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折々の記 2011 A

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】02/16〜     【 02 】02/18〜     【 03 】02/19〜
【 04 】02/19〜     【 05 】02/22〜     【 06 】02/26〜
【 07 】03/10〜     【 08 】03/20〜     【 09 】03/26〜

【 06 】02/26

  02 26 愛と国風文化
  03 03 日本古来の文化・お節句の雛祭り
  03 05 春は名のみの
  03 07 日暮れて途遠し

 02 26 (土) 愛と国風文化

北アフリカから中近東にかけて、というよりも科学文化進んで個人所有の携帯機能が充実して、いままでの一部の政治家による政治権威支配から、政局というものは民衆の動向に添わなければならなくなってきたようです。

北アフリカや中近東に限らず、日本でも韓国でも、やがて中国においてさえ政治状況は変化してくるものと思います。 日本もこの大きな流れに逆らうことはできません。

二十一世紀のこの胎動は、新しい課題をはらんできます。 経済活動や個人所得などの格差が現に問題の火種になりつつあります。 人の自由と平等というものは、概念自身にも相容れない価値観があって、大なり小なりの相克が生まれるのは否定できないのです。

では、何を中核にして私たちは生きていったらいいのでしょうか?

人生観の根底をどう据えるのか、世界観の根底をどう据えるのか?

一番のミニマムになるのは一人ひとりの個人の在り方であり、親子の在り方であり、家族の在り方でしょう。

そしてその心の基本になることは、温かい情愛でありましょう。 老生はそう思います。



日本文化は、その源の本流は隋や唐など中国や韓国だとよく承知はしていますが、安田徳太郎さんを始めとして南方からの渡来民の風習が多分にあることも否定できないのです。 さらに多くの人たちが日本語を話している事実からして大勢の一つの集団が移住してきたということも否定できません。

ごく最近手に入れた、

  古代ヘブライの風習が色濃く残っている日本神道を解説している「日本ユダヤ封印の古代史」とか、

  母系でのみ受け継がれるミトコンドリアDNAを解読し、誰もが太古の昔に生きた自分の祖先に
  出会うことができると説いた「イヴの七人の娘たち」

     〔DNA〕 デオキシリボ核酸 《deoxyribonucleic acid》 主に細胞核に染色体として存在する遺伝子の本体

  また日本で言うところの‘カタリベ’ … イロコイ族の女性が著わしたネイティヴ・アメリカン口承史「一万年の旅路」

こうした書籍の、人々の研究の恩恵によって 様々な人類の精進、努力、智恵を知ることができました。

この小さい島国ですが、人々の情愛が満ち溢れ優雅でしなやかなすぐれた文化を、先人たちは残してくれました。 私たちは一人ひとり、個人のあり方に腰をすえ、調和ある安らぎの日本文化を伝承していかなければなりません。

それは人の目に触れなくてもよいのです。 一人一人が素敵な心の生き方を求めることだけで充分役目を果たすことができるのです。 自分の母親に学ぶ、それでいいのです。




                愛とは          2007.3.17 より

              愛とはオムツを取りかえること
              水火を辞せなぬ愛
              無償の愛といい 慈悲といい 恕という
              すべては そこから
              スタートしていた





日本の国風文化は平安時代に端を発しています。 それが室町時代を経て江戸時代に移ります。 奈良時代以前にしても万葉集の素晴らしさは、いまの私どもには長歌反歌の素地すら身についていないことに気づきますと、まさに驚嘆に値する知的な水準です。

あるいはまた、中国からの伝承とはいいながら、ひな祭りを通しての養育感覚を長く大事に伝えている事実にも驚くのです。 この年になってやっと気づいたのは遅いのですが、気づかずにいるほどに伝統に従順であることも一つの文化なのかもしれません。

明治以降、ひな祭りの歌が北海道でも沖縄でも同級生になった気持で歌うことのできるのは、高遠出身の井沢修二が日本中へ音楽教育を取り入れたからでしょう。 このことは、彼が日本の将来のために考えた愛であるとすれば、これも文化の一つでありましょう。

文化の根源には目には見えない素晴らしい愛が秘められているのです



 03 03 (木) 日本古来の文化・お節句の雛祭り

平安時代から五節句のひとつとして女の子の成長を願ってのお雛祭りのお祝いが全国に広まったようです。 親が子に対する大きな願いは、健やかな成長を願う一念にあったことでしょう。 このお祝いが日本では子育ての中核になって続いてきました。 素晴らしい文化です。

老生は、親子の絆をこうした習慣の中に実感しています。 殊に次の歌は親子の生活の断面を髣髴させる歌として優れていると思っています。 この歌が作詞者不詳となっているのも凄いなぁと思っています。 温かい親子の生活のあり方がここに現われていると言ってもよいと思います。

先ずは、その「雛祭の宵」(ひなのよい)にうつります。

[  雛祭の宵  ]  作詞:不詳  作曲:長谷川良夫) 

          「雛祭の宵」をクリックすると、「日本の唱歌」特設コーナー」のページとなり→昭和時代→「昭10 新訂高等小学唱歌」→第一學年女子
           を開いていくと雛祭の宵が演奏されます。


      1 雪洞に灯を 入るるとて
       電灯ことさら 消すもよし
       瓔珞ゆれて きらめきて
       物語めく 雛祭の宵

     2 十二一重の 姫君の
       冠少しく 曲がれるを
       直すとのべし 手の触れて
       桃の花散る 雛祭の宵

     3 官女三人の 真似すとて
       妹まじめの 振舞いに
       加わりたまう 母上の
       えまいうれしき 雛祭の宵


この曲が持っている独特の風合いは、歌詞の優雅さとともに、ほかの「ひなまつり」という節句の歌とは比較にならない。 ほめすぎても可笑しいけれども、おっとりとした郷愁が漂っている。

大の大人が好きだというのも、この歌が持っている雰囲気というか、ほのぼのとした家庭の愛が歌詞の端はしにも読みとれて、いかにも日本の情緒が目の前に浮かんでくるからだ。 しっとりとした安らぎを感ずる。

この唱歌を探し当てた事情は、 「折々の記」に説明しました。

演奏曲は後日、2009年、‘新訂高等小學唱歌/第一學年女子 29曲(昭和10年3月31日)女子=11銭’を見つけ出して明らかになりました。

いまNHK朝ドラでやっている「てっぱん」にもちょっと出てきました。 須坂の田中本家の雛祭りのお飾りも紹介されました。 岐阜の岩村の雛祭りも宣伝されています。

この歌に出ている、雪洞(ボンボリ)という‘ことば’は何を意味した言葉だったのでしょうか。 もちろん雛壇を見るとわかりますが、初めは竹を切ってその中へ蝋と燃える芯を置いたものではなかったかなと思います。 ‘ぼんぼり’という発音の中に柔らかな温かみの語感を受けるのは昔も同じだったのでしょうか。

「電灯ことさら 消すもよし」、「冠少しく 曲がれるを 直すとのべし 手の触れて」、「官女三人の 真似すとて 妹まじめの 振舞いに 加わりたまう 母上の」

女の子の節供をのお飾りをして健康と成長を願う、母の一途な気持と様子が現われています。 曲の流れも優しさと慎ましさがあふれています。

将軍家や高貴なお方の雛祭りには「十二単衣」や「瓔珞ゆれて」とあるように、職人技も一つの文化として素晴らしい伝統的行事だったことがわかります。

   〔瓔珞〕 珠玉を連ねた首飾りや腕輪の装身具



<下平追記> 老生は、雛祭りといえば「雛祭の宵(ひなのよい)」が好きです。 ホームページの<お気に入りの歌A>にも載せてありますが、Wikipediaの記事には参考になる記事がありますので、次に紹介します。

Wikipediaの記事

歴史

「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。

江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。

江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。

雛人形

最近の雛人形「雛人形」は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している。

種類

親王(男雛、女雛)はそれぞれ天皇、皇后をあらわす
官女(三人官女)は宮中に仕える女官をあらわす、内1人のみお歯黒、眉無し
(既婚者を意味するが、生涯独身の女官の場合には年長者という意味であろう)
五人囃子は能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、それぞれ「太鼓」「大鼓」「小鼓」「笛」「謡」である
(能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある)
随身(ずいじん)の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士(えじ)でもある
仕丁は従者をあらわし、通常3人1組である
  ※メーカーによっては、以下の追加がある
    三歌人(柿本人麻呂、小野小町、菅原道真)
    能の鶴亀
    稚児2名

配置

内裏雛や人形の配置に決まりごとはない。しかし壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがある。中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。それが以降から皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。

それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。

飾り方

飾り方にも全国各地で色々あるが、多くはこの三種の飾り方である。しかし、特に飾り方に決まりごとはない。
  ・ 御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
  ・ 御殿の内の一室を拝しての飾り方
  ・ 屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方
さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの道具を一緒に飾ることもある。上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。

祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされる。 また、地域によっては「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という、躾の意味からもいわれている。

この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。

雛人形の生産地・販売地

割と関東地方に集中した感じはあるが、生産地としては埼玉県のさいたま市岩槻区(以前の埼玉県岩槻市)が有名。また栃木県の佐野市や埼玉県鴻巣市も小規模ながら生産店が存在する。販売に関しては全国の商業施設で販売されているが、集中して軒を連ねるのは、東京都台東区の浅草橋が有名で、「人形の久月」「秀月」「吉徳大光(「顔が命の?」のCMキャッチコピー)」らの専門店がある。これらの店舗は毎年正月から2月ぐらいにかけテレビCMを流す。ちなみに雛人形と共に手掛ける五月人形も3月3日以降にCMが流れる。

雛祭りが祝日でない理由

江戸時代雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、明治6年の新暦採用が「五節句(=雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされる。

 03 05 (土) 春は名のみの

孫たちは春を迎え高校入試、大学入試の目標で最後の充電の時期をむかえました。 三日はお節句で友美の卒業式があって、袴をはいた和服姿で報告にきてくれました。 優も友美も三年間の勉学や学校生活ご苦労様でした。 よくやったと褒めたい。 嬉しいことです。

二人とも目指す学校へ入学できますよう、願っています。

二月中に柿の剪定がおわり、枝の片付けもほぼ済みました。 柿の木の古い樹皮削りになっています。 田んぼの耕耘やタマネギの追肥、ニンニクの追肥やネギ床づくり、馬鈴薯の植付準備という農作業が待っています。

 03 07 (月) 日暮れて途遠し

なんとなくこの言葉が頭に浮かぶ。 老年になって誰しも感ずることなんでしょう。 諺として取り入れやすい表題なんだろうと思います。

Web漢文大系の故事成語に載っている<日暮れて途遠し>には、〔出典〕 『史記』伍(ご)子胥(ししょ)列伝 〔解釈〕 年老いて、なお目的が達せられないことのたとえ。 としています。

そこで「中国故事物語」の<日暮れて塗遠し>を開いてみると、込入った物語の筋書きが載っています。 要するに、自分は年老いて、しかも為すべきことが多い、という意味に使われています。

何ゆえに、こんな言葉が浮かぶのかというと、政治は不安定に浮動し世相は情緒の紊乱がはげしく、日本のしなやかな古来の気風、剛直な気骨が人知れず失われていく、そういう感覚がひしひしと見に迫ってくるからです。

このことは以前からトインビーの考え方を取り入れていたからかもしれません。



    トインビー歴史研究の成果
ミネルバのフクロウ : by Weltgeist.exblog.jp (ブログ)

トインビー「歴史の研究」が予言する日本没落の可能性 (No.489 09/09/09)

 昭和40年、自分は心臓の手術をして長いこと入院していた。今と違って、あの当時の心臓手術はものすごく危険でたいへんなことだったから、病院には半年くらいいて、その後一年近く自宅で療養していた。療養生活では時間がたっぷりあったので、ひたすら読書で時間をつぶしていた。読むにしてもなるべく時間のかかる大著がいいと、わざと分厚い本ばかり撰んで読みまくったものである。その時のことが今の自分の考え方の基盤を作っているといってもいいくらい、この時期は沢山の本を読んだのである。

 そうした本の中で印象に残っているのはアーノルド・トインビー(1889- 1975年)が書いた「歴史の研究」(1934-1961年)だ。この超有名な本は全12巻からなる膨大なもので、小生が読んだ時期にはまだ日本語訳は完成していなかった。確か東京電力の会長であった松長安左ェ門氏がライフワークとしてその後しばらくして全巻の翻訳を完成させたはずである。小生はその当時の政治学者、蝋山政道氏が翻訳したサマーベル版という、エッセンスをまとめた縮刷版で読んだのである。しかし、縮刷版といっても千ページを越える大著であり、その読み応えは強烈なものがあった。自分の記憶では毎日机にしがみついても読み終えるまで2週間以上かかったと思う。

 最初に買った分厚い原本は何度かの引っ越しで今は手元になくなってしまった。その後、中央公論社が出した「世界の名著シリーズ73、歴史の研究」(写真)を買い直し、ときどき思い出したように拾い読みしている。

 英国の歴史学者であるトインビーの根本的な考え方は「どんな高度な文明でもいつか必ず内部的に壊れ、没落する」ことである。エジプト、メソポタミア、中国などで高度な文明が発達しながら、いずれも消滅している。ピラミッドを造る技術のあった文明がなぜ滅んだのか。トインビーは豊富な資料を検証しながら、一つの結論に達するのである。

 滅んだのは技術の進歩、革新が遅れたからではない。それは文明内部から起こる「慢心」が原因だというのである。彼はペロポネソス戦争におけるアテネと、第一次世界大戦がヨーロッパ文明、とりわけイギリスに与えた影響とに同時性があることを感じ、「歴史は現在に生きている」という有名な言葉を残している。そして、現在我々が経験していることは、実はすでにずっと昔にあったことの繰り返しだということに気づくのである。

 トインビーはいくつもの文明を調べていくうちに、それがどれも同じようなことを繰り返し行って、最終的には滅びていくという結論を見いだす。言い換えれば過去の文明の没落史を見ることで、現代文明没落の可能性を見ていることになるのだ。

 文明は最初は小さな異端的集団から発生し、次第に巨大化して一つの文明圏を作る。最初の頃は創造力にあふれ、人々の生活は活気に満ちたものになる。トインビーはこれを「challenge-and-response、挑戦と応戦」と言う。彼はこのことをキリスト教的に解釈し、神は人間に試練として「挑戦」を与え、人はそれに「応戦」して創造力を発揮するのである。このことを「Encounter 遭遇」という言葉で述べている。

 だが、その応戦力も成果を上げるようになると、やがて慢心によるマンネリ化を産む。欠乏は創造の原動力であるが、満腹は怠惰を生み、創造力をそいで行く。こうして、文明没落の萌芽が現れてくるというのだ。

 かっての日本が発展した歴史を見れば、それが良く分かる。明治維新以降、日本は「西洋に追いつけ、追い越せ」のかけ声で世界第二の経済大国にまでのしあがった。それは文明開化で知った自分たちの貧しさを「挑戦」と受け止め、より良き社会をめざして「応戦」した結果にほかならない。

 しかし、今、その頂点にまで登り詰めて、登るべき山の頂も足下になってしまった日本は、目標を失ってしまった感がある。団塊の世代で見られた「より良い社会を作るための挑戦と応戦の精神」が、その後に続く世代に感じられない。額に汗して働くのはダサイ男のやるこどだ。楽して金を儲ける拝金主義が横行し、怠惰が蔓延する。日本全部が息が詰まりそうな閉塞感の中に落ちこんで行こうとしている気がしてならないのである。

 トインビーは成熟期の文明は中から腐り始めるが、その文明の恩恵が及ばない辺境では新たな動きが現れ、それがやがて力を付けると、自分たちを抑圧していた文明を滅ぼして新たな力強い文明を作り上げていくと言っている。日本の立場からみれば、辺境で現れる挑戦者は中国であり、やがてはこの国の強大な力が周辺国にも及んでくる。そのとき日本は世界の中で指導的な立場に立つのではなく、すでに終わった国として屈辱的な立場に立たざるを得ないことになるのだ。

 歴史は繰り返す。隆盛と没落、挑戦と応戦。トインビーの予言は今の日本を見ると、限りなくそれに近づいている気がする。トインビーは、隆盛期においても慢心せず創造的力を発揮すれば、没落の危機は回避されると言っている。しかし、それは我々が絶えざる努力を重ねることで達成できるのであって、少しでも慢心した気持ちを持てば、創造力は枯渇し没落への道を進まなければならない。歴史の研究は現代の危機を伝える新たな黙示録なのだ。



生活が楽になりますと、言いかえれば汗を流して働くことよりもその場が過ごせる生活程度になりますと、金儲けに走り遊興に身を崩し人は怠惰に流れるのです。


「満つれば欠くるは世のならい」

     額に汗して働くのは 格好よしとせず
    金儲けの心に支配されて 怠惰が蔓延する



人が困っていても平気でいるのです。 やがてそれはすべて、破滅の一途を辿っていると気づくのです。 気づいても、気づいた時点では遅いのです。 破滅のスピードを支えたり、阻止することは、不可能になるのです。 残念ながらいくら考えてもそれが人が本来持っている宿業の性なのです。 「爪で拾って箕でこぼす(=苦労して少しづつくわえたものをいっぺんに浪費してしまうこと)」この諺も言いえて妙ですが、世代の変遷をいかんともしがたい宿業の性なのです。

◆ アンテナに入ってくるニュース
☆ 外相辞任 菅政権一層厳しい立場 3月7日 4時13分 <NHK>

前原外務大臣は、外国人からの違法な政治献金を受け取っていた問題で責任を取りたいとして、6日夜、外務大臣を辞任する意向を菅総理大臣に伝え、了承されました。菅総理大臣は、後任の人選を進め、態勢を立て直したいとしていますが、野党側は、菅総理大臣の任命責任を追及することにしており、菅政権は一層厳しい立場に追い込まれることになりそうです。

☆ 認知症“全国で270万人” 3月7日 4時54分 <NHK>

認知症の高齢者の数は、全国でおよそ270万人と、これまでの国の推計の1.3倍に上るという試算が認知症の研究機関が行った調査でまとまりました。

この調査は、認知症に対する自治体の取り組みを把握するために認知症介護研究・研修東京センターが行ったもので、52%の自治体から回答がありました。この中で認知症の高齢者の数を把握しているか聞いたところ、介護保険の認定調査で認知症と診断された人の実数を把握していた自治体が104あり、高齢者に占める認知症の人は、平均で9.1%、11人に1人の割合でした。

☆ リビア 各都市の争奪巡り攻防 3月7日 4時54分  <NHK>

リビアでは、政権側の戦略拠点を目指して西に進んでいた反政府勢力側が、装備に勝るカダフィ政権側の激しい抵抗にあって、いったん部隊を後退させるなど各都市の争奪を巡って激しい攻防が続いています。