。

「故郷」のメロディーに耳を傾けていますと忘郷の念に包まれ、木枯らしの中の枯れ枝に止まっている一羽の烏のイメージになります。 若いときにうたった「忘れがたき 故郷…」も語ってもわかりあえる人もなくなっています。 

隣近所にいた同級生は二人亡くなり、もう一人の同級生も転居することになっています。 この「故郷」の歌と、もう一つ「故郷の廃家」は胸を締めつけるのです。

[ 15 紅葉(もみじ)  ] 作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一

1 秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
  濃いも薄いも 数ある中に
  松をいろどる 楓(かえで)や蔦(つた)は
  山のふもとの 裾模様( すそもよう)

2 渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
  波にゆられて 離れて寄って
  赤や黄色の 色さまざまに
  水の上にも 織る錦

〔蛇足〕かずかずの傑作唱歌を生んだ高野辰之・岡野貞一のコンビによる作品。小学校2年生用の文部省唱歌として作られました。秋の定番曲の1つです。

[ 16 宵待草  ] 作詞:竹久夢二 補作:西条八十 作曲:多 忠亮

1 待てど暮らせど 来ぬひとを
  宵待草の やるせなさ
  今宵は月も 出ぬそうな

2 暮れて河原に 星一つ
  宵待草の 花の露
  更けては風も 泣くそうな

〔蛇足〕竹久夢二は、数多くの叙情的な美人画とともに、約180篇の詩、約430首の短歌のほか、150あまりの小唄などを作っています。『宵待草』は大正2年(1913)に作った小唄で、のちに曲がつけられ、大正末期に大流行しました。歌にするにあたって、詞が短すぎるというので、西条八十が2番を付け加えました。八十は、最初、2番の2行目を「宵待草の花が散る」としていました。しかし、宵待草の花は、散らずに、茎についたまましおれるのが特徴です。それを人に注意された八十は、のちに上のように詞を変えました。宵待草はアカバナ科のオオマツヨイグサのことで、この歌がはやるまでは待宵草というのが普通でした。北アメリカ原産の帰化植物で、夏、茎頂や葉腋に黄色い4弁の大きな花をつけます。よくツキミソウとまちがって呼ばれますが、本来は別の種類です。高峰三枝子のほか、李香蘭、五十嵐喜芳、倍賞千恵子など、多くの歌手が歌っています。

「 17 喜びも悲しみも幾歳月 」 作詞・作曲:木下忠司

1 俺(おい)ら岬の 灯台守は
  妻と二人で 沖行く船の
  無事を祈って 灯(ひ)をかざす
  灯をかざす

2 冬が来たぞと 海鳥(うみどり)なけば
  北は雪国 吹雪の夜の
  沖に霧笛が 呼びかける
  呼びかける

3 離れ小島に 南の風が
  吹けば春来る 花の香(か)便(だよ)り
  遠い故里 思い出す
  思い出す

4 星を数えて 波の音(ね)きいて
  共に過ごした 幾歳月(いくとしつき)の
  よろこび悲しみ 目に浮かぶ
  目に浮かぶ

〔蛇足〕木下忠司は400曲以上の映画主題歌を作りましたが、とくに多いのが、実兄の映画監督・木下恵介の作品につけた曲です。この歌は、若山彰の迫力のある歌唱と相まって大ヒットしました。
 昭和32年(1957)に製作された『喜びも悲しみも幾年月」は、実在の灯台守の妻・田中キヨの手記に基づいて作られたものです。灯台守の夫婦を佐田啓二と高峰秀子が演じました。夫婦は、昭和7年(1932)の神奈川県観音崎灯から始まって、北海道から九州まで各地の灯台を転勤して回ります。その間に家族が味わった哀歓や同僚たちとの交流がテーマになっています。
 この作品は、昭和61年(1986)、木下監督自身によってリメイクされました。テーマは同じですが、映画の出発点は昭和48年(1973)の京都府経ヶ岬灯台になっています。主演は加藤剛と大原麗子。祖父を演じた植木等がいい味を出していました。このリメイク版でも、木下忠司の曲が使われました。

「 18 冬の星座 」 作詞作曲:ヘイス 訳詞:堀内敬三(文部省唱歌)

1 木枯とだえて さゆる空より
  地上に降りしく 奇しき光よ
  ものみないこえる しじまの中に
  きらめき揺れつつ 星座はめぐる

  2 ほのぼの明りて 流るる銀河
  オリオン舞い立ち スバルはさざめく
  無窮をゆびさす 北斗の針と
  きらめき揺れつつ 星座はめぐる

<ものみないこえる しじま>‘しじま’を調べてみると Amazon和書 の中で8件ありその内、静寂(シジマ)を当てているのが5件、沈黙(シジマ)・黙(シジマ)を当てているのが1件ずつ、平仮名が1件であった。状況から受ける感覚では静寂〜沈黙を含む意味として理解できる。

『折々の記』2004@の1月22日、

  http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.210.html<しじま>

でも書いたが、凍てつく冬の夜空を眺めると声を張り上げて歌った子供のころを思い出すのです。 懐かしい歌だ。

「 19 霰三題 」 作詞:不詳 作曲:信時潔

1 廂をたたく 音高く、
  命あるごと 争いて、
  はねて、跳りて、鉢植の
  万年青の葉と葉に はさまりて、
  ただ一粒が、紅の実に
  ふと並びたる 霰かな。

2 大空くらく、風うなり、
  雲の上なる 国原に、
  おぞや、戦の 始りて、
  たけなわなりとや、それ弾丸の
  飛来る如く、散る如く、
  今、降りしきる 霰かな。

3 村より村へ、ひねもすを
  手ぶり、足ぶり おもしろく
  猿をまわして、おどらせて、
  疲れて帰る 猿曳の
  背に寒寒と 眠りおる
  猿驚かす 霰かな。

2〜3番はどっちでもいい。音楽でいえばなんというのか知らないが、<ヒ・サ・シ・ヲ・タ・タ・クー>と歯切れよくスタートするこの歌は、近所の一つ上の‘山本茂’子供の呼び名<しーちゃ>の声が髣髴されるのだ。屋根職人として働いてきて、屋根から落ちて亡くなってしまった。

坪庭の万年青を見ると、いつも思い出す。

「 20 仰げば尊し 」 文部省唱歌

1 仰げば尊し、わが師の恩。
  教の庭にも、はやいくとせ。
  おもえばいと疾し、このとし月。
  今こそわかれめ、いざさらば。

2 互いにむつみし、日ごろの恩。
  わかるる後にも、やよわするな。
  身をたて名をあげ、やよはげめよ。
  今こそわかれめ、いざさらば。

3 朝ゆうなれにし、まなびの窓。
  ほたるのともし火、つむ白雪。
  わするるまぞなき、ゆくとし月。
  今こそわかれめ、いざさらば。

いまさら取り上げていうのもおかしいくらい懐かしい歌である。『おもえばいととし』のとしは歳月だろうと長年勝手に理解していた。ところが、歌詞を目にしてから『おもえばいととし』は『おもえば愛(イト)歳月(トシ)』ではなく『おもえばいと疾し』ならば意味は一層しっくりくる。 それが正しかった。

多感な少年時代に一番多く接した共通の人……それは同級生であり、一番多く感化を受けた人……それは恩師に違いない。 横前秀一先生はほんとによい先生であった。 いまも同級会が毎年続いている。

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