【懐かしい歌へ】

お気に入りの歌⑨
<いろいろの思い出>

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  01  橘中佐(遼陽城頭夜は明けて)
  02  橘中佐(屍は積もりて山を築き)
  03  田道間守
  04  ゆりかごの唄
  05  たなばたさま
  06  羽衣(三保の松原うらうらと)
  07  竹の子
  08  唄を忘れたカナリヤ
  09  最寄会 うた 2020/03/01
  10  どんぶりころころどんぶりこ
  11  藁の中の七面鳥
  12  「神ともにいまして」讃美歌 405番
  13  おいとこそうだよ(千葉県民謡)
  14  牛若丸
  15  鐘の鳴る丘(とんがり帽子)
  16  ふるさとの
  17  長崎の鐘
  18  栄冠は君に輝く
  19  学生時代
  20  明治節


[ 1 橘中佐(遼陽城頭夜は明けて)]  作詞:鍵谷徳三郎 作曲:安田俊高

   遼陽城頭夜は明けて
   有明月の影凄く
   霧立ち込むる高梁の
   中なる塹壕声絶えて
   目覚めがちなる敵兵の
   胆驚かす秋の風

[ 2 橘中佐(屍は積もりて山を築き)]  作詞: 作曲:岡野貞一 文部省唱歌

   屍は積もりて山を築き
   血潮は流れて川をなす
   修羅の港の向陽寺
   雲間を漏るる月青し

   「味方は大方討たれたり
   しばらくここを」と諌むれど
   「恥を思えやつわものよ
   死すべき時は今なるぞ

   御国の為なり陸軍の
   名誉の為ぞ」と諭したる
   言葉は半ばに散り果てし
   花橘ぞ芳しき

橘中佐 橘 周太(たちばな しゅうた、慶応元年9月15日(1865年11月3日) - 明治37年(1904年)8月31日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争における遼陽の戦いで戦死し、以後軍神として尊崇される。

遼陽は中国東北部、遼寧省の都市で、当時は人口6万のハルビンに次ぐ南満州の戦略的拠点。地理的には平野で、旅順からハルビンへ至る東清鉄道が走る交通の要衝でもあった。

日本の参謀本部では、川上操六・児玉源太郎らが対露戦略を構想していた。日本軍はロシア軍がシベリア鉄道などを利用して兵力を輸送してくる以前に積極的に朝鮮半島に進出し、ロシアの主力軍が集中する以前に、短期決戦で同地を確保する作戦を立案。満州へ向かう主力戦とウラジオストクへ向かうウスリー支作戦による分進合撃を構想し、遼陽は奉天・海城・鉄嶺らとともに進撃目標の1つとされた。

ロシア側でも開戦以前から基本戦略が存在し、本国から兵力を輸送して遼陽付近を第一線に兵力を集中させ、ハルビンを退路に本国からの増援を待ちつつ攻勢する作戦を構想。開戦直前には陸軍大臣のアレクセイ・クロパトキンが満州軍総司令官として赴任する。

1904年2月9日、日露戦争が開戦。日本側は第12師団の仁川上陸(朝鮮への威圧的上陸)、旅順港を封鎖しての黄海の制海権確保に成功し、遼東半島からの上陸が可能になった。第3軍(乃木希典)が旅順攻略を担当し、基本戦略通りの分進作戦を実施し、第1軍(黒木為楨)が朝鮮半島の大同江に上陸して5月1日に鴨緑江会戦を経た後に北上。第2軍(奥保鞏)は5月5日遼東半島の塩大澳に上陸、旅順要塞孤立化のための南山攻略を行った後に大連を占領、5月30日より東清鉄道に沿って北進し、得利寺、大石橋などでロシア軍と戦闘を繰り返しつつ北進する。第4軍(独立第10師団と呼ばれていたが、後に第5師団を加えて軍に編成、野津道貫大将指揮)は中間地点の大弧山から上陸し、遼陽を目指す進撃を開始、柝木城を攻略し、遼陽を包囲した。

日本側の制海権確保でロシア側は基本戦略を変更し、クロパトキンは兵力を直接遼陽へ集結させ、日本軍第一軍が迫る国境地帯の鴨緑江へも展開する。また、このほかに旅順救出の部隊を編成し、兵力を出すも現場指揮官の戦意が乏しかったため、日本軍第二軍の兵力の見誤りからに遼陽に引き揚げてしまう。

経過

日本軍は8月にほぼ遼陽に集結し、東から第1、第4、第2軍を展開。第1軍が太子江を渡河して東を迂回し、ロシア軍を側撃する作戦を計画だった。8月3日秋山好古少将率いる騎兵第1旅団(習志野)は、敵情の偵察を行うように命じられ、遼陽会戦前まで敵情の偵察任務に赴いた。この秋山少将率いる部隊は騎兵第1旅団を中心とし、そのほかに歩兵第38連隊(伏見)、野砲兵第14連隊、騎砲兵中隊、工兵第4大隊第3中隊の複合型集団を構成しており、秋山支隊と呼ばれた。

8月26日、第1軍は紅沙嶺へ進攻し、同日午後には弓張嶺において第2師団が白兵での夜襲を敢行し、ロシア軍を駆逐し、第一線陣地であった同地を撤退させる。第2軍も8月25日に進撃し、ロシア軍を後退させる。28日には満州軍総司令部は第二軍に標高209メートルの制高地でもある首山堡陣地の攻略を命じ、30日には陣地への攻撃を開始するが、戦況は行き詰る。30日深夜には第1軍が連刀湾から太子江を渡河して遼陽を迂回し、梅澤旅団とともにロシア軍第二陣地を攻撃。ロシア側は第1軍の側撃を予期していたものの偵察の不備もあり日本軍の行動を捕捉できず、各軍団からの増派部隊で応戦した。第1軍は饅頭山を確保し、主力戦ではロシア側の兵力抽出の影響もあり、9月1日には首山堡を確保する。

9月4日、クロパトキンは退路の遮断を恐れ、全線に奉天への撤退を指令した。日本側は兵力消耗や連戦の疲労もあり追撃は行われなかった。

http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/s_jinjou3_4/j40_tachibana_chu.htm

[ 3 田道間守 ]  作詞: 作曲:

 1 かおりも高い たちばなを
    積んだお船が いま帰る
    君の仰せをかしこみて
    万里の海をまっしぐら
    いま帰る田道間守 田道間守

 2 おわさぬ君の みささぎに
    泣いて帰らぬ まごころよ
    遠い国から積んできた
    花たちばなの香とともに
    名はかおる田道間守 田道間守

唱歌「田道間守」の思い出  2009年11月15日

詩人にして登山家の浜田 優さんの近著『流れる山の情景』は、私にとっては久々「名著」の誕生を感じさせてくれました。
詩と、詩を思わせるエッセイと、作品への思いと、沢遡行の記録で構成されています。

この中で思いがけないことに出会いました。 少年時代の懐かしい思い出を甦らせることです。

この詩は伊藤静雄が「アルプスの画家」として知られている「セガンティーニ」のアルプス三部作の中の「アルプス・死」に着想を得たと言われています。

この詩の中に「非時(ときじく)の木の実塾(う)るる・・・・」という一行があります。 「非時の木の実」とは「橘」の古語だそうです。 この「橘」をめぐる一つの哀しい物語が『古事記』に登場します。

第十一代「垂仁天皇」仕えた忠臣「多遅摩毛理」(田道間守=たじまもり)のことです。 天皇は遠い海の向こうの常世の国にあると言われる不老長寿「非時の木の実」を持ち帰るよう命じます。 田道間守は幾多の困難の末、10年をかけてようやくそれを手に入れ帰国します。 しかしそのとき既に天皇は崩御されていました。 悲嘆のあまり田道間守も墓前で死んでしまいます。 まこと忠臣の鑑です。

戦時下での「忠君愛国」の思想が大手を振って歩く時代。 田道間守のような存在は当然、格好な教育材料になります。 この忠臣「田道間守」を歌った唱歌にそのままの「田道間守」があります。 唱歌としてはマイナーだったので、知らない人が多いと思いますが・・・。 私も特別に好き、ということも無かったのですが、特別な思い出があるのです。

それは小学校(当時は国民学校)2年か3年生のころのことです。 担任のK先生(当時20代だった女の先生)がどういうわけか分かりませんが、私にこの唱歌を良く歌わせたのです。 教室に入ってくるなり、いきなり”歌いなさい”と有無を言わさず命令することなどもありました。 内気だった私はそのたびに、ひどく恥ずかしい思いをしながら歌ったものです。 記憶にはないのですが、今では信じられないことですが、多分、哀調を帯びたボーイソプラノだったのでしょうね。 変声期を過ぎてからは酷い声になって、歌うのはキライになりましたが・・・。

 ♪ かおりも高い たちばなを  積んだお船が いま帰る
    君の仰せをかしこみて 万里の海をまっしぐら
    いま帰る田道間守 田道間守

    おわさぬ君の みささぎに  泣いて帰らぬ まごころよ
    遠い国から積んできた  花たちばなの香とともに
    名はかおる田道間守 田道間守  ♪

モンペ姿でしか思い返せないK先生。 私が今一番再会したい先生。 今どこでどうしているでしょうか・・・?
    日記・コラム・つぶやきより

コメント

田道間守・・・ぜんぜん知らない歌ですねぇ。。。曲を聴けば、もしかして聴いたことのある歌かもしれませんが。

そのような思い出のある先生ならお逢いになりたいでしょうね。お探しになる手だてはないのでしょうか?
あの町でしたらご住所が簡単に判るのではとおもいますが、当時独身でしたらご結婚で住所が変わってしまったということもありますね。

先生はご高齢でしょうからお早めに。。。
    投稿: おキヨ

おキヨ様
誰もが愛唱する有名な唱歌と違い、よほどの唱歌マニアでないと知らない歌だと思います。
知らなくて当たり前のレベルでしょうね。 私とて、こんな思い出がなければとうの昔に忘れていると思います。 K先生は健在なら多分80歳代と思います。 学年末に他の学校へ転勤になって以来全く消息を聞くことはありませんでした。 私は良く覚えていても先生の方はとっくに忘れているでしょう。 このままで良いような気もしています。

【追記】

老生は教わったことはないが、懐かしい歌として脳裏の奥にあった。 田島の守についてはGoogleを開くと出ています。 

第15代応神天皇~仁徳天皇ころ、4世紀末から5世紀にかけて日本への移り同化した人たちが非常に多く日本の歴史が大変化した時期です。

飛鳥時代から奈良時代平安時代にかけての日本は、日本文化の胎動期といってもいい。 歴史の学習ではこの時代の人々の精神的な構えと新しいものへの対応という体験によって日本文化が位置づいてきたことをくみ取らなくてはならない。 そんな時代考察をする必要があると思います。

[ 4 ゆりかごの唄 ]  歌: 童謡唱歌 作詞:北原白秋 作曲:草川 信

   ゆりかごの うたを  カナリヤが うたうよ
   ねんねこ ねんねこ  ねんねこよ

   ゆりかごの うえに  びわの みがゆれるよ
   ねんねこ ねんねこ  ねんねこよ

   ゆりかごの つなを  きねずみが ゆするよ
   ねんねこ ねんねこ  ねんねこよ

   ゆりかごの ゆめに  きいろいつきが かかるよ
   ねんねこ ねんねこ  ねんねこよ

この童謡は夏川りみの唄声で聴くのが一番いい。

年をとり老いてくると、いろいろと記憶が薄れついにはボケてきたと言われるようになる。 よく家へ行くといって自宅を離れ放浪するともいう。 どうして「えんげ」へ帰りたいのか? 若いときはそんなことを考えもしなかった。 ところが自分でとし老いてくると、昔の幼いころを懐かしく思うようになる。なぜ幼いときか? なぜ在所なのか? 

父も母も兄弟もいて、温かく大事にしてくれたことが嬉しかった、そのこいへの郷愁だと気づくようになった。

この歌のように、自分がネンネンころりの気分になっていたことが、底なしに懐かしくなる。 おさな心が感じ取っていた、底なしの安ど感!

[ 5 たなばたさま ]  作詞:権藤はなよ 作曲:下総皖一

   ささの葉さらさら のきばにゆれる
   お星さまきらきら きんぎんすなご

   ごしきのたんざく わたしがかいた
   おほしさまきらきら そらからみてる

[ 6 羽衣 ]  作詞:不詳 作曲:不詳 新訂高等小學唱歌(第二學年)昭和10年

合唱  三保の松原 うらうらと
     日は晴れ渡る 空の上
     天津乙女の 舞の袖
     あざやかにこそ 見えにけれ

天女  あら かなしや
     松の枝(えだ)の 羽衣失
     歸るすねなき 雲の通路(かよひじ)

合唱  得たりと拾ふ 濱の漁師(れうし)
     持ち歸ちてぞ 寶にせんと

天女  衣(ころも)なくては 如何にして
     雲居のはてに 歸るべき
     疾(と)く疾く返せ 人間に
     着る用もなき 羽衣を

漁師  返せとや さて返せとや
     いち惜しけれど さらば返さむ
     天人も 心しあらば
     更に一(ひと)さし 舞いても見せよ

合唱  舞うや 霓裳(げいしょう)羽衣(うい)の曲
     見る見る 影は遠ざかり
     あとに残れる 富士の山
     うららかにこそ 浮かびけれ

 昭和二十二年、長野の檀田で佐々木賢明と隣り合わせの下宿となった。彼はこの歌を口誦み、たちまちこの歌の持つ魔力に私は魅せられた。折々にこの歌を口誦んだが、歌詞が今ひとつ判然としなかった。誰に聞いてもわからなかった。平成八年塚田清美さんから楽譜と歌詞を手に入れることができた。やっとわかったのである。  だが佐々木賢明はもういない。誰かこの歌を天空にいる彼に届くよう歌ってほしい。それがこの歌に寄せる私の願いである。

[ 7 竹の子 ]  昭和7年(1932年)『新訂尋常小学唱歌 第二学年用』

  くらいおうちの戸をあけて、
  こつそりおもてを見るやうに、
  むつくりこ、むつくりこと
  土おしあげて、
  竹の子一本頭を出した。

  廣いこの世がうれしいか、
  やつぱり日影がこひしいか、
  むつくりこ、むつくりこと
  土おしあげて、
  竹の子ぐんぐん大きくなつた。

文部省唱歌から拾い出したこの歌は、ある意味では子供と一緒に歌うと共に、竹の子も人と同じに生きている歌なんだよと、一言添える歌です。 年をとってみると子供がとてもかわいいと思うのです。

[ 8 唄を忘れたカナリヤ ] 作詞;西条八十 作曲;成田為三 昭和27年小学唱歌

 童謡と云っても・・・ナント過酷で厳しい歌詞なのでしょう。 子供向きとは、とても・とても思えない、西條八十の厳しさ。 この歌をご存じない方に、まずは・・・歌詞をご覧ください。

     唄を忘れたカナリヤ〈金糸雀〉は

   唄を忘れたカナリヤは
   後ろの山に捨てましょか
   いえいえ それはなりませぬ

   唄を忘れたカナリヤは
   背戸の小藪に埋〈い〉けましょか
   いえいえ それはなりませぬ

   唄を忘れたカナリヤは
   柳の鞭でぶちましょか
   いえいえ それはかわいそう

   唄を忘れたカナリヤは
   象牙の船に銀の櫂〈かい〉
   月夜の海に浮べれば
   忘れた唄をおもいだす

どうですか、唄を忘れてしまったカナリアには何の価値もないのでしょうか。

  ①では、後ろの山へ捨てられるのですか
  ②では、背戸〈裏の戸〉の小藪に埋められるのですか
  ③では、柳で作って鞭でぶたれるのですか

でも救いは、いえいえそれは成りませぬと否定しています。 人生も同じでは無いでしょうか、そんなに甘くないのが世間でしょう。 幼い子供たちに、西條八十が現実の厳しさを教えているのでしょうか。  美しい声で歌っているカナリヤですら唄を忘れたら、こんな目に合う・・と。

 今はあまり歌われる事もありませんが、童謡「かなりや」(詩・西条八十)です。 童謡というのは唱歌とは違います。唱歌は明治時代に教育のために国が主導して作られた歌であり、童謡というのは大正時代に、鈴木三重吉、北原白秋など唱歌に飽きたらぬ文学者や詩人たちが、「子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むような歌と曲」を与えようと立ち上がって作られた子供のための文学なのです。

 子供の心にも暗い悩みがある。

 私は小学生による同級生殺害事件のニュースを聞きながら、その被害者、加害者の子供の不幸を考えながら、この「かなりや」を思い起こしました。

 西条八十は幼い日、教会のクリスマスに行った夜のことを思い出しながら、この唄を作詞しました。会堂内に華やかに灯されていた電灯の中で、彼の頭上の電灯が一つだけポツンと消えていたのだそうです。その時、幼き心に「百禽(ももり)がそろって楽しげに囀っている中に、ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥であるような感じがしみじみとしてきた」と言います。

 子供は子供なりに孤独や悩みを一人で抱えているものです。それは昔も今も変わりません。身を以てそのような子供の心を知る西条は、そのように傷つきやすい子供らの心に希望を与えようとして、この「かなりや」を作詞したのでした。唄を忘れたカナヤも、自分の居場所を見つけることができれば再び美しい声で歌い出す・・・現代の子供にも、ぜひ「かなりヤ」を歌って欲しいものです。

 西條八十の辛い苦しい生活苦から生まれた唄らしい。 西條は詩を作る仕事に就きたいと願いながら日々の生活に追われ、株の取引に明け暮れる自分を責めて、作った歌だったのです。

 いえいえ、それはかわいそう・・とは妻の口癖だったとか。

 西條は、カナリヤを自分に映して詩を作っていたのです。 大正7年〈1918〉に作詞、これに成田為三が作曲、レコード化されたのが大正9年〈1920〉タイトルは「かなりや」。

 昭和27年になって小学唱歌として取り上げられ、その時に「唄を忘れたカナリヤ」になっている。 曲も、3番まで同じメロディーで、3番の最後だけが4番に繋げるように、メロディーが下がっている・・・。 そして4番のメロディーが高らかに、と云うか決めの曲になっている。 私も久しぶりに聞いて、あれこんな曲になっていたのかと改めて・・・、この歌詞とのコンビネーションの素晴らしさを知った。

[ 9 最寄会 うた 2020/03/01 ]  作詞: 作曲:

最寄会 うた
ページ
歌 の 名 前
  童謡「唄を忘れたカナリヤは」
  げんげ草
  月見草
  羽衣
  近江八景
  千曲川旅情の歌
  信濃の国
  青葉の笛
  原爆を許すまじ
  惜別の歌
  初恋
  啄木の歌
10
  手合わせ唄
  薩摩守
11
  雛祭(ひな)の宵
12
  月見草の花
14
  羽衣(唱歌)
15
  三保松原の羽衣伝説
17
  新型コロナウイルスはなぜ発生したのか? .

年齢(とし)を重ねて今年91をむかえる春がきた。 8人の最寄りの会である。 けょうの新聞には「独居・老老・・・「想定外」が標準に」とした見出し記事が載っていた。 新型コロナウイルスで国中が大騒ぎになっている。 「国内で確認された感染者946人 死者11人 2月29日午後8時半時点 厚労省などによる」

[ 10 どんぶりころころどんぶりこ ]  作詞:青木存義 作曲:梁田 貞

  どんぐりころころ どんぶりこ お池にはまって さあ大変
  どじょうが出て来て 今日は ぼっちゃん一緒に 遊びましょう

  どんぐりころころ よろこんで しばらく一緒に 遊んだが
  やっぱりお山が 恋しいと泣いてはどじょうを 困らせた

原曲は2番で終わってしまっている「どんぐりころころ」。しかし、悲しい結末の2番までで終わってしまってよいのか……という声も上がります。

一説によると「どんぐりころころ」の作詞家である青木存義さんによると「あえて3番をつくらなかった」ともいわれています。その理由は「子どもたちに自分でつくってほしいという希望があったから」なのだそう。子どもたちの豊かな発想力に「どんぐりころころ」の未来を託したのですね。

実は、「幻の3番」として世の中に広まっていった歌詞があります。

  どんぐりころころ 泣いてたら 仲良しこりすが とんできて
  落ち葉にくるんで おんぶして 急いでお山に 連れてった

山に帰りたいと泣き出したどんぐりのもとに、仲よしのりすがやってきます。落ち葉は温かな毛布のような存在でしょうか。どんぐりはふんわりとした落ち葉にくるまれて、無事に山へ帰っていきます。
この「幻の3番」は1986年、作曲家・岩河三郎氏によってつくられました。童謡らしく親の愛情が込められた歌詞に……という想いが込められているそうです。

――もし、これからお子さんに「どんぐりころころ」を教えようとする親御さんがいらっしゃったら、お母さん、お父さんとお子さんが一緒になって、ホームシックにかかって悲しくなってしまったどんぐりはどうしたいのか……そんなオリジナルの歌詩を考えてみるのもよいかもしれませんね。

[ 11 藁の中の七面鳥 ](オクラホマミクサー)  作詞:PD 作曲:PD

  さあたいへんだ さあたいへんだ
  七面鳥が 逃げてゆく
  さあみんなで つかまえろ
  ララララ ララララ ララララ ララララ
  いっしょうけんめい 逃げてゆく
  そら かくれたところは わらの中

  さあたいへんだ さあたいへんだ
  七面鳥が また逃げた
  こんどこそ つかまえろ
  庭のまわりを 追いかけろ
  ララララ ララララ ララララ ララララ
  いっしょうけんめい 逃げてゆく
  そら かくれたところは 小屋の中

    さあたいへんだ さあたいへんだ
    七面鳥が また逃げた
    こんどこそ つかまえろ
    庭のまわりを 追いかけろ
    ララララ ララララ ララララ ララララ
    いっしょうけんめい 逃げてゆく
    そら かくれたところは 小屋の中

私が小学校頃の運動会には、明るい調子の元気なオクラホマミクサーのこの曲が流れていました。 懐かしい曲です。だが、歌詞は一向に覚える気もなくこの年まできた。 元気をもらえる曲だから、口裏で調子をとるだけでした。 歌詞検索J-Lyric.net を見て書きとりました。

[ 12 「神ともにいまして」 讃美歌 405番 ]  作詞: 作曲:

   神ともにいまして ゆく道をまもり
    あめの御糧(みかて)もて ちからを与えませ
    また会う日まで また会う日まで
    かみのまもり 汝が身を離れざれ

   荒野をゆくときも あらし吹くときも
   ゆくてをしめして たえずみちびきませ
   また会う日まで また会う日まで
   かみのまもり 汝が身を離れざれ

   御門(みかど)に入る日まで いつくしみひろき
    みつばさのかげに たえずはぐくみませ
    また会う日まで また会う日まで
    かみのまもり 汝が身を離れざれ

モーゼの十戒を知り、村上和雄の分子生物学で something great を理解し、古代の聡明な人々の訓えが大自然の不可思議な創造エネルギーを神と位置づけてモーゼに伝えたと思います。 ですから結論を言えば、細胞は神の力によるものであり自分は親から生まれた事実を重視して人の在り方を中核とし訓えを石に刻み込んでまでしてモーゼに聡明な人々の合議を伝えたと私は信じている。

ですから、讃美歌 405番の中味が私たちの魂に食い込む力をもっているのでしょう。 私はそんな気持ちでこの歌に接しているのです。

[ 13 おいとこそうだよ ]  千葉県民謡

この曲は「歌われている地域」が非常に広いのが特色です。
宮城県から旧仙台藩の所領だった岩手県地方の民謡...とされる場合が多いのですが、諸説混沌としています。

   おいとこそうだよ
    紺ののれんに 伊勢屋と書いてだんよ
       お梅十六 十代伝わる 粉屋の娘だんよ

   あの娘は良い子だ
    あの娘と添うなら三年三月でも 裸で茨も背負いましょ
       水も汲みましょ手鍋も下げましょう

   なるたけ朝は早起き
    のぼる東海道は五十と三次 粉箱やっこらさとかついで
       あるかにゃなるまい おいとこそうだんよ

   おいとこそうだよ     二人で添うなら共に白髪の生えるまで ...これは今でも宮城~岩手地方で歌われている「おいとこそうだよ」の歌詞です。 チエミさんも、この東北版のアレンジに近い歌詞、メロディで歌われています。

しかし、この「おいとこそうだよ」を調べると、非常に奥が深いのです...

東京堂出版発行の「日本民謡辞典」には、「おいとこ」という項目で、次のような解説があります。

>「宮城県仙台付近でうたわれる酒盛り唄。岩手、山形、秋田と東北地方で広くうたわれている。伝説的には、天保年間、印旛沼(いんばぬま)干拓工事の折に、そこで働く土工たちによって、うたわれたものが流行歌となって各地に普及したと伝えられている...」

>白桝粉屋(しらますこなや)おどりがおいとこのルーツ
宮城県迫町(はさまちょう)も「おいとこ」の盛んな町です。迫町森地区では平成元年から「伊達(だて)なおいとこ踊り宮城大会」を開催しています。
その大会の発案者である星勲さんの面白い調査があります。星さんによれば、仙台藩は下総(しもふさ)の国、つまり現在の千葉県に飛び地の領地を持っていた。そこから干拓工事に駆り出された人々が、「おいとこ」を覚えて国元に持ち帰ったことは十分に考えられる。というのです。

さて、それでは「おいとこ節」は、どんな歌詞なのでしょうか。再び民謡辞典を引くと、こう解説してあります。
>「この唄は、千葉県多古町(たこまち)に伝わる白桝粉屋(しらますこなや)と呼ばれる唄で、“おいとこそうだよ”とうたい出すところから、おいとこ節とも呼ばれている」
この歌詞で「白桝粉屋」とうたわれている「白桝」というのは地名です。現在の千葉県芝山町(しばやままち)白桝がそれにあたります。多古町のすぐ近くで、成田にも近いところです。
  (京成電鉄に接続する第三セクター/芝山鉄道の芝山です。)

芝山町は、「おいとこ節・発祥の地」をうたっている町でした。この町では「おいとこ」と言わず、「白桝粉屋おどり」として受け継がれ、今では県指定の無形民俗文化財になっています。
  ついに「おいとこ」のふるさとにたどり着いたようです。

若い僧侶が娘を見初め唄を作って流行させたもの。

その芝山町で伝えられている「白桝粉屋おどり」、つまり「おいとこ」の由来は次のようなものです。

>「江戸時代の半ばごろ、多古町の日本寺(にちほんじ)に、中村檀林(なかむらだんりん)という学問寺がありました。当時この檀林で学んでいた若い僧侶が、芝山町の白桝粉屋の美人看板娘の久子さんを見初め、唄を作って檀林内で流行させました。やがて修学を終えた僧侶たちはそれぞれの故郷へ帰り、仏の教えとともにこの唄が各地に伝わっていきました」白桝粉屋は、銚子から江戸へ抜ける、いわゆる江戸街道の道筋にありました。江戸街道は、さまざまな産物を運ぶ街道でもありました。この街道の人と物の流れの中に、印旛沼の干拓工事に駆り出された人々の一団がいたことは、想像に難くありません。

---->こうなると...この「おいとこそうだよ」は、江戸時代の「ヒット曲」ということとなります。

  そして、もうひとつ見落としがありました。
それは、チエミのムード民謡[チエミの民謡集第4集] SKF149 (1962発売 1,300)...のクレジットです。 (第2面)1.おいとこそうだよ(1分57秒)...千葉県地方/宮川泰編曲 と、しっかりと「元々は千葉県の民謡」ということが記載されていました。

>おいとこの語源は諸説さまざまです。・・・「おいとこ」は、伝えられた地方に次第に定着し、やがて歌詞をその地方向きに変え、その地方の民謡として受け継がれ、発祥の地である芝山町を離れて、より多くの人々にうたわれるようになったと、芝山町の人々は言います。

ところで、「おいとこ」の語源については、不明な点が多いのです。これまでのさまざまな節を述べてみます。
 「オーイ、ドッコイショ」=土工作業の掛け声と受け声から
 「高砂そうだよ」=北房総地方の小念仏唄から
 「お江戸っ子」
 「佐渡方言説」=佐渡出身の僧侶が原作者か
 「オイ、ドッコイショ」=相撲甚句の掛け声から
 「おーい、いとこ」=従兄弟、親しい者への呼び掛けから

さて、白桝粉屋が、どうして千厩地方では伊勢屋になったのか、久子がお梅になったりしたのか、その訳は、今となっては知る由もありません。

(下平) この歌は一杯飲んだ時に兄が時折歌った歌です。 懐かしい歌をホッと思い出して調べてみると、上記の解説がありました。

[ 14 牛若丸 ]  作詞:不詳 作曲:不詳

  京の五条の橋の上
  大のおとこの弁慶は
  長い薙刀ふりあげて
  牛若めがけて切りかかる

  牛若丸は飛び退いて
  持った扇を投げつけて
  来い来い来いと欄干の
  上へあがって手を叩く

  前やうしろや右左
  ここと思えば またあちら
  燕のような早業に
  鬼の弁慶あやまった

尋常小学唱歌 有名な唱歌 一覧
  http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/jinjo-shogaku-shoka.html

日本人の作曲家による日本独自の楽曲が用いられた文部省唱歌です。

内容的には、1910年(明治43年)に発行された「尋常小学読本唱歌」がそのまま引き継がれており、第一学年用から第六学年用までの全6冊、各20曲で合計120曲が収録されている。

なお、明治初期の翻訳唱歌についてはこちら「小学唱歌集 原曲の外国民謡 明治時代の音楽教科書」でまとめてご紹介しているので是非参照されたい。
  http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/shogaku-shokashu.html

[ 15 鐘の鳴る丘 ]  作詞:菊田一夫 作曲:古関裕而

1 緑の丘の赤い屋根
  とんがり帽子の時計台
  鐘が鳴ります キンコンカン
  メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
  風がそよそよ丘の上
  黄色いお窓はおいらの家よ

2 緑の丘の麦畑
  おいらが一人でいる時に
  鐘が鳴ります キンコンカン
  鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の
  元気でいろよという声よ
  口笛吹いておいらは元気

3 とんがり帽子の時計台
  夜になったら星が出る
  鐘が鳴ります キンコンカン
  おいらはかえる屋根の下
  父さん母さんいないけど
  丘のあの窓おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星
  おやすみなさい 仲間たち
  鐘が鳴ります キンコンカン
  昨日にまさる今日よりも
  あしたはもっとしあわせに
  みんな仲よくおやすみなさい

朝ドラでエールを見ています。 古関裕而の生い立ちが出てくるのです。 戦時中ビルマに派遣され大事な人たちの死に直面し、やがて敗戦となって帰ってきたが、軍歌作曲の自分の心の在り方に打ちひしがれて作曲を遠ざけていたが周囲のすすめで作曲を始めた。 それが「鐘が鳴る丘」だったという。

私自身の予科練での戦死者と負傷者の体験から、七つボタンの歌は口からでなくなった。 そして戦争拒否のこころの傷は生きていく最深部の底をながれています。 だが、この歌は同じ切ない思いをしてきた子供たちの心をほぐし、人々に明るい心を呼び起こしていったのも事実だった。

その意味では涙を誘う感情も呼び覚まします。 この曲は、明るい気持ちを、古関裕而は日本の人々に、呼び覚ましてくれた歌でした。

[ 16 ふるさとの ]  作詞:三木露風 作曲:斎藤佳三

  ふるさとの 小野の木立に
  笛の音(ね)の うるむ月夜や

  少女子(おとめご)は あつき心に
  そをば聞き 涙ながしき

  十年(ととせ)経ぬ 同じ心に
  君泣くや 母となりても

《蛇足》 郷愁にも似た淡い初恋の記憶を、これほどみごとに短詩型で表現した詩がかつてあったでしょうか。後年、斎藤佳三がつけたメロディと相まって、「哀しいまでに美しい曲」と評されています。

 詩は明治40年(1907)12月、露風19歳のとき、雑誌『文庫』(第35巻第6号)に発表されました。作ったのは18歳のときで、その早熟な才能に驚かされます。
 明治42年(1909)9月に出版された露風の第二詩集『廃園』では、「二十歳までの抒情詩」の部に収録されています。
 なお、露風はこの年の2月、早稲田大学から除籍されましたが、のちに推薦校友になっています。

 『廃園』は、半年先に刊行された北原白秋の絢爛たる処女詩集『邪宗門』とともに、詩壇に大きな衝撃を与えました。以後、2人は「白露時代」と呼ばれる一時代を抒情詩の歴史に刻むことになります。

 斎藤佳三は秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市)出身で、明治38年(1905)、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)に入学しました。オペラに関心をもつうちに演劇や舞台美術に惹かれるようになり、ついに東京音楽学校を中退して、東京美術学校(現・東京芸大美術学部)に入学し直しました。

 大正元年(1912)にドイツに留学、一足先に渡独していた東京音楽学校時代の友人・山田耕筰と共同生活を送りました。
 帰国後は、空間芸術家として帝展などにオブジェを出品するかたわら、作曲でも活躍しました。

 『ふるさとの』は、大正3年(1914)に発行された斎藤佳三作品集『新しき民謡』のなかで発表されたものです。
 昭和3年(1928)2月、藤原義江の歌でビクターからレコードが発売されました。  さらに、昭和11年(1936)から始まった国民歌謡(戦後のラジオ歌謡の前身)の1つとしてNHKで放送され、多くの人たちに愛唱されるようになりました。三木露風の詩では、『赤とんぼ』に次いで長く、広く愛唱されている歌です。

(二木紘三)


思いがけなくこの美しい旋律を聞かせていただき、50年近く前の十代後半の頃の自分にバッタリと再会したような気持ちです。その頃の自分は劣等感のカタマリのくせに、いつもいつも異性の「観念」に恋をしていました。

その「観念」のシンボルがこの「ふるさとの」の甘く哀しい詞と旋律でした。そして、いつもその「観念」に裏切られては、心臓に出来たミミズばれがヒリヒリと痛む感覚でこの歌を口づさんでいたものです。

そして何とか人並みの人生をくぐりぬけてきた60代半ばの今、改めてこの歌の最後の連、

  十年経ぬ 同じ心に
  君泣くや 母となりても

にたいして、「いいや、母となった女性は絶対に泣くはずがない」と断言する自分を発見します。やや寂しさを感じつつ・・・。
投稿: Snowman | 2007年11月 1日 (木) 22時49分


 哀しいまでに美しい・・・ほんとうに、この曲を形容するのにこれ以上の表現はありませんね。 詩がおのずとこの美しい旋律を呼び、旋律は詩の化身となりました。そしてその1聯・2聯・3聯が、静かな序・破・急となって、胸の奥深くしみてきます。
 わたしは3聯をくちずさみながら、アンドレ・ジイドの「狭き門」の最後の場面を思い出しています。今は幸せな主婦となり母となったジュリエットが、十数年ぶりで嘗ての恋人ジェロームと再会し、ひとしきり自分の家族の近況などを話したあと、しばしの沈黙が訪れます。やがて気を取り直したように、「さあ、目を覚まさなければ!」と言いつつ泣き崩れるシーンです。
投稿: くまさん | 2008年9月13日 (土) 20時13分


メロディが元に戻ってほっとしました。露風はなぜ女の気持ちがこんなにわかるのか何十年も不思議に思っています。恋と愛とは違うのですね。子供への愛は限りなく深いのですが、ほのかに恋した人は永遠に懐かしい人なのです。母になっても涙があふれてくるほど懐かしく、恋しくなる時があるのです。少女の自分に戻って涙するのです。
ちなみに私はこの歌は大好きですが、赤とんぼのメロディは好きになれません。音楽に疎いので、理由が自分でもわかりません。
投稿: ハコベの花 | 2008年9月13日 (土) 00時16分


今は亡き友達から、羽衣を教わり一度にその歌を覚えていました。 清純な頃の心には異性に寄せる淡い恋ごころを伴うものでした。 うもれ火のこいともいうのでしょうか。

https://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-fec8.html

[ 17 長崎の鐘 ]  作詞:サトウハチロー 作曲:古関裕而

1 こよなく晴れた青空を
  悲しと思うせつなさよ
  うねりの波の人の世に
  はかなく生きる野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

2 召されて妻は天国へ
  別れてひとり旅立ちぬ
  かたみに残るロザリオの
  鎖に白きわが涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

3 つぶやく雨のミサの音
  たたえる風の神の歌
  耀く胸の十字架に
  ほほえむ海の雲の色
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

4 こころの罪をうちあけて
  更け行く夜の月すみぬ
  貧しき家の柱にも
  気高く白きマリア様
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

《蛇足》 自分も原爆に被爆しながら献身的に被害者の救護にあたり、病床に斃れてからも、平和を希求する多くの著書を書き続けた長崎医大教授・永井隆博士について歌った歌です。

 永井隆は、島根県松江市で生まれ、幼少期を同県三刀屋(みとや)町(現・雲南市)で過ごしました。長じて長崎医大に進学、卒業後、同大の助手になりました。大変な秀才で、まわりの人たちは、彼はかならずや歴史に残る医学的業績をあげるにちがいないと、大きな期待を寄せていたそうです。
 助手時代に兵役をすませ、同大助手に復帰した昭和9年(1934)、カトリックに入信しました。そののち、キリスト教徒としての博愛精神が、彼の行動を特徴づけることになります。

 昭和15年(1940)同大助教授に就任し、将来を嘱望されたものの、博士号を取得した昭和19年(1944)、その運命は突然暗転します。物理的療法(放射線)科の部長として研究中に大量の放射線を浴び、白血病にかかってしまったのです。
 翌年、余命3年と診断されましたが、そのまま研究を続けることで自分の職分を果たそうと決意しました。

 そして、昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎に原爆投下。

 爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診察室で被爆した永井は、飛び散ったガラスの破片で頭部右側の動脈を切断しましたが、簡単に包帯を巻いただけで、生き残った医師や看護婦たちとともに、被災者の救護に奔走しました。
 永井はまもなく大量出血のため失神しましたが、気づいたのちも、さらに救護活動を続け、帰宅したのは翌日のことでした。

 自宅は跡形もなく、台所があったとおぼしきあたりに、黒っぽい固まりがありました。そのすぐそばに、妻・緑がいつも身につけていたロザリオ(ローマカトリック教徒が使う数珠のようなもの)が落ちていました。黒っぽい固まりは、焼け残った妻の骨盤と腰椎でした。
 さいわい、2人の子どもは疎開していたので、無事でした。

 妻を埋葬したのち、永井は医療班を組織し、引き続き救護活動に挺身しました。しかし、9月20日、出血が続いて昏睡状態に陥ったため、医療班は解散になりました。

 翌昭和21年(1946)1月、教授に就任、研究と医療に従事するも、7月、長崎駅頭で倒れ、以後病床に伏すことになります。
 苦しい闘病生活を送りながら、永井は活発に執筆活動を展開します。同年8月『長崎の鐘』、翌23年(1948)1月『亡びぬものを』、3月『ロザリオの鎖』、4月『この子を残して』、8月『生命の河』、昭和24年(1949)3月『花咲く丘』、10月『いとし子よ』などを発表し、その多くが数万部から数十万部のベストセラーとなりました。

 プロの著述家も及ばぬペースで彼に執筆を続けさせたのは、だいいちには平和を希求する思いを人びとに伝えたかったからでしょう。それとともに、自分がいなくなったあと、2人の子どもが生きていけるようにしておきたいという気持ちが、彼を駆り立てたのではないでしょうか。

 永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。 「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」
 と彼は随筆に書いています。

 昭和23年3月にできあがったその家を、永井は如己堂(にょこどう)と名づけました。家を建ててくれた人びとの心を忘れず、自分もその愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から採った名前だといいます。
 彼は、そこに2人の子どもを疎開先から呼び寄せ、残りの短い日々を闘病と執筆で送りました。

 苦難にめげず、平和と愛を訴え続けるその姿は、国内のみならず、海外でも深い感動を呼びました。
 昭和23年10月には、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れ、翌24年5月には、巡幸中の昭和天皇の見舞いを受けました。
 また、昭和24年5月と25年5月の2度にわたって、ローマ教皇庁が特使を見舞いに派遣しました。
 そのほか、長崎名誉市民の称号を贈られたり、政府の表彰を受けるなど、数々の栄誉が彼にもたらされました。
 しかし、運命は避けることができず、昭和26年(1951)5月1日、長崎大学医学部付属病院で逝去しました。43歳の若さでした。

 さて、『長崎の鐘』という歌との関わりですが、これは、永井隆と親交のあった医学博士・式場隆三郎が、昭和24年にコロムビアレコードに働きかけたことによって実現したものと伝えられています。
 余談ですが、式場隆三郎は、放浪の貼り絵画家・山下清の才能を発見し、世間に紹介した人として知られています。

 コロムビアから作詞の依頼を受けたサトウハチローは、最初、ベストセラーに便乗したきわもの企画だと思って断ったそうです。
 しかし、その後、永井から贈られた著書を読んで感動し、「これは神さまがおれに書けといっているのだ」と確信して、全身全霊を捧げて作詞したといいます。

 それは作曲の古関裕而も同じでした。そのメロディがすばらしいのは、短調で始まった曲が、「なぐさめ、はげまし……」のところで明るい長調に転じる点です。これによって、悲しみにうちひしがれていないで、未来に希望をもとう、という歌詞のメッセージが強力に増幅されて伝わってきます。
 サトウハチローも古関裕而も、数多くのヒット曲をもっていますが、あえて1曲に絞るとすると、世間に与えた感動の大きさという点で、この曲が最高傑作といってよいのではないでしょうか。

 のちに藤山一郎は、アコーデオンを携えて永井を見舞い、その枕辺で『長崎の鐘」を歌いました。永井はその礼として、次の短歌を贈っています。

新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘

 藤山はそれにメロディをつけ、自分が『長崎の鐘』を歌うときは、よく反歌(長歌の末尾に添える短歌)のように歌っていました。上記のリンクをクリックすると、曲が聴けます。

 昭和25年(1950)、『長崎の鐘』は、新藤兼人らの脚本により松竹で映画化されました。

 写真は病臥中の永井博士と長男・誠一(まこと)さん、次女・茅乃(かやの)さんで、政府からの金杯を受けたときに撮影されたもの。

(二木紘三)



二木さんの克明な解説に敬意を表します。
この歌は作詞も作曲も素晴らしいのですが、藤山一郎の澄みわたった晴朗な歌声がとても印象に残っています。たしかに「なぐさめ はげまし 長崎の~」のところでは、未来への明るい希望をなんとか持とうという願いが伝わってくるようです。
私が小学校の低学年のころ、母が永井博士の「この子を残して」を愛読していたのを思い出しました。母から本の内容を聞かされながら、原爆の恐ろしさをおぼろげに想像していたように思います。
小学校の1~2年のころですから、本格的な本を見たのは「この子を残して」が初めてでした。永井博士と二人のお子さん(男の子と女の子でしたね)の写真が今でも脳裏に浮かんできます。
この歌を聴くとき、あの長崎の平和祈念像も眼前に浮かんできて、平和の尊さをつくづくと思い知らされるようです。
 投稿: 矢嶋武弘 | 2008年3月30日 (日) 15時13分

[ 18 栄冠は君に輝く ]  作詞:加賀大介 作曲:古関裕而

1 雲は湧き 光あふれて
  天高く 純白の球今日ぞ飛ぶ
  若人よ いざ
  まなじりは 歓呼にこたえ
  いさぎよし 微笑む希望
  ああ 栄冠は君に輝く

2 風を打ち 大地を蹴りて
  悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ
  若人よ いざ
  一球に 一打に賭けて
  青春の 讃歌を綴れ
  ああ 栄冠は君に輝く

3 空をきる 球の命に
  通うもの 美しく匂える健康
  若人よ いざ
  緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす
  感激を まぶたに描け
  ああ 栄冠は君に輝く

《蛇足》 『全国高等学校野球大会の歌』という副題がついていることからもわかるように、夏の甲子園大会の大会歌で、昭和23年(1948)に発表されました。

 学制改革によって中学校や実業学校が高校と改称されたのに伴い、それまでの「全国中等学校優勝野球大会」が「全国高等学校野球選手権大会」と衣替えすることになりました。これを機に新しい大会歌を創ることになり、公募によって選ばれたのが上の詞です。  これに古関裕而が曲をつけ、伊藤久男が創唱しました。詞・曲とも格調が高く、若々しい力に満ちたみごとな作品です。甲子園大会だけでなく、地方大会で歌われることもあります。

 作詞した加賀大介は石川県根上町(現能美市)生まれの文筆家で、本名は中村義雄。 1等当選の賞金が5万円で、公務員初任給(昭和23年1月時点で2300円)の約22倍と高額であったことから、"懸賞金目当て"と思われるのを嫌い、婚約者だった高橋道子(結婚後は中村姓)の名前を借りて応募しました。

 加賀が妻に固く口止めしていたため、この名曲の作詞者は長らく中村道子と表示されていました。加賀がようやく真相を公表したのは、昭和43年(1968)の第50回大会のときでした。  金銭に対してこうしたストイックな姿勢もつ人物は、現代の日本では絶滅危惧種のような気がします。昭和48年(1973)没。

 私は、昔も今も野球にはほとんど関心がありませんが、昭和33年(1958)、高校1年の夏、たまたま富山県立魚津高校対徳島県立徳島商業高校の準々決勝戦をラジオで聞いていました。

 いやあ、興奮しましたね。魚津の村椿輝雄投手と徳島商の板東英二投手の息詰まるような投げ合い。双方無失点を続け、18回で打ち切り、翌日の再試合でも3回まで0対0。  試合は結局3対1で徳島商の勝ちとなりましたが、合計27イニング中21イニング連続で0対0というまさに熱闘でした。  この大会で板東英二は奪三振83という大記録を作り、これは平成25年(2013)春現在も破られていません。

 その後も何度か歴史に残る熱戦があったようですが、私の記憶に残っている大試合はこれだけです。

 なお、春の選抜高校野球大会では、過去2度大会歌が創られましたが、平成5年(1993)の第65回大会からは阿久悠作詞、谷村新司作曲による『今ありて』が使われています。

(二木紘三)


 ウン十年前いい歌に出会えた感動、そして二木先生の《蛇足》で知った加賀大介のことや究極の大大熱戦の当時の状況をあらためて知り更に感動をしました。 この詞の・・・青春の賛歌を綴れ・・・感激をまぶたに描け・・・等々すばらしいフレーズ!、“棕櫚の葉かざす”は?勝者のオリーブの代わり?と解釈しますが・・・如何?。
 自宅から徒歩10分のところに高校野球や高校ラグビー・高校フットボール発祥地として<豊中百景>にランクされている<高校野球メモリアルパーク>があり、第1回大会(1915年)・第2回大会(1916年)のレリーフが設置、付近は住宅地になっていて塀や所々の溝に当時の野球場に使われていた茶色の煉瓦が再使用されています。 尚、ラグビーのレリーフは阪急豊中駅前広場にフットボールのレリーフ(ピーターK・オカダ氏がフットボールの種を蒔いた旨の文字入り)は豊中高校の中庭にあります。
投稿: 尾谷光紀 | 2013年4月 5日 (金) 23時50分  他は省略

朝ドラエールを見ていて記録しておこうと思い、取り上げた。
古関裕而作曲のすべてに《蛇足》があり、いろいろとありがたい思いがしている。 ことに学徒出陣のついての
[ 19 学生時代 ]  作詞:平岡精二 作曲:平岡精二

1 つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日
  夢多かりしあの頃の 想い出をたどれば
  懐かしい友の顔が 一人一人うかぶ
  重いカバンを抱えて 通ったあの道
  秋の日の図書館の ノートとインクの匂い
  枯葉の散る窓辺 学生時代

2 讃美歌を歌いながら 清い死を夢見た
  何のよそおいもせずに 口数も少なく
  胸の中に秘めていた 恋への憧れは
  いつもはかなく破れて 一人書いた日記
  本棚に目をやれば あの頃読んだ小説
  過ぎし日よわたしの 学生時代

3 ロウソクの灯(ひ)に輝く 十字架をみつめて
  白い指を組みながら うつむいていた友
  その美しい横顔 姉のように慕い
  いつまでもかわらずにと 願った幸せ
  テニスコート キャンプファイヤー
  懐かしい日々は帰らず
  すばらしいあの頃 学生時代
  すばらしいあの頃 学生時代

《蛇足》 昭和39年(1964)レコード発売。

 実際の学生時代は、後悔やら悔しさ、劣等感、不安などがたっぷり詰まっているのが普通だと思いますが、そうしたどろどろしたものを蒸留してすっかり取り去り、夢のようにさわやかな学生時代のイメージを作り上げたのが、この歌です。

 3番はちょっと「S」を感じさせますね。「S」はsisterのSで、女学生同士の同性愛的感情またはその関係のことを、昔はこういいました。

 平岡精二は、ペギー葉山の母校・青山学院のイメージから、この歌を作ったといわれます。  平岡は実に多才な音楽家で、トランペット、アルトサックス、マリンバなどの名奏者であるうえに、歌も歌い、さらに作詞や作編曲も手掛けました。『爪』『あいつ』といったヒット曲をもっています。

(二木紘三)

本楽曲は始業ベルに間に合うようにキャンパスを走り回っていた姿や憧れの上級生との友情などペギー自身の学生時代がモデルになっている。

歌詞に登場する「チャペル」は、青山学院青山キャンパス(東京都渋谷区)にある、ベリーホール(国の登録有形文化財)内の「チャールズ・オスカー・ミラー記念礼拝堂」のことであり、青山学院内では「第二の学園歌」とも呼ばれている。2009年には、青山学院創立135周年を記念し、歌碑が同礼拝堂前に建てられた。除幕式にはペギー本人と故人となった平岡の遺族が出席し、ペギーが本楽曲を歌唱した。

他にも「讃美歌」、「十字架」などが歌詞に登場するように、ミッションスクールであった学生時代の雰囲気が読みとれる。


場違いかもしれませんが。
昭和44年 1月中旬 東大安田講堂
数日後と予想される機動隊突入を前に、安田講堂内では各派の活動家により徹底したバリケード作りが行われました。机、イス、スチール棚はもとより事務機器に至るまで重量物はすべてドア、窓など開放口に積み上げられ、最後には教官室かどこの部屋から運び込まれたのか書棚もバリケードの機材に使用されました。 あたり一面に書籍がまるで路面に敷かれた煉瓦のようにうずたかく積み上げられたのです。
ふと床を見ると、敷きしめられた書籍はまさに垂涎の書籍で私ども学生には見たこともないまさに希書、貴重書の類です。こんなに素晴らしい書籍があるのか!、心のそこからじっくり読みたい、学習したいとの気持ちが湧き上がりました。すると一緒に作業を進めていた赤いヘルメット、グレーのコートの学生が、「読みてーなー」と天を仰いで嘆声をあげました。その気持ちはわかる気がします。でもそのような状況ではありません。目も合わさずに私どもは散乱する書籍を踏みつけ、ひたすらバリケードの構築に勤しみました。

あれからはや数十年経過しました。私は運動も大学もやめ、今は外国で会社を経営しています。
当時の仲間とは数十年間、一切連絡もありません。嘆声を上げた学生さんはその後どうしたのでしょう。当時私は18歳で、本気で信じきっていました。各国の若い方々の自爆とかのニュースを見るたびに胸が疼きます。この歌を聴くと、当時心に秘めていた向学心、キャンバスなど物思いに耽ります。上段の青山さん、お疲れ様でした。私も志願兵、少年兵でした。
投稿: 回顧者 | 2009年1月24日 (土) 18時35分


回顧者様へ
あなたの一文を読んで寄稿したくなりました。あなたの「学生時代」は70年安保の狂瀾怒濤の時代でしたね。
安田講堂の中で貴重な書物が床に敷き詰められた時、赤ヘルの学生が「読みて~な~」と叫んだのでした。それがあなた方の学生時代でした。何と知的な欲望に満ちていたことか! でも、あなた方はバリケードを築くために夢中だったのです。
私はその時、テレビ局の記者として東大の近くの旅館に泊まり込み、丸2日間、火炎ビンと石が降り注ぐ中 ヘルメットを被って取材をしていました。その時、あなたと私は同じ場所にいたのですね。
今からちょうど40年前、私はあなたの「学生時代」に立ち会っていたのです。感無量です。どうぞお元気でいて下さい。
投稿: 矢嶋武弘 | 2009年1月26日 (月) 21時09分

[ 20 明治節 ]  文部省唱歌

 一、 アジアの東、日いずるところ
     ひじりの君の 現れまして
     ふるき天地(あめつち) とざせる霧を
     おおみ光に 隈なくはらい
     教えあまねく 道あきらけく
     治めたまえる み代とうと

 二、 恵みの波は 八州(やしま)にあまり
     御稜威の風は 海原越えて
     神の依っせる 御業(みわざ)をひろめ
     民のさかゆく 力をのばし
     外(とつ)国々の ふみにも著(しる)く
     留めたまえる 御名(みな)かしこ

 三、 秋の空すみ 菊の香たかき
     今日の佳き日を 皆ことほぎて
     定めましける 御憲(みのり)を崇め
     諭さと)しましける詔勅(みこと)を守り
     代々木の森の代々とこしえに
     仰ぎまつらん おおみかど

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