07 28(火) 今までの教育問題のまとめ【その七】 |
01 16(月) 素晴らしい文化…「子育て」 |
…「0歳教育」(私製本)の序文 … 有線本部から「0歳教育シリーズ」の放送を受持ってほしいと話があったのは、62年の10月でした。個人的には、0歳教育に身も心も投入するつもりでいたので、非才を顧みずお引受けしました。 教育の荒廃が、家庭の親子関係に端を発しており、且つまた、教育が行なわるべき時期というものは、実は0歳に近いほどよいという科学的研究の結果もあり、そうしたことから私はおこがましくも、喬木村有線放送引受けを「可」とする判断をしたわけであります。 引受けた限り責任があり、話の内容は充分な根拠に基ずく必要もあったので、それから急ピッチで資料としての書籍の収集と読解が私の課題となりました。 驚いたことに、調べれば調べるほど人間の<mind-brain,mind-brain-body>「心脳」或いは「心脳体」の恐ろしいほどの能力にぶちあたり、吾を忘れて没頭することとなりました。 受胎から6歳まで、誰でもが持っているという、その不可思議な超能力<ESP=Extra Sensory Perception>を活動させ、一人一人の幼児に、素晴らしい能力や、素敵な人格や、逞ましい心身を、どう身につけてもらったらいいか、それこそが「0歳教育」が取組む課題にちがいないと思いました。 じっと考えていると、なにか頭の中がぞくぞくしてくるような、未来へ電気がほとばしるような、次々に新しいことが生まれでるような、そんな感じがしました。 さて、一つの幼い生命体がそんな素晴らしい能力・エネルギーを持っていることとは別に、どんな親でも、生まれながら幼い子供に対して、命を賭ける一途な本能を持っていることを自覚しなければなりません。 親というものは、水火も辞せぬ激しい愛情と、静かなそれとはわからない温かい愛情を持っています。 ここに0歳教育が完全に成功する基盤があります。 私は、この放送原稿を書いているうちに、親の愛情とは何か、という課題の答えに気がつきました。それはこういう言葉でよいと思います。 「親の愛情とは、わが子のしあわせを願って、何かを、してやることである」 この冊子は、放送原稿をまとめたものであります。ですからこの内容をよく読みとって、具体的な仕事にとりかかって頂きたいと思います。この素晴らしい子育ての仕事に命をかけてください。 昭和63(1988)年10月19日 |
02 26(月) 公共の福祉……その名は‘モンスター’ |
公共の福祉 - Wikipedia 公共の福祉(こうきょうのふくし)とは、人権相互の矛盾衝突を調整するために認められる衡平の原理のことをいう(一元的内在 ... 当初は、人権の外にある社会全体の利益を指す用語として用いられ、公共の福祉を理由として人権を制約することが判例上広く ... ja.wikipedia.org/wiki/公共の福祉 - 18k - キャッシュ - 関連ページ 第9回 「公共の福祉」ってなんだろう? このことを憲法は「公共の福祉」という言葉を使ってあらわしました。12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、 ... また13条の後段にも、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政 ... www.jicl.jp/chuukou/backnumber/09.html - 18k - キャッシュ - 関連ページ 公共の福祉 公共の福祉一 公共の福祉の意味 そもそも、公共の福祉の意味をいかに解釈するべきかについて争いがあります。 第二次世界大戦後間もない頃、裁判所は、公共の福祉を以下のように解していました。すなわち、12条・13条の「公共の福祉」が人権制約の一般 ... www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/1503/koukyounofukusi.html - 7k - キャッシュ - 関連ページ [PDF] 基本的人権と公共の福祉に関する基礎的資料 ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobatに関する調査小委員会において、「基本的人権と公共の福祉」(国家・共同体・. 家族・個人の関係の再構築の視点から)をテーマ ... なわち、12 条で、国民は基本的人権を「公共の福祉のために」利用する責. 任を負うと言い、13 条で、国民の権利について ... www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi031.pdf/$File/shukenshi031.pdf - 関連ページ 憲法13条とは - はてなダイアリー 憲法13条 - 第13条〔個人の尊重〕 全て国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で... d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%FB%CB%A113%BE%F2 - 37k - キャッシュ - 関連ページ 公共の福祉とは - はてなダイアリー 公共の福祉 - 「みんなの幸せ」という意味の、抽象的過ぎて議論の余地が多い言葉である。 d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%F8%B6%A6%A4%CE%CA%A1%BB%E3 - 25k - キャッシュ - 関連ページ [民s]日本国憲法(公共の福祉) こうした人権相互の矛盾や衝突に際して、それを調整するための「公平の理念」を表わしたものが、「公共の福祉」である。 ... 日本国憲法は「基本的人権の尊重」を重要な理念の柱としているのであるから、安易に「公共の福祉」を理由として人権を制約する ... www.kyoto-su.ac.jp/~kazyoshi/constitution/kaisetsu/kokyo.html - 4k - キャッシュ - 関連ページ 基本的人権が公共の福祉によって制約されるケース 公共の福祉==⇒広い意味では、個々の人間の個別的利益を超えた公共的利益、あるいは社会全体の利益または幸福(社会一般に ... 歴史的には、17世紀の警察国家における公共の福祉のように、国民の権利・自由を外部から制約する全体を部分に優越させる ... www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kihonntekijinnkennoseigenn.htm - 18k - キャッシュ - 関連ページ 関連検索: 基本的人権 公共の福祉 憲法 公共の福祉 財産権の制限 公共の福祉 公共の福祉 判例 公共の福祉 草案 表現の自由 公共の福祉 公共の福祉 権利 公共の福祉 墓地 |
08 25(土) 破滅の一途 - 1 |
文化・文明・科学の発展・幸福の追求などの言葉が意味するところの人間が追 究する世界は、破滅の一途をたどっている。…………………………………… 人の性のなれの果ては破滅しかない。 その胎動は大河の流れるのとひとしく、 動かざる泰山に見えたとしてもその実、徐々に破滅への一歩をたどっている。 親から子への伝承にしても、徐々によいと思われる方向への実現と見えるのだ が、やはり破滅の一途をたどる人間の動きに同調していく。…………………… |
08 27(月) 破滅の一途 - 2 |
無常 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 無常(むじょう、anitya (sanskrit))は、この現象世界のすべてのものは消滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。「常住」(じょうじゅう)の反対語。 釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。 この「無常」を説明するのに、「刹那無常」・「相続無常」の二つの説明の仕方がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅するこというすがたを指し、相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程のすがたを見る場合を指していうと、説明されている。 この無常については、「諸行無常」として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方であるとされている。 なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄というが、これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。 諸行無常 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 諸行無常 (しょぎょうむじょう、sabbe-saMkhaaraa-aniccaa, ????? ?????? ???????) この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいう。三法印、四法印のひとつ。 涅槃経 に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常偈と呼ぶ。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。 「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。 「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」 「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。 生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。 なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。 しばしば弘法大師空海に帰せられてきた「いろは歌」は、この偈を詠んだものであると言われている。 いろはにほへどちりぬるを 諸行無常 わがよたれぞつねならむ 是生滅法 うゐのおくやまけふこえて 生滅滅己 あさきゆめみじゑひもせず 寂滅為楽 パーリ語ではこの偈は次のようである。 諸行無常 aniccaa vata saGkhaara 是性滅法 uppaadavayadhammo 生滅滅已 uppajjitvaa nirujjhanti 寂滅為楽 tesaM ruupasamo sukho 三法印・四法印は釈迦の悟りの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経』に多く残されている。 なお平家物語の冒頭にも引用されている。 無常観 ( from http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-bunnka5.htm ) インドの仏教は、「すべてのものは無常である」と観ずる無常観を説きます。この無常観は、人間が苦を脱却するための哲理としての無常観です。 どんな風に哲理なのかと言いますと、「無常」の「常」とは、「常にそのまま」ということで、それに「無」がつきますと、「常にそのままで無い」となりますので「変化する」ということです。 何が変化するかといいますと、「すべてのものが」です。ですから私たちのこの体も変化します。すなわち、刻一刻老化し、最後に死んでしまいます。このように観ずることが無常観です。 ところが私たちは、若くありたい、死にたくないと思っています。そうすると、刻一刻老化し最後に死ぬという「事実」と、私たちの「思い」とは食い違いを起こします。そこに「苦」というものが起こる要因があるわけです。 この場合の「苦」の意味は、その原語である”dukkha”から「思い通りにならないこと」という意味だとされています。 その苦を脱却するためには、「事実」と「思い」との間に食い違いを起こさないことです。ところが、「事実」の方は変えようがありませんから、私たちの「思い」の方を換えて「事実」に合わせるしかありません。 すなわち「刻一刻年を取り、やがては死ぬのだ」という思いに換えるのです。そうすると「事実」との食い違いがありませんから、「苦」というものは起こらず、心は平安となるというわけです。勿論その場合、自己の「思い」を換える程の厳しい無常観が求められることになりましょう。 日本人は、仏教の説くこの「無常観」に大きな影響を受けたとされています。人の命のはかなさ、世の中の頼りなさを歌った『万葉集』、無常を想う遁世生活を述べた『方丈記』、「諸行無常」の言葉で始まる『平家物語』、更には〈能〉の中にも無常観を表そうとしたものが多いと言われています。 しかしながら、これらは単に、人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、詠嘆的に表現しようとした日本的美意識としての「無常感」であり、インドの仏教が主張する、苦を脱却するための「無常観」とはかなり趣が異なります。 文学の世界だからというのではなく、日本では仏教の世界においても主体的な苦の克服としての「無常観」は影が薄いように思われます。 漢字の「諦」の字は「真相をはっきりさせる」という意味ですが、日本語では「あきらめる」という意味に変わります。この変化は、「観」から「感」への変化と何か関係がありそうに思っています。(平成13年6月) |