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認知症 政府初の数値目標
寒山拾得
【 03 】05/17~
05 17 (金) 認知症 政府初の数値目標 目標達成のための具体策をどうするのか
05 16(木) 米中貿易摩擦 トランプ対習近平 (【2019】⑯中米日 取上げ済み)
今日は認知症について取り上げる。 まずマスコミの取り上げの様子。
朝日は次のように報じている。
2019年5月17日
70代の認知症割合、6年で6%減 政府初の数値目標
https://digital.asahi.com/articles/ASM5J55KZM5JUTFK011.html?iref=comtop_8_02
【写真・図版】認知症予防に向けた主な施策
政府は16日、70代に占める認知症の人の割合を、2025年までの6年間で6%減らすとの数値目標を公表した。現役世代の減少や介護人材の不足、社会保障費の抑制に対応するために認知症の予防促進を掲げており、その一環として初めて数値目標を設定する。来月決定する認知症対策の指針となる大綱に盛り込む。
厚生労働省の推計によると、65歳以上の認知症の人は15年時点で約520万人おり、65歳以上の人口の約16%。25年には約700万人となり、約20%に達する。「生涯現役社会の実現」を掲げる政府は、認知症対策を重要課題と位置付け、数値目標を設定することにした。
16日の有識者会議に示した方針では、70代で認知症になる時期を19~29年の10年間で現在より1歳遅らせることで、70代の認知症の人の割合は約10%減るとした。25年には団塊の世代が全員75歳以上となり、認知症の人の増加が見込まれることから、25年までの6年間の目標として6%減を掲げることにした。
6%減が達成できた場合、70~74歳の認知症の割合は18年の3・6%から3・4%に、75~79歳の10・4%は9・8%に下がることになる。
目標達成に向けて進める認知症予防の取り組みとしては、運動不足の解消や社会参加を促すための「通いの場」の拡充や、保健師や管理栄養士による健康相談、自治体が実施する取り組みの好事例集の作成などを挙げた。ただ、実効性や数値目標が実際に達成に至るかは不透明だ。
政府は15~25年を対象とした認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)を策定ずみだが、対策を強化するため、25年までを対象とした大綱を来月まとめる方針。これまでは認知症になっても地域で安心して暮らせるようにする「共生」に重点を置いていたが、大綱では「共生」と「予防」の2本柱とする。(石川春菜)
数値目標、「副作用」も
認知症に向き合う現場では、科学的根拠に基づく予防のあり方を研究したり、実践したりする取り組みも進められている。病気の進行抑制など、すでに認知症になった人にとっても意味を持つ内容もある。こうした予防の取り組み自体は否定されるものではない。
しかし、認知症の国家戦略とも言うべき大綱に、認知症の人の割合を減らす数値目標を盛り込むことは、予防そのものの意義とは別の危うさをはらむ。新たな大綱において、予防と並ぶ柱は「共生」。認知症になっても、その人らしく、共に生きられる社会づくりを、という方向性だ。削減目標はこの共生の理念を揺るがしかねない。
かつて認知症は「痴呆(ちほう)」「ぼけ」と呼ばれ、本人は「何もわからない」という偏見のなかで孤立していた。近年、認知症の人自身が思いを語ることで、少しずつその壁を崩してきた。本人の活動や交流の場は急速に広がっている。交通機関や企業も加わって、認知症にやさしい街づくりが各地で進められつつある。
いま国が予防を強調する背景には、社会保障費抑制の狙いもあるだろう。いまだ根強い偏見の中で、財政的圧力を背景とした削減目標の数字が独り歩きすれば、自治体が認知症の削減率を競うような、思わぬ副作用が生じないとも言い切れない。
認知症の当事者でつくる日本認知症本人ワーキンググループのメンバーは今年3月、厚生労働相らと意見交換をした際、予防重視の方針について、「頑張って予防に取り組んでいながら認知症になった人が、落第者になって自信をなくしてしまう」との意見を伝えたという。こうした当事者の懸念を軽視すべきではない。誰のための予防で、何のための削減目標なのか。政府は、わかりやすく明確に説明する必要がある。(編集委員・清川卓史)
【下平】
子供のころは認知症という言葉を聞いたことがなかった。 この言葉から受ける印象はいろいろのことを認知判断できなくなる病気とでもいうのだろう。 病気の概念は本人自身も拒否したい言葉だろう。
昔は、「ぼけてきた」という受け止めであった。 年配が進むと、だれでも物事を忘れるようになる。 私などこの言葉の漢字はどういう文字だったっけと思い出せないようになっている。
これは年配者に共通する老化現象であり、だだ思い出せないとか忘れてしまうとか大脳活動の老化ばかりではなく、足腰の老化も漸次進んでいるのです。 第一、一番大事な細胞が老化してくるのです。 やがて、総合的な老化が進んで生命の終焉を迎えることになるのです。
この現実を拒否することはできません。
樹木希林さんの言葉にもあるように、「死ぬことくらい自由にさせて……」 その通りであり、これは生命の卒業資格なんです。 そのことを前提として、私たちは卒寿以後の大筋の道を間違えないようにしたいものなんです。 終焉を迎える資格は、ご苦労様というねぎらいの言葉を受取ることではないし、共生とか認知症予防とかそうした処遇を望むものでもありません。
老人としてのいたわりは有難くお受けします。 私たちには私たち自身で終焉を迎える心構えを持たなければならないのです。
その基本になる大筋のことは三つあります。
はず第一には、足腰を丈夫にすること。 それは、下の始末を自分でするためにも大事なことであり、人様に迷惑をかけないようにするためです。
そのために、細胞の新陳代謝を図ることであり、手足の運動やウォーキングであったり、複数の人たちとの活動方法もあったり、場所や器具があればなお嬉しいと思います。
第二には、すべてが老化してきますから、老化に応じた食事をすることです。 たくさん食べるなんてことはできなくなってきますから、何をどんな方法で食べたらいいのかとか、時にはみんなで楽しい食事会を開いたりとか、老人食のバランスや分量なども教えてほしいことなのです。
第三には年をとっても、明日は何をしようという好奇心というか、希望というか、望みというか、そうした意欲を持つことです。 テレビもいいでしょう。 けれども年をとっても畑仕事はいろいろの意味があって、老人にはよい運動や、いろいろと考えがわくもので、手っ取り早い興味を持たせてくれる活動になります。 これは一人で思った通りの活動や収穫までも褒美がついているのです。
よく食べて、よく活動して、いろいろ望みをもってすることが、健康な生活をすることになるのです。
政治的な手法で認知症を少なくしようとか、高齢者に対する対処方法を考えるとか、そんなことは私たちには必要なこととは考えられません。 自分で認知症にならず、人様に迷惑にならないようにすることこそ、認知症の人を少なくしたり、その割合を少なくしようという考えより、もっと直接的であり、高齢者に夢をもって健康にしてもらう対策になりましょう。
05 17 (金) 寒山拾得 今私たちに必要なもの
いつごろか寒山拾得の絵を見たことがあった。 変な顔をした人だった。 ただ、足の指は力強く大地にめりこんだように書かれていた記憶が残っていた。
その後、いつか張継の楓橋夜泊という掛軸を手に入れ二階六畳間の床へ掛けていた。 詩吟にも言葉を見ながら情景をしのび吟じたことがあった。
こんなわけで、寒山拾得を調べたこともあったが、どこかに残っているかもしれない。 今また調べてみると、森鴎外の寒山拾得縁起でわかるように、彼が秀でた文才をもって書き残したことであることが理解できた。 しかし、寒山拾得にかかわる漢詩はいずれも格式を持っておりその品格は一定水準を保っているという。
漢文学から受けた日本の品格は計り知れないと思う。 ただ近代的な金銭にまつわる政治意識でトインビーの言うような東アジア経済圏を考えるだけでは生活の内実は薄くなる。 そうでなくても、今のテレビ文化にみられる「お笑い文化の蔓延」は古老の顰蹙 を察するに余りある。
文化というものは、もっと他人を思いやる品格があってこそ世の中に平和をもたらすことになる筈である。 生意気なことを書きたてるけれど、年寄りの願いである。
寒山拾得から somthing great(サムスィング・グレイト=何か偉大なエネルギーをもつもの) を受取りたい。 東洋文化を引き継いでいくために !!
青空文庫
森 鴎外
寒山拾得
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/1071_17107.html
唐<トウ>の貞観<ジョウガン>のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである。閭丘胤<リョキュウイン>という官吏がいたそうである。もっともそんな人はいなかったらしいと言う人もある。なぜかと言うと、閭は台州の主簿になっていたと言い伝えられているのに、新旧の唐書に伝が見えない。主簿といえば、刺史<シシ>とか太守とかいうと同じ官である。支那全国が道に分れ、道が州または郡に分れ、それが県に分れ、県の下に郷があり郷の下に里がある。州には刺史といい、郡には太守という。一体日本で県より小さいものに郡の名をつけているのは不都合だと、吉田東伍さんなんぞは不服を唱えている。閭がはたして台州の主簿であったとすると日本の府県知事くらいの官吏である。そうしてみると、唐書の列伝に出ているはずだというのである。しかし閭がいなくては話が成り立たぬから、ともかくもいたことにしておくのである。
さて閭が台州に着任してから三日目になった。長安で北支那の土埃<ツチホコリ>をかぶって、濁った水を飲んでいた男が台州に来て中央支那の肥えた土を踏み、澄んだ水を飲むことになったので、上機嫌である。それにこの三日の間に、多人数の下役が来て謁見<エッケン>をする。受持ち受持ちの事務を形式的に報告する。そのあわただしい中に、地方長官の威勢の大きいことを味わって、意気揚々としているのである。
閭は前日に下役のものに言っておいて、今朝は早く起きて、天台県の国清寺をさして出かけることにした。これは長安にいたときから、台州に着いたら早速往こうときめていたのである。
何の用事があって国清寺へ往くかというと、それには因縁がある。閭が長安で主簿の任命を受けて、これから任地へ旅立とうとしたとき、あいにくこらえられぬほどの頭痛が起った。単純なレウマチス性の頭痛ではあったが、閭は平生から少し神経質であったので、かかりつけの医者の薬を飲んでもなかなかなおらない。これでは旅立ちの日を延ばさなくてはなるまいかと言って、女房と相談していると、そこへ小女が来て、「只今<タダイマ>ご門の前へ乞食坊主<コジキボウズ>がまいりまして、ご主人にお目にかかりたいと申しますがいかがいたしましょう」と言った。
「ふん、坊主か」と言って閭はしばらく考えたが、「とにかく逢ってみるから、ここへ通せ」と言いつけた。そして女房を奧へ引っ込ませた。
元来閭は科挙に応ずるために、経書<ケイショ>を読んで、五言の詩を作ることを習ったばかりで、仏典を読んだこともなく、老子を研究したこともない。しかし僧侶や道士というものに対しては、なぜということもなく尊敬の念を持っている。自分の会得<エトク>せぬものに対する、盲目の尊敬とでも言おうか。そこで坊主と聞いて逢おうと言ったのである。
まもなくはいって来たのは、一人の背の高い僧であった。垢<アカ>つき弊<ヤブ>れた法衣<ホウエ>を着て、長く伸びた髪を、眉の上で切っている。目にかぶさってうるさくなるまで打ちやっておいたものと見える。手には鉄鉢<テッパツ>を持っている。
僧は黙って立っているので閭が問うてみた。「わたしに逢いたいと言われたそうだが、なんのご用かな」
僧は言った。「あなたは台州へおいでなさることにおなりなすったそうでございますね。それに頭痛に悩んでおいでなさると申すことでございます。わたくしはそれを直して進ぜようと思って参りました」
「いかにも言われる通りで、その頭痛のために出立の日を延ばそうかと思っていますが、どうして直してくれられるつもりか。何か薬方でもご存じか」
「いや。四大の身を悩ます病は幻でございます。ただ清浄な水がこの受糧器に一ぱいあればよろしい。咒<マジナイ>で直して進ぜます」
「はあ咒をなさるのか」こう言って少し考えたが「仔細あるまい、一つまじなって下さい」と言った。これは医道のことなどは平生深く考えてもおらぬので、どういう治療ならさせる、どういう治療ならさせぬという定見がないから、ただ自分の悟性に依頼して、その折り折りに判断するのであった。もちろんそういう人だから、かかりつけの医者というのもよく人選をしたわけではなかった。素問<ソモン>や霊枢<レイスウ>でも読むような医者を捜してきめていたのではなく、近所に住んでいて呼ぶのに面倒のない医者にかかっていたのだから、ろくな薬は飲ませてもらうことが出来なかったのである。今乞食坊主に頼む気になったのは、なんとなくえらそうに見える坊主の態度に信を起したのと、水一ぱいでする咒なら間違ったところで危険なこともあるまいと思ったのとのためである。ちょうど東京で高等官連中が紅療治<ベニリョウジ>や気合術に依頼するのと同じことである。
閭は小女を呼んで、汲みたての水を鉢<ハチ>に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれを受け取って、胸に捧げて、じっと閭を見つめた。清浄な水でもよければ、不潔な水でもいい、湯でも茶でもいいのである。不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪<モッケ>の幸いであった。しばらく見つめているうちに、閭は覚えず精神を僧の捧げている水に集注した。
このとき僧は鉄鉢の水を口にふくんで、突然ふっと閭の頭に吹きかけた。
閭はびっくりして、背中に冷や汗が出た。
「お頭痛は」と僧が問うた。
「あ。癒<ナオ>りました」実際閭はこれまで頭痛がする、頭痛がすると気にしていて、どうしても癒らせずにいた頭痛を、坊主の水に気を取られて、取り逃がしてしまったのである。
僧はしずかに鉢に残った水を床に傾けた。そして「そんならこれでお暇<イトマ>をいたします」と言うや否や、くるりと閭に背中を向けて、戸口の方へ歩き出した。
「まあ、ちょっと」と閭が呼び留めた。
僧は振り返った。「何かご用で」
「寸志のお礼がいたしたいのですが」
「いや。わたくしは群生<グンショウ>を福利し、※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61]慢<キョウマン>を折伏<シャクブク>するために、乞食<コツジキ>はいたしますが、療治代はいただきませぬ」
「なるほど。それでは強<シ>いては申しますまい。あなたはどちらのお方か、それを伺っておきたいのですが」
「これまでおったところでございますか。それは天台の国清寺で」
「はあ。天台におられたのですな。お名は」
「豊干<ブカン>と申します」
「天台国清寺の豊干とおっしゃる」閭はしっかりおぼえておこうと努力するように、眉をひそめた。「わたしもこれから台州へ往くものであってみれば、ことさらお懐かしい。ついでだから伺いたいが、台州には逢いに往ってためになるような、えらい人はおられませんかな」
「さようでございます。国清寺に拾得<ジットク>と申すものがおります。実は普賢<フゲン>でございます。それから寺の西の方に、寒巌という石窟<セキクツ>があって、そこに寒山<カンザン>と申すものがおります。実は文殊<モンジュ>でございます。さようならお暇<イトマ>をいたします」こう言ってしまって、ついと出て行った。
こういう因縁があるので、閭は天台の国清寺をさして出かけるのである。
――――――――――――
全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。自分の職業に気を取られて、ただ営々役々<エキエキ>と年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じことである。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着<ムトンジャク>な人である。
つぎに着意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務めは怠らずに、たえず道に志していることもある。儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督<クリスト>教に入っても同じことである。こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。つづめて言えばこれは皆道を求める人である。
この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念<アキラ>め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠<セイコク>を得ていても、なんにもならぬのである。
――――――――――――
閭は衣服を改め輿<ヨ>に乗って、台州の官舍を出た。従者が数十人ある。
時は冬の初めで、霜が少し降っている。椒江<ショウコウ>の支流で、始豊渓<シホウケイ>という川の左岸を迂回しつつ北へ進んで行く。初め陰<クモ>っていた空がようよう晴れて、蒼白<アオジロ>い日が岸の紅葉<モミジ>を照している。路<ミチ>で出合う老幼は、皆|輿<ヨ>を避けてひざまずく。輿の中では閭がひどくいい心持ちになっている。牧民の職にいて賢者を礼するというのが、手柄のように思われて、閭に満足を与えるのである。
台州から天台県までは六十里半ほどである。日本の六里半ほどである。ゆるゆる輿を舁<カ>かせて来たので、県から役人の迎えに出たのに逢ったとき、もう午<ヒル>を過ぎていた。知県の官舎で休んで、馳走<チソウ>になりつつ聞いてみると、ここから国清寺までは、爪尖上<ツマサキア>がりの道がまた六十里ある。往き着くまでには夜に入りそうである。そこで閭は知県の官舎に泊ることにした。
翌朝知県に送られて出た。きょうもきのうに変らぬ天気である。一体天台一万八千丈とは、いつ誰が測量したにしても、所詮高過ぎるようだが、とにかく虎のいる山である。道はなかなかきのうのようには捗<ハカド>らない。途中で午飯<ヒルメシ>を食って、日が西に傾きかかったころ、国清寺の三門に着いた。智者大師の滅後に、隋<ズイ>の煬帝<ヨウダイ>が立てたという寺である。
寺でも主簿のご参詣だというので、おろそかにはしない。道翹<ドウギョウ>という僧が出迎えて、閭を客間に案内した。さて茶菓の饗応が済むと、閭が問うた。「当寺に豊干という僧がおられましたか」
道翹が答えた。「豊干とおっしゃいますか。それはさきころまで、本堂の背後<ウシロ>の僧院におられましたが、行脚<アンギャ>に出られたきり、帰られませぬ」
「当寺ではどういうことをしておられましたか」
「さようでございます。僧どもの食べる米を舂<ツ>いておられました」
「はあ。そして何かほかの僧たちと変ったことはなかったのですか」
「いえ。それがございましたので、初めただ骨惜しみをしない、親切な同宿だと存じていました豊干さんを、わたくしどもが大切にいたすようになりました。するとある日ふいと出て行ってしまわれました」
「それはどういうことがあったのですか」
「全く不思議なことでございました。ある日山から虎に騎<ノ>って帰って参られたのでございます。そしてそのまま廊下へはいって、虎の背で詩を吟じて歩かれました。一体詩を吟ずることの好きな人で、裏の僧院でも、夜になると詩を吟ぜられました」
「はあ。活きた阿羅漢<アラカン>ですな。その僧院の址<アト>はどうなっていますか」
「只今もあき家になっておりますが、折り折り夜になると、虎が参って吼<ホ>えております」
「そんならご苦労ながら、そこへご案内を願いましょう」こう言って、閭は座を起った。
道翹は蛛<クモ>の網<イ>を払いつつ先に立って、閭を豊干のいたあき家に連れて行った。日がもう暮れかかったので、薄暗い屋内を見廻すに、がらんとして何一つない。道翹は身をかがめて石畳の上の虎の足跡を指さした。たまたま山風が窓の外を吹いて通って、うずたかい庭の落ち葉を捲き上げた。その音が寂寞<セキバク>を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の根を締めつけられるように感じて、全身の肌に粟<アワ>を生じた。
閭は忙<セワ>しげにあき家を出た。そしてあとからついて来る道翹に言った。「拾得<ジットク>という僧はまだ当寺におられますか」
道翹は不審らしく閭の顏を見た。「よくご存じでございます。先刻あちらの厨<クリヤ>で、寒山と申すものと火に当っておりましたから、ご用がおありなさるなら、呼び寄せましょうか」
「ははあ。寒山も来ておられますか。それは願ってもないことです。どうぞご苦労ついでに厨にご案内を願いましょう」
「承知いたしました」と言って、道翹は本堂について西へ歩いて行く。
閭が背後<ウシロ>から問うた。「拾得さんはいつごろから当寺におられますか」
「もうよほど久しいことでございます。あれは豊干さんが松林の中から拾って帰られた捨て子でございます」
「はあ。そして当寺では何をしておられますか」
「拾われて参ってから三年ほど立ちましたとき、食堂<ジキドウ>で上座の像に香を上げたり、燈明を上げたり、そのほか供<ソナ>えものをさせたりいたしましたそうでございます。そのうちある日上座の像に食事を供えておいて、自分が向き合って一しょに食べているのを見つけられましたそうでございます。賓頭盧尊者<ビンズルソンジャ>の像がどれだけ尊いものか存ぜずにいたしたことと見えます。唯今<タダイマ>では厨で僧どもの食器を洗わせております」
「はあ」と言って、閭は二足三足歩いてから問うた。「それから唯今寒山とおっしゃったが、それはどういう方ですか」
「寒山でございますか。これは当寺から西の方の寒巌と申す石窟に住んでおりますものでございます。拾得が食器を滌<アラ>いますとき、残っている飯や菜を竹の筒に入れて取っておきますと、寒山はそれをもらいに参るのでございます」
「なるほど」と言って、閭はついて行く。心のうちでは、そんなことをしている寒山、拾得が文殊<モンジュ>、普賢<フゲン>なら、虎に騎<ノ>った豊干はなんだろうなどと、田舎者が芝居を見て、どの役がどの俳優かと思い惑うときのような気分になっているのである。
――――――――――――
「はなはだむさくるしい所で」と言いつつ、道翹は閭を厨のうちに連れ込んだ。
ここは湯気が一ぱい籠<コ>もっていて、にわかにはいって見ると、しかと物を見定めることも出来ぬくらいである。その灰色の中に大きい竈<カマド>が三つあって、どれにも残った薪<マキ>が真赤に燃えている。しばらく立ち止まって見ているうちに、石の壁に沿うて造りつけてある卓<ツクエ>の上で大勢の僧が飯や菜や汁を鍋釜<ナベカマ>から移しているのが見えて来た。
このとき道翹が奧の方へ向いて、「おい、拾得」と呼びかけた。
閭がその視線をたどって、入口から一番遠い竈の前を見ると、そこに二人の僧のうずくまって火に当っているのが見えた。
一人は髪の二三寸伸びた頭を剥<ム>き出して、足には草履をはいている。今一人は木の皮で編んだ帽をかぶって、足には木履<ボクリ>をはいている。どちらも痩<ヤ>せてみすぼらしい小男で、豊干のような大男ではない。
道翹が呼びかけたとき、頭を剥き出した方は振り向いてにやりと笑ったが、返事はしなかった。これが拾得だと見える。帽をかぶった方は身動きもしない。これが寒山なのであろう。
閭はこう見当をつけて二人のそばへ進み寄った。そして袖を掻<カ>き合わせてうやうやしく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋<シヒギョタイ>、閭丘胤<ロキュウイン>と申すものでございます」と名のった。
二人は同時に閭を一目見た。それから二人で顏を見合わせて腹の底からこみ上げて来るような笑い声を出したかと思うと、一しょに立ち上がって、厨を駆け出して逃げた。逃げしなに寒山が「豊干がしゃべったな」と言ったのが聞えた。
驚いてあとを見送っている閭が周囲には、飯や菜や汁を盛っていた僧らが、ぞろぞろと来てたかった。道翹は真蒼<マッサオ>な顏をして立ちすくんでいた。
大正五年一月
大正五年一月
森 鴎外
寒山拾得縁起
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/43732_17109.html
徒然草に最初の仏はどうして出来たかと問われて困ったというような話があった。 子供に物を問われて困ることはたびたびである。 中にも宗教上のことには、答に窮することが多い。 しかしそれを拒んで答えずにしまうのは、ほとんどそれはうそだというと同じようになる。 近ごろ帰一協会などでは、それを子供のために悪いと言って気づかっている。
寒山詩が所々で活字本にして出されるので、私のうちの子供がその広告を読んで買ってもらいたいと言った。
「それは漢字ばかりで書いた本で、お前にはまだ読めない」と言うと、重ねて「どんなことが書いてあります」と問う。 多分広告に、修養のために読むべき書だというようなことが書いてあったので、子供が熱心に内容を知りたく思ったのであろう。
私はとりあえずこんなことを言った。 床の間にさきごろかけてあった画をおぼえているだろう。 唐子<からこ>のような人が二人で笑っていた。 あれが寒山と拾得とを書いたものである。 寒山詩はその寒山の作った詩なのだ。 詩はなかなかむずかしいと言った。
子供は少し見当がついたらしい様子で、「詩はむずかしくてわからないかもしれませんが、その寒山という人だの、それと一しょにいる拾得という人だのは、どんな人でございます」と言った。 私はやむことを得ないで、寒山拾得の話をした。
私はちょうどそのとき、何か一つ話を書いてもらいたいと頼まれていたので、子供にした話を、ほとんどそのまま書いた。 いつもと違って、一冊の参考書をも見ずに書いたのである。
この「寒山拾得」という話は、まだ書肆<しょし>の手にわたしはせぬが、多分新小説に出ることになるだろう。
子供はこの話には満足しなかった。 大人の読者はおそらくは一層満足しないだろう。 子供には、話したあとでいろいろのことを問われて、私はまたやむことを得ずに、いろいろなことを答えたが、それをことごとく書くことは出来ない。 最も窮したのは、寒山が文殊で拾得は普賢だと言ったために、文殊だの普賢だののことを問われ、それをどうかこうか答えるとまたその文殊が寒山で、普賢が拾得だというのがわからぬと言われたときである。 私はとうとう宮崎虎之助さんのことを話した。 宮崎さんはメッシアスだと自分で言っていて、またそのメッシアスを拝みに往く人もあるからである。 これは現在にある例で説明したら、幾らかわかりやすかろうと思ったからである。
しかしこの説明は功を奏せなかった。子供には昔の寒山が文殊であったのがわからぬと同じく、今の宮崎さんがメッシアスであるのがわからなかった。 私は一つの関を踰<こえ>て、また一つの関に出逢ったように思った。 そしてとうとうこう言った。 「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」
張継
楓橋夜宿 掛軸
http://www.kangin.or.jp/learning/text/chinese/kanshi_A05_3.html
月落烏啼 霜満天 つきおちからすないて しもてんにみつ
江楓漁火 對愁眠 こうふうぎょか しゅうみんにたいす
姑蘇城外 寒山寺 こそじょうがい かんざんじ
夜半鐘聲 到客船 やはんのしょうせい かくせんにいたる
詩の意味
月は沈み夜烏 が啼き、霜の降りる気配が天に満ち満ちて、冷え込んできた。川岸の楓 の木々の間には漁火 が点々として、旅愁のためにうつらうつらとして眠れない私の目に映る。
もう夜明けも近いのかなと思っているところへ、姑蘇城外の寒山寺から打ちだされる夜半を告げる鐘の音が、私の乗っている旅の船にまで響いて来たのであった。
鑑賞
寒さとわびしさに震えている張継
おそらく南方の地方官に赴任を命ぜられたころの作ではないでしょうか。都を出たころにはまだ暑さも残っていましたが、もう霜の降る晩秋なのです。船の外はまだ暗闇ですが、近くには漁火がちらついています。もうすぐ夜明けだと思っていたら、近くの寺から真夜中を告げる鐘の音が聞こえて、暁までには時間があるなと思い直し、夜具を掛け直しているせつない作者が偲ばれます。
語句の意味
楓 橋蘇州(今の江蘇省蘇州市)の西郊にある橋 このあたりは当時南北往来の要路であった
江 楓川岸の楓の木
愁 眠旅愁のため熟睡できないでうつらうつらしている
姑蘇城春秋時代の呉の都 今の蘇州市
寒山寺蘇州の西郊の楓橋近くにある名鐘で名高い寺
客 船旅人すなわち作者を乗せた船
詩の形
仄 起こり七言絶句 の形であって、下平声 一先 韻の天 、眠 、船 の字が使われている。
起句 承句 転句 結句
作者
張 継 生没年不詳
中唐の政治家・詩人
湖北省襄州の人。753年(年齢不詳)に進士に及第し、節度使(地方の軍政や行政をつかさどる長官)の属官や塩・鉄の専売を監督する官などを歴任し、760年ごろには都に帰って中央政府の役人に就いている。地方では善政を敷き、政治家としても評価が高かった。容姿は美しく清らかで、道教者の風格があったとも伝えられているが詳しいことはよくわからない。
松岡正剛の千夜千冊
寒山拾得 座右版 久須本文雄著 講談社
https://1000ya.isis.ne.jp/1557.html
一たび寒山に住みて万事休す
更に雑念の心頭に掛かるなし
閑 かに石壁に於いて詩句を題し
任運なること還 た
繋がざる舟に同じ
凡 そ我が詩を読む者は
心中須 らく護浄すべし
慳貪 は日に継いで廉 く
諂曲 は時を登 うて正しからん
寒山 と拾得 。
この二人はいったい何者なのか。
秋風が少し身に沁むようになった今宵は、
この飄逸無辺で清浄無垢なる奇人について
しばし案内してみたい。
森鴎外(758夜)に小篇『寒山拾得』がある。
唐の貞観期に閭丘胤 という役人がいて、台州の主簿に任命された。赴任間近になってたいそうな頭痛に悩まされ、さあどうしたものかと女房と相談していたところへ、雇いの小女 が「只今、玄関に乞食坊主がまいりまして、お目にかかりたいと申しております」と言ってきた。 さて誰かと訝ったが、閭は科挙のための経書は読んでいたものの仏典など知らないので、日頃から仏僧や道士にはなんとなく畏敬をもっていた。そこで会ってみることにした。背の高い僧で、手に鉄鉢をもっている。なぜわしに会いに来たのかと問うと、あなたは台州へ行くのに頭痛に悩んでおられる、私が治してしんぜようと思ったと言う。
それならいい薬でもあるのかと問うと、いや浄水だけで結構だと言う。小女に汲み水をもってこさせると、坊主は水にしばらく心を傾注したかと思うとこれを口に含み、突然にプーッと閭の頭に一気に吹きかけた。突然のことに閭はびっくりして背中に冷や汗が出た。気がつくと頭痛が治っている。
坊主は残った水を静かに床に流すと、ではこれでお暇しますとくるりと背を向けて戸口に歩きだす。
慌てて「いや、お待ちなさい、お礼がしたい」と言っても、「私は群生 を福利し、驕慢を折伏するために乞食 はいたしますが、治療代はいただきません」とにべもない。ではせめて名前を聞かせてほしいと尋ねると、これまでは天台の国清寺にいて、名は豊干 だという。
それならそこは私がこれから赴任する台州である。ゆっくりお訪ねしたいと言うと、いやいや私はもうそこから出たというので、国清寺にはほかにどなたかおられるかと重ねて聞くと、拾得 という者がいて、これは実は普賢 である。また、寺の西の石窟には寒山 という者がいて、これは実は文殊 なんですなと言って、そのまま帰ってしまった。
台州に赴任した閭 が従者数十人を連れて、さっそく冬の初めの国清寺を訪ねたのは当然だ。道翹 という僧が出迎えた。
豊干のことを聞いてみると、僧たちの食べる米を搗いていた者で、いまは行脚 に出ているという。それなら拾得に会いたいのだが、どういう方かと聞くと「豊干さんが松林の中で拾ってきた捨て子です」という。いまは厨 で僧どもの食器を洗っているらしい。次に寒山のことを尋ねると、拾得さんが食器を洗うときに残りものの飯や菜を竹の筒に入れておくのですが、それを寒山は貰っていくのですという説明だ。
ともかく会うことにした。道翹は厨に案内してくれた。湯気がいっぱいこもっている中に、灰色の竈 が三つあって、薪が真っ赤に燃えていた。そのそばでは、たくさんの僧たちが飯や菜や汁を鍋釜に移している。道翹が「おい、拾得」と呼ぶと、遠い竈の前に髪ののびた頭を半ば剥き出しにした男と、木の皮で編んだ帽をかぶった男がいる。二人とも小男である。
閭は二人のそばに進んで、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申す者である」と名のったところ、一拍あって、二人は顔を見合わせて腹の底からこみあげてくるような笑い声を出したかと思うと、一緒に立ち上がって駆け出していった。駆け出す際に「豊干がしゃべったな」と寒山が言ったのが聞こえた。
驚いた閭のまわりに、僧たちがぞろそろと近寄ってきた。道翹は真っ青な顔をして立ちすくんでいた‥‥。
こういう話だ。なんとも奇妙な味がある。
鴎外が考えた話ではない。元の話がある。『寒山詩集』の序に閭自身が寄せた一文だ。これを鴎外が翻案した。さすがに文章のキレがついてはいるが、たいして粉飾していない。
閭が序文で何を書いたかというと、寒山が拾得に竹筒の残飯をもらって、それを背負って愉快そうに独り言を言ったり笑ったりする正体不明の僧で、樺の木の皮を冠とし、破れた木綿の衣をまとい、村ではよく牛飼いの童子と遊んだり喧嘩をしている。
そうした寒山を寺僧たちが叱ったり叩いたりすると、苦しまぎれにパッと言い放つことが妙に道理に適っている。また、一人で廊下を走っているときに「やあやあ、三界輪廻だ」などと唸っている。あまりに変なそぶりをするので気になって兄弟子がもう一度様子をうかがいにいくと、大声で「賊が来た、賊が来た」なんて言う。というようなことを綴っているのだ。拾得も似たようなものである。
国清寺は天台山にある名刹で、そこを含めて天台寺といわれた時期もあった。そんな麗々しいところに奇妙な乞食坊主が二人いて、仲良く傍若無人にふるまっていたというのだから、これはいったい何の話だか、もともと説明がつかない内容だ。
しかし、これだけで深山に籠もる寒山拾得の奇行というべきものを伝聞させるには十分だった。鴎外がそうしたように、寒山と拾得の噂は各地の禅林を中心に少しずつ広まっていったようで、結局は鴎外がまとめた話のようなものとして後世に伝聞されていったとおぼしい。宋代にはある程度知られる話になっていたらしい。それが日本にも伝わった。
実際に豊干や寒山や拾得が国清寺にいたのかどうかというと、いまだに詳らかになってはいない。
ただ道士の杜光庭の『仙伝拾遺』には寒山が天台山に隠棲して詩を詠んでは樹間石上にそれらを書き散らしていたというふうにあるし、ほかにも『宋高僧伝』には禅師の為山 が天台山で寒山に会ったとか、『古尊宿語録』などでは趙州 が天台山で問答をしたとの記述もあるので、天台山あたりにそのような風変わりな僧がいたらしいことは、どうやら事実なのである。
けれども稗史が大好きな鴎外も、そのへんのことは時代考証などしていない。したくともできなかったのだ。かれらの事蹟については漢詩のほかにろくな文献がないからだ。その後、井伏鱒二(238夜)がやはり『寒山拾得』を書いたときも、二人の出自や背景などどうでもよくて、ただ禅院に放埒で偏屈な二人の雲水がいたというくらいの趣向をもって、少し時代と登場人物を変えて書いている。
豊干・寒山・拾得には300余首の漢詩がのこっている。多くはないが、少なくもない。だからこの漢詩のどこかに寒山拾得の人生を推し量る「故」があるはずなのだが、詩文はほとんど具体的なことを書いていない。
なんとか結像しそうなことは、寒山が自分のことを「生まれて従 り是れ農夫なり」と書いているので、畑を耕す家に生まれた貧農の子であったろうこと、「少小 くして経 と鋤 とを帯ぶ」と書いているので、農事のかたわらそうとう読書に耽ったのだろうこと、豊干が「寒山は特に相い訪ね 拾得は常に往来す」と詠んでいるので、豊干を通して寒山と拾得とは親しく交わることになったのだろうといったことだ。
また、寒山が「時の人 寒山を見て各 謂う 是れ風顛 なりと」と述べている箇所があって、寒山が何かの理由でフーテン呼ばわりされていただろうこともわかる。が、それ以上のことは書いていない。
だいたい寒山は「凡 そ我が詩を読む者は 心中須 らく護浄すべし慳貪 は日に継いで廉 く諂曲 は時を登 うて正しからん」と綴って、自分の詩を読む者に「お前ら、心を浄めて俺を読め」と先制打を放っている始末なのだ。
これではとりつくシマがない。きっと自分たちをフーテン扱いしたのは周囲の目が曇っているからで、こちとらは大いにまともなのだと言いたかったようなのだ。
ところが、その後の世には「寒山拾得図」という愉快で不気味な絵が描き続けられたのである。二人の得体が知れないから描かれたのか、あまりに奇妙な印象や風貌が伝えられていたから描かれたのかは、わからない。ともかくも寒山と拾得の二人の姿はその後の禅林水墨画のなかで、前代未聞の異様なコンビとして君臨することになった。
【写真・図版】<https://1000ya.isis.ne.jp/1557.htm>を開き参照すること
(左)「寒山図」伝蘿窓
(中)「寒山図」大千恵照賛
(右)「拾得図」虎厳浄伏賛
世界に美術の画題はいろいろあるが、寒山拾得図ほどに破顔大笑を屈託なく描いている絵は他にない。そこには不気味なほどの笑いが描かれてきた。
ヒエロニムス・ボッシュなら皮肉な笑いを描けたが、それはあまねく愚者にあてはめた哄笑図というもので、寒山拾得はそういう画題ではない。レオナルド・ダ・ヴィンチは奇形を描き、ピーテル・ブリューゲルは民衆の笑いを描いたけれど、それらは特定の誰かに当たっているわけではなかった。
けれども寒山拾得にあっては、いつもこの二人が特定されていて、ひたすら不気味に、かつ腹の底から愉快に笑うのだ。奈良美智の比ではない。
寒山拾得図は一度見たら忘れられるものじゃない。
二僧とも蓬頭垢面 、断衫破衣 。髪は蓬 のようにのばしっぱなし、顔は垢まみれで、衣はところどころ切れたり破れている。
季節に関係なく一枚きりの法衣を着ているので「一襦 というのだが、ところが貧相なのではない。襤褸 を着ているのになんだか誇りや自信に満ちている。寒山が自分の着衣と寝間着と褥 について、こんな詩を書いている。一襦に自負をもっている。
我れ今一襦 有り
羅 に非 ず復 た綺 に非ず
借問す何の色をか作 すと
紅 に不 ず亦た紫に不ず
夏天には将 って衫 と作 し
冬天には将って被 と作す
冬夏逓互 に用い
長年 只だ者 れ是 れのみ
自分は一枚こっきりの肌着をもっている。薄絹でもないし綾絹でもない。どんな色かと言われたって、いまや赤とも紫ともつかない。それでも夏になると短い単衣(ひとえ)に縫いなおし、冬にはこれを掛け布団にする。自分にはこれで冬と夏とが交互にやってくる。長年、こうしている。
白隠(731夜)が絶賛した詩だ。この詩は「空劫 以前も空劫以後も、唯だ此の一襦にして足ることを示している」と褒める。空劫以前とは、禅学では「父母未生以前」あるいは「本来面目」を言う。おやじやおふくろから生まれる以前からの自分じゃ、それこそ本来の面目じゃという思想だ。
よほど白隠は気にいったのである。「父母未生以前」の根性の持ち主で、その漢詩には「本来面目」があるというのだから、これは禅の高僧に向けての賞賛に近い。
絵のほうはどうかといえば、貧しい格好をしていて、おまけにただ笑っているだけである。なるほどそこをもって寒山も拾得も自信に満ちているように描かれてきたと言ってもいいが、とはいえ高僧のようには描かれない。不遜にすら見えるように描かれることもある。ところがそれが、ときに崇高にさえ見える。
図柄では寒山は巻軸を持ち、拾得は竹箒を持っていることが多い。それしか持っていない。禅の境地は「空手/rb> 」や「本来無一物」をモットーとするのだから、これは一種の悟境の表象である。だったら貧しい身なりの風顛 でかまわない。白隠が褒めたように、心が高潔であれば、それでいい。しかし二人の特徴はなんといっても世界を小馬鹿にしたように笑っているということなのだ。
これはやはり尋常ではない。いったいなぜ二人はこんなに哄笑できるのか。鎌倉期に来朝した禅僧の一山一寧 が、MOA美術館蔵の寒山図に賛を寄せているのだが、そこでは「一種の風顛 世に比 なし」という感想を述べていた。
まさに、そうなのだ。たんなる 風顛ではなく、「比類のない風顛」を描くという画趣が好まれ、東洋の片隅の水と墨と筆と紙の世界で継承され続けた。そこに天下を哄笑する破顔一笑が加わったのだ。まことにめずらしい画趣である。まことにグロテスク・ヒューマンな試みである。
ぼくはけっこうな数の寒山拾得図を見てきた。むろんこの絵柄が好きなのでついつい見てきたのだが、そのうち水墨画家たちの腕と趣向と魂胆の深浅がすぐに見抜けるようになった。
寒山拾得図を見ていると、こんなことを言ってはなんだけれど、とくに下手さかげんがよく見える。たとえば最近は誰もが褒めちぎる若冲 も、こと寒山拾得に関してはつまらない絵しか描けていなかった。
因陀羅 は元代の画僧だが、その絵は中国には作品がほとんど発見されずに、なぜか日本にばかりけっこう遺った。その因陀羅の寒山拾得図には3種類がある。一枚は東博所蔵の国宝で、互いに向き合った寒山と拾得が「豊干はどこに行ったのか」と尋ねられたのに、なぜか答えぬまま大笑いしているという図だ。けっこう好きな絵だ。楚石梵琦の賛がついていて、のちに松平不昧が箱書を認 めた。いまは法外な値がついている。
2種目は寒山が筆をもって芭蕉の葉に何かを書こうとし、拾得は白紙の一張の紙を両手で垂らしている。こちらには慈覚の賛が入っている。二人の所作の瞬間をとらえてちょっとおもしろいが、それ以上ではない。3種目は清遠文林の賛が入っていて、寒山はやはり筆を掲げ、拾得が白い紙を広げてこれを受けようとしている。定番の絵柄を流して描いたという程度のものだ。
水墨画を語る者には欠かせない因陀羅にして、この程度なのである。寒山拾得は絵描きを選ぶのだ。
【写真・図版】<https://1000ya.isis.ne.jp/1557.htm>
因陀羅「寒山拾得図」(二幅)
清遠文林による賛。
【写真・図版】<https://1000ya.isis.ne.jp/1557.htm>
因陀羅「寒山拾得図」(二幅)
慈覚による賛。 東京国立博物館所蔵。
ついでに話を続けると、因陀羅と並んで顔輝 のものもコレクターには好まれてはきたが、寒山と拾得が別々の絵で軸装されていて、表情は不気味な飄逸を醸し出しているものの、全容としては抜け切っていない。
一方、周文や可翁の寒山拾得図は悪くない。ぼくが周文のものを眺めたのはもう40年以上前になるが、童形のような寒山と拾得が仲睦まじくくっついている男色めいた図柄がめずらしく、何度も眺めてきた。春屋宗園の讚が入っている。この描き方はのちの文人画の風味のなかでも生かされた。周文や可翁については、『山水思想』(ちくま学芸文庫)を読んでいただきたい。
【写真・図版】<https://1000ya.isis.ne.jp/1557.htm>
可翁「寒山拾得図」(二幅)
一言でまとめると中国画家よりも日本の水墨画人のほうが、いい。おおむね奔放であり、飄逸であり、愉快なのである。
とくに際立つのは江戸に入ってからの禅画・文人画の拡散である。達磨図、羅漢図、布袋 、寒山拾得図がそうとうにふえた。これは俳諧・川柳・狂歌・浮世絵・黄表紙などの流行とみごとに軌を一にする。江戸文化はユーモア享受文化でもあったのである。
なかでやはりのこと、大雅・蕪村がおもしろく、あえて「生真面目」に描いて脱俗に導いている。とくに蕪村(850夜)は大上段に立像画のように描いた。まるで哲人だ。そこを逆に一気に放埒に向かったのが白隠や蘆雪や蕭白だろう。白隠は絵だけでなく『寒山詩闡提 記聞』という詳細な寒山の漢詩の解注もしていて、寒山拾得に対する心底並々ならぬ傾注を感じる。
和歌山田辺の高山寺にある長澤蘆雪の寒山拾得図も凄まじい。大画面に無一物の寒山と拾得を重なるように接近させて描き、この絵の主題にひそむグロテスク・ヒューマンな内奥に趣向と筆意が存分に及んでいて、天下の傑作になっている。最近は蘆雪の展覧会も多いので、よく知られる絵になっていよう。
曾我蕭白の二曲一双の図は2種類あって、二つとも一度見たら忘れられない。想像力が破裂しているかと思えるような、呆れるほどの奔放怪異だ。怪異というより魁偉と言ったほうがいいだろう。このようなB級巨篇に達することができるのも、日本の寒山拾得図の愉悦なのである。
【写真・図版】<https://1000ya.isis.ne.jp/1557.htm>
曽我簫白「寒山拾得図」(双幅)
それにしても寒山拾得図は二人を一対とする画像なのである。その二人ともがこみあげるものを抑えずに笑っている。
この、二人でひとつというところが、なんとも破格だ。東洋においてすら、これに匹敵するのはわずかに「三酸図 」と「虎渓 三笑図」と「四睡図 」くらいのものではあるまいか。
三酸図は二人ではなく、蘇東坡、黄山谷、仏印禅師の三人が桃花酸という酢をなめて眉を顰めるような、思わず互いにニヤリと笑うような、ちょっと困ったような笑い方をする三者を描く画題になっている。この三人で、儒教と道教と仏教の三教の味を比較したとも、揶揄したともいえる。だから三教の創始者たる孔子と老子と釈迦がお酢をなめていたっていい。
実際にも、諸橋轍次の『孔子・老子・釈迦 三聖会談』では、釈迦は酢に慣れていないので顔を顰めてこれを「苦い」と言い、孔子はその出来におもわず口をすぼめて「酸っぱい」と言い、老子は表情を変えずに「甘い」と言ったというふうに、三酸図を三聖吸酸図として解釈していた。時代をこえる三人の聖人が調味料に挑んでいるのに、この「酢」はその聖人たちを誑(たぶらか)すほどなのだ。
虎渓三笑図のほうは、浄土教をおこした晋の慧遠 が廬山の東林寺で修行をしていたころ、修行中は決して虎渓を渡るまいとわが身に誓っていたのだが、そこに訪ねてきた陸修静と陶淵明(872夜)と語らい、二人の帰途を送っているうちに虎渓を渡ってしまって、思わず三人で顔を見合わせて大笑いしたという故事を描いた。『廬山記』にのっている話だ。
虎渓は廬山にある渓谷で名勝として知られているところで(現在は江西省九江市)、そこに有名な漢 石橋(しゃっきょう)があった。修行者の身にある者がそんなところでうつつを抜かしてはならぬと戒められていたのに、うっかり石橋を渡ってしまった。こりゃまずい、しかし、まあ、しゃあないではないか、ワッハッハという絵だ。千葉の市美が所蔵している蕭白の虎溪図は、そういう故事を全山に塗りこめていた。
ちなみに虎溪山という地名は日本にもある。岐阜の多治見だ。むろん中国の名勝からの借景だが、ぼくが大好きな禅道場の永保寺 があるところでもあって、『アート・ジャパネスク』の「禅と水墨」の巻のための写真を森永純と撮りに行ったときが最初だったのだが、妙に気にいってそれから何度も訪れてきた。
いまはそのそばで、陶芸家の安藤雅信と服づくりの名人の安藤明子が「百草 というギャラリーを開いているのも香 しい。
【写真】 ギャルリ「百草」
四睡図は、これまたたいそうファンタジックである。豊干と寒山と拾得が、虎とともにすやすやと眠りこけているという絵だ。ファンタジックというより人を食った超俗図というに近い。
寒山拾得図も三酸図も三笑図も四睡図むろん禅機画や道釈画である。禅機画とか道釈画というのは、禅林にこれをわざとらしく飾っておいて雲水たちがその意図を左見右見 して思案するために描かれた絵で、いわば「見る禅語録」あるいは「描く公案」というものだ。
だから、そういう絵は修行者たちを迷わすへんてこだっていいわけで、そういうへんてこな絵こそが、布袋図であれ五百羅漢図であれ、不意の禅機や頓悟をもたらすのだが、とはいえ二人揃っての破顔一笑の絵はやはりめずらしい。
【写真・図版】<https://1000ya.isis.ne.jp/1557.htm>
黙庵「四睡図」 豊干、寒山および拾得が虎とともに睡る姿が描かれる禅画
ともかくも、こういう二人のフーテン坊主が深山奥深くの国清寺あたりに赤貧の日々をおくっていて、その風姿が長らく寒山拾得図として描き継がれてきたわけである。
それなら寒山と拾得がのこした肝心の詩から、以上のような風顛風狂の個性的な日々が覗けるかというと、それがどっこい、そうではない。かれらの漢詩はまことに静謐で、人生の無常をつねに訴えているばかりなのだ。たとえば一休(927夜)の『狂雲集』のような苛烈・揶揄・露悪の趣味がない。
ぼくはいまもって寒山拾得詩に水墨画にあらわれたような飄逸や風狂や呵々大笑を感じたことがない。だから、そういう詩を読んでいると、しばしばこちらの気概が試されるような気分になる。文芸作品でなく、精神の挑戦状のようになっているからだ。
ふつう、秀れた漢詩を読めば、その絶句や律詩の表現に酔い、その趣向に唸り、その作者の境涯にさまざまな想いを致すことができる。寒山拾得詩と接しているとそんな余裕は生まれない。 寒山と拾得は読む者にあえて名利を捨てさせ、無常をかこって禅定に達することを強いるのである。いわば説教をされているようなものなのだが、その強要が一貫して清冽なので、よほどこちらにその気分が去来していないと読めない。 ぼくは最初のうちは入矢義高や松村昂の注によって、ついでは白隠の『寒山詩闡提記聞』で、その禅味溢れる解義を追ってきた。そういう補助がないと、あまりに純度が高すぎるので、ときにつるつるしすぎた読みになってしまうのだ。
今夜のテキストと読み下しも、『宋代儒学の禅思想研究』や『日本中世禅林の儒学』の久須本文雄さんによる座右版に従ってはみたが、ときおり入矢義高読みや松村昴読みなどを加えた。ただ、これらの解説ももとはといえば白隠の解釈に依っているように思われる。 ちなみに寒山には287首の五言詩、21首の七言詩、6首の三言詩の、合計314首が遺っている。拾得は55首である。
さて、寒山の漢詩はどれもこれも、みごとなまでに胸中覚悟の清浄 を謳おうとして、実は寂莫の只中にある。それが一種の「寂び」のような味になっている。
一たび寒山に住みて 万事休す
更に雑念の心頭に掛かることなし
閑 かに石壁に於いて詩句を題し
任運なること還 た 繋がざる舟に同じ
「万事休す」とは、ひとたび寒山に住むようになると万事に決着がついたということだ。これで雑念が心のどこかにひっかかることもない。これまで面倒だった万事がすうっと遠のいたのである。だから巌 の壁に詩をあれこれ書きつけてきた。
こういう生き方は綱を解かれた舟に我が身を委ねたようなものである。自信があるわけではない。
別の詩では「誰か知らん塵俗を出でて 馭して寒山の南に上 らんとは」とも書いている。いったい自分がこんなふうに寒山に来て列子のように馭風に乗って空に遊ぶようになるなんて、誰も予想しなかったろうというのだ。きっとそんな気分に駆られたにちがいない。ここでは寒山は地名である。
ここに寒山に居 みてより
曾 て幾万載を経 たる
任運に林泉に遯 れ棲遅 して観自在
巌中 人到らず 白雲 常に靉靆 たり
細草を臥褥 と作
青天を被蓋 と為す
快活に石頭に枕し 天地を変改に任
なんらの予定も打算もないけれど、よほど寒山の地が気にいったのである。ここに居れば物我一如の心境になれる。自在な感想がもてる。粗末な細草を敷いて、青天を掛け布団にし、岩頭を枕にしていると、熟睡もできる。
別の詩では「ここに半日でもいれば、百年の愁いを忘却してしまう」とも詠んでいる。寒山という地形や風景が体に溢れて、うんうん、よしよし、どうでもいいぞという気分になったのだ。これはまさに良寛(1000夜)が憧れつづけた「任運謄々」というものでもあった。そのこと、次のようにも詠んだ。
独り重巌 の下 に臥す
蒸雲 昼も消えず 室中澳靉 なりと雖 も
心裏 喧囂 を絶つ
夢は去って金闕 に遊び
魂は帰って石橋 を度る
抛除 す我を鬧 す者
歴々 たる樹間の瓢
抛除とは、寒山にふさわしい言葉だ。騒々しいもの、すなわち「喧囂 」や「鬧 」を放り捨てる意味をあらわして、ぴったりだ。白隠はこの詩にはまさに「清閑独脱」の境地が突き抜けていると、またまた褒めた。
とはいえ、寒山は自信があってこんな孤絶の日々をおくっているのではない。むしろ寂しくて寂しくてしょうがないことを、あえて受け入れたのである。とくに喋る相手がいないことには、さすがにグチを洩している。
実際にも寒山に分け入って30年もたつと(一向寒山坐 淹留三十年)、自分の孤影しか見ることができない日々に、ときに二筋の涙が零れて頬を濡らすとも白状している(今朝対孤影 不覚涙雙懸)。
ぼくは、寒山の詩はそもそも「本末転倒」とは何かを考えている漢詩だと読んでいる。寒山は隠居や隠棲を自慢しているのではない。むしろこの隠遁は独善的なのではないかとも、たえず自問自答した。
このことは、たとえば次の詩の言い分にあらわれている。隠遁ばかりしているのでは、とても「道」を体感できないのではないかという危惧だ。この危惧、たいへんよくわかる。仕事を休んで悠々自適然となってみても、現場から引退をして勝手な日々を愉しんでいるふうになってみても、さあ、こんなことでよかったのかと思うときがあるものだが、寒山もそこを一身に刺して振り返ったのである。
しかし、こういうことをあえて踏ん張って言えるところが、寒山の寒山たるゆえんだった。
黙々として永く言うことなくんば
後生 何の述ぶるところあらん
隠居して林藪 に在 らば
智日 何に由ってか出でん
枯槁 は堅衛に非ず 風霜は夭疾上 を成す
土牛石田を耕す 未だ稲を得るの日あらず
いつも黙ってばかりいて言葉を発しなければ、いったい後世の者たちに何を伝えることができるのか。山林に棲んでばかりいては、いったい智慧の光はどこから出てくるか。 隠れて痩せることは、堅固な思想とはいえないかもしれない。ただ風霜に身を託しているだけかもしれない。土で作った牛で畑を耕そうとしたって、稲の収穫は得られないし、道を体得することもないかもしれない。
こういう「顧みる詩」だ。いじましい詩ではない。「しまった」でもない。たんなる自己反省でもない。むしろこれは本末転倒の根本を自問自答している詩だ。そこがなかなかの壮烈なのである。 だが実は、ここには仏教の底辺に自身を追いこんでいくような、自己と仏教との本末を問うものがある。そう、ぼくには感じられる。それは「向上」よりも「向下」に転進する時を、いったいどこにもつかということにほかならない。
われわれはついつい「向上」をモチベーションにして生きてきた。その思いで歯をくいしばって、仕事をしたり精を出してきた。むろんこのような向上心がなくては何にも始まらない。
しかしながら、いったい向上とは何なのか。自分というもののどこが向上するかといえば、その全身全体が平均的に向上するわけはない。植物の成長点と同様に、自分のどこかはめきめきと向上するのだろうが、そうでないところや腐っていくところや、混乱するところも自分には含まれる。
そうだとしたら、のべつまくなく漠然とした存在全貌の向上をめざしていてもうまくはいかない。それよりも弱点や負もかかえていたほうがいい。だとすれば、ときに体をぐるりと捩って「向下 」をするべきなのである。あるいは「放下 」するべきだ。仏教は、とくに禅は、そこをしばしば強調し、そこに言語道断を挟んできた。
かくて寒山の心境はゆっくりと皎潔 を得たようだ。先日の中秋の名月やスーパームーンではないけれど、寒山はそんな自分の心境を秋月に準 えた。
吾が心 秋月に似たり
碧潭 清くして皎潔 たり
物の比倫に堪うるなし
我をして如何ぞ説かしめん
さらにこんなふうにも詠んでいる。
巌前に独り静坐すれば
円月 天に当って輝き
万象 影中に現わる
一輪本 照らすなし
廓然として神 自から清く
虚を含みて洞として玄妙なり
指に因って其の月を見れば
月は是れ 心の枢要なり
羨ましいかぎりだが、なかなかこうはなるまい。
ぼくも若くして太陽力よりも月球感覚を選んで、さかんにルナティック・スピリットをもって自身の境涯の譬えにしてきたのだけれど(中公文庫『ルナティックス』参照)、だからある意味では「指に因ってその月を見れば、月はこれ心の枢要なり」という気持ちをあえてもってはいたのだけれど、それはぼくの描くルナティック・ヴィジョンであって、その境地に達したなどということではなかった。いまなおそんな境地にはほど遠い。
しかし、寒山はそうなったようだ。ただただ感服するしかない。だからみんなの前では大いに笑えたのである。
それでは今夜の最後に拾得と豊干の詩も紹介しておく。二つとも凄い詩だ。拾得は「無去無来不生滅」を謳い、豊干は「本来無一物」を放っている。
君見ずや三界の中 紛として擾擾
只だ無明 の了絶せざるが為なり
一念不生にして 心澄然 なれば
去 無く来 無く生滅 せず
拾得は妄想にとらわれなかった。「去なく、来なく、生滅せず」がすばらしい。どんなことも、それいっぱい。そこに去来するものに煩わさせなかった。そう言い放ったのだ。そこを豊干はこう詠んだ。
本来無一物 亦た塵の払う可 き無し
若 し能く 此れに了達すれば
坐して兀兀 たるを用いず
「本来無一物」という言葉は、五祖の弘忍 が禅の正法を相承させようとして、大衆に偈 を作らせたとき、神秀右 が「身はこれ菩提樹、心はこれ明鏡台のごとし」の一偈を示したのに対して、のちに六祖となる慧能 が「菩提はもと樹なく、明鏡もまた台にあらず、本来無一物!」と答えたことに始まっている。
このあと、神秀は北宗禅をおこし、慧能が南宗禅を継いだ。禅はここに南頓北漸 に分かれたのである。今日の禅宗は多く南宗禅に属する。その「本来無一物」が豊干に伝わっていた。
ざっと、以上が寒山と拾得と豊干の詩境というものだ。これはやっぱり「禅の寂び」というものだろう。次の詩を示して今夜を締めたい。
拾得がこんな詩を書いていた。
「われわれはねえ、みんなからどうやら寒山と拾得と呼ばれているんだけれどね、そんなことは豊干さんは最初からわかっていることで、そのわかっていることが諸君にわからないかぎり、残念ながら、諸君は寒山についても拾得についてもその姿を確定できるはずがないんだよ。悪かったね。じゃあ、なぜわれわれはこんなふうになっているのかって? それが無為の法力というもんだ、わっはっは」。
寒山は自ずから寒山 拾得は自ずから拾得
凡愚 豈に見知せんや 豊干は却って相い識る
見る時は見る可 からず
覓 むる時は何処 に覓めん
借問 す 何の縁 かある
向 に道 う 無為の力なりと
⊗ 著者略歴 ⊗
久須本文雄
明治41年、三重県に生まれる。昭和11年、九州大学中国哲学科卒。新潟第一師範学校、日本福祉大学等の教授を歴任。著書に『王陽明の禅的思想研究』『宋代儒学の禅思想研究』『禅語入門』『貝原益軒処世訓』『日本中世禅林の儒学』『江戸学のすすめ』などがある。
※ 寒山寺
寒山寺(かんざんじ、簡体字: 寒山寺、拼音: Hánshānsì)は、中国江蘇省蘇州市姑蘇区にある臨済宗の仏教寺院。
蘇州の旧市街から西に約5キロメートル、蘇州駅南南西3キロメートルの土地にあり、寒山拾得の故事で名高い。楓橋路に面しており、唐代の詩人・張継(ちょうけい)が詠んだ漢詩「楓橋夜泊」(ふうきょう やはく)の石碑があることでも知られる。 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%B1%B1%E5%AF%BA>このURLを開き地図を拡大すると詳細な場所がわかる。 上海西方100㎞あたりとなる。
※ 詩詞世界 ものすごい数
全一千五百首詳註
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/guide_mokuji.htm