07 28(火) 今までの教育問題のまとめ【その十】 |
10 19(金) ハムラビ法と人権問題 |
@ 世界大百科事典「ハムラビ Hammurapi」 バビロン第1王朝第6代の王。 在位,前1792‐前1750年。 ハンムラビ(ハムラビ)Hammurabi ともいう。 治世の最初の11〜12年間は,北のアッシリアに強力な支配者シャムシアダド1世が存在したため彼の影は比較的薄かったが、シャムシアダド1世の死後、ハンムラピは後のバビロニア統一のための基礎を築き始める。 治世11年から29年ころまでは、年名から判断するかぎり、対外戦争に対する言及はなく、ハンムラピはもっぱら神々の玉座や神像の作製、神殿の修築などの宗教事業、および城壁の建設、運河の浚渫(しゆんせつ)などの国防・灌漑事業に専心、国家の精神的・物質的強化に腐心したと思われる。 マリ出土の書簡によれば、この当時彼の支配するバビロンは、ラルサ、エシュヌンナ、マリ、アレッポ(ヤムハド)、カタヌム(カトナ?)などと並ぶ勢力ではあっても、それ以上のものではなかったらしい。 そしてハンムラピはマリやラルサの諸王と密接な同盟関係を結び、もっぱら巧みな外交によって国威高揚に努めたようである。 しかし治世29年になって彼は積極的な軍事行動によってバビロニア制覇に乗り出す。 まず前1764年にはエラムおよびエシュヌンナやその北方の敵を討ち、続いて翌年には南の強国ラルサを滅ぼし、現在のバグダード以南の地〈シュメールとアッカド〉の統一を達成する。 この後再度エシュヌンナ以北の地に遠征(前1761)、続いてユーフラテス川中・上流域を支配していたマリ王国を滅ぼし(前1759),その覇権は北シリアにまで及んだ。 彼はまたニップール、エリドゥ、ウル、ウルクなどシュメール時代以来の都市やラルサに水を供給する水路を浚渫・整備するなど、新しく広がった国土の発展にも努力した。 征服後のラルサに駐在するバビロンの役人にあてた約150通の書簡が残っているが、彼はラルサの経営に深く関与し、いろいろな訴えにみずから裁決を下していたことが知られる。 しかしこれは、ハンムラピがその晩年に獲得した広大な領土の支配にふさわしい行政組織をもたなかったことをも意味している。 彼の名を有名にしたのはハンムラピ法典である。 現在ではこれを〈最古〉の法典とも、厳密な意味での〈法典〉とも呼べなくなったが、しかし、この種の文書としては最も総括的でかつ完全に近い形で残っていること、またその後長くまた広く本法典の書写がなされ続けたことなどの点で、なおハンムラピの特筆に値する業績であったと考えることができる。 中田 一郎 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. |
A 世界大百科事典「ハムラビ法典」 バビロン第1王朝第6代の王ハンムラピによって制定された楔形文字法典。 オリジナルは高さ2.25mのセン緑岩製の石碑(ルーブル美術館蔵)に刻まれている。 この石碑はフランスの発掘隊により1901年スーサ(テキスト文書「k 古代遺跡スーサ」参照のこと またはGoogleでスーサを検索して「スーサ - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト」を開くこと)で発見された。 元来バビロンかシッパルにあったと思われるが、エラムのバビロニア攻略の際、戦利品としてスーサに持ち去られたものであろう。 スーサからはほかに同法典が刻まれた玄武岩製石碑の断片もいくつか発見されていることから、ハンムラピ法典が記された石碑はバビロン王国内の主要都市に建立されていた可能性がある。 本法典の粘土板(断片を含む)は各地から発見されており、その数は30を超える。 本法典より古いものとしては、ウルナンム法典(前22〜前21世紀)、リピトイシュタル法典(前20世紀)、エシュヌンナ法典(前19世紀)などがあるが、いずれも古バビロニア時代の不完全なコピーを通して知られているにすぎない。 本法典は上記諸法典と同様、前書、条文、後書の3部分からなる。 前書では、天上でバビロンの主神マルドゥクが神々の王として選定されることから記述が始まり、ハンムラピがマルドゥク神の委託を受けて人々を導き教えるために〈法と正義を確立した〉と締めくくられる。 この後条文が続くが、その内容は、 1〜5条が証拠不十分の訴訟、偽証、不正な裁判官など、訴訟そのものにかかわる条項、 6〜25条は窃盗、強盗にかかわる条項で、 8条以外はすべて死罪を扱う。 26〜41条は王に対して兵役その他の奉仕義務を負う者に関する条項、 42〜58条は畑の小作契約および灌漑施設の使用、 59〜65条は果樹園の小作契約および果樹園の担保設定等に関する条項、 A〜K 条は家屋に関する条項、 L〜U 条および100〜107条は商人に関する条項、 108〜111条は居酒屋の女主人に関する条項、 112〜126条は運搬業務に伴う保証、債務関係処理にかかわる問題、保管などに関する規定、 127条はエントゥム女神官や夫をもつ婦人に対する中傷にかかわり、 128〜149条は婚姻、離婚、 150〜152条は妻の権利、 153〜158条は性道徳、 159〜161条は婚約、 162〜184条は相続、 185〜193条は養子縁組等にかかわる条項がそれぞれ定められている。 194〜214条は傷害罪、 215〜227条は外科医、獣医、理髪師、 228〜233条は大工、 234〜240条は船頭等の職業上の責任をそれぞれ規定する。 241〜277条は種々の賃貸料、賃貸にかかわる罰則を定め、 278〜282条は奴隷にかかわる規定である。 後書は、碑に書かれていることを守る者には長寿が与えられ、碑を直接間接に損なう者には神々の呪いがあるようにとの祝福と呪いで終わっている。 形式は総じて決疑法形式であるが、36、38〜40、187の各条は断言法と考えられる形式をもっている。 より古い法典に比べて、極刑が多いこと(1〜25条など)や同害復讐の考え方(196〜210条)がみられることが本法典の特徴である。 身分により刑量が異なる点はエシュヌンナ法典の場合と同じである。 ハンムラピ法典の性格についてはいろいろ議論があるが、なかでもこの文書が実際に法的強制力をもった〈法典〉であったかどうかについて、P. コーシャカー、B. ランツベルガー、F. R. クラウスら否定的見解を述べる研究者が多い。 これは当時の裁判記録に本法典の条文に対する言及や引用がみられないこと、実際に適用されたことを示す証拠がないこと、条文によってカバーされていない分野が多いことなどにもよる。 ここでは〈法典〉というよりも、いわば最高裁判官としての王の〈判例〉を集めた一種の〈便覧〉とみるクラウスの考え方に従っておきたい。⇒楔形文字法 中田 一郎 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. |
B 日本大百科全書「ハムラビ Hammurabi」 生没年不詳。 西セム系アムル人(アモリ人)のバビロン第1王朝第6代の王(在位前1792〜前1750または前1728〜前1686)。 法典の制定者として知られる。 慣用でハムラビとよばれるが、より正確にはハンムラビまたはハンムラピー。 北のアッシリア、南のラルサに挟まれた中部バビロニアの小国バビロンの王として出発、当初はアッシリアのシャムシ・アダド1世に従属したが、ラルサのリーム・スィーン1世の打倒(治世31年)を皮切りに、アッシリア、マリ(ユーフラテス川中流域)など周辺諸国を次々に征服して、約250年ぶりにメソポタミア全土の統一に成功した。 とくに南部の広大で豊かな農業地帯に王領を拡大し、その水利権を掌握しつつ、さまざまな職業に従事する人々に土地を分与、その代償に夫役、軍役、納税を要求するイルク制度を整えて、王国の経済的、軍事的基盤を確立した。 王の政治理念は法典の序文や結びで明らかなように、神々、とりわけ太陽と正義の神シャマシュ、あるいは国家の守護神マルドゥクの召命によって、国を「再建」し、「豊かさを施与」し、「水を豊かに」供給しては「活力を与え」つつ、社会的弱者を保護して「正義を実行」することにあった。 事実、行政記録、書簡あるいは法典などによれば、内政に対する王の配慮はきめ細かく、王領地を中心に灌漑(かんがい)網の維持や拡大に努めて農業生産力、輸送力の上昇を図り、手工業と遠隔地貿易を育成、高利貸に対してはある程度の規制を加えつつ、各種の手厚い保護を通じて賦役負担能力の維持を図った。 また官吏には厳しい統制を加えてその職責遂行をチェックしつつ、王の意志の正確な実現に努めた。 282条からなる法典の発布はその集大成である。 しかし、彼のこの意図は十分結実しないままに終わった。 彼の死後王国内にしだいに社会的矛盾が蓄積され、王国は衰退に向かっていく。 [五味 亨] cShogakukan Inc. |
C 日本大百科全書「ハムラビ法典 」 紀元前18世紀中ごろにハムラビ王が制定した、楔形(くさびがた)文字法典。 「目には目を、歯には歯を」の同態復讐(ふくしゅう)法で名高い。 1901〜02年に西イランのスーサで発見された石碑(ルーブル美術館蔵)には、神(おそらく太陽と正義の神シャマシュ)から権力の印を受ける王の浮彫りと、楔形文字による法典とが刻まれている。 序文、本文、結びの三部からなる法典の構成は、ウルナンム法典など古い時代の伝統を継承している。 神々を敬う心に篤(あつ)い王の人格を強調する序文に続く本文は、「人々に正義を与えるために」編まれた282条の法律を含み、この法律を遵守するよう子孫に諭すのが結びである。 楔形文字法典中もっとも整った内容をもつこの法典は、まず最初に裁判の公正を期す基本線を定め、不正を働く裁判官を厳しく否定したあと、神殿や王宮の所有物に対する窃盗を取り上げる。 ついで条文は、出征中あるいは捕囚の身の兵士の土地の耕作権、小作、借金と債務奴隷制度、婚姻と家族、各種労働者や労働用具の雇用などのテーマに関し、具体例を想定しつつ、判定の基準を示していく。 選ばれたテーマそのものが、土地所有と農業に立脚する当時の社会を反映するが、とりわけ土地を支給されるかわりに賦役義務を負う直接生産者の生活基盤の、したがって彼らに依存する王権の存立基盤の維持・強化こそ制定者の意図と読み取ることができる。 いわゆる同態復讐法もこの法典に特徴的であるが、同一犯罪に対する処罰は被害者の社会的身分(自由人、ムシュケーヌムとよばれる人々、奴隷)により異なり、しかも現実に同態復讐が実行された確証はなく、通常は示談に付されたらしい。 制定時期は王の晩年であるが、判決記録などに照らすと、法典の法律は実地に適用されたものではなく、むしろ慣習法を基に「犯罪」を裁く理念をまとめたものと考えられる。 [五味 亨] cShogakukan Inc. |
紀元前3500年頃、メソポタミア(現在のイラク)に、最古の文明が花開きました。 その担い手は、シュメール人といわれています。 彼らは、都市国家を作り、金属器を使い、世界最古の文字を発明しました。この文字は、粘土板にアシの茎を斜めに切ったもので刻まれ、その形状から楔形(くさびがた)文字と呼ばれています。 そして、前1800年頃、この文字を使って書かれた全237条の法典が登場します。これが、「ハンムラビ法典」です。ハンムラビとは、当時メソポタミアを支配していたバビロニア王国の国王の名です。 「目には目を」。あまりに強烈な印象を与えるこの言葉は、実は、ハンムラビ法典に由来しています。 ハンムラビ法典第196条には次のように書かれています。 「もしある市民が、他の市民の目をつぶすならば、彼の目をつぶさなければならない」 また、第200条には、こうあります。 「もしある市民が、彼に対等の市民の歯を打ち折るならば、彼の歯を打ち折らなければならない」 「目には目を、歯には歯を」なのです。この、「同害復讐」の原則こそ、人類が初めて制定した法なのです。 現在、西アジア一帯で広く使用されているイスラム法もまた、基本的にこうした、同刑罪の原則の上に成り立っています。もしかしたら、「目には目を、歯には歯を」の原則こそ、人間の本質にもっとも適した刑罰法なのかもしれません。この原則に従えば、人を殺した者は、当然、自分の死をもってその罪を償わなければならないことになります……。 もっとも、ハンムラビ法典は、カンペキな同害復讐法だったというわけではなく、身分によって刑罰が違っていたようです。たとえば、奴隷の目をつぶしても、自分の目をつぶされることはありません。傷つけた相手が奴隷だからです。その場合には、罰金だけで済みました。あくまでも、支配者階級の法律だったんですね。 また、ハンムラビ法典に基づく裁判は、かなりいいかげんな部分も多く、立証不可能な訴訟に関しては、容疑者を水に投げ込んでみるんだそうです。そして、おぼれて死んだら、彼は有罪、浮かんできた場合は無罪となり、逆に原告の方が虚偽の告発をしたかどで死刑となったのだとか。 そんなバカな! ですね。
一 概要 ハンムラビ法典は、完全な形で残る世界で2番目に古い法典である(現存する世界最古の法典はウル・ナンム法典)。 「前書き・本文・後書き」の3部構成となっている。本文は慣習法を成文化した282条からなり、13条及び66〜99条が失われている。前書きにはハンムラビの業績が述べられており、後書きにはハンムラビの願いが記されている。 これは後になって石柱に書き写され、バビロンのマルドゥク神殿に置かれた。以後の楔形文字の基本となった。 1901年、閃緑岩に刻まれたものがイランのスサで発見された。現在はパリのルーヴル美術館が所蔵し、レプリカを三鷹市の中近東文化センター[1]岡山市立オリエント美術館[2]でみることができる。 モーセの律法書の元になったとみなす学者もいるが、内容的に大きく異なる。 アッシリア学研究者ジャン・ボテロの見解では、ハンムラビ法典はバビロニア王ハンムラビの所信表明の意味合いが強いと主張している。根拠は、法典内容と、実際にバビロニアから発掘された粘土板による記録を精査すると、必ずしも法典内容と実際の判決が一致していないことによる。このことからハンムラビ法典の内容そのものは、ハンムラビ王が即位する前後に王としてどのような法改正を行うかを表明したもので、「実際の法改正・司法制度の制定、運用にあたっては法典内容よりも訂正が加えられた」とする意見もある。 二 「目には目を、歯には歯を(タリオの法)」 「目には目を、歯には歯を」との記述は、ハンムラビ法典196・197条にあるとされる(旧約聖書、新約聖書の各福音書にも同様の記述がある)。195条に子がその父を打ったときは、その手を切られる、205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られる といった条項もあり、「目には目を」が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけであった。 ハンムラビ法典の趣旨は犯罪に対して厳罰を加えることを主目的にしてはいない。古代バビロニアは多民族国家であり、当時の世界で最も進んだ文明国家だった。多様な人種が混在する社会を維持するにあたって司法制度は必要不可欠のものであり、基本的に、「何が犯罪行為であるかを明らかにして、その行為に対して刑罰を加える」のは現代の司法制度と同様で、刑罰の軽重を理由として一概に悪法と決めつけることはできない。ハンムラビ法典の内容を精査すると奴隷階級であっても一定の権利を認め、条件によっては奴隷解放を認める条文が存在し、女性の権利(女性の側から離婚する権利や夫と死別した寡婦を擁護する条文)が含まれている。後世のセム系民族の慣習では女性の権利はかなり制限されるのでかなり異例だが、これは「女性の地位が高かったシュメール文明の影響」との意見がある。 三 ハンムラビ法典と律法 ハンムラビ法典を揶揄する旧約聖書・新約聖書を奉じるヘブライ人は男尊女卑が基本で、レビラト婚などの結婚制度も存在する。「奴隷を行使する権利は神に選ばれた民族だけが有する」といった選民思想に基づいた主張する宗派も存在する。もちろんこれは古代イスラエルと原始ユダヤ教の教義なので、現代の常識で一概に断じることはできないが、ハンムラビ法典の指向と相反する部分が多々あるのは事実である。 ユダヤ人とキリスト教徒がハンムラビ法典と古代バビロニアを批判し続けたのは、宗教的教義に反する政治思想・司法制度が一因と言える。 四 現代における評価 現代では、「やられたらやりかえせ」の意味で使われたり、復讐を認める野蛮な規定の典型と解されることが一般的であるが、「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」すなわち予め犯罪に対応する刑罰の限界を定めること(罪刑法定主義=<ジャンプ可能>)がこの条文の本来の趣旨であり、刑法学においても近代刑法への歴史的に重要な規定とされている。 現代人の倫理観や常識をそのまま当てはめることはできないが、結果的にこれらの条文は男女平等や人権擁護と同類の指向を持つ条文である。また犯罪被害者や遺族に対して、加害者側に賠償を命じる条文も存在し、かつ被害の軽重に応じて賠償額(通貨の存在しない物々交換の時代なので、銀を何シェケルという単位だが)まで定めてある。賠償の内容を司法によって定めることの可否については一概に断じることはできないが、現代日本の刑事裁判制度において「犯罪被害者がないがしろにされている」という世論が昂まっている現状と比較しても、古代バビロニアの司法制度は現代人の目から見て見劣りするものではない。また「ハンムラビ法典は太陽神シャマシュからハンムラビ王に授けられた」という形で伝えられるが、特定の宗教的主観に偏った内容ではなく、むしろ宗教色は薄い。身分階級の違いによって刑罰に差がある点は公平と言えないが、当時の社会情勢を鑑みると奴隷制廃止は不可能であり、何らかの形で秩序を定める必要があったことから当然の帰結と言える。但し、身分差別を除いて、人種差別、宗教差別をした条文はみられない。この点に関しては中世ヨーロッパの宗教裁判に比して、遙かに公平と公正さにおいて優れており、先進的と言える。司法の歴史上非常に価値の高いものである。 五 カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 歴史上の法令 | 古代メソポタミア | 金石文
(出エジプト記21.24/レビ記24.20/申命記19.21) この律法のお手本になったハンムラビ法典第196条では、目を損なった被害者が貴族の場合は、加害者の目をもって償う、第198条では被害者が平民の場合は銀1マナを、第199条では被害者が奴隷の場合は半マナを支払えというものです。 聖書も似たような表記をしていますが、これはもともと賠償のためのゆるやかな規定で、「このように復讐しなさい」とは書いてありません。実際には正規の裁判手続きをとった上で、鞭打刑または罰金刑が、被害程度と故意/過失などの状況によって課せられていました。 「目をやられたら、目をつぶせ」という復讐の表現は見あたりませんが、「同態復讐法」という呼び方が誤解を招いているようです。 もっとも、欧米人も大抵が誤解しているので、日本のインテリが間違うのは当たり前かもしれませんね。 「ユダヤでは、目をやられたら、相手の目をつぶしたのだ。」・・・・テレビで偉そうに話しているのを聞くと、思わず笑ってしまいます。 (聖書時代の生活2 創元社刊 を参照しました。)
皆さんは、他人に悪口を言われた時、どのような反応をするでしょうか。相手にしなかったり、言い返したり、あるいは怒りで唇を震わせるなんてこともあるかもしれません。 これが、子供の場合となると、口よりも先に手が出てしまって、小競り合いから大競り合いまで、飽きずに繰り返しています。まあ、こんなことをやりながらお互いの力量を試している訳ですから、限度を越えない範囲でならある時期には必要なことなのでしょう。 しかし、これが相手に怪我を負わせてしまうとなると、俄かに話は違ってきます。こんな時に、頭に思い浮かぶのはハムラビ法典や旧約聖書にある「目には目を、歯には歯を」の言葉です。 これは、「やられたら、やりかえす」という意味ではありません。そうではなくて、やられた時に沸き起こる怒りやむかつく感情にまかせて何倍もの報復を行なうのではなく、それ相応の罰で相手を許しなさいということです。 仏教では、「怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みのやむことがない」とあります。「やられたら、やりかえす」ならば、今度は相手に怨みの感情が芽生え、いわゆる報復の環になることを戒めています。
対等に向かうこと。受けた害と同じような仕返しをすることの例えです。 これは、バビロニアのハンムラビ法典や旧約聖書にある言葉で、イエス・キリストが「山上の垂訓」で用いた言葉として有名です。 イエス・キリストは、旧約聖書のモーセの律法を、外側はそのままにして、内部を全面的に改装しました。 そして、「目には目を」を引き合いに出し、復讐の禁止を教えています。 有名な「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」という言葉はここから生まれたのです。 トルストイは、この「山上の垂訓」さえあれば、新約聖書のほかの部分は要らないくらいだと言ったそうです。 無抵抗主義の教え、この世の考えと正反対の理想主義の言葉に感銘したのでしょう。 ところが、ヨハネ福音書18章22、23節では、イエス・キリスト自身、大祭司の下役に平手で頬を叩かれた時、「何で殴るんだ」と言い返し、他の頬を向けてはいないのです。 聖書は、世界最大のベストセラーであると同時に、最大のミステリーであるという由縁がここにも垣間見られますね。 話は変わりますが、中国では、昔から、肝臓悪い時には牛や馬の肝臓を、腎臓の具合が良くない時には腎臓を、という具合に食べると良いとされています。 家畜の目を食べるという話は聞いたことはありませんが、魚の目には、実は大変有効な栄養素が含まれていることがわかっています。 DHAと呼ばれる栄養素なのですが、特にマグロやカツオの目玉には豊富に含まれているそうです。いざ食べるとなるとグロテスクですが、肝心の味は決して悪くはありません。 福岡で、「フグよりもおいしい」とされている「アラ」というハタ科の魚は、目と唇が最もおいしいといわれています。通の方には、ゼラチン質のフルフルした感触がたまらない、ということです。 私は魚釣りが趣味ですが、自分で釣った魚に限り(新鮮だから)目も食べるようにしています。 メバル、カサゴ、ソイなどの根魚は割といけます。焼くと白く濁って硬くなったり、破れてしまいますから、煮物にした方が味も良く染みておいしくいただけます。 歯は・・・・・固くてどうしようもないですよねぇ・・・・ (笑) |
10 22(月) 嘘は泥棒の始まり……政治家と嘘 |