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お気に入りの歌⑦
<いろいろの思い出>

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  01  一月一日
  02  紀元節
  03  明治節
  04  天長節
  05  とんび
  06  夕日
  07  都ぞ弥生
  08  靴が鳴る
  09  雀の学校
  10  山寺の和尚さん
  11  異国の丘
  12  酒よ
  13  美しき天然
  14  森の水車
  15  浜千鳥
  16  あさが来た
  17  太平洋
  18  追憶
  19  戦友
  20  ああわが戦友


[ 1 一月一日 ]

  年の始めの 例(ためし)とて
  終(おわり)なき世の めでたさを
  松竹(まつたけ)たてて 門ごとに
  祝(いお)う今日こそ 楽しけれ

  初日のひかり さしいでて
  四方(よも)に輝く 今朝のそら
  君がみかげに比(たぐ)えつつ
  仰ぎ見るこそ 尊(とお)とけれ

『一月一日(1月1日)』は、1893(明治26)年に文部省より「小学校祝日大祭日歌詞並楽譜」の中で発表された唱歌。

作詞は、出雲大社の宮司をしていた千家尊福(せんげ たかとみ)。

出雲大社(いずもおおやしろ・いずもたいしゃ)は、島根県出雲市にある神社。

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる。

[ 2 紀元節 ]  作詞:高崎 正風 作曲:伊沢 修二

一、 雲に聳(そび)ゆる高千穂の
   高根おろしに草も木も
   なびきふしけん大御世(おおみよ)を
   仰ぐ今日こそたのしけれ

二、 海原なせる埴安(はにやす)の
   池のおもより猶(なお)ひろき
   めぐみの波に浴(あ)みし世を
   仰ぐ今日こそたのしけれ

三、 天つひつぎの高みくら
   千代よろずよに動きなき
   もとい定めしそのかみを
   仰ぐ今日こそたのしけれ

四、 空にかがやく日のもとの
   よろずの国にたぐいなき
   国のみはしらたてし世を
   仰ぐ今日こそたのしけれ   明治二十六年 官報三〇三七号付録

天翔艦隊 http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/tensyofleet.htm

皇紀2600年 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/kouki.htm

[ 3 明治節 ]  作詞:堀沢周安 作曲:杉江 秀

一 アジアの東 日(ひ)出づるところ
  ひじりの君の あらはれまして
  古きあめつち とざせるきりを
  大御光(おほみひかり)に くまなくはらひ
  教(をしへ)あまねく 道(みち)明(あき)らけく
  治めたまへる 御代(みよ)たふと。

二 恵の波は 八洲(やしま)に余り
  みいつの風は 海原こへて
  神のよさせる みわざをひろめ
  民の栄(さか)行く 力をのばし
  とつ国々の ふみにもしるく
  とどめたまへる 御名(みな)かしこ

三 秋の空すみ 菊の香高き
  今日のよき日を 皆ことほぎて
  定めましける みのりをあがめ
  さとしましける みことをまもり
  代々木の森の 代々とこしへに
  仰ぎまつらん 大みかど

祝日大祭日唱歌 http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/shukujitsu/shukujitsu.html

[注]1927(昭和2)年に明治節(11月3日)が追加新設され,冒頭に述べた四大節の儀式として小学校でお祝いされた.

[ 4 天長節 ]  作詞: 黒川真頼 作曲:奥 好義

  今日の吉(よ)き日は 大君(おほきみ)の
  うまれたひし 吉(よ)き日なり
  今日の吉き日は みひかりの
  さし出(で)たまひし 吉き日なり
  ひかり遍(あまね)き 君が代を
  いはへ諸人(もろびと) もろともに
  めぐみ遍(あまね)き 君が代を
  いはへ諸人(もろびと) もろともに

[注]天皇の誕生を祝う曲.明治天皇は11月3日.
   大正天皇は8月31日であるが,この時期は暑くて不便なので,
   1913(大正2)年より国民の祝う日は10月31日に変更された.
   昭和天皇は4月29日.
   今上天皇は12月23日.

[ 5 とんび ]  作詞:葛原しげる 作曲:梁田貞

  飛べ飛べとんび 空高く
  鳴け鳴けとんび 青空に
   ピンヨロー ピンヨロー
   ピンヨロー ピンヨロー
  楽しげに 輪をかいて

  飛ぶ飛ぶとんび 空高く
  鳴く鳴くとんび 青空に
   ピンヨロー ピンヨロー
   ピンヨロー ピンヨロー
  楽しげに 輪をかいて

  http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/doyo/tonbi.htm

この童謡は昭和33年発表という。 どうしたことか子供の頃に聞いたと錯覚していた。 この頃になって雀やツバメの姿が妙に少なくなってきたのに、鳶(トンビ)が一羽か二羽悠然と飛んでいるのを居間から見かけるようになった。 昔へ帰ったような思いに包まれる。

上記の URL の子どもの声は郷愁へさそう。

[ 6 夕日(ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む)]  作詞:葛原しげる 作曲:室崎琴月

  ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む
  ぎんぎんぎらぎら 日が沈む
  まっかっかっか 空の雲
  みんなのお顔も まっかっか
  ぎんぎんぎらぎら 日が沈む

  ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む
  ぎんぎんぎらぎら 日が沈む
  カラスよ お日を追っかけて
  真っ赤に染まって 舞って来い
  ぎんぎんぎらぎら 日が沈む

[ 7  都ぞ弥生 ]  作詞:2年生横山芳介 作曲:3年生赤木顕次

一 都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊(ウタゲ)の筵(ムシロ)
  尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の
  夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて
  星影冴かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ

二 豊かに稔れる石狩の野に 雁(カリガネ)遥々(ハルバル)沈みてゆけば
  羊群声なく牧舎に帰り 手稲の嶺(イタダキ)黄昏(タソガレ)こめぬ
  雄々しく聳ゆる楡の梢 打振る野分(ノワキ)に破壊(ハエ)の葉音の
  さやめく甍(イラカ)に久遠(クオン)の光り おごそかに 北極星を仰ぐ哉

三 寒月懸(カカ)れる針葉樹林 橇の音(ネ)凍りて物皆寒く
  野もせに乱るる清白の雪 沈黙(シジマ)の暁霏々(ヒヒ)として舞ふ
  ああその朔風飄々(ヒョウヒョウ)として 荒(スサ)ぶる吹雪の逆巻くを見よ
  ああその蒼空(ソウクウ)梢聯(ツラ)ねて 樹氷咲く 壮麗の地をここに見よ

四 牧場の若草陽炎燃えて 森には桂の新緑萌(キザ)し
  雲ゆく雲雀に延齢草の 真白(マシロ)の花影さゆらぎて立つ
  今こそ溢れぬ清和の陽光(ヒカリ) 小河の潯(ホトリ)をさまよひゆけば
  うつくしからずや咲く水芭蕉 春の日の この北の国幸多し

五 朝雲流れて金色(コンジキ)に照り 平原果てなき東(ヒンガシ)の際(キワ)
  連なる山脈(ヤマナミ)玲瓏として 今しも輝く紫紺の雪に
  自然の藝術(タクミ)を懐(ナツカシ)みつつ 高鳴る血潮のほとばしりもて
  貴(トオ)とき野心の訓(オシ)へ培ひ 栄え行く 我等が寮を誇らずや

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E3%81%9E%E5%BC%A5%E7%94%9F

都ぞ弥生は、北海道大学の学生寮である恵迪寮(ケイテキリョウ)の寮歌の一つ。

1912年(明治45年)度の寮歌として作られた。当時の恵迪寮は、北海道大学の前身となる東北帝国大学農科大学の予修科(予科)学生の寄宿舎であった。恵迪寮では1907年から寮歌が作られており、都ぞ弥生は第6回目の寮歌である。

作曲者は当時予科3年生であった赤木顕次(1891年-1959年)。作詞者は同じく2年生であった横山芳介(1893年-1938年)。

前口上

都ぞ弥生を始めとする恵迪寮歌の前口上は、次の通り。

吾等(ワレラ)が三年(ミトセ)を契る絢爛のその饗宴(ウタゲ)は、げに過ぎ易し。然れども見ずや穹北に瞬く星斗(セイト)永久(トワ)に曇りなく、雲とまがふ万朶(バンダ)の桜花久遠(クオン)に萎えざるを。寮友(トモダチ)よ徒らに明日の運命(サダメ)を歎(ナゲ)かんよりは楡林(ユリン)に篝火(カガリビ)を焚きて、去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌(ウタ)はん。

この後に、都ぞ弥生の場合は

「明治45年度寮歌、横山芳介君作歌・赤木顕次君作曲、都ぞ弥生、アインス、ツバイ、ドライ」

と続け、歌に入る(「アインス、ツバイ、ドライ」は、ドイツ語で「一、二、三」の意)。北海道大学の寮歌の前口上では、先輩に敬意を表して作詞者、作曲者の名前を君付けで紹介する。

この前口上は「楡陵謳春賦」と呼ばれ、現在では都ぞ弥生の前口上として述べられることが多いが、実際には1936年(昭和11年)に同寮歌である『嗚呼茫々の』の序文として当時の学生宍戸昌夫によって書かれたものである。

【下平】

ずぅっと昔のこと、北大の寮歌は一拍を三拍くらいにして悠然として歌うものだ、と聞いていた。 なるほどと頷いた歌い方の歌です。

[ 8 靴が鳴る ]  作詞:清水かつら 作曲:弘田龍太郎

 1. お手(てて)つないで 野道を行けば    みんな可愛(かわ)い 小鳥になつて    歌をうたへば 靴が鳴る    晴れたみ空に 靴が鳴る

 2. 花をつんでは お頭(つむ)にさせば    みんな可愛(かわ)い うさぎになつて    はねて踊れば 靴が鳴る    晴れたみ空に 靴が鳴る

『靴が鳴る(くつがなる)』は、作詞:清水かつら、作曲:弘田龍太郎による日本の童謡・唱歌。

歌い出しの「おててつないで野道を行けば」というフレーズが特に有名で印象に残ることから、『『靴が鳴る』という本来の曲名よりも、「おててつないで」が通り名のように定着している感がある。

◆英語学校で西洋文化を学んだ清水かつら

この曲が発表されたのは1919年(大正8年)。当時の子供たちの履物と言えば下駄や草履が一般的で、『靴が鳴る』で描かれる革靴を履く子供は都会でもそれほど多くはなかった。

当時の童謡の歌詞としては新しさを感じる「靴」というキーワードを曲名と歌詞に大胆に取り入れた詩人・清水かつら。商業高校を中退して英語学校に通い、西洋の文化にも積極的に理解を深めていた彼にとっては、急速に西洋化が進む大正時代の日本において、将来も歌い継がれる童謡を書くためには、「下駄が鳴る」ではなく、いずれ下駄や草履にとって代わる『靴が鳴る』である必要があったのだろう。

◆戦後にアメリカ将校が表敬訪問

終戦から間もないある日、埼玉県和光市の清水かつらの実家へ突然、進駐軍の車がやってきた。何事かと不安そうに見守る近所の人々。車を降り、歩み寄る高級将校と通訳。

「ミスターシミズに会えて大変光栄だ」

実は昭和初期、日本の童謡を吹き込んだレコードがアメリカ国内でも発売されており、『靴が鳴る』も全米である程度の知名度を得ていた。

「わたしは歌ったことがある。懐かしい。」

将校は『靴が鳴る』の作者に合いたくて探していたが、自分の基地近くの町に清水かつらが住んでいることが分かり、飛んできたという。

清水氏と将校は打ち解けて酒を酌み交わし、日本の文化や将来について語り合い始めた。その一部始終を見ていた清水かつらの弟・五郎氏は次のように当時を振り返っている。

「勝者も敗者も関係ない。一つの童謡を通じて日本とアメリカが結ばれる。外交、政治とは違う素晴らしい力が歌にはあります。」

http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/kutsuganaru.htm

[ 9 雀の学校 ]  作詞:清水かつら 作曲:弘田龍太郎

   チイチイパッパ チイパッパ    雀の学校の先生は     むちを振り振り チイパッパ    生徒の雀は輪になって     お口をそろえて チイパッパ     まだまだいけない チイパッパ     も一度一緒に チイパッパ     チイチイパッパ チイパッパ

『雀の学校 すずめのがっこう』は、作詞:清水かつら、作曲:弘田龍太郎による日本の童謡・唱歌。

清水かつら(1898-1951)は、『靴が鳴る』、『叱られて』などで知られる童謡作家。童謡『浜千鳥(はまちどり)』作詞者の鹿島鳴秋らと共に雑誌「少女号」編集に携わった。

弘田 龍太郎(ひろた・りゅうたろう/1892-1952)は、高知県安芸市生まれの作曲家。代表作に『こいのぼり』、『浜千鳥(はまちどり)』、『春よこい』、『靴が鳴る』などがある。

http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/suzumenogakko.htm

[ 10 山寺の和尚さん ]  作詞:久保田宵二 作曲:服部 良一

  【歌詞】 山寺の和尚さん(童謡版)

   山寺の和尚さんが
   毬(まり)はけりたし 毬はなし
   猫をかん袋に 押し込んで
    ポンとけりゃ ニャンとなく
    ニャンがニャンとなく ヨイヨイ

   山寺の狸さん
   太鼓打ちたし 太鼓なし
    そこでお腹を チョイと出して
    ポンと打ちゃ ポンと鳴る
    ポンがポンと鳴る ヨイヨイ

  【歌詞】 山寺の和尚さん(オリジナル)

  1.山寺の 和尚さんは
    毬は蹴りたし 毬はなし
    猫をカン袋に 押し込んで
     ポンと蹴りゃ ニャンと鳴く
     ニャンが ニャンと鳴く  ヨーイヨイ

     山寺 和尚さん  山寺 和尚さん
     ダカジュク ダカジュク ダカジュク ダカジュク エイ ホホー(高音)
     ダカジュク ダカジュク ダカジュク ダカジュク エイ ホホー(低音)

  2.入り婿の 旦那さん
    酒は飲みたし 酒はなし
    渋茶徳利に 詰めこんで
     グッと飲んで ペッとはく
     ペッが ペッとはく  ヨーイヨイ

     山寺 和尚さん  山寺 和尚さん
     ダカジュク ダカジュク ダカジュク ダカジュク エイ ホホー(高音)
     ダカジュク ダカジュク ダカジュク ダカジュク エイ ホホー(低音)

  3.色街の お酌さん
    太鼓打ちたし 太鼓なし
    可愛いお腹を ちょいと出して
     ポンと打ちゃ ポンと鳴る
     ポン ポン ポン ポン ポン ポン ポン エー

     山寺 和尚さん  山寺 和尚さん
     ダカジュク ダカジュク ダカジュク ダカジュク エイ ホホー(高音)
     ダカジュク ダカジュク ダカジュク ダカジュク エイ ホホー(低音)

1937年(昭和12年)にコロムビア・リズム・ボーイズ(ナカノ・リズム・ボーイズ)の歌でレコード発売された。

その後、歌詞が一部改変され(作詞者不詳)、2番では「山寺の狸さん」が登場する童謡として広まり定着していった。

作曲は『東京ブギウギ』の服部良一

服部 良一(はっとり・りょういち/1907-1993)は、和製ポップス史における重要な作曲家の一人。『東京ブギウギ』、『青い山脈』、『銀座カンカン娘』、『蘇州夜曲』などを手掛けた。

久保田 宵二(くぼた・しょうじ/1899-1947)は、昭和期に活躍した作詞家。童謡から流行歌作家に転身。『夕日は落ちて』、『赤城しぐれ』がヒットした。

「ダークダックス 山寺の和尚さん」と「わらべうた 山寺のおしょうさん」が収録されている。
   <http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/doyo/yamadera.htm>

もう昔のこと、今は亡き片桐健四郎(知久となった)が独特の声で同級会で歌ってくれた。 その後この歌を聞いたことがなかった。 それが Dark Ducks の「山寺の和尚さん」だった。 懐かしい響きをもつ曲だ。

【楽譜の無料ダウンロード】
    http://www.mu-tech.co.jp/music_files/score/yamadera_no_oshousan_xf.html

楽譜研究所
作品・素材集->楽譜->山寺の和尚さん  

  童謡・唱歌の楽譜が無料で表示・印刷できます。メロディ譜のほかに、歌詞、コード進行も表示されます。

日本の伝統曲の「山寺の和尚さん」の楽譜を指定した調で表示することができます。「山寺の和尚さん」は、アップテンポな4拍子の日本の伝統曲です。歌詞は、「山寺の和尚さんが」という出だしです。

[ 11 異国の丘 ]  作詞:増田幸治、補作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正

 1 今日も暮れゆく 異国の丘に
   友よ辛かろ 切なかろ
   我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
   帰る日も来る 春が来る

 2 今日も更けゆく 異国の丘に
   夢も寒かろ 冷たかろ
   泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
   望む日が来る 朝が来る

 3 今日も昨日も 異国の丘に
   重い雪空 日が薄い
   倒れちゃならない 祖国の土に
   たどりつくまで その日まで

   http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/10/post_6517.html

《蛇足》 第二次大戦の最末期、日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻したソ連軍に日本軍は降伏しました。武装解除された日本軍将兵は、在満の民間人や当時日本国籍だった朝鮮人とともに、ソ連領内の収容所に送り込まれました。一般にこれを「シベリア抑留」と呼んでいます。

 シベリア抑留というものの、収容先はシベリアだけでなく、モンゴルや北朝鮮、中央アジア、ヨーロッパロシアの各地に及んでいました。
 収容者数は、約65万人というのがいちおうの定説になっていますが、実際には約107万人だったと見られています。

 収容された日本人たちは、劣悪な居住環境と粗悪な食事のもと、過酷な強制労働に従事させられました。
 作業は建築や土木建設、木材伐採などでしたが、ノルマが課せられ、ノルマが達成できないと、減食されたり、欠食とされたりしました。
 また、定期的に共産主義教育が行われ、反・非共産主義的と見なされると、共産主義に感化された同胞からつるし上げや人民裁判、ときにはリンチを受けました。

 連日の過酷な作業のため、収容期間中の死者は、収容人数の1割近い約6万人に達したとされています。
 ただし、アメリカの研究者ウイリアム・ニンモの調査では、実際の死者は約34万人とされており、また約37万5000人とする調査結果もあります。収容者数を約107万人とすると、犠牲者はその3分の1以上にも達したことになります。

 収容者の帰還は昭和22年(1947)から、ソ連との国交が回復する昭和31年(1956)にかけて逐次行われました。共産主義教育に反抗的だった者ほど、帰還を遅らされたと伝えられます。

 抑留からの帰還者によって日本にもたらされたものがいくつもあります。前述したノルマという言葉や歌声運動などがその例ですが、『異国の丘』もその1つです。

 昭和23年(1948)8月1日(8日説あり)、NHKの人気番組「のど自慢素人演芸会」に1人の復員兵が出演、みごとに鐘を打ち鳴らしました。シベリアから復員した中村耕造という人物で、歌ったのは作詞・作曲者不明の『昨日も今日も』という歌でした。

 望郷の思いを切々と歌い上げるその歌にビクターが着目、佐伯孝夫の補作詞と清水保男の編曲を施したうえで、中村耕造と当時の人気歌手・竹山逸郎に歌わせてレコード化しました。
 同年9月、『異国の丘』と改題されたそのレコードが発売されるや、たちまち全国に大流行、大人から子どもまで口ずさみ、NHKや各地ののど自慢大会でこれを歌う者が続出しました。

 はじめはだれが作った歌か不明でしたが、やがて吉田正が名乗り出て、作詞は増田幸治、作曲は吉田正と判明しました。
 吉田は昭和23年8月にはシベリアから帰還していましたが、大流行している歌が自分の歌だという実感が湧かなかったので、名乗り出るのが遅れたそうです。
 昭和25年(1950)4月には増田幸治も帰還して、歌のできた経緯がさらに明らかになりました。

 吉田正と増田幸治は、シベリア・ウラジオストク郊外アルチョム収容所にいっしょに収容されていました。中村耕造も同じ収容所にいたはずですが、2人の名前は記憶していなかったのでしょう。
 あるとき、吉田が戦時中に作った『大興安嶺突破演習の歌』という軍歌を紹介したところ、増田がそれに『俘虜(ふりょ)の歌える』という歌詞をつけ、副題を『異国の丘』としました。
 後年、増田はそれを発表したときのようすを、次のように語っています。

 「初めて異国の丘を発表したのは収容所の演芸会だった。合唱していると胸が詰まり、歌いながらみんな泣いた。これ以降、作業の行き帰りや夕方の人員点呼時に、皆が口ずさんだ。お互いをいたわり、励まし合うようになり、自分さえよければといった殺伐とした雰囲気は次第に薄れていった。シベリア最初の冬がようやく終わる昭和21年(1946)の3月ごろだった」

 歌が単なる娯楽以上の力をもちうるという顕著な証拠がここにあります。

 吉田はビクターから専属作曲家として迎えられ、以後数々のヒット曲を連発したことはよく知られているとおりです。

(上の写真は抑留者による冬季野外作業のようす)(二木紘三)

斉藤康司叔父は今年2015年90歳の天寿を全うされて亡くなりました。 秀の実母兄弟8人の末子にあたり、苦労して勉学に励み戦時中は関東軍に所属し、戦後シベリヤへ抑留され苦労辛酸を経てきたと聞いております。 老生は義理の甥にあたりますが、よく目にかけていただきました。 亡くなってからますます近しく感じます。

‘異国の丘’はそうした一環の流れから、心にひたひたと滲みわたる歌なのです。 個人歌集に載せない手はないと思い調べてみると、二木さんのブログに出ていました。 ページを開くとわかりますが、たくさんのコメントが寄せられています。 叔父さんの苦労がしみじみと感じられ、思い新たなものがあります。

[ 12 酒よ ]  作詞:吉幾三 作曲:吉幾三

  涙には幾つもの 想い出がある
  心にも幾つかの 傷もある
  ひとり酒 手酌酒 演歌を聞きながら
  ホロリ酒 そんな夜も たまにゃ なぁいいさ

  あの頃を振り返りゃ 夢積む船で
  荒波に向かってた 二人して
  男酒 手酌酒 演歌を聞きながら
  なぁ酒よ お前には わかるか なぁ酒よ

  飲みたいよ 浴びるほど 眠りつくまで
  男には明日がある わかるだろう
  詫びながら 手酌酒 演歌を聞きながら
  愛してる これからも わかるよ なぁ酒よ

  詫びながら 手酌酒 演歌を聞きながら
  愛してる これからも わかるよ なぁ酒よ
  わかるよ なぁ酒よ

<http://www.uta-net.com/movie/2055/> を開くと、歌詞も出ておって聴くことができる。

吉 幾三(よし いくぞう、1952年11月11日 - )は歌手、作詞家、作曲家、ラッパー、俳優、タレントである。青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)出身。青森県在住。本名は鎌田 善人(かまた よしひと)。血液型はB型。

[ 13 美しき天然 ]  作詞:武島羽衣 作曲:田中穂積 編曲:志賀静男

 一 空にさえずる鳥の声
   峯より落つる滝の音
   大波小波とうとうと
   響き絶やせぬ海の音

   聞けや人々面白き
   この天然の音楽を
   調べ自在に弾きたもう
   神の御手(おんて)の尊しや

 二 春は桜のあや衣
   秋はもみじの唐錦(からにしき)
   夏は涼しき月の絹
   冬は真白き雪の布

   見よや人々美しき
   この天然の織物を
   手際見事に織りたもう
   神のたくみの尊しや

 三 うす墨ひける四方(よも)の山
   くれない匂う横がすみ
   海辺はるかにうち続く
   青松白砂(せいしょうはくさ)の美しさ

   見よや人々たぐいなき
   この天然のうつし絵を
   筆も及ばずかきたもう
   神の力の尊しや

 四 朝(あした)に起こる雲の殿
   夕べにかかる虹の橋
   晴れたる空を見渡せば
   青天井に似たるかな

   仰げ人々珍らしき
   この天然の建築を
   かく広大に建てたもう
   神の御業(みわざ)の尊しや

美しき天然(うるわしきてんねん)は、田中穂積作曲、武島羽衣作詞の唱歌。1902年(明治35年)完成。ワルツのテンポでと楽譜に表示されている。天然の美(てんねんのび)とも呼ばれる。初出は作曲年の明治35年「唱歌教科書(巻三)」。当時の高等女学校で唄われたが、以後、昭和24年までの学校教科書から姿を消す。

私立佐世保女学校の音楽教師だった田中穂積は、九十九島の美しい風景を教材にしたいと考えていた。そこで、折りよく入手した武島羽衣の詩に作曲し、本曲は誕生した。この武島の詩は、田中の思い描いていた九十九島にぴったりだったという。この曲は、女学校の愛唱歌として地元では長らく親しまれてきたが、広く一般に知れ渡ったのはかなり後のことである。活動写真の伴奏や、サーカスやチンドン屋のジンタとして演奏されたことも、この曲が有名になった大きな要因の一つである。

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[ 14 森の水車 ]  作詞:清水みのる 作曲:米山正夫 唄:荒井恵子

 1 緑の森の 彼方から
   陽気な唄が 聞こえましょう
   あれは水車の 廻る音
   耳を澄まして お聞きなさい

   (*)コトコトコットン コトコトコットン
      ファミレド シドレミファ
      コトコトコットン コトコトコットン
      仕事に励みましょう
      コトコトコットン コトコトコットン
      いつの日か
      楽しい春がやって来る

 2 雨の降る日も 風の夜も
   森の水車は 休みなく
   粉挽(こなひ)き臼(うす)の 拍子取り
   愉快に唄を 続けます
   (* 繰り返し)

 3 もしもあなたが 怠けたり
   遊んでいたく なった時
   森の水車の 歌声を
   独り静かに お聞きなさい
   (* 繰り返し)

   http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_6ae5.html

《蛇足》 昭和17年(1942)9月に映画女優・高峰秀子の歌でポリドール(当時は大東亜レコード)からレコードが発売されましたが、戦時にふさわしくないという理由で、発売から4日後に発禁処分を受けてしまいました。

 昭和16年(1941)の初め頃までは、かろうじて洋楽や洋楽風の歌謡曲が発売できましたが、その後検閲がいっそう厳しくなり、軍歌や戦時歌謡一色になっていきます。
 昭和58年(1983)1月に音楽之友社から発行された『歌をたずねて――愛唱歌のふるさと』のなかで、作曲した米山正夫は次のように語っています。

(発禁になったのは)軍歌しか認められない時代で、『森の水車』のメロディが米英調だという理由です。当時の作曲家たちはいろいろ隠れて工夫して、いわゆる「米英調」の歌を作っていたんです。この歌は実はドイツの作曲家アイレンベルクのメロディを拝借しているんです。内務省の最初の検閲では枢軸同盟を結んでいるドイツの曲ならよい、ということだったんですが――。

 この歌は、戦後荒井恵子の歌唱で復活します。
 荒井恵子は、昭和24年(1949)3月、NHKの「のど自慢全国コンクール優勝大会」で優勝したのを機に、NHKの専属歌手になりました。そして、同年4月から始まったバラエティ番組『陽気な喫茶店』で毎回この歌を歌ったことにより、一躍全国に広まることとなりました。

 さらに、昭和26年(1951)には、荒井恵子の歌でNHKラジオ歌謡として放送されました。
 こうした経緯から、『森の水車』は荒井恵子の歌というイメージが定着していたのに、NHK専属だったために、レコード吹き込みはできませんでした。

 この歌がレコードとして発売されたのは、昭和26年(1951)8月で、発売元は日本コロムビアでした。これは、米山正夫が日本コロムビア専属だったためで、歌ったのは同じく同社専属の並木路子でした。

 荒井恵子は翌年、NHK専属のままキングレコードと契約、セミクラシック系の歌を中心にレコードを出しましたが、あまりヒットしませんでした。

 私の子どもの頃、田舎では何カ所にも水車がありました。その響きは、勤勉さを刺激するよりも、「のんびり行こうよ、マイペースでいいじゃない」といっているように私には聞こえました。

(二木紘三)

[ 15 浜千鳥 ]  作詞:鹿島 鳴秋 作曲:弘田 龍太郎
           <http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_6e1d.html>

   青い月夜の浜辺には
   親を探して鳴く鳥が
   波の国から生まれ出る
   濡れた翼の銀の色

   夜鳴く鳥の悲しさは
   親をたずねて海こえて
   月夜の国へ消えてゆく
   銀のつばさの浜千鳥

ゆうべ、NHKテレビ放送で「浜千鳥」を聴きました。

番組内容詳細全国で27万人、夢の新天地開拓のため満州に渡った満蒙開拓団。長野県は全国最多の3万人あまりを送り込んだ。戦後、満州から帰国した人たちは「中国帰国者」と呼ばれ、いまだ地域社会の中に溶け込めず、厳しい暮らしを続けている人も多い。今回、番組では帰国者の暮らしを手助けする飯田市内のNPO施設にカメラを据え、満蒙開拓団のいまを取材。時代の大きな流れに翻弄され続けた人々の戦後70年の記録を伝える。

日本語を忘れ今もしゃべることのできない老婦人、敗戦後何時死ぬかわからない母、子どもと一緒に食べていけない母が中国人に養育を頼んで最後に歌ってくれた歌「浜千鳥」、老婦人は唯一つ「浜千鳥」を歌って私はこれが日本人の証だと語った。 彼女はいま浜千鳥を歌って遺した母の心をしっかり胸にしまっていました。 (感想: 下平 | 放映: 2015年11月20日 19:30~19:55)

『浜千鳥』歌詞が生まれたとされる番神海岸「みなとまち海浜公園」(新潟県柏崎市)
鹿島 鳴秋(かしま・めいしゅう/1891-1954)は、童話作家・雑誌編集者・詩人。
弘田 龍太郎(ひろた・りゅうたろう/1892-1952)は、高知県安芸市生まれの作曲家。

《蛇足》 大正8年(1919)発表。
歌詞もメロディも寂しくなる歌です。ごく小さかったとき、「親を探して鳴く鳥が……」というところが悲しくて泣いた記憶があります。 (二木紘三 2007年8月21日火)

二木紘三さんへの《コメント》

早速、取り上げていただきありがとうございます。田端義夫がNHKテレビ、ビッグショーで泣きながら歌った感動の名曲です。
投稿: 野田泰弘 | 2007年8月29日 (水) 20時55分

作詞の鹿島鳴秋先生が幼いお嬢さんを亡くされたとき,その悲しみを詞にたくしたのがこの歌だそうです。師匠の海沼實氏と親交のあった関係で,1954(昭和29)年の鹿島鳴秋氏の葬儀に参列していた川田正子が,歌いながら泣けてきて,胸がいっぱいになり声が出なくなったそうです(川田正子著「童謡は心のふるさと」より)。さもありなんと思われる悲しい曲で,私もカラオケの生のピアノ伴奏で歌った記憶があります。
投稿: nobuchan | 2010年1月 1日 (金) 00時14分

東日本大震災から一ヶ月が経ちました。
親を亡くしたか親の行方が分からない震災孤児が何名になるか、何百名になるか未だに不明だという。「波になってママを探しに行く・・・」という記事が浜千鳥の歌にも重って例えようもなく悲しい。 いっぱい泣いて、大津波を押し返すほど涙を流して、 少しずつ元気を取り戻して欲しい。
投稿: かんこどり | 2011年4月11日 (月) 17時35分

『浜千鳥』の歌碑は各地にあろようですが、なち様が指摘された2か所の歌碑について、コメントを付け加えます。歌詞の舞台は、わたしの郷里である柏崎の番神海岸です。歌碑はそれを記念して、昭和35年に建てられました。現在は「みなとまち海浜公園」にあります。
 この歌は、作詞家の鹿島鳴秋が大正8(1919)年6月頃、柏崎の友人を訪ねて来た折、この友人ともども海岸を散歩していたときに出来たそうです。このことは、友人が明言していますから、この事実は間違いないでしょう。鳴秋の略歴はよく分からないところもあるのですが、愛娘の昌子が亡くなったのは昭和6(1931)年ということは判明していますから、「愛娘を偲んで作られた歌詞」でないことは確実です。しかし、南房総市(旧和田町)に作られた歌碑(昭和41年建立)の経緯について述べられた中に、「愛娘を偲んで云々」のことばがあるそうです。ここの海岸に歌碑があるのは、愛娘昌子が結核にかかり19歳で亡くなるまで、ここで療養にあたっていたからです。
 事実が混同しているのはどうしてでしょうか。単純に言えば、鳴秋の思い違いでしょうが、若くして亡くなった愛娘への哀切の想いが、時間の経過とは関係なく詞に託されていると、かれ自身思ったのかも知れません。
投稿: ひろし | 2014年6月 3日 (火) 17時14分

[ 16 あさが来た ]  連続テレビ小説 主題歌

  朝の空を見上げて 今日という一日が
  笑顔でいられるように そっとお願いした
  時には雨も降って 涙も溢れるけど
  思い通りにならない日は 明日 頑張ろう

  ずっと見てる夢は 私がもう一人いて
  やりたいこと 好きなように 自由にできる夢

  人生は紙飛行機 願い乗せて飛んで行くよ
  風の中を力の限り ただ進むだけ
  その距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのか
  それが一番 大切なんだ さあ 心のままに 365日

  星はいくつか見えるか 何も見えない夜か
  元気が出ない そんな時は 誰かと話そう
  人は思うよりも 一人ぼっちじゃないんだ
  すぐそばのやさしさに 気づかずにいるだけ
  人生は紙飛行機 愛を乗せて飛んでいるよ

  自信もって広げる羽根を みんなが見上げる
  折り方を知らなくても いつのまにか飛ばせるようになる
  それが希望 推進力だ ああ 楽しくやろう 365日

  人生は紙飛行機 願い乗せて飛んで行くよ
  風の中を力の限り ただ進むだけ
  その距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのか
  それが一番 大切なんだ さあ 心のままに 365日

  飛んで行け! 飛んでみよう!
  飛んで行け! 飛んでみよう!
  飛んで行け! 飛んでみよう!

「あさが来た」は明治時代の女性実業家・広岡浅子をモデルに、幕末から明治にかけてパワフルに生き抜いた女性の生涯を描くドラマ。NHK連続テレビ小説史上初めて、幕末から物語がスタートする作品となっている。主人公のあさを波瑠、あさの夫・新次郎を玉木宏、あさの姉・はつを宮崎あおいが演じる。
女子教育にも心血を注いだ彼女は、近代日本における女性実業家の先駆けでありました。

[ 17 太平洋 ]  作詞:武内俊子 作曲:信時 潔  昭和10年(1935年)新訂高等小学唱歌 第一学年用

 1 波涛(はとう)千里 洋々と
   東にうねり西に寄せ
   日出ずる国の 暁に 雄々しく歌う海の歌
     黒潮越えて いざ行かん
     われらの海よ 太平洋

 2 怒涛(どとう)万里(ばんり) 渺々(びょうびょう)と
   南に走り 北に去り
   日出ずる国の 島かげに ほがらに歌う海の歌
     波乗り越えて いざ行かん
    われらの海よ 太平洋

[ 18 追憶 ]  スペイン民謡、英語詞:Mary S. B. Dana、日本語詞:古関吉雄

1 星影やさしく またたくみ空
  仰ぎてさまよい 木陰を行けば
  葉うらのそよぎは 思い出さそいて
  澄みゆく心に しのばるる昔
  ああ なつかしその日

2 さざ波かそけく ささやく岸辺
  すず風うれしく さまよい行けば
  砕くる月影 思い出さそいて
  澄みゆく心に しのばるる昔
  ああ なつかしその日

     かそ‐け・し【▽幽し】
     [形ク]光・色や音などがかすかで、今にも消えそうなさま。
     「わがやどのいささ群竹 (むらたけ) 吹く風の音の―・きこの夕 (ゆふへ) かも」〈万・四二九一〉

Flee as a Bird to Your Mountain

1. Flee as a bird to your mountain,
Thou who art weary of sin;
Go to the clear flowing fountain,
Where you may wash and be clean.
Fly for th'Avenger is near thee,
Call, and the Savior will hear thee;
He on His bosom will bear thee,
Thou who art weary of sin,
O thou who art weary of sin.

2. He will protect thee forever,
Wipe ev'ry falling tear;
He will forsake thee, O never,
Sheltered so tenderly there.
Haste then the hours are flying,
Spend not the moments in sighing,
Cease from your sorrow and crying,
The Savior will wipe ev'ry tear,
The Savior will wipe ev'ry tear.

  http://duarbo.air-nifty.com/songs/2012/06/post-435e.html (二木紘三)

《蛇足》 昭和14年(1939)に古関吉雄が“Flee as a Bird to Your Mountain”という曲に『追憶』というタイトルで日本語詞をつけました。以来、中学や高校の音楽教科書にたびたび掲載されたこともあって、多くの人に親しまれてきました。中年以上であれば、ほとんどの人が知っているスペイン民謡です。

 古関吉雄は国文学者で、長らく明治大学の教授を務めていました。平成7年(1995)没。イギリス民謡『思い出(=久しき昔)』の日本語詞のほか、小・中・高校の校歌を数多く作詞しました。作曲家・古関裕而は従兄弟。

 横道にそれますが、古関吉雄とエスペラントの関係について少々お話ししたいと思います。
 古関吉雄は福島県出身で、東大の学生時代、帰省の車中でザメンホフの伝記を読み、言語の違いから起こる民族同士の争いを避けるには、やさしくてしかも正確にコミュニケーションできる共通言語が必要だ、という思想に感激し、独学でエスペラントを学び始めました。読み書きはすぐにできるようになりましたが、エスペラント普及運動のたぐいには関心がなく、会話をする機会はほとんどなかったそうです。

 そのかわり、講義中にザメンホフの思想やエスペラントについて学生たちにたびたび語ったようです。畏友・松本照男君もそれを聞いた1人で、古関教授から1対1でエスペラントを教わり始めます。彼は行動的な人物で、学び始めてから2か月後に古関教授を顧問として明治大学エスペラントサークルを立ち上げます。

 昭和30年代後半は、昭和40年(1965)にアジアでは初めて東京で世界エスペラント大会が開かれることが決まっていたため、エスペラント学習熱がかつてなく高まった時期でした。多くのエスペランチストの協力が必要だったため、松本君は古関教授をさまざまな会合に引っ張り出します。そんなこともあって、古関教授はその後、他のエスペランチストたちと交流するようになり、日本エスペラント学会の顧問にも就任しました。

 私は大学卒業後エスペラントをやめてしまいましたが、それでも外国からエスペランチストが来た際などには、昔の仲間から声がかかり、古関教授と酒席をともにすることが何度かありました。温和でエラぶったところのまったくない人でした。

 なお松本君は、大学卒業後ポーランドに渡り、当時世界青年エスペランチスト連盟の書記をしていた佳麗かつ怜悧なる女性(現在ワルシャワ医科大学教授、近く退職の予定)と結婚しました。

 話を『追憶』に戻しましょう。
 『追憶』はスペイン民謡ということになっていますが、日本には明治時代に、アメリカの詩人 Mary S. B. Dana作詞による“Flee as a Bird to Your Mountain”として入ってきました。スペインの曲を直接移入したものではありません。

 Mary S. B. Danaはサウスカロライナ州出身で、本名はMary Stanley Bunce Dana-Shindler(1810~1883)という長い名前。Danaは最初の夫の姓で、この夫と死別した後に再婚したのがShindlerです。

 長老派(プレスビテリアン)教会の牧師の娘として生まれたせいか、非常に信心深く、若い頃から宗教的な詩を数多く書いていました。それらは、1840年に“The Southern Harp”(ボストンのParker and Ditson社)、翌1941年に“The Northern Harp”(ニューヨークのDayton and Saxton社とボストンのSaxton & Peirce社)と題する曲集として出版されました。
 いずれも“Original Sacred and Moral Songs,Adapted to the Most Popular Melodies”という副題がついています。

 この詞は、“The Northern Harp”に収録されたうちの1曲です。ほかの曲は作曲者名が明示されていますが、この曲はSpanish Melodyと書かれているだけです。ほかに資料がないため、スペイン語の原曲および原詞を探す手がかりがありません。スペイン中部・セゴビア地方の古謡という人がいますが、確証がありません。

 Mary S. B. Danaがピアノをよくしたことから、彼女が作曲したか、あるいはスペイン民謡と伝え聞いた曲を編曲したものではないかという説もあります。

Harp “Flee as a Bird to Your Mountain”は讃美歌集に入れられて今も歌われています。
 アメリカにはヒスパニックが多いことから、スペイン語に翻訳され(“Huye Cual Ave A Tu Monte”)、各地のスペイン語系キリスト教徒たちに歌われているようですが、原曲・原詞は見つからず、スペイン民謡であると実証できません。
 スペイン民謡研究家がデータをネットに上げてくれればいいのですが、しかるべきデータが存在しないと考えたほうがいいかもしれません。

(図は“The Northern Harp”のおもて表紙と“Flee as a Bird to Your Mountain”の楽譜〈Google Booksより〉)。Flee_2

 なお、彼女はのちに信仰上の疑問から帰一派(ユニテリアン)へ、さらに監督派(エピスコパリアン)へと移っています。いずれもプロテスタントの宗派です。

 日本にこの曲を紹介したのが誰かもわかっていません。明治12年(1879)に日本の音楽教育の近代化(欧米化)を目的として音楽取調掛が設けられました。その開設を提唱した伊沢修二は、高嶺秀夫、神津仙三郎らと師範学校教育の調査研究のためアメリカに留学しました。
 この歌は、彼らが持ち帰ったものと思われますが、明治13年(1880)にアメリカから招聘され、西洋音楽の日本への移入を指導したルーサー・W・メーソンがもたらした可能性もあります。

 この曲に初めて日本語詞をつけたのは、『青葉の笛』や『鉄道唱歌』などの作詞者と知られる大和田建樹です。彼は『故郷の空』『久しき昔』『旅泊(灯台守)』などの外国曲にも日本語詞をつけています。
 彼がこの曲につけた日本語詞は『月みれば』というタイトルで、歌詞は下記です。明治23年(1890)8月13日発行の『明治唱歌ー第五集』に収録されました。

1 霞にしづめる 月かげみれば
  うきよをはなれて 心は空に
  海原しづかに 波もなき夜を
  松原ねむりて 風もなき夜半を
  ああ めでてやそらに

2 布ひく雲間に かかれるみれば
  この世のにごりも 忘れて空に
  萩ちる野末に しかのなく夜を
  花咲く芦辺に かりのくる夜半を
  ああ めでてやそらに

 大正8年(1919)には『故小妹(こしょうまい)』という日本語詞が発表されています。作詞したのは、日本における帰一派(ユニテリアン)のサークルである惟一倶楽部。歌詞は下記のとおりで、昭和6年(1931)には喜波貞子、同8年(1933)には藤山一郎の歌でレコード化されています。いずれもビクターから。

1 更けゆく鐘の音 思いうつせみの
  果なき面影 結びもあえず
  忽(たちま)ち夢さめて とめし我が手に残しし
  ゆかりの色濃き 若紫の
  ああ ゆかりの小袖

2 思い出づれば 十年(ととせ)の昔
  はるけき旅路に 我等残しし
  幼き姉妹(はらから)の 夢の面影なれや
  更けゆく鐘の音 昔を語る
  ああ ゆかりの小袖

 明治から愛唱されてきた謎の多い曲です。

(二木紘三)

[ 19 戦友 ]  作詞:真下飛泉 作曲:三善和気

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%8F%8B_(%E8%BB%8D%E6%AD%8C)

 01 此處は御國を何百里 離れて遠き滿洲の
   赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下

 02 思へば悲し昨日まで 眞つ先驅けて突進し
   敵を散々懲らしたる 勇士は此處に眠れるか

 03 嗚呼戰の最中に 鄰に居りし我が友(が)
   俄にはたと倒れしを 我は思はず驅け寄って

 04 軍律嚴しき中なれど 是が見捨てゝ置かれうか
   「確(シッカ)りせよ」と抱き起し 假繃帶も彈丸の中

 05 折から起る吶喊(トッカン)に 友は漸(ヨウヨ)う顏上げて
   「御國(オクニ)の爲だ構はずに 後れて呉れな」と目に涙

 06 後に心は殘れども 殘しちやならぬ此の體
   「それぢや行(ユ)くよ」と別れたが 永の別れとなつたのか

 07 戰濟んで日が暮れて 探しに戻る心では
   どうか生きて居て呉れよ 物等言へと願ふたに

 08 空しく冷えて魂は 故鄕(クニ)へ歸つたポケットに
   時計許りがコチコチと 動いて居る(の)も情無や

 09 思へば去年船出して 御國(オクニ)が見え(なく)爲つた時
   玄界灘で手を握り 名を名乘つたが始めにて

 10 それより後(ノチ)は一本の 煙草も二人で分けて喫み
   着いた手紙も見せ合ふて 身の上話繰り返し

 11 肩を抱いては口癖に どうせ命はないものよ
   死んだら骨を頼むぞと 言い交はしたる二人仲

 12 思ひもよらず我一人 不思議に命永らへて
   赤い夕陽の滿洲に 友の塚穴掘らうとは

 13 隈無く晴れた月今宵 心染み染み筆執って
   友の最期を細々(コマゴマ)と 親御(オヤゴ)へ送る此の手紙

 14 筆の運びは拙(ツタナ)いが 行燈(アンド)の陰で親達の
   讀まるゝ心思ひ遣り 思はず落とす一雫

     <青文字は勝手ながら下平流>

「戦友」(1905年)...唱歌:軍歌、作詞:真下飛泉作詞、作曲:三善和気...­この歌は全14番の詞から成り立っており、日露戦争時の戦闘の詩がつづられている。戦­友を失う兵士の哀愁を切々と歌い込む歌詞と、同じく哀切極まりない曲調が人々の共感を­呼び、たちまち全国に広まって永く歌い継がれました。

[ 20 ああわが戦友 ]  昭和12年  作詞:林 柳波 作曲:細川潤一

 1 満目百里 雪白く
   広袤(こうぼう)山河 風あれて
   枯木に宿る 鳥もなく
   ただ上弦の 月蒼し

 2 光にぬれて 白じらと
   打伏す屍(かばね) わが戦友よ
   握れる銃(つつ)に 君は尚
   国を護るの 心かよ

 3 死なば共にと 日頃から
   思いしことも 夢なれや
   君は護国の 鬼となり
   われは銃火に まだ死なず

 4 ああわが戦友よ 二人して
   約せしことは 知りながら
   君が最期を 故郷へ
   何と知らせて よいものぞ

  5 君の血潮は 満州の
    赤い夕陽に 色添えて
    大和心の 花桜
    ぱっと散ったと 書こうかしら

  6 弾に当った あの時に
    天皇陛下 万才と
    三度(みたび)叫んだ あの声を
    そのまま書いて 送ろうか

  7 涙で書いた この手紙
    涙でよんで 笑うだろう
    君の母君 妹御(いもうと)も
    やっぱり大和の 女郎花

   広袤 = 「広」は東西の、「袤」は南北の長さの意
   上弦 = 新月から満月に至る間の半月 (はんげつ) 。太陽の90度東にあり、
            月の西半分が輝く。日没時に南中し、真夜中に弦を上にして沈む。

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