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お気に入りの歌⑤
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 01 人生の並木路
 02 Imagine all the people
     Living life in peace
 03 ラジオ体操の歌
 04 ああ紅の血は燃ゆる
 05 鎌倉
 06 見上げてごらん夜の星を
 07 上を向いて歩こう
 08 6さいのばらーど
 09 洒落男
 10 若者よ! 恋をしろ
 11 時の流れに身をまかせ
 12 赤とんぼ
 13 疲れがなくなる音楽
 14 ドレミの歌
 15 算数チャチャチャ
 16 花は咲く
 17 朧月夜
 18 星影のワルツ
 19 昭和維新の歌
 20 君死に給うことなかれ
 
 21 あめんぼの歌
 22 日本海海戦
 23 海の進軍
 24 おいとこ節
 25 若菜集「草枕」
 26 母の歌(文部省)
 27 やさしいおかあさま
 28 冬の星座
 29 婦人従軍歌
 30 砂山


[ 1 人生の並木路  ]  作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:ディック・ミネ

 1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
   泣けば 幼い二人して
   故郷を捨てた甲斐がない

 2 遠い淋しい日暮れの路で
   泣いて叱った兄さんの
   涙の声を忘れたか

 3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
   やがて輝くあけぼのに
   我が世の春は きっと来る

 4 生きて行こうよ 希望に燃えて
   愛の口笛高らかに
   この人生の並木路

《蛇足》 昭和12年(1937)公開の日活映画『検事とその妹』(渡辺邦男監督)の主題歌。
映画は岡譲二・原節子主演で、両親を亡くしたあと、助け合いながら生きてきた兄妹の物語。

この歌は少年期の老生の心に深くしみこんだ歌の一つです。ことに優しかった姉兄に世話
になっていたことは少年期だけの思い出だけではなく、兄弟としての深い絆として想いださ
れるのです。ことに一度も叱りつけられたことのなかったことは、逆に「泣いて叱った兄さんの
涙の声を忘れたか」の歌詞を聴くと、切ないほどの情愛が胸にこみ上げてくるのです。

[ 2 Imagine all the people Living life in peace ]  作詞・作曲   John lennon ジョン・レノン
                                        〔 録音=1971年  ジャンル=ロック  時間=3分01秒 〕
  Imagine all the people Living life in peace
   
Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one     .
想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界は1つになるんだ

想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね    .
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっと1つになるんだ

 <イマジン (楽曲) - Wikipedia>

イマジン(Imagine)は1971年に発表されたジョン・レノンの代表曲。アルバム『イマジン』のタイトルナンバーである。

解説

死の直前のインタビューで「宗教もない」は「完全に自由な信仰」だとジョン・レノンは語っている[文献]。

アメリカのキリスト教徒には"(Nothing to kill or die for) and no religion, too"の一節が嫌悪され、カバーされる場合において、節そのものが削除されたり、極端な場合では"no"が"one"に変えらたりすることがあるという[1]。

インタビューによれば、楽曲に権利を持つオノ・ヨーコは歌詞の改変を認めていない。

ジミー・カーター米国元大統領は「世界中の多くの国で、私の妻および私は約125ヶの国を訪問した際に、ジョンのこの歌が「国歌とほとんど同様に使用されて」いるのを聴いた」 と語った[2]。

1990年10月9日にはジョンレノン生誕50年を記念してニューヨークの国際連合本部より、全世界170カ国に向けて発信された。また1984年のロサンゼルスオリンピック、2006年のトリノオリンピックの開会式で、この曲が流れ、世界中に平和を訴えた。

1999年に BMIは "Imagine" を top 100 most performed songs of the 20th centuryとした。2002年にはギネスブックを発行しているギネス・ワールド・レコーズ社が31000人以上から取った「英国史上最高のシングル曲は?」というアンケートの結果、「ボヘミアン・ラプソディ」に次ぐ第2位を獲得した。

2004年に『ローリング・ストーン(Rolling Stone)』誌が選んだ「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500(The RS 500 Greatest Songs of All Time)」では3位にランクされた。

2005年1月に the Canadian Broadcasting Corporation はリスナーによる投票で "Imagine" を過去100年のうちで最も偉大な歌とした。Virgin Radio は 2005年の12月に 英国のfavorite songとして「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」より上のトップにこの歌をランキングした。

録音メンバーはジョン(ヴォーカル、ピアノ)の他にクラウス・フォアマン(ベース)、アラン・ホワイト(ドラム)が参加している。

歌詞

「想像しなさい」と呼びかける形で始まる歌詞[3]についてジョンは、オノ・ヨーコの詩集「グレープフルーツ」から拝借したと語っている。ヨーコの詩集「グレープフルーツ」の中にある詩「ツナフィッシュ・ピース・サンドウィッチ」には「想像しなさい、千の太陽が一辺に昇る所を…」というくだりがありジョンはそのフレーズがいたく気に入って曲のタイトルなどに使用したという訳である。ヨーコが第二次世界大戦時を東京で過ごしたことがその平和希求の歌詞に反映したのかもしれない。 本曲の作詞者にヨーコの名は加えられていないが、後にジョンは「あの当時は自分勝手で男性的だった」とヨーコを署名に加えなかったことを恥じていたという。ちなみに元となったヨーコの詩集「グレープフルーツ」は曲が発表された年にイギリスで発行されている。

カヴァー
日本国内では桑田佳祐や桜井和寿。海外ではクイーンやボンジョビ、マドンナ、アヴリル・ラヴィーン、さらにはあくまでテレビの演出の一環としてだが、クリントン大統領など、イエスタデイ、サムシングと並び膨大な量のカバーが存在する(以上のカバーはyoutubeで試聴ができる)。

シングル盤
1971年、「イッツ・ソー・ハード」とのカップリングでアメリカや日本などでシングル・カットされた。アメリカでは最高第3位、日本のオリコンでは最高14位であった。イギリスでは、アルバム『ジョンの魂』収録曲「労働階級の英雄」とのカップリングで4年後の1975年になってシングルとして発売され、最高第6位、ジョンの死後の1981年にチャートに再登場して全英1位となった。映画のサウンドトラック・アルバムに収録されシングル・カットと何度もリエントリーされそのたびに世界各地のヒット・チャートをにぎわした。


[ 3 ラジオ体操の歌  ]  作詞:藤浦洸、作曲:藤山一郎(昭和31年)、唄:藤山一郎・ひばり児童合唱団

 1 新しい朝が来た 希望の朝だ
   喜びに胸を開け 大空あおげ
   ラジオの声に 健やかな胸を
   この香る風に 開けよ
   それ 一 二 三

 2 新しい空のもと 輝く緑
   さわやかに手足伸ばせ 土踏みしめよ
   ラジオとともに 健やかな手足
   この広い土に 伸ばせよ
   それ 一 二 三

[ 4 ああ紅の血は燃ゆる  ]  作詞:野村俊夫、作曲:明本京静、編曲:藤家虹二

 1 花もつぼみの若桜 五尺の命ひっさげて 
   国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ 
   ああ紅の血は燃ゆる

 2 後に続けと兄の声 今こそ筆をなげうちて 
   勝利揺るがぬ生産に 勇み立ちたるつわものぞ
   ああ紅の血は燃ゆる

 3 君は鍬とれ我は鎚 戦う道に二つなし
   国の使命をとぐるこそ 我等学徒の本分ぞ
   ああ紅の血は燃ゆる

 4 何をすさぶか小夜嵐 神州男児ここにあり
   決意ひとたび火となりて 護る国土は鉄壁ぞ
   ああ紅の血は燃ゆる

1944年(昭和19年)3月、勤労学徒動員令が発令され、従来4ヶ月の勤労動員であったものを1年間を通じて行われるようになり、そのためにこの歌を制定した。女子の女子挺身勤労令には、「輝く黒髪」という歌を制定している。

戦争を指導した人の事や戦争の経過や大きな戦斗についてはかなり正確な記録が残される。 ずいぶん昔の事でも。  しかしその戦争のあいだ 黙って苦しみ 学業を捨て 親や兄弟と別れ 青春をうしない そして飢えながら 工場で、戦場で生きて釆た我々の事はあまり残されていない。 その数すくない記録である。

[ 5 鎌倉  ]   文部省唱歌、作詞:芳賀矢一、作曲:不詳

 1 七里ヶ浜の磯づたい
   稲村ヶ崎名将の
   剣投ぜし古戦場

 2 極楽寺坂越え行けば
   長谷観音の堂近く
   露坐の大仏おわします

 3 由比の浜辺を右に見て
   雪の下道過ぎ行けば
   八幡宮の御社

 4 上るや石のきざはしの
   左に高き大銀杏
   問わばや遠き世々の跡

 5 若宮堂の舞の袖
   しずのおだまきくりかえし
   返せし人をしのびつつ

 6 鎌倉宮にもうでては
   尽きせぬ親王のみうらみに
   悲憤の涙わきぬべし

 7 歴史は長き七百年
   興亡すべて夢に似て
   英雄墓は苔むしぬ

 8 建長円覚古寺の
   山門高き松風に
   昔の音やこもるらん

《蛇足》 明治43年(1910)の 『尋常小学読本唱歌』に掲載されました。鎌倉の歴史観光ガイドのような歌です。

 最初のワンコーラス分は前奏なので、歌うときには2コーラス目から入ってください。

1番=元弘3年(北朝は正慶2年、1333)5月21日、新田義貞は稲村ヶ崎を回って鎌倉に攻め込もうとしたが、水が深く、渡ることができなかった。
 『太平記』によれば、このとき義貞が黄金造りの太刀を海に投じて竜神に祈ったところ、水が引き、干潟となったので、6万余の新田軍は鎌倉に突入することができた、とある。

4番=承久(じょうきゅう)元年(1219)1月27日夜、鶴岡八幡宮での右大臣就任拝賀の儀を終えて石段を下ってきた3代将軍実朝は、大銀杏の陰から飛び出した甥で前将軍頼家の遺児・公暁(くぎょう)によって暗殺された。
 公暁は、乳母の夫で、有力御家人の三浦義村に「親の仇を討て」とそそのかされていたといわれるが、暗殺後、その義村の配下によって殺された。

5番=源義経の愛妾・静御前を歌ったもの。文治元年(1185)、義経が兄頼朝と不仲になって京都から脱出したとき、静もこれに同行。しかし、翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ、鎌倉に送られた。
 都第一と歌われた白拍子(しらびょうし)=踊り子の舞を見たいという頼朝・政子夫妻の求めにより、鎌倉鶴岡八幡宮社前で踊ったが、そのとき歌ったのが、義経を恋い慕う次の2首。

  吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき
   しづやしづ賤(しず)のをだまきくり返し昔を今になすよしもがな

 頼朝はこれを怒り、「殺してしまえ」と命じるが、政子がそれを諌め、髪を下ろすことで許された。同年7月静は義経の子を出産するが、男児であったため、即日由比ヶ浜に沈められてしまった。
 そののち静は許され、京に帰された。以後の消息は不明だが、故郷の磯村で小さな庵を結び、義経と殺された子の菩提を弔い続けたと伝えられる。

6番=ここで歌われている親王は大塔宮護良親王。後醍醐天皇の皇子で、一時征夷大将軍に任ぜられたが、足利尊氏の讒言(ざんげん)によって(『太平記』による)失脚。建武元年(1334)、尊氏によって土牢に幽閉され、9か月後の建武2年、尊氏の弟 ・直義(ただよし)の部下・淵辺義博(ふちのべ・よしひろ)によって殺された。
 この土牢の場所に、明治2年(1869)、明治天皇によって創建されたのが鎌倉宮。
 なお、大塔宮護良親王は、昔は「だいとうのみや・もりながしんのう」と読むのが一般的だったが、現在は「おおとうのみや・もりよししんのう」と読むのが一般的になっている。

8番=建長寺は鎌倉五山の第一位で、けんちん汁発祥の地として知られる。円覚寺は同二位。

(二木紘三)

[ 6 見上げてごらん夜の星を  ]   作詞:永 六輔 作曲:いずみたく

  ※見上げてごらん 夜の星を
   小さな星の 小さな光が
   ささやかな幸せを 歌ってる

   見上げてごらん 夜の星を
   僕らのように 名もない星が
   ささやかな幸せを 祈ってる

     見上げてごらん 夜の星を 
     小さな星の 小さな光が
     ささやかな幸せを 歌ってる

     見上げてごらん 夜の星を
     僕らのように 名もない星が
     ささやかな幸せを 祈ってる※

  ※~※ くり返し

  手をつなごう 僕と
  追いかけよう 夢を
  二人なら 苦しくなんかないさ

【坂本九(ウィキペディア)】

『見上げてごらん夜の星を』は1960年に永六輔といずみたくが制作・公演した同名ミュージカルの劇中主題歌であり別のコーラスグループが歌っていた。1963年5月1日、坂本九が東芝音楽工業(現:EMIミュージック・ジャパン)からシングルレコードとしてリリースすると、大ヒットした。坂本はミュージカルの再演と映画でも夜学生を主演し、地方から東京へ集団就職し定時制高校に通っていた生徒たちは、この名曲に励まされたという。いずみによると同曲はレコードで聴くというよりは自分でなんとなく口ずさんでしまいたくなる曲であり、ヒットのわりにはレコードはあまり売れなかったという。同年末、坂本はこの楽曲で第14回NHK紅白歌合戦に3回目の出場を果たし、終始目をつむって熱唱し、いずみたくは日本レコード大賞作曲賞を受賞した。坂本は、1969年の第20回NHK紅白歌合戦でも歌唱した。

航空機事故死

1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を本格化させようとしていた矢先の8月12日、日本航空123便墜落事故に遭遇、43歳で死亡した。
(母の妹<松尾沢>の長男も日本航空123便に同乗していた)

事故当日はNHK-FMでの仕事を終えた後に、大阪府にある友人の選挙応援として事務所開きに駆けつける途中であった。九は本来、国内移動には日本航空ではなく必ず全日空を使っており、所属プロダクションや由紀子夫人も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった。そのため、家族も乗客名簿が発表されるまで日本航空機に乗っているはずがないと信じていた。

しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」と「コミヤ・カツヒロ」(小宮勝広、九のマネージャー)の名が出て、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。この事故で運命を共にした小宮は早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、お盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。九、そして小宮の両名は、政治家や著名人が利用することの多いボーイング747-100の2階席、右列の前方から4番目に搭乗していた。事故の数日前、「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話が入っているが、当時電話をうけとった夫人は忙しく、また勘違いをしていたこともあり、事故がおこるまでとくに気に留めていなかった(由紀子夫人の後日談)。九は、ハンティング・ワールドのボストンバッグを機内に持ち込んでおり、墜落現場で発見・回収された。その中に録音可能なテープレコーダーが入っていたため、家族は遺言が残っていないかと期待したが、何も録音されていなかった(由紀子夫人の後日談より)。

事故翌日の8月13日には、事前収録の九本人が出演する、フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』200回記念が放送された。この時点では安否分からずの状態であったため、敢えて放送された。墜落から99時間後の16日、家族らによって遺体が確認された(遺骸が発見されたのは14日頃)。

1985年8月17日放送のTBS『キッチンパトロール』では、遺体が確認された翌日であったため、番組冒頭に九の死去を伝え哀悼の意を示すテロップ、収録日を示すテロップが番組の前半と後半に表示されつつ、元気な姿が放送された。

事故当日に当時のNHK505スタジオで収録され、九の最後の仕事となったNHK-FM放送での公開録音は、同年9月に『秋一番 坂本九』として放送された。番組冒頭で九の死去を伝えるアナウンスが流れた。なお、この番組のゲストは欧陽菲菲、生ピアノ伴奏は羽田健太郎。この番組で九は「すてきなタイミング」・「上を向いて歩こう(欧陽菲菲とデュエット)」・「For The Good Times(九が尊敬していたペリー・コモのヒット曲)」・「We are the world」・「親父」・「見上げてごらん夜の星を」・「心の瞳」・「懐しきlove-song」を披露した(オンエアされなかったが、アンコールでは「明日があるさ」を披露)。また、同年6月に「古賀政男記念音楽大賞」で入賞したことに触れ、「とても嬉しかった。これからも皆さんと一緒に、いつまでも歌い続けていきたい」と、将来への抱負を語っていた。

葬儀は親族やごく一部の関係者のみの密葬と言う形で東京都目黒区の自宅で行われた。しかし、札幌テレビ放送で福祉番組『ふれあい広場・サンデー九』を担当していたこともあり、九の遺族と一緒に亡くなった小宮の遺族を札幌市内のSTVホールに招き、障害者とその家族だけを対象にした「偲ぶ会」という一般葬儀も執り行われた。

戒名「天真院九心玄聲居士(てんしんいんきゅうしんげんせいこじ)」。墓所は東京都港区西麻布二丁目の長谷寺。墓には「見上げてごらん夜の星を」の歌詞の一部が刻まれている。

また、親交があった石倉三郎夫妻の媒酌人を由紀子夫人と務めることになっていたが、結婚式直前に九が亡くなったため実現しなかった。

【夏川 りみ(ウィキペディア)】

夏川 りみ(なつかわ りみ、1973年10月9日 - )は、日本の歌手である。本名、玉木 りみ(たまき りみ)旧姓、兼久(かねく)。 沖縄県石垣市出身。JVCエンタテインメント株式会社所属。旧芸名は星 美里(ほし みさと)。

音楽

夏川の歌声には人を癒す力があると讃えられる。夏川の伴奏を数多く務めた吉川忠英は彼女の歌声を「まさに南国の夜にキラメく大きな星の様に、強く、やさしく、あたたかく、僕の心をくすぐってゆく」と評している。古謝美佐子のカバー曲「童神」はいまや夏川のレパートリーとして定着し、「胎教にいい」との評判も呼んでいる。

「涙そうそう」を歌うようになったのは沖縄サミットの関連イベントで同郷のBEGINがこの曲を演奏しているのを偶然テレビで見たことに端を発する。この曲に魅了された夏川は自分で歌いたいと思い、BEGINのライブに行った際に楽屋を訪ね、歌わせて欲しいと申し出た。「あらためて別の曲を作ってあげる」と「あなたの風」を提供されたが、「涙そうそう」を諦め切れなかった彼女はさらに懇願を続け、カバーへの同意を取りつけた。夏川はこの曲に出会って全てが変わったと語る。「やっと、自分らしさが分かって自信が出てきた」という。

「涙そうそう」のヒットを最も喜んだのは幼い頃から歌の手ほどきをしてくれた父だった。夏川自身は幼い頃は中森明菜などのポップスを歌いたかったが、父に歌わされたのはいつも演歌だった。嫌々歌っていたこともあった夏川だが、今は「演歌で歌の基礎をしっかり教えてくれたからこそ、今どんな歌でも歌える」と感謝していると語る。

自ら三線、琉笛、三板を演奏しながら歌うことも多く、手話のような振りを採り入れることもある。三線は「涙そうそう」から弾き始めた。「さようなら ありがとう」での“笑ってね”という歌詞に合わせた“笑う”という手話、など。2006年の『第57回NHK紅白歌合戦』で「花?すべての人の心に花を?」を歌唱した際にも歌詞にあわせて手話を行なった。「童神」では赤ん坊を抱く仕草をすることが多い。

[ 7 上を向いて歩こう  ]   作詞:永 六輔 作曲:中村八大

  上を向いて歩こう   涙がこぼれないように   思い出す春の日一人ぼっちの夜

  上を向いて歩こう   にじんだ星をかぞえて   思い出す夏の日一人ぼっちの夜

  幸せは雲の上に   幸せは空の上に

  上を向いて歩こう   涙がこぼれないように   泣きながら歩く一人ぼっちの夜

  思い出す秋の日一人ぼっちの夜

  悲しみは星のかげに   悲しみは月のかげに

  上を向いて歩こう   涙がこぼれないように   泣きながら歩く一人ぼっちの夜

  一人ぼっちの夜   一人ぼっちの夜

日本でのヒット

元々は中村八大が1961年7月21日に開催した自身のリサイタルのために制作した楽曲であったが、曲直瀬信子の推薦により、坂本九のシングル曲としてレコーディングされることになった。

NHKで放送されていたテレビ番組「夢であいましょう」の、1961年10月・11月の「今月のうた」として発表され、同年10月にレコードが発売されると爆発的なヒットとなった。当時の日本のレコード売り上げランキング(「ミュージック・ライフ」誌に掲載されていた国内盤ランキング)では1961年11月 - 1962年1月まで3ヵ月にわたり1位を独走した。

売り上げだけを見れば相当なものであったが、九の独特な歌い回しが耳に合わない当時の保守的な日本の歌謡界においては評価は高くなかった。レコード大賞にも選ばれていない。だが、この評価は世界での大成功により覆された。

「上を向いて歩こう」は歌いだしが印象的な歌だが、レコーディングの時にその「上を向いて……」の部分を初めて聴いて「ウエヲムーイテ」が「ウヘホムフイテ」に聞こえたという作詞者の永六輔は、「何だその歌い方は!」と九に向かって激怒したと伝えられる。この独特の歌い方は、母がやっていた小唄とプレスリーやバディ・ホリーの影響であるとも言われている。永六輔は後に、九の母の話から、九と邦楽の歌い方を結びつけて考えるようになった。

[ 8 6さいのバラード  ]   作詞:さいとういんこ 作曲:あおぞらすかい ピアノ編曲:若林 愛

  おんなのこです 6 さいです
  ようちえんでは バラぐみです

  あかちゃんのときのはなし しないでほしいわ
  オシメしてたとか おぼえてないし
  いまのわたしとは ちがうもの

  5 さいのこよりは おねえさんなの
  7 さいよりは ちいさいけれど

  おんなのこです 6 さいです
  パパとけっこん? しないわ たぶん

  ようちえんでは まいにち たのしんでるけど
  ともだちかんけい おべんとうかんけい
  けっこういろいろあるんだわ

  しあわせかんじるときも おおいから
  べつに しんぱいはしないでね

  おんなのこです 6 さいです
  すきなたべもの やきにくです

  しょうがくせいになったら ひとりでねるの
  こわいゆめ ぜったい みませんように

  おんなのこです 6 さいです
  すきなおとこのこ ふたりいます
  おんなのこです 6 さいです
  きのう まえばが ぬけました

  おんなのこです 6 さいです
  きっと ママより びじんになるわ

[ 9 洒落(しゃれ)男  ]   作詞:Lou Klein、作曲:Frank Crumit
                   日本語詞:坂井透、唄:二村定一/榎本健一

 1 俺は村中で一番
   モボだと言われた男
   己惚(うぬぼ)れのぼせて得意顔
   東京は銀座へと来た

 2 そもそもその時のスタイル
   青シャツに真っ赤なネクタイ
   山高シャッポにロイド眼鏡
   ダブダブなセーラーのズボン

 3 吾輩の見染めた彼女
   黒い瞳でポップヘアー
   背が低くて肉体美
   おまけに足までが太い

 4 馴れ染めの始めはカフェー
   この家は私の店よ
   カクテルにウィスキーどちらにしましょう
   遠慮するなんて水臭いわ

 5 言われるままに二、三杯
   笑顔につられてもう一杯
   彼女はほんのり桜色
   エッヘッヘしめたぞもう一杯

 6 君は知っているかい僕の
   親父は地主で村長
   村長は金持ちでせがれの僕は
   独身でいまだに一人

 7 アラマアそれは素敵
   名誉とお金があるなら
   たとえ男がまずくても
   私はあなたが好きよ

 8 おおいとしのものよ
   俺の体はふるえる
   お前とならばどこまでも
   死んでも離れはせぬ

 9 夢かうつつかそのとき
   飛び込んだ女の亭主
   ものもいわずに拳固(げんこ)の嵐
   なぐられて吾輩は気絶

 10 財布も時計もとられ
   大事な女はいない
   恐いところは東京の銀座
   泣くに泣かれぬモボ

[ 10 若者よ!恋をしろ  ]   歌:中島孝、 作詞:関口峭市、 作曲:仁木他喜雄

  若者は恋をする
  身分やお金はないけれど
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス
   どんなに苦労があったとて
   くよくよするなしわがよる
   泣きっ面には蜂がさす
   笑って生きようぜ
   何がなくてもしわのない
   若さと恋がありゃ
   辛い浮世も 楽しく生きられる
    若者よ恋をしろ
    身分やお金はなくっても
    恋すりゃ希望も湧いてくる
    此の世のパラダイス

  若者は恋をする
  身分やお金はないけれど
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス
   どんなに苦労があったとて
   若い時代は二度と来ぬ
   腰が曲がっちゃ仕方がない
   元気で生きるのさ
   若さと恋がありゃ
   此の世に敵はない
   歌と笑顔で 楽しく生きられる
    若者よ恋をしろ
    身分やお金はなくっても
    恋すりゃ希望も湧いてくる
    此の世のパラダイス

 どんなに素晴らしい
 此の世の宝より
 素敵な素敵な 若さと恋の味
  若者よ恋をしろ
  身分やお金はなくっても
  恋すりゃ希望も湧いてくる
  此の世のパラダイス

[ 11 時の流れに身をまかせ  ]   唄/テレサ・テン (鄧 麗 君)、 作詞/荒木とよひさ、 作曲/三木たかし

  もしも あなたと逢えずにいたら わたしは何を してたでしょうか
  平凡だけど 誰かを愛し 普通の暮らし してたでしょうか
  時の流れに 身をまかせ あなたの色に 染められ
  一度の人生それさえ 捨てることもかまわない
  だからお願い そばに置いてね いまは あなたしか 愛せない

    もしも あなたに嫌われたなら 明日(あした)という日 失(なく)してしまうわ
    約束なんか いらないけれど 想い出だけじゃ 生きてゆけない
    時の流れに 身をまかせ あなたの胸に より添い
    綺麗になれたそれだけで いのちさえもいらないわ
    だからお願い そばに置いてね いまは あなたしか 見えないの

2012/07/28 中川村文化会館で

[ 12 赤とんぼ  ]   作詞:三木露風、作曲:山田耕筰

  1 夕焼小焼の赤とんぼ
    負われて見たのは いつの日か

  2 山の畑の桑の実を
    小かごに摘んだは まぼろしか

  3 十五でねえやは嫁にゆき
    お里のたよりも 絶えはてた

  4 夕焼小焼の赤とんぼ
    とまっているよ 竿の先

[ 13 疲れがなくなる音楽 癒し世界  ]

  You Tube による再生ですので取り消しました


[ 14 ドレミの歌  ]  作詞・作曲:O.Hammerstein II・R.Rodgers 訳詞:ペギー葉山

  さあ おけいこを始めましょう
  やさしいところから
  英語のはじめは A・B・C
  歌のはじめは ドレミ ドレミ
  始まりは三つの音です
  ドレミ ドレミ ドレミファソラシ

  「さあみなさんドレミの歌をうたいましょう」

  ドはドーナツのド
  レはレモンのレ
  ミはみんなのミ
  ファはファイトのファ
  ソは青い空
  ラはラッパのラ
  シは幸せよ
  さぁ歌いましょう

  ドはドーナツのド
  レはレモンのレ
  ミはみんなのミ
  ファはファイトのファ
  ソは青い空
  ラはラッパのラ
  シは幸せよ
  さぁ歌いましょう

  ドレミファソラシド
  ドシラソファミレ
  ドミミミソソ
  レファファラシシ
  ドミミミソソ
  レファファラシシ
  ソドラファミドレ
  ソドラシドレド

  どんなときにも
  列を組んで
  みんな楽しく
  ファイトを持って
  空を仰いで
  ランラ ランランランラン
  幸せの歌
  さあ歌いましょう

  ドシラソファミレド ド

[ 15 算数チャチャチャ  ]  作詞:山口和義 作曲:山口和義

  ルート2プラス1分の チャチャ
  2プラスルートの2 チャチャチャ
  算数チャチャチャで 解きましょう
  それ ほらもうできた チャチャチャ
  分子をルートの2でくくり チャチャ
  ルート2プラス1 チャチャチャ
  そのルート2プラスの1で チャチャ
  分母子を約せば
  答えはかんたん
  たったわずかのルートの2となるよ
  チャ チャ チャ

  サインθ(シータ)がコサインの チャチャ
  ルートの3倍 チャチャチャ
  算数チャチャチャで 解きましょう
  それ ほらもうできた チャチャチャ
  サインを割ることコサインは チャチャ
  タンゼントのことさ チャチャチャ
  2辺が一対ルート3 チャチャ
  斜辺が2となるね
  サインは2分のルートの3で
  コサイン0.5
  チャ チャ チャ

  θプラスの2分のπ(パイ) チャチャ
  そのコサインをかけ チャチャチャ
  算数チャチャチャで 解きましょう
  それ ほらもうできた チャチャチャ
  コサインθのグラフが チャチャ
  10マイナス1 チャチャチャ
  θプラスの2分のπ チャチャ
  2分のπずれる
  0マイナス1 0プラス1で
  θと平行さ
  チャ チャ チャ

歌詞の内容

[ 16 花は咲く  ]  作曲:菅野よう子 作詞︰岩井俊二

   真っ白な雪道に 春風香る
   わたしはなつかしい あの街を思い出す

   叶えたい夢もあった 変わりたい自分もいた
   今はただなつかしい あの人を思い出す

   誰かの歌が聞こえる 誰かを励ましてる
   誰かの笑顔が見える 悲しみの向こう側に

     花は花は花は咲く いつか生まれる君に
     花は花は花は咲く わたしは何を残しただろう

   夜空の向こうの 朝の気配に
   わたしはなつかしい あの日々を思い出す

   傷ついて傷つけて 報われず泣いたりして
   今はただ愛おしい あの人を思い出す

   誰かの想いが見える 誰かと結ばれてる
   誰かの未来が見える 悲しみの向こう側に

     花は花は花は咲く いつか生まれる君に
     花は花は花は咲く わたしは何を残しただろう

     花は花は花は咲く いつか生まれる君に
     花は花は花は咲く わたしは何を残しただろう

     花は花は花は咲く いつか生まれる君に
     花は花は花は咲く いつか恋する君のために

歌詞の内容
歌:花は咲くプロジェクト 2,245,503回

[ 17 朧月夜  ]  作詞高野辰之 作曲岡野貞一

  1. 菜の花畠に 入日薄れ
    見わたす山の端(は) 霞ふかし
    春風そよふく 空を見れば
    夕月かかりて にほひ淡し

   2. 里わの火影(ほかげ)も 森の色も
     田中の小路をたどる人も
     蛙(かはづ)のなくねも かねの音も
     さながら霞める朧月夜

1914年(大正3年)『尋常小学唱歌 第六学年用』に初出。検定教科書が用いられるようになった1948年(昭和23年)から小学校6年生の音楽教科書において採用され、平成以降も取り上げられている。

詩は1番2番とも脚韻を踏み、各行4+4+3+3音で構成されている。特に2番の『も』音の繰り返しが音楽的である。初めの2行に視覚的描写を置き、第3行で体性感覚、聴覚に言及し、最後の1行で締める起承転結の一種ともなっている。岡野はこれに弱起で始まる3拍子のリズムをあてはめている。

高野は長野県豊田村(現在の中野市)に生まれ、隣の飯山市で小学校の教師をやっていた時期があった。その時に飯山市で見た菜の花畑が印象に残り、この歌を作るきっかけになったと言われている。

1番の『におい』は、ここでは香りの意味ではなく、鮮やかな色あい・色つやのこと。2番の『森の色』の色とほぼ同義です。

『枕草子』に『花びらのはしにをかしき匂ひこそこころもとなくつきためれ』とあります。『匂いやか(または匂やか)な女性』といった表現がありますが、これは、つやつやと輝くように美しい女性、という意味。

 2番の『里わ(里曲)』は、里、すなわち村落のあたり、という意味。

[ 18 星影のワルツ  ]  作詞白鳥園枝 作曲遠藤 実 唄千  昌夫

 1 別れることはつらいけど
   仕方がないんだ 君のため
   別れに星影のワルツをうたおう
   冷たい心じゃないんだよ
   冷たい心じゃないんだよ
   今でも好きだ 死ぬ程に

 2 一緒になれる幸せを
   二人で夢見た ほほえんだ
   別れに星影のワルツをうたおう
   あんなに愛した仲なのに
   あんなに愛した仲なのに
   涙がにじむ夜の窓

 3 さよならなんてどうしても
   いえないだろうな 泣くだろうな
   別れに星影のワルツをうたおう
   遠くで祈ろう 幸せを
   遠くで祈ろう 幸せを
   今夜も星が降るようだ

《蛇足》 昭和41年(1966)3月にレコード発売。当初はなかなか売れませんでしたが、2年後に有線放送から火がつき、大ヒットとなりました。

 遠藤実の作品には、この歌のほかにも、『高校三年生』『北国の春』のように、大ヒットと同時にロングヒットになった曲がいくつかあります。
 彼のメロディは、概しておおらかで暖かみのあるのが特徴で、それがロングヒットになりやすい一因でしょう。

 この歌や『北国の春』については、千昌夫の岩手弁なまりの素朴な歌唱が遠藤メロディの特徴を増幅させたといえそうです。

 この歌は、中国・台湾を中心にアジア全域で愛唱されました。

 作詞の白鳥園枝は、戦前に民衆派詩人として活躍した白鳥省吾の次女。

 なお、一時期、この歌には同和問題が絡んでいるという話がまことしやかに語られたことがありましたが、のちに、これが嘘だったということが、事情を知る人の証言により判明しました。
 この歌のほんとうの作詞者は自分だと、ある解放運動関係者が酔余に言ったホラ話がデマの源、というのが真実のようです(参照:http://park1.aeonnet.ne.jp/~sinjikai/hosikage.html )。

 どんなつもりでそう言ったのかはわかりませんが、歌や作者を傷つけるような振る舞いはしてもらいたくないものです。

 ただ、その人物がそう言いたくなった心情は、まったく理解できないわけではありません。

 人は、非常に辛い体験をしたり、苦しい状況にあったりすると、そこから逃れようとするあまり、ほかの人物に自分を同化させたり、ほかの状況に自分を置いたりする場合があります。
 そこから出た言動は、単純に悪意の嘘とは言い切れません。
 自分が陰の作者だといった言葉が、冗談や悪意から出たものではなく、歌に感動したあまり、つい自分を歌のなかの人物、ないし作詞者に置き換えてしまっただけかもしれないのです。

(二木紘三)

[ 19 青年日本の歌(昭和維新の歌)  ]  作詞・作曲:三上卓

     昭和維新の歌

 一、泪羅(べきら)の淵(ふち)に波騒(なみさわ)ぎ
   巫山(ふざん)の雲(くも)は乱(みだ)れ飛(と)ぶ
   混濁(こんだく)の世(よ)に我(われ)立(た)てば
   義憤(ぎふん)に燃(も)えて血潮(ちしお)湧(わ)く

 二、権門上(けんもんかみ)に傲(おご)れども
   国(くに)を憂(うれ)うる誠(まこと)なし
   財閥(ざいばつ)富(とみ)を誇(ほこ)れども
   社稷(しゃしょく)を思(おも)う心(こころ)なし

 三、ああ人(ひと)栄(さか)え国(くに)亡(ほろ)ぶ
   盲(めしい)たる民世(たみよ)に躍(おど)る
   治乱(ちらん)興亡夢(こうぼうゆめ)に似(に)て
   世(よ)は一局(いっきょく)の碁(ご)なりけり

 四、昭和(しょうわ)維新(いしん)の春(はる)の空(そら)
   正義(せいぎ)に結(むす)ぶ丈夫(ますらお)が
   胸裡(きょうり)百万兵(ひゃくまんへい)足(た)りて
   散(ち)るや万朶(ばんだ)の桜花(さくらばな)

 五、古(ふる)びし死骸(むくろ)乗(の)り越(こ)えて
   雲漂揺(くもひょうよう)の身(み)は一(ひと)つ
   国(くに)を憂(うれ)いて立(た)つからは
   丈夫(ますらお)の歌(うた)なからめや

 六、天(てん)の怒(いか)りか地(ち)の声(こえ)か
   そもただならぬ響(ひび)きあり
   民(たみ)永劫(えいごう)の眠(ねむ)りより
   醒(さ)めよ日本(にほん)の朝(あさ)ぼらけ

 七、見(み)よ九(きゅう)天(てん)の雲(くも)は垂(た)れ
   四海(しかい)の水(みず)は雄叫(おたけ)びて
   革新(かくしん)の機(き)到(いた)りぬと
   吹(ふ)くや日本(にほん)の夕嵐(ゆうあらし)

 八、あゝうらぶれし天地(あめつち)の
   迷(まよ)いの道(みち)を人(ひと)はゆく
   栄華(えいが)を誇(ほこ)る塵(ちり)の世(よ)に
   誰(た)が高楼(こうろう)の眺(なが)めぞや

 九、功名(こうみょう)何(なん)ぞ夢(ゆめ)の跡(あと)
   消(き)えざるものはただ誠(まこと)
   人(じん)生意気(せいいき)に感(かん)じては
   成否(せいひ)を誰(だれ)かあげつらう

 十、やめよ離騒(りそう)の一悲曲(いちひきょく)
   悲歌(ひか)慷慨(こうがい)の日(ひ)は去(さ)りぬ
   われらが剣今(つるぎいま)こそは
   廓清(かくせい)の血(ち)に躍(おど)るかな

[曲について]

作者の三上卓は5・15事件の叛乱将校。海軍中尉。

三上は詩に『昭和五年佐世保軍港一夜梗概作之時年二十四歳也』とサインしているようですが、歌詞には土井晩翠の詩集『天地有情』に収められた諸篇(特に『星落秋風五丈原』)および大川周明の『則天行地の歌』からの影響が強くみられます。影響というか、剽窃に近い引用の多さです。今風に言えばパクり、コピッペ。

 大川周明の詩は兎も角、屈原や諸葛亮に自身を重ねるのは何とも危うい発想です。軍人がひとり『意気に感じて』『成否』を考えずに行動されてはたまったものではありません。詩文上の浪漫主義と実際の政治が結びつくとこうなるという一つの典型でしょうか。或いは二次元と三次元を区別できなかった者の末路。

 しかも晩翠の『星落秋風五丈原』で描写される諸葛亮は後世に美化された虚像です。一般的に孔明は『前出師表』や文天祥の『正気歌』の影響、更には『三国志演義』によって忠心の塊のような人物だと思われています。そのような虚像としての孔明が政治の参照にはならないのは勿論の事です。

 この歌がただの盗用ソングに留まらずたいへん危ういのは、このような虚構としての孔明の上にえがかれた『誠』を恰も自分の内側にあるものと解釈しなおし、自己正当化の具としている事でしょう。

 『星落秋風五丈原』の諸葛亮は『過去』『虚構』『外国』と様々な要素からして『現在』『現実』『自国』に存在する読者の主観の外部にある存在でした。つまりその『誠』もまた博物館のガラスケースの先にあるような、明らかに鑑賞者の外に存在するものだった訳です。

 ところが、『青年日本の歌』ではその『誠』が読者の主観の内側にあるように巧みに配置されています。孔明の忠心は『過去』『虚構』『外国』ではなく、ここでは『現在』『現実』『自国』のものとなって歌う本人の内側に宿るという仕組みです。

 従って、政治思想に酔って冷静でなくなった人間が口ずさめば、立派な自惚れ鏡になる可能性があります。特に現実に嫌気が差している人間にはその危険が増します。示唆的なのは、叛乱した将校たちが出世コースから外れて、将来栄達の見込みがなかった落ちこぼれだったという事でしょう。ただの自意識過剰な自惚れに過ぎないのですが・・・

 文学上の浪漫主義はそのような落ちこぼれた人にも、二次元世界では主人公にしてくれる優れた装置です。現在の我々は二次元と三次元を明確に区別し、二次元世界の情報を統御する事で豊かな生活を営んでいますが、これこそ現代日本文化の精華たるオタク文化ではないかと思います。

 叛乱将校は三次元世界で落ちこぼれた挙句、純粋に二次元に耽溺することもできず、また二次元を慰みとしつつつらい三次元を日々耐え抜くという常識的な生き方も模索せずに、意味不明な維新ごっこへと没落していった、空虚な存在に過ぎません。

 しばしばその行動は愚かであったが感情はすばらしかったという部分肯定もみられますけども、それこそ最大の問題点であって、その感情の暴走した先走りがその後の日本の行動を(彼等の思想からすればかなり困った方向へと)拘束した事を鑑みれば、およそ是とすることではないでしょう。少なくとも現実に対応すべき政治や軍事の観点からすれば。

●参考資料

 *五・一五事件
   五・一五事件(ご-いち-ご じけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起き
   た反乱事件。 武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、
   内閣総理大臣犬養毅を殺害した。

 *二・二六事件
   二・二六事件(ににろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日に
   かけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、
   「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件
   後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。

 * 土井晩翠『星落秋風五丈原』

 * 大川周明の思想

[ 20 君死に給うことなかれ  ]  作詞・与謝野晶子

旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて    

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃
(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

(さかひ)の街のあきびとの
舊家
(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思
(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守
(も)り、
(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾
(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻
(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月
(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。


[ 21 あめんぼの歌  ]  作詞・北原白秋
               <http://www.nicovideo.jp/watch/sm9207472?ref=search_tag_video>
               (ここから接続できる)

あめんぼの歌は北原白秋が作った詩。50音をバランスよく配しており演劇での発声練習によく用いられる。

あめんぼあかいなあいうえお (水馬赤いなあいうえお
うきもにこえびもおよいでる (浮藻に小蝦も泳いでる)

かきのきくりのきかきくけこ (柿の木栗の木かきくけこ
きつつきこつこつかれけやき (啄木鳥こつこつ枯れ欅)

ささげにすをかけさしすせそ (大角豆に酢をかけさしすせそ
そのうおあさせでさしました (その魚浅瀬で刺しました)

たちましょらっぱでたちつてと (立ちましょ喇叭でたちつてと
とてとてたったととびたった (トテトテタッタと飛び立った)

なめくじのろのろなにぬねの (蛞蝓のろのろなにぬねの
なんどにぬめってなにねばる (納戸にぬめってなにねばる)

はとぽっぽほろほろはひふへほ (鳩ポッポほろほろはひふへほ
ひなたのおへやにゃふえをふく (日向のお部屋にゃ笛を吹く)

まいまいねじまきまみむめも (蝸牛ネジ巻まみむめも
うめのみおちてもみもしまい (梅の実落ちても見もしまい)

やきぐりゆでぐりやいゆえよ (焼栗ゆで栗やいゆえよ
やまだにひのつくよいのいえ (山田に灯のつくよいの家)

らいちょうさむかろらりるれろ (雷鳥寒かろらりるれろ
れんげがさいたらるりのとり (蓮花が咲いたら瑠璃の鳥)

わいわいわっしょいわゐうゑを (わいわいわっしょいわゐうゑを
うえきやいどがえおまつりだ (植木屋井戸換へお祭りだ)

[ 22 日本海海戦(文部省唱歌、『尋常小学唱歌(第六学年用  ]  文部省唱歌「尋常小学唱歌第六学年用」

一  敵艦見えたり近づきたり 皇国の興廃ただこの一挙
   各員奮励努力せよと 旗艦のほばしら信号揚る
   みそらは晴るれど風立ちて 対馬の沖に波高し

二  主力艦隊前を抑え 巡洋艦隊後に迫り
   袋の鼠と囲み撃てば 見る見る敵艦乱れ散るを
   水雷艇隊駆逐隊 逃しはせじと追いて撃つ

三  東天赤らみ夜霧晴れて 旭日輝く日本海上
   今はや遁るるすべもなくて 撃たれて沈むも降るもあり
   敵国艦隊全滅す 帝国万歳万万歳

[ 23 海 の 進 軍  ]  作詞・海老沼正男 作曲・古関裕而 昭和16年

1 あの日揚がった Z旗を
  父が仰いだ 波の上
  今日はその子が その孫が
  強く雄雄しい 血を継いで
  八重の潮路を 越へるのだ

2 菊の御紋の かげうつす
  固い護りの 太平洋
  海の男の 生甲斐は
  沖の夕陽に 撃滅の
  敵のマストを 夢に見る

3 御稜威(みいつ)輝く 大空に
  意気に羽ばたく 海鷲が
  描く制覇の 勇ましさ
  僚友(とも)よ七度(ななたび) 生きかはり
  波に勲を 咲かさうぞ

4 海へ海へと 燃えあがる
  大和魂 しっかりと
  胸に抱いて 波千里
  進む皇国の 海軍の
  晴れの姿に 栄えあれ

Z(ゼット)旗
「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」(えいこくはかくいんがそのぎむをつくすことをきたいする、英: England expects that every man will do his duty)は、1805年10月21日のトラファルガー海戦の際、イギリスのホレーショ・ネルソン提督が掲げた信号文。イギリス国民に影響を与えた言葉として、現代でもよく用いられる[1]。

[ 24 おいとこ節  ]  

     おいとこ節

  おいとこそうだよ
  紺の暖簾に伊勢屋と書いてだんよ

  お梅十六
  十代伝わる粉屋の娘だんよ

  あの娘は良い子だ
  あの娘と添うなら三年三月でも

  裸で茨も背負いましょ
  水も汲みましょ手鍋も下げましょう

  なるたけ朝は早起き
  上る東海道は五十と三次ぎ

  粉箱ヤッコラサと担いで
  歩かにゃなるまいおいとこそうだよ

  おいとこそうだよ
  二人で添うなら共に白髪の生えるまで



 おいとこそうだよ(千葉県民謡)

この曲は「歌われている地域」が非常に広いのが特色です。
宮城県から旧仙台藩の所領だった岩手県地方の民謡...とされる場合が多いのですが、諸説混沌としています。

   おいとこそうだよ
    紺ののれんに 伊勢屋と書いてだんよ
      お梅十六 十代伝わる 粉屋の娘だんよ

   なるたけ朝は早起き
    のぼる東海道は五十と三次 粉箱やっこらさとかついで
      あるかにゃなるまい おいとこそうだんよ

...これは今でも宮城~岩手地方で歌われている「おいとこそうだよ」の歌詞です。
チエミさんも、この東北版のアレンジに近い歌詞、メロディで歌われています。

しかし、この「おいとこそうだよ」を調べると、非常に奥が深いのです...

東京堂出版発行の「日本民謡辞典」には、「おいとこ」という項目で、次のような解説があります。

>「宮城県仙台付近でうたわれる酒盛り唄。岩手、山形、秋田と東北地方で広くうたわれている。伝説的には、天保年間、印旛沼(いんばぬま)干拓工事の折に、そこで働く土工たちによって、うたわれたものが流行歌となって各地に普及したと伝えられている...」

>白桝粉屋(しらますこなや)おどりがおいとこのルーツ
宮城県迫町(はさまちょう)も「おいとこ」の盛んな町です。迫町森地区では平成元年から「伊達(だて)なおいとこ踊り宮城大会」を開催しています。
その大会の発案者である星勲さんの面白い調査があります。星さんによれば、仙台藩は下総(しもふさ)の国、つまり現在の千葉県に飛び地の領地を持っていた。そこから干拓工事に駆り出された人々が、「おいとこ」を覚えて国元に持ち帰ったことは十分に考えられる。というのです。

さて、それでは「おいとこ節」は、どんな歌詞なのでしょうか。再び民謡辞典を引くと、こう解説してあります。
>「この唄は、千葉県多古町(たこまち)に伝わる白桝粉屋(しらますこなや)と呼ばれる唄で、“おいとこそうだよ”とうたい出すところから、おいとこ節とも呼ばれている」
この歌詞で「白桝粉屋」とうたわれている「白桝」というのは地名です。現在の千葉県芝山町(しばやままち)白桝がそれにあたります。多古町のすぐ近くで、成田にも近いところです。
  (京成電鉄に接続する第三セクター/芝山鉄道の芝山です。)

芝山町は、「おいとこ節・発祥の地」をうたっている町でした。この町では「おいとこ」と言わず、「白桝粉屋おどり」として受け継がれ、今では県指定の無形民俗文化財になっています。
  ついに「おいとこ」のふるさとにたどり着いたようです。

若い僧侶が娘を見初め唄を作って流行させたもの。

その芝山町で伝えられている「白桝粉屋おどり」、つまり「おいとこ」の由来は次のようなものです。

>「江戸時代の半ばごろ、多古町の日本寺(にちほんじ)に、中村檀林(なかむらだんりん)という学問寺がありました。当時この檀林で学んでいた若い僧侶が、芝山町の白桝粉屋の美人看板娘の久子さんを見初め、唄を作って檀林内で流行させました。やがて修学を終えた僧侶たちはそれぞれの故郷へ帰り、仏の教えとともにこの唄が各地に伝わっていきました」白桝粉屋は、銚子から江戸へ抜ける、いわゆる江戸街道の道筋にありました。江戸街道は、さまざまな産物を運ぶ街道でもありました。この街道の人と物の流れの中に、印旛沼の干拓工事に駆り出された人々の一団がいたことは、想像に難くありません。

---->こうなると...この「おいとこそうだよ」は、江戸時代の「ヒット曲」ということとなります。

  そして、もうひとつ見落としがありました。
それは、チエミのムード民謡[チエミの民謡集第4集] SKF149 (1962発売 1,300)...のクレジットです。
(第2面)1.おいとこそうだよ(1分57秒)...千葉県地方/宮川泰編曲 と、しっかりと「元々は千葉県の民謡」ということが記載されていました。

>おいとこの語源は諸説さまざまです。・・・「おいとこ」は、伝えられた地方に次第に定着し、やがて歌詞をその地方向きに変え、その地方の民謡として受け継がれ、発祥の地である芝山町を離れて、より多くの人々にうたわれるようになったと、芝山町の人々は言います。

ところで、「おいとこ」の語源については、不明な点が多いのです。これまでのさまざまな節を述べてみます。
 「オーイ、ドッコイショ」=土工作業の掛け声と受け声から
 「高砂そうだよ」=北房総地方の小念仏唄から
 「お江戸っ子」
 「佐渡方言説」=佐渡出身の僧侶が原作者か
 「オイ、ドッコイショ」=相撲甚句の掛け声から
 「おーい、いとこ」=従兄弟、親しい者への呼び掛けから

さて、白桝粉屋が、どうして千厩地方では伊勢屋になったのか、久子がお梅になったりしたのか、その訳は、今となっては知る由もありません。



「おいとこ節」(宮城)

《おいとこそうだよ 紺の暖簾に 伊勢屋と書いたよ
お梅女郎衆は 十代伝わる 粉屋の娘だよ
あの娘はよい娘だ あの娘と添うなら 三年三月も
裸で茨も背負いましょ 水もくみましょ 手鍋もさげましょ
なるたけ朝は早起き 上る東海道は 五十と三次
粉箱やっこらさと担いで 歩かにゃなるまい おいとこそうだよ》

俗曲「おいとこそうだよ」は、千葉県山武(さんぶ)郡白桝(しらます)にある粉屋の娘・木俣お小夜を唄った「白桝粉屋」と呼ばれる「小念仏踊り」の演目が母体。江戸末の天保(1830-43)の頃、関東・東北を中心として広く唄われた。

明治末から大正にかけて東京で再流行。その後すっかり忘れられ、宮城県だけに残っていた。「小念仏踊り」は「万作踊り」とも呼ばれ、東関東で大師講が開かれると、余興踊りとして唄い踊られていた。それが次第に農民芸として発達。農閑期を利用して巡業に回る人たちも現れ大流行。県下にも移入され、酒席の踊り唄として盛んに唄い踊られた。女性よりも、男性が唄うほうが心地よく聴ける。



 起承転結

   信州信濃の天竜端の
   たばこ屋お絹はよい娘
   昔のさむらい刀で殺すが
   たばこ屋お絹は目で殺す




[ 25 若菜集「草枕」  ]  作詞・島崎藤村

   心の宿の宮城野よ
   乱れて熱き吾(わが)身には
   日影も薄く草枯れて
   荒れたる野こそうれしけれ

   ひとりさみしき吾耳は
   吹く北風を琴と聴き
   悲み深き吾目には
   色彩(いろ)なき石も花と見き

[ 26 母の歌  ]  作詞野上弥生子・作曲下総皖一/文部省唱歌

  母こそは 命のいずみ
  いとし子を 胸にいだきて
  ほほ笑めり 若やかに
  うるわしきかな 母の姿

     (母こそは み国の力
     おの子らを いくさの庭に
     遠くやり 心勇む
     雄々しきかな 母の姿)

  母こそは 千年(ちとせ)の光
  人の世の あらんかぎり
  地にはゆる 天つ日なり
  大いなるかな 母の姿

<桑名貞子「母の歌」→ http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_2014.html>

この歌は、昭和18年に作られたと歌だという。ちょうど戦争末期。そして、その時代的背景により、陰に隠れたらしい。ネットで見たら、次の記述もある。

「母の歌」野上弥生子作詞、下総皖一作曲。1943(昭和18)年2月文部省から発行された国民学校芸術科音楽の第5学年用教科書「初等科音楽」3に掲載。自分がこの歌をどこで聞いたかは覚えていない。しかし1番の歌詞と、切ない心に滲みる女声の歌声が自分の頭にこびりついた。それから数十年・・・。「母」の歌、という題だけは知っていたので、童謡・唱歌のCDで「母のうた」があると買った。しかし全部違っていた。89年に鮫島有美子の「ゆりかごの歌~童謡・唱歌集」というCDを買った時に、CDの解説に次のような文があった。

<鮫島さんの童謡 齋藤槇爾>
・・・・・今回のCDには童謡の名作はほぼ収録されている。わが貧しき幼年期を象徴する『風』と、『母』(野上弥生子作詞「母こそは命のいずみ、いとし子を胸にいだきて・・・・」)が入っていないのは残念だが、まあこれは次回に期したい。・・・

これで題が「母」だと分かったが、これは正式には「母の歌」だということが、今日分かった。今一度探してみたが、やはりこの歌の女声のCDは出ていないようだ。聞けるのは今日探し当てたBLOGだけ。前にも散々探した歌があった。塩野雅子が歌う童謡「はなかげ」。NHK FMで放送したものを聞き、何とかCDを!・・・、とオークションも含めて探したが、廃盤で手に入らなかった。しかし幸いにも 2007/7/7 にNHK FMでまた放送され、今度はバッチリとMDに録音した。

でも人生長くなってくると、金では入手できない昔の想い出の価値は、はかり知れない。しかしネットの時代は大変な時代だ。世の中で自分と同じように大切にしているところ(=BLOG=人・・・)を発見することが出来るようになった来た。

【別の解説】
1943年(昭和18年)文部省から発行された国民学校芸術科音楽の第五学年用教科書「初等科音楽」3に掲載されました。
昭和18年といえば当時はまだ戦争中で、連合艦隊司令長官「山本五十六」が戦死した年でもあります。2番の歌詞は戦争に我が子を送り出した母の姿が勇ましく歌われています。これも戦時下のことであり、母親の本心であろうはずもありません。

この歌が戦後に歌われないのは2番の歌詞のためでしょう、残念なことです。

[ 27 やさしいおかあさま  ]  作詞:稲穂雅巳 作曲:海沼実 歌唱:音羽ゆりかご会(川田正子)

わたしが おねむになったとき
やさしくねんねん こもりうた
歌って ねかせてくださった
ほんとにやさしい おかあさま

夏は ねびえをせぬように
冬はおかぜを ひかぬよう
おふとん なおしてくださった
ほんとにやさしい おかあさま

わたしが 大きくなったなら
ご恩をお返し いたします
それまでたっしゃで まっててね
ほんとにやさしい おかあさま

この「やさしいおかあさま」を作詞した稲穂雅巳は静岡県出身であること以外にあまり資料が見つかりません。童謡作詞家としては<稲穂雅巳童謡新作集>という本を出していますので、数多く作詞していると思われますが、今に残っているのはこの「やさしいおかあさま」を筆頭に「さよならの歌」海沼実作曲、「走れヨット」足羽章作曲くらいなものです。このことから推察すると、稲穂雅巳は、「あの子はたあれ」「ちんから峠」の細川雄太郎、「お猿のかごや」「見てござる」の山上武夫、「里の秋」「蛙の笛」「夢のお馬車」「ばあやたずねて」の斉藤信夫、「みかんの花咲く丘」「かわいい魚やさん」山口保治作曲「みどりのそよ風」「すずらんの花咲く丘」の加藤省吾などと同様、<音羽ゆりかご会>の創設者海沼実に見出された作詞家だったのでしょう。稲穂雅巳が活躍したのはちょうど戦時中ということもあって、小国民のために作った戦意高揚のわらべ軍歌が世に残らなかったと思われます。

細道のMIDI 懐かしの歌謡曲
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-natsumero.html

同上の総索引
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-natsumero.html

[ 28 冬の星座  ]  作詞者 堀内敬三  作曲者 ヘイス

 1 木枯とだえて さゆる空より
   地上に降りしく 奇しき光よ
   ものみないこえる しじまの中に
   きらめき揺れつつ 星座はめぐる

 2 ほのぼの明りて 流るる銀河
   オリオン舞い立ち スバルはさざめく
   無窮をゆびさす 北斗の針と
   きらめき揺れつつ 星座はめぐる

(ソプラノ)松本美和子の歌唱が http://www.youtube.com/watch?v=djhh4wdm5l8 で聴くことができます。

二木紘三のうた物語 (http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/01/post_c264.html) には彼独特の解説が載っています。 昭和22年に中学の教科書に載ったといわれていますが、戦時中に近所の一つ年上の山本茂さんの歌を聞いており冬の星座のイメージは少年の脳裏にしっかりと納められていて、その歌詞が記憶されていました。 なつかして歌ですから、冬の夜空の美しさに惹かれたときにいつも頭をよぎるのです。

[ 29 婦人従軍歌 ]   作詩 加藤義清  作曲 奥好義 (明治27年)

 1 火筒の響き 遠ざかる 
   後には虫も 声たてず
   吹きたつ風は 生臭く 
   紅染めし 草の色

 2 わきて凄きは 敵味方 
   帽子とびさり 袖ちぎれ
   倒れし人の 顔色は 
   野辺の草葉に さもにたり

 3 やがて十字の 旗を立て 
   天幕(テント)をさして 荷い行く
   天幕に待つは 日の本の 
   仁と愛とに 富む婦人

 4 真白に細き 手をのべて
   流るる血しお 洗い去り
   巻くや包帯 白妙の
   衣の袖は 紅(あけ)に染み

 5 味方の兵の 上のみか 
   言葉(こと)も通わぬ 敵(あだ)までも
   いと懇ろに 看護する 
   心の色は 赤十字

 6 あないさましや 文明の 
   母という名を 負い持ちて
   いと懇ろに 看護する 
   心の色は 赤十字

今は亡き母、天竜川の河岸段丘伊久間原の畑で幾たびも涙を流した。 義母であるにせよこれほど立派な女性に出会ったことはなかったのです。

ビルマのインパール作戦に従軍し幾多の辛苦に出会い、一人の落伍者もなく全員帰国した長野県赤十字看護婦婦長の責を果たした人でした。 従軍に関するお話も聞きました。 この概略は「歌集と思い出」ビルマ戦線概要に載せました。

  従軍にかかわる履歴の概要

 1、 明治42年1月21日 喬木村408番地(阿島里原)市瀬直吉三女として出生。
 1、 昭和6年3月 日本赤十字社救護看護婦養成所長野支部三年の課程を卒業(22歳)
 1、 同年4月より昭和12年9月まで日本赤十字社長野支部及び大阪支部の病院に勤務(22歳)
 1、 同年5月長野県産婆試験に合格、資格を得る(22歳)
 1、 昭和12年9月 支那事変のため応召、北支方面兵站病院に勤務(29歳)
 1、 昭和14年8月7日 救護看護婦長に任官(31歳)
 1、 同年8月18日 第一病院船に転属、南支航路に勤務
 1、 (昭和15年4月29日付け 勲八等宝冠賞下付される)
 1、 昭和16年8月25日 召集解除、12月下平真廣と結婚(33歳)
 1、 昭和17年9月 太平洋戦争のため召集されビルマ方面の兵站病院に勤務(34)
 1、 昭和21年7月 敗戦により内地帰還帰宅(38歳)
 1、 (その後昭和30年頃まで体調が回復しなかった)
 1、 昭和57年7月24日 鼎町和田病院にて直腸癌のため死去(73歳)

  歌集の中で心惹かれる一首

 粒々つぶつぶの 小さき命 咲ききりて   棕櫚しゅろ萎花なえばな しきこぼれ落つ


[ 30 砂山 ]  作詞・北原白秋 作曲・中山晋平

  海は荒海 向こうは佐渡よ
  すずめなけなけ もう日は暮れた
  みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ

  暮れりゃ砂山 汐鳴(しおなり)ばかり
  すずめちりぢり また風荒れる
  みんなちりぢり もう誰も見えぬ

  かえろかえろよ 茱萸原(ぐみわら)わけて
  すずめさよなら さよならあした
  海よさよなら さよならあした

数年前のことです。 この歌を聞いたとき、後ろ隣の女性の発音 ウミハアラウミィー この‘ミィー’の声質が私を驚かした。 ‘ゾクッ’とする感覚が耳にはいりこんだのです。  発声がもつ音質というものは、人によって計り知れない力をもっているのです。 ひとつ違いの母方の叔父の声は素敵な声であることをこの歳になってしみじみと私は痛感している。 春を連想させる優しさ、温かさ、やわらかさ、そう言われれば誰でもそれに気づくのだが、私は老年になるまで確たる感想もなかった。

私がまだ小学生の頃、「一の谷の 軍(いくさ)やぶれ … 」で始まる“青葉の笛”のなつかしい歌声が今でも郷愁として残っています。

歌が上手いという言葉がもっている中味は、実は千差万別にわたる基本的な音質のありよう、こぶしの使い方、虚空に抜けるような発声のありよう、そうした簡単にも練習によっても変えがたい個人特有の声がある。 そしてそのことが、人の成長の上でも大きい成否にかかわることもあるのです。

声の世界は多くの大事な領域を抱えています。

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