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お気に入りの歌②
<いろいろの思い出>

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  01  人を恋ふる歌
  03  初恋 初恋
  05  手合わせ唄
  07  雛祭の宵
  09  おかあさん
  11  おかあさん
  13  灯台守
  15  若者たち
  17  津軽海峡・冬景色
  02  惜別の歌 
  04  啄木の歌
  06  薩摩守 薩摩守
  08  月見草の花
  10  感謝状
  12  せんせい
  14  灯台守手紙 <拝啓 十五の君へ>
  16  元禄名槍譜 俵星玄蕃


[ 1 人を恋ふる歌  ]    作詞:与謝野鉄幹 作曲:不詳

1 妻をめとらば 才たけて
  みめ美わしく 情けある
  友を選ばば 書を読みて
  六分(りくぶ)の侠気(きょうき) 四分(しぶ)の熱

2 恋の命を たずぬれば
  名を惜しむかな 男子(おのこ)ゆえ
  友の情けを たずぬれば
  義のあるところ 火をも踏む

3 汲めや美酒(うまざけ) うたひめに
  乙女の知らぬ 意気地(いきじ)あり
  簿記の筆とる 若者に
  まことの男 君を見る

4 ああわれダンテの 奇才なく
  バイロン ハイネの 熱なきも
  石を抱(いだ)きて 野にうたう
  芭蕉のさびを よろこばず

5 人やわらわん 業平(なりひら)が
  小野の山ざと 雪をわけ
  夢かと泣きて 歯がみせし
  むかしを慕う むら心

6 見よ西北に バルカンの
  それにも似たる 国のさま
  あやうからずや 雲裂けて
  天火(てんか)一度 降らんとき

7 妻子を忘れ 家を捨て
  義のため恥を 忍ぶとや
  遠くのがれて 腕を摩(ま)す
  ガリバルディや 今いかに

8 玉をかざれる 大官(たいかん)は
  みな北道(ほくどう)の 訛音(かおん)あり
  慷慨(こうがい)よく飲む 三南(さんなん)の
  健児は散じて 影もなし

9 四度(しど)玄海(げんかい)の  波を越え
  韓(から)の都に 来てみれば
  秋の日かなし 王城や
  昔に変る 雲の色

10 ああわれ如何(いか)に  ふところの
  剣(つるぎ)は鳴りを ひそむとも
  咽(むせ)ぶ涙を 手に受けて
  かなしき歌の 無からめや

11 わが歌声の 高ければ
  酒に狂うと 人のいう
  われに過ぎたる のぞみをば
  君ならではた 誰か知る

12 あやまらずやは 真ごころを
  君が詩いたく あらわなる
  無念なるかな 燃ゆる血の
  価(あたい)少なき 末の世や

13 おのずからなる 天地(あめつち)を
  恋うる情けは 洩らすとも
  人をののしり 世をいかる
  はげしき歌を ひめよかし

14 口をひらけば 嫉(ねた)みあり
  筆を握れば 譏(そし)りあり
  友を諌(いさ)めて 泣かせても
  猶(なお)ゆくべきや 絞首台

15 おなじ憂いの 世に住めば
  千里のそらも 一つ家(いえ)
  己(おの)が袂(たもと)と  いうなかれ
  やがて二人の 涙ぞや

  16 はるばる寄せし ますらおの
  うれしき文(ふみ)を 袖にして
  きょう北漢(ほくかん)の 山のうえ
  駒立て見る日の 出(い)づる方(かた)

〔蛇足〕与謝野鉄幹(てっかん)(本名は寛)は、明治6年(1877)、京都の寺の4男
  として生まれました。落合直文に師事し、歌人・詩人として活躍。「君死にたま
  ふことなかれ」の詩で有名な与謝野晶子は、3度目の妻。明治28年(1895)、招
  かれて 漢城(現在ソウル)の日本語学校に教師として赴任 。この歌は在韓中の
  明治31年(1898)に作られたといわれます。
1番 「侠気」は苦しんでいる弱い者を見過ごせないような気持、おとこぎのこと。
2番 「義」は、他人に対して守るべき正しい道、人としてなすべき事柄、大義。
3番 「簿記の筆とる若者」は、鉄幹が韓国で知り合った志士的な人物を指すと思わ
    れる。
4番 「ダンテ」はルネサンスの先駆となったイタリアの詩人(1265~1321)。代表
    作は『神曲』『新生』。ダンテを「コレッジ」としているヴァージョンもあ
    る。どちらが先だったかは不明。「コレッジ」はイギリスの詩人コールリッ
    ジ(1772~1834)のこと。幻想的な作風でロマン主義の先駆となった。
   「バイロン」はイギリスロマン派の代表的詩人。反俗の青年貴族としてヨーロ
    ッパ大陸を遍歴し、ギリシア独立戦争に加わり、客死した(1788~1524)。
   「ハイネ」はドイツロマン派の詩人。代表作は『歌の本』など(1797~1856)
   「芭蕉のさびをよろこばず」の「ず」は、打ち消しの助動詞ではなく、意志・
    推量の助動詞。「むず」が中世以後「うず」に変化し、さらに「う」がとれ
    て「ず」だけになった。ここでは意志を表す。したがって、「芭蕉のさびを
    よろこばない」ではなくて、「芭蕉のさびをよろこぼう」という意味になる。
   「さび」は、一般的には「古びて枯れた味わい」のことだが、芭蕉の俳諧用語
    としては、句中における「深くかすかな趣 、閑寂な情趣」をいう。
5番 「業平」は平安初期の歌人・在原業平(ありわらのなりひら)。六歌仙、三十
    六歌仙の一人。業平が比叡山麓・小野の山ざとに訪ねたのは、臣従していた
    惟喬(これたか)親王。文徳天皇の第一皇子で、剃髪して小野に隠棲していた。
    俗説では、藤原氏が推す異母弟との立太子争いに敗れたため、剃髪・隠棲し
    たということになっている。韓国内の政治的不遇者に対する同情を惟喬親王
    の運命に重ね合わせて詠ったと見ることができる。
6番 「バルカン」はバルカン半島のこと。民族大移動の昔から民族紛争が繰り返さ
    れ、第一次世界大戦の発火点となった。最近も、旧ユーゴスラビアで、凄惨
    な民族紛争が続いた。日本とロシアとの勢力争いの標的となって乱れていた
    韓半島の政治状況がバルカンの歴史に重ね合わされている。なお、鉄幹につ
    いては、韓国滞在中、日本帝国主義の立場に立って壮士的活動をしたという
    噂がある。
8番 「北道」は韓国(朝鮮)北部の黄海道・平安道・咸鏡道をいい、三南は南部の
    忠清道・慶尚道・全羅道を指す。
   「訛音」はなまり、方言のこと。
   「慷慨」は世の中のことや自分の運命を憤り嘆くこと。
7番 「ガリバルディ」はイタリアの軍人で、小国に分裂していたイタリアを統一に
    導いた(1807~1882)。ガリバルディにたとえられるような人物が当時の韓
    国にいたのかもしれない。
9番 「韓の都」は韓国の首都ソウルのこと。李朝時代は「漢城」、1910年の日韓併
    合後は「京城」と呼称され、1945年の解放後ソウルとなった。
16番 「北漢」は、ソウルの北辺にある北漢山を指す。ソウル市を取り巻く山では最
    も高く目立つ山。昔の城壁が残っており、北漢山城と呼ばれている。北漢山
    は非常に険しく、頂上まで馬で登るのはとうてい無理なので、「北漢」は城
    趾を指していると思われる。

折に触れて若かりし頃よく歌ったこの歌を思い出します。私が0歳教育に没頭し「母こそは命の泉」との考え方を深くしていったとき、母の才能、倫理、労働価値、家族のあり方などに対する考え方の基本となるものが如何に大事なものかを痛感していた。

そこで思うのがこの歌なのである。子育てに対する母親の基本になるのは、母親の才能そのものよりも、才能、倫理、労働価値、家族のあり方などに対する「価値観をどのように持つか」にかかっていると考えざるを得ない。

人の能力やエネルギーは、宿業のようなものもある。ロシヤの古俚にいう「結婚する相手は親を見よ」は一概に唾棄すべきものでもないのだと思う。

[ 2 惜別の歌  ]   原詩:島崎藤村 作曲:藤江英輔

1 遠き別れに たえかねて
  この高殿に 登るかな
  悲しむなかれ 我が友よ
  旅の衣を ととのえよ

2 別れといえば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
  夢はずかしき 涙かな

3 君がさやけき 目のいろも
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ

別れほどつらいものはない。

この惜別の歌は刎頚の友との惜別でもあろうし、「永久(とわ)の別れ」でもあろう。「別れといえば 昔より……」の節は、平家物語、徒然草、方丈記など教材になった作品のバックボーンになっている死生観を多分に含んだ藤村の表現だろうと思います。

哀愁の漂う歌であり、好きな歌の一つです。 

この「二木紘三のうた物語」を開きますと、作曲者の藤江英輔さんの話が紹介されています。 当時のことを思いますと、惜別の情がひたひたと胸を襲ってきます
この曲がみんなに歌われるようになったいきさつを知っていることは、とても大事なことだと思います。

また倍賞千恵子の声でも聞くことができます。

[ 3 初恋  ]       島崎藤村作詞・若松甲作曲

1 まだあげ初めし前髪の
  林檎のもとに見えしとき
  前にさしたる花櫛の
  花ある君と思ひけり

2 やさしく白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり

3 わがこゝろなきためいきの
  その髪の毛にかゝるとき
  たのしき恋の盃を
  君が情に酌みしかな

4 林檎畑の樹の下に
  おのづからなる細道は
  誰が踏みそめしかたみぞと
  問ひたまふこそこひしけれ

ういういしい七五調新体詩で、曲の流れが優しく柔らかい。天竜川に臨んだ一席で同僚・宮島實行先生が歌ったこの曲は妙に心地よく今でも脳裏に残っています。

  <http://duarbo.air-nifty.com/songs/2013/02/post-a182.html> 二木紘三
  <http://poemculture.main.jp/touson01.html> 歌詞の検証
  <http://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?das_id=D0005150052_00000> NHK for school

[ 4 啄木の歌  ]   石川 啄木 作詞  平井 康三郎 作曲

  ふるさとの山にむかいて言うことなし 故郷の山はありがたきかな

  やわらかに柳青める北上の 岸辺目にみゆ泣けとごとくに

  <http://www.youtube.com/watch?v=oFlEbjnWRAY&list=FL48XIDhRZzlJE62ITuA6n0w&index=2>

曲の流れが違うのでは

  東海のこじまの磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたわむる

  友がみな我よりえらく見ゆる日よ 花をかいきて妻としたしむ

などがある。昭和28年頃先輩の先生と二人で、野口英世、宮沢賢治、石川啄木の三人について調べ、奥の細道もたどりながら東北旅行に出かけたことがあった。
このときの旅行は、いろいろと自分を開発したように思いました。いつか旅行記へも書き残したいものです。

「ふるさとの山にむかいて言うことなし……」ふるさとというのは自然ばかりではなく、自分が頑是ないころから、遊び戯れた友達や山や川はもちろん、夢中になってあれこれした自分を見守り育てていた親兄弟も含んで、ふるさとという言葉がすべてを髣髴させるものなんです。

ふるさとは忘れがたいものなんです。

[ 5 手合わせ唄 ]

お盆にはお線香をたてることは勿論だが茄子に割り箸4本を刺して馬形とし、ウドンを乗せて供えたっけ。
お盆過ぎには、萩・ススキのゴザに、お供え物すべて包んで橋の上から川へ流してお送りした。そしてその送りものを、天龍川の童子カッパは中を開いて、モモやスイカを頂戴したこともあったっけ。

弁天橋の上で、女の子と一緒に男の子も歌った歌をいま調べて見ると“一かけ二かけ”で始まる鹿児島県各地で歌われたものに類似しているんだが、「一かけ二かけて……」と歌ったものでした。

  一かけ 二かけて 三かけて
  四かけ 五かけて 橋かけて
  橋の欄干腰をかけ 遥か向うを眺むれば
  十七八の姉さんが  花と線香手に持って

  姉さん 姉さん どこへ行く
  わたしは九州 鹿児島の
  西郷隆盛 娘です
  明治十年戦役に 切腹なされた父上の
  お墓参りに まいります

  お墓の前で 手を合わせ
  なむあみだぶつでジャンケンポン

[ 6 薩摩守 ]

1  栄華の春も 移ろえば
  雲北嶺に 群がりて
  六波羅の夢 破れよと
  荒ぶは木曽の 青あらし

2  雲井の空と 別れては
  末八重潮の 浪枕
  さだめの果を 行くわれと
  悟れど悲し 歌の道

3  野山に屍(カバネ) さらす身の
  師の御情を 蒙(コウム)りて
  一首を集に とどめんと
  たたくもあわれ 夜半の月

4  かたみを遺(ノコ)す 武士(モノノフ)の
  名は千載の 言の葉に
  昔ながらの 香を留(ト)めて
  誉もゆかし 山ざくら

  <http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/s_kokumin/ks1_satuma.htm>

長い間、この歌の歌詞を捜し続けてきた。
子供のころ一番の歌詞は確実に記憶していたのだが、誰に教えてもらったのかとか、二番の歌詞は全然記憶にはなくて、困っていた。哀調を帯びたこの曲が、妙に頭のすみっこに残りつづけていた。

インターネットでやっと、ほんとにやっと、判ったのである。嬉しかった。木曽義仲という名前ではなく薩摩守という題名で、高等小学校第一学年の唱歌にでていたのである。薩摩守というのは平忠度のことであった。

忠度については「やまとうた 和歌」(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/)→「千人万首 目次」→「平忠度」で詳細がわかった。
   http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadanori.html

  さざ浪や 志賀の都は あれにしを
          昔ながらの 山ざくらかな (千載 66)詠み人知らず

明らかに平忠度の歌だが、千載和歌集の編者、藤原俊成が気づかって名を伏せたという。

「歌詞」は四番まであるというから、これからまた調べるつもりである。〈-04/02/07記〉

[ 7 雛祭(ひな)の宵  ]   昭和10年 新訂高等小學唱歌 > 新訂高等小學唱歌/第一學年女子 > 雛祭の宵

1 雪洞に灯を 入るるとて
  電灯ことさら 消すもよし
  瓔珞ゆれて きらめきて
  物語めく 雛祭の宵

2 十二一重の 姫君の
  冠少しく 曲がれるを
  直すとのべし 手の触れて
  桃の花散る 雛祭の宵

3 官女三人の 真似すとて
  妹まじめの 振舞いに
  加わりたまう 母上の
  えまい(微笑)うれしき 雛祭の宵

この曲が持っている独特の風合いは、歌詞の優雅さとともに、ほかの「ひなまつり」という節句の歌とは比較にならない。ほめすぎても可笑しいけれども、おっとりとした郷愁が漂っている。

大の大人が好きだというのも、この歌が持っている雰囲気というか、ほのぼのとした家庭の愛が歌詞の端はしにも読みとれて、いかにも日本の情緒が目の前に浮かんでくるからだ。しっとりとした安らぎを感ずる。

これを探し当てた事情は、 「折々の記」に説明した。

後日2009年、新訂高等小學唱歌/第一學年女子 29曲(昭和10年3月31日)を見つけ出しました。

「 8 月見草の花 」     作詞:山川清/作曲:山本雅之/編曲:東条俊明

1 はるかに海の 見える丘
  月のしずくを すって咲く
  夢のお花の 月見草
  花咲く丘よ なつかしの

2 ほんのり月が 出た宵は
  こがねの波が ゆれる海
  ボーと汽笛を ならしてく
  お船はどこへ 行くのでしょ

3 思い出の丘 花の丘
  きょうも一人で 月の海
  じっとながめる 足もとに
  ほのかに匂う 月見草


解説
2~3日はかかるだろうと思っていた蕾が一夜のうちに花開く。薄暗くなってから1時間ぐらいで全開。香りはなし。この世の花と思えないほど幻想的だわ。いままでこのように優しさを表現する花を見たことがない。気持ちがす~と、抜けるようだぁ~。
蘂(しべ)が私はここよと自己主張している。その息づかいが伝わる。咲き始めてから4時間ぐらいするとほんのりとピンク色に花びらが染まる。朝方にはしぼんでしまうが、夢を見たような気持ちになれる。


だれか情感を込めて歌ってほしい。〈2004/7/4〉

『二木紘三のうた物語』にも同じ歌が“月見草の花”として演奏されています。こちらのほうがいいかもしれない。聞いてみるとよい。


〔蛇足〕
昭和24年(1949)。山川清・山本雅之のコンビで作られた童謡には、ほかに『森の小人』があります。山本雅之は、これらのほかにも『一寸法師』『いなばの白うさぎ』『かに床屋』『かもめの船長さん』など、多くの童謡を作曲しています。
月見草はメキシコ原産のアカバナ科二年草で、日本には嘉永年間に渡来したといわれますが、現在ではほとんど見られません。一般に月見草と呼ばれているのは、この種ではなく、同属の帰化植物で広く分布するマツヨイグサやオオマツヨイグサです。



「 9 おかあさん 」     保富康午作詞・平尾昌晃作曲・高峰三枝子歌

1 ふるさとの風が 心に吹くひるさがり
  そっと呼んでみたくなる おかあさん
  あの雲のむこうに 青空があるように
  悲しみのむこうに いつもやさしいほほえみが
  おかあさんの おかあさんの顔がある

2 遠い日の花が まぶたに咲くひるさがり
  そっと呼んでみたくなる おかあさん
  ああ何度呼んだか 甘えてた幼い日
  泣きじゃくる背中に いつもかわらぬやすらぎが
  おかあさんの おかあさんの声がする

    (セリフ)
    おかあさん 元気ですか
    小さくなったあなたの肩
    いつもやさしさだけが
    ひっそりとすわっているのね
    かあさん長生きして下さい

  あの雲のむこうに 青空があるように
  悲しみのむこうに いつもやさしいほほえみが
  おかあさんの おかあさんの顔がある

もう20年も前のことになる。「母こそは命の泉」という感覚がフツフツとたぎってきて、母に関する歌を集めたことがあった。そのとき、新宅の原さき子さんから教わった歌である。

おばさんが歌をうたえなくなっているので何とも胸がつまってくる。

「 10 感謝状 母へのメッセージ     星野哲郎作詞・弦哲也作曲・島津亜矢歌

  ひとりだけの とき
  誰もいない とき
  そっと小声で 呼ぶのです
  お母さん お母さん
  呼んでいる内に 口の中が
  甘く切なく なるのです
  お母さん お母さん
  あとになりさきになり
  歩いた 砂山
  あとになりさきになり
  さがしたし あわせの星
  お母さん お母さん
  あのときも 言えなかった
  あなたに贈る ありがとう

  旅に泣いた とき
  とても寒い とき
  窓に名前を 書くのです
  お母さん お母さん
  書いている内に 胸は晴れて
  生きる希望を みつけます
  お母さん お母さん
  あとになりさきになり
  連れとぶ かもめは
  あとになりさきになり
  あなたと さがした倖せ
  お母さん お母さん
  あのときも 言えなかった
  あなたに贈る ありがとう

  お母さん お母さん
  あのときも 言えなかった
  あなたに贈る ありがとう
  あなたに贈る 感謝状

2006年5月になって、オフトークの放送で「 9 おかあさん 」;「 10 感謝状 母へのメッセージ」;「11 おかあさん 」の3曲を流してくれた。この三つとも「歌詞と演奏」は Web には出てこなかった。

それで「うたねっと」で歌詞を調べだして印字した。平安堂のCD貸出を調べたが、歌は見つからなかった。

「11 おかあさん 」     神坂薫作詞・遠藤実作曲・森昌子歌

1 やせたみたいね おかあさん
  ふざけておぶって 感じたの
  泣き虫だったわ ごめんなさいね
  明るい娘に なりました
  なやみがあったら 私にも
  今度は下さい おかあさん

2 びっくりしたでしょ おかあさん
  思わず起こして しまったの
  二度とその目が あかないようで
  寝顔をみてたら 泣けたのよ
  優しく笑った 顔をみて
  安心しました おかあさん

3 感謝してます おかあさん
  たまには肩もみ しましょうね
  花嫁衣裳を 着るそれまでは
  だいじょうぶなんて 云わないで
  長生きしてね いつまでも
  きれいな空です おかあさん

森昌子の歌唱力は、三人娘の中では一番だと思っている。

「12 せんせい 」     神坂薫作詞・遠藤実作曲・森昌子歌

「せんせい」  阿久悠作詞・遠藤実作曲

  淡い初恋 消えた日は
  雨がしとしと 降っていた
  傘にかくれて 桟橋で
  ひとり見つめて 泣いていた
  おさない私が 胸こがし
  慕いつづけた ひとの名は
  せんせい せんせい それはせんせい

  声を限りに 叫んでも
  遠くはなれる 連絡船
  白い灯台 絵のように
  雨にうたれて 浮んでた
  誰にも言えない 悲しみに
  胸をいためた ひとの名は
  せんせい せんせい それはせんせい

  恋する心の しあわせを
  そっと教えた ひとの名は
  せんせい せんせい それはせんせい

「13 灯台守 」     作詞:イギリス民謡、日本語詞:勝承夫

1 こおれる月かげ 空にさえて
  ま冬のあら波 寄する小島(おじま)
  思えよ灯台 守る人の
  尊きやさしき 愛の心

2 はげしき雨風 北の海に
  山なす荒波 たけりくるう
  その夜も灯台 守る人の
  尊きまことよ 海を照らす

総じて秋から冬にかけては、引締まった情緒的な感覚として好きなほうです。 この歌はいつ覚えたのだろうか。 「喜びも悲しみも幾年月」とともに、燈台守の厳しい勤めが私のバックボーンに響いてくるのです。

二木紘三さんは次のようなコメントをつけています。

《蛇足》 讃美歌114番“It came upon the Midnight Clear”が元歌とされていますが、完全に同じメロディではなく、日本に移入された際にかなり変えられました。

 “It came upon the Midnight Clear”にも、元になったイギリス民謡が何かあったと推測されます。

 日本語詞としては上記のものが最もポピュラーですが、ほかに下記の大和田建樹によるものもあります。

   旅泊  (日本語詞:大和田建樹)

1 磯の火ほそりて 更くる夜半に
  岩うつ波音 ひとり高し
  かかれる友舟 ひとは寝たり
  たれにか語らん 旅の心

2 月影かくれて 鴉啼きぬ
  年なす長夜(ながよ)も 明けに近し
  起きよや舟人 おちの山に
  横雲なびきて 今日ものどか

「14 手紙 <拝啓 十五の君へ>(その一)  (その二) 」


手紙 ~拝啓 十五の君へ~  作詞:作曲 アンジェラ・アキ

    歌手:アンジェラ・アキ
    作詞:アンジェラ・アキ
    作曲:アンジェラ・アキ

    拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう

    十五の僕には誰にも話せない 悩みの種があるのです

    未来の自分に宛てて書く手紙なら
    きっと素直に打ち明けられるだろう

    今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
    誰の言葉を信じ歩けばいいの?
    ひとつしかないこの胸が何度もばらばらに割れて
    苦しい中で今を生きている
    今を生きている

    拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです

    自分とは何でどこへ向かうべきか 問い続ければ見えてくる

    荒れた青春の海は厳しいけれど
    明日の岸辺へと 夢の船よ進め

    今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
    自分の声を信じ歩けばいいの
    大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど
    苦しくて甘い今を生きている

    人生の全てに意味があるから 恐れずにあなたの夢を育てて
    Keep on believing

    負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
    誰の言葉を信じ歩けばいいの?
    ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
    自分の声を信じ歩けばいいの
    いつの時代も悲しみを避けて通れないけれど
    笑顔を見せて 今を生きていこう
    今を生きていこう

    拝啓 この手紙読んでいるあなたが
    幸せな事を願います


「15 若者たち 」     作詞:藤田敏雄、作曲:佐藤 勝
      <http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/02/post_521b.html>

1 君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

2 君のあの人は 今はもういない
  だのになぜ 何をさがして
  君は行くのか あてもないのに

3 君の行く道は 希望へと続く
  空にまた 日が昇るとき
  若者はまた 歩き始める

  空にまた 日が昇るとき
  若者はまた 歩き始める

《蛇足》 昭和41年(1966)2月7日から同年9月30日まで放映されたフジテレビ系列の連続ドラマ『若者たち』の主題歌です。
『若者たち』は、毎週1回、夕方6時から30分間放送されました。この時代ですから、もちろんモノクロです。

 映画監督・黒澤明の長男の黒澤久雄がリーダーだったザ・ブロードサイド・フォーが歌いました。
 脚本は山内久・早坂暁・立原りう・清水邦夫という、そうそうたるメンバーが交替で担当しました。

 両親が亡くなった佐藤家の5人きょうだいが織りなす哀歓の物語です。
 土建会社の設計技師の長兄太郎を田中邦衛、長距離トラックの運転手の次兄次郎を橋本功、兄たちが将来を託して大学に入れた三郎を山本圭、妹のオリエを佐藤オリエ、一浪して受験戦争に悩む末吉を松山省二が演じました。

 母親代わりに一家の雑用を背負わされたオリエは、兄弟との摩擦に耐えきれず、家出して靴工場で働きますが、実社会の厳しい現実を経験して、家に舞い戻ってきます。5人きょうだいがときに反目し合い、ときに助け合って生き抜いていくさまが、当時の多くの若者たちの共感を得ました。

 このテレビドラマは、実は途中で打ち切られるはずでした。社会批判が多かった点を「ある種の人たち」から非難されたため、「話が暗いし、娯楽性も乏しい」という理由をつけて、局の上層部が打ち切ろうとしたのです。

 ところが、それを聞いた人たちから7万通に及ぶ継続希望の投書が殺到し、さらには直接局を訪ねて継続を求める若者たちのグループが続出しました。このため、ドラマは、とうとう9月30日まで延長されたのです。

 放送終了後、映画化が企画されましたが、「その種の人たち」からの圧力を恐れて、制作しようとするメジャーの映画会社はありませんでした。
 結局、テレビドラマ出演者たちの手弁当に近い状態で自主制作が行われ、多くの若いボランティアたちの活動で、全国で自主上映されました。

 テレビの内側でも外側でも、熱く生きた「若者たち」が多かった時代の物語です。

(二木紘三)

「16 元禄名槍譜 俵星玄蕃 」     作詞:北村桃児、作曲:長津義司

 吉良家にほど近い本所横網町に  宝蔵院流の槍を取っては天下の名人と云われた俵星玄蕃が居た。  上杉の家老千坂兵部は二百五十石の高禄を以って召抱えようと使者を立てた、  勿論吉良家の附人としてである。  だが夜なきそば屋当り屋十助こそ  赤穂浪士の世を忍ぶ苦心の姿と深く同情を寄せていた玄蕃は之を決然と
    断った。

    玄蕃
    「のうそば屋お前には用の無いことじゃがまさかの時に役に立つかも知れぬぞ
    見ておくがよい」十六俵の砂俵の前にすっくと立った俵星、
    思わず 雪の大地に正座して 息をころして見つめる杉野
    あゝこれぞ元禄名槍譜(めいそうふ)

    一. 槍は錆びても 此の名は錆びぬ
       男玄蕃の 心意気
       赤穂浪士の かげとなり
       尽す誠は 槍一筋に
       香る誉れの 元禄桜

    二. 姿そばやに やつしてまでも
       忍ぶ杉野よ せつなかろ
       今宵名残りに 見ておけよ
       俵くずしの 極意の一手
       これが餞(はなむ)け 男の心

    涙をためて振返る。
    そば屋の姿を呼びとめて、
    せめて名前を聞かせろよと、
    口まで出たがそうじゃない
    云わぬが花よ人生は、
    逢うて別れる運命とか
    思い直して俵星
    独りしみじみ呑みながら、
    時を過した真夜中に、
    心隅田の川風を
    流れてひびく勇ましさ
    一打ち二打ち三流れ
    あれは確かに確かにあれは、
    山鹿流儀の陣太鼓

    「時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風
    をふるわせて響くは山鹿流儀の陣太鼓、しか
    も一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立上り、
    耳を澄ませて太鼓を数え「おう、正しく赤穂
    浪士の討ち入りじゃ」助太刀するは此の時ぞ、
    もしやその中に昼間別れたあのそば屋が居
    りわせぬか、名前はなんと今一度、逢うて別
    れが告げたいものと、けいこ襦袢に身を固めて、
    段小倉の袴、股立ち高く取り上げ、白綾た
    たんで後ろ鉢巻眼のつる如く、なげしにかか
    るは先祖伝来、俵弾正鍛えたる九尺の手槍を
    右の手に、切戸を開けて一足表に踏み出せば、
    天は幽暗地は凱々たる白雪を蹴立てて行手は
    松坂町……」

    吉良の屋敷に来て見れば、
    今、討ち入りは真最中
    総大将の内蔵之助。
    見つけて駆け寄る俵星が、
    天下無双のこの槍で、
    お助太刀をば到そうぞ、
    云われた時に大石は深き御恩はこの通り、
    厚く御礼を申します。
    されども此処は此のままに槍を納めて
    御引上げ下さるならば有難し、
    かかる折しも一人の浪士が雪をけたててサク、
    サク、サク、サク、サク、サク、サク―
    サク―

    「先生」
    「おうッ、そば屋か」

    いや、いや、いや、いや、
    襟に書かれた名前こそ
    まことは杉野の十兵次殿、
    わしが教えたあの極意、
    命惜しむな名をこそ憎しめ、
    立派な働き祈りますぞよ
    さらばさらばと右左。
    赤穂浪士に邪魔する奴は、
    何人(なんびと)たりとも通さんぞ、
    橋のたもとで石突き突いて、
    槍の玄蕃は仁王立ち……

    三. 打てや響けや 山鹿の太鼓
       月も夜空に 冴え渡る
       夢と聞きつつ 両国の
       橋のたもとで 雪ふみしめた
       槍に玄蕃の 涙が光る

三波春夫 〜元禄名槍譜 俵星玄蕃〜
http://www.youtube.com/watch?v=SyXg8qwoG7w

「17 津軽海峡・冬景色 」     作詞:阿久 悠、作曲:三木たかし
      <https://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/12/post_4ce9.html>

 1 上野発の夜行列車
   おりた時から
   青森駅は 雪の中
   北へ帰る人の群れは 誰も無口で
   海鳴りだけを きいている
   私もひとり 連絡船に乗り
   こごえそうな鴎見つめ
   泣いていました
   ああ 津軽海峡・冬景色

 2 ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき)
   北のはずれと
   見知らぬ人が 指をさす
   息でくもる窓のガラス ふいてみたけど
   はるかにかすみ 見えるだけ
   さよならあなた 私は帰ります
   風の音が胸をゆする
   泣けとばかりに
   ああ 津軽海峡・冬景色

   さよならあなた 私は帰ります
   風の音が胸をゆする
   泣けとばかりに
   ああ 津軽海峡・冬景色

「さよならあなた 私は帰ります」この歌詞の言葉は、海を隔てる北海道だからこそ、私は(故郷へ)帰るという一言が簡単には会えないことを意識せざるを得ない、別れの切なさが端的に現われていと私は思うのです。 簡単には言葉にできないことだけに、人の胸を突くのです。

《蛇足》 昭和52年(1977)に発表された大ヒットかつロングヒット曲で、『天城越え』と並んで、石川さゆりの代表曲。  先ごろ、中学だか高校だかの音楽教科書の1つに掲載されたというので、話題になりました。時代の変化を実感させます。かつては歌謡曲が音楽の教科書に載るなど、思いもよらぬことでした。  石川さゆりはこの曲で、同年の日本レコード大賞歌唱賞などを受賞するとともに、NHK紅白歌合戦への初出場も果たして、演歌の代表歌手と目されるようになります。  青森・函館間を結ぶ青函連絡船が運航していたころの歌です。青函連絡船は、青函トンネルが完成し、鉄道路線が開通した昭和63年(1988)3月をもって廃止されましたが、旧青函連絡船八甲田丸前および竜飛岬と、歌詞ゆかりの地に歌碑が建てられました。  なお、竜飛岬の本来の地名は竜飛崎(たっぴざき、またはたっぴさき)です。阿久悠が音数を合わせるために竜飛岬としたわけですが、この歌の大ヒットにより、竜飛岬と呼ぶ人が多くなりました。 (二木紘三)

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