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折々の記 2009 F

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】教育問題のまとめ【その六】        【 02 】教育問題のまとめ【その七】
【 03 】教育問題のまとめ【その八】        【 04 】教育問題のまとめ【その九】
【 05 】教育問題のまとめ【その十○】        【 06 】教育問題のまとめ【その十一】
【 07 】教育問題のまとめ【その十二】        【 08 】教育問題のまとめ【その十三】
【 09 】教育問題のまとめ【その十四】        【 10 】教育問題のまとめ【その十五】
【 11 】教育問題のまとめ【その十六】        【 12 】教育問題のまとめ【その十七】
【 13 】教育問題のまとめ【その十八】        【 14 】教育問題のまとめ【その十九】
【 15 】教育問題のまとめ【その二十】

以上で「教育問題のまとめ」終わり



【 10 】07/28

07 28(火) 今までの教育問題のまとめ【その十五】

   2009 02 09(月) 佐藤一斎(さとう いっさい)
   2009 02 14(土) 人材育成の歴史;日本教育史,閑谷学校
   2009 02 15(日) 江戸時代の儒学;儒教,大塩平八郎の乱,近江聖人
   2009 02 16(土) 東北の学力検査日本一は<米沢藩の興譲館>の気風から生まれた
   2009 05 02(土) 阿修羅とはなにか

02 09(月) 佐藤一斎(さとう いっさい)

根羽村から20kmほど走ると、恵那市の岩村に着く。 ここは幕末安政の大獄のさなかになくなった佐藤一斎のふるさとである。

岩村の歴史をみると、藩校の‘知新館’があったことが偉大な人物を育てた一番の基であったと思います。 ちょうど高遠藩に進徳館があって偉大な人物を育てたのとおんなじです。

以前萩の松下村塾をみましたが、藩校というのもおそらく見台に本をひらいてのせ、論語の素読、暗誦、暗記、通釈など教えられたのでしょう。 

玉木文之進は甥吉田松陰の教育についてなじられたとき、‘あなたは馬の調教を知らない’と言ったといいます。

       「鉄は熱いうちに打て」

    『鉄は熱いうちに打て』
    言い古された言葉である。
    この言葉の解釈は、一般的には、
      「物事は機が適した内に取り組むべきである」
      「タイミングを逃してはいけない」
    と、理解されている。

    逆に見方があるんだ、ということを教わった。
    「打つ側ではなく、「打たれる側」にたった場合」である。
    熱いうちに打てば刀鍛冶も仕事が減って効率的である。
    打たれる鉄の立場にたっても、早いうちのほうが、
    打たれる回数が少ない。痛みが少ない。ラクである。ということだ。

    社員の立場に立って考えてみる。
    すぐにやる、早くやる。すぐに直す。早く変える。
    そのほうが、実は本人の痛み・苦労も少ないということだ。

    意 味: 精神が柔軟な若いうちに教育し鍛えるべきであるということのたとえ。
         また、好機を逸してはいけないということのたとえ。
    解 説: 鉄は熱して軟らかいうちに鍛えておけば、
         いろいろな形につくりあげられることを人にたとえたことわざ。
    英 語: Strike while the iron is hot.
    類義語: 矯めるなら若木のうち

佐藤一斎をしらべていると、0歳教育の意味合いを広めたり深めたりすることができます。

以下の PURPLE色の文字 へジャンプすると、詳しい内容を開くことができる。 彼のことを理解するためにすべてをプリントすることが望ましい。

(一)  佐藤一斎(さとう いっさい)


佐藤一斎


今日の佐藤一斎語録
(全31種類を日替わりでご紹介しています)

言志後録 第53条
鱗介の族は水を虚と為し 水の実たるを知らず
りんかいのぞくはみずをきょとなし みずのじつたるをしらず

------ 解 説 ------

人間という奴輩は空気があるかとも言わず、金儲けに熱中して空気に感謝などさらさらしない。


---- 佐藤一斎 略歴----

 安永元年(1772)10月20日岩村藩の家老佐藤信由(のぶより:号は文永)の次男として、江戸浜町の下屋敷(現東京都中央区日本橋浜町)で生まれた。田沼意次(おきつぐ)が家老となって実権をにぎり田沼時代がはじまった年である。
 名は坦(たいら、たん)、字は大道(たいどう)、一斎は号。他に愛日楼(あいじつろう)、老吾軒などの号がある。初名は信行、通称は幾久蔵。
 幼くして読書を好み、水練・射騎・刀槍などに優れ、小笠原流礼法を身につけていた。
34歳で朱子学の宗家林家(りんけ)の塾長となり、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい:岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の三男)とコンビを組み、多くの門下生の指導に当たった。
55歳のとき、岩村藩主となった松平乗美(のりよし)の老臣に加えられ、「重職心得箇条」「御心得向存意書」を著し藩政に尽力した。
天保12年(1841)述斎が74歳で没したため、70歳で幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられた。
安政元年(1854)83歳のとき、日米和親条約締結に際し、時の大学頭林復斎(ふくさい:述斎の六男)を助け、外交文書の作成などに尽力した。
安政6年(1859)9月24日  昌平黌の官舎で没(88歳)。
まさに安政の大獄で揺れる最中、明治維新まで9年の激動の時代であった。
 門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがいる。
 一斎の教えが、幕末から明治維新にかけ、新しい日本をつくっていった指導者たちに多大な影響を与えたと言われている。
 
---- 以下   省略----


(二)  岩村歴史資料館

(三)  岐阜県 岩村町歴史資料館

          資料目録 
          出版目録
          展示品概要 
          利用案内 

A   岩村城跡 

B   下田歌子勉学所 

    ●下田歌子 解説  
      「岩村町歴史シリーズ(その4)明治・大正の女傑
     下田歌子女史」より 

       ・はじめに 女子教育に一生を捧げた才色兼
        備の女性 
       ・安改01年(1854)  生いたち 学問と勤王の
        血筋、文学の神童  
       ・明治04年(1871)  父のもとへ上京 
       ・明治05年(1872) 宮中へ出仕 昭憲皇太
        后から「歌子」の名を賜う 
       ・明治12年(1879) 下田猛雄と結婚 
       ・明治14年(1881) 桃夭女塾の創設 女流
        教育家への出発 
       ・明治17年(1884) 華族女学校の創設 
       ・明治26年(1893) 海外へ女子教育視察 
       ・明治31年(1898) 帝国婦人協会の創立 
        実践女学校と女子工芸学校の創設 
       ・大正09年(1920) 愛国婦人会長に就任 
       ・昭和11年(1936) 学園の母 逝去 

C   岩村町歴史資料館 
D   藩校 知新館
E   岩村城藩主邸太鼓櫓
F   岩村城下町の旧家 木村家
G   岩村城下町の旧家 浅見家
H   岩村城下町の旧家 勝川家
I   岩村城下西町木戸高札場
J   鉄砲鍛冶の家

(四)  思索の庵18 「幕末の鴻儒から学ぶ  ー”佐藤一斎”の教え」

このサイトは凄い。 このサイトの目次(Web ご案内)を見てジャンプしてみますと、いろいろと学べます。

   http://www.hm2.aitai.ne.jp/~kuensan/information.htm<Web ご案内>

まず‘思索の庵18 「幕末の鴻儒から学ぶ  ー”佐藤一斎”の教え」’を開いてみる。

‘思索の庵18’は20に分かれているその中の一つです。 これは本田哲康という人の“自然が好き ”自然”を活かしたい”というHPでした。 112のコーナーをもつ膨大なホームページです。 そして柔にして直のスジガネ入りです。

歴史年表と日本人のルーツは詳細を極めたページでした。 この二つは役立つ内容ですからコピーして製本にします。


本田哲康   Googleで検索しているとこんなことが出ていました。

      A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

  I asked God for strength,that I might achieve
  I was made weak,that I might learn humbly to obey...

  I asked for health,that I might do greater things
  I was given infirmity,that I might do better things...

  I asked for riches,that I might be happy
  I was given poverty,that I might be wise..

  I asked for power,that I might have the praise of men
  I was given weakness,that I might feel the need of God..

  I asked for all things,that I might enjoy life
  I was given life,that I might enjoy all things...

  I got nothing that I asked for
  -- but everything I had hoped for

  Almost despite myself,my unspoken prayers were answered.
  I am among all men, most richly blessed !

    (訳)
    大きなことを成しとげるために 力を与えてほしいと神に求めたのに
    謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった

      より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに
    よりよきことができるようにと 病弱を与えられた

    幸せになろうとして 富みを求めたのに
    賢明であるようにと 貧困を授かった

      世の中の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに
    得意にならないようにと 失敗を授かった

    人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
    あらゆることを喜べるようにと いのちを授かった

    求めたものは一つとして与えられなかったが
    願いはすべて聞き届けられた

    神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
    心の中で言い表せないものは すべて叶えられた

    私はあらゆる人の中で もっとも豊かに祝福されていたのだ        (訳詩;本田 哲康)

  これはニューヨーク州立大学病院の壁に落書きされて、そのまま残されていた詩だそうです。


02 14(土) 人材育成の歴史;日本教育史,閑谷学校

【写真……日本最古の庶民学校 岡山県備前市の閑谷学校】

人づくりは0歳時からの知徳体食の教育にかかっています。

そして、日本の教育のあらすじについて、その概要を知っていることは大事なことです。

次にその全貌について挙げたい。

  日本教育史 - Wikipedia>

     奈良・平安時代の教育

        <大宝律令(701年)の大学寮>ほか <菅原氏・大江氏の文章院 ><和気氏の弘文院>
        <藤原氏の勧学院><橘氏の学館院><王氏の奨学院>など

     鎌倉から室町時代の教育

        <金沢文庫><足利学校>

     江戸時代の教育

        <昌平坂学問所(湯島聖堂又は昌平黌)>
        <藩校>
            <国宝 閑谷学校><会津藩の日新館><米沢藩の興譲館>
            <水戸藩の弘道館><長州藩の明倫館><佐賀藩の弘道館>
            <熊本藩の時習館><薩摩藩(鹿児島藩)の造士館><各地の藩校>など

     明治時代以後の教育
          明治維新後は学制改革の中で廃止された藩校も多く、生き残った藩校は
          旧制中学校に留まる物が大半であった。

        <学制>
        <教育令>
            <小学校令><国民学校令><中学校令 を編集中>
            <帝国大学令><旧制大学>
            <師範学校令>

     戦後の教育  年表

        <学校教育法>



日本最古の庶民学校 閑谷学校

日本初の藩校は、1641年(寛永18年)に岡山藩主池田光政が設立した花畠教場(はなばたけきょうじょう)が最初である。 しかし、全国的に藩校が設立された時期は宝暦期(1751年 - 1764年)以後であり、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成する目的で設立した学校が多い。

熊沢蕃山を開いてみると、

   慶安4年(1651年)庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草し、これが蕃山の致仕後の
   寛文10年(1670年)日本初の庶民学校として開かれた「閑谷学校」の前身となった。

とあるから、江戸時代になって約70年ほど経ってのことである。 蕃山は中江藤樹の門下生で儒学で岡山藩主に仕えていた。

全国的に藩校が設立された時期は宝暦期(1751年 - 1764年)以後で、各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われた。 発展期には全国に255校に上り、ほぼ全藩に設立された。 藩校の隆盛は、地方文化の振興や、各地域から時代をリードする政治家や学者の輩出にも至ったものである。

かくして江戸時代の学問は儒学を主としたものになった。

閑谷学校へ行く機会があれば、次のサイトが参考になる。

   <閑谷学校> - Wikipedia
   <「閑谷学校」公式ホームページ>
   <池田光政「花畠教場」設立は間違い>
   <日本最古の庶民学校 閑谷学校 -岡山県備前市->
   <閑谷学校の歩み -岡山県備前市->
   <国宝 閑谷学校>
   <備前市の観光>


02 15(日) 江戸時代の儒学;儒教,大塩平八郎の乱,近江聖人

中国や朝鮮から伝わってきた文字をはじめとする儒教や仏教、社会制度すべてにわたる文化は、日本文化の根幹をなしている。 これは紛れもないことです。

日本最古といわれる閑谷学校の熊沢蕃山、その師となる中江藤樹、かれらの陽明学も渡来した文化です。

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99【儒教 - Wikipedia】

Googleで調べると


儒教(じゅきょう)とは、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に渡って強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学(中国語: Ruxue(ヘルプ・ファイル))、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の武力による覇道を批判し、事実、そのように歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒家思想が漢代、国家の教学として認定されたことによって成立した。


と、概要を解説し教義と中国における展開が詳しくのべられています。 大いに参考になります。

‘「王陽明」安岡正篤(やすおかまさひろ)PHP文庫’をみると、昭和49(1974)年王陽明生誕五百年記念にかかわる記念講演を編集した本です。 とても読みやすい本です。 この講演は著者が72才頃のものです。

この本の中にはこんなことも書かれています。


今日の時世に本当に欲しいのは活学・正学であります。 この活学・正学によって、真に人間を鍛えた人材が出なければ、私はこの日本は恐るべき混乱、ことによると忌むべき暗黒時代が来るということを昨今、痛心禁ぜざるものがあります。

時局がやはりそうで、こうなりますと、時代、人心も自ずから霊妙なものがあって、人々は意識、あるいは自覚しませんけれど、何か真実なるものを求める。 何か真剣なものを求める。 これは「良知」であります。

人間が持っておる、皆が本具しておるから、「良知」であります。 これを「致す」、これを完成する、発揮する、これが陽明先生の唱えた「致良知」なんであります。

そして、観念の遊戯ではなく、それを実践するというのが「知行合一(チコウゴウイツ)」であります。

そういうことを、時代・民衆がやはり本能的に(本人は自覚しないけれども)何か求めている。 そこで陽明学というものが自然に囁かれる、期待されるのであると信ずるのであります。




大塩平八郎の乱

さてそこで、この「知行合一」というと、‘大塩平八郎の乱’が脳裏にうかびます。

大塩平八郎の乱については、岩波文庫本でなくてもその概略は歴史の知識:大塩平八郎の乱のサイトを開いてみればよい。



近江聖人

それにしても江戸時代の儒学は深く人々の胸に浸透していたのですね。 この頃のこどもたちは「近江聖人」という言葉を聞いたことはありません。 そういう環境にないから無理もないんです。

親たちにしても中江藤樹ってどういう人? ほとんどの人は知りません。 教えられなくては知ることはできません。

道義が地に落ちたという感がつよい。 仏教も儒教も倫理の歴史も高校でも大学でも必修科目としては教えられていないのです。 東洋的な文化の影はますます薄くなっていきそうです。

これではいけません。


02 16(土) 東北の学力検査日本一は<米沢藩の興譲館>の気風から生まれた


14日に調べた日本教育史・江戸時代の教育・藩校をみていると、それぞれ特徴があるけれど殊に<米沢藩の興譲館>で眼にとまることがあった。

   細井平洲

   上杉治憲(後の鷹山)

 まずこの二人をひらいてコピーしたい。
 儒学がいかに江戸時代の武士のなかに浸透していったのか、
 あらためて認識を新しくしました。
 そしてまた、直江兼続がいかに配下の武士たちを大切に考えていたのか、
 それが直江兼続の改革を成功に導いた原動力になっていたのか、
 あらためて認識しました。 

細井平洲が上杉治憲を励ました言葉

平洲が遺した言葉として、米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。 要は「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味であった。

米沢市の松岬神社に、上杉鷹山と共に祀られている。


上杉鷹山について主要なことを取りあげて見ておく。

上杉鷹山は文政5年3月11日(1822年4月2日)、死去。 享年72(満70歳没)。 法名:元徳院殿聖翁文心大居士、墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。 始め上杉神社に藩祖謙信と共に祭神として祀られたが、1902年(明治35年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。

 伝国の辞

 伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得である。

 内容は下記の通り。

  一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
  一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
  一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
  右三条御遺念有間敷候事
      天明五巳年二月七日  治憲 花押
     治広殿  机前

伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。

 人物・逸話

正室である前藩主の長女幸姫は脳障害、発育障害があったといわれている。彼女は短い生涯であったが、2人は仲睦まじく暮らした(但し一度も交接すること無し)。しかし後継者が絶えることを恐れた重役達の勧めで、治憲より10歳年上で上杉家分家の姫である豊姫(お豊の方)を側室に迎えた。

35歳の若さで隠居し、実子がいたのに家督を前藩主・重定の実子・治広に譲ったのは、重定が存命中に治広に家督を継がせることで養父を安心させたいという鷹山の心遣いだったとされる。

有名な「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり[2]」(『上杉家文書』国宝の抜粋 上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん 『書経』)に由来)の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた[3]。

2007年(平成19年)に讀賣新聞が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられている。

米沢藩中興の祖である鷹山は現在の米沢市民にも尊敬されている。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。

当時、米沢藩では直江兼続の法要は憚られていたが、鷹山は「上杉家で直江殿夫妻の法要も営まず、香典も添えないのは人情ではない」と述べて、兼続の200回忌を挙行し、香華料を捧げたという。

アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げたとして、話題になった事がある(英文で発表された内村鑑三の『代表的日本人』の影響によるものと考えられている)。ケネディが鷹山について発言した際には、日本人から「Yozanとは誰か」と質問が出たとも言われる。鷹山の知名度や人気が上昇した背景には、米国大統領が知っている有名人を日本人が知らなかった、という驚愕の事実が背景にあると言われる。ただし現在の所、ケネディや クリントンがいつ、どこでこの発言を行ったかというソースが存在しないため、この逸話の正確性には疑問があると言われる。


為せば成る 云々………」は子供のころ、母親から何回となく聞かされていた言葉です。 こうしたことは、諺とともに親おら子へ、親おら子へ、と口伝されてきたものです。 人をいじめてはいけない、その子にも親がおって親が悲しがるから、とも教えられていました。 

今ではこの「親から子へ、子から孫へ」という口伝による精神文化の伝承は、小家族制や共働きによって失われてきています。 時代の変化は価値の有無を考えることなく推移していってしまします。


   直江兼続  このページも全部コピーしておきたい。

     父は長尾政景に仕えた樋口兼豊(木曾義仲の重臣・樋口兼光の末裔といわれている)。
     母は信州泉氏・尾崎重歳の娘(上杉家重臣・直江景綱の妹説もある)。 
     兼続は、仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の推薦で幼い頃から景勝に近侍していたといわれる。

兼続は大河ドラマ「天地人」で活躍しています。 

   このウェブサイトで見るかぎり、米沢藩の基礎づくりは直江兼続と
   お船によることが大きい。 上杉鷹山の功績も大きいけれども、
   家臣団を大事にした直江兼続のこころねが脈々として
   伝わってきているように思われます


風土の力は、目には見えない潜在的な底流になっている、その根拠。

「因みに、明治初年の史料を持って比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7077戸、男12414名、卒族戸数9474戸、男14029人、であった。一方の米沢藩14万7千石(列藩同盟処分の削封後)の上杉家の場合は、内高が30万石で、士族3425戸、男7565名 卒族戸数3308戸、男11980人であった。この比較から、米沢藩の厳しさは一目瞭然である」という記事があります。


直江兼続とは直接のつながりはありませんが、同じ東北ですから他藩からの影響は多分にあったのでしょう。

私たちが知っている会津の白虎隊を育て上げた<会津藩の日新館>を見ていると、次に取りあげる「什の掟」がでています。

  什の掟 [じゅうのおきて]  あつまるの意、集と同義

 日新館入学前の六歳から九歳までは地域ごとに組を作り、お互いに武士としての心構えを学びました。
 「什の掟」はその時の規則です。

   一、年長者[としうえのひと] の言うことに背[そむ]いてはなりませぬ
   二、年長者にはお辞儀[じぎ]をしなければなりませぬ
   三、嘘言[うそ]を言うことはなりませぬ
   四、卑怯[ひきょう]な振舞[ふるまい]をしてはなりませぬ
   五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
   六、戸外で物を食べてはなりませぬ
   七、戸外で婦人[おんな]と言葉を交[まじ]えてはなりませぬ

   ならぬことはならぬものです。



今でもこうしたことが、日常の礼儀として日本中で行なわれているでしょうか……?

戦後の復興によって、礼儀正しいといわれた日本人の美徳の姿が、「物質文化」「お金の魅力」に気を奪われるようになって押し流されていったのではないでしょうか……?

東洋的な美徳が日本からはやがては大事にされないようになるのでしょうか……?

なにはともあれ日本から儒教文化が薄れて、OECDの世界学力検査の結果に現れているように、知的道義的財産が失われていくのではないでしょうか……?

山形県が学力検査で一位であるということは、地域風土の気質がまだ残っているせいだと思います。

学力検査に現れるものは人間の知的財産の一角が現れたものなのです。

ドバイのような金の亡者の楼閣は所詮、砂上の楼閣にすぎません。 

一人一人の体の中からお金の欲望をコントロールしなければなりません。

人として恥ずかしくない生き様をしたいものです。


05 02(土) 阿修羅とはなにか

 【阿修羅像…Wikipediaより】

 阿修羅(あしゅら、あすら、Skt:asuraの音写、意訳:非天)は八部衆に属する仏教の守護神。修羅(しゅら)とも言う。大乗仏教時代に、その闘争的な性格から五趣の人と畜生の間に追加され、六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主となった。【http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85より】

 もとはインド古来の神で、仏教に帰依し仏法の守護神となった(八部衆)のひとり。7世紀後半に中国で盛んになった密教の影響をいち早く受け、特有の超人的な姿をした日本で初めての本格的な仏像彫刻。表情に純真で繊細な少年のような面影をとどめるのが印象的。【http://www.kippo.or.jp/culture/archives/nara/index.htmlより】

         興福寺創建1300年記念
      国宝  阿修羅  展
          2009/03/31〜06/07
       東京国立博物館平成館(上野公園)
      一 般観覧料 当日 1500円 前売1300円

 興福寺の八部衆立像中の、この三面六ぴの阿修羅像は、清楚な少女のような表情を示し、天平彫刻の代表作の一つとして多くの人に親しまれ、賞賛されている名品です。 八部衆とは、仏教に従った古代インドの異教の神々を表したもので、蛇を頭に巻くもの、鳥頭や象頭をかぶったものなど、どれも異様に形で立っている。 それらの立像の中でも、細く長い六本の腕を空間に差し伸べて立つこの阿修羅像は、バランスのとれた、みずみずしい美しさと真摯な姿に、独特の宗教性を感じさせものがあります。(像高153センチ。奈良時代(734年)乾漆造)【http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/18seibosi.htmlより】

<阿修羅>

こんにちは、★阿修羅♪です
本当のことを探して旅をしています
本当のことが全部わかるまで旅を続けます

【http://www.asyura.com/より】



 この素晴らしい阿修羅像は誰が創ったのでしょうか?

 仏像を創るということはその仏像がもっている意味をよく理解し、その心に沿って斎戒沐浴して創るものだと聞いております。

 この阿修羅像はどうして人の心を惹き付けるのでしょうか?

 そうして、何を人の心に訴えているのでしょうか?

 眉間と双眸に現れている憂いと厳しい意思、それは何を人の心に訴えているのでしょうか?

   天を支える手  自由な手  合掌  三つの両手と  表情

 それは何を人の心に訴えているのでしょうか?

 この阿修羅像は、天平時代の人々の心を惹きつけ、そしてまた、現代に生きる人々の心も惹きつけていると思います。

 三つの両手は仏法に帰依した者の

     安心立命を表わし
    憂いからの行動を表わし
    堅い意思の祈りの表われ


 と思います。

             真剣な阿修羅              阿修羅の表情は

     仏法に即し憂いを秘めて行動する意思を表わしている

と思います。 そしてそれが阿修羅の使命ではないのでしょうか。



いま生きている人たちの今日的課題は何でしょうか? それは間違いなく「狂った金融取引」に端を発した生活不安です。

この「狂った金融取引」の悪の根源を指摘する政治家がおりません!

人々の「守銭奴化風潮」へ世界破滅の警鐘を鳴らす人もありません!

「一即多」という知識を大事にしようと自覚している人が少ないのでしょう。(安心立命)

自分が変わらなければ何も変わらないことを自覚している人が少ないのでしょう。(憂いからの行動)

平和の祈りは自分への約束であることを自覚している人が少ないのでしょう。(祈り)

阿修羅像はこうしたことを人々の心に訴えているのではないでしょうか?