07 28(火) 今までの教育問題のまとめ【その十五】 |
02 09(月) 佐藤一斎(さとう いっさい) |
安永元年(1772)10月20日岩村藩の家老佐藤信由(のぶより:号は文永)の次男として、江戸浜町の下屋敷(現東京都中央区日本橋浜町)で生まれた。田沼意次(おきつぐ)が家老となって実権をにぎり田沼時代がはじまった年である。 名は坦(たいら、たん)、字は大道(たいどう)、一斎は号。他に愛日楼(あいじつろう)、老吾軒などの号がある。初名は信行、通称は幾久蔵。 幼くして読書を好み、水練・射騎・刀槍などに優れ、小笠原流礼法を身につけていた。 34歳で朱子学の宗家林家(りんけ)の塾長となり、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい:岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の三男)とコンビを組み、多くの門下生の指導に当たった。 55歳のとき、岩村藩主となった松平乗美(のりよし)の老臣に加えられ、「重職心得箇条」「御心得向存意書」を著し藩政に尽力した。 天保12年(1841)述斎が74歳で没したため、70歳で幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられた。 安政元年(1854)83歳のとき、日米和親条約締結に際し、時の大学頭林復斎(ふくさい:述斎の六男)を助け、外交文書の作成などに尽力した。 安政6年(1859)9月24日 昌平黌の官舎で没(88歳)。 まさに安政の大獄で揺れる最中、明治維新まで9年の激動の時代であった。 門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがいる。 一斎の教えが、幕末から明治維新にかけ、新しい日本をつくっていった指導者たちに多大な影響を与えたと言われている。 |
02 14(土) 人材育成の歴史;日本教育史,閑谷学校 |
02 15(日) 江戸時代の儒学;儒教,大塩平八郎の乱,近江聖人 |
儒教(じゅきょう)とは、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に渡って強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学(中国語: Ruxue(ヘルプ・ファイル))、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。 東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の武力による覇道を批判し、事実、そのように歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒家思想が漢代、国家の教学として認定されたことによって成立した。 |
今日の時世に本当に欲しいのは活学・正学であります。 この活学・正学によって、真に人間を鍛えた人材が出なければ、私はこの日本は恐るべき混乱、ことによると忌むべき暗黒時代が来るということを昨今、痛心禁ぜざるものがあります。 時局がやはりそうで、こうなりますと、時代、人心も自ずから霊妙なものがあって、人々は意識、あるいは自覚しませんけれど、何か真実なるものを求める。 何か真剣なものを求める。 これは「良知」であります。 人間が持っておる、皆が本具しておるから、「良知」であります。 これを「致す」、これを完成する、発揮する、これが陽明先生の唱えた「致良知」なんであります。 そして、観念の遊戯ではなく、それを実践するというのが「知行合一(チコウゴウイツ)」であります。 そういうことを、時代・民衆がやはり本能的に(本人は自覚しないけれども)何か求めている。 そこで陽明学というものが自然に囁かれる、期待されるのであると信ずるのであります。 |
02 16(土) 東北の学力検査日本一は<米沢藩の興譲館>の気風から生まれた |
平洲が遺した言葉として、米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。 要は「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味であった。 米沢市の松岬神社に、上杉鷹山と共に祀られている。 |
上杉鷹山は文政5年3月11日(1822年4月2日)、死去。 享年72(満70歳没)。 法名:元徳院殿聖翁文心大居士、墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。 始め上杉神社に藩祖謙信と共に祭神として祀られたが、1902年(明治35年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。 伝国の辞 伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得である。 内容は下記の通り。 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候 右三条御遺念有間敷候事 天明五巳年二月七日 治憲 花押 治広殿 机前 伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。 人物・逸話 正室である前藩主の長女幸姫は脳障害、発育障害があったといわれている。彼女は短い生涯であったが、2人は仲睦まじく暮らした(但し一度も交接すること無し)。しかし後継者が絶えることを恐れた重役達の勧めで、治憲より10歳年上で上杉家分家の姫である豊姫(お豊の方)を側室に迎えた。 35歳の若さで隠居し、実子がいたのに家督を前藩主・重定の実子・治広に譲ったのは、重定が存命中に治広に家督を継がせることで養父を安心させたいという鷹山の心遣いだったとされる。 有名な「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり[2]」(『上杉家文書』国宝の抜粋 上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん 『書経』)に由来)の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた[3]。 2007年(平成19年)に讀賣新聞が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられている。 米沢藩中興の祖である鷹山は現在の米沢市民にも尊敬されている。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。 当時、米沢藩では直江兼続の法要は憚られていたが、鷹山は「上杉家で直江殿夫妻の法要も営まず、香典も添えないのは人情ではない」と述べて、兼続の200回忌を挙行し、香華料を捧げたという。 アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げたとして、話題になった事がある(英文で発表された内村鑑三の『代表的日本人』の影響によるものと考えられている)。ケネディが鷹山について発言した際には、日本人から「Yozanとは誰か」と質問が出たとも言われる。鷹山の知名度や人気が上昇した背景には、米国大統領が知っている有名人を日本人が知らなかった、という驚愕の事実が背景にあると言われる。ただし現在の所、ケネディや クリントンがいつ、どこでこの発言を行ったかというソースが存在しないため、この逸話の正確性には疑問があると言われる。 |
「因みに、明治初年の史料を持って比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7077戸、男12414名、卒族戸数9474戸、男14029人、であった。一方の米沢藩14万7千石(列藩同盟処分の削封後)の上杉家の場合は、内高が30万石で、士族3425戸、男7565名 卒族戸数3308戸、男11980人であった。この比較から、米沢藩の厳しさは一目瞭然である」という記事があります。 |
日新館入学前の六歳から九歳までは地域ごとに組を作り、お互いに武士としての心構えを学びました。 「什の掟」はその時の規則です。 一、年長者[としうえのひと] の言うことに背[そむ]いてはなりませぬ 二、年長者にはお辞儀[じぎ]をしなければなりませぬ 三、嘘言[うそ]を言うことはなりませぬ 四、卑怯[ひきょう]な振舞[ふるまい]をしてはなりませぬ 五、弱い者をいぢめてはなりませぬ 六、戸外で物を食べてはなりませぬ 七、戸外で婦人[おんな]と言葉を交[まじ]えてはなりませぬ ならぬことはならぬものです。 |
05 02(土) 阿修羅とはなにか |