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  01  故郷の空
  02  故郷(ふるさと)
  03  故郷を離るる歌
  04  冬の夜
  05  箱根八里
  06  春の小川
  07  鯉のぼり
  08  村の鍛冶屋
  09  背くらべ
  10  紅葉
  11  虫の声
  12  庭の千草
  13  埴生の宿
  14  旅愁
  15  故郷の廃家
  16  冬景色
  17  春が来た
  18  朧月夜
  19  我は海の子
  20  海
  21  浜辺の歌
  22  「孝女白菊」の歌
  23  宵待草
  24  荒城の月
  25  早春賦
  26  花
  27  うれしいひな祭り
  28  十五夜お月さん
  29  どこかで春が
  30  花嫁人形


[ 1 故郷の空  ]

       原題:Comin' thro' the Rye (ライ麦畑をやって来た) スコットランド民謡

     故郷の空

 このメロディーは物心がついた頃から、私の記憶にあるような気がする。母の好きなメロディーの一つで、たぶん子守歌代わりに私のために歌ってくれたのではないだろうか。

  夕空はれて あきかぜふき
  つきかげ落ちて 鈴虫なく
  おもえば遠し 故郷のそら
  ああ わが父母 いかにおわす

  すみゆく水に 秋萩たれ
  玉なす露は すすきにみつ
  おもえば似たり 故郷の野辺
  ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ

 岩波文庫から出版されている「日本唱歌集」によれば、この曲は明治21年に唱歌として採用され、大和田建樹(おおわだたけき)が作詞したとのことである。ここでのメロディーは原曲通りとしたので、この歌詞では歌いにくい。唱歌では日本語のリズムに合うようにメロディーが修正されている。なお編曲に当たっては、当地の民族楽器であるバグパイプの雰囲気を出すように努めた。

 ちなみに、戦前の唱歌集には「ふるさと」を題名に持つ曲が他に3曲あり、いずれも戦前の音楽授業を受けた者にとっては忘れがたい名曲である。順次、編曲して紹介したい。

[ 2 故郷(ふるさと)  ]  作詞:高野辰之  作曲:岡野貞一

     故 郷 (ふるさと)

 昨年11月、私は久しぶりに岐阜を訪れた。小学校の後半から中学時代にかけて住み育った岐阜は、そしてそこで両親が生まれ没した岐阜は、私にとって大事な故郷である。

 かつて私が住んでいた家の跡を訪ねたが、すでに住む人もなく、廃屋が残っているだけであった。小学校へ脚を伸ばした。元気な小学生の歓声が聞こえたが、木造の校舎は鉄筋校舎に替わっていた。さらに脚を伸ばして、戦争ごっこで駆けまわった加納城跡を訪ねたが、頭を覆うばかりに繁っていた笹藪はなく、こぢんまりとした運動公園に変わっていた。

  兎追いしかの山、
  小鮒釣りしかの川、
  夢は今もめぐりて、
  忘れがたき故郷(ふるさと)。

 小学校時代に仲のよかった友達を訪ねたが、半年前に亡くなったとのこと。思わず声を失った。ただ、その後に開催された中学の同窓会に出席して、五十年ぶりに二十数人の同級生に会えた。かつての紅顔の美少年はすでに白髪の老人であり、顔を見定めるのに時間がかかった。

  いかにいます父母、
  恙(つつが)なきや友がき、
  雨に風につけても、
  思いいづる故郷。

 訪ねる故郷のある人、訪ねる父母や友人のある人、是非故郷に帰ろう。歳月は人を待たない。両親を失い、昔を語るべき友が一人・二人と減った今、私はなぜもっとしばしば故郷に帰らなかったかと、悔やまれてならない。

  こころざしをはたして、
  いつの日にか帰らん、
  山は青き故郷。
  水は清き故郷。

 日常の仕事に追われ、志を果たしたとの満足感もなく、時はむなしく流れる。
 しかし、青い山、清い川を故郷に持つ人は故郷に帰ろう。故郷は君を待っている。

 早く帰らないと故郷は君を待ってくれないかもしれない。

[ 3 故郷を離るる歌  ]  原曲:ドイツ民謡  作詞者:中丸一昌

   故郷を離るる歌

 この曲は、私の家の近くに住んでいた従姉妹たちが唱っているのを聞き覚えた。私が小学校5-6年生の頃で、今から57-8年前の話である。

 原曲はドイツの民謡で "D'rum Ade, Ade" が原題があることまでは分かっているが、いくら探してもドイツ語の歌詞が見つからない。 だが、日本語の歌詞もこの感傷的なメロディーに相応しい。

  園の小百合、撫子、垣根の千草、
  今日は汝(なれ)を眺むる最終(おわり)の日なり。
  おもえば涙、膝をひたす、さらば故郷(ふるさと)。
  さらばふるさと、さらばふるさと、故郷さらば。

 この曲を覚えた当時、私には洋々とした前途があった。中学校に入り、やがて旧制富山高等学校の入試に合格して初めて親元を離れるとき、若気の至りで親に大きな経済的負担をかける事も忘れ、意気揚々として、故郷を離れることには何の感傷もなかった。

  つくし摘みし岡辺よ、社(やしろ)の杜(もり)よ、
  小鮒釣りし小川よ、柳の土手よ、
  別るる我を、憐れと見よ、さらば故郷。
  さらばふるさと、さらばふるさと、故郷さらば。

 大学を卒業し、戦後の経済復興期にがむしゃらに仕事をしてきた。定年退職後、自分が世の中に存在した意義を問い直すようになってから故郷を尋ねてみると、そこには昔私が住み育った故郷はなく、親もすでに世を去っていた。

  此処に立ちて、さらばと、別れを告げん。
  山の蔭の故郷、静かに眠れ。
  夕日は落ちて、たそがれたり、さらば故郷。
  さらばふるさと、さらばふるさと、故郷さらば。

 先日、53年ぶりに小学校の同級会に出席した。故郷は変容し、級友は年老いていたが、幼かった頃の心情が互いに通いあった事が、せめてもの救いであった。

 50年前にこの歌を歌っていた従姉妹の一人とも再会できた。私と彼女は小学校を通じて同級生であり、ともに今回、戦後初めて同級会に出席したのであった。

[ 4 冬の夜  ]  文部省唱歌  明治45年3月

     冬の夜

 私たちの幼い頃は、冬になると手や足の指、あるいは耳に凍傷(しもやけ)ができる のは当たり前であった。冬が厳しいというよりは、室内で暖をとるにはこたつか火鉢、田舎では囲炉裏しかなかったからだ。 大人も子供も、冬には着膨れでころころになっていた。

 明治40年頃は一般家庭には電灯もなく、ラジオは全くなかった。そのころの子供にとって、囲炉裏に手をかざし、ランプの光の下で両親や祖父母から聞く話が、冬の夜長の唯一の楽しみであったに違いない。

 その情景を思い浮かべながらこの曲を聞いていると、何かほのぼのとした心の暖かさを感ずる。

   燈火(ともしび)ちかく衣(きぬ)縫う母は
   春の遊びの楽しさ語る。
   居並ぶ子供は指を折りつつ
   日数かぞえて喜び勇む。
   囲炉裏火はとろとろ
   外は吹雪。

   囲炉裏のはたに縄なう父は
   過ぎしいくさの手柄を語る。
   居並ぶ子供は眠さ忘れて
   耳を傾けこぶしを握る。
   囲炉裏火はとろとろ
   外は吹雪。

 「いくさの手柄」ということで、この曲が戦争を礼賛しているなどと思わないでほしい。これは、貧しかった日本の農村家庭での、ささやかだが幸せな親子の対話風景なのだ。

   今のコンピューターゲームや映画の方が、青少年に戦争や暴力・殺人を疑似体験させて、かれらにどれだけ悪い影響を与えていることか。

 なお、この歌の作詞者・作曲者は、当時の文部省の方針で全く発表されていない。

[ 5 箱根八里  ]  作詞:鳥居 忱 作曲:瀧 廉太郎

     箱根八里

 小学校5年生の頃、ラジオから流れるこの歌が軽快で気に入り、一生懸命に覚えてよく歌ったものだ。だからこの曲は今でもすべての歌詞をそらんじて歌うことができる。何となく軍歌風に聞こえるが、実際には軍歌と全く関係がない。

        第一章   昔の箱根

  箱根の山は 天下の険
  函谷関も 物ならず
  万丈の山 千仞の谷
  前に聳え 後(しりえ)に支う
  雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
  昼なお闇らき 杉の並木
  羊腸の小径は 苔滑らか
  一夫関に当たるや 万夫も開くなし
  天下に旅する 剛毅の武士(もののふ)
  大刀腰に 足駄がけ
  八里の岩根 踏み鳴らす
  かくこそありしか 往時の武士

     第二章  今の箱根

  箱根の山は 天下の阻
  蜀の桟道 数ならず
  万丈の山 千仞の谷
  前に聳え 後に支う
  雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
  昼なお闇らき 杉の並木
  羊腸の小径は 苔滑らか
  一夫関に当たるや 万夫も開くなし
  山野に狩する 剛毅の壮士(ますらお)
  猟銃肩に 草鞋がけ
  八里の岩根 踏み破る
  かくこそありけれ 近時の壮士

 この曲は「中学唱歌」として東京音楽学校教授の鳥居忱(まこと)が作詞したもので、作曲は一般公募したものらしい。漢文体の詩に、多くの作曲家がへきえきしたところえ、東京音楽学校に在学中であった21歳の瀧廉太郎が応募して当選したものだとか。

 この曲は明治34年に発表された。

[ 6 春の小川  ]  作詞:高野辰之  作曲:岡野貞一

     春の小川

 岐阜市加納という地区は、昔、岐阜県稲葉郡加納町と呼ばれた。

 この地には、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康が、西国の勢力に備えるために築城した加納城があった。その加納城は明治6年に取り壊された。その時、消えゆく城の面影を残すためであろうか、城の石垣近くの町には、東丸町、西丸町、沓井町、鉄砲町などの名前が与えられた。

 私は小学校から中学校にかけて、その西丸町に住んでいた。加納城址は私のかつての遊び場だった。家から数十メートル離れた場所に、長刀堀という堀があった。この堀は近くで自噴している水が数百メートル先にある川に流れ込むまでの全長が1キロ足らずの堀だが、澄み切った水の中にはメダカ、フナ、どじょうそして天然記念物の「針うお」もいた。この魚は背びれにとげがあり、子供達は「はりんこ」と呼んでいた。

   日中は近くの主婦が洗い物に来る。子供達は網を持って魚をとりに来る。夏にはトンボが堀の水面近くを飛び回る。長刀堀は、春夏秋冬、子供達の遊び場であり、主婦達の生活の場であった。

    加納は和傘の産地でもあった。この堀沿いには和傘の乾し場があり、色とりどりの和傘が乾し場を飾っていた。折々に変わる和傘の色が目に鮮やかであった。

 それを少し行くとい草の自生地があった。そのい草を刈っては、よく紐を編んだものだ。

 戦後50年過ぎてその長刀堀を訪れたところ、堀は埋められて、コンクリートの蓋が僅かにその堀の跡を示すだけであった。和傘の乾し場もい草の自生地も宅地になっていた。

   春の小川は さらさら流(なが)る。
   岸のすみれや れんげの花に、
   においめでたく 色うつくしく、
   咲けよ咲けよと ささやく如く。

   春の小川は さらさら流る。
   蝦(えび)やめだかや 小鮒の群れに、
   今日も一日 ひなたに出でて、
   遊べ遊べと ささやく如く。

   春の小川は さらさら流る。
   歌の上手よ いとしき子供、
   声をそろえて 小川の歌を、
   歌え歌えと ささやく如く。

[ 7 鯉のぼり  ]  尋常小学校唱歌  大正2年

     鯉のぼり

 5月5日は男の児にとっては楽しい日であった。春たけなわ、新緑のそよ風の中を泳ぐ鯉のぼりを仰ぎ、ちまきを食べ、新聞紙で作った兜をかぶり、若くして亡くなった兄が柱に私の背丈を鉛筆で書いて、母親にしかられた想い出がある。

 学校で先生になぜ端午の節句に鯉のぼりをあげるのかと尋ねられ、「鯉は100回滝を登ると竜になる、男の子は滝を登る鯉のような希望を持つのだ」と返事をして、誉められたことも想い出す。

 連休もなく、新幹線や飛行機、自動車もなかった、遠い昔の楽しい節句だった。

    鯉のぼり               背比べ

     尋常小学校唱歌  大正2年      作詞:海野 厚 作曲:中山晋平

  甍(いらか)の波と雲の波       柱のきずは おととしの
  重なる波の中空を           五月五日の 背くらべ
  橘(たちばな)かおる朝風に      粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
  高く泳ぐや鯉のぼり          計ってくれた 背のたけ
                     きのうくらべりゃ 何のこと
  開ける広きその口に          やっと羽織の 紐のたけ
  舟をも呑まん様見えて
  ゆたかに振るう尾ひれには       柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
  物に動ぜぬ姿あり           遠いお山も 背くらべ
                     雲の上まで  顔だして
  百瀬(ももせ)の滝を登りなば     てんでに背伸び していても
  忽ち竜になりぬべき          雪の帽子を  ぬいでさえ
  我が身に似よや男子(おのこご)と   一(いち)はやっぱり 富士の山
  空に躍るや鯉のぼり

[ 8 村の鍛冶屋  ]  文部省唱歌

    村の鍛冶屋

 幼い頃、神社のお祭りは、祭り太鼓や笛の音や、立ち並ぶ屋台の呼び声、そして集まる人々のざわめきとで、ほんとうに心が躍る行事であった。5銭か10銭の小遣いを握りしめ、何を買おうかと、屋台を順にのぞいて回ったあの楽しみを、今でも忘れることができない。

 我が家の近くに鍛冶屋があった訳ではない。しかし家の周囲は畑や田圃が多く、鍬をふるって畑を耕し、鎌をとって稲を刈るお百姓さんの手にある農具が、行き届いた手入れで太陽に光り輝いていた光景も忘れられない。

   これらの歌は、その様な日本の原風景を思い起こさせる名曲でであり懐かしい歌でもあるのだ が、歌詞が文語体であることと日本が農業国でなくなったのか、いつの間にか小学校で歌われなくなってしまった。

    村 祭 り                 村の鍛冶屋

  村の鎮守の神様の             暫しもやまずに 槌打つ響き
  今日はめでたいお祭り日          飛び散る火の花 走る湯玉
  どんどんひゃらら どんひゃらら      鞴の風さえ 息をもつがず
  どんどんひゃらら どんひゃらら      仕事に精出す 村の鍛冶屋
  朝から聞こえる笛太鼓
                       あるじは名高き いっこく老爺
  年も豊年満作で              早起き早寝の 病知らず
  村は総出の大祭り             鉄より堅しと 誇れる腕に
  どんどんひゃらら どんひゃらら      勝りて堅きは 彼がこころ
  どんどんひゃらら どんひゃらら
  夜るまで賑わう宮ノ森           刀はうたねど 大鎌小鎌
                       馬鍬に作鍬 鋤よ鉈よ
  治まる御代に神様の            平和の打ち物 休まずうちて
  恵み仰ぐや村祭り             日毎に戦う 懶惰の敵と
  どんどんひゃらら どんひゃらら
  どんどんひゃらら どんひゃらら      かせぐにおいつく 貧乏なくて
  聞いても心が勇み立つ           名物鍛冶屋は 日々に繁盛
                       あたりに類なき 仕事のほまれ
                       槌打つ響きに まして高し

[ 9 背くらべ  ]  作詞:海野 厚 作曲:中山晋平

    背くらべ

  柱のきずは おととしの
  五月五日の 背くらべ
  粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
  計ってくれた 背のたけ
  きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
  やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

  柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
  遠いお山も 背くらべ
  雲の上まで 顔だして
  てんでに背伸(せのび) していても
  雪の帽子を ぬいでさえ
  一はやっぱり 富士の山

「柱のきずは おととしの」が歌い出しの『背くらべ』(背比べ/せいくらべ)は、5月の端午の節句の様子が描かれた日本の童謡。

中山晋平作曲、海野厚作詞により大正時代に発表された。

『こいのぼり』、『茶摘み(夏も近づく八十八夜)』などと同様に、毎年5月頃になると耳にする季節の一曲

柱のキズは何故「おととし」?
さて、童謡『背くらべ』の歌詞を見ると、柱のキズは「おととしの」5月5日につけたとされているが、何故「昨年」のキズではないのか?と素朴な疑問が生じる。実はこの疑問を解くカギは、作詞者である海野の経歴に隠されていた。

海野 厚(うんの あつし/1896-1925)は、静岡県豊田村曲金(現在の静岡市駿河区)の出身。7人兄弟の長兄。旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に入学するため、地元の静岡を離れ一人上京している。

童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ、海野は童謡作家となった。都会の生活にも慣れ、俳句や童謡の世界に没頭した海野は、病弱だったこともあり、1919年を最後に地元の静岡には帰郷していないという。

弟は元気に暮らしているだろうか?
実家には3人の妹と3人の弟がいた。中でも17歳年下の春樹は、海野にとって特別に可愛い存在だったという。しばらく帰っていない地元で暮らす可愛い弟。

もう2年も帰省していないが、弟は大きくなっているだろうか?元気に暮らしているだろうか?そんな切ない思いが童謡『背くらべ』の歌詞に込められているという。

中山晋平らとともに「子供達の歌」を出版し、雑誌「海国少年」の編集長も務めた海野だったが、1925年5月20日、結核のため28歳の若さで亡くなっている。

彼の母校である静岡市の西豊田小学校には「背くらべ」の歌碑が建てられている。

端午の節句(たんごのせっく)とは?
端午の節句(たんごのせっく)は、古来中国では邪気を払い健康を祈願する日とされ、野に出て薬草を摘んだり、蓬で作った人形を飾ったり、菖蒲(しょうぶ)酒を飲んだりする風習があった。

この風習が日本で独自の変化を遂げたのは鎌倉時代の頃。「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣を形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになったという。

五月人形を飾り、庭前に鯉のぼりを立てるのが日本での典型的な祝い方である。ちなみに、柏餅(かしわもち)を食べる風習は日本独自のもの。柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていったようだ。

粽(ちまき)とは何だろうか?

日本ではもち米だけでなくうるち米も用いられる。包むのに使う葉はチガヤ、笹、竹の皮、ワラなど様様である。

江戸時代、1697年(元禄10年)に刊行された本草書『本朝食鑑』には4種類のちまきが紹介されている。

蒸らした米をつき、餅にして真菰(マコモ)の葉で包んでイグサで縛り、湯で煮たもの。クチナシの汁で餅を染める場合もある。
うるち米の団子を笹の葉で包んだもの。御所粽(ごしょちまき)、内裏粽(だいりちまき)とも呼ぶ。 もち米の餅をワラで包んだ餡粽(あんちまき)。
サザンカの根を焼いて作った灰汁でもち米を湿らせ、これを原料に餅を作りワラで包んだ物。朝比奈粽(あさひなちまき)と呼ばれ、駿河国朝比奈の名物。朝比奈地区には、ちまきを作る時に水を汲んだと伝わる「ちまきの井戸」が今も残り、朝比奈ちまき保存会によって、地域のイベントを中心に、ちまきづくりの体験会や販売など、朝比奈ちまきの継承と普及活動が行われている。
このうち、

1 は新潟県の「三角ちまき」など現在でもよく作られるちまきである。うるち米の粉で餅を作った後、これをササの葉やマコモの葉で包む。これを茹でるか蒸籠で蒸らして作る。そのままか、もしくは4に準じた食べ方をしている。

2 は現在の和菓子屋で作られる和菓子のちまきの原型であり、現在の餅の原料は葛に代わっている。端午の節句に作る店が多い。

3 の飴粽(糖粽とも書く)は、餅が飴色になっているため、この名があるという。詳細は糖粽売の項目を参照。

4 は、灰汁(あく)による保存と品質維持を期待した保存食の一種。きな粉や砂糖を混ぜた醤油で食べる。宮崎県や鹿児島県では「あくまき」とも呼ばれる。

このほか、新潟県、山形県で笹団子と呼ばれる、笹で包んで両端をワラで結んだ形状のものも茨城県常陸太田市ではちまきと呼び、名物となっている。また、山形県ではちまきに非常に類似している笹巻きというものが名物となっている。ちまきとは呼ばず端午の節句とも無関係であるが、月桃の葉で包んだムーチーと呼ばれる類似の菓子が沖縄にある。

この「ちまき」の、説明は検索にもっと詳しく出ています。

私は子どもの頃には母が作ってくれて喜んで食べた思い出になっている懐かしい食べものです。

[ 10 紅葉  ]  作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一

   紅葉

 秋を歌った小学唱歌は案外と少ない。その中で、この2曲は秋そのものを歌った美しい旋律の小学唱歌である。「紅葉」は小学校の唱歌の時間で、「虫の声」母と一緒に歌った記憶がかすかに残っている。

 今でも秋になると京都・奈良へ紅葉の風景を撮影に出かけるが、庭先にすだく虫の声を聞くことは殆どなくなってしまった。かつて秋の夜長に耳を楽しませてくれた虫たちはどこへ行ったのだろうか。

  紅葉 (明治44年)          虫の声 (明治43年)
     作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一     作詞:不詳 作曲:不詳

  秋の夕日に照る山紅葉        あれ松虫が鳴いている。
  濃いも薄いも数ある中に、      ちんちろ ちんちろ ちんちろりん。
  松をいろどる楓や蔦は        あれ鈴虫も鳴き出した。
  山のふもとの裾模様。        りんりん りんりん りいんりん。
                    あきの夜長を鳴き通す
  渓(たに)の流れに散りゆく紅葉   ああおもしろい虫の声。
  波にゆられて離れて寄って、
  赤や黄色の色様々に         きりきり きりきり きりぎりす。
  水の上にも織る錦。         がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫。
                    あとから馬おい おいついて
                    ちょんちょん ちょんちょん すぃっちょん。
                    あきの夜長を鳴き通す
                    ああおもしろい虫の声。

 作詞者「高野辰之」は明治9年に長野県で生まれた。国文学で教育者としての足跡を残しているが、傍ら、「故郷」「紅葉」「朧月夜」などの日本のこころのふるさとを歌う文部省唱歌の作詞者としても有名。
 昭和22年没。

 作曲者「岡野定一」は明治11年に鳥取県で生まれた。東京音楽学校卒業後、同校で声楽科教授となり、音楽教育の指導者養成に尽力する傍ら、文部省編纂のの尋常小学唱歌の作曲委員となった。「高野辰之」の作詞に作曲した唱歌は名曲の誉れが高い。
 昭和16年没。

[ 11 虫の声  ]  作詞:不詳 作曲:不詳 (明治43年)

   虫の声

      No.10の「紅葉」の項参照

[ 12 庭の千草  ]  アイルランド民謡 原題 :The Last Rose of Summer(夏の名残りのバラ)

   庭の千草

 この歌をいつ頃から覚えたのかは記憶にない。ごく小さい頃に母が歌っていたのを聞き覚えたのだから、おそらく、私が中国青島市にあったカトリック系幼稚園に通っていた65年も前のことであろうか。

  庭の千草も、虫の音も
  絶えて淋しくなりにけり
  ああ白菊、ああ白菊 
  ひとり遅れて咲きにけり

  露もたわむや、菊の花
  霜におごるや、菊の花
  ああ、あわれあわれ、ああ、白菊
  人のみさおも、かくてこそ

 戦後まもなくの秋の頃、行水をつかいながら木の葉をわたる夜風に、思わずこの歌を歌ったことを想い出す。この歌を歌う歌手は多くいるが、私が好きなのは、イタリアのソプラノ歌手アメリア・ガリクルチが1929年に録音した針音の多い歌唱と、オーストラリアが生んだ不滅のコロラチュラ歌手「ジョーン・サザランド」の絶唱である。

   サザランドは5-6年前に引退したが、第2次世界大戦後、マリア・カラスと相並んでベルカント唱法を復活し、ベッリーニやドニゼッティのオペラを数多く録音しており、それらのレコードは私の宝である。
 だが、日本の音楽評論家はサザランドをあまり高く評価しなかった。その彼女が1960年代に録音した <The Last Rose of Summer> を私はレコードとCDの両方でもっているが、何度聞いてもすばらしいと思う。

[ 13 埴生の宿  ]  作曲:H.R. ビショップ 作詩:里見 義

   埴生の宿

 この曲は私の母がいつも口ずさんで歌っていた歌であるから、私が覚えたのは4−5才の時でもあろうか。「はにゅーのやどーもわがーやーどー」と歌詞のの意味もわからずに幼いながらに歌っていたのを、かすかに覚えている。

 「埴(はに)」とは土のことであり、「埴生の宿」とは土間の上で起居するような貧しい住居のことであるのを知ったのは、小学校の高学年になってからであった。

 私が生まれ幼児を過ごした中国青島市にある家は、三年前に訪れたとき、築後80年経過しているにもかかわらず、まだ何所帯もの人が住んでいた。

 小学校、中学校を過ごした岐阜市の家は、すでに跡形もない。

  埴生(はにゅう)の宿も   我が宿
  玉の装い    羨やまじ
  のどかなりや  春の空
  花はあるじ   鳥は友
  おお  わが宿よ
  たのしとも  たのもしや

  書(ふみ)読む窓も  わが窓
  瑠璃(るり)の床も   羨やまじ
  きよらなりや  秋の夜半(よわ)
  月はあるじ   虫は友
  おお わが窓よ
  たのしとも たのもしや

 原詩は「懐かしい我が家」とでも訳すべき英詩で、大変美しい。 だがこの日本語歌詞は、原詩をしのいで美しいと思う。

  Mid pleasures and places though we may roam,
    Be it ever so humble, there's no place like home.
  A charm from the skies seems to hallow us there,
    Which, seek through the world, is ne'er met with elsewhere.
  Home! home! sweet, sweet home!
    Ther's no place like home, there's no place like home.

  宮殿の悦楽の中より 貧しくとも 我が家ほど懐かしい場所はない。
  天から与えられた魅力によって 我が家に引きつけられるのか。
  世界中を探しても どこにも我が家の魅力に勝る場所はない。
  懐かしい 懐かしい我が家よ!
  我が家ほど 懐かしい場所はどこにもない。  (Tad翻案)

[ 14 旅愁  ]  原作曲者:Ordway(アメリカ)  作詞者:犬童球渓

   旅愁

 小学校5年から、中学3年に米軍機の空襲で家を焼失するまでの間、私の家の直ぐ近くに高等女学校に通う従姉妹が二人いた。この女学校は、一般の女学校の修学年限が4年であったのに5年間勉強させる、当時としては珍しく勉強に厳しい女学校であった。

 従姉妹たちはよく我が家に遊びに来たし、彼女たちの家にはオルガンがあったから、私もよく弾きに行った。その彼女たちから女学生が歌う合唱曲を覚えたものである。この曲も確かそのようにして覚えた曲の一つであった。

  更けゆく秋の夜、旅の空の
  わびしき思いに、ひとりなやむ。
  恋しやふるさと、なつかし父母、
  夢路にたどるは、故郷(さと)の家路。
  更けゆく秋の夜、旅の空の
  わびしき思いに、ひとりなやむ。

  窓うつ嵐に、夢も破れ、
  遙けき彼方に、こころ迷う。
  恋しやふるさと、なつかし父母。
  思いに浮かぶは、杜(もり)のこずえ。
  窓うつ嵐に、夢も破れ、
  遙けき彼方に、こころ迷う。

 この歌を一緒に歌った彼女たちと、もう50年以上も会っていないが元気だろうか。
 この曲の1番の中間部はパンフルートとアコーディオン伴奏で編曲したが、その雰囲気が再生できているであろうか。

[ 15 故郷の廃家  ]  作曲:W.S. Hays  作詞:犬童球渓

    故郷の廃家

 この歌も、私の家の近くに住んでいた従姉妹が歌うのを聞いて覚えた曲である。このような軟弱な歌を、太平洋戦争中の中学校が教える筈もない。

    この曲を聴くと、空襲で焼け落ちた昔の我が家を想い出す。

  幾年ふるさと、来てみれば
  咲く花、鳴く鳥、そよぐ風、
  門辺の小川の、ささやきも、
  なれにし昔に、変わらねど、
  荒れたる我家に、
  住む人、絶えてなく。

 私は、祖父と祖母と三人で岐阜の郊外に住んでいた。家の庭に松の木が植えられていた。秋の夜中、ふと眼をさますと、月に照らされた松の影が障子に映っていたことをかすかに覚えている。その障子紙には、蜂が巣を作るために咬んで行った跡が残っていた。

  昔を語るか、そよぐ風、
  昔をうつすか、澄める水、
  朝夕かたみに、手をとりて、
  遊びし友人、いまいずこ、
  さびしき故郷や、
  さびしき我が家や。

 私の住んでいた家は、昭和20年7月、米軍機の焼夷弾空襲で焼け落ちた。年老いた祖父母には家を建て直す力もなく、その土地は人手に渡った。

 昨年11月、40年ぶりに昔の家の跡を尋ねた。そこに建っていた家にはあと継ぎがないとかで、まさに廃屋であった。家の近くにあった小川もうめられて、道路になっていた。

 この歌を最後に習い歌った世代の女学生は、今は何歳ぐらいになられるのであろうか。知りたいものである。

[ 16 冬景色  ]  文部省唱歌 大正2年5月

    冬景色

 私たちの幼い頃、冬は寒く厳しい季節であった。軒から下がるつらら、地道には霜柱、木々を揺り動かす木枯らしなど、暗い冬空を思うと今でも身震いがするほどである。

 だがその辛い冬にも、晴れを予感させる朝まだき、あるいはほの暖かい日中には、一時の冬の楽しさもあった。日だまりの中、子供達はむしろを敷いて外で遊んだ。

 文部省唱歌「冬景色」は、そうした80年ほど前の日本の冬の情景を、ほのぼのと想い出させる名曲である。

   さ霧(ぎり)消ゆる湊江(みなとえ)の
   舟に白し、朝の霜。
   ただ水鳥の声はして
   いまだ覚めず、岸の家。

   烏啼きて木に高く、
   人は畑(はた)に麦を踏む。
   げに小春日ののどけしや。
   かえり咲きの花も見ゆ。

   嵐吹きて雲は落ち、
   時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ。
   もし灯火(ともしび)の漏れ来(こ)ずば、
   それと分かじ、野辺の里。

 なお、この歌の作詞者・作曲者は、当時の文部省の方針で全く発表されていないが、心に残る名曲である。

[ 17 春が来た  ]  作詞:高野辰之  作曲:岡野貞一

    春が来た

 風はまだ冷たい。

 しもやけで耳も指も膨らんだ子供達が、「春が来た」と感ずるのは、少しずつ一日が長くなる、そう、2月終わりのころだ。

 こたつと火鉢しか暖房のない、すきま風の吹き込む家に住んでいた戦前の子供達にとっては、春の到来がどれほど待ち遠しかったか。ほの温かい太陽の光がどれほど嬉しかったか。

  春が来た 春が来た どこに来た。
  山に来た  里に来た  野にも来た。

 川原の土手に出ると、そろそろツクシがそっと顔を出す。田んぼのあぜ道にはヨモギの若葉が目に鮮やかだ。間もなくタンポポの花も開くだろう。庭の紅梅や白梅の花が、そっと香しい春風を送る。菜の花の黄色が目にまぶしい。

  花が咲く 花が咲く どこに咲く。
  山に咲く  里に咲く  野にも咲く。

 梅の枝にほほじろが訪れた。そろそろウグイスが声をきそって鳴き出す。切り株の残るたんぼでは揚げひばりが空高く舞う。 ああ、もう春が来たのだ。

  鳥がなく 鳥がなく どこでなく。
  山になく  里になく  野にもなく。

 貧しく慎ましかった我々の子供時代。夜、居間に灯る10燭の電灯の周りに家族が寄り添って春を語る。田んぼにそっと作られた雲雀の巣。小川に遊ぶメダカ。やがてレンゲの絨毯が原一面に広がるだろう。何をして遊ぼうか。あれもしよう。これもしたい。

 まだ、春は来ないの?  もうすぐ、春が来るよ。  とうとう、春が来たよ!

[ 18 朧月夜  ]  作詞:高野辰之  作曲:岡野貞一

    朧月夜

 昭和30年代までは、一定距離以上の国鉄乗車券を購入すると、乗客の手荷物として20kgまでの荷物を無料で到着駅まで輸送してくれる便利な制度があった。この手荷物輸送制度を「チッキ」と呼んでいた。更に低額の料金で20kgまでの小荷物を手荷物と一緒に輸送してくれた。これら国鉄時代の手・小荷物制度を高齢の方は今でも覚えておられることだろう。

 私は昭和22年3月に岐阜第2中学校から旧制富山高校に入学し、寮に入ることとなった。そのために、布団袋に布団を入れ、身の回りの品々を柳行李に入れて、それらを手・小荷物として富山に送った。

 送り出す駅は高山線長森駅、私の家から歩いて3キロメートルほどの所にあった。自家用車など全くなかった当時のことであったから、近所から借りたでリヤカーで、これらの荷物を長森駅まで歩いて運んだ。

 長森駅の帰りは多分午後4時頃であったと思う。田んぼの中のあぜ道沿いにリヤカーを曳きながら見た初春の暮色を、今でも忘れることができない。

 近くを流れる小川、すぎなやタンポポがその堤防を飾っている。彼方の小山には夕霞みがかかりだしている。集落の建物からは夕餉の準備であろうか、うす青い煙がたなびいている。蛙が啼くにはまだ早く、夕月も出ていなかったが、文部省唱歌「朧月夜」が持つ雰囲気さながらの景色であった。

   菜の花畠に  入り日薄れ
   見渡す山の端  霞ふかし。
   春風そよふく  空を見れば
   夕月かかりて  におい淡し。

   里わの火影(ほかげ)も  森の色も
   田中の小路を  たどる人も
   蛙(かわず)のなくねも  かねの音も
   さながら霞める  朧月夜。

 先日、下呂温泉で小学校の同窓会があり、50年ぶりで高山線に乗った。当時の蒸気機関車はディーゼル列車に変わり、長森駅の周辺に住宅が建ち並んでいたが、それでも彼方には昔と同じ小山があり、田んぼもまだ残っていた。
 懐かしい情景であった。

 今、ここに住む人達は、春の暮れがた、「朧月夜」の風情を感じているのだろうか。

[ 19 我は海の子   ]  文部省唱歌

     我は海の子

私の誕生日は7月20日、中国青島市の青島病院で生まれた。母の話によれば随分と暑い日であったそうだ。何時の頃からか、7月20日は海の記念日となり、最近では国民祝祭日となった。

 私たちの幼い頃、日本は海洋国であると教わり、小学校では海の歌をよく歌った。両親のあとを継いで、私自身も海外に雄飛することが夢であった。

   だが、日本が海洋国であることを意識することは少なくなったような気がする。日本が豊になったからであろうか。世界が狭くなったからであろうか。

     ウ   ミ                海

  ウミハ  ヒロイナ、          松原遠く消ゆるところ
  大キイナ、               白帆の影は浮かぶ。
  月ガ   ノボルシ、          干網浜に高くして
  日ガ  シズム。             鴎は低く波に飛ぶ。
                      見よ昼の海
  ウミハ  大ナミ、           見よ昼の海。
  アオイ  ナミ、
  ユレテ  ドコマデ、          島山闇に著(しる)きあたり、
  ツヅクヤラ。              漁り火光り淡し。
                      寄る波岸に緩くして、
  ウミニ  オフネヲ           浦風軽ろくいさご吹く、
  ウカバシテ、              見よ夜の海
  イッテ  ミタイナ、          見よ夜の海。
  ヨソノクニ。

     われは海の子

 一,我は海の子白浪の          二,生まれてしおに浴(ゆあ)みして
   さわぐいそべの松原に          浪を子守の歌と聞き
   煙たなびくとまやこそ          千里寄せくる海の気を
   わがなつかしき住家なれ         吸いてわらべとなりにけり 

 三,高く鼻つくいその香に        四,丈余のろかい操りて
   不断の花のかおりあり          行く手定めぬ浪まくら
   なぎさの松に吹く風を          百尋千尋海の底
   いみじき楽と我は聞く          遊びなれたる庭広し

[ 20 海  ]  

     海

        No.19の「われは海の子」の項参照

[ 21 浜辺の歌  ]  作詩:林 古渓   作曲:成田為三

     浜辺の歌

 このメロディーをいつ覚えたのか、はっきりとした記憶はない。学校で習った記憶もなく、おそらくはラジオから流れてきたメロディーから聞き覚えたのであろう。

 しみじみとした清純な曲想は今聞いても懐かしく、青春時代を想い出させる。

  あした浜辺をさまよえば
  昔のことぞしのばるる
  風の音よ 雲のさまよ
  よする波も かいの色も

  ゆうべ浜辺をもとおれば
  昔の人ぞしのばるる
  寄する波よ かえす波よ
  月の色も 星の影も

  はや忽ち波を吹き
  赤裳のすそぞぬれひじし
  やみし我は すでにいえて
  浜辺の真砂 まなごいまは

 なお、この曲は成田為三が東京音楽学校在学中に作曲したものであるとのこと、おそらく大正時代の中頃のことであろう。

[ 22 「孝女白菊」の歌  ]  

     「孝女白菊」の歌

 この曲の歌詞は、落合直文が明治21年に発表した物語詩「孝女白菊」そのもので、全編は三章に別れ、552節からなる長編詩である。この詩が発表されるやたちまち世人の愛誦するところとなり、さらにこの詩に曲が付けられるなど、当時一世を風靡したとのことだ。

 この詩のごく一部を以下に紹介する。

  阿蘇の山里秋深けて
  眺め(ながめ)寂しき夕まぐれ
  いずこの寺の鐘ならむ
  諸行無常と告げわたる。
  折しも一人門に出て
  父を待つなる少女あり
  年は十四の春浅く
  色香ふくめるその様は
  梅か桜か分かねども
  末頼もしく見えにけり。

 この詩を二節ずつ、今流れている旋律に合わせて歌うのである。旋律そのものは単調でるから、もっぱら詩そのものを楽しんで歌われたのであろうか。

 ところでこの歌の作曲者は、今日、全く知られていない。楽譜は昭和6年に春秋社から発行された世界音楽全集第19巻「流行歌編」に掲載されている。この口伝で残っていた旋律を、昭和期の大音楽家であった堀内敬三氏が採譜し、伴奏を日本風及び西洋風にピアノ曲として編曲し、発表された。

 その原譜に基づいて私が、和風の箇所を尺八と琴、洋風の箇所を弦楽四重奏曲風に編曲した。

 なおこの全集の分類では、この曲は流行歌に分類されている。流行歌という言葉自体がいまでは死語となっているので、一応、日本歌曲の区分に入れた。

 この音楽全集は、物語詩「孝女白菊」の原文をご提供いただいた吉村陸太郎氏のお母上の蔵書であり、吉村氏のご厚意により拝借し、掲載することができた。ここに吉村氏に厚くお礼申し上げる。

[ 23 宵待草  ]  作詞者:竹久夢二   作曲者:多 忠亮

     宵待草

 この曲を一体いつ覚えたのだろうか、全く記憶がない。おそらく中学生時代に私の従兄が口ずさんでいるのを聞き覚えたのだろう。

 メロディも歌詞もいかにもセンチメンタルで、私はこの曲を流行歌として低く見ていたように思う。

 第二次世界大戦後、数多くの流行歌が歌われた。その流行歌はいつしか演歌に代わり、その演歌も若い人には歌われなくなって、クラシックでない音楽の分野はもはやフォローしきれないほど、範囲が広がってしまった。

 今の若い人の音楽の特長は、リズムと跳躍の甚だしいメロディー・ライン、そして大音響である。身体をリズムに合わせ、大音響に埋没して音楽にのるのであれば、それなりに楽しいであろう。

 しかし、彼らが60-70歳になったとき、この音楽に郷愁を感ずるのであろうか。リズムとメロディーと音響に身体がついて行かなくなるだろう。
 その時には何が歌われるのだろうか。

 案外近い将来に、メロディ中心の音楽に回帰する時代が来るかもしれない。

 かつて低く見ていた流行歌の中に、心惹かれるいくつかのメロディを見出すようになった。「宵待草」はそのような曲の一つである。

    まてどくらせどこぬひとを
    宵待草のやるせなさ

    こよいは月もでぬそうな。

[ 24 荒城の月  ]  作詩:土井晩翠   作曲:瀧 廉太郎

     荒城の月

 平成13年5月、私どもは「いとこ会」を開いた。全員が60歳を過ぎ、中には50年以上会ったことのない顔ぶれもあった。宴を終え、「いとこ会」は岐阜市にある加納城址を訪ねた。

 加納城は関ヶ原の戦いに勝った徳川家康が、西国の勢力に備えるため、1601年に築城した。併せて城下町が整備され家臣団が集住し、加納の地は中山道沿いの宿場町として、美濃地方では最も賑わいを極めたという。その加納城は明治6年(1873)に取り壊され、以降、荒れるに任された。

 昭和12年(1937)、私は加納西丸町に住む祖父母と暫く起居をともにしたが、そのころの加納城は笹藪 が小学校一年の私の頭を覆うほど生えており、子供たちの戦争ごっこの遊び場所であった。

 昭和16年、私は再び祖父母と起居をともにすることとなる。このころの加納城には日本陸軍の通信隊が事務所をかまえ、一般人は立ち入り禁止となっていた。

 敗戦後の昭和21年(1946)、加納城は米国進駐軍の事務所となったが、空襲で焼けたキリスト教会が土曜日と日曜日に限り進駐軍の事務所の一室を借りて日本人向けに礼拝を行っていた。

 そして今は、本丸周辺の約4万平方メートルが史跡として指定され、桜や松が植えられた公園となって一般に開放されている。

  春高楼の花の宴 巡る盃かげさして
  千代の松が枝わけ出でし 昔の光いまいずこ

  秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
  植うる剣に照りそいし 昔の光いまいずこ

  いま荒城の夜半の月 替らぬ光たがためぞ
  垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐

  天上影は替らねど 栄枯は移る世の姿
  写さんとてか今もなお 嗚呼荒城の夜半の月

 50年ぶりに加納城址に立った、「いとこ会」の面々の心中に去来した感慨は果たして何であったろうか。

[ 25 早春賦  ]  作詞:吉丸一昌   作曲:中田 章

     早春賦

 日本には変化に富んだ美しい四季がある。そして日本人は長らく四季折々に詩を作り歌を歌ってきた。我々は幼稚園、小学校および中学校の低学年時代に、音楽の時間にはこれら の歌を習い歌ってきた。

 今でもそのような歌を歌うと日本の四季の豊かさを感ずるとともに、幼かった日々のことが想い出される。

   春は名のみの  風の寒さや
   谷のうぐいす  歌は思えど
   ときにあらずと 声もたてず
   ときにあらずと 声もたてず

   氷とけさり   あしはつのぐむ
   さては時ぞと  思うあやにく
   今日もきのうも 雪の空
   今日もきのうも 雪の空

 この歌の歌詞は、幼い頃長らく意味がよく判らなかった。だが繰り返し歌うにつうれ、その意味を理解でき、日本語文語の美しさを感ずることができるようになった。

 早春の頃、まるで角が生えるかのように葦の芽が成長してくる。「つのぐむ」とは葦の芽の成長を見た人にとっては、なんと美しい表現かと感心させられることだろう。

 今の日本には、四季折々の歌を、テレビでもラジオでも聞くことがなくなってしまった。

[ 26 花  ]  作詩:武島羽衣   作曲:瀧 廉太郎

      花

   春のうららの 隅田川
   のぼりくだりの 船人が
   櫂(かひ)のしづくも 花と散る
   ながめを何に たとふべき

   見ずやあけぼの 露浴びて
   われにもの言ふ 桜木を
   見ずや夕ぐれ 手をのべて
   われさしまねく 青柳(あおやぎ)を

   錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
   くるればのぼる おぼろ月
   げに一刻も 千金の
   ながめを何に たとふべき

薄命の天才作曲家 瀧 廉太郎とは?

 瀧 廉太郎(滝 廉太郎/たき れんたろう/1879-1903)は、明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人。

 明治時代の前半には、日本最初の音楽教科書「小学唱歌集」が存在していたが、「蛍の光(Auld Lang Syne)」、「才女(アニーローリー)」、「庭の千草(夏の名残のバラ)」、「うつくしき(スコットランドの釣鐘草)」などに見られるように、その多くが賛美歌やスコットランド民謡などの外国の旋律をそのまま用いたものだった。

 日本人作曲家によるオリジナルの歌曲を望む声が上がる中、滝はその声に最も早く応え、代表作である『荒城の月』、『箱根八里』、『お正月』などの名曲を次々と生み出していった。

筑紫哲也(ちくし てつや)の親戚だった?!

 余談だが、雑誌「朝日ジャーナル」の元編集長で、TBSのニュース番組のメインキャスターを務めるジャーナリストの筑紫哲也(ちくし てつや)は、瀧 廉太郎の妹ト